「せいてせかん」という言葉が昔から船場では使われていました。

直訳すると「せく(急ぐ)ようでせかない」と言う意味で「この仕事、せいてせかんのやけど仕上げといてんか」と言う具合です。

言われたほうは「そんなに急ぐ仕事でもなさそうや」と後回しにしたりしているととたんに叱られます。

「せくようでせかない」というのは本当は「できるだけ早うしとくなはれ」というニュアンスが含まれているんです。

まえにお話した、断りの言葉の「考えときます」もそうですが商売人の使う言葉には相手にプレッシャーを感じさせるのを避けた婉曲的な言い方が多いようです。

こうした船場商人独特の言い回しは他にもいろいろありますが、いずれも長い間の商売の町が生んだ才覚の表現なんです。

そんな具合に他人の店の奉公人にすら厳しかったんですから、ましてや身内の奉公人に対するそれは厳格そのものでした。

親父も、全国の酒屋さんから預かった研修生に対して目上、お客様への言葉づかい、挨拶の際の頭の下げ方、目の角度、手の位置、表情歩き方、髪型や服装にいたるまでを仕事と平行して実戦のなかで教え込んでいきました。

音を上げて親元に帰りたいと言い出す子もいましたがそれをいつもなだめて優しく接していたのが母でした。

とはいえ、厳しいだけではついてきません。親父の厳しさの裏には「なんとかこの子らを一人前にして親の許に帰してやりたい」という気持ちが流れていました。

三年間の修業期間でしたがその間に本人名義で貯金と生命保険を積み立ててやり、年季明けには全部持たせて帰していました。

本人はもとより親御さんからも感謝の便りを貰ったのも数知れません。

そう、こんな事がありました。前にも申し上げましたが、私の代になってこの研修生制度が「みの源道場」と称されてテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられました。

テレビ局のスタッフの一人が研修生として道場に入門しその修業ぶりを追いかけるという趣向でしたが、ある日ディレクターが私に「彼が外回りから帰ってきたらなにかミスを見つけて思い切りびんたをくらわせてやってくれませんか」というんです。

「あほな、なんにもしてないのにびんたなんかくらわせられますかいな」

「いえ、みの源道場はこれほど厳しい修業をさせているんだというところを紹介したいんです」

むかっときました。

「それは厳しいのとちがいますやろ。よくいわれる「やらせ」と違いますのか。悪いけどこの番組、お断りさせとくなはれ。なんぞ勘違いしてはらしまへんか?うちはしごき教室でも暴力道場でもおませんのや。よっぽどの手におえん子ならともかく、そんなとこだけが強調されるような紹介のされかたは困りますよって」

ディレクターも分かってくれたようですが、優しさに裏打ちされた厳しさがどうやら誤解されていたようです。

焼け跡にバラック建ての店を構え酒屋を再開した親父を助けて母も必死で働きました。

終戦直後は品物さえあれば何でも売れる時代で、ときには闇の品を売ったりして警察に連行された親父を母が涙ながらに懇願して貰い下げにいったこともありました。

戦争とそのあとのシベリア抑留のブランクを取り戻すかのように親父は生まれ落ちたときから受け継いだ船場商人の商魂とそのなかで培われた才覚でどんどん商売を軌道に乗せていったようです。

親父が常にこころがけ私にも教え込んできた「商人の心得」がいくつかあります。

まず「血の通った商いをせよ」

商売は物や金のやりとりだけやない、人と人との心の通い合いがあって成り立つものやということです。

「夜店の商いをするな」

前にもお話しましたように、その場限りの商売をするなということです。

「言葉盗人をするな」

これは、他人の言葉にきちんと耳を傾けろ。どんな人からでも自分にかけられた言葉は聞き流さずに応答せよということ。

「頭が回らなければ尻尾も回らん」

人の上に立つものは自分が率先して動かんことには誰もついてこない。

「山を登るのに、道は一本だけやない」

商売にはいろんなやり方がある、一度や二度頭をしぼっただけで「万策つきました」なんてことをいうな。万策とは文字通り万の策ではないか。これは今の私にとっては耳の痛いおやじの教えやと痛感しています。

