私たち誰もが内包するエラーがあります。

 

誰もが間違う。

ミスる。

勘違いする。

 

トラブり、凹み、怒り、哀しみ、焦り、卑下する。

 

ここまではよくあること。

 

ですが、この苦痛が続くうち、

自分の存在に対して

懐疑的になることがあります。

 

なぜこんなに苦しいんだ、

どうしてこんなにダメなんだ、

消えてしまった方がいいんじゃないか、

 

など。

 

そしてしまいには、

自分は生きていていいんだろうか、

とまで思うようになるものです。

 

これを、エラーと呼びます。

 

気づくと、

望ましくない状況・状態で

自分自身を受け止めていること、

 

と言い換えられるかもしれません。

 

人の行為に腹が立って仕方がない、

自分が惨めに感じて人前に出られない、

自分がくずに思えて仕方がない、

大切な人を助けてあげられない無価値な自分、

 

などなど、

 

日々が生きづらくなるような受け止め方

ばかりですね。

 

これが日常の中で継続的に形を変えて

あらわれるなら、

 

エラーを起こした自分に対して、

繰り返しいたぶるようなことを

していないか、といったように、

 

たちどまって振り返ってみては、

という問いかけ、

と受け止めてみてはいかがでしょうか。

 

エラー。

 

何かをして、あるいはしなくて、

自分または他の誰かを傷つけたり

することもあるかもしれません。

 

でも、

さりげない一言が相手を傷つけた、

相手を思いやった行動が結果として

不和を招いた、

 

などは、もちろんエラーの範疇には

入りません。

 

それでも、もし今あなたが自分の存在に

猜疑心を持ってしまっているなら、

 

つまり自分を消してしまいたい、とか、

ひどい奴だ、とかいった感覚を

抱いているのであれば、

 

その感覚はエラーです。

 

自分が『まともではない』と感じていて、

 

それがこの感覚を

呼び寄せてしまっているのだ、と

私は思うのです。

 

自分の存在に対して

猜疑心に囚われている人は少なくなくて、

 

ただ、そのあらわれ方は、自分に向かず

他者や社会に向いていることもあります。

 

人は必要のないことはやりません。

 

猜疑の念を抱く人は、

そういう見方を過去に必要とした時期が

あったのでしょう。

 

その結果、自らを

『まともじゃない』んだ、

と受け止めてしまっている。。。

 

しかしですね、

考えてみてください。

 

自分に起こった出来事によって

苦痛で苦しんでいるし、

哀しくて哀しんでいるし、

 

あまりに意に添わなかったり、

ひどいと感じて

怒ったりしているのではないでしょうか。

 

つまり哀しむ理由と哀しいという感情、

苦しいという理由と苦しいという感情、

ひどいと感じる理由と怒りの感情、

 

といったように、

理由と感情とがきちんと結びついている。

 

その受け止め方、表現の仕方は

とりあえず脇に置いたとして、

これほど“まとも”なこともありませんよね。

 

生きていく上で、

これ以上に“まとも”であることを

求める必要などないと思うのです。

 

ただ、

自分の中に湧き出してくる怒りや哀しみ、

苦痛の感情に苦しんでいることについては、

 

いくつかの出来事の連なりが長く続いて、

大元の原因がみえなくなってしまっている

こともあるでしょう。

 

猜疑に走ると、人は際限なく

自分も他人も追い込んでしまいます。

 

そして、その先に未来はありません。

 

数段上に、

「表現の仕方はまず脇に置いたとして」

と記載しましたが、

 

“まとも”であっても、

外部に対する表現の仕方はそれとは別に

工夫が必要ですが、

それはまともな自分と相談して考えればいい。

 

いずれにしても、私たちは、

泣いて、怒って、拗ねて、僻んで、落ち込んで、

自分がどっかでおかしいんじゃないかと

心配になって、びくついて、お先真っ暗と絶望して…。

 

この世の中で生きていて、

全くこうならない方がおかしい気がします。

 

……でも、そこまでまともじゃなきゃ

いかんのかな?

