九
客間に布団を敷きすぐに父の体を横たわらせた。
「ユウガタトイウノニ、マッタクアガルケハイガナカッタンダ。アガッテキタトキニハ、チッソヨイニニタショウジョウダッタ」
父は事情を説明するピーターの横で寝入ってしまった。
今日は生徒の数も多かったそうだ。船の上ではボンベのチェックやフィンの装着などを終えた者から最後の指示を受けた。
「レギュレーターを口にくわえたら順次エントリーすること。入ったら速やかに浮かび上がりバディー同士で場所を作るように。BCの調節は我々が降りたら指示します。今回はアンカーロープを使わないので我々にしっかりついてくること」
二人のインストラクターにそれぞれ四名くらいの生徒がつく。先に海面に降りた生徒はシュノーケルを顔の横に伸ばし既に海の中を覗いている。
最後の一人を送り出し、船板で待機するテンダーのスタッフと船長に合図した。
「四十分で上がる。ドリフト後のアセントポイントは例のところで」
今回の場所はアップウエリングが良い場所である。稜も久々であることと折角ならば透明度の高いゆっくりとした動きの潮流に身を任せたいと思ったのである。
海面での注意もほどほどに潜行開始となった。
若狭湾から日本海の沖合い出るとすぐ見える無人島、沓島がある。
この島には伝説があった。そもそも、今以上に大きな島であったらしく、なんでもそこに海人族(かいじんぞく)が住み、本土以上の楽園を築いていたという。だが、その楽園に悲劇が訪れた。大宝元年に長期にわたり続いた大地震。それがその島を沈ませたというのである。海人族の生活も共に沈み、わずかに残ったのがこの沓島と近くに浮かぶ冠島というのであった。ダイバーの間でも有名な話だが、西日本の神秘なる島の全貌を潜って見つけたいというロマンがそこにはあった。
稜は何度も何度も潜ったことがあった。その度に島の痕跡を探した。勝手を知るこの近海ではあったが、潜れる日はさほど多くはない。そして、幸運にも潜れたならば、誰もがその光景に言葉を失うのである。
潮の流れは今日に限って穏やかで中級者にとっても丁度いい。透明度の高さに感動した生徒は、次に魚群の多さに驚かされた。岩礁帯の隙間をぬって、岩のトンネルを抜ける。全て日の光が差し込む。何とも冒険心を掻き立てるスポットである。
久しぶりの海の圧力を肌で確かめた稜は、それでも決して仕事も忘れることなくバディのペアに写真を撮ったりした。
時間通りピーターのグループは浮上した。次に稜のバディー達もあがった。
だが、彼だけは上がってこなかった。
トランザムステップと呼ばれる船につけられた階段を最後に登るピーターが生徒に尋ねた。
「リョウセンセイハ?」
皆首を振るばかりである。
生徒の一人が手話をつくり、下に潜ると付け加えて説明した。
勝手な行動は仲間の安全を脅かすわけであり、そうしたことを講師である稜がする筈はないと船長もピーターも思った。
そして、ゆっくりと波立つ海面を皆が見ているとボンベから溢れ出したであろう空気の泡が無数に広がる箇所を見つけた。
船はすぐにそこへすすみ、ピーターが急いで海に入った。
ピーターは目を疑った。水の中で暴れている稜がいたのである。こんな彼など今までに一度も見たことがない。
水深十メートルぐらいの場所で、あろうことか、レギュレーターを口から外しているのである。
すぐにそれが窒素酔いだと分かった。
窒素酔いとは高圧の空気吸引で起こる大量窒素摂取により、まるで酒にでも酔ったような精神状態になることを言う。気分の高揚が主だった症状だが、まさか稜が今更そのようなことになるなどとは考えられなかった。
ピーターは自分の口からそれを外し、稜の口へ無理やり押し込んだ。そして抵抗する彼に構わず、BCジャケットの給気ボタンを押した。
二人はやがて浮上する。
ピーターはそれでも信じられない様子であった。浮上すれば直るも窒素中毒症がこんな浅い場所で掛かるはずもない。
スクールの生徒達も白い目で彼を見ている中、船長は急ぎ陸へ向かった。
クルーザーの上では横になったまま無様な醜態を見せていたという。
「父が、面倒をかけてすみませんでした」
自分がそそのかしたからとシュウは責任を感じていた。もし、「言って来て」といわなければみんなにも迷惑をかけることなどなかったわけで、父もこんな恥ずかしい思いをしなくて済んだのだ。ただ、それでもピーターにもスクールの生徒にも謝らなければならないと感じていた。
ピーターは「仕方ないよ何年も潜っていなかったんだから」とシュウを責めなかった。もちろん父をもである。そして気になることを告げた。
「ココニカエッテクルトキニツブヤイタンダヨ」
ここに着くまで黙っていた父は家が見えるなり聞こえるか聞こえないかの声でこぼしたという。
「似ている……」
ピーターにはさっぱりの言葉であった。
とにかく、一端戻ってきただけのピーターは、後片付けもあるからと港に戻ろうとした。シュウに何かあったら携帯に電話をかけるよう指示を出し帰っていった。
話を聞き終えたシュウは驚きもせず、あの空耳のことを考えた。
(やっぱり、祟りだろうか?)
父は深い眠りの中にいた。
海で見たものの続きなのか。いや、昨晩の続きのようである。
例の、彼を抱き上げた女性は、海の中にいた。しかも彼女の周りには妻の命を奪った海蛇が泳いでいたのである。
目の前の女性も同じことになるととっさに思った。そして今度こそ助けようと考えた。だが、蛇は彼の行く手を遮った。しかも女には何も危害を加えない様子である。
女は口を開いた。海の中で水深二十メートルもの中を器材なしで潜れるはずもない。ましてどうして口などが開けられようか。
稜は何とか前に出ようと考えた。助けようという思う他に女性の顔を見たくなったのである。
蛇が遠くに行きかけた隙を狙い彼女の前に出た。
髪が黒々と長い、海の流れにまかされて辺りを海草のような広がりをみせる、女のそれが容易に確認をさせなかった。
稜が手を伸ばそうとすると、女は声を、海の中で声を出したのである。
「あなた……あなた……探して、お願い……」
驚いた拍子に大量の酸素が、彼の口元から溢れた。それが渦を巻いて海上に上がっていった。
泡の隙間から見えたものに、更に興奮した。かつての三津子の面影を見たのである。女はそうして、かき消すようにいなくなった。
父が今夢で見たものと、海の中で見たものとは同じもののようであった。
シュウは苦しがる父の肩を抑え、「しっかりして」と何度も何度も声をかけた。
次の朝。遅れて登校した。
学校に電話するシュウは休むことを伝えていた。すると後ろから、起きてきた父が受話器を奪い取ってしまったのである。
「もしもし、変わりました。保護者です。いえ、大丈夫です。すみません、遅れますが行かせます」
受話器を置いた父にシュウは「だって、父さん昨日」と寝ずに心配させた原因を話そうとした。
「わかっている」
息子の気持ちは痛いほどわかるが、かといって何かが変わるわけでもない。
今は一人にしてくれと言い放ち二階の自分の部屋に入っていった。
シュウも歯がゆい自分を押し殺したまま学校へ向かった。
