客間に布団を敷きすぐに父の体を横たわらせた。

「ユウガタトイウノニ、マッタクアガルケハイガナカッタンダ。アガッテキタトキニハ、チッソヨイニニタショウジョウダッタ」

父は事情を説明するピーターの横で寝入ってしまった。

今日は生徒の数も多かったそうだ。船の上ではボンベのチェックやフィンの装着などを終えた者から最後の指示を受けた。

「レギュレーターを口にくわえたら順次エントリーすること。入ったら速やかに浮かび上がりバディー同士で場所を作るように。BCの調節は我々が降りたら指示します。今回はアンカーロープを使わないので我々にしっかりついてくること」

二人のインストラクターにそれぞれ四名くらいの生徒がつく。先に海面に降りた生徒はシュノーケルを顔の横に伸ばし既に海の中を覗いている。

最後の一人を送り出し、船板で待機するテンダーのスタッフと船長に合図した。

「四十分で上がる。ドリフト後のアセントポイントは例のところで」

今回の場所はアップウエリングが良い場所である。稜も久々であることと折角ならば透明度の高いゆっくりとした動きの潮流に身を任せたいと思ったのである。

海面での注意もほどほどに潜行開始となった。

若狭湾から日本海の沖合い出るとすぐ見える無人島、沓島がある。

この島には伝説があった。そもそも、今以上に大きな島であったらしく、なんでもそこに海人族(かいじんぞく)が住み、本土以上の楽園を築いていたという。だが、その楽園に悲劇が訪れた。大宝元年に長期にわたり続いた大地震。それがその島を沈ませたというのである。海人族の生活も共に沈み、わずかに残ったのがこの沓島と近くに浮かぶ冠島というのであった。ダイバーの間でも有名な話だが、西日本の神秘なる島の全貌を潜って見つけたいというロマンがそこにはあった。

稜は何度も何度も潜ったことがあった。その度に島の痕跡を探した。勝手を知るこの近海ではあったが、潜れる日はさほど多くはない。そして、幸運にも潜れたならば、誰もがその光景に言葉を失うのである。

潮の流れは今日に限って穏やかで中級者にとっても丁度いい。透明度の高さに感動した生徒は、次に魚群の多さに驚かされた。岩礁帯の隙間をぬって、岩のトンネルを抜ける。全て日の光が差し込む。何とも冒険心を掻き立てるスポットである。

久しぶりの海の圧力を肌で確かめた稜は、それでも決して仕事も忘れることなくバディのペアに写真を撮ったりした。

時間通りピーターのグループは浮上した。次に稜のバディー達もあがった。

だが、彼だけは上がってこなかった。

トランザムステップと呼ばれる船につけられた階段を最後に登るピーターが生徒に尋ねた。

「リョウセンセイハ?」

皆首を振るばかりである。

生徒の一人が手話をつくり、下に潜ると付け加えて説明した。

勝手な行動は仲間の安全を脅かすわけであり、そうしたことを講師である稜がする筈はないと船長もピーターも思った。

そして、ゆっくりと波立つ海面を皆が見ているとボンベから溢れ出したであろう空気の泡が無数に広がる箇所を見つけた。

船はすぐにそこへすすみ、ピーターが急いで海に入った。

ピーターは目を疑った。水の中で暴れている稜がいたのである。こんな彼など今までに一度も見たことがない。

水深十メートルぐらいの場所で、あろうことか、レギュレーターを口から外しているのである。

すぐにそれが窒素酔いだと分かった。

窒素酔いとは高圧の空気吸引で起こる大量窒素摂取により、まるで酒にでも酔ったような精神状態になることを言う。気分の高揚が主だった症状だが、まさか稜が今更そのようなことになるなどとは考えられなかった。

ピーターは自分の口からそれを外し、稜の口へ無理やり押し込んだ。そして抵抗する彼に構わず、BCジャケットの給気ボタンを押した。

二人はやがて浮上する。

ピーターはそれでも信じられない様子であった。浮上すれば直るも窒素中毒症がこんな浅い場所で掛かるはずもない。

スクールの生徒達も白い目で彼を見ている中、船長は急ぎ陸へ向かった。

クルーザーの上では横になったまま無様な醜態を見せていたという。

「父が、面倒をかけてすみませんでした」

自分がそそのかしたからとシュウは責任を感じていた。もし、「言って来て」といわなければみんなにも迷惑をかけることなどなかったわけで、父もこんな恥ずかしい思いをしなくて済んだのだ。ただ、それでもピーターにもスクールの生徒にも謝らなければならないと感じていた。

ピーターは「仕方ないよ何年も潜っていなかったんだから」とシュウを責めなかった。もちろん父をもである。そして気になることを告げた。

「ココニカエッテクルトキニツブヤイタンダヨ」

ここに着くまで黙っていた父は家が見えるなり聞こえるか聞こえないかの声でこぼしたという。

「似ている……」

ピーターにはさっぱりの言葉であった。

とにかく、一端戻ってきただけのピーターは、後片付けもあるからと港に戻ろうとした。シュウに何かあったら携帯に電話をかけるよう指示を出し帰っていった。

話を聞き終えたシュウは驚きもせず、あの空耳のことを考えた。

(やっぱり、祟りだろうか?)

父は深い眠りの中にいた。

海で見たものの続きなのか。いや、昨晩の続きのようである。

例の、彼を抱き上げた女性は、海の中にいた。しかも彼女の周りには妻の命を奪った海蛇が泳いでいたのである。

目の前の女性も同じことになるととっさに思った。そして今度こそ助けようと考えた。だが、蛇は彼の行く手を遮った。しかも女には何も危害を加えない様子である。

女は口を開いた。海の中で水深二十メートルもの中を器材なしで潜れるはずもない。ましてどうして口などが開けられようか。

稜は何とか前に出ようと考えた。助けようという思う他に女性の顔を見たくなったのである。

蛇が遠くに行きかけた隙を狙い彼女の前に出た。

髪が黒々と長い、海の流れにまかされて辺りを海草のような広がりをみせる、女のそれが容易に確認をさせなかった。

稜が手を伸ばそうとすると、女は声を、海の中で声を出したのである。

「あなた……あなた……探して、お願い……」

驚いた拍子に大量の酸素が、彼の口元から溢れた。それが渦を巻いて海上に上がっていった。

泡の隙間から見えたものに、更に興奮した。かつての三津子の面影を見たのである。女はそうして、かき消すようにいなくなった。

父が今夢で見たものと、海の中で見たものとは同じもののようであった。

シュウは苦しがる父の肩を抑え、「しっかりして」と何度も何度も声をかけた。


次の朝。遅れて登校した。

学校に電話するシュウは休むことを伝えていた。すると後ろから、起きてきた父が受話器を奪い取ってしまったのである。

「もしもし、変わりました。保護者です。いえ、大丈夫です。すみません、遅れますが行かせます」

受話器を置いた父にシュウは「だって、父さん昨日」と寝ずに心配させた原因を話そうとした。

「わかっている」

息子の気持ちは痛いほどわかるが、かといって何かが変わるわけでもない。

今は一人にしてくれと言い放ち二階の自分の部屋に入っていった。

シュウも歯がゆい自分を押し殺したまま学校へ向かった。



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シュウはわなわな震えた。跪いて焦点が合わないほど狼狽した。

父が咳をして、苦しみながら体をおこしす。気がついたようだ。

口から水のような透明な物が吐き出された。

目は充血して真っ赤だ。

我に返るシュウは父の傍に這って行く。

父はまだ苦しそうに咳をしていた。

どうしたというのか全く分からない。まるで水の中で溺れたような、それほどの、多くの水を吸い込んだ跡が見て取れた。

「父さん!」

背中を叩き摩った。

「ゴホ、ゴホ……大丈夫だ……ゴホッ、エホッ」

呼吸を整えて座りなおした。

シュウも食い入るようにその顔を見つめた。

鼻息が荒いシュウの様子に、父は心配ないともう一度言った。

深夜の静かな時間が過ぎていく。

そして父は今見たことを語り出したのである。

「女性だ。女性をみた。いや……見たのではなく誘われてそこに行ったんだ」

彼が言うのはこうであった。

一杯引っ掛けてうつらうつらした頃、ぼんやりと提灯のようなものを持った一人の芸妓が店の中に突然現れた。玄関は開いていないはずで、どこから入ってきたのか分からない。ただ、その恰好からすぐにそうした類の女性だと分かった。

