町に暮らしているせいで

そう感じるわけでもないのだろうけれど、

アスファルトや

コンクリートブロックの隙間に

小さな草花が咲いていると、

何となく目が行きます。

 

ほぼ全ての人は素通りするし、

目についた私も別に

それを見つけたからといって、

人ごみの中で突然しゃがみ込んで

じっと見入ったりはしません。

 

でも、

社会人になりたての頃、

こんな場所、つまり、

アスファルトやコンクリートの隙間に

生えている草花に見入っていた、

そんな時期があったことを覚えています。

 

 

当時住んでいた町の駅から

自分の住む部屋までの往復に

古い空き家が並ぶ裏路地があって、

コンクリート塀と

玄関へ通じるブロックタイルの間に

数滴の緑を固めたような小さな雑草が

生えている場所がありました。

 

仕事帰りによく、

そこに咲く小指の詰めよりも小さな花に

見入ってしまい、

小一時間ほどもそんな場所に腰を下ろして

本を読んだり、煙草をふかしながら

ぼんやりと座っていたものです。

 

本当に、何をするわけでもなく

ただひたすらそこに座り込んでいた

普段着の若造の姿に、

家路を急ぐサラリーマンや主婦などの

通行人が奇異な視線を向けたけれど、

そんなことも気になりませんでした。

 

そういう視線に反応する気力もないほど

心の中のある部分が

弱り果てていたのでしょう。

 

自分が座るすぐ脇に、

まさにこの世の誰にとっても

どうでもいいような草が

彼らにとって悪条件であるはずの

人工的な空間に存在して、

時に小さな花を付けて

自分の横で生きている、

そんな状況に

奇妙な親近感と落ち着きを覚えていました。

 

原家族がおかしくなって、

そのことにダメージを受けながら、

何もすることができずに

ただいじけて腹を立てて、

感傷に浸っていた、

そんな自分にとって、

そこは、当時、

居場所と感じていた数少ない場所でした。

 

これは久しく忘れていた光景です。

 

傍から見れば

その光景は、そして当時の私は、

暗くて、

孤独で、

ある意味危なくて、

独りよがりで、

人によっては近寄りたくない

若造だったと思います。

 

そして、このことを思い出した時、

私は、

当時の私、

今よりずっと若くて、

格好悪くて、

一人孤独だった私のことが

気に入ってしまいました。

 

私の感性、

私の思い込み、

私の独りよがり

私が大切にしていた存在の歪み、

悲壮感、

被害者意識、

 

そういった諸々を抱えて昇華しきれずに

生きづらさの中にもがいていた私自身が

あまりに身近に感じられたのかもしれません。

 

それは

今のこの自分につながる

私にとってのとても大切な存在なのです。

 

私が私である以上、

そんな一時期を過ごした当時の私は、

決して自分の一部として外すことのできない

存在で、

それが今を取り巻く世界とのつながり方の

根っこの一部にあります。

 

もしまた、

この部分の私を見失ったり遠ざけたりすれば

自分にとって何が大切で必要かという

私自身の基準と

かけがえのない自分という存在の一部をも

見失ってしまい、

それを思い出させようと

闇の世界が現れるはずです。

 

過去の私の物語は、

話して受けるような、

そんな類のものでないことは

読んでいただいた通りです。

 

今回の話などはその最たる一つで、

当時の私自身が、

自分に対して素直に認められないまま

そう感じていた感情でもありました。

 

リア充の方から見ればきっと、

「暇人だよ」

の一言で片づけられてしまうでしょうね。

 

そうかもしれません。

何をする気力も湧かなくて、

ただそうやっていても生きていられる、

そんな生活ができていたのですから。

 

今わかることは、

そう感じていた自分が

どれだけ自分自身を

世の中の基準で批評していたか、

ということです。

 

元気が出ないまま

自分なりに取った行動に対して、

そんな行動をした自分を忌み嫌うことなく、

一緒に寄り添いながら、

自分がなぜそうしているのかを

自分自身に問いかけ続けることで、

自分のそれまでの歩みと

今の自分にとっての

最も大切な解が得られるのですが、

 

そのことを体得するまでに

ちょっとばかり時間を要してしまいました。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

 

抱える問題があまりに大きすぎて

真正面から向き合えないとき、

私たちはアディクションに陥る

ことがあります。

アディクションは嗜癖とも呼ばれ、

何らかの依存を伴う行為です。

 

アディクションに陥るような場合、

抱える問題の本質を、

明確に認識できていないことが多くて、

目の前にある問題と思えること

すり替えてしまって

それに一生懸命対処しようとしたりします。

光の当たっている場所で問題を探している

ということですね。

 

で、

すり替えてしまっているものだから、

その問題自体が仮に解決しても、

すぐ別の何かが問題として認識されて

 感情を害するような、

 

 混乱とも焦燥感を催すような

 次の問題が目の前に登場する

 これが繰り返されることになります。

 厄介ですね。

 

アディクション(依存症)は

私たちが陥りがちな

意志の力で自分を制御できるという勘違いと

制御を失敗しては湧き上がる感情が

行き着いた先の言動をデフォルメして

表現している、

とても簡単に言うと、そういうことです。

 

 依存症自体は、

十分世の中に広まった言葉と概念ですが、

その意味合いをきちんと語っている場が

少ないように思います。

 

依存症は、昔は中毒と呼ばれていました。

アルコール中毒、薬物中毒といった具合。

依存症という症状が、

主に物質を体に取り入れる、

取り込み型をメインに考えられていた

頃のことです。

 

 中毒が依存症という表現に変わったのが、

そのイメージの間違いというか

不十分さによるものかはわかりません。

 

