好奇心と内省とフローの旅

好奇心と内省とフローの旅

小さな頃から“好奇心”が自分のエネルギーの源泉でした。興味を持って積極的に対象に関わり向き合っていくスタイルを保ちながら、ライフテーマ「健全な自己愛に目覚め、フローに生きる人や組織を増やす」について思考と感じたことの断片を記録しています。

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(昨日書いていて、UPできてなかった記事です)

今日の空は、見るたびに雲が形を変えていて、とてもおもしろかった。

積み木みたいにぱかっとした形だったり、大きくレースの布を広げたみたいに空一面に雲が広がっていたり、そうかと思ったらまったく雲がなくなっていたり。

真っ青のキャンバスに、たくさんのアートが出現しているような1日でした。


でもきっと、
今日が特別なんじゃなくて、たまたま私が今日空を見上げる機会が多かっただけ。
そして、そんなふうに、日常の中で見過ごしていることはきっと数え切れないほどある。


雲を見るたびに形が変わっていた今日のことをメタファーとしてみると、

「おかれている状況にあわせて柔軟に対応することが大切!」

「こんなふうに、あなたの周りで起こっていることはその時々で形を変えていくんだよ」

「変わらないものはないということが、唯一の変わらないことなんだよ」

「大きな流れに守られているのだから、身を任せて流れにのればいいんだよ」

といったようなメッセージが受け取れます。もちろんその他にも。


でも、
実はそんなのはどーでもいいんです。

それは「意味づけ」でしかないのだから。
自分がそう思ったなら、そういうメッセージを受け取ったなら、それはそれでいいと思います。


きっともっと大事なのは、

「わあ」「すごいな」「きれいだな」「きもちいいな」

っていうような、その純粋な感覚。
レイチェル・カーソンのいうセンス・オブ・ワンダー。


その瞬間って、純粋に魂が喜んでいて、本来つながっていた自然とのつながりを思い出している時間だと思うんです。

そんな瞬間がちりばめられている毎日と、疲弊してよれっとしてたり、頭の中が考え事でいっぱいでみけんにしわがよっていたり、いろんなバランスがくずれているのにペルソナで笑顔で過ごしていたりする毎日と、どっちが本当に与えられている自分の命を使えているんだろうか・・・


センス・オブ・ワンダーが日常の中に当たり前にあること、
それはつまり、自分の魂が喜んでいるということ。


休みの日に自然の中に身をおくために、特別な場所にいってそういう感覚を感じるのは当たり前なんです。
だってそういうことを感じたいという意図を持って、そういう場所を選んでいるのだから。

それもとても大切なこと。

だけど、本当にアプリシエイトしたいのは、心のひだのようなものが、小さく「ふるっ」と震えるような、ほんとうに些細なことにワンダーを感じられること。

そうすると、その周波数に共鳴して、どんどんそういうことがやってきてくれる。

幸せや喜びを演じてつくっていてもいいけれど、それは本当はそうじゃないという闇が、無意識の中で底なし沼のように深くなっていくだけ。

こうだったらいいな、を装うんでなく、ただ起こることを、すでにあることを、アプリシエイトする。

そういう、言ってみれば静かな幸せや喜びを味わえることが、本当の意味で与えられた命を活かして、この時代での役割を果たし、全体に貢献をしていけるのではないかなーと、そんなことが、雲をみていたら浮かんできたのでした。





※ブログタイトルと本文がなんかちょっとズレてる感がありますが、他に思い"浮かば"なかったので!


「自分に自信がないんです」と、多くの人が言います。
個人的な感覚ですが、特に女性に多いような気がします。

一方で「自信があるように見える」ような尊大な人も、結局は卑小感の裏返しだったりします。


かくいう私も、「自己卑下」や「自己否定」を常に繰り返し、今にいたっています。
これまでどれだけ自分を卑下し、否定をしてきたか(いるか)、書き出したらとまらないほどです。逆に酔っぱらって気持ちが大きくなったときなどは、尊大な物言いをすることが若いうちからよくありました。

よく「自分を大事にする」「自分を愛する」ことが大切と言われますし、自分を大切にできない人、自分を愛せない人が本当に人を大切に、愛することはできないとも言われます。

頭では重々承知なんです、そんなこと。

でも、無意識に折り重ねられた様々な経験やメンタルモデルは、そう簡単になくならない。

ではどうすればいいんでしょう?