 

 

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罪悪感は持ちたくありません。

 

これは誰しも同じだと思います。

 

罪悪感は、自尊心を低下させ、

あなた特有の感覚を鈍らせ、

これからを生きようとする力を

弱らせます。

 

それはまるで

長い道のりを重い重りを両足につけて

歩くようなものかもしれません。

 

罪悪感には、

日常の些細な軽いものから、

肉親や親密な関係との間に横たわる

非常に根深いものまで様々です。

 

持たないで済むならいいけれど、

感情の選択自体が無意識に依拠していて、

気がついたらその感情を選択している、

ということはよくあることなんですね。

 

罪悪感のメカニズムは、

大切な人や世の中の期待を背負いこんで、

達成できなかった自分を責める感覚です。

 

ここには大きな罠が隠されていて、

背負わなくてもいい罪悪感を背負うことが

よくあります。

 

例えば、

親の期待を自分の希望にすりかえて、

それを達成できなかったり、

達成しても幸せを感じられなかったり、

といった状況が生じることで、

 

期待に応えられなかった、

幸せにできなかった、

という罪悪感が心の奥底に住み着きます

 

ここで、罪悪感を感じることに対して

単なる言い訳だといって、

 

へとへとになった魂のまま

無理やり自分を律しようとし続けて

ますます悪循環の深みにはまることも。

 

ここまでの話はかつての私自身のことですが

後に家族病理と依存症に関して

心理学の一環として学んだあと、

 

これがアルコール依存症の妻が陥る

共依存=Co-Dependencyと同じだ、と

気づいたのは、衝撃的でした。

 

 

20世紀のアメリカで、

世話焼き=イネイブリングという言葉が

アルコール依存症の夫に対処しようとする

妻の行動に対して名付けられました。

 

妻は、夫がアルコールを飲まないように、

アルコールの瓶を隠したり、

飲もうとする夫をたしなめたりして、

何とか夫をアルコールから距離を

置かせようとします。

 

夫がアルコールを飲まない時間が続くと

自分のことのように喜び、

飲んでしまうと腹を立てたり悲しんだり。

 

夫思いの素敵な妻に見えるのが

世の解釈かもしれませんが、

 

これこそが夫をアルコールから守ろうとしつつ、

アルコール依存を支えるメカニズムと

なっていることがわかりました。

 

この夫と妻の関係は先にも記載のとおり、

共依存=Co-Dependencyといいます。

 

妻は相手の世話を焼くことで

自分の存在価値を見出すわけですが、

同時に妻自身の自尊心の低さをも意味します。

 

これは夫と妻の関係ですが、

家族という一つのシステムを維持しようと

家族一人ひとりがその歪みを吸収するように

機能しようとした結果の一例で、

 

同様のことが、

父と子、母と子、兄弟姉妹など

それぞれの関係の中にも生じえます。

 

怒りや恨みの感情が、

そんな相手とは離れたい、と言いながら

離れられない感情との相克の中で、

ない交ぜになりながら織りなす

人の関係はとても危うく、

徐々に互いの人生を蝕んでいきます。

 

赤ちゃんやまだ親の庇護を必要とする

子どもであればともかく、

高校生以上にもなればもっと自分の世界をもって、

自分の世界を持った自分を肯定して

生きていくことこそがこの状態を解決する

ポイントです。

 

この、共依存という概念は

日本に導入されて随分経ちましたが、

私たちの日常の随所にみられ、

そこに絡めとられている人は

意外に少なくない気がします。

 

すぐにやめることができれば

それにこしたことはありませんが、

 

そこまでできなくとも、

 

少なくとも自分が何某かの集団の中で

その集団を支えるための一要素として

そうなっていないかを見つめるだけでも

 

その後の生きやすさが変わってきます。

 

人生の主人公は常に自分であることは

言葉にすれば誰もが頷くのでしょうが、

それを実践する上で、

知っておいて損はない話だと思います。

 

 

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ダメな自分なんていない。

 

最初にそう申し上げます。

 

人によっては、当たり前だろ、と

言われるかもしれません。

 

ですが、それを実践できている、

つまり、ダメな自分にしっかり寄り添い、

自分の一部として活かしている方が

 

どのくらいいるのかな、

と思ったりします。

 

そもそも、

自分がダメであるって何でしょう。

 

ダメだからという理由で、

自分を追い詰めるほどに

卑下、貶め、侮蔑、低能、無力などと

位置付けるのは、

 

反省とか失敗を繰り返さない学習とは

明らかに一線を画する

ひどい行為です。

 

「たかがそんなこと」と思われるかも

しれません。

 

ですが、タバコと同じで、

 

習慣化した自らへの“ダメ”扱いは、

気づかないほどゆっくりと蓄積され、

心を蝕んでいきます。。。

 

これは心の生活習慣病の典型でもあって、

逆に言えば、意識して変えていける

ことでもあるのですが。

 