ただ、そこに含まれる

無意識の能動性のような部分は、

依存という言葉を使用した方が

妥当であるとは思います。

 

 人は無駄なことはしません。

 

 その人がどこまで意識しているかはともかく、

そこには、

もう一つ別の意味があります。

 

当人がそうなってしまう原因となった出来事と

その結果抱えた心の痛みを、

何とか克服しようとする当人なりの

『自己治療』であるということです。

 

先程、

無意識の能動性という表現を用いて

その行為を当人が選択したことを示しました。

 

『自己治療』には、前述のとおり、

現在では病気と捉えられるような

大きなものから、

日常の中で陥っている些細な行為や発想まで

様々なものがあります。

 

 『自己治療』とはどんなことか、

アルコールや薬物のような、

極端な症例を離れて、

日常に溶け込みやすい、

一見軽い2つの例を示します。

 

依存症とは、

それがないと日常が回っていかない、

下手をすると生きていけないほど、

自分の心身がとらわれている状況を

示しますが、

 

そこまでいかなくても、

何となしの生きづらさや、行き詰まり感を

演出するもとになっていることもあります。

 

 <例1:テレビ>

 テレビ鑑賞自体が

依存症なのではありません。

 

 仕事帰りから寝るまで、

あるいは休日の日がな一日、

何が見たいわけでもなく、

見ていて楽しいわけでもなく、

 

心のどこかで、

落ち着かなさ、

イライラ、

不安、

そういった感情のノイズがあって

それらをかき消す手段として

ほとんど習慣的にテレビを見ていることは

あったりします。

 

本当は対峙する必要がある問題を否認して、

貴重な時間を費やしているわけです。

 

ですが、テレビを見ている間だけは

問題に直面して

“当面の”感情と日常生活を壊さずに

すみます。

その時々の感情を麻痺させながら

本質的な問題を先送りするうち、

徐々に心身を蝕んでいきます。

 

 <例2:自己の蔑み>

 何か問題が起こると、

 すぐ自分のせいだと責めます。

 

 厄介なのは、

 自分のせいだと純粋に反省して、

 次からそうならないようにしよう、

 とはならずに、

 自分を蔑むことです。

 

 厄介だといったのは、

 自分の蔑みが、

 どこかで自分を蔑ませる羽目になった

 誰かへの怒りにもつながっていることで、

 

 そこには、心の中に

 被害者としての自分という

 隠れ家、逃げ場としての

 自分の位置を確保していたりします。

 

本質的に、問題が起こった時の自分は

 常に被害者と位置付けているので、

 当人の中では常に自分は

無力な子供のままです。

 

 

 自己治療するということは、

その根っこに治療が必要と本人が感じる

苦痛の感情が横たわっていて、

それを認識できていない、

というより、

無意識が認識を拒んでいることが

多いものです。

 

 例え自分にとって害があることであっても

これをやらないと身が、心がもたない

だからそうしているのに、

好きだからやっている、

とすり替えることもあります。

 

自己治療と書いた通り、

我流ながら、

治療が必要と当人の無意識が判断して

心のモルヒネを求めている。

 

治療かもしれないけれど、

処方自体を勘違いしているから、

短期的な効き目の確保を行ううち、

長期的に取り返しのつかない時間を

生み出してしまっている。

 

人の関係やお金の巡り、体調、未来、

そういったところにほころびを感じ、

それを他責にしているなら、

一度振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

 大人になると特にそうかもしれませんが、

働くにしろ、

家事育児にしろ、

どうしても、

時間と責任

この2つに追われることになります。

 

そんな日々にあくせくする中で、

つい余裕を見失いがちで、

そこに湧き出す自他への批判が増幅すると、

満たされ感はどこかに行ってしまいます。

 

 普通に生きていてもそうなのに、

人生への行き詰まり感や

絶望感を

抱えた方々に至っては、

何をしてもどこか、

虚ろ、

胡散臭い、

空々しい、

などと感じていることもあって、

満たされた感覚は

既に遠い存在になっているかもしれません。

 

安心して落ち着いた感じも

そこに当たり前にいることが当たり前

という感覚以前の感覚も、

感じられない。

 

もちろん楽しさや充実感など、

かけらも得られない状態。

それは裏を返せば、

あなた自身があなたの中に実は存在している

満たされた自分と繋がってないから。

 

そんなもんない!

 そう聞こえてきそうです。

 そんなの絶対にない!

そうですか…。

 

私もまたそんな感じでした。

そんなもんない!って。

そんな自分、どこにいるんだって。

 

今振り返ると、

たとえあったとしても、

認めてなんてやるもんか、と。

そうしないと、

今既におかしくなっている

自分が存在するこの世界が、

さらにおかしくなってしまうじゃないか、と。

 

満たされた自分とつながった感覚。

別の言葉で言えば、

自分が自分であることで十分である

ということ。

 

考えてみれば

不思議な感覚ではないでしょうか。

自分が自分であるということは、

いつも言うように

あらゆる自分自身を受けれている

ということですが、

 

当然その中には

自分とは良い関係の自分であっても、

自分以外とはうまくつきあえない自分もいて

そんな自分も受け入れるとしているわけです。

 

例えば。

 

会社の仕事でミスばかりしている自分。

ミスを注意されてむかっ腹を立て、

ふてくされている自分。

悔しくていつまでも引きずる自分。

それにもかかわらず

出来るようになろうと思わない自分。

人と交わることができなくなる自分。

あるいは、

友人からの嫌味にいつまでも

うじうじしている自分。

それが高じて、恨みを募らせる自分。

やがて孤立してしまう自分。

それでも自分の非を認めない自分。

さらには被害者を演出して相手を悪者に

仕立て上げようともくろむ自分。

 

