『「終わらない日常」を生きることは、スッキリしない世界に生きることだ。
何がよいのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。私たちが今日生きているのは、すべてが条件次第・文脈次第で評価されるしかないような複雑なシステムである。にもかかわらず、条件や文脈は不透明だから、何が良いのか悪いのかが、よく分からなくなってくる。
そういう混濁した世界のなかで相対的に問題なく生きる知恵が、いま必要とされているのではないか。』
社会学者、宮台真司は著書「終わりなき日常を生きろ-オウム完全克服マニュアル-」のあとがきでこう述べている。
最近立て続けに本を読んだ。他にはノンフィクション、野村進の『救急精神病棟』
かの事件の渦中の中学の当時の校長の著『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」 』である。
オウムにしても酒鬼薔薇にしても、かなり前の話ではあるが、当時の私には非常に鮮烈な事件であったことを覚えている。
もともと哲学思想の類が好きな私は、それなりに考えその理由等を見つけ出して納得はしていたのだが、秋葉原の例の事件を受けて、再度、その過去の事件を掘り下げてみたくなり、購入した。
宮台氏はその冷静沈着で公正な立場で、フィールドワークを軸に濃密な生きた取材によって、恐ろしいまでに的確に、複雑な現代を捉えている。
私が喉ま出でかかっていた言葉、脳内でぐるぐる回っていた断片の思想を、つまりは散らばった点を線に、さらには3次元の立体をもって顕してくれている。
ネットテレビ(マル激トーク・オン・ディマンド)での東浩紀氏との対談も非常に興味深かったが、既に彼はこのとき(オウム事件)には分析を終えていて、今回の事件は何ら新しい要素はない、と言っている通りで、成熟した資本主義国家における虚無の世界で起こりうる珍しくない事件として切り捨てている。
いま私たちが生きている社会は「終わらない日常」であることを自覚しない限り、防ぎようの無い無差別の殺戮は今後も起こる。
特に為政者がそこを理解し、慎重でなければ、若い世代の自明でない、もやもやの正義、もしくは絶望までもが消化不良を起こす。
オウム事件によって、拠り所の選択肢であった宗教が大幅に縮小された現代、行き場の無い不透明な心は、脳を侵し精神分裂病を誘引しているのではないかと考える。
世代間共有の価値が薄れていくにつれて、一遍周りとそれほど変わりもしないようなの日常生活が、必要以上にその人間形成に影響を与えていることに気づかなくてはならない。
「自明でない世界」に気づくことだけでもかなりの救いとなるのだが、教育ではそんなことを教えることができない。
宮台はそのことを大学の講義を含め、執筆活動やしかるべきメディアへの露出などによって訴えているのであろう。
とかく二者択一を迫る社会において、渇望するのは勝手だが、実はそこには解答が無い。
「サブカルチャー神話の解体」によってかつての理想に浸ることも出来なくなり、強烈なテーゼに冷ややかになり、それなり、に楽しい人生を模索するしかない。いや、それでいいではないか、それを認める社会の包摂が大切であるというのが彼の主張である。
この包摂があれば、かの大それた事件は起きないのではないか、というのである。
しかしこれは大変難しい。もっと楽に、簡単にというのがいかに難しいか、一種のパラドックスでもある。
とんでもない時代に生きてしまったもんだ。
しかし幸いにも私は、親や身辺で、特定の思想に染まることなく青春時代を過ごすことが出来た。あまりにその点が自由だったために、
進学校であった高校で一年のときにさっさと嫌気がさし、大学なんぞ行ってたまるかという小さな反骨精神を持って、世の中に出た。
いわゆるフリーター生活の始まりだ。
そのときは漫画家になるつもりでいたが、色々な経験、接するうちに何か別のものを探している自分がいた。
神経質で生真面目なところを自覚しながら、ある決定的な点で非常に自由に、楽に生きていたと、今振り返って思う。
今回の事件の容疑者、加藤と共通する点は少なからずある。誰でもある類のものであると思う。しかしそれが犯罪を犯すものとそうでないものの
違いは決定的である。我が家が、物言えぬ環境ではなかったということだ。かといって無関心でもなく、愛情を感じることができたからだ。
事なかれ主義、日本を表す言葉によく引用されるが、「事なかれ」が、問題として表面に出ていない間はよいが、ひとたび表出する頃には時既に遅し、なのであろう。
爆発寸前の「終わりなき日常」を包摂できないものは、一体次は何をしでかすのだろうか…
何がよいのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。私たちが今日生きているのは、すべてが条件次第・文脈次第で評価されるしかないような複雑なシステムである。にもかかわらず、条件や文脈は不透明だから、何が良いのか悪いのかが、よく分からなくなってくる。
そういう混濁した世界のなかで相対的に問題なく生きる知恵が、いま必要とされているのではないか。』
社会学者、宮台真司は著書「終わりなき日常を生きろ-オウム完全克服マニュアル-」のあとがきでこう述べている。
最近立て続けに本を読んだ。他にはノンフィクション、野村進の『救急精神病棟』
かの事件の渦中の中学の当時の校長の著『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」 』である。
オウムにしても酒鬼薔薇にしても、かなり前の話ではあるが、当時の私には非常に鮮烈な事件であったことを覚えている。
もともと哲学思想の類が好きな私は、それなりに考えその理由等を見つけ出して納得はしていたのだが、秋葉原の例の事件を受けて、再度、その過去の事件を掘り下げてみたくなり、購入した。
宮台氏はその冷静沈着で公正な立場で、フィールドワークを軸に濃密な生きた取材によって、恐ろしいまでに的確に、複雑な現代を捉えている。
私が喉ま出でかかっていた言葉、脳内でぐるぐる回っていた断片の思想を、つまりは散らばった点を線に、さらには3次元の立体をもって顕してくれている。
ネットテレビ(マル激トーク・オン・ディマンド)での東浩紀氏との対談も非常に興味深かったが、既に彼はこのとき(オウム事件)には分析を終えていて、今回の事件は何ら新しい要素はない、と言っている通りで、成熟した資本主義国家における虚無の世界で起こりうる珍しくない事件として切り捨てている。
いま私たちが生きている社会は「終わらない日常」であることを自覚しない限り、防ぎようの無い無差別の殺戮は今後も起こる。
特に為政者がそこを理解し、慎重でなければ、若い世代の自明でない、もやもやの正義、もしくは絶望までもが消化不良を起こす。
オウム事件によって、拠り所の選択肢であった宗教が大幅に縮小された現代、行き場の無い不透明な心は、脳を侵し精神分裂病を誘引しているのではないかと考える。
世代間共有の価値が薄れていくにつれて、一遍周りとそれほど変わりもしないようなの日常生活が、必要以上にその人間形成に影響を与えていることに気づかなくてはならない。
「自明でない世界」に気づくことだけでもかなりの救いとなるのだが、教育ではそんなことを教えることができない。
宮台はそのことを大学の講義を含め、執筆活動やしかるべきメディアへの露出などによって訴えているのであろう。
とかく二者択一を迫る社会において、渇望するのは勝手だが、実はそこには解答が無い。
「サブカルチャー神話の解体」によってかつての理想に浸ることも出来なくなり、強烈なテーゼに冷ややかになり、それなり、に楽しい人生を模索するしかない。いや、それでいいではないか、それを認める社会の包摂が大切であるというのが彼の主張である。
この包摂があれば、かの大それた事件は起きないのではないか、というのである。
しかしこれは大変難しい。もっと楽に、簡単にというのがいかに難しいか、一種のパラドックスでもある。
とんでもない時代に生きてしまったもんだ。
しかし幸いにも私は、親や身辺で、特定の思想に染まることなく青春時代を過ごすことが出来た。あまりにその点が自由だったために、
進学校であった高校で一年のときにさっさと嫌気がさし、大学なんぞ行ってたまるかという小さな反骨精神を持って、世の中に出た。
いわゆるフリーター生活の始まりだ。
そのときは漫画家になるつもりでいたが、色々な経験、接するうちに何か別のものを探している自分がいた。
神経質で生真面目なところを自覚しながら、ある決定的な点で非常に自由に、楽に生きていたと、今振り返って思う。
今回の事件の容疑者、加藤と共通する点は少なからずある。誰でもある類のものであると思う。しかしそれが犯罪を犯すものとそうでないものの
違いは決定的である。我が家が、物言えぬ環境ではなかったということだ。かといって無関心でもなく、愛情を感じることができたからだ。
事なかれ主義、日本を表す言葉によく引用されるが、「事なかれ」が、問題として表面に出ていない間はよいが、ひとたび表出する頃には時既に遅し、なのであろう。
爆発寸前の「終わりなき日常」を包摂できないものは、一体次は何をしでかすのだろうか…