久しぶりに雨が降っている。最近は天気のほうが季節よりもいくらか先に進みすぎたように思えるほど暑かったので、こうしたしっとりとした雨は大歓迎だ。空は白くて風も無く、粒の小さな雨がしとしとと、弱々しい光に満ちた空気の中にまるで霧のように漂っている。
毎日毎日、テレビをつけると残念なことばかりが聞こえてくる。どれもこれも耳を塞ぎたくなるようなものばかりで本当にうんざりさせられる思いだ。それでも最低限の時間くらいは視聴していないと世間に全く疎くなってしまうので、毎日仕方なく思いながら我慢して、よほど酷いものではない限りはたいていのものは見るようにしている。とくに得るものなど無いし聞くべき言葉も多くはないが、私自身が世捨て人になるにはまだ随分早いと思われるので、こうした苦痛も忍ばなければならないことなのだろうと思い、辛抱して見るようにしている。
私は一番最初に此処で語り始めるにあたって、良きことにせよ悪しきことにせよ、世間の様々な出来事に対して自身の考えをこの場で表明したり、理想を語ったり、いわんや何者かを糾弾したりなどは絶対にすまいとひとつの規則を立てておいた。それは何も批評を恐れてのことではないが、最近色々と思うことがあったため、今日は私が何故そのような規則を立てようと思い至ったのか、その理由を少し話すことにしようと思う。
私はこうした匿名の世界に対する自らの姿勢の規範として、自らの名を名乗らず、姿を明かさない状態での批評や糾弾などは、結果として何の意味も成さないばかりか、その最後は卑怯で醜い罵り合いにしかならないものであると確信している。勿論、こうしたことにあてはまらない事もあるには違いないと思うが、しかし、多くの場合、名を隠して訴えなければその身に迫る危険を防ぐことが出来ないような事など、少なくとも政情が不安定な国や独裁国家でもない限りそう多くはなかろうと思うのである。意見するようなことがあるのなら、その然るべき所に名前を出して訴え出るべきであろうと私は思う。自分の話していることに後ろ暗いところがなければ必ずやそのように出来る筈である。また、そうしたことは自分の話していることにびくともしない自信がなければ出来ないことだ。
場合によっては真剣な問題提起が行われていたり、真面目な討論になり得ている場合もある。しかし、全体に見渡してみるとそうした例はごく稀で、たいていの場合はただただ特定の相手に対して些細なことをあげつらい、誰からか又聞きしたような表面的な知識をもとにして、いたずらに無責任な言葉を投げ付けて非難することに終始していることが殆どであるように見える。
誰かの仕損じや至らないところを見つけるのは意外に容易いものだ。人は人の良いところはなかなか気がつかないが、面白く思わないところは目敏く見つけだすものだからである。そのうえ相手を非難するだけのことなら、それはもう誰にでも出来るごく簡単なことだ。しかし、問題を提起し、解決策を探り、何事かの答えを導き出すということは誰にでも出来るような易しいことではない。これらのこと全てを行わないまでも、その問題とする事柄について自分自身の言葉で考え、理解しようと努めるくらいのことは当然行われてしかるべきであろうと思われるのだが、たいていの場合は人伝に聞いた話しに快、不快を述べているに過ぎない。
こう言えばある人は言うだろう。「ここに書かれていることなど単なる雑談なのだよ。道端や電車の中で普段嫌というほど耳にする雑多な会話が単に文字になって残っているだけの話じゃないか。たいした意味などありはしない。目くじらを立てるほどのことでもない」と。しかし、私には早くもそこの所が誤っているように思われてならないのである。
言葉というものはそれを話しているその当人の口から出るものだ。しかし、文字というものはその内容が善きにつけ悪しきにつけ、自分がどのようにそれを思って話した言葉でも、その言葉はその話す当人の口からではなくて、それを受け取る側の人間の心の唇が読み、その口から出るのである。面と向かって話している時でさえ、ちょっとした言葉の行き違いで角が立ち、角突き合わせるようになることもしばしばであるのに、相手の姿も見えず、どのような考えからそれを話しているのか、そうした様子も分からない状態では、そのようにならないという道理がないではないか。