自らをダメな自分とつぶやくとき、

その奥には確定語として、

「やっぱり」が隠されていることが

多いのではないかと思います。

 

やっぱり、

仕事がうまくいかないダメな自分

 

やっぱり、

朝起きられないダメな自分

 

やっぱり、

人と衝突してしまうダメな自分

 

やっぱり、

体が動かないダメな自分

 

やっぱり、

すぐ切れてしまうダメな自分

 

ずっと自分をそう扱ってきたとすると、

既に、感情が、体が、なんだかおかしい、

そう感じていることもあるでしょう。

 

そんなときは、

一度立ち止まって体を休めて、

自分の内面とじっくり向き合ってみてください。

 

ダメっていうけど、解釈を変えれば、

うまくいかないことが分かった、

というだけの話。

 

ダメ・・・。その諦念に至る手前に、

『何か』があったと思うのです。

 

自分にとって不可抗力の『何か』だったり、

自分がやってしまったものだったとしても

仕方がなかった『何か』だったということも

あったのでは?

 

にもかかわらず、

その場だけに焦点をあてて、

ダメダメダメと解を探しても、

根本的な解決に至ることはあり得ません。

 

ダメって位置付けた自分はどうやってできたの?

 

大切な誰かのために、

ちょっとばかり心身を痛めつけ、

削ったからじゃないでしょうか。

 

そんなことで自分を貶める必要なんて

さらさらないでしょう。

 

ダメの元、つまり、

そう烙印を押してしまった原因を遡れば、

大切な誰かのために、

 

もっと上へ、

もっと高く、

もっと先へ、

もっと細やかに、

もっと美しく、

 

もっともっともっと、と、

あなたが歯を食いしばって体得した

何かの負の対価=代償かもしれません。

 

それでもよかったんですよね。

きっと、少なくとも喜ぶ誰かがいる、

いつか喜んでくれる、

 

そう思って自分のことを後回しにしてきたのなら、

恥じる必要なんてさらさらない。

 

でもね、とても残念だけれど、

もうそれは必要なくなってしまったこと

なのかもしれません。

 

繰り返します。

ダメな自分なんていません。

ダメにしている自分がいるだけなんです。

 

そうしてまで救いたかった、

喜ばせたかった『大切な人』が

いたのではないでしょうか。

 

でも、これからは、

あなた自身がその『大切な人』なんですよ。

 

 

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遠い昔、1980年頃のことです。

 

NHKの銀河テレビ小説なる番組で

『優しさごっこ』という作品が

放映されていました。

 

夜、お風呂からあがって居間に行くと

必ずその番組が流れていて、

両親がいがみ合うこともなく

見ていた記憶があります。

 

ドラマは、母親が家を出て行って、

父親と娘の二人暮らしぶりを素朴に

綴ったものです。

 

当時は、

(何が面白いんだろう)と感じつつ、

それでも何となく画面を眺めていました。

 

大人になってその記憶を思い出し、

やはり何となく気になるものだから、

 

古本を取り寄せて小説版を

読んでみたことがあります。

 

内容は記憶にあるドラマより

もう少しシリアス感が強いものでしたが、

 

読んでいて自分の大きな勘違いに

気がつきました。

 

題名から、優しいふりをし合うことの

嘘くささを描こうとしていたと

ここでも何となく思い込んでいたのですね。

 

こんな明確な言葉で

意識したわけではないけれど、

子供の頃にテレビを見ながらすでに

そう思い込んでいたのでしょう。

 

それに気づいたときは、

なんとも歪んだ見方をしていたのだな、と

我ながらあきれたものです。

 

作品の中では、家族一人一人が

自分にとっての優しさとは何か、を

考えて生きようとしていました。

 

離婚して、自分の道を歩もうとした母親と、

大切な娘の子育てに骨折りを惜しまない父親、

大好きな父親と二人三脚で日々を生きる娘。

 

皆が与えられた時間と人の関係の中で、

できることをして生きている。

 

本当のところは作者に聞かないと

わからないけれど、

 

この作品が1977年初版の

『児童文学』であることを知って、

驚きました。

 

『親が別れてしまったために、

不幸になった子供がいる。

 

しかし、

 

親が別れなかったために、

不幸になった子供もいる』

 

表紙についていた帯だったかに

そう書かれていました。

 

私の両親は毎日泥仕合の衝突を繰り返した末、

父親が家を出て行き、

家族の形が変わりました。

 

