はい! 歴女の奈央です。
暴れ川シリーズ 今回は越前福井の 九頭竜川 です。
先に申しておきます。
今回は、素戔嗚尊との関連性はございません。
(もし、ご存じの方がおられましたら教えて下さい。)
九頭竜川とは・・・
九頭竜川(くずりゅうがわ)は、福井県の嶺北地方を流れる一級河川です。
支流の日野川も併せた流域面積は、2,930km2で、福井県の面積の約70%にもあたります。
九頭竜川・日野川に囲まれた福井市街地
Weblio辞書HPよりお借りしました。
下の流路を見ると正に九つの頭を持った竜みたいですね。
国土交通省近畿地方整備局 福井河川国道事務所HPよりお借りしました。
九頭竜とは・・・
龍の中で最も神格が高い諸龍の王。
龍神信仰の一種で、1つの体に9つの頭を持つ龍神です。
雨乞いなどに霊験あらたかとされます。
そもそも龍はインド神話では蛇を神格化した人面蛇身の半神で、雲雨を支配する霊力をもつとされており、仏教に取り入れられ、仏法守護の天龍八部の一つとされています。
九頭竜に先立つ黒龍大神信仰の創始
雄略天皇21年(477年)、男大迹王(おおとのすめらみこと、継体天皇)が越前国の黒龍川(後の九頭竜川)、その支流の日野川、足羽川(あすわがわ)の治水の大工事を行われました。
そして、北国無双の暴れ大河であった黒龍川の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され、高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜に創祀されました。
この儀により、現代まで連綿と続く九頭竜川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされています。
その後、黒龍大神は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する4柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされました。
九頭竜川の名の由来 いろいろな説
『越前名蹟考』
寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせたところ、一身九頭の竜が現れ、尊像を捧げいただき流れに下って黒竜大名神社の対岸に着かれました。それ以降、この川を九頭竜川と名付けられました。
『国主記』
承平の頃(931年頃)、国土を譲るために国の四隅、すなわち東は常奥の鹿島、西は安芸の厳島、南は紀伊の熊野、そして北は越前の崩山の黒竜大明神に四神が置かれました。
この黒竜大明神の前を流れる川を「黒竜川」といい、時を経て九頭竜川と呼ばれるようになりました。
『大乗院寺社雑事記』、『太平記』
荘園当時に記されたの絵図に「崩川」という名前が見られ、「太平記」には黒竜神社を"クズレ明神"と記されています。このようなことから、時を経て九頭竜川と名付けられたのです。
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暴れ川 九頭竜川
古来、九頭竜川は暴れ川として流域の住民に多くの被害を与えてきました。
古くは「崩れ川」ともよばれた暴れ川で、福井県が置かれた1881年(明治14)以降でも、1881、85、88、95、96、99年と、流域に大水害をもたらしました。
当時の堤防は低くて必ずしも連続せず、堤防のないところもありました。これは、洪水時に耕地に水を氾濫させることで水勢を弱め、被害を少なくするという消極的な治水法がとられていたからです。
このため、傾斜の緩やかな下流域は、氾濫した水が容易に引かないことから、作物の冠水被害に苦しむのが常でした。
九頭竜川之図(中角~布施田)
図説福井県史HPよりお借りしました。
1895年(明治28年)と翌1896年(明治29年)の洪水による被害は甚大なものがありました。
1895年の洪水は、福井市の3分の2が浸水、死傷者86人、流失・全壊家屋244戸、浸水家屋2万6920戸という記録が残っています。
さらに翌1896年には台風の影響で、死傷者96人、流失・全壊家屋1197戸、浸水家屋4万7796戸という被害をもたらしています。
