現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。
神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。
神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。
信じる、信じないはあなた次第。
一つの物語としてお楽しみください。
佐々木只三郎シリーズ 前回のお話はこちらから
幕末の時代を、幕府の役人として生きた佐々木只三郎さんに、
江戸の武士としての日常生活について聞いてみました。
2023(令和5)年5月13日
京都見廻組与頭佐々木只三郎さんに、日常生活のことを聞いた。
「只三郎さんは、和歌をよく詠んでいたと伝わっているが…」と
私の作った資料から聞くと、
「あの当時は和歌を詠むことは武士のたしなみだよ。
私は役人だから、役人だったらその程度はみなするよ」と只三郎さんが言うので、
「先がけて 折れし忠義のふた柱 くづれんとせし軒を支えて」という
只三郎さんが作った和歌を突然、私が詠みだすと
「恥ずかしいからもう止めてくれ」と悲鳴に近い声を上げていた。
「いや、私は、只三郎さんの当時の心境を表す良い和歌だと思いますよ」
と私が褒めると、最後まで恥ずかしそうに嫌がっていた。
あまり只三郎さんが嫌がる様子なので話題を変えた。
「慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いで、腰に銃弾を受けて負傷しましたよね。
その時に痛みに苦しんでいる只三郎さんの元に、
兄の手代木勝任(てしろぎ かつとう=幕末の会津藩士)さんから、
「貴様は今までずいぶん人を斬ったのだから、これぐらいの苦しみは当然だろう」
と言われ、苦笑いするしかなかったと伝わっていますが、本当のことですか?」
と聞くと、「本当だ」と苦笑交じりに答えた。
最後に現在の只三郎さんの環境について聞いてみた。
「勝海舟さんも言っていたが、そちらの世界では
基本一人でいるとのことですが、只三郎さんの場合はどうでしょうかね」
と聞くと、「一人です」と言う。
「これからも何か思い出したことがあったらまた訪ねて来てほしい。
歓迎しますよ。できるだけ現代において誤解されていることや
言い足りないこと、或いは現代の日本人に言いたいことがあったら、
また気軽に遊びに来てほしい」と私が言うと、
「わかりました。今日は時間を頂いてありがとうございました」
と最後は丁寧にお礼を言われた。
佐々木只三郎さんは享年36歳であった。
次回はまた幕末の方が・・・!お楽しみに!
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