「体育の日の意味」


今日10月の第2月曜日は体育の日。もともとは昭和39年に東京オリンピックが開幕した10月10日を記念して「体育の日」と定めたものでしたが10年ほど前にはじまった「ハッピーマンデー制度」とかで10月の第2月曜となってしまったわけです。

私にはどうもこの「ハッピーマンデー」というのが理解しがたいのであります。

そもそも国民の祝日というのは定められたその日に特別な「その日でなければならない」理由があるのです。

[体育の日」しかり、「成人の日」にしたって1月15日というのは小正月でその日は子供から大人へ変わるための元服の儀式が行われていたのです。それが1月の第2月曜になってしまった。

7月20日だった「海の日」、9月15日だった「敬老の日」(老人の日と呼んでいた時もありますが)、いずれもその日に決められた意味があったのです。

それを近くの日曜日と並べたほうが国民はよろこぶだろうという単純な発想で変えてしまった。

それならいっそのこと一年に15日もある国民の祝日を全部近くの月曜日にしてしまったらどうか。

どうして今挙げた4日だけをハッピーマンデーにしたのかもわからない。

本来その日で無ければならない記念すべき日を「休みをつなげたり増やしたりすればハッピー」という発想で変えてしまうというのは日本の歴史に基づいた文化を否定する行為とちがいますか。


東京オリンピックの開幕日を10月10日にしたのはこの日が晴れの特異日だということだったそうですが、実際に昭和39年も快晴、この日が[体育の日」と定められてから34年間で東京に1ミリ以上の雨が降ったのは5日だけだったそうで、それが10月の第2月曜になってからは8年間のうち6日が雨に祟られているのです。それみたことか何がハッピーマンデーだといいたいです。

幸い今年は全国的に晴天に恵まれたようですが。


いつの頃からか日本人は高度経済成長のなかで働き蜂だのといわれて働きすぎを反省しはじめて「ゆとり」なるものを求める風潮が生まれてきました。その「ゆとり」を「休むこと」で得られると錯覚したのが間違いの始まりであります。

大失敗のひとつが「ゆとり教育」。学校の休みを減らした揚句が学力低下を招いて今更に大慌てしている現状です。

物理的に休みの日を増やせば生活にゆとりが生まれると考えるのは短絡的でそれこそ思考にゆとりがないんじゃないですかね。

ゆとりというのは心の問題であって、休む暇も無く一生懸命働いている人が自分の仕事に誇りと喜びを感じ、一つの仕事をし終えた時にやっと手にした休みの時間に充足感を感じる、それがゆとりにつながるのです。

「小人閑居をして不善を為す」我々小人は休んでばかりしているとろくなことをしません。


世の中には休みがあっても休めないひとが山ほどいます。

きっちり国の決めた休日に休みが取れるのは公務員ぐらいなもんじゃないですか。その代表が国会議員です。彼らこそ高額の歳費を貰ってるんだから休日返上して働いてほしいもんです。

「国会開催の時だけ働いているのではない。毎日が政治活動だ」とおっしゃいますが、国会にも顔を出さず地元や支援者まわりは政治活動というよりは選挙活動といったほうがあたっているんじゃないでしょうか。


上海万博


上海万博なるものをのぞいてきました。正に「のぞいた」だけでした。

九月上旬の上海はまだ猛暑の最中。昼過ぎに会場に入ってガイドの案内でまずは中国館へ。

これが会場のゲートで入場券を手に入れるまで待たされ、入場してから中国館のパビリオンまで炎天の中を歩かされること小1時間。案内図をみると中国館に一番近いゲートから入れば目の前だったのに、ガイドの手際のわるさは頭にきました。

中国の威信を誇示するかのごときパビリオンの前は長蛇の列です。頭上からはカンカン照りの直射日光足元からはその照り返しの中で並ぶこと30分。熱中症寸前の疲れとそれまでに費やした時間の無駄にたいする怒りは限界に近づいていました。