昔島根の実家にいた頃、よく祖父が夜な夜な遊んでいたのを見ていたので芸妓がどういうものかは見れば大凡見当がつく。

女性は扇子を帯から抜き取って広げ、ひらひらと腕で舞って見せた。顔こそはっきりとは見えなかったが、口元の赤い紅と、頬から首にかけてたっぷりと塗られた白粉は明らかに見て取れた。そこに怪しい魅惑の笑みを浮かべ、こちらに来るように誘ったというのである。

父はただ誘われるがまま招かれる方へ付いて行ってしまった。

見るとそこは、人通りのない暗い路地のようで、温泉街に敷き詰められた石畳のような固い足場が続いていた。芸妓が持つ提灯の明かりだけを便りに進んだ。しばらく行くと、先ほど以上に暗い場所についた。そして、明かりが消えたのである。

父は「おいどこへ行く」と声をあげ、手で辺りをまさぐりながらその場に立ち竦んだという。

するとなんだか息苦しくなってきた。

「海だ、海中の中にいる」

水の抵抗を体が感じる。水圧が間違いなく彼を覆いつくしている。何故だの考えるまもなく息が出来なくなった。そして今まで目の前が真っ暗であったところに、昼間にでもなったような程の明るさが現れたのである。

口を押さえる父の前に先ほどとは違う女性の姿が見えた。しかし、苦しさのあまりに目がぼやける。体は自然と力が抜けてしまう。

もがき苦しむこともなく、体の腕や脚はだらりとするばかりであった。

「死ぬのか……そうか、三津子のところへ」そう思った時、女が父の顔を両手で支えたのである。

はっきりとは見えなかったが、三津子のような顔にも見えたという。

やがて意識を失い倒れたそうだ。

ほとんど荒唐無稽の内容である。それでもあまりにリアルでしかも、この様子から察しても実際にあったとしか思えないというのである。

父は畳に広がる水の跡を指でなでて、舌にあてがった。

「しょっぱい…」

確かに海水だ。

肌にアワを生じる話。シュウは次いで声のことを伝えた。

父は、黙って聞いていたが、祟りなのかと勘ぐった。

海に入るなということなのであろうか。

(今度は息子を狙うというのか)そう胸に嫌な予感を仕舞い込んだ。

「とにかく寝よう。十分注意すれば大丈夫だから」


次の日父は夜まで帰ってこなかった。何年かぶりに海に潜ったのである。

シュウは昨日のことを思い出した。そして、前に父が言っていた聴心理学と関連付けようと考えた。

二階の父の部屋に入っていった。

最近はめったに使わない父の部屋は、それでもよく整理整頓されてあり、多くの本が壁や棚に並べられていた。

すぐに本は見つかった。

難しい専門用語が目立つ本であった。

その中に空耳に関する項目があった。

空耳には、実際の音の中にQ-Spoilerというツールが存在するという。自然界には存在しないツールだが、あるメッセージを異次元の世界から発していると考えられていた。

それが、自然に聞こえてくる音の中に組み込まれる。聴心理学的には、かなり微妙な帯域となるため、ほとんどが聞こえないわけである。ただし、ある条件下に置かれたり、そうした環境を持った人にのみ音として現れるというのである。

「メッセージ?」

(昨日の耳鳴り?それなら一体何を僕に伝えたかったのだろうか)

そう考えるシュウは父の今日が心配でならなかった。

「父さんや母さんも聞いてきたというのなら、僕ら家族に何を知らせたかったんだ?」

本は後に書かれているものは、シュウには難しすぎた。何かの計算や、分析データーなど習ったこともない分野ゆえ意味が分からない。

最後のページはもっと分からないことであった。

『戦闘神』

聴覚による心理学考察であるにもかかわらず、宗教用語がわざわざ巻末に準備されていたからである。

シュウは例の腕時計で検索してみた。

仏教を護るために、様々な排他的な敵を攻撃する神のことである。帝釈天と戦う阿修羅や四天王の広目天、持国天、増長天、多聞天などであった。そして特に多聞天についてはより力を込めて書かれているように思われた。

それは割かれたページを見れば明らかであった。それでも、平成の天孫降臨同様、ほとんど神がかった内容にシュウはすぐに本を閉じてしまったのである。


しばらくすると、何か疲れきった様子の父が、ピーターに付き添われて帰ってきたのである。



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既に無線で知らせてあった。湾内は救急車が待ち構え、多くの人だかりが出来ていた。

シュウは分からなかった。甲板の上に横たわる母の体に向かい、命一杯腕を伸ばすだけであった。

アウアウといい、ママと笑顔でしゃべるその姿に、カークもピーターもただただ涙するばかりであった。ルイは鼻を赤らめて腕でぬぐいながら、船からロープを受け取った。


葬儀が済んだ後、稜は仲間に船を降りると告げた。

カークは時期が来ればまた会えると信じ、ピーター以外の仲間と共に日本を旅立っていったのである。


「だからダメだといっている。もう、苦しみたくはない」

そう父が声を荒げた。

だがピーターも負けてはいない。

「イツマデモ、ソコニコダワッテイタッテ、ナニモカワラナイ。モウ15ネンダヨ。コレジャミツコサンダッテウカバレヤシナイ」

黙々と作業を続ける父。シュウは写真を見た。優しい笑顔の母をみて、思い切って言いだしたのである。

「父さん。僕からもお願い。潜ってきて。今日学校で進路の提出がまだって催促された」

「なんだ、そんなこと。出したんじゃなかったのか?てっきり終わっていたかと」

「ううん。父さんの寂しい顔見ていたら、やっぱりこの家にいなきゃって」

父は手を止めてシュウを見つめた。

三津子の面影が残る優しい目をしていた。

「父さんがしっかり立ってくれないと、僕だって前に進めない。母さんを想う気持ちは分かるけど、残された自分の思いはどうすんの?ロマンを追いかける夢は?僕に現実以上に夢に向かえって言ってるくせに、自分は勇気がなくその場所に踏みとどまるだけだなんて……」

ピーターは意外な助っ人によって助けられた。

稜はまた目を手元に戻した。

シュウが話を続けようとした時、それをさえぎるように伝えたのである。

「わかった。今回だけだぞ。そのかわり、手当てははずんでもらう」

「オーケーオーケー!ワタシノブンヲアゲマスヨ~」

手を叩いてピーターは喜んだのである。そしてむっくりと立ち上がり、急ぎ足で外に出た。

玄関を出た彼は独り言のように英語を喋っていた。

It is so. He promised to go into the sea again. I was surprised.

