借り物の言葉、借り物の人生
おひさしぶりです、もうめっきり秋ですね。
個人的には、けっこう好きな季節です。
子供のころは近くの野原にススキがバーっと広がっていて、
おもちゃの刀でなぎ倒して遊んだりしていました(笑)。
月見、紅葉、鈴虫の音・・・
夏のエネルギッシュな「動」から「静」へ、
少しずつ移り変わっていく感覚。。。たまりません。
最近だと、町中が一色に包まれて、ハロウィンの雰囲気が一番
手軽に味わえるのは何といってもディズニーランドだと思いますが、
そんな新しいムードも心が躍るっちゅーもんです。
毎年何かしら飾りを買うので、ガラクタが増えてきましたが。苦笑。
そして、この季節になると、思い出すことがもうひとつ。
社会人駆け出しの頃、何のために仕事に向き合っているか、
究極的に悩みまくった時期がございました。
当時はコピーライターだったわけですが、
ある日、上司に「なぜこの仕事をやっているんですか?」と
問いかけたことがあります。
上司は言いました。
「僕はね、今日までコトバというものを追求してきて、それなりの限界
も知っている。だから究極、人と人は分かり合えないのかもしれない。
いや、100%分かり合うなんて絶対に不可能だ。だけど、それでもなお
極限まで分かり合える努力をしたいと思った。それはささやかな個人的
な人生の挑戦であり、その挑戦ができるコピーライターという仕事は
すごくエキサイティングなんだ」と。
なんだかもう、いまこうして思い出すだけで、じーんときますね。
「書くことが好きだから」
「人に何かを伝えたいと思ったから」
「自分のアイデアが活かせる仕事をしたかったから」
そんなどこかの情報誌に並べ立てられているような動機を語る人が
ものすごく薄っぺらくみえてしまいます。
彼らは本当に自分の人生や仕事に向き合っているのでしょうか。
さらにもっとひどいのは、
「広告賞をとってビッグになりたいから」
「本当は志望してなかったけど、たまたま配属されたから」
こういう人の魅力の無さったら、無限大ですよね。
まぁ、それでも気持ちはわかりますよ。
この手の人は、率直にいって劣等感の多い人生を送っている
かわいそうな人たちですからね。
「ビッグになりたい」とは
「評価されたい、かまってほしい渇望感」の裏返し。
「たまたま配属された」とは
「人生は自分でコントロールできない無力感」の裏返し
でもね、社会人になっても、いつまでも甘えるなっつーの!!
借り物でない言葉で、自分の仕事を、自分の人生を表現できる。
そんな人って、大人だと思いませんか、魅力的だと思いませんか?
個人的には、けっこう好きな季節です。
子供のころは近くの野原にススキがバーっと広がっていて、
おもちゃの刀でなぎ倒して遊んだりしていました(笑)。
月見、紅葉、鈴虫の音・・・
夏のエネルギッシュな「動」から「静」へ、
少しずつ移り変わっていく感覚。。。たまりません。
最近だと、町中が一色に包まれて、ハロウィンの雰囲気が一番
手軽に味わえるのは何といってもディズニーランドだと思いますが、
そんな新しいムードも心が躍るっちゅーもんです。
毎年何かしら飾りを買うので、ガラクタが増えてきましたが。苦笑。
そして、この季節になると、思い出すことがもうひとつ。
社会人駆け出しの頃、何のために仕事に向き合っているか、
究極的に悩みまくった時期がございました。
当時はコピーライターだったわけですが、
ある日、上司に「なぜこの仕事をやっているんですか?」と
問いかけたことがあります。
上司は言いました。
「僕はね、今日までコトバというものを追求してきて、それなりの限界
も知っている。だから究極、人と人は分かり合えないのかもしれない。
いや、100%分かり合うなんて絶対に不可能だ。だけど、それでもなお
極限まで分かり合える努力をしたいと思った。それはささやかな個人的
な人生の挑戦であり、その挑戦ができるコピーライターという仕事は
すごくエキサイティングなんだ」と。
なんだかもう、いまこうして思い出すだけで、じーんときますね。
「書くことが好きだから」
「人に何かを伝えたいと思ったから」
「自分のアイデアが活かせる仕事をしたかったから」
そんなどこかの情報誌に並べ立てられているような動機を語る人が
ものすごく薄っぺらくみえてしまいます。
彼らは本当に自分の人生や仕事に向き合っているのでしょうか。
さらにもっとひどいのは、
「広告賞をとってビッグになりたいから」
「本当は志望してなかったけど、たまたま配属されたから」
こういう人の魅力の無さったら、無限大ですよね。
まぁ、それでも気持ちはわかりますよ。
この手の人は、率直にいって劣等感の多い人生を送っている
かわいそうな人たちですからね。
「ビッグになりたい」とは
「評価されたい、かまってほしい渇望感」の裏返し。
「たまたま配属された」とは
「人生は自分でコントロールできない無力感」の裏返し
でもね、社会人になっても、いつまでも甘えるなっつーの!!