「今日などは入場者は少ないほうですよ。20万人ぐらいですから」とガイドが言う。

「7・8月の夏休みの間は連日40万人を超しましたからね。この調子だと大阪万博の記録を抜いて7千万の入場数は間違いないでしょう」と誇らしげにいうので「そらそうでしょう。考えてみなさい、中国の人口は日本の10倍ですからね。大阪万博で6千6百万なら中国では7億人集めないと威張るわけにはいかないね」と言い返してやりました。

とにかくやっと入り口までたどり着いて「これでパビリオンに入れるんだと思ったらおっとどっこい「ここからは人数を決めてその数から順次入っていただきます」という。

人の数から判断するにまず30分以上は待たされると判断できました。同行の妻は口を利くのもつらいほど疲れ切っている様子です。

「悪いがこのまま並んでいたら死ぬかもしれないのでホテルへ帰りますわ」と申し出てパビリオンをあとにして退散いたしました。

「残念ですね。では夜の9時半から日本産業館がこれは並ばずに済む予約がとれてますからそれまでごゆっくりなさってください」というガイドの声をあとに会場を出てホテルに戻りました。

ゆっくりシャワーを浴びて一寸落ち着いて同じツアーの仲間の方に電話を入れて聞いてみました。

「中国館はどうでしたか。他にどこのパビリオンに行きましたか」

「どうもこうもありますかいな。まだ入れずに並んでますねん」

私が中国館をあとにしてからすでに一時間以上は過ぎてます。万博会場のゲートをくぐってからだと三時間以上です。それでまだ一つのパビリオンにも入れないのであります。

確か大阪万博の時も月の石を見るために人々が何時間も並んだ記憶があります。

「たかが石ころひとつ見るのになんでそんなしんどい思いするんだ」とも思いましたがあの石ころはただの石ころではありませんでした。あの万博のテーマだった人類の進歩を象徴する宇宙ロケットに乗った人間が自らの手で月面から持って帰った石だから見る人の感動を呼んだのです。

ツアー仲間の何人かの人に聞きました。「素晴らしかったパビリオンはありましたか?」

多い人で4箇所が精一杯だったそうですが大抵の人の答えは「池田さん、正解でしたな。ホテルに帰ってゆっくりしはったんでしょう」「そうですねシャワーを浴びて落ち着いてからバンド(外灘)の辺りまでいって買い物や食事などして過ごしました」「それ大正解でしたわ」

「一箇所だけガラガラのパビリオンがありましたんでそこで涼んでました。北朝鮮館ですわ」

先端技術の粋を競っての各国パビリオンの展示は見世物としては面白いものもあるでしょうが観る人達にどれほどの感動を与えているか情報過多の昨今での万国博の開催意義に疑問符をつけたい気がします。

今回の上海万博のテーマは「エコロジー、環境」だそうですがエコを唱えるなら黄浦江をはさんで広大な敷地に建設して数千万の人と車を集めるお祭りごとなどやらないのが一番環境破壊を防ぐことになるんじゃないかと思ったりもします。

9時半までに日本産業館へということなので9時少し過ぎて会場へ行くと、なんと入場は9時で終わりでいくら説明しても「ノー!ゲートクローズ」の一点張りで頑として入れてくれません。

第一、ゲート周辺のガードマンや案内ボランティアーの若者たちのすべてが日本語はおろか英語もほんの片言程度ですから私の身振り手振りの説明がどこまで通じたか。

会場内の標識案内でも日本語は殆んど見当たりませんでした。日本人の観光客は馬鹿にならない数でしょうに。

最近では中国人観光客が多いというので心斎橋あたりでも中国語の表示がどんどんふえているのに「日本人なら漢字が読めるだろう」とでも思っているんでしょうか。

尖閣列島の事件での中国人の日本に対する対応の根底にある意識が万博会場でも感じられました。


ひさしぶりになにか書いてみようという気になりました。日常の身辺雑記なんて他人様に読んでいただけるような内容があるわけないし、よくまあ「今日は○○へ行きました。○○を食べました。だれそれさんに会いました」なんてことをみんな書けるもんだといつも感心いたしております。

