風邪はだいぶ良くなった。喉の痛みももう殆どない。それでもまだ幾らかは咳が出るし、大量の鼻水のせいで鼻の粘膜が荒れているようなところはあるが、これももう二、三日で治まると思う。


今日は本当によく晴れている。真っ青な空がまるで夏空のようだ。しかし、そうはいってもあまり日差しに当たりすぎると体力を消耗してしまうのでよくよく気をつけなければならないだろう。


今日はこれだけよく晴れているが、二週間予報ではこの先の天気は曇りや雨の日が多くなるとのことらしい。ついこの間桜の花が終わったような気がしていたが、知らぬ間にもう梅雨の時期が近付いてきていたようだ。思えば、近所の家々に植えられてある紫陽花の花が咲き始めているほどだから、まぁ当然といえば当然のことでもある。今朝見た紫陽花は、まだ花は小ぶりだし満開になるまでにはもう少し時間がかかるようだったが、まだほとんど色付いていない白っぽい花びらを無数につけた花の塊が風に揺られながらゆらゆらと揺れていた。


そうしたことに気をつけて周りをよく見てみると、ドクダミも小さな白い花を咲かせていた。紫色で縁取られた黒いほどの濃い緑の葉を、まるで周囲に自分の存在を主張するかのように鬱蒼と繁らせていて、その濃い緑の中に小さな愛らしい花がぽつぽつと、まるで花柄のように配されていた。お茶に使われるようなこともある植物だが同時に厄介な雑草でもあって、中学の頃は、よく校舎の日の当たらないような湿った場所にやたらと生えてきていたのをよく覚えている。




私の通った中学校では、教育の一環としての意味もあったのだろうが、全校生徒が一斉に行う除草作業があった。だいたい年に二、三回ほどであったと思うが、そうした中でも丁度今頃の季節の行われるような除草作業がとにかく嫌で、本当に大嫌いだった。なぜなら私は尋常ではないほど虫が苦手だからである。いや、苦手どころで収まるようなものではなく、私にとってのそれは嫌悪と恐怖の象徴と言っていいくらいのものなのだ。それは随分時間が経った今でも少しも変わるところがない。とにかく、足が四本より多いものは全く生理的に受け付けないのである。そんな私にとって、虫がうじゃうじゃいそうな初夏の草むらに挑んでゆくことがどれほど恐ろしいことかは、同じような虫嫌いの人間以外にはなかなか理解できないことだろうと思う。


そうはいってもこればかりは強制参加なのである。逃げられれば逃げたいものだが、残念ながら逃れようがないのだ。


うんざりするような暑さと草いきれの中、校庭や中庭、校舎の周りに繁った雑草を全校生徒で黙々と刈り続ける。暑さと虫の両方が苦手な私にとって、これは二重の苦しみである。今でこそ昔話と笑って話せるが、その頃は熱く熱した地面を見つめながら、一体誰がこんなことを考えついたのかと心底呪わしく思ったものである。


高く生い茂った雑草の中にちょっと足を踏み込むだけで、ピョンピョンとバッタが跳ね出てくる。虫全般が大嫌いな私にとってはどれが嫌いだのということはないのだが、その中でもこのバッタの類はとにかく気持ちの悪いもののひとつである。コオロギなどに至っては私の目にはゴキブリと同じものにしか見えない。そうした私のような人間が、そうしたものの棲息圏の中に足を踏み入れてゆくのだから、とにかく草むらの茂みが恐ろしいのである。