お互いが感情を押し付けあいすぎて

生きることの息苦しさを体現したような

夫婦でしたが、

 

このドラマのことを思い出し、

また、

両親の年齢になって、

 

彼らなりになぜ自分たちがそこまで

苦しいのか、

 

その理由を知りたかった、

知ろうとしてあがいていた、

 

そして、

自分の世界を良いものにしたくて、

懊悩していた、

 

のだろうな、と思います。

 

当時は子供の立場にいて、

彼らが互いを傷つける

日々の言動に苦しみましたが、

 

大切な関係を、大切な存在を、

ただ破壊するために生きていたはずもないと

今ではごく当たり前に受け止められています。

 

家族の形が崩れ、

一人は自らこの世を去り、

とても哀しい時間を通りましたが、

 

一つのドラマを思い出したことで、

両親の本音を振り返ることができました。

 

願わくば、彼らなりに自分たちを

もっと許してくれていたら、と

今でもそう感じます。

 

 

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嗜癖=アディクションという言葉があって、

モノや行為に溺れることを意味します。

 

その、モノや行為がないと、日常が回らなく

なるくらい依存していて、

 

しかし、当人は「そんなことないよ」と

思っていて、

 

その間に、

お金や私語や人間関係がおかしくなっていく、

という性質のもので、

 

行き過ぎたアルコールや買い物(借金)や

ギャンブル、ゲームなどは依存の典型で、

今では日常的にニュースにも登場します。

 

どのあたりからを依存症と呼ぶかはともかく、

ゆっくりと、しかし確実にその人の内面を

蝕んでいくもので、

 

今では依存の対象は、

 

テレビを見続けること、

スナック菓子を食べ続けること、

常に恋人を求めること、

 

など、

 

その行為が

 

自らの内面に潜む寂しさや怖れ、

自己肯定感の欠如などの

本音と向き合うことを避けるため、

 

自尊心の人工透析的に扱うもの全てを

指すようになってきました。

 

 

心が疲れてしまった方に向けて、

『癒し』の必要性が唱えられて久しいですが、

何となくひっかかることがあります。

 

癒しはひたすら与えられるもの、

と思われていることと、

癒しに対する嗜癖的な匂いを感じる

せいなのかもしれません。

 

癒しを求めること自体はよいのですが、

それがないと生きていけない、となると

穏やかではありません。

 

そう、

癒しは求めればいいと思います。

 

ただ、なぜ必要か、

その結果どうなることを望んでいるか、

そのために自分ができることは何か、

 

といったことを明確にしないまま、

セミナージプシーならぬ

癒し求めジプシーでいるのはもったいない。

 

残念ながら人類はまだ

心を映し出すレントゲンを発明しておらず、

 

優れたカウンセラーは

相談者から表出する言動を暗喩として捉え、

気づきのヒントを抽出しています。

 

思うのだけど、癒しの本質とは、

誰かに分かってもらうことではない

のではないでしょうか。

 

わかってくれる人は実は周囲にたくさんいて、

かといって彼ら彼女ら全てが

わかってくれたとしても、

 

本当の意味で癒されることとは

目の前にいくらでも存在する他者の言動や

手持ちの何かをヒントに、

 

自分の中に自分を理解・共感し、

感動できる自分を

作り上げることでしかないと思うのです。

 

つまり、自分を肯定する自分を

内在化することですね。

 

癒すと言っても色々あるわけですが、

ともかくも、これが有効に進むと、

自己の肯定感が確実に上がるようになります。

 

では、内在化とは何かというと、

頭(思考)と皮膚感覚(感情)の双方が

有機的に合わさって、

 

胸に去来する情動として

自分の中にしっくりと納まること、

ということでしょうか。

 

いずれにしても、

そうやって再構築されたあなたの心、世界観は

それ以前より、柔軟性を兼ね備えて

ずっと丈夫になっていると思います。

 

 

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もともと不安定だとは感じていたけれど、

父母の関係が終わり、父が家を出て、

原家族がおかしくなっていき、

 

そのうち、

 

一人が自らこの世を去り、

もう一人も後を追いかけたり、

ということを経験するうち、

 

生きること自体にとてつもなく息苦しさを

感じるようになっていた時期がありました。

 

食事も仕事も人と会うことも、

まるで機械のように日常を繰り返すことで

毎日をやり過ごす感じ。

 

その時は、“これから先”のことについて

考えることもありませんでした。

 

余裕がなかったと言えばそれまでですが、

 

