『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』ゾフィーの最期の祈り | 旅はブロンプトンをつれて

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2005年に制作されたこの映画(原題:Sophie Scholl – Die letzten Tage→直訳『ゾフィー・ショル、最期の日々』)について、以前このブログでもゲシュタポの刑事とヒロインであるゾフィーのやり取りについて書きました。

その前年、今もパロディなどになって有名な『ヒトラー〜最期の12日間〜』(原題:Der Untergang→直訳『没落』)が公開され、その末尾にこちらの映画の主人公の名前が、ヒトラーの秘書をしていたトラウドル・ユンゲ本人がインタビュー形式で登場し、自己の責任について語っていました。
ユンゲさんは自分よりひとつ年下のゾフィー・ショルの名前をあげて、「若かったという理由は言い訳にならない。若くても、(ゾフィーのように)きちんと目を見開いていたなら(自分にも真実が)見えたはずだ」と内省していたのが印象的でした。


『ヒトラー〜最期の…』は、ヒトラーの言葉は怒りや呪いに満ちていて、ホッとするような台詞は殆ど出てきません。
(もちろん、映画の中での俳優さんたちは名演されていたと思います)
これに対し、『白バラの祈り…』の主人公ゾフィーは、邦題のとおり、映画の中で何度も祈ります。
反政府ビラを制作してまいたという動かぬ証拠を突き付けられた彼女はついに兄に続いて自白をし、一度は釈放寸前だった身から一転監獄に逆戻りして、その後は協力者の名前を言えと迫られ続けるのですが、深夜に減灯された房室の中で毛布を被って眠っていると、拷問を受けている人の悲鳴が聞こえてきて目を醒ましてしまいます。
そこで彼女は横臥したまま両手を組み、「神様、わたしのすべてをあなたに捧げます。何もできないこの身ですが、いま私の心を委ねます。あなたに似せてつくられた私たちに、どうか平安を与えてください」と祈ります。
不安に呑みこまれそうになったとき、空元気を出そうとしたり、何か他のことで気を紛らわそうとしたりするのではなく、人間を超えた力に対して素直に「平安を与えてください」と祈れる人は強いと思います。


また、国家反逆罪で起訴され、無法裁判官として悪名高いローラント・フライスラーの人民法廷にひきだされることが翌日に決まった直後、鉄格子の窓から午後の太陽を眺めて瞑目し、「神様、心の底から願います。お願いです。あなたのことは何も知らない私ですが、あなただけがわたしの救い主です。どうかわたしを見捨てないでください。」と祈るのです。
イエスが最後に呟いたとされる詩篇22「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。」とか、 詩篇27「あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください、見捨てないでください。」を思い出します。
絶体絶命のピンチにあって、なお主に救いを求める態度は、聖書において、これら嘆願に感謝の言葉が続くことを知っていれば、いわゆる「困った時の神頼み」ではなく、神への信頼故と理解できます。
これらゾフィーの祈りを誰が記憶、記録をしたのかと疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、逮捕から裁判までの4日間という短い間、同房になった共産主義抵抗運動家の女性、エルゼ・ゲーベルによるものと思われます。


そして死刑判決を受けたあと、そのままミュンヘンのシュターデルハイム執行刑務所に移送され、別れの手紙を書くよう勧められたことから当日の処刑と知り、両手で腹腔を抑えて呻くシーンは、彼女が死を望んでいないことをはっきりと示しています。

その後、拘置所の看守の好意もあって、両親との最期の面会をはたします。
永遠の別れ際のやり取りは、母親が「イエスさまのことを忘れないでね」というと、「お母さんもね」でした。
独房に戻り、十字架の架かった脇の高窓から太陽を見つめている(その姿が日本語版DVDのジャケット写真になっていました)と、そこに刑務所付きの牧師が訪ねてきます。
ここで描写される処刑を目前に控えたゾフィーの祈りのことばは、この映画の中でもっとも印象的でした。
その文言を書き留めておいたのですが、コロナ以降、最近とくに思い出すようになり、毎朝お寺で鐘を撞く前に、そして夜寝る前にそっと唱えています。
不思議なことに、この祈りを唱えるようになってから、鐘楼堂の下でともに手を合わせてくださる方があらわれるようになりました。


<ドイツ語>
Mein Gott, herrlicher Vater, verwandle Du diesen
Boden in eine gute Erde, damit Dein Samen nicht
umsonst in sie falle, wenigstens lasse auf ihr die
Sehnsucht wachsen nach Dir, ihrem Schöpfer, den sie
so oft nicht mehr sehen will.