作業をさぼる訳ではないが、私自身がそうした虫嫌いの人間なので、出来るだけそうしたものと遭遇する確率の低い場所へと私は紛れ込んで逃れるようにしていた。校庭や校舎の周囲の、比較的学校の外と接している場所は虫と遭遇する危険性が高かったので、私は努めて校内の中庭などへ紛れ込んで作業をするようにしていた。中庭は校舎に囲まれていて人通りも多く、四方へ遊歩道が通っていたので、その他の場所よりも圧倒的に虫が少なかったからである。中庭のたいていの場所は日当たりがよかったが、場所によっては一日中、直接日の当たらないような所もあった。そうした場所のひとつに、刈っても刈ってもすぐにドクダミが生えてくる場所があって、その除草作業のたびに随分苦労させられたのをよく覚えている。ドクダミはただ生えているだけの状態であっても独特の匂いのする植物だが、駆除の為に葉や茎などを傷つけたりすると、独特の篭ったような、趣味の悪い香水のような不快な匂いを辺りに撒き散らす厄介な性質を持っているのである。そうした除草作業が行われるような頃には、彼等は雑草特有のとてつもない生命力を発揮してかなり広範囲に生い茂っている場合が多かった。そのため、それら全てを刈り取って駆除し終わると、その量はかなりのものになった。ドクダミに触った手が臭かったりベトベトしているのも勿論嫌だったが、何より嫌だったのは駆除した大量のドクダミから発せられる気分の悪くなるような匂いだった。今思い出しても胸が悪くなる。



随分と取るに足らない愚痴を話してしまった。中学校を卒業してから随分経つが、面白くなく思った事というのは案外細かいところまでよく覚えているものである。今は昔ほどそうした作業自体が嫌いではなくなったが、それでも、やはり誰からか強制されて何かをやらされるのは、大人になってもやはり嫌なものだ。

今日はなんでも雨が降るらしい。天気予報ではかなり本格的に降るといっていたが、今現在の空を見ているかぎりとても降るとは思えない。ただ、私は現代の気象予報の精度をかなり信用しているので、こうした一見とても降りそうに思われないような天気の日でも傘を持って出るようにしている。人によったらこうした場合、折り畳みの傘を鞄に入れて出るのだろうが、私は折り畳みの傘のあの小ささや華奢さがどうにも頼りなく思え、何より人物が物ぐさに見えるような気がしてあまり好まないので、無駄な荷物になるかもしれなくても普通の傘を持って出るようにしている。


そうは言っても、今日は珍しく家を出るときに雨のことをすっかり忘れてしまったようで、傘を持って出るのを忘れてしまった。そのため、残念ながら個人的に普段からあまり良く思っていないビニール傘を買う羽目になってしまった。


ビニール傘もこうした非常時にはたいへん重宝するし、実に有用なものなのだが、日常的に使うのはどうかと思うところがある。実際、人がさしているのを見ても、お世辞にも見ていいものではない。よく伊達なスーツを着こなした青年や、お洒落で可愛らしい姿をした女性などが、他は全て完璧であるのに傘だけが安物のビニール傘だったりすることがあるが、そうしたものを目にする度にとても勿体なく、惜しく思うことがある。勿論、急に降りだした雨のために必要に迫られて急遽買ってきたといったようなものなら解るのだが、その持っているビニール傘がくたくたに使い込まれたような物だと何とも残念に思われるものだ。人物の格がひとつ下に見える。おそらく、そもそもが傘を持っていること自体が煩わしく、雨が止めば何処かに置いてくるか捨ててしまいたいという考えなのだろうが、しかし、そこのところでその物ぐさ心をぐっと堪えて、それぞれ着ているものに合ったきちんとした傘を持っていたりすると、実際よりも人物が凛と引き締まって見えるものなのだが、やはり人間楽な方へ傾くもので、そうする者は決して多くはなく思える。


せっかく美男美女に生れついたのであるから、出来ればそうした細かな所にまで気を配って伊達を通して欲しいものであると思う。なにしろ醜く生れついた者は、伊達を気取ろうにも出来ない相談だからである。



私は特に意識してそうしている訳ではないのだが、どうも物持ちがいい人間のようである。以前は別段そのようなことを気に留めることなどなかったのだが、改めて自分の周りを見渡してみると随分長く使っているなと思える物が多くあるのに驚かされる。家電製品など、人によっては半年ほどで調子が悪くなったなどと言い出す人もいるというのに、私の家には十年以上使用しているものがごろごろあり、さらに十年使えそうな物ばかりであるように思う。何しろ家電製品が壊れないのだ。いや、決して壊れて欲しいという訳ではないのだが、しかしよく持つものだなと不思議には思う。その中でも小学校の二、三年生の頃から使っているハンカチがあるのだが、それを目にするたびにつくづくよく残ったものだと思う。朝の慌ただしい登校の時間に急いでポケットの中にこのハンカチを突っ込んだものだったし、中学校の頃はこれでよく弁当を包んでもらったものだった。勿論、その頃からはだいぶ時間が経ってしまっているので、生地は薄く脆くなり、色もいくらか褪せてしまっていてもう実用としては使うことは出来ないが、それでも別のものに加工し直したりせずに、私はこれからもこのままハンカチとして引き出しの中に仕舞っておくのだろうと思う。