よほどの有名人のなら日頃の行動も多少は興味をもてなくもないがそれでも大抵は「それがどうした」といいたくなるような内容です。

書くほうも読むほうもなんと世間には暇人が多いものよと思ってしまいます。

文章を書いて不特定多数の人達に読んでもらおうとするならば多少は興味を持ってもらえるもでないといけないのではないかという観念が仕事柄でしょうかあるもんですからどうも日記風のブログにはなじめないし私にはそぐわないのです。

けどまあ折角のページを埋めないのももったいないし、暇な時間をもてあますよりはおりにふれ浮かぶ雑感みたいなものを主観偏見のそしりを気にせずに書き綴ってみようかという気になりました。



[お祭りさわぎの民主党代表選」


民主党の代表になるのは菅か小沢かの争いがヒートアップしています。東京大阪の街角での演説会には数千人の聴衆を集めて互いに声張り上げての訴え。じっと立っているだけでも立ちくらみしそうなヒートアイランドのなかで正にご苦労さんなことです。

ま、当人たちは党代表ひいては次期首相の座をかけての戦いですから猛暑も気にならないでしょうが

炎天下で演説を聞いている通行人の方々思わず「何人か熱中症で倒れなさんな」と超えかけたくなりました。

そこでふと疑問に思ったんですが、3千人を超す人達の興味関心の大きさは解るんですが「一寸待てよ、この人達は全員が菅か小沢かを選ぶ権利をもってるのかいな」ということです。

つまり今回の選挙はあくまで民主党という一つの党の代表を選ぶ選挙です。民主党所属の国会議員と民主党員の地方議員そして一般人の中の民主党員とサポーターだけしか選挙権がないのです。

国政選挙の有権者の何十分の一の人しか一票を投じる権利が無いのです。

しかもその一票は一票としての権利を持つのではなく全国の民主党員サポーター全員で有権者の4分の1の権利しかないのです。千数百人の地方議員のもつ権利が10分の1そしてわずか400人あまりの民主党の国会議員が3分の2の権利を持っているのです。

総得票、ポイントにして1200ポイントあまりのうち800ポイントの趨勢を国会議員が握っているのです。

極端なこといえば民主党の国会議員400人余りのうち300人ちょっとの票を獲得すれば全国の民主党員サポーターがいくらわめこうがその意は反映されないのです。

実に不公平な選挙システムだと思うのはわたしだけでしょうか。

民主党という党の代表だけを選ぶのならそんなシステムでも党員が納得しているのならいいのですが

その代表が残念ながら日本の首相になるのです。

民主党員でない全国の何千万の有権者は否も応もなく一握りの国会議員によって選ばれた首相を押し付けられるるというのは納得いたしかねるのです。

総理大臣というのは日本国民すべてが参加できる国政選挙でえらばれなければならないのと違いますか。



「飛んでもうた」(船場商人倒産記)あとがき

「飛んでもうた」は実際に起こった大阪船場の老舗酒販店「みの源」の倒産に至るまでの推移を経営者だった瀧内氏重氏の覚書をもとに当人の独白の形で綴りなおしたものですが、単なる倒産劇ではなくかっては商都大阪の屋台骨を支えてきた船場商人のひとつの姿を伝えようという思いで書き進めてきました。

有為転変はあれ400年歴史をもつ船場商法が時代にそぐわず消えていこうとする中で最後まで船場商人の誇りと矜持を持ち続けようとした瀧内氏の思いに共感したのが「飛んでもうた」を掲載するきっかけになりました。

それをどれだけ伝えることが出来たか心もとない部分もあり、いづれ折をみて書き足していきたいとおもっています。

天保年間から続いた老舗酒販店「みの源」が倒産したのは20世紀最後の年、平成11年(1999年)七月のことです。

バブルの崩壊がどんどんすすんで毎年1万件を越す企業倒産が起こったその真っ只中です。

帝国データバンクの調査によるとこの年の倒産件数は3年連続して15000件を越す1万5460件。負債総額は13兆5522億、七月だけで全国での倒産件数は1332件、負債総額は1兆3549億2100万円にのぼっています。