何十年も生きていると、人には人生の「底」と呼べるような体験がいくつかあると思います。
その真っ只中にいるときは、本当にコールタールに浸かっているようで、何をどうしたらそこから出られるのかわからなくて、うずくまって途方にくれることしかできない。

そんな本当に困っているときのどん底をふりかえってみるといつも、何かしらの手が差し伸べられてきなということを、最近あらためて思い出していました。

それらのサポートがなかったら今頃どうなっていたか?と考えると、いまだに身震いがします。本当にぎりぎりで守られてきたな、ありがたいなあ~ということをしみじみ感じます。

そして。

困ったときだけそういったありがたさを感じるっていうのはなんだか調子いいなと思い、これまでどれだけありがたいことがあったかなあということもあらためて振り返ってみました。

プランドハップンスタンスセオリーのように、いろいろな偶然のような出来事が重なり今ここに導いてもらえたな、これまで本当に、たくさんのご縁とたくさんの機会に恵まれてきたなあ、本当に感謝だなあとしみじみ思っていました。

でも、こんなに恵まれているのに…と思っているときでさえ、「それなのに私はいまだにこんな程度なのか…」という自己否定の声が聞こえてくるのです。


先日出会ったある本にこんなことが書かれていました。

そもそも人は、一生を通して学ぶ課題を自分で決めて生まれてくる。
自分の人生は自分の魂や高次の存在がプランニングをして生まれてくる。
人生に起こる大きな困難は、あなたのプランのために、あなたを愛する人たちがその役割を引き受けて起こしてくれている。


自分が苦痛や困難と感じることは、いったい私に何を学ぶことを思い出させようとしているのか?と真摯に向き合ってみると、胸のあたりがざわざわしたりぎゅううっと絞られるような感覚になります。理屈としては理解できても、身体がまだ受け入れられない反応です。

だからって、それを抑圧して、何もなかったことにすること。
都合のいいように意味付けをして、自分の本当の感情に向き合わないこと。
誰かの責任にして被害者でい続けること。

自分の目的のために、自分の大好きな人たちが、愛とやさしさにもとづいていやな役を全うしてくれる。なのにそれから目を背ける。

必要なリソースはすべてギフトとして与えられているのに、もしくは経験を通して身につけられるように機会が与えられているのに「私なんて・・・」と自分を否定する。卑下する。


実はそれこそが、最大の傲慢さなのです。

大切なのは、自分が経験してきたことと今置かれている環境にまっすぐに向き合うこと。
それこそが自分でプランニングした生き方であり、人としての誠実さであり、謙虚さのあらわれです。

人にとってネガティブと思われる様々な感情も、必要があるから起こっているわけです。
それを抑圧したり、ごまかしたり、見てみぬふりをしたり、自分なんてと逃避することが問題なのです。

そんな傲慢な自分に気づいて、本当の目的を思い出し、それを全うする行動をしよう。

私はまだ明確に自分のこの生での課題が見えているわけではありません。
これまでもたらされてきたもの、これからもたらされるもの、内から沸いてくる声に、素直に向き合い耳を傾けることをし続けようと思います。

自分の意志でばりばり切り開いて、いろいろなことを達成していくのもいいと思います。

だけどそれさえも、本当は自分の意志ではなく、魂会議でのプランニングの一部ですでに決まっていることかもしれません。今の自分が自分と思っている小さなエゴを抜けて、本当の自分の計画にチューニングすることが、今の目まぐるしい環境の中で、一番求められていること、重要なことなのだと最近しみじみ思うのです。

自分がたてたプランのために与えられた自分自身というギフトを「自分なんて」と卑下することが、どれだけ大きな意志や愛を否定する傲慢なことなのか。

すべての出来事や人が、自分のために用意されたありがたいものであり、自分は必要なものをすべて与えられているんだと知ることがどれだけかけがえのないことか。どれだけ人生が違ったものになるか。

それに気づきましょう。

ハイ。


混乱したとき、頭がいっぱいになっているとき、もやもや~っとした感じがするとき、
どうしようもなく気持ちが落ちているとき、私はよく歩きに行きます。

歩きながらいろんなことを考えます。

家に引きこもってただゴロゴロしていたり、漫然とPCに向かい合っていたりすることもありますが、同じようにぐるぐる、くよくよ考えるにしても、歩いた方が断然プロセスが進む。いろいろなことが整理されていく。

だからこれまで歩くことは自己対話だと思ってきました。

歩いているときに何が起こっているかもう少ししっかりふり返ってみると、歩いているときに自分がやっていることは、大きくわけると「考える」と「感じる」ということだと思います。