そのほか、「吐いた言葉に責任をもて」といった、どこかの政治家さんに聞かせたやりたい教えや「金はただただ貯めるためだけに貯めるな、肝心のときに使うために貯めろ。汗をかいていない金を使うな」など私が成人してみの源を継ぐまでの二十年あまりのあいだに教えられた「誰もが分かっていながら実行することの難しい商人の心得」は数え切れません。

自分ではそれらを守り実践してきたつもりなんですが、結局はこんな形で船場商人に終止符を打ってしまったんですからまさに私は「不肖の子」です。

親父だけやありません、かっての船場と言う町にはいたるところに商売のありかたやコツを教えてくれる教材が転がっていたものです。

たとえば、若いものが何も知らずに午前中に集金に行ったとします。

「あんさん何考えて朝っぱらから金とりにきなはったんや。商売人は朝から金の出ることを忌み嫌うことを教えてもろてへんのかいな」と怒鳴りつけられます。

挨拶ひとつにしても「他所の店へ来たときはもっと大きな声で元気よう挨拶しなはれ、姿勢ももっと胸を張って。あんさんは「みの源」の看板背中にしてうちへ来なさったんやろ、あんたがそんな元気の無さではみの源さんが元気がないと思われますやないか」

他所の店の者であっても遠慮なく叱り飛ばすんです。いうならば町ぐるみでよい商人を育てようという気風があふれていたんです。

船場に限らず昔はどこの町にも本気で他人の子供を叱り飛ばしてくれる大人がいたもんですが。

今は目にあまる子供たちをみても眉をひそめるだけで通り過ぎてしまうばかりで教師になる大人が居なくなった、これが子供達を不幸にしていると思えてなりません.


その祖母の喪も明けないうちに親父の姉がやってきて「相続の品、貰うていくから」といって祖母の着物や装飾品、寝具まで持ち去ってしまいました。

母は「旦那さんもいつ帰って来はるか分からんし、それまでは売り食いでもして子供らを育てんとあきませんよって」と懇願したそうですが「なに言うてなはんのや、母の財産は娘の私が相続するのが当然やおませんか。弟は生きてるか死んでるかも分からんのやからとりあえず私が全部預かっていきます。あんたにはなんの権利もおませんのやで。新しい憲法の勉強しなはれ」

と一蹴されたそうです。

「みの源」の家へ嫁いできてあれほどまでに姑に仕えてきた揚句の仕打ちに「あの時だけは、なんでこんな目にあわんといかんのかと涙の枯れるほど泣いたわ」と、のちに私に何度も語っては涙ぐんでいたものです。

船場にもどるメドもなく、親父の生死もわからない状態で母は途方にくれました。

姉、私、親父の出征の後すぐに生まれた弟の三人の子供をかかえて死のうと思ったことも何度かあったそうです。

「お父さんがシベリアから帰って来はったときはどんなにうれしかったことか。これでみの源の店が再興してもらえる、あんたにも五代目が継いでもらえる、死んだお母さんもよろこんではるやろと思いました」

「僕が五代目ってもう決めてたんかいな」

「当たり前やないか、跡取はあんたしかおらへんのやから。あんたもそのこといつでも自分に言い聞かせてんとあかんよ.。いうてみなはれ、僕はみの源の跡取やて」

「うん、僕はみの源の跡取や」

「それでよろしい」

船場へ戻って親父が再び酒屋を開きはじめた、私が小学生の頃の母との会話です。

ことあるごとに母の言う「あんたはみの源の跡取」は完全に私の頭にインプットされました。

学校での作文に「ぼくはみの源のあととりです」と書いたのが発表されてからは「跡取はん」というあだ名までつけられたほどです。

近所のおとなたちまでが私の姿を見ると「みの源さんの跡取さんか、がんばりや」と声をかけてくれたりしたものです。


優しい、私にとっては最高の母でした。

同じ船場の商家の一人娘で育った母は親父のもとへ、いえ「みの源」へ嫁いでからの生涯は苦労の連続やったそうです。

親父は早くに父(私の祖父)を亡くし、若いときから家業を継いでいましたが、家の切り盛りは祖母が実権を握っていました。船場の言葉でいうと「御寮んさん」です。母にいわせると、厳しさと気丈さを絵に描いたような姑やったそうです。