その内負債額5億~10億が82件、小売業が184件。「みの源」の倒産はその中の1件にあたるわけです。

因みにこの年の大型倒産は負債総額510億の山一證券がトップでしたが3位から10位までの7社が不動産関連の企業です。

そして銀行関連の破綻が516件、負債総額は4兆6800億で全体の35%を占めています。

酒販店という小売業の[みの源]の倒産も、バブル崩壊の大きな要因になった不動産業と銀行の破綻に関ったのが大きな原因のひとつではなかったのではないかと思われます。

「蟹は己の甲羅に似せて穴を掘る」という諺がありますが、瀧内氏の中に後悔があったとすれば己の甲羅以上の穴を掘ろうとしたことかもしれません。

それが決して驕りではなく更に事業を広げるための住処となる穴であったにせよ一瞬地に足をつけて生きるべき船場商人の本道をはずれさせてしまったのでしょう。

それは当時の日本全体についてもいえることです。

やれゆけそれゆけで己の甲羅の何倍もの穴を掘りつづけたのです。

あれからもう20年。失われた20年といいますが失ったもののあまりの大きさゆえに日本はまだ立ち上がれないでいるのです。

今は安堵の日々を送っている瀧内氏さんですが日本の国に安堵の日はいつ訪れるのでしょうか。

エピローグ。 「夜空にとんだ花火のように」

誰かが隣の空き地で上げてるんでしょう、小さな花火が窓の外の闇の中に開いたかと思った瞬間に消えていきました。

八月は花火の季節、大阪の各所でも花火大会が開かれます。

中でも豪華なのが八月皮切りのPL教団の花火で、数十万発の花火が富田林の空を彩ります。

しかし、いくら豪華でも花火というのははかないもんやと思います。

束の間派手に咲いて、消えてしもうたらあとは暗闇が残るだけです。

今の私がまさに花火のあとみたいなもんです。

「恨みますまいこの世のことは、仕掛花火に似た命、燃えて散る間に舞台が回る・・・」古い唄ですな、「明治一代女」のそんな一節が口をついて出ました。

花火でしたらたとえ一瞬でも燃えている間は皆の目を楽しませてくれますし拍手もうけられますが、商売に燃えつづけていた時の私はどれほど誰かを楽しませ誰かに拍手を送られたでしょうか。

多分、自分一人が商売の楽しさに酔いしれて世間の移り変わりに気付かずにいたんでしょう。

「古い商売の町から新しいビジネスの街へ変ってきた船場、その端境期に生きてきたあんたの不運とちがいますか」と慰めてくれた人がいます。

確かに江戸の昔から受け継がれてきた船場商法や商人気質は、今の近代化した合理的ビジネスには対応出来なくなっていたんです。

そのことに敏感に気付いて方向転換した者と、出来なかった私との差が「倒産」という結果で示されたのでしょう。

そんな答えが分かっていながら何となく釈然としないんです。

商売の動きも人の動きもすべてがコンピュータで管理され、1たす1が必ず2にならないと正解とされない今のビジネス。そこには「長いおつきあい」といった「情」の部分や、「損して得とれ」といった才覚は要らないのかもしれません。

けど、人間同士のつながりがこんなにもあじけなくなった今こそそれが大切なのと違いますか。

進む一方の大阪の経済の地盤沈下も、本来船場に代表される大阪商人が誇りとしてきた独特の気質や商法を捨てて目先の利益のみに走った結果やないかとも思えるんです。

かって明治維新のとき、大阪の商人たちは莫大な出費を要求されさらに明治になっての廃藩置県でそれまでの各藩への貸付金が回収不能となり船場の町も消えようとしました。

そのときに大阪の経済回復に力を注いだ人がいました。

初代の大阪商工会議所会頭の五代友厚です。

元は薩摩藩士、明治政府の中心となった大久保利通の友人でしたが大久保の誘った中央入りを拒んで「我大阪の土にならん」と大阪に残って造幣局の誘致を行ったのをはじめとして、大名たちの蔵屋敷跡に紡績工場などさまざまな工場、会社、倉庫を誘致建設させることで大阪を「水の町」から「煙の町」へと変え、繁盛の足場を作った人です。