借り物でない言葉で、自分の仕事を、自分の人生を表現できる。
そんな人って、大人だと思いませんか、魅力的だと思いませんか?
就職と結婚
就職と結婚は似ている、とは、よく言われることですが。
いやいや、最近、そんな悩み相談ばかり聞くようになりました。
断言しましょう、アラサーで一番の悩みは、
仕事と恋愛である、と。(笑)
う~ん、でも、どうしてこんなにも迷える子羊ちゃんたちが
世の中にあふれてしまったのでしょう??
私が思うに、消費社会の弊害だと考えております。
「お客様は神様です」の考え方は、日本の商習慣ではかなり古くから
ありましたが、アメリカの理不尽な裁判などを見れば、
意外と資本主義とセットでグローバルスタンダードなのかもしれません。
マックのコーヒーが熱いからって賠償請求なんですからね(苦笑)。
つまり、物質的に豊かになった社会では「消費者=神様」なのです。
小さい頃から、この消費文化に飼いならされてきた我々世代にとって、
どうしてもあらゆる物事について、「賢い消費者」を演じがちです。
いろいろなものを比べて、少しでもお得に、満足できるものを求める。
こうした態度を、子どもの頃から学んできました。
はじめて買い物にいった子供が、お客様として振舞えば、
大人たちがペコペコしてくる、その事実は衝撃な体験でしょう。
その原体験が私たちに「消費的態度=人生で得をする」という
発想を刷り込んだのではないか、と睨んでおります。
生産者や提供者よりも、消費者のほうが偉そうにできる。
お金を払う前から絶対的な権力者として優位に立てる。
とにかく甘やかしてもらえる。
お金さえあればといった拝金主義者、
教師にクレームをつけまくるモンスターペアレンツ、
労働を放棄して行政サービスに寄生する仮性低所得者、
みんな心の内部構造は同じです。
「サービスを受ける側は神様だ」と勘違いしていらっしゃる。
ただ、大なり小なり、現代人はこの考え方の洗礼を受けています。
みんな人生の勝ち組になるため、理想的な消費者になろうと必死。
自分探しもそうですが、こうした消費的態度が不幸のはじまりです。
『いろいろなものを選んで、世界中から自分に相応しいものを選ぶ』
この“賢い”考え方を就職でも恋愛でもやっとりませんかね??
もっと自分に合ったいい仕事が見つかるかもしれない。
もっと自分に合ったいい人がこの世にいるかもしれない。
人生は一度きりなんだから後悔したくない、損したくない。
心の中で、そんな悪魔のささやきが聞こえてきておりませんか?