おそらくそれをやってしまったら、

いくつもの蓋をしていたことに

気づいてしまう怖さを

無意識にわかっていたからでしょう。

 

もう社会人になっていましたが、

そういう意味では心の中は

多分に子供のままで、

 

だから、

 

この苦痛の理由は現実社会の方にあって、

世の中は自分に対する敵意で満たされていて、

自分はそこからの脱出を試みるべきだ、

 

と妄想していたことさえありました。

 

きっと、その方が当時の精神衛生上では、

都合がよかったのかもしれません。

 

その考え方のおかしさに気づいて

すぐに自分らしく生き生きと生きられるように

なればいいけれど、

 

実際に自分の身に起こったことは

元気を失うことでした。

 

いざ行動を起こそうとしても

その度に気持ちが萎えてしまうのです。

 

もう何というか、

動こうとするとため息が出るばかりで

体が反応せず、

 

やっぱり何もできないんだ、

とあきらめの感覚に襲われてばかり。

 

今から振り返れば、

それまでの自分の生き方を貫いて、

何某かの結果を出し続けることで、

 

原家族、なかんずく

父と母が幸せになってくれる

そう思い込んでいたのだから、

 

それが全否定される結果を

目の当たりにして、

 

深いふかい無力感に陥ったのも

仕方なかったのかな、と思います。

 

世の中のせいにもできず、

自分を修正する結果も出せず、

ある意味で一番危険な状況だったかもしれません。

 

何が足りないんだ、と

動かない心と働かない頭を使って悩んだ末、

動き出すことができるようになったのは、

 

足りないものなどないと

気づいた後のことでした。

 

足りないものがあるとすれば、

足りている自分を信じられず、

自分の中に既にあるものを使って、

自分自身として生きていこうとする

姿勢そのものだったということです。

 

いつ頃から足りないなどと

思うようになったのか思い返すと、

もともとがそういう生き方だった、

というのもあるけれど、

 

これまで生きてきた時間が

実は嘘だったのか、と

思い込んでしまった瞬間に思い至ります。

 

幸せだった時間をフェイクに見立てることで、

大切なものを失った衝撃を和らげようと

無意識が取り計らった結果、

 

心身の致命傷はギリギリのところで

避けられたかもしれないけれど、

大切な感覚を見失ってしまったのです。

 

 

同じような場所にいる方へ。

 

私たちが自分らしく生きるためには、

“感じられる自分”を取り戻さなければ

なりません。

 

生きるということは、

自分自身にとっての幸せを感じ続ける旅だ、

と私は考えています。

 

その結果紡ぎ出されるものを

自分の宇宙と呼ぶならば、

宇宙はその感覚なくして

成り立たないのではないでしょうか。

 

それはかつてあったし、

今だっていくらでもあるはず。

 

自らの内に泉のようにわきあがる

“ささやかな”しかしあなただけにはわかる

感動や満たされ感をしっかりと感じ取ることです。

 

そのためには、

 

怖くても小さくてもいいから、

もう一度、一歩を踏み出してみてください。

 

今のこの状況は、

自分の力が及ばないことが原因でなってしまった

不本意な結果かもしれません。

 

それでもこれを、自分自身で選択した結果だと

受け止められるようになると、

変化が始まります。

 

感じないようにしよう、

その方が楽になるし傷つかなくて済む、

そうしないと生きていくことが苦しくなる、

 

そう思って、

徐々に心を閉じてしまったのかもしれません。

 

もしその位置に留まり続けているのなら、

もうそろそろ終わりにしませんか。

 

今ある、日常、生活、人の関係を、

急激に、劇的に変えることはできません。

 

しかし、自分がどう受け止め、

どう振舞い、

どのように次の行動につなげていくかは、

 

自分で選択することができます。

 

繰り返しになりますが、

私たちは選択する力を持っていて、

 

これまでの“結果”は、

そういう選択の蓄積によって導かれた

“結果”です。

 

この“結果”は言い換えれば、

自分を見失った自身が、

どこかに間借りした世界ではないでしょうか。

 

本来自分がいる世界を自分の宇宙と呼ぶなら

それを取り戻しましょう。

 

呆然と見つめて儚んでいる必要なんて

さらさらないんです。

 

 

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言い訳をしたことのない人は

この世に一人もいないと思います。

 

傍から見ればくだらなかったり、

明白に破綻していたりする理屈を

口にしながら、

 

とりあえずその場だけは、

何とかしのごうとする。

 