些細な仕損じや言い違いで、年端もいかない娘を往来へ引きずり出しては、皆で寄ってたかって小突き回す。正義の御旗を振りかざしながら、大人数に囲まれてすっかり怯えきったひとりを口汚く罵り、拳で殴り付ける。しだいに辺りには多くの野次馬が集まり始めて、その野次馬の中の一人が狂ったようにして殴り付けている男に、これはいったい何の騒ぎかと尋ねる。その男は言う、「この女はこれこれこういった者でけしからん奴なので今懲らしめているところだ。」と。するとその尋ねた男は、「なんて奴だ、俺にも殴らせろ。」と言い、力いっぱい拳で頬桁を殴り付ける。そういった者が一人加わり二人加わりしながら、次第にその輪は大きくなってゆく。辺りには土煙が舞って、その中心からは耳を塞ぎたくなるような口汚い罵詈雑言と娘の悲鳴が聞こえてくる。獣のような声を上げて狂ったように泣き叫びながら助けを求めるが、彼女を助けるものは誰も現れない。頭の皮膚が裂けるほどに髪を掴まれて引き回される。息ができないほど踏みつけられる。それでも助けは現れない。そうしてようやく騒動が収まって土煙が晴れると、襤褸雑巾のようになった娘だけがひとり打ち捨てられている。衣服は裂けて、美しかった顔は、顔が顔と判らないくらいに腫れ上がり、歯は折られて口から大量の血が噴き出している。涙や汗、鼻水やよだれが埃っぽい渇いた土と混ざり合って、血まみれの顔にべったりと貼りついている。鼻は潰されて折れ曲がり、裂けた頭の皮膚からは肉が覗いている。そうしてぐったりと突っ伏したまま動かない娘に駆け寄るものはいない。血の匂いを嗅ぎ付けてやって来た蝿だけが、静まり返った空気の中を眠そうな羽音を立ててしきりに飛び回っている。人々は遠巻きに輪をつくり、何事かひそひそと話し出す。その目には好奇と興奮の炎が赤々と燃えていて、彼女を卑下する目は氷よりも冷たい。あちこちからヒヒヒという笑いが起こる。そうしてひとしきり見世物の見物を終えると、皆はめいめいに散っていってしまう。野次馬たちは既にもう誰も彼女のことなど覚えてはいない。彼女はきっと死ぬだろう。炎天下の中、水も与えられず、助け起こされもせず、手当もされないままに、焼けたような熱い土の上に突っ伏したまま息を引き取るだろう。そしてその亡きがらの傷口から染み出す血を蝿が舐め、あばらの浮いた野良犬がその肉を喰らうだろう。
こうしたことの理非を知るために、御大層な道徳心や倫理感のお出ましを願わなければならぬほど、それほど我々は愚かであっただろうか?
そうした理由から、私は特定の者への非難や糾弾などという行為を私自身に厳しく禁じている。意見があれば時にはそれを話すこともある。しかし、それはその然るべきところに私自身の名によって行われるべき事であろう。何にせよ、ぐずぐずと陰で悪態をつくだけというのは卑怯者のすることである。
しかし、それでも時折そうした規則を破りたくなる時が私にもあるのだ。何とも残念で、誰に対して怒りをぶちまければよいのか分からず、怒りが体中で唸りを上げるような時がある。
先日見たふとした光景が目に焼きついて瞼から離れない。
それは日曜日の夕方だった。その日もいつものごとく自宅でゆっくりと過ごしていたのだが、ふと飲み物が切れかけていることに気がついた。一般に東京の水道水はおいしくないと言われているが、実際にはそうではない。少なくともそれは正確ではない。昭和20年代や30、40年代ならともかく、今の浄化設備は素晴らしく優秀なもので、そこできちんと浄化された水は店で売られている何百円もするミネラルウォーターよりも軟水であるがゆえにずっと美味しいのである。東京の水道水が美味しくないのはひとえに老朽化した水道管のせいなのだ。残念なことに私の住まっている建物の水道管はそれほど新しくはないので、料理には使えてもそのまま飲むのにはいくらか難がある。もちろん飲めないことはない、とくに変な匂いもしないのだが、実際美味しくはない。そうした理由から生の状態で飲む物だけはお金を出して買うことにしている。
外はもうすっかり夕闇に包まれ始めていて、青い空気の中で家々の窓には灯りが灯っていた。ワイシャツだけで出てきたので外の空気がひんやりと冷たかった。家を出てしばらく歩くと信号があり、その向こうに私がいつも日常の様々な買い物をするドラッグストアがある。ここは生鮮食料品以外は何でも置いているので実際かなり重宝している。そうしてぼんやりと信号の前で車の行き過ぎるのを待っていると、私が立っている交差点の角にある自動販売機の前に見覚えのある老婆の姿が見えた。