自分がもう一人の自分として

そんな自分といたら

ちょっと待ってくれ、と

距離を置きたくなりかねない、

そんな自分たち。

 

でも、正当化に走ることなく、

そんな自分たちを

丸ごと受け入れることを

繰り返し続けていると、

それまで漠然と持っていた

不安や罪悪感が薄められていったり、

見ないようにしていたものが見えてきたり、

新しくも懐かしい感覚が芽生えてきたり

ということが起こります。

 

どれも

かつて自分の中にあったものですが、

それらがまた自分の前に現れてくるのです。

そして、自分の中に余裕が出てきます。

自分の中に余裕が生まれ、

自分を受け入れ続けると、

 

同じように未熟だったり

反感を持ったりしていた周囲の人々や

かつての出来事などを

許せるようになったり、

どうでもよくなったり、

自分が理解してもらえなかった想いや善意を

実は別の形で

相手も見せていたことに気づいたり、

気づかないまでも

見せていたのかな、

と思えるようになるわけです。

 

それは決して、

理屈でそうなるわけではなく、

自分の変化に従って、

そう受け止めることが自然な流れだと

感じてそうなるのです。

 

そうやって、

自分としっかりつながった自分が

他者や社会や自然に対して、

これまで持っていた

不快な感覚が薄らいでいくと、

見えない世界の闇の部分を

無理やりかき分けてでも

動いていく必要を感じなくなります。

 

言い換えれば、

焦りとか失望を動機に

無理やり動くことが減っていく、

ということです。

 

すると霧に煙っていた世界の中で、

なんだか自分は許されて、

歓迎されて佇んでいるんだと

感じるようになります。

霧は、

ほんとは目の前にあるのに、

見ないようにあなたが作り出した目隠しで、

やがてタイムラグを経て、

霧が取り除かれていくと、

そこには

過去や今の自分がかかわった

素敵なシーンや

大切な自分そのものが、

社会の中や人々ともかかわる中で

感じられるようになって、

何かをしなきゃという強迫性が

去っていきます。

 

自分は満たされいるのだ、と。

そう感じるようになるときです。

 

ちょっとだけ、満たされ感を探してみませんか。

 

そんなもんない!

いえ、

そんなこと、なくはないです。

 

人生は物語だとよく言われます。

私はそれでいいと思います。

その物語はすべて、

自分が生み出していると

理屈を超えて感じられるようになれば、

今のその

そんなもんない!

と感じている世界もまた

自分が自分にそう見せているだけだと

思えるようになります。

 

あなたの作った物語が、

思い切り顔をそむけて見ないようにしてる

そんなストーリーならば、

そろそろおわりにしましょう。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

それは正論なんだけど

何となく受け入れられない。

そういうことってありますよね。

 

理解するというロジックと

納得するという感覚。

二つを満足させるために必要なこと。

それがないと双方に有効に働きかけられない。

では、それとは何か。

それは『信じられるようになること』。

 

胡散臭く感じるかもしれません。

それは、例えば、

 

信じたことが叶わなかったから、

信じた者に裏切られた経験があるから、

信じることで異様な束縛を感じ取るから、

 

だったりするのかもしれません。

 

唐突ですが、

漫画ドラえもんの登場人物である

のび太君とママの会話です。

 

のび太ママ:

「ママが子供のころは戦争があってね。

食べ物もろくになかったの。

だからご飯残したりしちゃダメでしょ。

のびちゃんはうちに食べ物がなくなったら

どうするつもり?」

のび太:

「近所のラーメン屋さんに食べに行く!

おいしいお店があるから行こうよ」

 

ちょっと考えてみていただきたいのですが、

のび太君はママのことを

どう感じているでしょう。

 

仮にのび太君がママから

受け入れられていないと感じていたら、

 

あるいは、

本当は別の問題で腹を立てているのに、

八つ当たりばかりされたり、

いつもパパとけんかばかりして

のび太君を悲しませていたり、

 

躾や教育と称して

引っ叩いたり怒鳴ったりするのに、

なぜかいつも不幸そうだったり、

 

不倫して家にあまりいなかったり、

自分で解決できない問題があると

泣きながらのび太君に縋ってきたり、

 

もし仮に、のび太ママがそんな人だったら、

どんな正論を言ってこられても、

きっと受け入れられないでしょう。

 

おじいちゃんとおばあちゃんがいたから、

お父さんとお母さんがいたから、

国があったから、

食べ物があったから、

何があったから、

何が良かったから、

あなたは今生きていられるのだから、

文句を言わないで頑張りなさい…。

 

「それってさ、実は順序が逆じゃない?」

そう思ったりしないでしょうか。

 

そう言うけれど、

 

なんでそんなにいつも苦しんでいるの?

なんでそんなにいつも悲しんでいるの?

なんでそんなにいつも怒っているの?

なんでボクをワタシをそんなに悲しませるの?

 

ボクの、ワタシの存在は、想いは、願いは、

誰がどこで認めてくれるの?

誰がどこで受け入れてくれるの?

 

そんな疑問が解けないままの状態で、

“これ以上”何に感謝するの?

“これ以上”何をすればいいの?

何をどうしたら、ボクはワタシは、

悲しまないですむの?

何をどうしたら、パパもママも

これ以上苦しまないですむの?