昔から物持ちがよかったかどうかは分からないが、少なくとも傘の持ちが悪かったのは確かであると言える。今使っている傘は、もうかれこれ九年ほど使っているものである。他の傘を持っていないので、これだけをずっと今まで使ってきたのだが、この傘もまた不思議とよくもっている。台風の日でも平気で使ってきたが壊れるようなことがなかった為、今でも現役で雨の日に働いてくれている。とくに高価なものというわけでもないし、この手合いのものなら相応の値段で幾らでも売られているようなものなのだが、なかなか丈夫で壊れないし、頼もしい奴である。もうひとつくらい替えの傘を用意しておいてもいいのだが、色合いと柄で同じような雰囲気を持ったものが、普段から気をつけて探していてもなかなか見つからないので、今までこの傘ひとつで済ましてきてしまった。東京へ移ってきてからはどうも空気の汚れがひどいらしく、生地が煤けたように黒く汚れてきてしまったので、近々中性洗剤で洗ってやろうと思っている。こまめに発水スプレーをして大事に使えばもう十年ほどは十分使えるだろう。


人によったら、こうしたことを聞くとどうにも年寄り臭く思うだろうが、それでも私は構わない。私はこうして同じものを手入れをしながら長く使ってゆくのが理屈抜きで好きなのだ。それに、同じ年月を長く共に過ごしてゆくと、何やら自分の体の一部になったような、まるで自分の身内のような気がして、どうにも捨てるに捨てれなくなってしまうものなのだ。ものが惜しいというのとは違って、愛着というか情のようなものがそこには生まれているのである。


それでも子供の頃は、私もあまり物を大事にするような人間ではなかった。といっても粗末にするというほどのものでもなかったが、何にしろ、そういったことに対してあまり関心がなく、物があろうがなかろうが、無くなろうが見つかろうが、壊れようが直ろうが、とにかく何とも思わなかった。今思えば何と罰当たりな子供だろうとは思うのだが、まぁ、子供というものはそういったものなのであろうと思う。子供にとってそういった類の物は、まだ関心の対象の外にあるものなのだろう。そういった風だったので、子供の頃の私は本当によく傘を無くしたものだった。頭は大丈夫なのか、馬鹿なのかと心配されるほど、とにかくよく傘を無くしたものだった。まず帰りに雨が降っていない時は必ずといっていいほど学校へ忘れたものだった。その確率はほぼ九割を超える。珍しく傘を持ってきたことを覚えていて、忘れずに帰りに持って帰ったとしても、帰り道に何処かで道草をして遊んで帰ったりしていると決まって何処かへ忘れてきてしまっていたものだった。もちろん何処へ置いたかなどすっかり忘れてしまっているのだ。はっきり言って馬鹿な子供である。そのため、最初の頃はその度毎に傘を買ってもらっていたのだが、私の傘への忘れっぽさがいつまでたっても直らなかったので、ついには無くす度には買ってもらえなくなってしまった。その頃はまだ透明のビニール傘が世間に氾濫する前だったので、無くすたびにきちんとした生地の傘を買ってもらっていたのだから当然といえば当然の結果である。子供の傘とはいえ、本数が本数だけに決して安くはないのである。しかし、自分の蒔いた種とはいえ、そのせいで雨の日のたびに難儀したものである。もちろん時々は買ってもらえるのだが、何回か使っては無くすような有様なので、その度毎に弟や母のものを借りたりしてしのいでいた。もっとも、それらさえ度々無くすことがあったのだから、どうにも救いようのない馬鹿な子供である。