<英語>
“My God, glorious Father, transform this ground into fertile earth so your seeds may not fall in vain. Let the longing grow for you the creator that they so often do not want to see.”


<日本語スクリプト>
「栄光に輝く神よ、この地上に種をまいて実り多い土地に変えてください。
神様に目を向けない人々にも願いが届きますように。」


ドイツ語は殆どわからないのですが、英語から想像するに、詳細に直訳すると次のようになるのではないでしょうか。

「わたしの神、栄光に輝く父よ。あなたのまいた種が実を結ぶようにこの地上を肥沃な土地にかえてください。あなたを仰ごうとしない人たちに、創造主であるあなたへの想いが芽生えますように。」


これから断頭台へと向かう主人公が、自分の生命を奪うことを決定した人たちへ向けて祈ることばを聴いていると、人間、覚悟を決めたからといって、こんな言葉を口にするのは容易なことではないと感じます。
そして自ら願い出て按手による祝福を受けるゾフィー。
祈りが終わるのを待っていたかのように迎えに来た女性看守に無言でうながされて席を立つ彼女に、牧師はこう言います。

Niemand hat grössere Liebe, denn der sein Leben lässt für seine Freunde.
Gott ist bei dir.

「友のために命を捨てる人ほど愛される者はいない。神がついておられる。」


戦時中の話だとか、ナチスによる弾圧があったとか、兄妹の思いとは裏腹に、殆どの学生たちは白バラグループの反抗に呼応しなかったばかりか、彼らを軽蔑していたとか、結局この祈りは聞き届けられたのかどうかとか、そういう問題ではなく、こうした祈りを自然に口に出せる、普段からの生きる姿勢の問題だと思います。
だとすると、ユンゲ女史が話していた通り、年齢や立場は関係ないと思うのでした。

 
 

それに、現代においても財産や地位にものをいわせて弱い者いじめをしたり、神に背を向けるようその人の心を挫こうとしたりする人間に対する際に、彼女の姿勢は希望になります。

死刑判決を受けていなくても、明日事故や病気で死ぬかもしれない私たち人間はすべて、毎日が彼女と同じ立場にいるのではないでしょうか。

今回、このブログのためにブロンプトンを走らせながら、白バラはないかと探してみたのですが、赤やピンクのバラ、白い花は数多くあれども、白いバラはなかなか見つからず、都内のある住宅の玄関先に咲いているのをみつけたのは、探し始めてから3日目のことでした。

それくらい、稀有な存在の人たちということになるのでしょう。

「あなたは、こういう結果になると分かっていたら、こんなことはしなかったのではないですか」と逮捕後に捜査官が問うと、ゾフィーは、「いいえ、もういちど最初からという機会が与えられたなら、全く同じことをすると思います」と答え、捜査終結が近づくにつれて、兄はともかく、妹の彼女だけでも死刑を回避して、敗色が濃くなってきた第三帝国滅亡後に生きて新社会のリーダーになって欲しいと願うあまり、供述調書に「兄に唆されてビラを撒いたが、今は後悔している」という文言を入れたいと同捜査官が願い出た時には、「それは私の考えとは違う。情けは要らない」ときっぱりと断った彼女をみていると、作中では史実の通りに赤いカーディガンを着ていましたが、刑死直前は白装束が似合ったのではないかと感じてしまいました。

それもこれも、上記のような祈りを自然に口に出せる、キリストへの信仰心ゆえでしょう。
たとえ今日一日でも、こんなに真っ白な気持ちを見習いながら過ごせたなら、過去の自分の罪だとか、明日の不安だとかに拘る必要はなく、一日分の回復と成長になるのではないでしょうか

(映画「白バラの祈り」より)