私はこの老婆を普段からよく目にしている。髪はほとんど全てというほど真っ白で、同じくらいの年寄りがそうであるように、その髪は短く整えられることなく長く伸ばされたままで、後ろでひとつに結ばれている。内臓があまり良くないのだろう、顔色は黄色味を帯びた土色をしている。ちょっと見ただけでも、銀髪とその顔の土気色の対比はすこし奇異に見えるところがある。首の付け根の辺りから背中が曲がっており、いつも胸の少し下辺りで両手を組んで、小さな歩幅でとぼとぼと歩いている。その表情はいつも暗く、しっかりと前を見ている時などは稀で、いつも足元の少し前の一点を見つめながら歩いている。あくまでもこれは私の勘だが、おそらく彼女に身寄りはないだろうと思う。きっと独り暮らしだろう。何度かスーパーの買い物袋を提げて歩いている姿を見かけたことがあるが、その袋はいつも小さく品数もごく少なかった。そして何より彼女の背中はとても小さかった。
自動販売機の煌々と光る蛍光灯に照らされて私はその老婆の顔をはっきりと見分けることが出来た。そして、その老婆が自動販売機のお釣りの返却口にひとつひとつ手を入れて小銭を探しているところも、生気のない白い蛍光灯の明かりがはっきりと照らし出していた。私は呆然としたまましばらくそこに立ち尽くしていたが、ふいに顔を上げた老婆と目が合ってしまった。老婆は私と目が合った一瞬後、何とも言葉にならない悲しい表情を浮かべてすぐに目を伏せてしまった。今でもその一瞬の表情が目に焼きついて離れない。
私は取繕うようにして目をそらすと、そのまま急いで信号を渡り店の中に逃げ込んだ。白々しいまでの明るい店内や、賑やかにかかっている音楽が何とも疎ましく、私の心をひどく苦しめた。
私はどうすればよいだろうか?この怒りを誰にぶつければよいだろうか?男として生まれたからには人の役に立つべきことをするべきであろう。勿論、私の現在の仕事も誰かの幾らかの役にはたっていることだろうと思われるのだが、しかし、それでは私には不足のように思われてならないのだ。よく自分に出来ることを、自分らしい方法でなどと言う人がいるけれども、それでもやはり餓えている者には食べ物が必要であるし、凍えている者には着る物が必要であろうと思うのである。勿論、たんなる施しだけでは、かえって人を駄目にしてしまうことくらい私も十分分かっているつもりだ。しかしそれでも、そうした行為に真心がともなっていれば、どのような小さなことでも人を助ける力に成り得るような気がするのである。愛という都合のいい、重宝な言葉で漠然と現実を覆い隠してしまうことは容易いことであるけれども、飢えている者の前でどれほど美しい調べを奏でたところで、それは虚しい風の音と同じであろう。
巷には不幸で助けを求めている人間が海の向こうにしか存在していないかのように思い違いしている人間が多くいるが、それは大きな誤りであろうと思う。もちろん私もそうした人々が不幸の只中にいることくらいは十分理解している。そうした人々に援助の手を差し伸べることも大事なことだろうとも思う。しかしその反面、国の内にいる人々に対して目をつむり過ぎなのではないだろうかとも思うのである。多くの人々は、ただ漠然とこの国にいる限り飢えて死ぬことはないと信じ込んでいるところが多分にあるようだが、実際にはそうではない。二代三代かかっても使い切れないくらいの富を持っている人間がいるすぐ傍で、握り飯ひとつ、味噌汁一杯を恋しく思いながら人知れず亡くなってゆく者も数多くいるのである。それは国の内に数人というわけでは決してない。誕生日のケーキを囲んでクラッカーを鳴らしているその窓の向こうに見えるある部屋には、電気もガスも水道も止められて、苦しさにうんうんと呻きながらも医者にも掛かれず、ひもじいひもじいと言いながら死んでゆくものが現実にいるのである。愛を囁き合うその部屋のすぐ下には、両親の暴力に怯え、足音を聞きつける度に震えが止まらずに、口の中にまで伝い入ってきた涙の塩辛さをひとり噛み締めている幼い子供達もいるのである。そうしたごく身近な不幸を見過ごしたままで、さも尊い事をしていますと言わんばかりに愛の御旗を翻しての行進など、悲しいほど滑稽極まりないものではないか。