「考える」

考えるというのは、無意識に「考えてしまっている」ときも多々ありますが(というか常に何かしら考えているのだけども)、私が一番陥りやすいのが、頭の中にいろんなことが雑多に散らばっていて、「うわ~、どうしよ~」という状態です。

そういうときは、ひとまずノートにその頭の中の断片を書き出してみて、そこから整理することもありますが、もう少し深いレベルで考えたり、いろいろな問いかけが必要なときこそ、歩くことがぴったりです。

特に行先を決めず、気の向く方に向かって歩き始めます。気の向くところで曲がったり渡ったりします。1時間~2時間くらいはそうやって歩きます。

そうやってずっと歩いていると、いろんな思考の断片が浮かんでは消え、それについてまた新たな問いや視点が出てきたりと、今まで気づいていなかったものが現れたり、奥の方にあるかすかな感覚にリーチしたりすることができます。そうやっているうちに、自分の中がだんだん整理されてくるのです。

身体が動いていると、脳も身体の一部だから、何かの考えに固着しないですむのでしょうか。物理的に一ヵ所に留まっているのではなく、前に進んでいる、動いていることが、エネルギーを流れやすくするのかもしれませんね。

そして何より、歩くことによって、リズムをつくることができる。
そのリズムによって、発想が促される。
バラバラにちらばっていた要素に、流れができてくる。
それが歩きながら考えることによってもたらされる効果。


「感じる」

考えるときは一定のリズムで歩き続ける感じですが、意図を持ってゆっくり歩こうとしているときは「感じる」ことをやっています。

見慣れた街でも、初めて訪れた街でも、街の景色や人々の様子などを観察しながら、聞こえてくる音や肌で感じる空気感を味わいながら歩く。

そして自然の中にいるときは、肺一杯にきれいな空気を吸い込みながら、五感を全開にして歩く。みる、きく、だけでなく、かすかな香りを感じたり、肌で自分を包む世界全部を感じたり、実際に触ってみたり。そして、そういった自然の中で食するものは、ただの水でも、塩むすび一つでもとてもおいしく味わえる。

体を動かさずにできてしまう仕事をしていると、思考で暴走しがちになる。なのでこういう自然の中で「感覚」を開きながら歩くことで、生命のリズムを取り戻すことができる。

いずれにしても、「歩く」というのは、本来の自分を取り戻すこと。
バラバラになった自分のかけらを集めて、つなぎなおしていく行為なんだな、と思います。


さて、さらに書いていて思い出したのは、数年前に挑戦した「100km歩け歩け大会!」
残念ながらこのときは50kmでリタイアしたのですが、非常に貴重な経験でした。

そのときの記録↓↓

今よりもだいぶまじめに取り組んでいた様子が伺えますが、たまにはこんな風な経験を通して、自分が歩んでいる人生、自分が歩んでいる道を大きく振り返ってみることも大切だなとあらためて思います。

そして、人は永遠に歩き続けることはできない。
だから「休む」ことが必要になる。

ということで、先日書いた 『【休む】人生のハーフタイム』 もよかったらどうぞ。


文章を書き続けるのも、歩くことと一緒です。
自分の中にある断片を統合していくため。
バラバラになった自分のかけらを集めて、つなぎなおしていく行為そのものなんです。





最近、物忘れ、度忘れが増えてきて、仕事や日常生活にたまに差し支えることがあり、いったいどうしたものかとちょっと真剣に考えています。

毎日数万個の脳細胞が死んでいくので、しょうがないことなのかもしれませんが、もう少しどうにかならないかな…と思います。


さて、「忘れる」ということを考えてみると、いろんな側面があります。

人の名前や場所の名前などを忘れてしまう。昔覚えていたはずのことが思い出せなくなる。
覚えても覚えても、すぐに忘れてしまう。もはや覚えることすらできない(笑)、、、とか。


忘れたくないのに次第に薄れていってしまうこともあります。
感覚や感情を伴った鮮やかな記憶のはずだったのに、次第にぼやけてくる。リアルな感覚を思い出せなくなってくる、とか。


部分的に、または、ぽっかりと記憶が欠落していることもあります。
そこだけ空白になったかのように、何も思い出せない(酔っているときとはまた別で)、とか。


忘れたいのに忘れられないこともあります。
早く自分の中からなくなって欲しいと思うのに、何度も何度も鮮明によみがえってきてしまう、とか。


仕事で絶対に忘れたらこまることなどはもちろん記録しなくてはなりませんが、

忘れたくない体験なのに次第に薄れていってしまう場合は、写真やビデオを見返したり、そのときの出来事や感情や考えたことなどを克明に書いておくこともできます。

でもこれに関しては、自然に忘れるままにまかせてもいいのかなと思っています。というのは、「忘れる」というのは、脳の中のデータベースからそれに関する情報がまったく無くなってしまうわけではなく、そこにアクセスする回路が、使わないほど減ったり無くなっていくからなので、それだけ必要がないということでもあります。

