シュウが知る父の仕事は、海底よりそうした宝を引き上げることと心得ていた。
当時は彼等以外に海底をさらう者などはいなかった。陸地の繁栄に埋もれるだけの生活が一般的であった。日本も戸惑いやためらいの中昔の環境を取り戻そうと必死だったのである。
父がどうして過酷な仕事についたかといえば、ロマンがあるからということらしい。高校に入るやその話をこの食堂でよく聞かされた。
ピーターも父の背中を見て経験した思い出を良く語ってくれたのである。
漁師の祖父が健全だった頃、一緒に連れられよく仕事を手伝った父。その時たまたま、海水で腐食した銅鏡のようなものを網が引き上げた。それを大事に持ちかえり綺麗に掃除をした。年代などは分からないが、とても不思議な気持ちになったと当時を振り返った。手伝いで船に乗る度にそうしたお土産が増えていったのである。
町の資料館や図書館の文献などで丁寧に照らし合わせた。貴重な歴史的発見かと思われるものでもほとんどが近代のものであった。だが父は欲におぼれることなく、もしかしたら古代の人との接点があるかもしれないと密かに思ったのである。
海が、また空が、古より伝わるそれと同じように確かなものとして手の中で触れられることに、いつかはたどり着くだろうと。以来、飽くなき憧れが彼の中で膨らんでいったのである。海にはまだまだ、そうした過去に思いをめぐらせるロマンがある。
ピーターとのやり取りで、それほどまで海に潜るのを拒ませるものは何なのか、リョウもよく知っていた。
その決定的な事件のことをピーターが渋々手伝う姿をおぼろげに見つめて思い出してみた。
「水の中で音をきいたことがあるか?」
ピーターと潜った時に尋ねた言葉であったそうだ。丁度その頃だろう、母三津子と付き合い始めたのは。
酸素ボンベで空気の吸引を繰り返す音やその二酸化炭素を逃す音、時々耳の奥の辺りで唾液を飲み込む時に発生する音や骨格がきしむ音がする。それ以外は静寂のはずなのに、稜の耳には何か別の音がするというのである。
不思議に感じた彼は仲間にも尋ねたりもするが、同じ海で同じ音がすることはあるだろうが、異なった深海でそうした音が聞こえたためしはないと返されてしまった。
キリキリと耳に障る音が聞こえた途端にそれは現れるというのである。何か、サワサワと笹の葉が揺れるような音である。
そして、そのざわめきめいた音の後に口をすぼめないと出ないような高い音、空気が行きかう口笛のような音が決まってするというのである。
それは明らかに、彼を誘っているような音であった。
近づけば大きくなり遠のけば小さくなる。それ故にそう感じたというのだ。
稜は陸にいる時はもっぱらその謎に迫った。第一にその異変に相談に乗ってくれたのが三津子であった。
看護の学校を出てしばらく医療に携わっていた彼女は、健康診断で稜と出会った。
その時医師に話していた耳閉感のような耳鳴りに似た症状を伝えていたのを何気に覚えていたのである。
ハントがない間はもちろんダイビングのインストラクターをしていた。日本海は若狭湾。初心者でも楽しめるスポットで多くの若者が集まる場所である。
三津子は初めて友達に誘われてきた。その時、稜をみて「耳鳴りの人」と言ってのけたのである。卑しくも先生にあたる者にそう言い放ったその場は、すぐに笑いの渦となった。稜は怒るでもなく返って気が楽になったという。
水深四メートルを自由に行き来させた、極簡単なツアーを引率している時、また稜はその音をきいた。しかも同じ状況下に合ったのに他には誰も聞こえなかったのである。唯一彼女を残して。
水面に顔を出した三津子は綺麗な海の中を十分に楽しんだという表情を彼に見せた。そして、耳鳴りのことを告げた。彼女も口笛のような音を聞いたというのである。
本当に聞こえた。しかも自分と同じように。
それから、書物を取り寄せたり、彼女は専門分野の先生に相談したりと真意を確かめようとしたのである。そこで手にとって見た本があった。