今五代友厚ほどに大阪を愛し、大阪の土に・・と叫んでくれる経済人がどれほどおられるんでしょうか。

もともと大阪が発祥で本拠地の企業が、どんどん合理化やとかいって東京へ本社を移したりしました。

そんな企業の経営者たちに「あんたらはもはや大阪の商人とは違うんやな。そうか、ただのビジネスマンになってしもうたんやなあ」と歯がゆさと情けなさを感じます。

倒産し自己破産までした私がえらそうに言うのはおこがましいのは承知です。

何を言うても愚痴か恨み言にしか聞いてもらえないかもしれません。

けどこうして外から眺めるようになって、商売道の新しいけれどもどこか間違った流れや、その流れにどうしても棹をさすことのできなかったが故の自分の失敗が分かってきたような気がします。

「私のやってきたことは正しかったが故の失敗なんや」負け惜しみかもしれませんが自分にそう言い聞かせています。

思いがけない裏切りや信じてきた人からうけた冷たい仕打ち、それらも時代の流れがさせたのだと今は多少は許せる気になってきました。

ただ、大きな迷惑をかけた人たちや、最後まで私をささえ、励ましてくれた人たちへのお詫びと感謝の気持ちは一生消えることはないと思います。

最近は近所の小学校の子供たちの登下校の安全を見守る仕事を手伝わせてもらったりしています。

他人の役に立つ、ということは楽しいことです。ましてすくすくと伸び育っていこうとする子供たちのために老体の私が少しでも役に立っているかと思うと元気が与えられているようです。

私ももう六十の半ば、あとどれだけ生きられるか分かりませんが、もう少し頑張って、いつかは私を支えてくれた人達に「みの源さん、ようやりなさったなあ」と、そして家族の者達から「いいお父さんや」と言われたいと思ってます。

また、花火があがりました。「こんな小さなわたしでも、燃えてるあいだは精一杯みんなを喜ばせてるんやで」と語りかけているようです。

長女の希栄子を産み、長男の庸介を産んだころには親父や母ともすっかりとけこんで、家の裏屋台を支えてくれるようになりました。

ただ、その長男は、思いがけない事故でわずか九ヶ月で亡くしてしもうたんです。

「あのときは、折角授かったみの源の跡取を死なせてしまったお詫びに、私も死のうかと思いました」と妻が言いますと希栄子が笑って「もしそのときお母さんが死んでたら、お父さんかてどないなってたかわからへん。私かて妹にも弟にも恵まれへんかったんよ」と妻の悲しい想い出を振り払ってくれました。

「そうや、新しい嫁貰うてどえらい苦労したかも分からんしな」

「あ、ひょっとしてお父さん、それお母さんへのよいしょとちがう?」

「よいしょやない、お前等の目には私がいつもお母さんのことをないがしろにしてきたように見えたかも知れんけど本気で思って来たで、こんなええ嫁がなんでわしみたいなとこへ来てくれたんやろ、て」

「希栄子、クーラーの温度下げたほうがええのと違うか、えらい暑いで」

信一君が茶化します。

「希栄子、あんたかてこんなええ旦那さんに貰ってもろうて、感謝せんとあかんよ」

「わかってるってお母さん」

隣の部屋から三人の孫達が見るテレビの音がながれてきます。

私にはこんなすばらしい家族がいたんです。

もう商売がどうしようもなくなった時「いまのお父さんは私らのお父さんと違う」と涙で私に訴えて破産の決心をさせた次女の真美もそのすぐあとに結婚して今は東京でしあわせな新婚生活を送っています。

