私たち誰もが内包するエラーがあります。
誰もが間違う。
ミスる。
勘違いする。
トラブり、凹み、怒り、哀しみ、焦り、卑下する。
ここまではよくあること。
ですが、この苦痛が続くうち、
自分の存在に対して
懐疑的になることがあります。
なぜこんなに苦しいんだ、
どうしてこんなにダメなんだ、
消えてしまった方がいいんじゃないか、
など。
そしてしまいには、
自分は生きていていいんだろうか、
とまで思うようになるものです。
これを、エラーと呼びます。
気づくと、
望ましくない状況・状態で
自分自身を受け止めていること、
と言い換えられるかもしれません。
人の行為に腹が立って仕方がない、
自分が惨めに感じて人前に出られない、
自分がくずに思えて仕方がない、
大切な人を助けてあげられない無価値な自分、
などなど、
日々が生きづらくなるような受け止め方
ばかりですね。
これが日常の中で継続的に形を変えて
あらわれるなら、
エラーを起こした自分に対して、
繰り返しいたぶるようなことを
していないか、といったように、
たちどまって振り返ってみては、
という問いかけ、
と受け止めてみてはいかがでしょうか。
エラー。
何かをして、あるいはしなくて、
自分または他の誰かを傷つけたり
することもあるかもしれません。
でも、
さりげない一言が相手を傷つけた、
相手を思いやった行動が結果として
不和を招いた、
などは、もちろんエラーの範疇には
入りません。
それでも、もし今あなたが自分の存在に
猜疑心を持ってしまっているなら、
つまり自分を消してしまいたい、とか、
ひどい奴だ、とかいった感覚を
抱いているのであれば、
その感覚はエラーです。
自分が『まともではない』と感じていて、
それがこの感覚を
呼び寄せてしまっているのだ、と
私は思うのです。
自分の存在に対して
猜疑心に囚われている人は少なくなくて、
ただ、そのあらわれ方は、自分に向かず
他者や社会に向いていることもあります。
人は必要のないことはやりません。
猜疑の念を抱く人は、
そういう見方を過去に必要とした時期が
あったのでしょう。
その結果、自らを
『まともじゃない』んだ、
と受け止めてしまっている。。。
しかしですね、
考えてみてください。
自分に起こった出来事によって
苦痛で苦しんでいるし、
哀しくて哀しんでいるし、
あまりに意に添わなかったり、
ひどいと感じて
怒ったりしているのではないでしょうか。
つまり哀しむ理由と哀しいという感情、
苦しいという理由と苦しいという感情、
ひどいと感じる理由と怒りの感情、
といったように、
理由と感情とがきちんと結びついている。
その受け止め方、表現の仕方は
とりあえず脇に置いたとして、
これほど“まとも”なこともありませんよね。
生きていく上で、
これ以上に“まとも”であることを
求める必要などないと思うのです。
ただ、
自分の中に湧き出してくる怒りや哀しみ、
苦痛の感情に苦しんでいることについては、
いくつかの出来事の連なりが長く続いて、
大元の原因がみえなくなってしまっている
こともあるでしょう。
猜疑に走ると、人は際限なく
自分も他人も追い込んでしまいます。
そして、その先に未来はありません。
数段上に、
「表現の仕方はまず脇に置いたとして」
と記載しましたが、
“まとも”であっても、
外部に対する表現の仕方はそれとは別に
工夫が必要ですが、
それはまともな自分と相談して考えればいい。
いずれにしても、私たちは、
泣いて、怒って、拗ねて、僻んで、落ち込んで、
自分がどっかでおかしいんじゃないかと
心配になって、びくついて、お先真っ暗と絶望して…。
この世の中で生きていて、
全くこうならない方がおかしい気がします。
……でも、そこまでまともじゃなきゃ
いかんのかな?
自分の内側から湧き出る力で人生を生きる
MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください
https://nakatanihidetaka.com/meeting/
個人の相談はこちらへどうぞ
https://nakatanihidetaka.com/business/