『聴心理学』という本である。
とても耳のよい著者が様々な音が意味する、その真理を解説したものであった。自分には様々な音が聞こえてくる。車が通る音。人が歩く音。鳥がさえずり、虫がなく。草木が揺れる音から海や山が叫ぶ音。
そうした、『聞こえる音』以外に『聞こえてくる音』を分類しながら独自の解説を加えた、とてもユニークな解釈が目をひいた。
そして、彼が知りたかった耳鳴りに関する記事を見つけた時、二人は驚いたのである。
『時として聞こえるようで聞こえないもの、同じ空間にいてもそれが聞こえるものは、少なからず悟りが開かれる瞬間。悟りとは迷妄を智慧の力によって解脱される領域をいう。つまり、感覚的に聞こえるのではなく啓示として選ばれたものだけに与えられた能力である』
驚きながらも納得した。そうしないと気がふれやしまいかとさえ思えたのである。
それから二人は付き合い始め結婚した。
父二十七歳、母二十五歳の時であった。
結婚当初も母は稜の仕事を理解してくれていた。世間で言う墓荒らしなどという野暮ったいものでは決してなかったからである。看護の仕事もやめ、変わりに船に同伴する道を選んだ。
船内で紅一点の彼女は船乗りの健康を管理する役になった。食事も作った。
数多くの宝を探し、二人はその魅力の虜になった。
夫が探す。カークや仲間がそれを引き上げる。妻は夫の帰りを待って、船の上で祝杯を挙げる。その連続が何よりも心に刻まれていった。陸の上で繰り広げられる無意味な政治などとは疎遠な、どこまでも自由な世界があったのである。
だが、その幸せは長くは続かなかった。
クルーに加わって三年、待望の子供を授かった。シュウである。それを気に彼女は陸での生活を余儀なくされた。そして、彼らへの感謝の意味も込めて喫茶店を経営したいと伝えた。航海の無事を祈るだけではなく、帰ってきた後のねぎらいを手料理をもって迎えてあげたいという一身である。稜ももちろんOKした。クルーは寂しがったが、事情が事情ゆえ応援しようと意見が一致した。
シュウがもうすぐ三歳になろうという時である。三津子が久しぶりに海に出たいと言い出した。子育て一本きりでがんばってきた彼女も、育児の一息がしたいのだと、稜はすぐに海へ出向いたのである。息子はピーターやカークやルイが面倒を見てくれた。
ロベルトが出す船にカークに抱かれたシュウは手を振った。
「すぐにもどるわよ」
船の上で満面の笑みを見せて記念写真をとった。
「これが最後になるかしら?」
「どうしてさ?大きくなったら、また探せるよ」
「そうだけど、ほら、最近政府もうるさいでしょう?」
「関係ないさ」
「まぁね」
ロベルトは合図した。
「スイシン30、リョウニハモノタリナイガ、ミツコニハキビシイゾ」
親指を立てて二人は背中から海に沈んでいった。
久しぶりの水中の感触。首や腕、脚などひんやりと冷たい海水が彼女を取り巻く。導かれるように下へ下へと沈む。
懐かしい圧迫感。耳鳴りがすると上手に耳抜きをする。
潮の流れは緩やかである。日光が十分にそこまで降り注ぐ。
静かな、空虚の海底を眺める三津子に稜は手招きをした。
魚の群れである。ぶりであろうか、大きな魚体を小さく力強い尾びれで水を蹴って進む。その速さに目を奪われた。
まもなく海底というときである。二人はまた音を聞いた。
今度は、今まで以上にはっきりと聞こえたのである。
その音に誘われるように三津子は降りていった。稜は久しぶりの彼女の潜水にためらいはないもののうかつな行動は無理が祟ると思い合図した。
しかし彼女は無反応で何かに取り憑かれたようにひたすら進んでいった。その時である。
背中が黒く、腹の辺りから黄色が鮮やかに伸びる奇怪な姿のものが彼女の横を通り過ぎた。
セグロウミヘビ、人間を死に至らしめる強い神経毒をもつ海蛇である。
とっさに稜は身の危険を伝える彼女の前方を回りハンドシグナルを送ろうとした。だがすでに蛇は彼女の首に食らいついたあとであった。
「みつこぉぉぉ!!!」