私の場合、ここ最近で絶対忘れたくないなと思ったのは、いろいろな場での感情の動きだったり、訪れた先の感動的な景色だったり、日常のなかの些細だけれど心動くことだったり、誰かの深いやさしさだったりといろいろありますが、

その中でも強烈だったのは、昨年観に行ったタンゴと鼓童(太鼓)のコラボのコンサート。タンゴという情熱的なダンスとともに、芸能太鼓集団鼓童の坂本さんが大太鼓を叩いている姿を、手をのばせば届くんじゃないかくらいの距離で見て、その迫力や太鼓の重い響き、光る汗や息遣い、リズムにあわせて複雑に動く筋肉など、を全身で観じ(感じ)ながら「ああ、この感覚は忘れたくないな」と思っていました。荒ぶる神を目の前で観ているようでした。

1年以上が経って、今では部分的な記憶になってしまっていますが、その出来事に関しての記憶が薄れたとしても、その実感が消えて無くなったわけではありません。そのときの感動があるからまた、何かの行動をすることができるのです。


部分的にぽっかり抜け落ちている記憶でいうと、中学性のときに母を亡くした後です。お通夜、告別式を終えて、たしか1週間ほどは学校に行かなくてよかったはずなのですが、そのときのことを全く何も覚えていません。みごとなほどにぽっかりと抜けています。

きっと、突然のことを受け入れる、いや、受け止めるための、人間の防衛機制なのかもしれません。今みたいにグリーフという考え方があるなんて、中学生の私は知る由もありませんので、悲しみ方も知らなかった。これに関しては、これまでもいろいろ取り組んできましたし、これからも自分のこの生に特徴的なこととして、折にふれて取り組んでいくことなのかなと思っています。


さて、今日一番考えてみたかったことは、忘れたいのに忘れられないことです。

これに関しても、時間が経ってもう別に何とも思わなくなるということもあれば、少しちくっとするけどまあよい経験だったなと思えることもあるし、いまだに思い出すたびに腹立たしさや怖さがよみがえってくる、というようなこともあります。これが重傷だと、日常生活に様々な支障が出るかもしれません。

で。

そういうのって、ひとまず専門的な解釈はおいといて、「感情が未消化である」ということが、とても大きなキーワードだと思います。

何か、受け止めがたい事があったとき、その辛さや痛みや悲しさ、そしてそれを覆うための怒りや憤りなどの感情から逃げようとして、「見ないようにする」「ふれないようにする」。時間が経てば解決するという看板をかかげて自分の中でふつふつとしている感情に「フタをしてみないことにする」。気持ちを切り替えると言いながら、他のことで単に「ごまかしている」。それを「忘れた」と言って、自分も他人もごまかす。

いずれにしても、その出来事に反応している自分の感情としっかり向き合ったり、自分がそうなんだなと受け止めていない限り、その感情はなくなるわけではなく、ことあるごとにその感情を刺激するようなことが起こりつづけます。

そしてそれにさらに向き合わなくするために、ごまかす術が上達し、心の壁は頑丈になり、気づいたときには自分ではどうしようもないくらいの鈍感や不感症になってしまいます。あまりにも頑丈な防壁で閉じ込められた感情によって、内部の身体が硬直化したり、蝕まれていくことになります。(この辺はまた改めてちゃんと!)

だからといって、なんでもかんでも感情を丸出しにすればいいと言っているわけではなく、ごまかさずに、自分の感情とつきあっていくことが大切。

こう言ってしまえば簡単ですが、難しいこともある。だけど安易にやろうとすると、結局フタをするだけで意味がない。

そして、本当の自分は、自分の「逃げ」「回避」を知っています。自分がこの生で必要なことを学ぶために起こっている出来事から学ばずに逃げているのだから、もっと大きなことが起きつづけます。


「忘れる」という字は、「心を亡くす」と書きますが、自分の心(感情)をなかったことにする「亡くす」、つまり「自分の心を殺す」ことは、カルマを生むだけ。もしくは、フタをしただけで放置している場合は、その感情がずっと「自分はここにいるよ」とアピールしてきますから、無意識にそれに向き合わないですむことをし続けなくてはいけないため、本来向けるべきことに向けるエネルギーが、24時間、365日、生きている限り漏れ続けているということも起こってしまいます。