この水害の復旧のめども立たないまま、大野郡の村人100人余りは、1897年2月、北海道帯広市周辺に移住することになりました。
水害略図(1896年)
図説福井県史HPよりお借りしました。
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千年の悲願 九頭竜川の用水
下記のURLの情報を参考にさせていただきました。
越前から来た天皇 ―千年の悲願[九頭竜川の用水] (suido-ishizue.jp)
6世紀はじめ、第26代 継体天皇は、越前の三国の坂中井出身だといわれています。
先代天皇の後継者が絶えたため、越前から迎えられたと「日本書紀」にはありますが、大和に入るのに20年も要しており、ナゾに満ちた天皇です。
「続日本記」では、古代、この越前の平野は大きな湖でしたが、継体天皇が三国の岩山を切り裂いて湖の水を海へ流すことにより田畑を開いたとあります。
この「続日本記」の記述は、継体天皇が、今でいう排水路や用水路を造ったという解釈が可能です。
天平宝字元年(757年)の記録には、奈良東大寺の領荘であった桑原荘(金津町)の大規模な灌漑施設の整備のことが記されています。
この越前平野は、日本で最も古くから大規模な水路が造られたところなのです。
十郷用水絵図
図説福井県史HPよりお借りしました。
越前平野で最大の水路が平安時代の天永元年(1110年)に開削されたという十郷用水です。
九頭竜川を塞き止める十郷大堰(鳴鹿堰堤(なるかえんてい))を建設して水を取り入れ、延々28kmも水路を掘りぬいて河口荘十郷(本庄、新郷、王見、兵庫、大口、関、溝江、細呂宜、荒居、新庄の十村)の田 600ha(当時)を潤した大用水です。
十郷大堰付近の取水口
水土の礎HPよりお借りしました。
もちろん、現在もこの水路は現役です。
十郷用水
水土の礎HPよりお借りしました。
その後、越前平野の開墾が進んでくると、十郷だけが九頭竜川の水を独占することも許されなくなってきます。
十郷大堰からは、新江用水(1679年)、高椋用水(1455年)を分水した後、1番堰から7番堰にかけて磯部用水が分かれ、高椋村、春江村と分水してからようやく十郷用水の幹線水路となりました。さらにその後、兵庫川へ水を落とす形で分水しています。
九頭竜川之図(鳴鹿大堰付近)
図説福井県史HPよりお借りしました。
わずか十の村から始まった用水は、江戸時代には118ヵ村、実に10倍以上に膨れ上がりました。
千年の悲願 九頭竜川の用水
水土の礎HPよりお借りしました。
平成16年、老朽化した鳴鹿堰堤に代わり、提長311m、6つの可動ゲートを持つ「鳴鹿大堰」が造成されました。
現在の鳴鹿大堰
ふーぽHPよりお借りしました。
さらに、平成11年、 地上にある水路を地下に埋没する「九頭竜川下流域国営パイプライン事業」に着手し、約17年の歳月をかけて、平成28年4月、全面通水が完成しました。
これにより、鳴鹿大堰から坂井、あわら、福井、永平寺の4市町の農地約1万2千ヘクタールに、24時間、きれいな水を行きわたらせることに成功したのです。
九頭竜パイプラインの水路図
ふーぽHPよりお借りしました。
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以上、長々と九頭竜川の治水について書いてきましたが、それらのこと一切が下の動画にまとめられています。
少し長いので、ご興味がある方はお時間があるときにご視聴ください。
動画時間:9分18秒
はい! 今回はここまでです。
暴れ川とその治水に関するシリーズもここで一応終了です。
古代、暴れ川は、人びとの生活の基盤となる肥沃な土地を生み出してくれました。
しかしその一方で、すべてのものを押し流す洪水・氾濫を繰り返し、人びとはその暴れ川をいかにして制御するかということに心を砕き、知恵を絞ってきました。
そして、その中で多くの伝承・伝説・神話などが生まれてきたのでしょう。
素戔嗚尊は、一般には暴れん坊のように見なされていますが、私にとっては 治水の神様 なんです。
このシリーズでそんな私の思いの一端が伝わりましたら嬉しいかぎりです。
それじゃあ、またね。