人間関係に仕事と日常、つまりプライベートの差というものが、そもそも“ある”のであろうか。
現代では更にネット社会がミクシーの成長を機に、より多くの人を日常に引き寄せた。

どんなことも元をただせば区別されるものではない。
しかし区別をしないと、大変だからするだけなのだ。

区別の最中を生きていた人は、自然とその過程を意識することができる。
しかしその後に誕生したものは、意思を持たないと感じることができない。

この摩擦が、ユビキタス社会の進行に対し、大きな問題となっていると思う。

前の日記に宮台氏の言葉を借りて、不透明な社会を生きる、的なことを書いたが、
まさにその不透明さの一端がここにある。
複雑に管理、分化された社会が人間関係をも侵食し、薄っぺらな認識を日常化させて妄想を肥大化させる。
その一つの表出が昨今の無差別通り魔事件であると思う。

複雑に高度化された社会は、それなりの認識と共有の下に成り立つのだが、そこがまだまだ未熟なのだ。
それは家庭、学校含め教育に課せられるが、高学歴=幸福という幻想が完全に打ち破られない限り、この連帯はなくならない。
少しずつ、世代交代を通してしか現実味を帯びないこの種の意識は、傍観するしかないのが現状だ。

さて、人間関係においても変わりは無い。
区別することが必要性を帯びたからしているわけだが、それはあまりにシステマティックになった社会の現れではないだろうか。

貨幣経済社会は共同社会形成にはもはや無くてはならない手段であるが、高度経済成長のときには、
その差異はもっと小さかったのではないだろうか、と想像する。

企業理念が空洞化し、パーティション化された生産労働体系は、先を越された後進国の明日の見えない労働体系と何ら変わらない。
それでもそれなりの生活が出来、3種の神器と呼ばれた電化製品も当たり前のように存在し、貧困層と言われつつも昔日の“夢”を
実現している現状が、高度経済ジュニアにはある。
それは確実に少子化を増大させる。

とにかくこれからは混沌の時代を生きることになる。
特定のイデオロギーが支配することは考えにくい。
それぞれがそれなりに生きていける社会、それこそが“終わりなき日常”を生きることである。
ここで言う終わりなき日常とは、簡単に言えば終末思想に対するアンチテーゼだ。
世界の終わりをある意味期待するのは、それに変わる大きな事変がないことに起因する。
その代謝を求めて、サブカルチャーは飛躍した。

その神話ももはや崩壊しかけている。
サバイバル、そんな言葉がよぎってくる・・・