私にとっても幼い日の祖母の想い出はただひたすら怖いよく叱るおばあちゃんのイメージしか残っていません。

長男である私を生んだときも母は「おめでとうさん」の前に祖母にいわれたそうです。「あんさん、みの源の跡取り生んだからいうて大きな顔したらあきまへんで」

母は心の中で呟いたそうです「お母さんが居てはるかぎり大きな顔なんかできるわけおませんがな」

風呂に五分以上入っていようものなら「いつまではいってなはるんや!」、食事の支度が少しでも遅れようものなら、「なにしてなはんのや、ほんまにグズやであんさんは、娘時代になんにも教えられへなんだんかいな」と姑の声が飛んできます。

他人にも「ほんまにこのお方は何にもできん嫁ですねん」と平気で母の前でこぼしていたそうです。

店の仕事、姑、親父、子供の世話は勿論、奉公人たちの面倒まですべてが母に押し付けられていたそうで、多分いまどきの娘さんなら三日で家へ帰ってしまうような生活だったようです。

「たったひとつの泣き場所がご不浄(トイレのこと)の中でしたなあ」と私に語ってくれたことがあります。

戦争がはじまって親父が戦地にとられ奉公人たちも応召でいなくなり、やがて大阪も空襲に見舞われはじめましたが祖母は頑として店を閉じようとはしませんでした。

家族や商品、家財道具をどこかへ疎開させたほうがという母の意見にも「何いうてなはんのや、船場が焼けるはずおません。船場は大阪の商人の誇りの町でっせ。そこに百年から商売させてもろてるこの店捨てて逃げ出すくらいなら死んだ方がましや」と耳をかそうともしませんでした。祖母だけやなく当時の船場にはそんな誇りと意地をもった商人さんがいっぱい居たようです。

けど結局はあの大空襲で大阪の町は灰になってしまいました。船場も例外ではなかったんです。

焼け落ちた店の前でメソメソと泣いていた私がまだ三っのときでした。

「ほんまにもうこの子は、名前のとおりウジウジとよう泣く子やな!」と吐き捨てるように祖母が叱ったのを憶えています。

ひとまず母の実家の世話で京都へ疎開をしました。家計のほうは母が働きに出てなんとかささえてくれました。そして終戦。

家を焼かれ船場を捨てざるを得なくなったショックからか祖母は息子の帰還をみることなく亡くなりました。


第八章 「船場に生まれて、生かされて」

かつての八月といいますとビルの五階で開いていた立ち飲みどころでの仕事帰りのサラリーマンの人たちが飲むビールの量もぐんと増える季節です。

お得意さんからのお中元の贈答注文も増えて大忙しの時期なんですが、今はそんなせわしさが懐かしく思い出されます。              

店を捨ててからもう数年が過ぎました。

なんにもすることがないというのは気楽さよりもしんどいことやというのが最初の一年で分かりました。

たしかに肩の荷はおりました。悲しみや、口惜しさ、後悔も少しずつですが年月とともにうすれていきそうです。

有難いことに破産した者にでも年金はちゃんと頂けるんですな。夫婦二人で食べるぐらいはできそうです。

住むところも最初のうちは娘夫婦の好意で一間をもらって同居していました。

ところがなんとなく落ち着かんのです。

何もすることがないのに「何かし忘れてるのとちがうやろか」と思ってしまうのです。

三〇年以上のあいだ「立ち止まるときは死ぬときや」みたいな感じで働き通してきたその習性なんでしょうな。

友人の力を借りて仕事らしいことも始めましたがバブル崩壊以降の厳しい情勢では六十歳を迎えた男にはなかなか適した仕事もありません。

定年退職したサラリーマンとおなじ心境なんでしょうか。

いやサラリーマンの人達ははその時期が近づくにしたがってある程度の身の回りや心の準備が出来ますが、私の場合は「意に反してのいきなり退職、いえ失職」ですからその「落ち着かなさ」はかなり違うと思います。