 

いかがでしょう。

 

自分の存在がとても、軽く、希薄に、

感じられる社会では、

 

自分そのものがともすれば社会の隅の付属物

としか感じられず、

先の言葉“順序が逆…”は。

学校や塾や家庭や会社や、

そういった自分が所属するはずの場所で

空っぽの自分に向けて

いくつもの“嘘”がぶつけられ続けた人の

正直な反応であり、

感想であると思うのです。

 

「それってさ、実は順序が逆じゃない?」

何か、絶対的なものが欠けている、

そんな感覚を言語化したらこんな言葉に

なるのではないでしょうか。

 

順序が逆だ、

と感じるのなら、

それはあなたにとって正しいと思います。

 

率直に、真摯に、自分の内面を見つめて、

正直に感じるのなら、それはきっと

あなたにとっての真実です。

 

程度の差こそあれ、

それが日常に影響を与えるほどに

あなたの感情と体を苦しめているのなら、

それは間違いなくあなたにとって、

“最優先で対処”すべきことだと思います。

 

その根底にあるのは、

自分が認められていない、

自分が受け入れられていない、

そういうことでした。

 

それを自分で行うのです。

 

自分で自分を認め、受け入れていくのです。

 

順序が逆、と感じて、

自分を苦しめた相手に憤る自分を含めて。

きっと一筋縄ではいきませんが、

 

それでも受け入れが始まると、

それまで全く無視したままだった自分が

他に何人も出てきます。

 

そこでかつてのように遠ざけることなく、

ひたすらにその至らない自分たちを

自分の一部だと抱きしめ続けていくと、

やがて、不思議なことが起こります。

 

許しを感じるようになります。

 

あなたは既に許されていて、

世の中の大切な一部として

最初から受け入れられていたことを

体の芯で感じるようになるのです。

 

それはやがて感謝の念として

感じられるようになります。

自分を自分たらしめてくれていた自分と

あまりに不完全なはずの自分のそばに

いつもいてくれた存在への

静かではあるけれど、

深い感謝の念が湧き出てくるのです。

 

一言で言えば、

不完全な存在への慈しみの感覚であり、

不完全ながらそこにいてくれた自分、

不完全ながらそこにいてくれた存在、

そうやって成り立っている世界、

 

それらが皆、

大切に感じられるようになります。

 

その時、例えば親に向けて

こう感じるようになるかもしれません。

 

この人たち、こんな

いつも怒っていて、

いつも騙し騙されで生きていて

いつも泣いてばかりで

いつも人を悲しませるしかできなくて

いつも日々の生活に追われて苛立っていて、

いつも誰かと罵りあっていて

 

そんな不完全な状態で、

 

自分を産んでくれた、

ミルクを与え、着ぐるみを着せて

ここまで育ててくれた、

話をしてくれた、

ひたすらに与えてくれた…。

 

彼らが出してきたものが歪んでいたことへの

反感と不足は

歪んだ状態ではあっても

 

彼らにとっての精一杯の愛情表現だったのだ、

と彼らの限界とともに

自分の一部として引き受けようと

思えるようになるかもしれません。

 

自分を意に沿わない不完全さにした、

という受け止め方を

傲慢だと思えるような幸運が

舞い降りてくることだった

あるかもしれません。

 

 そして、こう思うはずです。

 私は、そうやって彼らを信じ、

家族を信じ、

世の中を信じていきてきたんだ、と。

 

少なくとも、

そう信じて自分はここまで生きてきた、と。

 

ならば今だって、

そんな自分を信じることはできる、と。

 

あとは、

自分が自分に与えられた力と、

足りないものはこれから開発して、

これから行うことによって、

自分が望む人生に近づけるように、

歩ていけるようになることだ、

それは決して不可能じゃない、と。

 

不思議ですね。

順序が逆、を認めてそれに従ったら、

ぐるりと回って、

順序通りになりました。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

人は群れを作る生き物である、

といいます。

 

群れとは集団ですね。

 

集団の構成は、

会社のように仕事でかかわるもの、

友達、

近隣の生活空間、

趣味/スポーツなどいろいろとあります。

 

つまり、人が集団になって行うことの

メリットを見出して、

“群れ”ているわけです。

 

では、メリットとは何か。

会社を例に考えてみると…。

 

・規模の経済

              集団、特に大きな組織は体力的に有利。

安定した経営と雇用が期待できる。

余力が得られやすい。

 

・専門性

              各自が得意な部分の力を出し合って

              弱点は相互に補完

 

要するに、

 

糧のもととなるお金を得るため、

特別に秀でた才能を開発しなくても、

できるだけ多くの人が生きていけるように

するための、

 

効率的な方法として

集団があるわけですね。

 

家族もまた集団の一つですが、

歴史学者のエマニュエルトッド氏によれば、

家族は、大家族化が最も新しく、

核家族は最も古い形態だと

言っておられます。

 

 

本当に心身が弱っていると、

群れようにも群れる気力がない、

群れること自体に怖さをおぼえてしまう

という人のことが語られるのは、

心理カウンセリングとか

精神医療の領域ではよくみられます。

 

群れる効用、

群れない効用

群れから離れる効用、

それぞれあるでしょう。

 

もちろん弊害もあります。

どれがいい、ということではありません。

向き不向きもあるでしょうし。

 

ただ、世の中の悩みのほとんどは、

群れに所属することに関している、

と思います。

 

どうにもなじまないはずの集団に

ずっと居続けるということは

そこに居たくないという切なる願い以上に

そこに自分が留まらざるを得ないと

自分自身に思い込ませるだけの

モノの見方・感じ方・世界観が

記憶感覚に染み入っているのでしょう。

 

そういった自分を含め、

自分を受け入れる作業の継続は、

自分が快適と思える場所を求めて

行動を始めることに寄与し、

変化を促すようになります。

 

