小山さんの休みについての情熱大陸を見てから、「卒業する」ということについて少し考えていました。
卒業って、通常は学校の教育課程を終えること。会社(企業)を辞めるときにも使います。
それ以外でも、人生の過程で、環境が変わるときなどに「卒業」という言葉がよく使われます。それが外から起こったことであれ、自分で選択したことであれ。
たとえば、簡単なことであれば、今まではまっていた漫画やゲームをやめるとか、遊びほうけてきた習慣をやめるときなどにも使えるし、たとえば何かしらの人間関係を終わりにするとか、会社をやめて独立するとか、そういう、何かを終了・完了する、区切りをつける、次のステージに進むときなどに「卒業する」という表現を私たちは使います。
最近の自分の感覚でいうと、引越しをするときに「村上春樹さんを卒業しよう」と思い、全作品を古書店に売ったということがありました。それはどういうことを象徴しているかというと、中学校で始めて春樹さんの作品を読んでから、そこで描写されている世界観は、20年以上に渡って、自分では見えない世界をガイドしてくれるような存在でした。そこからの卒業というのは、春樹さんをガイドにするのではなく、自分で見えない不確かな世界を進んでいこうという決定だったんだなと「振り返ってみると」思います。
2009年に前職を辞めて独立したときも、結構やむにやまれぬ事情があったとはいえ、誰かの力や影響のもとで生きていくステージが終わるタイミングだったんだなと、これも「振り返ってみると」そのタイミングしかなかったんじゃないかというくらい完璧なタイミングだったと思うのです。
なので、最近の自分なりの転機というのも今後「振り返ってみると」完璧な卒業だったと言えるんだろうと思います。
卒業って、業を卒える(おえる)って書きますよね。
これは、なかなか深い言葉ですよね。
仏教では業はカルマと言って、大辞林 第三版では、
身体・言語・心による人間の働き・行為。行為は必ずその結果をもたらし,また現在の事態は必ずそれを生む行為を過去に持っているとする思想は,インド思想に広く見られる。カルマ。
と解説されています。
(カルマにつていの説明は諸説あるみたいですが…)
私自身は宗教にまったく詳しくないですが、苦しいなあと思うことが起こると、これは何かのカルマが解消されるために起こっているんだと、普段はそんな風にあたり前に思うことが多いです。
何か苦しいな、いやだなと思うことが起きたときでなくても、何かを終えることもまた、カルマの解消なんだと思うと、なんだかすごくすっきり腹落ちします。
最近とりあえず文章を書こうという気持ちになっているのは、一つのカルマを解消する=これまでの自分から卒業するための「卒論」みたいなものです。
これまでの自分は何を経験して、そこから何を学んだのか?何を感じたのか?何を考えたのか?そしてどんな行動を選択したのか?断片でもいいから出してみて、そこからテーマを決めて、いったん形にしてみる。それによって次の進路で、さらに何を探求していくか、より明確になる。
そういうことを、禅寺で修行をして行う方もいれば、最近だとスピリチュアルの世界に行ってしまったまま戻ってこない方もおられるようですが、この現実の世界で、ただひたすら行っていくことが業を卒えることだと思うのです。
何か特別なことがあったときだけ、転機とか変容とか騒ぎ立てて、何かに取り組むのではなく、毎日が転機で、毎日が変容に向かう道であると信じながらも、どこかのタイミングで卒業式を行うっていうのは、大切です。
学校が修了するときに卒業式があるように、何かの終わりのタイミングには、必ずそのサインや象徴があります。本当は誰かに終わりだね、と言われるのではなく、自分は知っているのです。それがもう終わっている(終わる)ということを。
だけど未知の世界に踏み出すのはこわいこと。
環境が変わるのはこわいこと。
だからもう少し、この慣れた学生気分でいたい、という気持ちも出てくる。
大人にはこの卒業を何度も繰り返している人と、学校以外を卒業できてない人(結構多いと思うけど汗)がいると思います。未知の世界に踏み出した経験がある人は、そういったコンフォートゾーンを出ていく(=卒業する)ことができる。
形を変えたように見えて、そこに逃げ帰っている人は、ずっと大学生をやっているだけなのかもしれません。
最近、いつ卒業しましたか?
自分にとっての業ってなんだろう?
自分にたまにそんな問いを投げかけてみるといいかもしれません。
今の自分は何年生かわからないけれど、この生の卒業は、死。
自分は最後、どんな卒業を迎えたいか?
そんな問いかけもいいかもしれません。
心理セラピーなどで扱う、未完了の事柄、関係、感情などは、そこにずるずるとエネルギーが流れ続けます。
それはもう終わったんだ、と自分の中の認知を書き換えるだけですむ場合もあるし、しっかり向き合うことによって、業を卒える必要がある場合もあります。
私自身もまだわからないことだらけですが、本当はすでに自分はどうすればいいかを知って生まれてきているし、常に高次の存在が、その流れにいること、その流れから外れたことを知らせるメッセージを送ってきてくれているということを、最近とても実感しています。
今の意識ではわからなくても、何かしらはキャッチしているから、自分の内側からあれをやろう、これをやらなくちゃという衝動が湧き上がってくる。
先のことはわからないから、目的や目標を明確にして、綿密に計画を立ててなんて、できるはずがありません。
だって、次のステージの自分は今のステージの自分では理解できないから。
次のステージに行ってはじめて、今の自分のステージを見ること、理解することができる。
その意識の限界を知りながら、しっかりガイドの声をキャッチすること。
それ以外に、業を卒える方法はない。
その人が気づくまで、形を変えて人生にはその業に気づくためのことが起こり続ける。まだ気づかないのか、まだ気づけないのか、自分がそれをやるって選んで生まれたのに、と。
そしてたとえば気づかずに、業を卒えずにこの生が終わってしまったとしても、その業はリセットされるわけでなく、次の生に大きな宿題として持ち越されて、よりハードな(よりそれと向き合う必要のある)環境を選ばざるを得ないという原理になっているのだと思います。
生まれるとき、自分で取り組む課題を選んで生まれてきているのだから、スピリチュアルカウンセラーや占い師に相談して、「あなたは○○のカルマがあるから、それを解消しなさい」と言われて取り組むものじゃなくって、自分で気づく必要がある。
それに気づかせてくれるのが、自分に起こる様々なこと。そしてどんな人と出会っているか。どんな環境を与えられているか。
そういうからくりを知ってしまうと、人生ってどれだけ手の込んだシナリオができているか、そしてどれだけ大きな力で自分が守られてきたか、うなってしまいます。
そして、尾崎の「卒業」の歌詞が、ほんとすごいなーとあらためて思うのです
卒業して いったい何解ると言うのか
想い出のほかに 何が残るというのか
人は誰も縛られた かよわき小羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺達の怒り どこへ向かうべきなのか
これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう
仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
闘いからの 卒業
縛るのも、支配するのも、闘うのも、外からされていたり、外に対して行っているもののように見えて、自分がつくり出している業(行いとその結果)なんだろう。
そこから卒業しよう。時間がかかっても。