しっかり自分の心(感情)に向き合って、昇華するという意味で「亡くなって」欲しいものですね。そして自分のエネルギーは、循環を通して与えられているもの。地球上の他の資源と同じように、無意識に漏れ続けるなんてもったいない!どうせなら本当に必要とされるところで使いたいものです。



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お子さんがいる方はご経験があると思いますが、赤ちゃんを沐浴させているときはプカプカ気持ちよさそうなのが、少し大きくなって海やプールなどに初めて入るときには、体にひっかき傷ができるほど、強く親にしがみつきますよね。

また、たとえば船から投げ出されたとして、海面に浮かんでいる丸太があったとしたら、誰でも、とにかくしゃにむにしがみつくと思います。



そうやって「しがみつく」のは、それだけ恐いからです。その状態では、しがみつくことが唯一、自分の生命を守る方法になる。


あたり前といえばあたり前の話かもしれませんが、これと同じ構造が、日常や人生で起こっているような気がします。

どういうことかというと、「丸太」を次の言葉に置き換えてみてください。

「成功体験」「積み重ねたもの」「誰かの基準」「人からの評価」・・・


きっとその丸太にしがみついている人の中にはこんな声があがっているはず。


「これまでこれでうまくやってこれたんだから…」

「○○さんはこれでうまくいったんだから…」

「せっかくここまでやったんだから…」

「もうだいぶ投資しているから…」

「こうやっていればいつか認められるはず…」

「周りの人の信用をこわしたくない…」

「家族のために…」

「○○大学だから…」

「○○製品だから…」


きっと他にもいろいろあると思います。

一見、まっとうにも思えますが、これらはすでに終わった物語です。
過去の自分がつくりあげた物語、そんな過去の物語にしばられている誰かがつくりあげた物語です。
丸太の大小は様々あれど、それががっちり大きなものであるほど、手放せないものです。

この丸太にしがみついているということは、今、そしてこれからを生きようとしないということです。


そしてもっと重要なのは、その人がしがみついているのは実は、丸太にしがみついている限りなくならずにくすぶり続ける自分の恐怖心であるということです。

恐いからしがみついているのに、しがみついている限りその恐さはなくならない。
なくならないどころか、もっともっとその恐怖心が大きくなって、絶望的に手を離せなくなる。

じゃあ、どうすればいいんでしょうね。。。



冒頭のプールだったら、しがみついている子どもに対して、「大丈夫だよ~」と声をかけながら、一緒に少しずつ水に入って行きながら、徐々に水にならしていくと思います。それで少しずつ体の力が抜けてくる。

私たちは大人なので、そんなにわかりやすく声かけや手で支えてくれる人はいません。
でも、自分が自分に対してそれをすることはできます。

そのためにはしがみついている自分に気づき、しがみついている手を離そうと自分で決めなくてはなりません。そのために一番大切なのは、過去や他者ではなく、今の自分はどうしたいのかの声を、どんなかすかな声であっても、きくことです。本当にずっと丸太にしがみついていたいの?


過去を大切にすること、他者の期待にこたえることが悪いことじゃない。
ただ、そこにしがみつづけることは、極論になりますが死んでいるのと一緒です。
だって今を生きていないのだから。


でもでも、大海原で丸太から手離すのはこわいじゃん!
手離したら死んじゃうかもしれないじゃん!
(ホントはしがみついてる方が死んじゃってるんだけど)


じゃあどうするか。
丸太から手を離して、悠々と大海原を楽しんでいる人を見つける。
その人がどう生きているかをみる。きく。

どうして手を離せたのかきいてみる。
手を離してみてどうだったかきいてみる。
その人のエネルギーを感じてみる。

そうやって知っていくことで、自分もできるかなっていう気になってくる。
ちょっと試しに離してみようか、あ、結構気持ちいいかも!
そうやって少しずつ自分で自由に楽しんでいけるようになる。

そういう誰かを単にまねしたり、誰かが抱っこしてくれるのを望むなら、また違う丸太にしがみつくだけになる。とにかく自分で勇気を持って、丸太から手をはなすこと。

そこでぷか~っ浮かんだとき、ああ自分はこんなにも大きな力と流れ(それは愛と呼ばれているのでしょう)によって支えられているんだ、これまでも支えられてきたんだと、初めて深く理解できるのだと思います。

今日はかなり抽象的ですが、自分の具体的「しがみつき」体験はまた今度続編で。


(c) .foto project