仕事帰りに車でスキーに行ってみました(その2 中日) | 旅はブロンプトンをつれて

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仕事帰りに白馬まで車で走った際、その日は関東から長野北部まで良い天気でした。
早春といわれる時期もとうに過ぎているので、あすも良い天気でありますようにと願ったのですが、翌朝6時前に起きてみると、あいにくの曇り空でした。
春スキーで曇天というのは珍しいのです。
それでも宿の方が「雨が降らずに良かったですね」といってくれました。
山の天気は移ろいやすいのが常識で、昨日のドライブ中の日本晴れは、高尾から富士山、南アルプス、八ヶ岳、蓼科、中央アルプス、北アルプスと、ずっと見え続けていたわけですから、運が良かったのかもしれません。
その日の予報は午後から下り坂で雨が降るかもしれないということで、リフト券をどうしようかと迷ったのですが、八方尾根スキー場の春季ネット割引券は、通常の半日券(半日券にはネット割引がありませんでした)と数百円しか変わりませんから、一日券を購入しました。


7時に朝食を食べたあと、予めクレジットカード決済で購入手続きを済ませ、滑る格好をしてから、そのまま車に乗り込んでスキー場へ向かったのですが、昨晩は暗くてよくわからなかった、今シーズンは雪が少ないという様子がよくわかりました。
まだ4月までに1週間以上あるというのに、道路はもちろん、田んぼや畑も残雪はほとんどなく、向こうに見えるスキー場の最下部は、スキーヤーが下ってくる幅だけ雪が残っている状態です。
これではゴールデンウィーク前のようで、1カ月早い雪解けです。
もう何年もこの時期に八方尾根に来ていますが、ここまで雪が少ない状態ははじめてです。
きけば、今シーズンは雪が積もるのは例年よりも早かったものの、年が明けてからの厳寒期にあまり雪が降らず、3月に入ってからは雨の日が多かったので、それで融けてしまったのだとか。
そういえば、昨年の12月に寒波によって日本海側の道路が麻痺したときも、季節風の向きが海岸線に対して垂直よりは並行に近かったため、海沿いには大雪が降ったのに、そこから山に入ったスキー場には充分に雪が降らなかったといいます。
こういう情報は、ニュースだけ見ていてもなかなか分かりません。


スキー場の駐車場に車を入れる際にも、いつもは早く来ても満車のゲレンデにもっとも近い駐車場が空いていました。
ここに車を停められたのもはじめてです。
ここでカバーから板を取り出します。

ソール(滑走面)をみて「大丈夫か?これ」と不安になります。
バブルの頃なら、シーズン前にお店に出したり、自分の家で行ったりと、遅くとも昨夜宿に着いた直後に板にワックスを掛けていたのです。
それも、ちゃんとした整備台の上で。
でも、最近は近所のチューンナップ専門店が無くなってしまい、今はシーズンに一度か二度しか行きませんから、前シーズンの最後に水分を拭き取って、乾燥させてはいおしまいみたいになっています。
さらに昔みたいに「スキーがより滑ってくれないと嫌だ」から「一応滑ってくれればいい」に自己の感覚が変わってしまったのでものぐさになっていたのです。

スキーってシーズンスポーツだから、用具を売るにしても整備するにしても商売が難しそうです。
先日、少し家から遠い場所ですが、たまたまスキーチューンナップ専門店を見かけたので、今度はそこに出そうかなと思いながら、板を合わせてみたらベンド(アーチベンドと呼ばれる板のたわみ)が殆ど無くなっています。
スキーのたわみは、踏んだ時に跳ね返りを利用してターンする、スキー板の重要な特性です。
硬いレース用の板ではなく、比較的柔らかいデモ(ンストレーター)用の板で、年甲斐もなくコブ斜面とかアイスバーンをガシガシ滑っていたので、へたってしまったようです。
いや、たとえ毎シーズン1,2回であっても、もう何年もこの板だし、私が太ったために体重が増えて板に過剰な負担をかけたのかもしれません。
これはそろそろ新しい板を買わないとダメかもしれません。


自分のような長年のスキー経験者がレンタルスキーを借りない理由は、このベントにあります。
レンタルスキーは色々な人が使うから、きちんと整備されていても、板自体がへたっていることが多いのです。
もう30年も前の話ですが、職場旅行の余興に何人かの同僚と韓国のスキー場で日帰りスキーを楽しむことになり、表面にハングル文字が大書きされた謎のレンタルスキーを借りて滑った際、ベントはおろかエッジ(滑走面の角)も殆ど丸くて、「これでどうやって回って止れというんだ」という状態で、カチカチの人工雪アイスバーン(韓国は日本より寒いけれども、雪は大して降りません)を下る羽目になり、それでも乗る位置を工夫したり、わざとずらして変なシュプールを描いたりしたことがあります。
あの時は傾斜のある巨大な銀盤を、スケート靴で滑り落ちている気分でした。
反対に、スイスの有名なスキーリゾートに独りで滑りに行った際には、「上級者だ」といったらやたら硬くて重い板を借りることになり、それで標高3000メートルを越える氷河の上を滑ったら、空気の薄さとあまりの硬さに腰に来てしまい、このままここで滑り続けたら腰が曲がったままになるかもと感じたことがあります。
最近のスキー場には、板と靴を通年で預かってくれて、オフシーズンには修理や整備をしてくれるサービス(もちろん有料で、自分の家に置かないだけに費用がかかります)もあります。
しかし、それでは同じゲレンデをスポーツクラブ感覚で利用することになり、先般思い付きで旅の途中に猪苗代スキー場に立ち寄ったような、スキーとともに移動の旅を重視する自分には向いていないかもしれません。