世に出回るスピリチュアル本じゃないですが、
むしろ、与えられた環境や引き寄せられた偶然に感謝したほうがいいです。
自分の体が取り替えられないように、自分の環境も取り替えられない、
そんな態度のほうが、幸せに満たされるものだと思います。
無数にある(ように見える)選択肢、言い換えれば自由の中で、
どうか自分を見失わないで。どうか幸せの種を逃さないで。
企業の過剰サービスに惑わされてはいけませんよ。
魅惑的な謳い文句は、悪魔の甘いささやきです。
自由になろう、自分を見つけよう、自己実現しよう、もっと稼ごう・・・
松下幸之助という昔の偉い人が言っていました。
「叱ってくれる人こそ、天使なのです」と。
ま、上記のような考え方も、心の片隅に置いておいてくださいね。
ちなみに最近、神社などパワースポットが流行しているようですが、
なんと神社が「婚活パーティー」もはじめたらしいですね。
浅草の今戸神社、なんでも日本初の試みらしいです(笑)。
コミュニケーションの学校で婚活パーティー開いても、
みなさん来てくれるでしょうか。笑。要望が多ければやってもいいかな、と。
最後に、都市伝説がらみで気になっていること。
実は、皇室の三種の神器って、バラバラに祀られているらしいですね。
「八咫鏡」は、伊勢神宮に。
「天叢雲剣(草薙の剣)」は、熱田神宮に。
「八尺瓊勾玉」は、皇居(天皇陛下の寝室の隣)に。
なぜ皇居には勾玉しかないのでしょう。
古代史を紐解いていくと、日本の神様の真の顔が見えてきて面白いですよ。
■皇居と皇居の都市伝説
概要→http://www.powerspotdb.jp/node/8
伝説→http://www.powerspotdb.jp/spot/myth/8
■パワースポットDBさん
http://www.powerspotdb.jp/
いやいや、最近、そんな悩み相談ばかり聞くようになりました。
断言しましょう、アラサーで一番の悩みは、
仕事と恋愛である、と。(笑)
う~ん、でも、どうしてこんなにも迷える子羊ちゃんたちが
世の中にあふれてしまったのでしょう??
私が思うに、消費社会の弊害だと考えております。
「お客様は神様です」の考え方は、日本の商習慣ではかなり古くから
ありましたが、アメリカの理不尽な裁判などを見れば、
意外と資本主義とセットでグローバルスタンダードなのかもしれません。
マックのコーヒーが熱いからって賠償請求なんですからね(苦笑)。
つまり、物質的に豊かになった社会では「消費者=神様」なのです。
小さい頃から、この消費文化に飼いならされてきた我々世代にとって、
どうしてもあらゆる物事について、「賢い消費者」を演じがちです。
いろいろなものを比べて、少しでもお得に、満足できるものを求める。
こうした態度を、子どもの頃から学んできました。
はじめて買い物にいった子供が、お客様として振舞えば、
大人たちがペコペコしてくる、その事実は衝撃な体験でしょう。
その原体験が私たちに「消費的態度=人生で得をする」という
発想を刷り込んだのではないか、と睨んでおります。
生産者や提供者よりも、消費者のほうが偉そうにできる。
お金を払う前から絶対的な権力者として優位に立てる。
とにかく甘やかしてもらえる。
お金さえあればといった拝金主義者、
教師にクレームをつけまくるモンスターペアレンツ、
労働を放棄して行政サービスに寄生する仮性低所得者、
みんな心の内部構造は同じです。
「サービスを受ける側は神様だ」と勘違いしていらっしゃる。
ただ、大なり小なり、現代人はこの考え方の洗礼を受けています。
みんな人生の勝ち組になるため、理想的な消費者になろうと必死。
自分探しもそうですが、こうした消費的態度が不幸のはじまりです。
『いろいろなものを選んで、世界中から自分に相応しいものを選ぶ』
この“賢い”考え方を就職でも恋愛でもやっとりませんかね??
もっと自分に合ったいい仕事が見つかるかもしれない。
もっと自分に合ったいい人がこの世にいるかもしれない。
人生は一度きりなんだから後悔したくない、損したくない。
心の中で、そんな悪魔のささやきが聞こえてきておりませんか?