最初のうちは、そのシーンを振り返る度、

みっともないな、とか格好悪いな、

と自分にダメだしするのだけれど、

 

いつの頃からか、

言い訳が日常的になっている。。。

 

思い当たることはあるでしょうか。

 

言い訳はとても大切なことで、

追い詰められたり、

逃げ場がなくなるくらいなら、

 

理由の如何を問わず、

“一時的な”避難場所として活用することは

必要なことだと思います。

 

問題はその後で、

 

自らに反省やフィードバックもなく、

言い訳を新しい住処にして

 

取り巻きや世界の構成のように

自分では変えられないものと

対立し続けて生きるようになってしまう。。。

 

その根底には、自己不信があり、

過去に植え付けられたひどい見方を

あたかも真実であるかのように

身にまとい、

 

結局のところ、

自分を貶める自分がいたりします。

 

批判と言い訳は

1セットなのかもしれませんね。

 

ということは、

 

言い訳の世界を脱し、

自ら(の感情・世界観)が変わることが、

世界を変えることなのでしょうか。

 

最初は、自らが変わる試み自体に、

そんなくだらないこと、胡散臭いことなんて

と感じたとしても、

 

それを乗り切った向こうには朧ながら、

違う姿になった自分を感じとり、

一歩踏み出してみると

世界は変わって見えるようになります。

 

もう一歩踏み出すとまた少し変わる。

 

そうやって自分が変化していきます。

 

実際のところ、

私たちは学習する動物です。

 

起こった出来事に対して、

自分がダメな人間だ、

あるいは自分には碌な人生はない、

 

と繰り返し認識し続けていると、

どんどんそれを実現していってしまいます。

 

引き寄せの法則そのままですね。

 

その流れが不思議なほど

簡単に形成されるのは、

 

そもそもそういう見方を利用して

自分を世の中に位置付けてきたからですが、

 

考えてみれば理不尽なことですよね。

 

つまり、私たちができることは

自分に対する見方を変えること、

これにつきます。

 

うまくいっている人が異なる世界を

生きているわけではないんです。

 

意識的・無意識的に、

世の中をどう見ているか、

起こった出来事から自分をどう認識するか、

 

それによってその人にとっての世界が

出来上がっているんです。

 

よく、毒親などと言いますが、

学校でも部活でも会社でも、

 

心身の安定がないままの度を超えた叱責は

あたかもそれが本来の自分であるかのように

痛みと共に植え付けられます。

 

それを変えることが、

あなたが納得してあなたの人生を歩むために

最初に必要なことです。

 

これまで刷り込まれた世界観を変えることは

ある意味では、

身を切るほどつらいかもしれません。

 

良きにつけ悪しきにつけ、

それを基準として生きてきた、

愛着のあるものの見方だからです。

 

でも、そうしている限り、

あなたが感じる苦痛は続きます。

 

それを脱するために大切な言葉、

物語をあなたに対して、

『染み込ませる』『内在化する』ことができるのは、

『あなただけ』です。

 

あなたには、懐かしい大切な原風景があります。

 

それは過去から今に至る、

様々なシーンのあなた自身を一体化

させることができるし、

あなた自身の内側から生きる力を

湧きだたせてくれます。

 

そうやって生きる力を秘めている以上、

今だってあなた自身が素敵でないわけがない。

 

それは、世界の構成なんかで変わるものでは

断じてありません。

 

この世界は、あなたが生きる物語。

そうであるならば、

自分が幸せになるストーリーを描いて

みませんか。

 

 

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私たちのものの見方、受け止め方、

それに対する反応の仕方は、

長い時間の中で形成されました。

 

吠え方を学んでいない犬が吠えないように、

ある出来事や場面に対して湧き上がる

考えや感情もまた、

 

時間軸を含めれば

純粋にその人特有のものではありません。

 

体を例にとるとよくわかるのですが、

私たちの体を構成するのは、

それまでに口にした食べ物や飲み物です。

 

もちろん消化吸収の度合いや、

体こそ個性という養老先生の言葉もある通り、

個人差があるから一概には言えませんが、

 

ある人が二通りの食生活をしたとすれば、

どういう食事をしてきたかの差は

歴然とあらわれるはずです。

 

 

同じことが、心・感情にも言えます。

 

思い出してみると…

 

友達とやった草野球やモバイルゲーム、

家族そろって出かけた買い物、

夏休みの午前に付けっぱなしのテレビから

流れてくる高校野球の応援の声、

とりとめのない話をしながら友達と帰った

学校からの帰り道、

取っ組み合いの兄弟げんか、

夢中になって見続けたアニメ、

冬の木枯らしが木々を揺らす音、

父親と釣りに出かけて見た風景、

母親の笑い声

 