しかし、その頃からすると私も変わったものであると思う。傘はおろか、物を無くすこと自体が殆どない。過去の私が今の私のこの物持ちのよさを見たら、本当に私なのかときっと驚くだろう。

風邪はかなりましになった。何より鼻水がおさまったのが嬉しい。体中の関節の痛みや肌のヒリヒリ感、頭痛などといった様々な風邪の症状ももう殆どない。ここのところ湯舟でしっかりと体を温めて、出来るだけ早めに就寝するように養生していたのでその効果が出たものと思われる。


他の症状はおさまったのだが、喉の痛みは最初の頃よりも酷くなったように感じる。今はとにかくやたらと喉がいがらっぽくて、ケホケホとした何とも情けない咳を朝から晩までしている始末だ。少しでも喉が潤うように飲み物を摂るのだが、一向に潤う気配がない。飲み込む時には喉に妙な痛みがあるし、風邪で一時的に味覚が鈍っているせいか何を飲んでも美味しく感じないし、とにかく不愉快な状態である。その上、鼻のかみすぎで鼻の下が赤くかさかさになっているような始末なのだから全く情けないといったらない。


こうした無駄な流行に敏感でも特をすることなど皆無なのだが、毎年欠かすことなく、同じ季節に漏れなく風邪をひくこの体質が心底恨めしい。




私が醜男であることは以前にも話した通りである。醜い顔なので普段の生活の中で鏡を見ることなどは殆ど無いが、朝、洗面台の前で髭を剃っている時などにはつくづく自分の醜さが嫌になるものである。時々、お前は一体誰だと思ってしまうくらい瞼が腫れ、顔がむくんで化け物面になっている時があるが、そうしたものを見た時などは我ながら本当に残念に思うものだ。


私は普段の移動がほとんど電車である。乗り換えが多少複数回あったとしてもたいして苦に思うことはない。もちろん面倒には違いないし、そう思いもするが、だいたいにおいて私は電車での移動が好きなのでとくにそうしたことも気にならない。朝の白くきらきらした日の光が車窓から差し込んでいて、高架の上を進む電車から街の屋並みをぼんやりと眺めている時間は私には何とも心地よいものなのである。春には沿線に植えられた桜を眺め、秋には落葉樹の紅葉の移ろいを楽しむことが出来る。夏には車窓から見える学校のプールが夏の光を照り返してキラキラと輝き、むしむしと欝陶しい暑さの不快感をいくらか和らげてくれる。車の渋滞に苛々することもなく、何でもない考え事にさえ耽ることが出来る。


残念ながらそうした光景も電車が途中から地下に入ってしまうのですぐに見ることが出来なくなる。


電車が地下へ入ってゆくと、それまで窓からふんだんに差し込んでいた光がぱっと絶たれて、途端に目の前の暗い車窓に蛍光灯で照らされた醜い自分の姿が写る。それまでぼうっとしていて不意にその瞬間がやってくると、自分の姿が目に入った途端心底ぎょっとさせられることがよくある。ただでさえ蛍光灯の光は人の表情を病的に見せる効果があるというのに、私のぬめっとした化け物じみた顔が暗い車窓に蛍光灯の明かりで浮かび上がってくると、たとえその顔の主人が自分自身であっても、心の中に何ともいえない不快感が沸き起こってくるのを押し止めることはなかなか難しいものだ。


私が思うに、人とトカゲとナメクジを混ぜて三つに分けると、私というものが三体出来るだろうと思っている。浅黒く、ぬめっとした印象をもつ姿をしており、全体にトカゲのように小さくて妙に細く、そして骨張っている。顔は膨れ損ねたパンか饅頭のようにいびつに歪んでいて、厚い瞼の脂肪が目の上をいっぱいに被っている。前後に幅が狭く、側頭部が奇妙に盛り上がっている頭蓋骨は、まるでよくある灰色をした宇宙人の空想模型のようだ。