「僕は僕で頑張るがな」といってくれた息子の重蔵も大手の酒販店で寮生活をしながら言葉どおり頑張っているようです。

多分「みの源の六代目」というプレッシャーから開放されてこれからは自分自身の人生を謳歌してくれるんやないでしょうか。

いうならば今は、なんの不足もない瀧内家族です。

「まるで遮眼帯つけられた馬みたいに、ひたすら商売のコースだけみつめてひた走ってきたんやなあ。それが商売人のサラブレッドの本道みたいに思ってたんや。なんでもうちょっとお前ら家族のことを考える余裕がもてなかったんやろ」

「昔はひたすら働くことが、家族のことを考えてる証やったんですよ。それはそれで正解やったのと違いますか」

「そうよ、時代が変って、家庭の幸せの求め方も変ってきたんよ」

娘夫婦がなぐさめてくれます。

「ただなあ、私の場合は、ひた走ったその先のゴールにも届かん先に落馬してしもたんやで。なんのために走ってきたのか、親父やお母さんは勿論、お前等にも合わす顔がないがな」

「私は、今のこの安堵の毎日がゴールやと思ってます。違いますやろか」

妻がポツンと言いました。

違うのか違わんのか、倒産という落馬から数年過ぎた今でも私には正直いって分からんのです。

五十年もの間私の体を火照らせてきた船場商人の業火を消し去るにはもう少し時間がかかりそうです。

「そうや、ゴールイン記念に二人でどこか旅行でも行ったら?最近は外国でも安いツアーがあるやんか、ねえ、私らもいきたいわあ」と希栄子が言いました.

そういえば新婚旅行以来三〇年余りの間、妻と旅行などしたのは銀婚式を迎えたときに、記念にオーストラリアへ行ったその一回かぎりでした。

性格としては女性に優しい親父でしたから、妻にも優しく接してくれるやろうと思っていたんですがなんの、息子の嫁というより「みの源」の嫁に対して家風の厳しさを徹底的に教え込もうとしたようです。

むしろ母のほうが「あんさん、そないにきつういわんでも、この子もまだ慣れてへんのやさかい」といつもかばってくれました。

妻にしてみれば毎日が息の詰まる思いやったでしょう。

都島の酒屋に生まれ育った妻とは見合いで一緒になりました。

たまたま同業者の研修旅行で台湾へ同行した妻の父親にどういうわけか見込まれて帰国後人を介して見合いをしたんです。

おなじ酒屋の家庭に育ったんですが妻の家は開放的な家風で、かなり自由奔放な娘時代を過ごして来た彼女にとってはまさに牢獄に送り込まれた思いをしたんではないでしょうか。

店の後片付けや帳面の整理などが終わるのが毎晩遅くになります。

それに、両親が寝るまで私はもちろん、嫁も先に寝るわけにはいかないんです。

いつも母の「ほな、ぼつぼつ寝まひょか」と気を使ってくれての一言で部屋へ戻ります。

ある晩私が部屋へ戻ると妻が髪の毛を梳いていました。自慢の長い髪ですがその日に限ってずいぶん念入りに梳いているんです。

「もう寝るだけやのにいつまで髪梳いてるねん。はよ寝んかいな」とそばに寄ってのぞきこむとぽろぽろ涙を流してるんです。

「どないしたんや?」

「いえ、なんでもおません」

「なんでもないに涙が出るかいな、なんぞつらいことでもあったんか?」

「いえ、つらいことなんか。けど、何や分からんけど無性に悲しゅうなってきまして。すんません」

やっぱりつらいんやろうと察しました。

「無理もない。ぜんぜん生活環境のちがう家へ来てしかも毎日が気の休まる間もなくこき使われて、後悔してるのとちがうか」

「いえ後悔はしてません。ただいつになったらこのお家に慣れられるかそれが不安なんです」

のろけやおません、ああええ嫁がきてくれたとしんから思いました。

「大丈夫や、そのうち慣れる。親父もあんたが憎うてしごいてるのと違うんや。私もその親父や皆の手前、昼間は優しい顔をするわけにはいかんけどこの時間ならどんな愚痴も文句も聞いてやるさかい。そうや、言いにくいことなら手紙に書いてくれたらどうや、私も返事書くよって」というのが精一杯の慰めでした。