すぐに仲間に電話をかけたと父には分かった。うっすら頬が緩んだとシュウにはみえたのである。

父は食堂を始める準備をとシュウにいった。

立て付けの悪い入り口を開け放ったシュウの目の端に、外の植木鉢近くで栄えた見覚えのある色彩が掛かった。

身構えるそれはヤマカガシであった。

「こんなところにも?」

今朝の一匹だろうか。まだ小さなそれは瞳ばかりが顔を占拠し、あの時見たと同じく、鎌首をもたげ偵察をしているようであった。

すぐに父に告げると、シャベルを持ってやってきた。

「殺すの?」

「普段は臆病な蛇だから向うから逃げるんだよ。でもそうでない時は危険だ。たとえチビでもな」

しっかりと柄を握る父の横に立ち、様子を窺った。

向うも同じ腹づもりらしい。

舌をチロチロ出している。

全く動こうとしないそれを、地面の土ごとさらったのである。

何かの置物のようにそれはシャベルの上に乗ったまま動かない。

父はゆっくり歩き、近くの用水路の上でひっくり返した。

蛇はバサリと土をまとって流れの中に落ちていった。くねくねと体を回転させて空を仰いでから、またいつもの姿勢に保ち、悠然と下っていったのである。

「珍しいよね。今朝も見たんだよ」

「そうか。まぁこんな時代だが、自然もしっかり再生しているということさ」


その夜、友達に返すゲームの最後を楽しんでいた。いつものようにベットの上でバーチャルの相手と対戦していると、一階で何かうめくような声がした。

父は最近店の客間で寝ることが多い。最後の客を追い出してから、晩酌をしてそのまま寝入ってしまうのである。

戸締りはシュウの役目で、客が帰った頃を見計らって閉めた。もう、下には父以外には居ないはずである。

寝言だろうかと思い、ゲームに集中した。

しばらくするとまた聞こえた。度重なる不審な声にシュウはゲームを強制的に終わらせて階段を下りていったのである。

「どうしたの父さん?」

シュウは父の様子を窺おうと食堂の電気を点けた。

点けるなりその場で硬直した。

テーブルが立てかけられて畳の上に引かれた座布団のその上に、膝をついた恰好で立ったまま寝ている姿があったのである

だが、顔は上を向いた状態である。誰かが彼の顔を下から支えているような姿である。もしそこに人がいるのならば、何か語りかけているような、そんな感じに見て取れたのである。「父さん!父さん!」

そういって身震いする体をよそに、敷居をまたいだ。

すると、ふわっと生温かい風がどこからか入ってくるのを感じた。そして、耳が何かを捕らえたのである。

父の言っていた笹の葉が触れあうような音。そしてその後に続く口笛のような音。それらがシュウにもはっきりと聞こえたのである。

そして父はその場に崩れて行った。 人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ ホラー・怪奇小説へ
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シュウが知る父の仕事は、海底よりそうした宝を引き上げることと心得ていた。

当時は彼等以外に海底をさらう者などはいなかった。陸地の繁栄に埋もれるだけの生活が一般的であった。日本も戸惑いやためらいの中昔の環境を取り戻そうと必死だったのである。

父がどうして過酷な仕事についたかといえば、ロマンがあるからということらしい。高校に入るやその話をこの食堂でよく聞かされた。

ピーターも父の背中を見て経験した思い出を良く語ってくれたのである。

漁師の祖父が健全だった頃、一緒に連れられよく仕事を手伝った父。その時たまたま、海水で腐食した銅鏡のようなものを網が引き上げた。それを大事に持ちかえり綺麗に掃除をした。年代などは分からないが、とても不思議な気持ちになったと当時を振り返った。手伝いで船に乗る度にそうしたお土産が増えていったのである。

町の資料館や図書館の文献などで丁寧に照らし合わせた。貴重な歴史的発見かと思われるものでもほとんどが近代のものであった。だが父は欲におぼれることなく、もしかしたら古代の人との接点があるかもしれないと密かに思ったのである。

海が、また空が、古より伝わるそれと同じように確かなものとして手の中で触れられることに、いつかはたどり着くだろうと。以来、飽くなき憧れが彼の中で膨らんでいったのである。海にはまだまだ、そうした過去に思いをめぐらせるロマンがある。

ピーターとのやり取りで、それほどまで海に潜るのを拒ませるものは何なのか、リョウもよく知っていた。

その決定的な事件のことをピーターが渋々手伝う姿をおぼろげに見つめて思い出してみた。


「水の中で音をきいたことがあるか?」

ピーターと潜った時に尋ねた言葉であったそうだ。丁度その頃だろう、母三津子と付き合い始めたのは。

酸素ボンベで空気の吸引を繰り返す音やその二酸化炭素を逃す音、時々耳の奥の辺りで唾液を飲み込む時に発生する音や骨格がきしむ音がする。それ以外は静寂のはずなのに、稜の耳には何か別の音がするというのである。

不思議に感じた彼は仲間にも尋ねたりもするが、同じ海で同じ音がすることはあるだろうが、異なった深海でそうした音が聞こえたためしはないと返されてしまった。

キリキリと耳に障る音が聞こえた途端にそれは現れるというのである。何か、サワサワと笹の葉が揺れるような音である。

そして、そのざわめきめいた音の後に口をすぼめないと出ないような高い音、空気が行きかう口笛のような音が決まってするというのである。

それは明らかに、彼を誘っているような音であった。

近づけば大きくなり遠のけば小さくなる。それ故にそう感じたというのだ。

稜は陸にいる時はもっぱらその謎に迫った。第一にその異変に相談に乗ってくれたのが三津子であった。

看護の学校を出てしばらく医療に携わっていた彼女は、健康診断で稜と出会った。

その時医師に話していた耳閉感のような耳鳴りに似た症状を伝えていたのを何気に覚えていたのである。

ハントがない間はもちろんダイビングのインストラクターをしていた。日本海は若狭湾。初心者でも楽しめるスポットで多くの若者が集まる場所である。

三津子は初めて友達に誘われてきた。その時、稜をみて「耳鳴りの人」と言ってのけたのである。卑しくも先生にあたる者にそう言い放ったその場は、すぐに笑いの渦となった。稜は怒るでもなく返って気が楽になったという。

水深四メートルを自由に行き来させた、極簡単なツアーを引率している時、また稜はその音をきいた。しかも同じ状況下に合ったのに他には誰も聞こえなかったのである。唯一彼女を残して。

水面に顔を出した三津子は綺麗な海の中を十分に楽しんだという表情を彼に見せた。そして、耳鳴りのことを告げた。彼女も口笛のような音を聞いたというのである。

本当に聞こえた。しかも自分と同じように。

それから、書物を取り寄せたり、彼女は専門分野の先生に相談したりと真意を確かめようとしたのである。そこで手にとって見た本があった。

『聴心理学』という本である。

とても耳のよい著者が様々な音が意味する、その真理を解説したものであった。自分には様々な音が聞こえてくる。車が通る音。人が歩く音。鳥がさえずり、虫がなく。草木が揺れる音から海や山が叫ぶ音。

そうした、『聞こえる音』以外に『聞こえてくる音』を分類しながら独自の解説を加えた、とてもユニークな解釈が目をひいた。

そして、彼が知りたかった耳鳴りに関する記事を見つけた時、二人は驚いたのである。

『時として聞こえるようで聞こえないもの、同じ空間にいてもそれが聞こえるものは、少なからず悟りが開かれる瞬間。悟りとは迷妄を智慧の力によって解脱される領域をいう。つまり、感覚的に聞こえるのではなく啓示として選ばれたものだけに与えられた能力である』

驚きながらも納得した。そうしないと気がふれやしまいかとさえ思えたのである。

それから二人は付き合い始め結婚した。

父二十七歳、母二十五歳の時であった。

結婚当初も母は稜の仕事を理解してくれていた。世間で言う墓荒らしなどという野暮ったいものでは決してなかったからである。看護の仕事もやめ、変わりに船に同伴する道を選んだ。

船内で紅一点の彼女は船乗りの健康を管理する役になった。食事も作った。

数多くの宝を探し、二人はその魅力の虜になった。

夫が探す。カークや仲間がそれを引き上げる。妻は夫の帰りを待って、船の上で祝杯を挙げる。その連続が何よりも心に刻まれていった。陸の上で繰り広げられる無意味な政治などとは疎遠な、どこまでも自由な世界があったのである。

だが、その幸せは長くは続かなかった。

クルーに加わって三年、待望の子供を授かった。シュウである。それを気に彼女は陸での生活を余儀なくされた。そして、彼らへの感謝の意味も込めて喫茶店を経営したいと伝えた。航海の無事を祈るだけではなく、帰ってきた後のねぎらいを手料理をもって迎えてあげたいという一身である。稜ももちろんOKした。クルーは寂しがったが、事情が事情ゆえ応援しようと意見が一致した。