集団とソロとは

目的に向けて何をどうするにしても、

立ち位置が違うだけです。

 

集団を抜け出すというイメージで

ソロの活動を目指すと、

ある所まで行ってから

はて自分は何がやりたいのだろうと

行き詰まることがあります。

 

集団か一人かの選択の前に、

自分が望んでいるものを

ぼんやりとでいいから描くことが

大切な理由がここにあります。

 

自分の望みを知ると、

それに向けて進む原動力が得られて

では次にどうやって実現していくか、

というステップで群れ方を決めると、

集団とか一人とかに

あまり悩まないようになります。

 

そういうわけで、

群れの良し悪しの決着を

それとなく想定しておられた方、

ごめんなさい。

群れも一人も使い方次第という落ちでした。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

40歳を過ぎると、若い頃のような

肉体の回復力はなかなか望めないものです。

 

私は50歳になっても

ジョギングをしているので、

5㎞や10㎞くらいは普通に走るけど、

 

回復に時間がかかるようになり、

“余力”がなくなっていることに気づきます。

 

そしてこう感じました。

ああ、体は衰えるんだなあ、と。

 

ですが、

 

「もう○○歳だから、××できない」

あまりに何度もそう言われるたび

不思議に思ったりもします。

 

私は、

原家族の離散と、肉親の自死の

経験を経て、

 

そのつらさをきちんと受け止めて、

自分の一部とできるまで、

 

どこかでその経験を

 

・何かができないこと

・何かがうまくいかないこと

・何かに踏み出せないこと

 

の免罪符にしていたなと思います。

 

その時期が必要だったから

そうしていたのだと思いますし、

その時の自分を責めるつもりもありません。

 

ただ、自分がそうやっていることが

免罪符という欺きであるということを

最初から知っていたら、

もう少し早く動き出せていたようにも

思います。

 

それは、

ムリして自分を蹴飛ばしてでも

動き出していた、

などと言う意味ではありません。

 

元気が出ない、は

元気を出したくない、

でもあると思います。

 

それをぐるりと裏返すために、

元気を出せる自分がいない、

ということで

自分を受け入れる必要性が見えてきます。

 

今の自分の状態を作っていることとの

関連性に気づくと、

 

自分以外の他者やシステムに対して

文句を言う労力がもったいなく

感じるようになります。

 

自分が自分で変化できることが

身にしみてわかるからです。

自分が自分で求める自分になり、

 

自分が求める世界に向かい、

自分が求める未来を実現できる、

という確信に気づくようになるからです。

 

この領域に、年齢は関係ありません。

 

自分にとっての事実・事情を知ること、

そしてその自分を受け入れること、

自分の一部とすること、

 

これを繰り返していくことで、

年齢の言い訳は必要なくなります。

 

やってみて、

できないことはできない、

それだけだからです。

 

そして、

ただ、怖いのだ、と気づくようになる。

怖さ、恐れること自体は

何も恥ずかしいことじゃありません。

 

人は必ずこの恐れにたどり着きます。

 

それを消化する過程で、

恐れは畏れに変わり、

 

変えられないものと戦うのではなく、

変えられる自分に焦点を当てて、

行動するようになる。

 

このプロセスの中で自分を取り戻し、

世の中で自信と言われる感覚も

少しずつ醸成されていくのではないでしょうか。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

 

パソコンとネットワークが

日常生活に普通にあるようになって

30年くらいでしょうか。

 

iPhoneやスマホは

どのくらいになりますかね。

15年くらい経ったかな? 

 

年齢・性別・職業・性癖等にもよりますが、

パソコンやスマートフォンを使わない、

ネットワークを利用しない日は

おそらくないのではないでしょうか。

 

このブログもそうですが、

世界中を電波が飛び交い、

どこにいても

必要な情報が無線で入手可能な世界も、

 

40年前には

研究所の1テーマでしかなかったものが

現実になったということです。

 

当時、私はそんなテーマの末席に加わる

うだつの上がらないサラリーマンでしたが、

当時の秀才たちはもしかすると、

こんな世界を思い描いていたのかも。

 

情報の授受という意味で、

本当に便利な世の中になったと思います。

 

 ★

 

 2020年にコロナ禍で大手企業を中心に

在宅型のリモートワークの導入が

加速されてました。

 

以降、個人のビジネスでも、

セミナーやミーティングなどを

Skype、Zoomなどの

ネットワークツールを用いて

遠隔会議の形で行われています。

 

私のところでもまた、

理系であるにもかかわらず、

パソコン音痴の頭をフル回転させて、

SkypeやZoomを度々利用しています。

 

 電子ネットワークの世界、凄いですね。

 

 好きな人は本当に

この世界にのめりこむように入り浸って、

時が過ぎるのも忘れている。

 

 文系と理系、

製造業、金融業、個人事業、

主婦(夫)に公務員、

技術と営業と経営と経理、

職業も職種もその形態も含めて、

世の中にはほんとうに

いろいろな仕事があるものです。

 

その中で、

 

仕事がうまくいかない、

人の関係がつらい、

行き詰ってどうしようもない、と

いう方もまた少なくありません。

 

特に、コロナ禍当時は、

人類史上初めて、

会いたい健康な人同士が

互いの都合がつくときにさえ

会うことができない状況をもたらしました。

 

これは、人類の解明した知識によって

人の命を守ろうとした結果です。

 

同じ英知がもたらした利便性が、

私たちをバーチャルな世界に留め置いたまま

人とつながることを

可能にしてもいるわけですが、

本来の五感への訴求ではないことが、

今とこれからに向けた現実感を

乏しくさせているのも事実です。

 