いやはや、私もこの自分の容姿の醜さを受け入れるまではずいぶん長くかかったものである。何せ、どんな人間にも思春期というものはあるから、こうしたことは誰にとってもかなり大きな問題なのだ。諸君らにもきっと身に覚えのあることと思う。しかし今となっては、以前のような意味においてはそうしたことは何とも思わなくなった。平たく言えば、成長期が終わったにもかかわらず、どれほどの量の牛乳を飲んでみても、ほんの少しでも背が伸びるわけではないということである。まぁ、何かしらの効果があるとしたら、無駄に元気な親不知が生えてくるくらいなものだ。そうしたようなことはもうどうでもいい。


しかし、それでも私は美しいものを何より愛している。それは目に見えるもの、見えないものにかかわらない。美しいもの、優れたもの、尊い行いや勇敢な心、山の木々の四季折々の姿や、波間の朝日、雨に煙る鉛色の海、朝焼けも夕焼けも星空も、そうした美しいもの全てを愛しているのだ。日なたぼっこをしている野良猫のあくびさえ私には愛らしく、快いものなのである。


醜い人間がこれほど美しいものを愛するのは、人によったら滑稽だと笑う者も多くいるだろう。醜い者なのだから相応のもので満足しておれ、憧れを持つことなどそもそも無意味なのだと。しかし、それが大きな誤りなのだ。醜い者は醜いが故に美しいものに狂おしいほどに憧れ、それを得たいと強く願い、そうした様々な美に対して極めて高い価値を見出だすのである。こうしたことは欲心から起こる虚飾とは全く別のものである。一見すると、このふたつのものは似ているように見えるが、しかし、これらそれぞれの本質は大きく異なっているだ。


美しく生まれた者の中では、美はそれほどの高い価値を持つに至ることは少ない。もちろん、彼等には彼等なりの美に対する思いや姿勢というものがあるのだが、やはりそれは我々のものとは別種のものなのだ。なぜなら、彼等にとって、美は既にもうそこにあるものであり、自らに生れつき備わっているものなのだ。そうした人々にとって我々が抱くような狂おしいほどの思いを持つことは困難だろう。食料自体も乏しく、安全な水さえ得ることが難しい人々と、保存料や添加物だらけとはいえ、店に行けば様々な物が売っていて何でも手に入れることが出来る人々とでは、美味しいものが食べたいというひとつの願いからだけでもその質において大きな違いがあるのと同じである。





このように私は醜く生れついてしまったのだが、不思議とこれまで一度も母を恨んだことはない。もっとも、私は外見において母には少しも似てはいない。私とは反対に弟の方の外見は母に非常によく似ており、きれいな卵形の頭に人好きのする柔和な顔と表情を備えている。ごく小さな頃は、それらを非常に羨ましく思ったこともあったが、それはもう昔の話で、今となっては何とも思ってはいない。外面を除いてその人物自体を見ることが出来るようになったこともあるし、何より、私と弟が正反対の個性を持っていることを良いこととして捉えることが出来るようになったということが大きいだろう。


しかし、私が母を恨むことがなかったのはそうしたことばかりではない。大体において、母にそうした恨みごとを負わせるには母はあまりにも不憫な人だったからだ。実の息子に不憫などと言われていては母も面白くはないだろうし、私自身も勿論そのように思う。また人もそのように思うだろうということもよく分かっている。しかし、それでも私の目には子供の頃から母のことが不思議と不憫に見えて仕方がなかったのである。




母は大家族の末娘として育った人だった。末娘といえば、現代においては猫可愛がりに可愛がられる立場にあるものだが、母が小さかった頃は今とは状況がずいぶんと違っていて、とりわけ愛情を注いでもらうなどというものではなかったらしい。それでも家庭が裕福であれば話も違ってこようものなのだが、貧乏人の子沢山とはよくいったもので、母の実家は貧乏とまではいかないが大所帯を養うには不足と思われるようなものだった。


母が学校へ通っているような娘時分には、まだ世間では女に学問は不要といったような風潮が根強く残っていたという。その頃母が勉強の出来る子供だったかどうかは私は知らない。しかし、私が小学生の低学年の頃に勉強を教えてくれていた頃には、昔はこうして解いていたなどと問題の解き方を詳しく教えてくれたものだったという。