シュウがもうすぐ三歳になろうという時である。三津子が久しぶりに海に出たいと言い出した。子育て一本きりでがんばってきた彼女も、育児の一息がしたいのだと、稜はすぐに海へ出向いたのである。息子はピーターやカークやルイが面倒を見てくれた。

ロベルトが出す船にカークに抱かれたシュウは手を振った。

「すぐにもどるわよ」


船の上で満面の笑みを見せて記念写真をとった。

「これが最後になるかしら?」

「どうしてさ?大きくなったら、また探せるよ」

「そうだけど、ほら、最近政府もうるさいでしょう?」

「関係ないさ」

「まぁね」

ロベルトは合図した。

「スイシン30、リョウニハモノタリナイガ、ミツコニハキビシイゾ」

親指を立てて二人は背中から海に沈んでいった。

久しぶりの水中の感触。首や腕、脚などひんやりと冷たい海水が彼女を取り巻く。導かれるように下へ下へと沈む。

懐かしい圧迫感。耳鳴りがすると上手に耳抜きをする。

潮の流れは緩やかである。日光が十分にそこまで降り注ぐ。

静かな、空虚の海底を眺める三津子に稜は手招きをした。

魚の群れである。ぶりであろうか、大きな魚体を小さく力強い尾びれで水を蹴って進む。その速さに目を奪われた。

まもなく海底というときである。二人はまた音を聞いた。

今度は、今まで以上にはっきりと聞こえたのである。

その音に誘われるように三津子は降りていった。稜は久しぶりの彼女の潜水にためらいはないもののうかつな行動は無理が祟ると思い合図した。

しかし彼女は無反応で何かに取り憑かれたようにひたすら進んでいった。その時である。

背中が黒く、腹の辺りから黄色が鮮やかに伸びる奇怪な姿のものが彼女の横を通り過ぎた。

セグロウミヘビ、人間を死に至らしめる強い神経毒をもつ海蛇である。

とっさに稜は身の危険を伝える彼女の前方を回りハンドシグナルを送ろうとした。だがすでに蛇は彼女の首に食らいついたあとであった。

「みつこぉぉぉ!!!」


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父は黙って障子を張り続けた。ピーターもそれを手伝っていた。

二人がこうして仲がよいのはシュウのおかげでもある。小さい時からかわいがってくれたピーターは小さな弟が出来たと喜んでくれた。父が忙しい時は二階で面倒を見てくれたものだ。    

シュウは今日はどうしたのか尋ねた。

「シュウカラモセットクシテクダサイヨ。スクールノセンセイガ、グアイガワルクナッテシマッテ、カワリニダレカインソツシナケレバナラナイデス。ボクハモチロンイキマスガ、モウヒトリデナケレバナラナイノデス」

事情が分かったが、父は断り続けているという。

作業をする父の後ろに立てかけられた写真の中には幸せそうに笑う、ダイビング姿の父と母が写っていた。


今から二十二年前……

稜は今日も海の上だ。日本でも屈指のダイバーであった彼は、とある船長にスカウトされたのである。その初の搭乗であった。

船乗りの中で冷静で口数の少ない彼は狭い船内で独りせっせと働いていた。

彼の乗る船はいわゆる漁船の船体でもなく、クルーザーというような豪華なものでもない。

船の横に書かれた『Navire au trésor』というものとは程遠い作業船であった。そしてその船の中では「次なる獲物」、という言葉がよく聞こえた。時々船尾がうねりを上げ船首が反動で傾く状況でも乗組員はかまわず想像をめぐらしていたようであった。

「オフコース」船長が決まって皆に言う台詞であった。

稜以外は皆外国人である。

船長は、このパーティーを指揮するフランス人である。考古学に精通していた。ヨーロッパはもとより、オセアニア、キューバ、インド、そしてアジア圏もの古い遺跡に明るかった。舵を取る彼は皆にカークと呼ばれていた。

イタリア人のロベルトは海洋学に長けている。海を知り尽くした男であった。船長の操縦を補佐し時には難しい海域を数々の経験で培われた分析と感で切り抜けた。

ルイはイギリス人で冒険家だ。度重なる危機の中でいかに生き抜くかを常に心がけていた。得意な分野は海の危険生物などの他、地質学や物理に詳しかった。

まだ見習いのオーストラリア人のピーターは稜の後輩に当たる。見習いダイバーとはいってもメカにはめっぽう強い。解体したエンジンなど手引書がなくとも組み立ててしまうほどである。

彼らは世界でも認められた、トレジャーハンターなのである。

稜の身体能力は世界屈指で、そのダイビング能力は誰もが驚くものであった。ブラッドシフトに特異体質が働き水深百メートルを優に超えて潜れたのである。

海底まで五~六十メートルがもっとも彼等が得意とする水域であった。何千メートルもの深海に沈んでいるとされる豪華客船や戦争当時に略奪品を運搬していた大型船などの引き上げは彼等のターゲットではない。専ら美術品や考古学的に価値のある品々のみを探していたのである。

比較的浅いそうした場所に多くの宝が埋没していた。理由は密輸を目的とした小型船の往来が頻繁にあり、その途中で難破や襲撃にあい海の藻屑となった事件が数多くあったからである。沈没後の引き上げは海上保安当局により監視され、勝手になされることはなかった。だが何十年もそうした警備が続くわけもなく、今はほとんど野放し状態であった。

もっとも、かつての取引者も一部腐敗しているだろうそれに、お金をかけてまで引き上げる労力を嫌っていた。

トレジャーハンターはそうした中で政府にも働きかけ、自由に捜索することを可能にした。稜はだから余裕でその場所に潜ることが出来た。誰もが出来る仕事ではなかったのである。

ライトで辺りを照らし彼が探す姿を、アシスタントのピーターが、大きめのライトを装着した撮影カメラをもってレンズに収める。海上で待機する船長が宝の有無を確認するといった按配であった

上からの指令は全て耳に刺してあるイヤホーンに集約される。

今回は水深三十メートルという浅場である。ダイバーの吐き出された酸素が海面に向かい浮いていく。すると、ルイがなにやら怪しい珊瑚を見つけた。通常のダイバーであれば気に留めない、クシハダミドリイシなどのテーブル珊瑚やごつごつと海草を付着させた岩であっても、彼の目には不自然なつくりであると見極められるのであった。

「ソノシタ、カメラデアップシテクレナイカ」

やはりである。

多くの小枝や小突起をだして伸びる珊瑚の群生の中でぽっかりと穴が広がった領域が見えた。

チャネルである。そこに、真っ直ぐに、ほとんど人口的であるのがわかるような隆起物がみえた。

カークもすぐにそれが船体の一部であることを認めた。

「ケッコウオオキソウナフネダナ。レイノダロウカ?」

ルイがそう言ってカークの顔を覗き込むようにみると、何かを勘定しているようなそぶりを見せていた。そして思い立ったように指示を出した。

「シュウ、ソノトッキカラ、シタマデ、ヨンヒロアルカハカッテミテクレ」

あえてフィートではなく尋を使うところが洒落ていると稜は思った。

「イエッサー」そういってすぐに調べにはいる。

ルイの読みどおり中型の船のようである。船首を上にした状態で垂直に立っている。砂地に残りが埋まっているのであろうか。このままではわからない。ただ、横幅から見ても漁船のような感じがした。

「カーク、流石に艫(トモ)が埋まっていて船体の長さまではわからない。推測だが四から五尋はありそうだ。まって……」そういって息を潜めた。

鮫だ。ルイは画像に映ったそれを注意深く見ていた。

ハンマーヘッドシャーク。通常群れを成して泳ぐそれはこの亜熱帯の海域ではさほど珍しくない。二メートルのそれがいるというのはまだ成体の群れが近くにあるのだろうと簡単に推測できた。ルイはロベルトに海図で地形を探らせた。