 こんな状況では特にですが、

行き詰ったとき処方箋の一つとして、

自然にふれることがよく言われます。

 

 でも、自然にふれる…

 具体的なようでいて、

実はとても抽象的な表現ですよね。

 

ふれる自然としてイメージされるのは、

人によってそれこそ、千差万別ですから。

 

 私は私自身が慣れ親しんできた

自然が大好きです。

 

 そして自分が行き詰った時に

 そこに自分を置くことは、

処方箋の一つでもあります。

 

 ナイアガラの滝やオーロラ、

アフリカのサバンナや

エメラルドグリーンの南の海なんかを見れば

きっと大感激すると思いますが、

それよりも自分が子供のころから接してきた

すぐそこにある自然が好きなんです。

 

 『バカの壁』の著者である養老先生は、

ご自身の幸福論の中で

「まち、ときどき森」として、

参勤交代のように

各人が定期的にまちと森(自然)の

双方の環境で

暮らすことを勧めています。

 

私たちの悩みは人間関係に帰結する、

そして人工的に作り上げた都市と

そこで展開される人の関係と異なる

自然と接することが、

悩みへの対処方法の一つだと述べています。

 

ですから、

都市の住人は田舎にも家(別荘)を持て、

そして定期的にそこで暮らせ、と。

そうすると、

何がおかしいか見えてくる、と。

そうおっしゃっています。

 

 なるほど。

都会と田舎に家を持て。

 

できる人はいいと思います。

実際にそうされている人もいます。

 

でも、できない人、

やりたくない人も

いると思います。

 

一つ言えることは、

自然とふれることの意義、威力です。

先に自然にふれるという表現が

抽象的だと言いました。

 

では、皆さんは自然にふれていますか。

にっちもさっちもいかないとき、

自然にふれに出かけますか。

ふれる方は、

どんな自然とどのようにふれますか。

 

自然は私たちの体も含めて、

人工物とは関係なく独自に生きています。

 

だからこそ、

人工的なシステムの中で

ともすれば苦しむ自分の

心、体、魂を休ませたり、

喜ばせたりするために、

 

自然にふれることは

多くの人にとって有益というか大切です。

 

私たちは、

母親の母体という自然から生まれて、

人工的なシステムの中で自然を知り、

そこから徐々に離れていく

暮らしをしがちです。

 

少なくとも町の生活者は

そうではないでしょうか。

 

だとすれば、

私たちと自然をつなぐポイントは、

私たちが人生のごく初期にふれ合った

自然との関係にあると思います。

 

私なら、先に挙げたように

街の中を流れる川や、

そこに生きる魚たち、

 

あるいは、

 

夏の街路樹でないているセミや

道端の小さな草花にとまる蝶々や

街角の花壇や民家の庭先を彩る

四季折々の花の色や

香しい匂いや

遠くに見える山並みや

頭上に広がる空や流れる雲や

電線にとまる雀たちや

塀の隙間に入っていく猫や

真冬の午後に町を揺らす木枯らしとその音や

町中にカラフルな傘の群れを演出する雨や

 ……

 

 ほんとにいろいろありますよね。

 

 ほんの少し余裕をもって、

 ほんの少し意識を向ければ、

 私たちが求める意味での自然は

 先に書いた以外にも、

 実はすぐ身の回りにいくらでもあって、

 二十四時間、三百六十五日、

 目で見たり、

 耳で聞いたり、

 肌で感じたり、 

 何かしら感じられるものがあると思います。

 

 一応付け加えておくと、

季節の味を楽しんだり、

 土地のお酒を飲んだり、

 とここまで来ると微妙ですが、

 そんなことだってあると思います。

 

私が生まれ育った町は、

コンクリートに囲まれた

ガチガチの都会でしたが、

日本本州という温暖な気候の中では、

人工的に植えられたものも含めて

木々や草花が育ちやすい。

 

そんなところにやってくる

鳥や昆虫たち、

街はずれを流れる川で姿を見られる魚たちが

私の慣れ親しんだ自然です。

 

そう見てくると、

東京、関東は大都市圏であっても、

やはりそこかしこに自然が横たわっています。

 

川も海も山も森もちょっと足を延ばせば

すぐのところにあります。

 

自然とふれることという行為は、

何も気合を入れて行うものではありません。

 

昇る朝日や沈む夕日、

夜空に浮かぶ月を映して、

どんな雄大な観光地にも負けないくらい

素敵な景色を見せてくれます。

 

そこに生きる小さな生物たちを

追いかけ、

ふれ、

愛でるとき、

 

自分はこんな生き物よりちっぽけだな、

と感じます。

 

かつて大嫌いだった父や母が

彼らの貧しかった暮らしの中で、

遊び慣れ親しんだ自然と

同じ環境に身を置き続けると、

様々な問題に追い込まれた自分を

受け入れる必要性を感じ、

その先に、

大嫌い、

ではなく、

大好きの裏返しで

両親を見ていたことにたどり着きました。

 

私たちが生まれて

最初にふれた自然は、母親(母体)です。

 

与えられたのは、

まず自然としての生命です。

理屈抜きに自然と

身を任せるという信用(本能)を

原初の記憶に埋め込まれています。

 

だから、

人工的なシステムの中で生きるうち、

それと相いれない

自然としての自分があがいているのなら、

 

自然にふれるということを、

慣れ親しんだ状況をきっかけに

求めていくことはできないでしょうか。

 

それを繰り返す中で、

日々の人工的なシステムの中に

自分を新しく置きなおすことができれば

それでいいし、

 

もっとディープに

自然の世界を追い求めていくのもいい。

 

