東浩紀氏の著書に『動物化するポストモダン』とう2000年に出された本がある。
この本は1971年生まれの哲学者である彼が、日本の現代社会において無視できないサブカルチャーを材料に、現代の人間の行動様式を考察した歴史的なものだ。

彼自身、オタクを公言してはばからないが、つまりはそういった現象がどのように変遷し、今を向かえたかの自説を述べている。


ここではアニメはもちろん、美少女ゲーム、つまりはエロゲーを重要なファクターとして取り上げる。

私自身、エロゲとは意外と長い付き合いだ。
といってもいろんなものを消費していたわけではなく、
とりわけ名作と言われるものをやっていたと思うが、まあ、それも20才くらいまでだ。
もちろん当時はそんなことを告白できることもなく、自分自身の密閉された娯楽としてであったが。


で、何が言いたいのかいうと、サブカルチャーというキーワードが、現代を解く鍵になるということだ。
それは宮台が援助交際を現代の指標としたのと似ているが、「おらがムラ」社会の崩壊は、都市部において現象化し、地方に移るとその形態は大幅に変わり、さらに洗練された無機質なものへと変化する。

その原初的変化を見る意味でも都市部は重要だ。

性的欲求を満たすためには大きく分けると2つに分けられる。
現実世界か仮想世界か、である。


その交錯は更なる快楽に導くものとして考えられるが、行きつくところ限界を感じる。
マンネリというやつだ。

それが果てしなく無限だと言う意味ではサブカルはもってこいだ。

現代人の虚無を満たすツールとしてサブカルチャーは絶大だ。

しかしそのサブカルもここ10年、とりわけインターネットの発展の中で様変わりしている。

彼の著書で言われているのは、要はこれまで生産されてきたサブカル作品が、データベースとして蓄積され、80年代までは物語として、失われた世界の代替性を持って消費してきたが、90年代に入るとその興味の矛先は端的なものへと移り、部分的なもの、つまりパーツを見て満足するようになった。
物語が飽和状態に達した後、人々はキャラクターからそれぞれの幻想を抱くようになり、二次創作がオリジナルと価値観を共にし、更にネットを介して普遍化していく。

データベース化された“萌え”要素を組み合わせ、恐ろしく個人的な妄想へと発展させ、満足する。
その行動様式が、根本的な思考をすることなく、与えられた材料を組み合わせることで消費していくことをとって、動物的、と彼は名づけた。


消費の動物化だ。

これはAVにも言える。

データベース化された“ジャンル”や“シチュエーション”などから組合せ、想像して興奮する。
それが止むことがないのは、性欲が人間からなくならないからだ。
あまりにシステマティックに、性を消費する。
それが現代。


つまり、資本主義が生産から消費へと変わったがゆえの行動様式だ。

完全に満たされることがない、しかし沸き起こる欲求をそれなりに処理をしたい。

それが2次元か、3次元であるかの違いだ。

2次元の場合、妄想が大いに占めるので他の共同体を侵害することはほとんど無い。
しかし3次元化すると、それは犯罪と結びつく。
DVもひとつの兆候だ。

ここで考えて欲しい。


先の秋葉原の事件もそうだが、犯人が2次元消費をしていると、そこに焦点をあて、断罪しようとするが、それは今回の考察を見ても明らかで、2次元に浸るものの方が現実的な犯罪には結びつきにくい。
だから3次元的に犯罪を犯すものは、それ以外の部分で問題を抱えていることになる。

しかしそれも何か一つ、ではなくて多くの要素が複雑に絡んでいる。
その背後にあるのは「社会」だ。


社会システムの崩壊が、それを産み出していることに気づかなくてはならない。

前にも書いたが、
「成熟社会」である現代日本の社会が、どのようなメカニズムになっているかを知ることが大切なのだ。

日常も、エロも同じだ。

スッキリした満足、を得るのは意外と困難な時代かもしれない。



ここ数年、数々の不祥事とよばれる事象が発覚し、謝罪会見、新聞謝罪広告を目にする。
国民の間では、もう驚きもしないかもしれない。

もう何処が何をやっているか分からない。

そこまでは一緒だが、その先はどう考えているのだろうか?
実際の生活の中では、なるようになれ、か、消費を考えるかのどちらかだろう。

それこそもう分からない領域だからだ。

しかし、選挙となればまた違ってくる。

近いうちに衆議院選挙があるだろうが、皆さんはどこに投票するだろうか?


政権交代、

これが日本に必要なのはもう自明なことではないだろうか。

つまり、今回は政策云々ではなく、政権交代が日本に必要なのかどうかの問いだ。

自民党が一党支配を続けてきた弊害は多々あり、年月もかなりのもので相当根深い。
かつて細川護煕が首相になったときがあったが、これはいくつもの連立の上での政権であり、2大政党ではなかった。

今回、政策云々ではないというのは、既に日本が取らなければならない方向性が自民党も民主党も似たようなものだからだ。
どちらがなっても同じような政策になることは目に見えているが、政権交代が実現することで、政治が本気になれるのだ。
民主党がヘマをやれば自民党が支持を得るし、その逆もしかり。
これからの混沌とした時代には大きい政府か小さい政府か、という究極的問題も兼ねつつ、その範疇では解決できない問題も出てくることは必至なので、政権交代のダイナミズムは実現させなければならない。

皆さんはどんな視点で投票するのだろうか?

