「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

中学生の頃、学校のどこかに、こんな碑文を見かけたことを思い出しました。
「宗教教育をやめろ」「信教の自由を」と叫ぶ大学生に対し、クリスチャンでもあるその学園の創立者の奥さまは「宗教教育をやめるくらいなら、こんな学校は無くなった方がいい」と決然と反駁していました。
そのとき私は、「嫌がっているものを強制することなどないのに…」と傍目で思っていました。
いま信仰を得て、また旅先で神社や寺院、教会が学校を設けているのを見るにつけ、あの時のことを振り返っています。
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(今回は写真と本文はあまり関係ありません)
 
2005年にドイツで制作され、翌1月に日本で公開された映画に、『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』(原題“SophieScholl – Die letzten Tage”)という作品がありました。
ゾフィー・ショル(ゾフィア・マグダレーナ・ショル1921-1943)とは、第2次世界大戦下、ナチスドイツに抵抗したミュンヘン大学の学生たちと教員、通称白バラグループの中心にいた、ショル兄妹の妹さんのほうの名前です。
彼女は1943218日にミュンヘン大学で兄とともに反政府ビラを撒いているところを逮捕されました。
ナチスは取調、裁判、判決を僅か4日で済ませ、同年同月22日に兄妹を処刑しています。
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(お涙頂戴ものだと思って観ると、痛い思いをします)
 
ミュンヘンへは何度か行ったことがあるし、大戦後期に白バラという抵抗運動があったことは本を読んで知っていましたので、映画を観ました。
見どころは、主人公とゲシュタポの取調官モーアとのやり取りにあります。
ゾフィーのゆるぎない信念の前に、最初は彼女の行為(反ナチのビラを発行し配布したこと)を国家反逆罪として追及していたゲシュタポの取調官が、だんだんと体制追従者として追い詰められてゆくさまは、観ていて圧巻です。
「信念を捨てれば命は助ける」「長いものに巻かれることは恥ではない」とドイツ敗戦を見越して何とかこの場を助命しようとする取調官に、「情けはいらない。すべてを受け容れます」と毅然とした態度で断頭台へと向かう彼女の姿に、信仰とは、人間の尊厳とは何ぞやと考えざるをえませんでした。
 
 
作中に、取調官モーア(Mohr)とゾフィー(Sophie)の間に交わされた、ナチスの優生思想に関する議論があります。
シナリオは当然ドイツ語なのですが、とても興味深いのでご紹介したいと思います。
英語字幕のYou Tubeだと1073010900の間の会話です。
(ドイツ語って発音はローマ字読みでかまわないのですが、名詞を大文字にするきまりがあって、読みにくいかもしれません)

 

Mohr
Aber Sie gehören zu einer verwirrtenJugend, die nichts versteht.
Falsche Erziehung ... vielleicht ist essogar unsere Schuld, dass Sie nichts
verstehen ... ich hätte ein Mädel wie Sieanders erzogen.
(ユダヤ人に対する死の収容所送りの真相に関する議論を受けて)
君は分かってない。
間違った教育のせいだ。
私に娘がいれば君のようには育てなかった。
 
Sophie
Was glauben Sie, wie empört ich war, als ich erfahren habe, dass die
Nationalsozialisten geisteskranke Kinder mit Gasund Gift beseitigt haben!
Mir haben Freundinnen unserer Muttererzählt, wie Kinder bei den Diakonissinnen in der Pflegeanstalt mit Lastwagen abgeholt wurden.
Da haben die übrigen Kinder gefragt, wo dieWagen hinfahren.
Sie fahren in den Himmel, haben die Schwestern gesagt.
Da sind dann die übrigen Kinder singend indie Lastwagen gestiegen.
Meinen Sie ich bin falsch erzogen, weil ichmit diesen Menschen fühle?
ナチが行ったショッキングな話があるわ。
精神を病んだ子のガス室送りよ。
母の友人から聞いたわ。
病院の子どもたちをトラックが迎えに来た。
“どこに行くの?”と聞かれて看護師は“天国に行くのよ”と答え、そして 子どもたちは歌いながら乗り込んだ。
私が彼らに哀れみを感じるのは間違った教育のせいだとでも言うの?
 
Mohr
Das ist lebensunwertes Leben.
Sie haben Kinderschwester gelernt, damüssen Ihnen doch auch
Geisteskranke begegnet sein.
価値のない命だ。
君は保母訓練を受けて精神を病んだ患者を見ているはずだ。
 
Sophie
Ja, ich weiss deswegen genau, dass kein Mensch, gleichgültig unter
welchen Bedingungen, berechtigt ist, ein Urteil zu fällen, das allein Gott
vorbehalten ist.
Niemand kann wissen, was in der Seele eines Geisteskranken vorgeht.
Niemand kann wissen, welches geheime innere Reifen aus Leid entstehen
kann.
Jedes Leben ist kostbar.
そう、だから分かるの。どんな事情があろうと裁けるのは神だけ。
彼らの心は未知数よ。
苦しみから英知が生まれるかもしれない可能性を誰も否定できない。
すべての命が尊いのよ。
 
Mohr
Sie müssen sich daran gewöhnen, dassendlich eine neue Zeit angebrochen
 ist.
Was Sie sagen ist romantisch und hat mitder Realität nichts zu tun.
新しい時代の始まりを理解するのだ。
君の話は現実離れしている。
 
Sophie
Was ich sage, hat natürlich mit der Wirklichkeit zu tun, mit Sitte, Moral
und Gott.
これが現実なのよ。礼儀とモラルと神の問題よ。
 
Mohr
Gott!  gibt es nicht.
神など存在するものか!
 