あるいはこれをきっかけに

人工的なシステムとのかかわり方を

変える行動をとることもあっていいと思います。

 

私たちのすぐ目の前には、

空も、海も、山も、川面、森も、水もあります。

そしてその中で、自然に一部である

私たち人間(の体)があります。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

 時折このブログでも使用する

『成長』

という言葉。

 

 これまで発信した記事から、

『成長』

という言葉を含むものを検索してみたら、

14記事出てきてしまった…。

 

誰だ、この標題つけたのは…。

 

 『成長』は、きっと、大切です。

 

成長とは自分らしく生きる方向への

変化のことであり、

納得した人生を歩むためには

多くの人に望まれることです。

 

 成長という意味での変化は

痛みを伴うこともあるけれど、

 

成長しているときにはその意味を

潜在意識は理解しているもので、

 

ただそれでも

「なんでこんなに苦しいのだろう」

と思いながら変化していきます。

 

でも、この言葉に限らず、

もっともなことを言っているとき、

その前提を無視しているときがある

ように思えます。

 

成長? 

変化? 

ごもっとも。

 

それでは、なんかわからないけれど、

そうやろうとすると何故だか萎えてしまう、

そんな人はどうしたらいいのでしょう、

 

気合が足りない?

本気じゃない?

人の話を聞いてない?

 

…そんなわけないはず……。

 

私にはそんな時期がありました…。

 

受け付けないのです。

理解できない。

心が拒否する。

でもなんか知らないけど、苦しんでいる。

そんな意味です。

 

私たちは、

人にはわからない、

人には言いたくない

(と思い込んでいる)

事情を抱えているからこそ

苦しみます。

 

あるいは、

その事情に対処する場所や

方法を知らないからこそ苦しみます。

 

孤立しがちな私たちの抱える問題は

実際には共有可能なことが多くて、

 

その対処方法は、

解決するというのではなく、

その問題との付き合い方というか

痛みをかわしながら接することで、

 

苦しいなりに人の中で

自分と仲良く過ごすよう試みることです。

 

でも、やっぱり難しい。

ともすれば、あらぬ方向に

感情が引きずられてしまうから。

 

そのとき、

自分なりに変化のための土壌を

準備せざるを得なくなるのです。

 

すぐ行動できない。

うまく話せない。

自分を卑下する。

 

そんな自分を受け入れて

変化をするためには、

まずスタートラインに並ぶ必要があります。

 

スタートラインとは、

それは、当人が苦しみの中で

悩みながらたどり着く場所で、

 

気が付いたら変化が始まっていることを

実感し始める場所でもあるのですが、

 

そこに至る前に何でもかんでも

成長と言えばよいものでもないと

思うのです。

 

受け入れる肥沃な土壌がない状態で

そんなこと言われても、

吸収されることなく漏れてしまうだけ。

 

それが成長を促された方の、

でもなかなか動き出せない方の、

率直な感覚で、

 

そこに理解がないと、

正しい行動教室みたいになってしまう。

 

もっとも、これは裏を返せば、

心と体がついていかない人たちは、

解を得るヒントになるかもしれませんが。

 

ほんと、成長って何でしょうね。

 

結局、

 

この世の中と折り合いをつけながら、

言い換えれば世の中に反応する複数の自分と

折り合いをつけながら、

 

それでも納得と満足のいく日々を

歩めるようになること、

それが成長なのかなと思います。

 

だから成長とはきっと、

外的な変化でもなければ、

社会的な地位の変化でもない、

 

心がタフになることもなければ

男らしさ、女らしさに捉われることでもない、

 

収入が上がることでもなければ、

表面的な付き合いの幅が広がることでもない。

 

ただ、あるがままの自分を随所で知り、

受け入れ続け、

生きていくことに他ならない。

 

自分の中で自分にしかわからない

事情に向き合って、

 

自分に必要なステップが何かを

見出すことは

自分にしかできないことなのです。

 

自分にとって次に必要なことは何か、

ただそれだけを意識してみましょう。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

 

 

 少し昔の本ですが

『大人のための頭の使い方』

(日下公人・和田秀樹共著)

という本で以下のことが語られています。

 

「…今は経済学にとって心理学が大事

というふうに変わってきています。

 

例えば、景気がいいの悪いのというけれども、

「不景気」なんて文学の用語であって、

GDPが3%以上あれば好景気だとかは

経済学の中では決まっていないんです。

昔だったら3%成長なんて

不景気だと思われた。

今3%だとみんな飛び上がって喜ぶでしょう。

すると「これはもう心理学じゃないか、

経済学と違うのでは」ということに

なってきたわけです。」

 

 ちょっぴり関連する話ですが、

日本の高度経済成長時代にサラリーマンとして

すでに働いていた方に伺ったところ、

彼の若かりし頃には、

毎年給料が10%くらい上がっていったそうです。

 

半世紀以上前の、

そんな頃の話なんてと言われると

返す言葉がないのですが、

そういう時代もあったということです。

 

 ★

 

 翻って日々の落ち込みから

慢性的な苦しさについて。

 

長く続く重苦しい感覚の原因もまた

その人ごとに様々あるでしょう。

 

そこにはともすれば、

他者との比較によって気持ちが

浮き沈みしてしまうような捉え方を

することもあったりするでしょう。

 

 どのくらいそう感じているか、

という判断は、

 

当人にとっての感じ方なのだから、

そこに文句をつけたところで始まらない。

 

というよりむしろ、

そこをいじくりまわそうとするから

おかしくなってしまう。

感じたことは感じたことですから。

 