「手紙て、夫婦のあいだで文通しますのか」

「意外とロマンチックでええのとちがうか、われながらええアイデアやぞ」

少しだけ妻が笑ってくれました。

実際、夫婦の文通はそれからずいぶん長いあいだ続いたんです。

いまどきの若い夫婦には考えられないことでしょうな。

「私はこの家に嫁に来たのと違います。なんで親に気を使って私にやさしく出来ないんですか」と文句を言うてさっさと出て行く女性がほとんどでしょう。

でも辛抱する木に花が咲く、習うより慣れろ、なんでしょうか妻も除々に「みの源」の嫁らしさを身につけてきました。


第九章 「あんた等にあわせる顔がない」

「うまいがなこのかやくご飯。さっきおばあちゃんのこと思い出してたんやけど、よう作ってくれたあの味と一緒やな」

と言うと娘の希栄子が言いました。

「いや、おばあちゃんのより美味しいわ」

「ほんまに、お世辞抜きにしてお母さんの料理は上手ですなあ、いつも感心してますねん」

娘婿の信一君がご飯をほおばりながら口をそえます。

「おふくろの味というのがどんなもんか、あんまり記憶がないもんですから・・・」

幼いときに父が家を捨て女手ひとつで彼を育てた母親の手助けをするため中学を出るなり働きに出たそうです。娘とは年も離れているんですが、重ねてきた苦労が素晴らしく優しい性格を彼に備えさせたようです。

おそらく家中の猛反対に会うやろうと覚悟して希栄子がはじめて彼を我々に引き合わせたとき、その人柄の良さ、礼儀の正しさに私も妻もほれ込んでしまいました。

「希栄子の男を見る目もまんざらやないなあ、お前の血ひいたんかな」

「え?ということは、旦那さんを選んだ私の目もまんざらやなかったということですか」

「え?違うたんかいな」と喜び合うたものでした。

我々夫婦に「一緒に住もう」とすすめてくれたのも娘よりまず彼のほうからでした。両親に恵まれなかった分我々を実の親のように思ってくれていたょうです。

その厚意にあまえてK氏の部屋からこちらへ移って三年が過ぎました。

妻は三人の孫の世話が楽しくてたまらんようです。その合間に朝一番の電車にのって弁当屋さんへ働きに出ています。

もちまえの料理上手でずいぶん重宝がられているそうです。

「娘夫婦には世話になるわ、お前には食べさせてもらうわ、まるで髪結いの亭主やな。これでは男の沽券にかかわるなあ」

というと「いままで何十年も働きずめに働いてきなさったんやおませんか、しばらくは骨休めしなはれ」

「納得のいかん骨休めやけどなあ」

「旦那さんは納得いかんかもしれませんけど、私は今が一番しあわせやないかと思うてます。もちろんお店の商売をなんとか裏で支えようと頑張っていたときも、それはそれで毎日のハリもありました。けど目の色変えて飛び回ってはった旦那さんの顔より、こないして孫の顔見て目じり下げてはる顔見てるほうがずっと落ち着くんです」

「そないに今の私は間延びした顔かいな」

「ええ顔ですがな」と微笑んでいます。

あの頃はいったいどんな顔を妻に見せていたんでしょう。「商家の主たるものは妻にでれでれした顔はみせたらいかん」、「妻は商売のことには一切口をはさんだらいかん。その代わり家事一切、子供の教育、奉公人の面倒、これが商家の妻のつとめ」、というのが船場の常識でした。

母の名義で借金してビルを建てるときも、そのあとの商売のやり方についても一切口出しもせずじっと私をみつめてくれ、私の守り神だった母もとうとう亡くなってしまったんです。

その通夜の席で妻がそっと私を別室へ呼びました。

「どないしたんや」と聞くと妻が古ぼけた菓子箱をさしだしました。

「開けてください」

「なんや、どこからのもらい物や。それにしては薄汚れた箱やな」と開けてみてびっくりしました。札束がぎっしり詰まっているんです。

「ど、どないしたんやこの金は」

「お母さんからの預かり物です。私が死んだときにもし氏重が葬式代も満足に出せんような状態ではあの子が世間様に恥をかきますよって。そんなことは無いやろうと思いますがとりあえず百々代さん、あの子には内緒で預かっておいとくなさい、といわはったんです」