海の凪具合と天候からみて、この一海里あたりは格好の餌場になるだろうと読んだ。

ピーターはゾクゾクした。普通の鮫ならともかく、やつらは獰猛であることぐらい知っていたのである。

カークは作業を急がせた。クルーの命は宝以上に大事であったのだ。

鮫をやり過ごして、埋まっているだろうそこへ赴いた。

「カーク見てくれ……」そういってピーターに手招きをして、気になる場所を指差した。

画像に映るそれは砂地埋もれているのではなく、岩礁が左舷にがっしり食い込んでいるようにみえた。長い年月と水中の流れの影響でここまで流された結果、やがてこの場所にうずもれたようである。

カークはすぐにクレーンを下ろす作業に入った。岩礁の一部を持ち上げて下の空洞を広げようというのである。

皆が手伝って錨のようなものをシュウのいる辺りの下げた。

「シュウイイカ、ソイツヲウマイコトガンショウノキレコミニイレテ、ハサマセテミルンダ。アトハコッチデヒキアゲル」

作業はうまくいった。白い石灰質の水埃を巻き上げて岩礁が砕け落ちた。しばらくすると水の色が落ち着く。透明度が戻るその中に、消された記憶を開放するかのごとくうずもれた船尾が、現れたのである。シュウは高まる心臓の音を響かせて見下ろした。小魚やうつぼが驚いて浮いてきた。それが、シュウの目の前を勢いよく飛び出して、ピーターの身体の周りをくねらせながら逃げていった。

シャフトの辺りが海底についているようである。エンジンを切ったロベルトも画像に釘付けとなった。

すぐにシュウは全長を調べ報告した。

カークは頷き、船の側面か選手にどこかに曼荼羅のようなマークが掘られていないか探させた。すぐにそれは見つかった。フジツボが付着する甲板の真ん中辺りに胎蔵曼荼羅が略式で描かれていたのである。シュウもこの旅の前にカークから読まされていた本の中にそれを見て知っていた。

「マチガイナイ、レイノレックダ。トウソウジニナンパシタ。『山からの王』ソノタカラガアルハズ」

西暦700年代後半、シャイレーンドラ王家はボロブドゥールとして残っていた遺跡。宝はその王朝の廟にあったとされる三界の思想をモチーフにした版画のことであった。

カークはその版画を保存したとされる頑丈な箱を探させた。

船室が見えた。

中はかなり痛んでいる様子である。寝室の床板は全て取り外されていた。おそらく、沈没と同時に浮き上がってしまったのであろう。船底に優に入ることが出来た。シュウはこの傾き方からもし残っているのであればかなりしただろうと考えた。耳抜きを更に慎重に施して沈む。

後からピーターもついてきた。少しミシミシ響く。先ほどの碇で崩れた部分に不安定さを生んだようである。回りを確かめながら行くと、狙い通りのものがあった。

画面をみるや、カークは「ブラボー」と手を叩いた。そしてすぐにピーターをあげさせ、ロープを下に送り込ませた。

こうしてトレジャーハントの仕事が始まったのである。 人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ ホラー・怪奇小説へ
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昼食の時、シュウは仲間に今朝の写真を見せた。

机の中に埋め込まれるコンピューターに転送すると、その画像がすぐにモニター化された。例の理事を映し出したオーシャンスクリーンの小型版である。

仲のいい仲間や早めに昼食を取ったものがシュウの周りに集まってきた。

モニターに映し出されたそれは立体的なものでまるでその場に浮いているように見えた。

「シュウ、コレナンダイ?」

仲間の一人が目をこわばらせて尋ねた。

「ヤマカガシ、別名カガチ、昔はツチノコ伝説とかかわりがあったらしいよ」

「ナンカ、イロガスゴイナ。ハデデミンゾクイショウヲキテルミタイダ」

「毒あるの?」

女子まで見に来た。

少し恥ずかしそうにしながら伝えた。

「首の周りにあるみたい。頭の後ろに頸腺という分泌線があって敵に襲われたらそれを放出するらしいって。待って」

シュウは更に解説文面をたどった。

「奥の歯の辺りに、ドゥベルノイ腺という腺が来ているから、噛まれても毒に犯されるって」

「どんな毒なの?」

皆興味津々のまなざしで見解を待った。

「血液毒。咬まれればすぐに出血が始まって歯茎から血が出てくる。毒は体内を巡り腎不全さえ引き起こし、手当てが遅れると……死ぬって」

「こわ~い」

誰もが顔をこわばらせた。

その時休憩時間を利用して学内から通信が入った。

彼らが見ていたモニターに映し出されたのである。

「戸張君、お昼休み中に悪い。進路科の先生が呼んでるので、職員室まで来てくれ」

こうした通信は誰にでも入った。シュウは先延ばしにしていたので遅い方であった。

朝の友達は冷やかしたように言った。

「なんだ、シュウ。まだ出し惜しみしてんの?早く見せてやんなよ、大和魂ってやつをさ。あはははは」

「からかわないでくれよ」そういって机を強くたたいてモニターを消した。

集まっていたものもクスクス笑い彼が出て行くのを見送った。


丸い顔の、髪がないためによりはっきりと丸さが誇張された罪のない笑みがシュウを出迎えた。

部屋に入りその先生の前に座らされた。シュウはないも言わずにうつむく姿を続けた。先生も向かいいれた時と同じようにニタニタと意味もなく笑っていた。

「ところで、戸張君。君だけがまだ、進路の報告をしていなかったですね」

「……」

「どうしたんですか?」

「別に先生は困らんが、君やお父さんがこれでは困るでしょう?来年は成人式があるし、その時には皆の前で自分がどんなことをしていくかはっきりと提示するルールがあることはしっていますよね?」

「はい」

先生はまだニタニタとしている。しかし侮辱や余裕を見せているのではない。こうして生徒をあざけって楽しんでいるのでもない。彼の癖なのだということはシュウも知っていた。

「では何でまだ出さないのかな?」

また黙り込んでしまった。

「平成の天孫降臨は知っていますよね?あれ以来わが国も大分事情が変わりました。神の教えの元、我が校も教育理念を政府と諸外国の助けの中、足並みを揃えてきました。慣習といわれればそうでしょうが、そのおかげで日本がよい方向に向かってきているのも事実。われわれの努力と先輩たちの決断と強い意志のおかげで君たちもこうして生きていけるのですから。だからこそ進路の決定は大事なんですよ」

シュウはそんなことは当然わかっていた。わかっていても尚決め兼ねていたのである。

急かされる事に気を使う彼は、自分でも解決できなくなると皮肉ったことをつい言ってしまう。本心であっても別の言い方があっただろうと後悔することも多い。彼は今回もそう、口にしてしまったのである。