世に出回るスピリチュアル本じゃないですが、
むしろ、与えられた環境や引き寄せられた偶然に感謝したほうがいいです。
自分の体が取り替えられないように、自分の環境も取り替えられない、
そんな態度のほうが、幸せに満たされるものだと思います。
無数にある(ように見える)選択肢、言い換えれば自由の中で、
どうか自分を見失わないで。どうか幸せの種を逃さないで。
企業の過剰サービスに惑わされてはいけませんよ。
魅惑的な謳い文句は、悪魔の甘いささやきです。
自由になろう、自分を見つけよう、自己実現しよう、もっと稼ごう・・・
松下幸之助という昔の偉い人が言っていました。
「叱ってくれる人こそ、天使なのです」と。
ま、上記のような考え方も、心の片隅に置いておいてくださいね。
ちなみに最近、神社などパワースポットが流行しているようですが、
なんと神社が「婚活パーティー」もはじめたらしいですね。
浅草の今戸神社、なんでも日本初の試みらしいです(笑)。
コミュニケーションの学校で婚活パーティー開いても、
みなさん来てくれるでしょうか。笑。要望が多ければやってもいいかな、と。
最後に、都市伝説がらみで気になっていること。
実は、皇室の三種の神器って、バラバラに祀られているらしいですね。
「八咫鏡」は、伊勢神宮に。
「天叢雲剣(草薙の剣)」は、熱田神宮に。
「八尺瓊勾玉」は、皇居(天皇陛下の寝室の隣)に。
なぜ皇居には勾玉しかないのでしょう。
古代史を紐解いていくと、日本の神様の真の顔が見えてきて面白いですよ。
■皇居と皇居の都市伝説
概要→http://www.powerspotdb.jp/node/8
伝説→http://www.powerspotdb.jp/spot/myth/8
■パワースポットDBさん
http://www.powerspotdb.jp/
「いかに」は、手法や技法を含む表現のすべて
今回から「いかに」について解説していきます。
「いかに」は文章が世に表れる部分。
ここが間違っていたら、どうしようもありません。
とても大切ですので、しっかりと理解しましょう。
「いかに」は表現だと解釈されています。
このことに間違いはありませんが、
少々舌足らずと言いますか、いかにも誤解を招きそうな気がします。
「いかに」は表現の技法のみならず、形式なども含みます。
文章でいえば、トーンや言葉遣いにとどまらず、
手紙であるとか、作文であるとかいう文章の形式も「いかに」。
さらには、文章で伝える、
という選択までも「いかに」に含むのです。
具体例をあげて説明します。
思いを伝えるのに、
人によっては音楽や映像、身振り手振りを使い表現しますよね。
音楽や映像、身振り手振りも「いかに」です。
文章は、幅広い「いかに」の手段のうちの一つ
だととらえてほしいと思います。
このことは、文章を書くということと直接の関係はないかもしれません。
でも、「いかに」はもっと幅広いことなんだ、と覚えておくと、
文章表現でなんとかしなければいけない、という縛りが外れると思います。
あるいは、手紙でなければいけない、
という思い込みもなくなるかもしれませんよね。
いかに=表現は本来は自由なものです。
ここでは文章のことを中心に紹介していきますが、
いかにの自由さということは頭の隅にでも置いておいてください。
では、次回から文章の中のいかにを解説していきます!
「いかに」は文章が世に表れる部分。
ここが間違っていたら、どうしようもありません。
とても大切ですので、しっかりと理解しましょう。
「いかに」は表現だと解釈されています。
このことに間違いはありませんが、
少々舌足らずと言いますか、いかにも誤解を招きそうな気がします。
「いかに」は表現の技法のみならず、形式なども含みます。
文章でいえば、トーンや言葉遣いにとどまらず、
手紙であるとか、作文であるとかいう文章の形式も「いかに」。
さらには、文章で伝える、
という選択までも「いかに」に含むのです。
具体例をあげて説明します。
思いを伝えるのに、
人によっては音楽や映像、身振り手振りを使い表現しますよね。
音楽や映像、身振り手振りも「いかに」です。
文章は、幅広い「いかに」の手段のうちの一つ
だととらえてほしいと思います。
このことは、文章を書くということと直接の関係はないかもしれません。
でも、「いかに」はもっと幅広いことなんだ、と覚えておくと、
文章表現でなんとかしなければいけない、という縛りが外れると思います。
あるいは、手紙でなければいけない、
という思い込みもなくなるかもしれませんよね。
いかに=表現は本来は自由なものです。
ここでは文章のことを中心に紹介していきますが、
いかにの自由さということは頭の隅にでも置いておいてください。
では、次回から文章の中のいかにを解説していきます!