父母の泥仕合のような罵り合い、

友達からの無視やいじめ、

先生からの叱責とげんこつ(最近はないか)、

お金がなくて誕生日を祝ってもらえなかった、

母親が泣きじゃくっていたシーン

 

良い思い出、良くない思い出の例を

いくつか記載したけれど、

 

それら無数の1コマ1コマが集積して

私たちの心・感情を形成しています。

 

思い出して気持ちのいいことも、

そうでないことも、

全て私たちの中に息づいた風景です。

 

その昔、

地元で昔の友人たちと飲んだ時、

中学時代のクラスメートが自死した、

という話を耳にして、

 

胸の中の塊の一部が、

鈍く欠け落ちた感じがしたのは、

必ずしも親しかったわけでもない彼もまた、

私のささやかな心の一部を形成していた

からなのだと思います。

 

私たちの中に積み重なってきた

無数の体験とそこに付帯した情動は、

意識しないと気づかないだけで、

終わったものは何一つありません。

 

今の自分の感じ方、考え方を形作る

無数の一要素として、

いつも私たちのそばにあります。

 

人は一人で生きているわけではない、

という中には、

 

こういった時間を超えて体の中に

記憶された情動が働きかけてくる、

という意味が大きいのではないでしょうか。

 

かけがえのない自分を生きるために

必要なこと、

自分を大切にするということは、

 

この、

時間を超えて私たちの中に埋め込まれた

情動といかに付き合うか、

ということともいえるのだと思います。

 

自分の心の一部となった多くの人々は、

望むと望まざるとにかかわらず、

もう一人の自分。

 

つまり、自分にかかわる全ては

かけがえのない存在だ、と

言ってもいいかもしれません。

 

そう思った方が、

生きることが面白くなりますし、

心の自由度も増す気がします。

 

何より、

自分の力と可能性を限りなく、

高めることができるでしょう。


そう考えると、

この世界を生きることは楽しい、

そう思いませんか。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

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周囲を変えようとするより、

自分自身の変化を望むようになった方へ。

 

自分を守るための機能が、

必要な変化を妨げてもいるという

パラドックスについてお話しします。

 

 

経験は心身の記憶として保持され、

その記憶をもとに私たちは行動します。

 

危険、苦痛、無理無駄などを再現せずに

生きられるようにするためです。

 

自分にとっての、癒されることや、

気持ち良いこと、愛することを再現して

生きられるようにするためです。

 

しかし、

 

癒され、落ち着き、受け入れられるはずの

関係の中で、危険、苦痛、残酷、嘘ばかりを

親から感じ取り続ける時、

 

生きる指針、基準が崩れます。

 

自分を守るための縁(よすが)と

暗黙のうちに信じ込んでいたものを

見失ってしまうためです。

 

いわば羅針盤が狂ってしまうのですね。

 

何が起こっているかわからなくなり、

自分でもよくわからないうちに

仕事や人間関係で追い込まれるようになり、

 

いっとき

周囲の悪意を疑ったりした後で、

メンタル的に追い込まれ、

 

そこから、

 

自分が変化することの必要性、

自分が変化しないことには、

漠然と思い描くだけになっていた幸せを

得ることができない、

と気づくようになります。

 

ここからがパラドックスの始まりで、

見失ったもの、自分のよりどころ、

基準だったはずの関係の暖かさ、懐かしさの

再現に向けて変化しようとするところで

 

そこで味わった危険、苦痛、残酷、嘘といった

かつて絶望にまで追いやられた恐怖や不安が

押し寄せ、変化を妨げようとします。

 

 

そんな状態からできることは次の通り。

①まず、当座の目の前の問題を解決することを

放棄するようにします。

 

放棄なんて、と思われたかもしれません。

 

ですが、変化を妨げている力学が

目の前の問題に焦点を当てるエラーとなって

出てきているのだから、

 

そこでいくら問題の解決にこだわったところで、

意味はありません。

 

大方は、人や組織が変わるべきだという

正論に凝り固まった解決を試みては

挫折するばかりでしょう。

 

②続いて、感情の表出方法を変えること。

 

自分の世界観が変わらない、つまり、

自分の自分に対する受け止め方が

変わらないうちから、

 

湧き出てくる感情だけ変えることは

まず無理です。

 