そんなある夏の日、読むともなしに新聞を広げていると窓の外から蝉の声が聞こえてきました。

「そうや、明日からお盆やがな。仏壇の掃除せんとあかんのとちがうか、百々代がおそろしい思いして運んできた仏壇にお供えの用意もせないかんし、墓参りはいつにしようか。今年も行くのがつらいなあ、墓の前で土下座したぐらいでは親父もおふくろもこの不始末は許してくれへんやろなあ、こんな息子に、こんな商売人に育てた覚えはないいうて手を取り合って嘆いてるんやろなあ」。

なんて考えていると蝉にまじってどこからか母の声が聞こえてきました。

「氏ちゃん、あの眼鏡大事に使うてくれてるか?」

「使うてるがな、ほれ、いままでこれかけて新聞読んでたんや」

母の形見ともいえる眼鏡です。

親父が亡くなったとき、大事にしていた眼鏡を「これがなかったらあの世で新聞読むのにも不便ですやろ」と棺の中へ母がいれたあとで私が「ほんまは私が欲しかったんや」と言うたんです。

そのことをずっと憶えていた母が七年もたったある日いきなり私を眼鏡屋へ呼び出して「氏ちゃん、この眼鏡お父さんのと同じやろ。やっと見つけたんや。私からの形見やと思って大事に使うてや」というんです。

私も忘れていたのに七年間もずっと探しつづけていてくれた眼鏡、それを見つけて慌てて「氏重に買うてやらんといかん」と思ったのが虫の知らせというんでしょうか、その一月あとに母は病に倒れました。

免責の決定が出るまで二年足らずかかりましたが、その間はいうなれば「判決を待つ被告」の心境でした。

何度か管財人に呼び出されて尋審をうけたこともありましたがそのときにもその時点でどれくらいの金が回収されそれがどんな割合で債権者に分配されようとしているのか、という説明は一切聞かされません。

私としては銀行への返済よりも私への友誼や今までの商いでの付き合いで苦しい中から用立ててくれたり支払いを延ばしてくれた、そんな人たちにまずいくらかでもお返ししたかったんです。銀行の何億よりその人たちの何十万のほうがほんとうに「身銭を切っていただいた」と思えたからです。