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双方のかみ合わない会話を聴いていると、どちらが現実を、そしてどちらが理想を語っているのか、わからくなります。
でも、障がいを持つ人は社会的に役に立たないのだからガス室に送るという話を通すのであれば、自分もまた社会的に不要になったときには、ガス室に送られることを甘受するか、さもなくば自ら死を選ぶという帰結に落ち着くはずです。
だからナチズムが崩壊した時、死を選んだ人たちはたくさんいました。
それは、現代の日本に自殺者が多いことや、何か大きな事件があると、すぐ安直に「死刑にしろ」と叫ぶ人たちが大勢いるのと同根のような印象を受けます。
さらに、姨捨山のところで話題にした楢山節考の話や、胎児スクリーニング検査結果の問題など、人間の価値を経済的に量ることや、優生学に対して社会科学の立場からの反論って、あまり見かけません。
 
私は障がい者のお世話は実習のときに少しだけやっただけですから、実際の現場を知りません。
きっと他人からは容易に窺い知ることのできない現場だとは思います。
ただ、障がいを持つ人に限らず、介護が必要な人たちに対して、交代可能性の観点から、「明日事故に遭えば自分も障がい者になるのだから」とか「年をとれば、いずれは自分も介護を受ける側になるのだから」という理屈でもって、だから彼らを自分勝手に「世の中に不要だ」などと決めつけてはならないと説いても、限界がある気がするのです。
また、家族や地域のつながりや力が失われてきているいま、「そんなことを言ったらご先祖さまに顔向けができない」と言っても、いまひとつピンとこないひとも多いのではないでしょうか。
ひとが社会に要不要云々と主張する人は、今の現実だけを見ているのでしょうから。
 
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(もう30年以上前のことですが、大学生のころ、ひとりでアウシュビッツに行ったことがあります)
 
映画ではこの後、あの「無法裁判官」として名高いローラント・フライスラーの民族裁判所での審尋のシーンがあります。(You Tube動画では12326~)
裁判そのものは噂に違わず裁判官ほか検察官や弁護側も含めて無茶苦茶なので割愛しますが、宣告の間際にショル兄妹のお父さんとお母さんが法廷に乱入して「私は2人の父だ。ひとこと弁護させてください」と傍聴席から叫ぶのです。
当然、フライスラーは「つまみ出せ!」と怒号しますが、去り際にお父さんがこう叫びます。
Es gibt noch eine andere Gerechtigkeit!
この言葉、ドイツ語の辞書をひいて直訳すると、「(この法廷とは)別の正義があるぞ!」になります。
日本語字幕では「正義は死なんぞ!」と訳されています。
しかし英語字幕では“There is a higher justice!”とされています。
higher justice”は不定冠詞ながら、「より高い所の正義」が何を指しているのかすぐにわかります。
これは処刑に先立って彼女が最期に残した言葉“Die Sonne scheint noch.”(「太陽は輝きつづけているわ」)という言葉にもあらわれています。
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(昔読んでいた本。主にメンバーの生い立ちや思想が書かれていました。この本によると実際にゾフィーを取り調べたゲシュタポの担当官は大変親切な人物で、同僚に「将来のドイツに必要なすばらしい人たちが処刑されるとは、恐ろしい世の中だ」と漏らしていたそうです)
 
人間が人間の価値をはかってよいのだろうかという場面こそ、信仰心の出番ではないかなと私は思います。
ひとは自分自身が神仏にならないよう防ぐには、自分の外に神仏をいただくしか手段がありません。
それに相手がどんな人であれ、他者の命や尊厳を軽んじ、また踏みにじる者は、自分の命や尊厳も含め、生命そのものを軽視していることになるという事実は、人間を越えたところからの視点を前提にしないと理解できません。
教会に通ったり神社やお寺にお参りしたりとかそういう行動のことではなくて、若いうちから神仏に触れておくことって、このような暗い世相だからこそ、相対的に重要になってきているのではないかと思うのです。
礼儀とモラルと神の問題こそが現実なのだと訴えるゾフィーの言葉には、社会のあり方を決めるのは、政治でも経済でもなく、結局は個々人の良心のよりどころと、そこからにじみ出る態度や姿勢によるのだと訴えているように私は思えてなりません。
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