「その話は知っていますが、実際に見たわけではないんで……」

先生の笑顔が急に寂しい顔つきに変わった。まじめに受け取ったようである。

「見たものしか信じない。昔の学者みたいなことをいうのですね。それもいいですが、全てを見ることはできない。どうかな?」

シュウは答えられなかった。ただ一言「明日お伝えします」とだけ言うのが精一杯であった。


自宅に帰ってきた。

今日はスクールの仕事はないはずなのに、父の仲間の一人が来ていた。

「オカエリナサ~イ。シュウ。ドウチョウシハ?」

彼はピーターといって父の後輩であった。

「オヤオヤ、ゲンキガナイデスネェ。ガッコウデナニカアリマシタカ?」

この地域にいる外国人はみな日本語が達者である。ピーターもそうだが、難しい漢字でさえ読み書きが出来るほどである。

それも、父、稜(りょう)の特訓を受けたからでもあったとピーターは言う。

「ピーター悪い、その戸棚の上にある半紙をとってくれ」

父は破れた障子を直そうとしていた。

シュウは裕福ではないこの家がとても好きだった。進路が決まらないのは決めたくないからであったのだ。母と父がせっせと作ろうとしたこの店。

そして自分を大切に育ててくれた母の面影と、今尚自分の成長を見守ってくれる父。この家にいる幸せ以上に愛情を感じていた。

だからこそ、皆が行きたがる都会や、自分を自分だけを高める大学などに進む気が生まれないのである。

世の中は変わった。変わってもこの家はどうだろうか。半世紀前と変わらない家のつくり、ゲームを貸してくれた家と比べても歴然である。

変わらない何かが、根本的に変わってはいない何かがあるのだろうとシュウはおぼろげながら感じ取っていたのである。

ピーターが半紙を取ろうとしたとき、その上に一緒に乗っかっていたものがボトリと落ちた。少し埃が立った。

文集である。ものめずらしそうにピーターはそれを開いた。

「オー!コレ、シュウノネ。サクブントイウモノネ」

すぐにそのページを見つけることが出来た。シュウは嫌がらずそのまま読ませてあげた。

自分でも何を書いていたのか忘れていたのである。

『もし地球にいる人々が一斉に立っている場所で思いっきりジャンプしたらどうなるの?地球はへこんじゃうの?』

『もし世界中の空気を吸い尽くしたらどうなるの?』

ピーターは意外な内容に大笑いしていた。

「アハハハハハ。シュウハ、キソウテンガイナカンガエヲ、モッテイルンダネ。アハハッハハ」

奇想天外でもなんでもない。彼は純粋にそう思っただけなのである。誰もが科学的な答えをすぐにでも用意出来る愚問であっても、わずか小学生の頭で思い描いた素朴な思いなど今の日本人いや外国人でも気がつくまい。

(そうだった……そんなこと考えたっけ)

そこにはかつての自分がいた。真っ白なままの自分。それを思い出すと、急に寂しくなった。今日の先生に反発した自分を恥じた。


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突然友達は大きく蛇行した。しかも体をのけぞらせて声をあげた。

「うわぁ」

シュウは彼が通った付近を振り返った。

見ると珍しい、一匹の蛇である。

丹後は久美浜の忘れ去られた海を湖にした湾内の、ほとんど内陸側に面したところに、如意寺という奈良時代から続く行基菩薩ゆかりの寺がある。不動堂という見るものを圧倒させる建造物はまだ仏事を理解しえないシュウであっても心を惹かれるものがあった。

まだ、美しい景観を見せるこの地にこうした生き物がいることはさほど珍しいことではないが、それでも滅多にみないのも事実である。

友達はシュウの家より大分港寄りなので蛇を見るのは小学生以来であった。シュウですら中学生の時に一度きり見ただけである。

その唐突な出会いに立ちすくんだ友達の前に、シュウはすぐに割って入り、腕に巻いた時計を突き出した。ゆっくりと外周にはめられたダイヤルを回した。

カシャリ

そしてダイヤルを再び回しなにやら細かな作業を繰り返した。友達もそのしぐさをそばで見ていた。

蛇は動かずじっとしている。というより首をもたげ二人の姿を偵察しているようにも見えた。シュウはそして言った。

「ヤマカガシ」

襟首に黄色の帯をぐるりと回し、全身を緑に覆い尽くした中に、赤と黒の斑点を交互につけたそれの名前である。

目が顔の割りに大きい。

シュウの言葉に友達も感心したが、すぐに顔色を変えた。

「うぇ……なんだかすげぇいるぜ」

京都の中心から越してきた彼にとってはやはり気持ちが悪いの一言のようである。

見ると横に小さいながらも、大きいそれと同じ模様をした蛇が何匹もいるのである。

シュウにはそれが親子のように見えた。そして、この場は彼らに譲るべきだととっさに感じたのである。

後ずさりする二人は、道の反対側を通って学校へ急いだ。

カーブを回る際に、シュウはもう一度彼らの様子を確認してみたのであった。

親の口から赤く長細い舌が見えた気がした。


寸でのところで門が閉められてしまいそうであった。いぶかしくゆがめるその顔に、げじげじの眉を吊り上げた一人の先生が如意寺の仁王のように待ち構えていた。

「はようせい」

他の生徒はそのほとんどが既に校舎内に入ってしまった後である。

教室に入ると、まるで外国にでも来たような感じを受ける。

シュウの通う学校も日本に住み続けている外国籍の生徒が多い。しかし、世に言うインターナショナルスクールではない。公立である。

アメリカやカナダ、韓国や中国の国籍者が多い。イギリスやフランスから来ている場合も多少あるが一番少ないのはロシアであった。

国際化という言葉で片付けられてきたこの人種の坩堝は、大人の政治が産んだ勝手ではあるが、国境のないこうした出会いの多さを生徒達はそれでも大いに楽しんだ。

何十年もの歳月をかけてこうした環境を作ってきた。日本に多大な貢献をしたという国はビザ無しで自由に入国できた。多大な貢献とはつまり資金援助である。

日本の政治はかつての自民や民主などが争った時代はなくなり、変わりに新しい派閥を生んだ。

大和派閥、環境保護派閥、仏神実現派閥という三つの政党が立ち上がったのである。

大和は従来の残党の寄せ集めであるが、中でも人間の理想は自由にこそあるというものと、生活の発展は未来に不可欠であるという躍進を掲げるものであった。いわゆる革新系統である。

環境保護はその名の通り、グローバルな保護をうたっていた。それでも内部は二分しており、あくまでも人間の社会生活を第一に考えた上でなされなければならないというグループと、生活の自粛、無駄や贅沢を失くすことを訴えつつ環境を守るグループとの対極の場を作っていた。

神仏の歴史を尊重する仏神は、文字通り日本の宗教を前面に押し出したものである。古来の考えこそ真理であり、そうした慎ましき生活の中でこそ幸福はやどり、未来を照らすという解釈である。

だが、様々な宗教の母体が存在するのも確かで党としてまとまるには不十分なところが多かった。実際には習合という合理的な考えに賛同できない団体も多くあり、また、同じ宗派でも本質や伝統が異なると互いに退け合う場面すらあった。

それでも、五十年もの月日をかけてようやく独り立ちを許されたのである。各国がその自立を認めた時代にシュウは学校に入ったのである。


朝礼が始まる。

クラスにつくが早いか生徒の机が一斉に校庭に向けられた。自動式の卓上は使用するものの体型に合わせて高さが調節される。そして、授業が終わるまでは勝手に席を立つことさえ出来ない。窮屈なそれは、小学校から、それ以前から踏襲されていた。ゆえに誰も文句を言うものはなかった。

そして、今から始まる全体集会も慣習である。

校庭の地面より巨大なポールが立ち上がり、その上部に掘られた溝の中から光の散乱を放ち始めた。

やがてその距離の中に大きなオーシャンスクリーンを映した。透過型の画面にはこの学校を運営する理事の顔が導光され浮かび上がった。

机に設置されているスピーカーからその話を聞くというのが朝礼である。時間にしてわずか数十分、次いで校長の話が始まる。二人は専用の部屋からカメラの前に座り話をするのである。

公立でも必ず理事がいる。それは学校というものを運営するために資金を出してくれた人物がいるからである。国に予算がない以上誰かが出資しなければ学校は機能しない。全国の小中学校もそうであった。シュウの学校ではカナダ出身者が協力していた。その息子がゲームを貸してくれたのである。

校長は仏神実現派の系統であった。だからか、常に古文書からの引用で講釈を述べていた。

次に、その週の代表学長からの諸注意と連絡が入る。および生徒会からの報告という流れで構成されていた。

そして、以上のものを聞いた上で話の内容を端的にまとめ卓上からすぐに送信するといった手間までが朝礼であった。

あまり押し付けがましい教育は個性をなくすばかりか自主性を欠くと当初は非難を浴びたが、画一的な方法はむしろ幼年期からの弊害であって、もうすぐ成人となる十八に向かう今ではかえって規律があった方が良いと校長も理事も政府に意見を述べたそうである。