重ねて言うが、海の向こうの人間など放っておいても構わないという訳では決してない。しかし国の内にある、目にとまりにくい不幸にも、もう少し目を向けるべきだろうと私は思うのである。海の向こうの世界は、なるほど環境は我々の住む世界よりも過酷であり、貧困の程度も重いと思う。しかし、自分自身も貧しいが周りの者も等しく貧しいので、その社会はひとつに結ばれていてまだ救いがある。これから良くなってゆくだろうという希望を持つこともできる。勿論、内戦の続く国や極端な階層社会の存在する国にはこの例は当てはまらないけれども、それでも貧しい社会に生きていても、貧しいなりに連帯感という救いが存在している。それに対して、先進国の内に存在する貧困は救いようのない極めて醜悪なものだ。そこへ落ち込んだ者は社会から断絶されて行き場もなく、二世代三世代を経ても連鎖する貧困から抜け出すことができない。同じ血を分けた兄弟のひとりは小国を買い上げることが出来るほどの富を持ちながら、自分は毎日ごみを漁るようなことをしなければならない。自分は飢えて明日にでも死にそうな状態であるのに、皿にのせた食べ物は自分たち兄弟とは縁もゆかりもない人々の前へと運ばれてゆく。きらびやかなお祭りの山車が練り歩くその建物の陰では、干からびて蝿もたからない亡骸が横たわっている。こうした社会の何処に救いを求めることが出来るだろうか?
この塔の建設もいずれ終わる。それは恐らく失敗に終わるだろう。この塔の建設の大号令をかけた者は、猿にも劣るような知恵しか持ち合わせていない愚かな王だ。自分が切るように命じた舵取りの号令で、自らの乗る船が何処へ向かうのかさえ知らないほどだ。故にその塔に何事かあって崩れた時、塔の建設に従事する者や塔の内部に住まう者、その裾野で各々の仕事に従事する者たちがどうなるかなど考えも及ばない。どれほどの犠牲者が出るか考えてもみない。
塔が崩れ去った後、人々はめいめいに自分の土地へ引きこもってその土地の周りに柵を設け、互いに相手を訝しく思いながら暮らすだろう。少なくなった食べ物や木々などを目一杯自分の土地に抱え込んで、誰にも渡さないようにするために高い櫓を設けてそこへ見張りを立てるだろう。
乏しい土地の者が、その乏しさ故に息絶えてその亡骸が野良犬や烏の餌食になっていても、皆がそれを目にしなかったかのように振舞い、獣の餌になるのに任せるだろう。
私に人脈があり、それ相応の実際的な知識があれば国の政へ参与したいと思うところなのだが、残念ながら私はそれらを持ち合わせていない。しかし、何とか力になれないものかとは思うのである。
国の政に参与する者であれば、三世代、四世代先を見てその舵取りを定めねばならない筈であるのに、多くの者がほんの目先のことにのみ関心を払って大騒ぎをしている。私心を捨て去って当たらねばならない仕事であるべき筈であるのに、自分達の意見を通すために役者の真似事のようなことをして民衆へ諂う。また、そうせざるを得ないような風潮を、愚かにも権利を有する民衆自身が作り出している。そして、それを作り出す源になっているというのが哀れにも金なのである。
ただただ漠然とこの国は沈まないと思い込んでいるような人間が巷には多くいるようだが、それは甚だ大きな間違いである。この国も舵取りを誤れば必ず沈む。そして、かつては笑った国民に返って笑われるようになるのである。芽を出してから枯れるまで、その間ずっと花を咲かせ続けるような花などありはしない。そこのところを老若男女を問わずしっかりと思い知るべきであろう。そうしたことが分からない者は、まるで自分だけが老いないと漠然と思い込んでいる若者と丁度同じようなものだ。それはあまりにも愚かなことだ。
こうしたことを私などが語るのは何とも口幅ったく、気恥ずかしい限りだが、日頃あまりにも残念に思うことが多かったために、こうして思いに任せて書いてしまった。勿論これは私個人の独善的な考えも多分に含まれているので、否と思う者も多くいるに違いないと思う。しかし、その根本においては、私は今話した事柄に対して何ら後ろめたいところなどありはしない。私は心底から今話したことのようにこの世界を見ているのである。