事件のいきさつは、かなり話題にもなったので覚えている方も多いと思います。

ここで問題にしたいのは、闇サイトの法律の問題だ。


日本テレビの夜のニュース、zeroをたまたま見たときに、村尾信尚氏が闇サイトを法で規制する、というか無くすべきだと感情的に言っていた。
テレビメディアの信憑性はネットの普及に伴って、決定的に落ちたが、それでも影響力はまだ存在するし、テレビなりの演出が巧みに視聴者をコントロールする世界。

闇サイトや学校裏サイトなど、ネットの基本の機能的な部分をもって原因であるかのような発言はいたるところで見られます。


しかしこれは人を殺せる包丁は無くせ、といっているのと同じ次元の話でまったく意味の無い話だ。

何か事件があるごとに分かりやすい理由らしきものを見つけて、それを叩く。そしてそれを“悪”として訴求することで一つの安心を得る。


問題の深層が分からないものはことさらこの傾向が強い。

今回の件も、問題を起こした犯人の思考回路、そしてそれを産み出す“社会”を解こうとせず、安易にツール批判へと走る。


倫理(宗教)がない日本は、社会が道徳を作り上げる。ゆえに社会が変われば道徳が変わる。つまり“世代”の分だけ道徳が存在する。
そこに気づけないのは自分の道徳を倫理と思い込んでしまっているからだ。
あなたの常識私の非常識、という言葉があるが、それがどうして起こるのかを考える必要があるが、世代間では共有できているので、それほど問題にしない。

道徳が普遍性を持つには倫理となる必要があるが、現代における“宗教”の役割を認識しないと決して普遍化しない。


それが抜け落ちた日本、問題は根深い。
報道するマスコミの、特にテレビ、新聞が機能不全。そもそもテレビと新聞が同じ会社ではジャーナリズムの機能を果たせない。

困った国、日本。

Steve Reich(スティーブ・ライヒ)
このアーティストを知ったのは、深夜のNHK教育テレビの放送でであった。
そのとき演奏されていたのは『Different Trains』であった。
カルテットの生演奏にイメージ映像がいくつかのスクリーンに映し出され、既録のパートも流されていた。
かなりの衝撃があった。
調べると、ミニマルミュージックの旗手であった。
要は繰り返し(ループ)を中心に組み立てる音楽で、今でこそ、サンプリングがデジタル技術の恩恵を受けて当たり前のように簡単にできるが、当時(1960年代~)はアナログを駆使して創り上げていた。
そんな、いわば現代音楽ともいえる彼の作品に、私は釘付けになった。
そこで、すぐにアマゾンで検索し、ボックスセットを購入。
彼の歴史が分かる面白い構成だ。

シンプルな構成、これは多くの要素をしらなくては至高の極みには到達できない。
少ない音で演出することは非常に難しいが、これに到達した音楽は心地よく、美しい。

私もこの感覚を喚起する音楽をいつかは制作したいと思っている。
人間関係に仕事と日常、つまりプライベートの差というものが、そもそも“ある”のであろうか。
現代では更にネット社会がミクシーの成長を機に、より多くの人を日常に引き寄せた。

どんなことも元をただせば区別されるものではない。
しかし区別をしないと、大変だからするだけなのだ。

区別の最中を生きていた人は、自然とその過程を意識することができる。
しかしその後に誕生したものは、意思を持たないと感じることができない。

この摩擦が、ユビキタス社会の進行に対し、大きな問題となっていると思う。

前の日記に宮台氏の言葉を借りて、不透明な社会を生きる、的なことを書いたが、
まさにその不透明さの一端がここにある。
複雑に管理、分化された社会が人間関係をも侵食し、薄っぺらな認識を日常化させて妄想を肥大化させる。
その一つの表出が昨今の無差別通り魔事件であると思う。

複雑に高度化された社会は、それなりの認識と共有の下に成り立つのだが、そこがまだまだ未熟なのだ。
それは家庭、学校含め教育に課せられるが、高学歴=幸福という幻想が完全に打ち破られない限り、この連帯はなくならない。
少しずつ、世代交代を通してしか現実味を帯びないこの種の意識は、傍観するしかないのが現状だ。

さて、人間関係においても変わりは無い。
区別することが必要性を帯びたからしているわけだが、それはあまりにシステマティックになった社会の現れではないだろうか。

貨幣経済社会は共同社会形成にはもはや無くてはならない手段であるが、高度経済成長のときには、
その差異はもっと小さかったのではないだろうか、と想像する。

企業理念が空洞化し、パーティション化された生産労働体系は、先を越された後進国の明日の見えない労働体系と何ら変わらない。
それでもそれなりの生活が出来、3種の神器と呼ばれた電化製品も当たり前のように存在し、貧困層と言われつつも昔日の“夢”を
実現している現状が、高度経済ジュニアにはある。
それは確実に少子化を増大させる。

とにかくこれからは混沌の時代を生きることになる。
特定のイデオロギーが支配することは考えにくい。
それぞれがそれなりに生きていける社会、それこそが“終わりなき日常”を生きることである。
ここで言う終わりなき日常とは、簡単に言えば終末思想に対するアンチテーゼだ。
世界の終わりをある意味期待するのは、それに変わる大きな事変がないことに起因する。
その代謝を求めて、サブカルチャーは飛躍した。

その神話ももはや崩壊しかけている。
サバイバル、そんな言葉がよぎってくる・・・