平成七年といいますと売上も減少、問屋からの締め付けもきびしくなって、いうならば「尻に火がつき」はじめていた頃です。

商売のことには一切口を出さなかった母ですが、うすうす台所の苦しさに気付いていたのかもしれません。多分そうです。だからこそ尚更に息子を案じたのでしょう。

菓子箱につまった一千万円の札束、胸の詰まる思いで押し頂きました。お通夜の部屋へ戻って棺の中の母に手をあわせて詫びました。

あれほど苦労のし通しの一生やったのに死化粧をほどこされた母の顔は幸せに微笑むかのように安らかでした。

「氏ちゃん、これからも百々代さんかわいがってあげんとあかんよ」と言うているようです。

自分が姑に苦労しただけにあの苦労は息子の嫁にはさせまいと、実の子のように妻をかわいがってくれたんです。なにかあれば「百々代さん、百々代さん」で、私が養子やと思った人もいたくらいです。

いつも「わては死ぬときはぽっくりといきたいねん」と言っていて、「ぽっくり寺」と呼ばれる寺へもよくお参りしてましたがまさにその通り、あっけないほど安らかな往生でした。

「わてのお通夜はじめじめせんといてや、みんなで陽気にパーッと騒いであの世へ送ってほしいさかいな」とも言ってました。

「一億の人に一億の母あり、されどわが母に勝る母なし」です。

若くして「みの源」の五代目をついでがむしゃらに唯我独尊のやりかたで生きてきたつもりでしたが結局は親父によって母によって、そして私をとりまく様々な人たちによって生かされて来たんです。

「旦那さん、晩御飯はかやくご飯でも炊きましょか」という妻の声ではっと我にかえりました。と同時にぞっと背筋が寒くなりました。

かやくご飯は母の大好物やったんです。

「こんど生まれ変わってもまたお母さんの息子に生まれたい。もうちょっと孝行してみせるさかい」と心でつぶやきました。




私が五代目をついでからの親父はそれほど直接的にはなにも言わんようになりましたがそれでもその目が私を見守り叱りつけているのは常に感じていました。

きつい大きな呪縛やったんです。

私が結婚して新婚旅行から帰った日の親父の第一声は「今日からは、二人で力を合わせておたがい愛し合う心、信頼、尊敬の心で歩んでいくように」

そして妻には「今日から百々代は氏重のことを旦那さんと呼ぶように」私には「氏重は旦那さんと呼ばれるにふさわしい主人になるようにたのみます」でした。

月並な教科書めいた言葉でしたが私にはあのときの親父の、そして横でしんからうれしそうに笑っていた母の顔が忘れられません。

そんな数え切れないほどの「心の財産」を私にのこして親父が亡くなったのが平成元年でした。

秋も深まってきた一〇月三十日の明け方でした。

その最後の息を引き取る間際、もう殆んど意識もなくした親父の手を握って私は語りかけました。

「お父さん、今みの源がこうしてあるのはみんなお父さんのおかげです。これからも兄弟力を合わせて頑張っていきます。お母さんのことも決して放っておきません。百々代ともども孝行をつくします。お父さんから教えてもろた商人道は立派に継いでいきますよって安心しとくれやす」

聞こえたかどうか、返事はありませんでしたがそのあとまもなく親父は息を引き取りました。

七十九歳でした。

そんな最後の親父との約束を反古にしてしまったんです。

もう十年長生きしていてくれたらあのバブルの時勢にのみこまれた私を叱り飛ばしてくれ、みの源を守ってくれたでしょうに。

そして七年後母も親父のあとを追いました。

いつの日も夫に従い、子供を案じ、苦労の中でも気丈さと明るさを持ちつづけてきた母でした。

「憂きことの、なおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」

これは母が若いときから人生の指針にしてきた、いわば母にとっての応援歌でした