けどそれは私の勝手な思いで、そんな情の入る余地は無く配当は債権の額に応じて割り振られてきめられた順番に払われるんやそうです。

それでもずいぶん後にやはり気になって分配先やその金額などを聞きにいったことがあります。

「え?そんなの聞きに来たのは貴方がはじめてですな」ということでした。

管財人に言わせると、破産のあとにそんな心配などする人はほとんどないそうです。

自分の肩の荷がおりたことで「あとは野となれ山となれ」なんでしょうか。

「そんな心配はせんでもよろしい。むしろそんな心配を一切しなくて済むという情況.を有難く思いなさい」という感じです。

後に「みの源ビル」の売却も出来たそうですが、幾らでどんなところが買うてくれたのか詳しい報告もありませんでした。

これもあとで知ったんですが、ビルに関しては銀行に担保として差し出していましたから全額銀行の回収金になったそうです。

少しでも他の債権者の方々に割り振ってもらってもいいのではないかと思うのですが何故全額銀行のものになるのか、不公平なような気がしないでもありません。

「回収金の割には税金の滞納分やビルの維持費などの支払いが多かったもんですから、債権者への分配というところまではなかなかいきませんでしてねえ。難儀なことでしたわ」

「従業員の未払いの給料なんかは・・・」

「とてもそこまではねえ」というのがはるか後での説明でしたが、私の乏しいながらの知識でも社員の給料などは労働債権としてかなり優先的に支払われるはずなんですが。

それもわずか半月分くらいの額です。

「給料は優先的に払ってもらえるはずです」などと言った手前従業員たちには今も合わす顔がありません。

それでいて管財人の報酬はそれ以前にちゃんととられているんです。

私のほうが「難儀なことや」といいたいくらいです。

ともあれ、殆ど私が関知も出来ないままに破産の処理は粛々と進められていったわけです。

けど「こんなに他人任せで片が付くのならしんどい思いして水辺でばたばたもがいてるより飛んでしまったほうが楽やな」とは思えませんでした。

飛んだあとにかかる心の重みは並みのものやないんですから。

口の悪い友人が言いました。

「誰かが破産していちばん得するのが弁護士と管財人やがな」。

「難儀なことですな」これが管財人S氏の口癖なんですが、「ビルの家賃もまともに払ってくれるところも少ないし、水道、光熱費も馬鹿になりませんしね、この時期ですからなかなかビルの買い手もつきませんわな。難儀なことですわ」と嘆いています。

「ま、売掛金はできるだけ回収に努めていただくとして、。あ、そうそうこのゴルフの会員権証書ですが、この預託金の返還とか市場で売るとかはできないんですか?」

みると十年ほど前に買ったオーストラリアのゴルフ場の会員権証書です。

もともと日本の業者が開発し、日本人の会員を集めたものなんですが今はその本体の企業が消えてしまい、ゴルフ場だけがオーストラリア人の手で経営されているそうなんです。

「それ、先生のほうで調べてもらえませんか、どこへ返還の要求したらええのか、あるいはまだ会員の資格があるのか」と逆にきいてみました。そういったことは弁護士の仕事の範疇ではないかと思ったからです。

「うーん、相手がオーストラリアではねえ、難儀なことですなあ」と腕を組みます。

弁護士が難儀なことなら初体験の我々にとってはもっと難儀なはずなんですがどう考えても本気で債権の回収に力をいれてくれているとは思えません。

管財人にとっては一番難儀でないのが私の財産を出来るだけ差し出させることです。

「ほかにはもうありませんか?宝石、貴金属、骨董品とか金目の物は」

箱根の山中で山賊に身ぐるみはぎとられるみたいやなと、思わずこみあげそうになる苦笑いを押し殺しました。

「洗いざらいお出ししたつもりですが。一円でも多く皆さんにお返ししないと、思いましたんで」

「そうですか。ま、その辺の事情は債権者会議で説明させてもらいましょう。何にしろ難儀なことですわ」。

債権者会議に関しては、あんな簡単なものやとは思っていませんでした。何十人もの債権者が一堂に集まりそこで破産の情況や負債額などが管財人から説明されるんですが、その冒頭に私がまずお詫びの挨拶をせんといけないんです。そこでは私に対する非難や怒りの罵声が飛び交うことは覚悟していました。

家を出るときに冗談まじりで妻に「帰ってきたときのわしの顔みてびっくりしたらあかんで」といいました。

「すっきりした顔でかえってきはるんですか」。

「その反対や、債権者のみんなからボカボカに袋たたきにされて、腫れあがった顔で帰ってくるさかいに覚悟しときや」

「そんな・・・」と妻は本気にうけたらしいので「冗談や、そこまではされへんやろ」と笑って出かけたんですが私が帰るまで居てもたっても居られなかったそうです。

ところが覚悟していたような雰囲気では全くありませんでした。

身も縮まる思いでお詫びを述べた後は淡々とした管財人の説明で終始しました。

私自身が受け答えする必要はまったくなく、債権者からの質問に関してはあとで個々に管財人を通して説明を受けることになっているんやそうです。

わずか三十分たらずで終わった債権者会議になんだか拍子抜けしたような感じでした。

そのあと、「今日からは債権者への対応は全部管財人である私がおこないます。後は免責の決定まで待ってください。その間、住所変更など貴方自身の動きは逐一報告してもらいます。郵便物はすべて私のもとを通して届けられます。これは内容チェックのため開封させてもらいます」という説明でしたが、この郵便物の件は少しばかり不便でした。

見られて困るような手紙なんかはありませんが、いちいち管財人の事務所まで何日かに一度貰いにいかんといけないんです。


管財人からは「未収金の回収は貴方のほうで出来るだけ多く、出来るだけ早く行ってください。裁判所の方から支払いの督促状は出していますが、こういうのはじかに貰いに行かないとなかなか払ってくれませんからね。貴方が行きにくかったら息子さんとか身近な方に頼んでみてください。回収に応じて報酬も多少お払いしますから」とも言われました。