「えっ、今? 結構落ち込んでるよ、

ていうか、無茶気分悪いよ、

だいたい‐4くらいかな」

 

と本人が感じているのなら、

それは当人にとっての事実。

 

そこは、

景気ではありませんが、

いじることができる数字ではない。

 

 疑うべきは、

その見方は本当に問題なのか、

ということ。

 

つまり、

そもそも焦点を当てるべきは

そこなのか、

ということです。

 

よく、悩みを持って来られる方の話は、

実際にはそこが悩みではない

ということが多々あります。

 

まさに、

「悩みはカモフラージュ」

「主訴は嘘」

 

わかりやすい例としては、

 

引きこもるお子様のことで

悩んでいるお母さんは、

実は冷え切った夫婦仲のことで

頭がいっぱいになっていて、

 

無意識のうちに

焦点をはぐらかしてしまっていた、

というものですね。

 

これは並行して走っている

“今”の事象の一部に目をつぶって

光の当てやすいところを見ている例です。

 

ですから、そのからくりを理解して、

自分を痛めつけているという事実に

気づくこと。

 

過去の学習が現在のものの見方を

作っていることを理解すること。

 

「お金がない」が口癖の家で育った子供は、

大人になってからも常に、

お金がない前提で行動します。

 

ある種の前提があたかもあらゆる場面で

一生そうであるかのように考え、

行動するようになるわけです。

 

当人は至極まじめに考えているから、

問題に気づくこともない。

 

そして、

何かがおかしい、

自分は騙されている、

原因はどこだ、と

周囲にアンテナを向けます。

 

でもそうじゃない。

How toの話でもない。

 

様々な問題に共通する取り組みとは、

 

問題の本質は自分を見失っていることであり、

それを認めたくない、気づかないゆえに、

光の当たった場所で探し物をしていて、

 

体力ばかり消耗する

(問題をこじらせてしまう)

という現状認識であり、

 

見失った自分、

遠ざけていた自分、

無視していた自分、

と出会い、

出会った自分を受け入れる、

 

そうやって統合した自分が

何を望んでいるか

その想いを知ることと

その想いを実現することに焦点を当てる

ということです。

 

その焦点の当て方は正しいのか、について

常に自問を繰り返す癖をつけるまで

あきらめずに行っていきましょう。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

さるオフ日の夕刻、

知人と会う約束がありました。

 

その日はたまたま

いくつか用事を掛け持ちし、

私には珍しく朝から忙しくしていました。

 

洗濯を終わらせ、

市役所に出向き、

帰りしなに切れていた食料を買い込み、

保険の外交員と打ち合わせ、

週末の訪問客に備えて

普段爆発している家の中を片付け、

掃除をし、

ついでに水槽の掃除もし、

…とふと時計を見ると、

いつの間にか約束の時間に。

 

驚いて焦り、

とても間に合わないと思いながら、

駅に向かってダッシュ!

 

なんでこんなに忙しいんだよ、

おかしな理屈で

一人勝手に腹を立てていました。

 

なんというか、お恥ずかしい話ですが、

忙しいの中にも、

忙くてもいい時と

忙しいのが困る時が

あるものですね。

 

忙しいということは、

充実していることとは限りません。

 

忙しいけど充実していない時はあるもので、

どこに向かって動こうとしているかが

本音の部分でわかっていない。

 

大方、

いつも怒りっぽくなっているか、

理由もわからず焦っているかで、

 

仕事と私生活とを問わず、

労働時間ばかり長くて、

他者から見て成果が得られていない。

当人は苛立ちを交えながらも、

必死になって取り組んでいて、

 

でも、当人は、

それなりに結果も出しているつもりだから、

周囲の評価に不平を持ってしまう。

 

その感情をまぎらすために、

アルコールや

食事や、

買い物や、

運動など、

日常に楽しく取り込めば害がないはずの

様々な行動と

そこに宿る暗い感情によって、

徐々に息詰まるようになる。

後は、悪循環が待っているばかりです。

 

好きなことをして、

目標を追いかけて、

自分とつながって、

周囲の愛を感じ取って生きているとき、

 

例え傍から忙しそうに見えたとしても、

当人は

「××のことにもっと時間を取ろう」

「○○のための時間を作ろう」

と前向きに生きています。

 

本音の部分で大切にしていることが

しっかりと定まっていて、

それを基準に動いているから、

与えられた時間と

そこに許された大切な思いの実現に

感謝することが根底にあります。

 

忙しいと思いながらも

どこかで朦朧としているなんてことは

これっぽっちもありません。

 

「『忙しい』とは『心』を『亡くす』こと」

とはよく言われる通りですが、

 

本来の目的を達成するときに

そこに重ねていた想いというものを

見失ってしまっている、

と読み解くこともできます。

 

一時的に機械作業になることはあるにしても、

自分が頭と体を使って

何かに集中するということは、

そこに成し遂げたい希望か夢か、

そこまでいかなくとも想いがあると思うのです。

 

意に添わないことで忙しいときって、

本当は苦しいですよね。

 

きっと心を亡くしてないからなんですよね。

 

心を亡くすほど没頭しているなら

ある意味害はない。

 

でも心があるから、苦しい。

 

心をなくせっていってるんじゃないですよ。

 

自分を見失いかけていると気づくヒントを、

見失いかけた自分に気づくヒントを、

教えてくれているんだって言ってるんです。

 

自分が好きなことをするということは、

巡り巡って資本主義の原理に則っていると

思うのです。

 

忙しいと感じる中に

変化のヒントを感じ取ることができると

いいですね。

 

 

自分の内側から湧き出る力で人生を生きる

https://nakatanihidetaka.com/

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/