さて、靴を履いてゲレンデ基部にあるチケット売り場に行きます。
さすがに八方尾根です。
どこの国の人かは定かではありませんが、英語の訛りからオーストラリアかニュージーランドの人と思しきグループと、売り場の女性がやり取りしています。
スマホのバーコードを見せてリフト券を受け取るだけですが、小学生の頃、紙に鋏を入れるタイプの券を方言がきついお爺ちゃんが売っていた時代とは隔世の感があります。
そういえば、昨晩水を買いに立ち寄ったスーパーマーケットも容姿が非日本人の人ばかりで、なかには骨折したのか松葉杖をついているお兄さんもいて、ああ、昔の細野(白馬になる前の集落の名前)はもう無いのだなと感じました。
リフトを乗り継いで兎平まで行くと、宿の人が言っていた「良かったですね」の意味が分かりました。
曇天ながら、ちゃんと後立山連峰が稜線まで見えています。
気温はこの場所にしては暖かいので、日焼けの心配もなく、身体はよく動きそうです。
足慣らしに中斜面を滑ってから、雪質の良い最上部中心に滑りましたが、2,3本滑り降りるだけで汗だくになります。
これが自転車なら、ここまで短時間では有酸素運動にはなりません。


何のスポーツでもそうですが、一定の技量を越えると無駄なところに力が入らないので、楽に滑っているように傍からは見えてしまいます。
「スキーに行きます」というと、「バカンスですか、いい御身分ですね」と嫌味を言う人がいますが、そういう人は、運動としてのスキーを知らない人です。
たとえばトライアスロンをやっている人なら、海辺のリゾートに独りで来ても、スイムはもちろん、ランニングやバイクの練習をして、それを「バカンス」と評価する人はいないでしょう。
それに、欧米人のバカンスというものは、最低でも1週間、長ければ数カ月に及ぶ休暇を指し、スポーツだけでなく読書や音楽鑑賞、社交など日常ではまとまった時間がとれないとできないことを真面目にやる期間をいうもので、日本人のように2泊とか3泊でここぞとばかりに強迫的に運動したり、逆に何もせず漫画を読んだり一日中動画を観て過ごすような休みはバカンスとは呼びません。
どうも日本人は「仕事」と「遊び」を二分して考え、「楽しく仕事をする」とか「遊びの中に仕事を見出す」人を何か不真面目で、楽をしながら生きていたい人みたいに評価するか、逆に「仕事も遊びも手を抜かず全力で」みたいな人を優秀と考える人が多いように思います。


そこに無いのは、人生が楽とかきついとかではなく、今日一日を「善く」生きれば、何をしていても、何もできなくてもそれで「善し」とする考え方です。
「虎は死んで毛皮を残すといいますが、あなたは何を残すのですか」と訊いてきた年配女性がおりましたが、その虎は毛皮を残そうとして日々を生きたのではありません。
毎日を虎として精一杯生きることを積み重ねて、結果として意図せずに毛皮が残っただけです。
人間も同じです。
アルコール依存症の治療を手伝っている人間が、自分は患者さんたちと違うと言い訳しながら、日々の疲れをアルコールで癒すような毎日を積み重ねるから、結果として肝臓がやられたり認知症になったりするのでしょう。
それを自分で「善し」としたその人の人生ですから、外野の私がそのことをつべこべと評価はしません。
ただ、私には信仰があるから、自分に置き換えたなら、それは自分に嘘をつき続け、神がその人に望んだこととは外れた人生になるから、何を残せても、何も残せなくても、最悪怒りや恨みに基づく不和だけを残して逝くようなことになって、人間を超えた存在にとって「善くない」人生で終わってしまうことには違いないだろうと想像するだけです。

私が仏教徒なら、そんな人は来世も今生同様にろくなものではないでしょうと言いたいところです。
このあたりの話は、他人からどんなに立派だと評価を受けている人間でも、自己も含めた人間について深く見つめ、考えた経験のない人には、何を言っているか分からないと思います。


そういう人が、「なぜあなたは仕事を休んでまでスキーをしたり、旅をしたりするのですか」と問われて、「それが神さまからいただいた機会だからです」と答える姿をみても、信仰を持ち出してサボる言い訳をしているようにしか聞こえないでしょう。
でも、これはスポーツや趣味に限らず、読書も学問も仕事もすべてに対して言えることで、「お金を稼ぐため」「結果を残すため」「自己の利益になるから」「嫌なやつを追い落としたいから」という理由でそれらを行っている人には、「日々を善く生きるため」にそれをしている人の気持ちは逆立ちしても理解できません。
私もかつては前者の側に属していましたから、それがよくわかります。
人間、その人の人生を根底からひっくり返すような出来事に遭遇しないと、なかなか変われないものですし、そのような出来事にあってもなお、それを他人や組織、社会のせいにしているようでは、回心はおぼつかないのではないでしょうか。
そもそも、自己を深く見つめている人は、他人の生き方をとやかく評価したりはしません。
そんな暇があったら、今日を善く生きることの方に意識をもってゆきます。
だから、対象が誰であっても他人のことを悪くいう人、悪く評価だけでなく、ことさらほめるような人とは距離を置いた方が良いのです。
そういう人は、人間は自分の利益で生きているという信念に基づいて生きている人で、他人との関係は、利用するか、されるかの二択でしかありませんから。

(つづく)