「集金は夜の商売の店がほとんどですからね、一番連絡もとりにくく払いも悪いんですわ。難儀なことですわ」

たしかにそのとおり、何軒か集金に行った先でも全員が口を揃えて「大変でしたねえ、そら、みの源さんにはいつも飲み代の勘定のほうはきちんとしてもろうてたんやから。近いうちにお払いさせてもらいます」とは言うてくれるんですが、これが管財人の報告によると一向に支払いがないそうです。

考えてみたら、つぶれた店へ律儀に払ってやろうという気にはならないのが人情というもんです。

「シメタ、これで払わんでも済むわ」と思った人もいたでしょう。

けど、なかには、集金を依頼した私の友人に、本気で心配して返事してくれた人もあります。

「済みませんでしたな。みの源さんにはええお付き合いさせてもろてたんです。すぐに振り込ませてもらいます。今までのみの源さんの口座でよろしいのか?」

ところが友人の「いえ、払っていただいたお金は管財人が預かり、それを債権者への分配に当てられるんです」という説明を聞くと「え?お金はみの源さんのものになりまへんのか、それではお払いしてもみの源さんの助けにはならんのですね」とおっしゃるそうです。  

「けど結果的にはみの源さんの負債が減るわけですから」といっても「負債が減ろうが増えようがご自身は破産してしもたら一緒ですやろ。どこのだれか分からん債権者に渡る金なら払う気にならしませんなあ、じかにみの源さんに渡してあげたいわ。あ、そうや、お宅預かって渡してくれはりますか?」と現金を出そうとされたそうです。

「もちろんそれは違反になるからと、預かっては来ませんでしたが、そうおっしゃるのもわからんでもないですな」

友人も集金のむつかしさを報告してくれました。


破産宣告が出されるとすぐに管財人が選任されて、あとはすべてが管財人任せになります。

管財人は各債権者にその旨を通知、債権者会議を開く段取りにかかります。

この時点ですべての債権請求は管財人のみが受理することになり、債権者が直接私個人や会社へ取り立てに来るということが出来なくなるわけです。

同時に会社の持つ債権、例えば未回収の売掛金や、資産(土地、社屋などですがこれらはすべて銀行に担保として差し出しています)さらには私や妻の個人財産、(株券などの有価証券、保険の積立金、ゴルフ場の会員権、宝石、高価な家具類など)をすべて債権者への分配に当てるために差し出さないといけません。

それまでに金目のものはかなり売り尽くしていましたからそんなにたいした金額にはならなかったでしょうが、私としては少しでも債権者の方々へ返せたらという気持ちでしたからそのことについてはむしろ当然だろうという思いでした。

自分の物として残るのは、生活必需品だけです。

テレビなんかも一台だけ、置物や骨董品なんかも少しでも高価な物は持ち出せません。

とはいうものの、しばらくたってからもう少しは身の回りの物をと思って二階の連中にみつからないように管財人と一緒に部屋を訪れたときに、あまりにもいろんなものにべたべたと差し押さえの紙が貼られているのを見たときは、流石に言い知れない寂しさにおそわれました。                                                    

あとで知り合いの人から言われたことがあります。

「滝内さん、あんたなんでもかんでも正直に出しすぎたんと違うか?ちょっとぐらい金目の物持ち出しといても分からへんのに。現金なんかでも早めに娘さんの預金とかにしてしまうとか。世間の倒産した企業の社長なんかその辺のことうまいことしてはるみたいでっせ」

たしかにそのとおりかも知れません。最近でもさる大手の会社の社長で、倒産の際にそんな細工をしたとかで捜査を受けたという事件がありましたが、私にはあの死ぬ思いのなかでそんなことを考える余裕はありませんでした。