しかしそれをどう表現するか(しないか)は

自ら選択できます。

 

胸の中に渦巻く、

決して味わいたくはない感情を

否定することなく、認めてやり、

 

その一方で、外部への放出は徹底して

自分の利益になるような振る舞いと

することです。

 

日和見主義とか風見鶏とか、

そんなことを気にする必要はありません。

 

③自分を変えるとは、

今の自分とは別の自分にする・なる

ことではないということを、

しっかりと認識すること。

 

自分の中にずっとある、

自分が過去に紡いだ様々なシーンと

そこにいた自分を一つ一つ思い出し、

 

邂逅し、感動し、

自らに統合していくことなんです。

 

これらが進むと、

それまで感じていた生きづらさの中に

光が感じられるようになります。

 

試してみてください。

 

 

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大切な人。

 

ほとんどの方にとってそれは、

親や兄弟姉妹などの肉親であり、

伴侶や恋人、無二の親友だと思います。

 

大切である人々との関係に苦しむことは、

誰にとっても避けたいもの。

 

その一方で、

肉親であれ、長い付き合いであれ、

人と人とが緊密に接するということは

 

意見の食い違い、気持ちのすれ違い、

時には大きな衝突の可能性を孕むことも

当然ながらあるでしょう。

 

そうやってことが起こった結果を踏まえて、

 

新しい関係を築くなり

別の道を歩むなりと言うこともまた、

起こりえるでしょうし、

 

それを一つの分岐点として

新しい人生を歩むことになるのであれば、

 

それもまた、

その人らしさを形作る道のりかもしれません。

 

ただ、関係が近いほど、

そういった割り切りが難しいのもまた

世の常だと思います。

 

 

大切な人との関係を良いものにしたい、

良い関係を続けたい、

というのは誰もが願うことでしょう。

 

ただ人によっては、

その関係を維持するために

自分自身の言動が、そして日常が

おかしくなってしまっている人もいて、

 

しかもその人はそのこと、

つまりおかしくなっていることと

自身の言動がリンクしていることに

気づきません。

 

自分の本音とはあまりにかけ離れた

態度や言葉の選択は誰もが経験するかも

しれません。

 

そうは言ってもこの場ではね、

と言った感じで。

 

しかし、

 

それが無意識のうちに行き過ぎてしまい、

自分や取り巻きの不利益を被らせてしまう、

となってくると話は穏やかではありません。

 

例えば、典型的な例として

アルコール依存症の夫を支える妻や

その家庭で育つ子供などが

 

必死に家庭を維持しようとする時に、

該当するわけですが、

 

このような専門的、医療的症例でなくとも

日常の中でいくつでも例は見つかります。

 

仕事を維持するため、

恋人に見捨てられないため、

当座のお金を得るため、

友人の輪から外されないため、

消えてなくなったものを未だに守ろうとするため、

 

無用の長物と化した努力をしたり

(私がそうでした)、

 

ものの見方を思い切り歪めて受け取ったり、

発言したり、行動したり、

 

半ば破綻したはしゃぎ方をして、

内面を誤魔化したり

(鬱病を隠す典型です)、

 

ともかく傍から見れば明らかに

奇妙に映ったり、迷惑なだけだったり、

といったことを日常的に行っていて、

 

しかも当人からするとそれらの行動は、

自分に嘘偽りなく取ったものと思い込んで

行っていたりします。

 

このような行動や解釈を

メタファ(暗喩)と言います。

 

一見おかしく見える言動の裏には

隠れた意味が存在していて、

その意味は当人だけがわかる、

 

しかも当人にとっては、

大切な人との関係を維持するための

最重要なミッションだったりするわけです。

 

私たちは大人になって、

他者の助けを借りながら、

何とか自分の足で人生を歩みます。

 

当然、苦しいことや辛いことは

誰にでも起きるわけですが、

 

そんなとき、

無意識に大切な誰かと繋がることで

当座の不安を和らげたいと感じるのは

人の性でもあるのかもしれません。

 

しかし、その関係を維持することそのものを

目的にすり替えて、

大切な人に人生を預けることは、

 

結果としてあなただけでなく、

その大切な相手をも蝕んでいくことに

なってしまいます。

 

大切な人、愛する人と

適切につながるためにできることは、

拙かろうが、不安だろうが、

まずは自分と自分との関係を最重要視し、

そこから湧き出でてくる理解と想いをもとに

生きようとすることに尽きるのではないでしょうか。

 

 

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