その成果もあり、この学校にはかつての不良という者は全くいなかった。ただし、特出した何かを備えたという者がいなかったのも事実である。

バランスの取れた人間をより多く育成する。確かにそれが今の日本を築いてきたのである。 人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ ホラー・怪奇小説へ
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~荷担~


ある年のこと。

「シュウ。早くしねぇと遅れるぜ」
「分かってる」
二階の座敷でつぶれてほころんだ鞄の中に筆箱やらノートやらを急いで詰め込みながら返事をした。
日本家屋の随分傷んだ玄関の傍で、声をかけた青年がひょろひょろとした線の細い体を、肩で左右に揺らしていた。
「もう、遅刻しちゃうよ。今日の日直は怖いんだからさぁ」
年季が入り垢や煤で黒くなった階段を威勢良く下りてくるなり、「いってきま~す」と一階で新聞を読む父に向かい挨拶をしてから玄関を飛び出した。
「きいつけてな」客席用のあがりで紙面に目を落とす父のいつもの返事である。
高校二年になるシュウは父親と二人暮しであった。
決して裕福ではないながらも、その生活には満足していた。
唯一つ贅沢を言うのであれば、もう一度母に会いたいということであろう。
まだ三歳にもならない時に彼の母は不慮の事故で亡くなった。
顔は微かだが覚えている。笑顔の絶えない頬の緩みに薄い唇が伸びる印象を持っていた。
母の面影はそれだけで十分であった。
父は最初は遺影を眺め何も手につかない様子であった。これからの生活を楽しみにしていただけに、自分の形見を残して逝ってしまったことが悔しいばかりであったのである。
それからというもの、大好きであった、そして仕事としていたダイビングもピタリとやめたというのである。
幸い彼女との生活が始まってから貯めた蓄えのおかげでシュウが大きくなるまでは何とか食いつなぐことが出来た。
贅沢さえしなければそれでも一階で経営する小さな食堂ぐらいの仕事でも十分であった。
妻の三津子がやりたがった喫茶店とは行かないまでもその願いをかなえたつもりでいたのである。
そんな中、シュウも高校へあがるようになると何かとお金がかかるようになった。そればかりではない。貯蓄もほとんどなくなってしまったのである。
またこの周辺に住んでいた若い人々も、いよいよ都会へ行って仕事に就くことになった。今の政府より、ようやくつくられたこの流れを、誰もが待ち焦がれ、期待していたのである。こうなると食堂に足を運ばせるものは夜の近所の年配者ぐらいしかない。当然収入もなくなり、今の生活が立ち行かなくなるわけであった。
仕方がなく昔の伝を頼りにスクーバダイビングのアシストインストラクターの仕事を世話してもらった。
といっても水の中に入るのではなく陸上での任務という条件をこちらから願い出たのであった。
彼を知るものはその仕事の内容にただただ驚きと嘆かわしい哀れみの目で見た。
父はそれでも忸怩たる思いはしなかった。さばさばとした様子で仕事をしたのである。
シュウは父の本来の仕事のことを高校に入ってから知った。どうして海に潜らないのかもようやく知った。
だからか、悪くも言わなければ不平も贅沢も言わなかった。
よく日焼けした、がっちりと背の高い父を尊敬していたのである。

短く刈上げられた襟足に少し汗を流して友達と小走りに進んだ。
父親譲りの体格のよさはがっちりと、というよりも、むしろスポーツマンらしい健康的な骨格と筋肉を見せていた。
まだ少年のあどけなさを残した顔つきの中には、これから起こり得る事象に対する免疫などは全くないほど、純粋で懸命に謳歌しようとする青春へのひたむきさを見せていた。
「もうさぁ、いい加減、ゲームの貫徹止めたら」
「……」
「せめて、休みの前の日だけにするとかさ」
シュウは最近仲の良いこの友人から借りたゲームに凝っていた。
普段は学校の部活と、帰宅後の家の手伝いとに追われ、夜は十時近くにようやく宿題などの課題が出来るわけである。
自分の時間などというものは無理して作らない限り生まれてはこない。
眠そうな目をこすり、二階のベッドの上でゲームに興じる頃は深夜を当に過ぎていた。
シュウの暮らす日本はこの数十年間で大きく変わった。
かつては世界でも指折り数えられるGNI保持国であった。
開発も研究も、そして生産も大国には惹けを取らない強国であった。
ゲームなどというものは個人に何台もあったという。
それも忌まわしい過去の惨事以来すべてが変わってしまったのである。
シュウはそのことは良く理解ができていなかった。あまり頓着しない極普通の青年の考えでしかなかった。また、友達から借りたそれは日本製などではなく、友達のものでもなかった。
たまたま、持っていたその友達の知り合いが飽きたのでしばらく貸してもらったものである。た。
スキーのゴーグルを大きくしたようなメガネをかけて、手には専用のキャップを装着する。ワイヤレスで操作するそれで、様々なゲームが楽しめた。
そのメガネに映し出される映像がバーチャルのように目の前にあらわれ指を器用に動かすと自分のポジションを替えることが出来た。
チェスやオセロはもとより、シューティング系やシュミレーション系のゲームも出来た。
メガネは高性能の電子頭脳が組み込まれていて、遠く離れた別のプレイヤーとも対戦できる通信システムすら備えられていた。
父はそのゲームのことは知っていた。自分が育ったときには全くなかった物が時代と共に宣伝されていくのを見てきた。
父の父、つまり祖父は健全だったころ、そうしたものを産むことがまた同じような結果になると絶対に触れさせなかった。
だからか、目新しいものであっても決して欲しいとは思わなかった。代わりに古めかしいものや書籍などに描かれたものへの憧憬が深かった。
ただ、シュウには自分がしてこなかったからという理由で同じ考えを強いるのは良くないと思い、自由にさせていたのである。むしろ、経験は何でも受け入れろというのが彼の口癖であったくらいである。

「今の面がクリアーできたら返すよ」
「いや、別に返して欲しくっていったわけじゃないけどさ」
もうすぐ学校である。彼の通う学校は家から走れば二十分も掛からない。
その気を許せる距離が遅くまでゲームの誘惑に浸らせていたのである。
「いいよ。もう飽きてきたし」
友人を気遣い、また、最近こうして朝の無駄なジョギングにつき合わせてしまっていることに申し訳なさを感じていたのである。



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~きっかけ~


外が騒々しい。

城の中にいた女が、周りのものに尋ねた。

「かしましいぞ。何事だ」

上空の藍色に染まるその光を取り込むわずかな明かりが、天窓を通し仄暗い城の中の怪しく縁取られた椅子にもたれかかるように座る女の顔を照らした。

うなだれた頭をゆっくりともたげ、山姥のように乱れ散る髪をそのままに、その銀の前髪の中からくすんだ瞳を露にした。

ここに来てから、ついぞこうした落ち着きを失わせる出来事はなかった。

平穏こそこの地に追いやられた女の、唯一の慰めであったのである。

ただ、この世界の入り口辺りでは、次々とやってくる客人たちの、そのざわめきで女の気が触れてしまうであろうと、そこからはるか遠くのこの島に籍を置くことが許されたのである。

あてがわれた城は城壁や堀のようなものはなく、ただ入り江に面した高台に、王宮を思わせる表門を仰々しく置き、また硬く閉ざした上でその奥に、恐々と聳え立っていた。

李朝様式の反り上がった屋根瓦は無残にも穴が開き、それとは反対に色彩が派手で明るく縁取られた梁や柱が、緑や朱色をもって城であることを主張させていた。それは一見するとこの世界でいたずらにその存在を鼓舞するかのごとく見えた。