「正直者が馬鹿を見るちゅうのは滝内さんみたいな人のことと違いますか?」

「そうですな、正直かどうかはともかく馬鹿であることは間違いおませんな」

と笑って答えるだけでした。

部屋からの帰りに、ついでに商品の在庫数を調べようということで倉庫まで足を運びました。するとそこにも何人かの男が待ち受けているのに出くわしました。

とっさにS氏が私を遠ざけその連中と対応してくれて事なきを得た、そんなこともありました。

ビルの部屋を占拠した連中が無断で店の酒類をのんでいたように、倉庫の商品もそんな債権者の連中がカタのつもりで運び出していることも考えられます。倉庫はほとんど管理されていない情況でしたから。

翌日から破産の手続きがどんどんすすめられ、数日後には裁判所から破産宣告が出されました。

実は破産の申告からこの破産宣告の出るまでのあいだがもっとも危険期間なんやそうです。

債権者の取り立て、脅し、いやがらせなどがすべて破産者当人にふりかかってくるからです。

銀行マンの言っていたのもこのことやったんでしょうし、K氏が心配して住まいを手配してくれたのもこの間の私の身を案じてのことやったんです。そのことに気付いた出来事がありました。

家をはなれて数日後、妻が「残してきた仏壇をとりにいってきます」と言って出かけましたが夕方に帰ってきたその顔が真っ青なんです。

「なんぞあったんか」と聞くと「えらい怖い目にあいました」と、その声もふるえています。

妻が手伝いの者と八階の居間から仏壇を運び出し、エレーベーターで一階を出た所へいきなり屈強の男が数人、ばらばらと取り巻き「あんた誰や、瀧内の奥さんか。瀧内はどこに居るねん」と叫びかかってきたんやそうです。

妻はとっさに「いえ、私は瀧内さんの遠縁の者で、滝内さんから仏壇だけ預かっといてくれと頼まれたんです。それも電話でしたんで居所も教えてもらえませんでした」と機転をはたらかせたそうです。

「お前にしてはうまいこといい逃れたもんやな。それだけで済んだのかいな」

「瀧内から連絡あったらいうといてんか。どこへ隠れてもこっちは貰うものだけはきっちり貰うさかいな、と捨て台詞残して部屋へ戻りましたけど。あの連中、ずっとあそこに張り込んでたんですやろか、もう二度とあんな怖いとこへはよういきません」と胸の動悸をおさえています。

あとで知ったんですがその連中はさる金融業の社員で、私が家を離れたのと入れ違いにやってきて無断で五階のカラオケルームを占拠して私の現れるのを待っていたそうです。

七階、八階は私たちの住居部分でしたから、鍵がないと上がれないんです。やむなく五階にたてこもって八階に人がくるのを待ち構えていたわけです。

「瀧内の部屋へ入ったんやったら鍵持ってるやろとは言われなかったんか」

「ほんまですな、あの連中もなんでそこに気がつかなかったんですやろ」

「そうなると家宅侵入罪になるのを知ってたのか、それともうちの部屋まで上がっても取るものはなんにもないと知ってたんかもしれんな」

二階の店舗に置いてあった酒など飲み放題に飲んでカラオケ歌って過ごしていたようですがこれも不法侵入罪や無銭飲食になるのと違いますやろか。

彼等にしてみればせめてそれで少しでも元をとってやれということでしょうか。

あとで管財人であるS氏の話によると彼等ははるか後にビルが処分されるまで居座っていたそうで、おまけに立退き料も請求されたそうです。

「立ち退き料?賃貸契約結んで入ったのと違いまっせ。それは不法侵入になるのと違いますか?勝手に部屋に入り込んで店の酒まで飲んで。そんなのに立ち退き料まで払わはったんですか?」「ああいった連中とは出来るだけ揉め事をおこさないのが得策ですからね」

「それはおかしいのと違いますか、そういう揉め事を防いでくれはるのが管財人ですやろ。それならせめて彼らの飲んだ酒代は借金から差し引いてほしいですな」

「そんなこと言い出したら揉め事を増やすだけですよ。少しばかりの立ち退き料で手を引いてもらうのが一番都合がいいんです」と私の怒りにはまったくとりあってもくれません。

いずれにしろK氏のいうとおり当座身を隠したのは正解やったようです。