それでも一部はやはり折られ、あるいはひどく色が剥がれ落ちているほどであった。名ばかりのそれはみすぼらしい城であった。

全く静かな、血のように赤く染まった海は、荒々しく時化ることもなく常に凪の平静を保っている。そして時折聞こえる小波の音だけが女の心を和らげた。

女は気難しいわけではなかった。

昔を思い出すまいとする気持ちとそれでも自分を楽しませてくれたことへの未練とが交差する、寄せては返す波のような迷いこそが女の姿を作ったのである。

最初の召使いは女の心情を知らないがために逆鱗に触れ、その力によりこの世界から消滅さえられたそうである。

魂の拠りどころとされ、唯一住まうことを許されたこの世界からの抹消とは、考えてみただけでも恐ろしいことであった。

流される瞳が、一人の家来に向けられた。

「どうやら、裁きを受けて大量の受刑者が送り込まれたようです。数にして何百万といるでしょうか」

その家来は別の家来から、またその家来は別の家来からと数珠繋ぎに聞き取った情報であった。

それを知る女は「情報の出所をここへ」といってまたうなだれてしまった。

やがて鬼車鳥(キシャチョウ)が部屋に通された。

この世界を自由に出入りできるその鳥は、様々な悪気を身に溜めることを目的にやってきては、それを体中に十分に染み渡らせて休息をとっていた。ちょうど一回りする頃の中継点が女の島であった。

そして、鬼車鳥がもたらすといわれる恐ろしい呪いとは、羽をばたつかせる際に不逞な妖気を纏った風を起こし、疫病を振り撒くことからきていた。

上空を飛び回っていた鬼車鳥がなにやら今までにない邪魂の数を捕らえたという。腹をすかしていたところに舞い込んだそれは十分な栄養となり、やがてこの島へたどり着かせたのである。

更に鳥が言うには、近々、遠方より来賓があるやも知れぬという。血の海を渡る一艘の箱舟がこの島を目指しているらしいのだ。

女は黙ってその話を聴いた上で、小指の関節ほどの骨をその前に放り投げた。褒美である。

奇声を上げてそれをついばむと、通された場所ではなく、ひと際高い位置にある天窓に向かい飛び上がった。

窓の縁に脚をかけて外に出ようとした時である。女は例の目をギロリと光らせた。強い力を加えた瞳は鬼車鳥の、飛び上がったその体を停止させた。そればかりではない。金縛りを引き起こした上に、その体にめぐる血や細胞の循環、そして呼吸をも止めてしまったのである。

女がした理由は、自分が一番気に入っていた場所を、自分の都合で断りもせず使おうとした態度、その勝手さが癇に触れたのである。

そこは、女の羨望を忘れさせまいとするこだわりを備えた、特別な意味合いを持っていた。

久しく使っていないその業は、衰えもせず、未だ健在である。家来の者は見せ付けられた。

彼等は心得ているように、落ちてくるであろうその下に回った。

上から落ちたその残骸をその一人がすぐに片付けた。

また、静かな城内に戻ったのである。


引いては寄る波の音が幾たびも繰り返されたある時、女のところへ家来が急ぎ足に近づいた。

女は血潮の臭いをすぐにかぎつけた。

家来が言葉を放つ前に立ち上がったのである。

「ほう、キシャが言っていたのはアヤツのことか」

落ち着いた様子は、家来を不思議がらせた。あれ程の者が来たというのに動揺すら見せなかったからである。しかも、虚勢を張っている風もない。

この世界においてはごく自然な、あるいは彼女ゆえ至極当然な態度であったようだ。

「久しぶりですなぁ。姫」

女を姫と呼ぶその男は、家来のことなど眼中に無いようで、勝手を知ったようにずかずかと中に入って来た。そして、女を見るなり口をきいた。

体は門の一番高いところに背が届くほど大柄で、着物の隙間から見える黒い筋肉質の体はつややかであった。顔は恐ろしいほど彫が深くそのせいであごが突き出していた。喋る度にちらりと覗かせる、折れた下あごの牙がかつての栄光を窺がわせた。

「五陰のあるじか。それがこんな世捨て島に何用である」

「『世捨て島』とは、いとおかし。世とはもはや相容れぬこの地。それを申すならば『果ての島』ですぞ。あははは」

余興のようなしゃべりはこの大男のお株であった。そして、そうした笑いを作った時は決まって何か画策を打ち出す準備をしているのである。女もそのことを以前から知っていた。

「成れの果てか、ふん。今度は何を持って参った」

女はまた椅子に腰掛け伏見がちの態度を見せた。

だらりとするその様子に、五陰の大男は大きな音と振動をもたらして胡坐をかいた。すかさず深いため息をついた。

「いけませんな、その虚像。かつての」

「いうな」

抗う女の言葉に家来は緊迫した。だがその椅子に力なく寄りかかる様子を見てそのまま立てひざをついた。

「まぁ。いいだろう。今日は、面白い話をもってきた」

「例の客人のことか」

「流石に情報は早いですなぁ。聞けば、つい最近、あまたの人が死んだという。それが裁きを受け、その大半がここに送り込まれたそうだ。それをむさぼり喰う輩には結構な話だろうが、我らには無縁」

男は腰にぶら下げた印籠のようなものを手に取り封を開けた。

「これはその中の一人が持っていたものだ。そこに記されていることを読んでみた。何でも大いなる力が復活の手助けをする。その力は全知全能の神と同等のものを供えさせるというらしい」

その言葉に未だかつてないほどの動悸が女の胸にほとばしった。たった一言である。

『神と同等のもの』

女が求めていたもの。過去の栄光、そしてこの地に送り込まれた結末を生んだ、そもそもの原因。すべてを説明していた。

更に男は彼女をそそのかす、極めつけのセリフを用意していた。

「魔力を有して支配することができるそれは、『祈願の露』というらしい。別名『神の雫』と呼ばれる。それが欲しいとは思わぬか?」

ごくりと喉がなった。そして、例の窓を羨望の眼差しで見上げた。

男の狙いは的中した。『この取引は必ず成功する』そうよんだ画策はもはや前にしか進まない。

「何が望みだ」

女は取引を持ち出すことでより確実な、確固たる現実を掴もうとしていた。

「なるほど、本気ということですな。流石は姫、話が早い。では率直に申そう」

「そなたが、現世を治めればこのような世界はそもそも不要となろう。だが、独りではそうは出来ぬ。姫の力で元に戻ることが出来ても、本来の力がなければ意味はない。またこの世界に逆戻り。そこで、我等が力でその雫を探し当てようぞ。姫はその間に復活し、我等と合流の後、雫を使い完全なる復活を遂げるというわけだ」

女はまだ上を見上げ、乱れた髪の間から空を見ていた。

そして男が自分の望みを伝えた。

「首尾よく復活を果たしたその暁には、我等が城を大枝山に作り、当主として君臨することを約束されたし……いかがかな」

「造作無い」

女はそういって再び立ち上がった。

「では追って知らせを」

男はまた大きな体を起こし、今来た様にその場を後にした。

女は家来に告げた。

大声が、この部屋には似つかわしいほどの声が轟いた。

「遣いをだせ。箱を探させよ」






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小説そのうちでます-プール


『プール』

大分くたびれてきた我が家の即席プール。先月と今月でもう4回ぐらいは入れたであろうか。


まもなくやってくる休み。大きな大きなプール。子供も早く行きたいと毎日その話題が上る。

長女はスイミングスクールに通って成果を披露したいらしい。

次女はまだ顔を水につけられず、やっとシャワーを頭から浴びる程度である。それもおっかなびっくり、頭を下にしてつけるのである。


男は泳ぎが達者である。何キロも泳ぐ。ただし、今は分からない。鎖骨を折って肩が回らないのと、頭を砕いて水圧に耐えられるかなどマイナス的な考えが頭を占拠する。


ぶんぶん首を振って、子供達のプールに入る様子を眺める。まぁきっと大丈夫であろうし、たかが市営プールである。足もつけば監視員もいる。

胴の周りの肉も少なからず落ちたのだから、気にしないで楽しもうじゃないか。


それが過ぎると、ハゼを釣りに行こうかと思っている。