詳しいことは知らないし聞いたこともないが、母は小さな頃に母親を亡くしているということを聞いたことがある。そういえば今思い返してみると、母からは私の祖父にあたる母の父親の話は聞いたことがあるが、その妻である母の母親の話は全く聞いたことがない。母はあまり自分の娘時代のことは話さない人だったのでそうしたことを聞くことがなかったのかも知れないが、ひょっとしたら努めて話さないようにしていたのかもしれない。ただ時々、昔のことを思い出しては大変だった、苦労したなどとしみじみ話していたのを聞いたことがある。


どれくらい小さい頃に亡くしたのかは分からないが、おそらく母がまだ児童と呼ばれていたくらいの頃だと思う。母には多くの兄弟があって、その中の一人の兄は勉強も出来て器量もあったので、自分の好いた道で大学へ進むつもりでいたのだそうだが、家庭の困窮からその道を諦め、学校を出てすぐに働いて仕送りをし家計を助けていたという話を聞いたことがある。それがまだ母が幼い頃の話のようだったので、おそらくやはりそれは小学生くらいの時期のことであろうと思う。しかし、その伯父はもともと器量のある人だったので、自分の望んだ道とは違う方面で生きることにはなったが、ほどほどに成功して私が高校生になった頃にはそれなりの役職にあるような人物になっていた。今では考えにくいことであるが、昔はこうしたことがどこの家庭でもあったのだそうだ。


家庭の困窮のせいか、母の体の発育は小さい頃からあまりよくなかったらしい。同い年くらいの人々の中でも母はかなり小柄な人で、幼い頃はそのことで周りの者によくからかわれたと言っていた。しかし、そうしたことは返って母の粘り強さや辛抱強さ、まぁ悪く言えば頑固なところを幼い頃から形成させるものになったようだ。私の祖母も頑固な人だったが、それとは少し違う、頑なで折れない粘りのようなものが母にはあった。


体も小さかったが、何より母の家系は癌の発症率が高い家系で、母もその血を引き継いでいた。昔から小さな病気はいくつもしていて、母の腕には痕が残るほど多くの注射痕があり手術の傷もいくつかあった。私が小学生の頃に母の体に癌が発見されて手術をしたことがあったが、その時には幸いなことに早期発見が出来たせいで完治することが出来た。その手術のための入院から帰った母が、珍しく一緒に掃除をしようと言って一緒に雑巾がけをした時、母の表情は子供の私にさえ分かるほど、今度のことでは死を意識していたということを悟らせるのに十分なものだった。



そうして母の周りにはいつも死があったので、母は極端に人が死について語ることを嫌っていた。誰かが自分が死んだらなどと話し出すと、それをすぐさま制止して話が進まないようにしていたほどだった。何より独りになるということをとても恐れているようなところがあった。



母は中学校を卒業してすぐに働きに出たという。学校はちゃんと卒業したのだが、母には教養というべきものは欠片もない。字も下手だし、暑中見舞い程度の文面さえ考えつくことが出来ないような人だ。それは学校へ通っていたときでも家の手伝いなどでほとんど勉強らしい勉強が出来なかったためだろうと思う。母の父親も病身だったらしいので、母の実家は兄弟総出で家計をやりくりしていたような状態だったのだ。しばらく地元の外で働き、どういった経緯かは知らないが適齢期よりいくらか遅いくらいの年齢で私の父親と母は結婚した。




運のない人間というのはつくづくどこまでもついていないもので、子供時代に散々苦労したにもかかわらず、母はこの男と結婚したことによってそれまでより一層苦労することになった。この男のことについては今は話したくない。それはあまりにも長すぎるし、大体私が色々なことを整理して話せるような状況に今はないからだ。ただそれでも母は、その苦労の終りのほうに命に危険が及ぶようなことになっても決して離婚しようとはしなかった。私たち子供も含め、周りの皆が身の安全の確保のためだけにでもと強く離婚を勧めたにもかかわらず、母は最後までそれを拒否し続けた。当時の私には分からなかったし、今でも本当のところは母の心の中にしか存在せず誰も知る由もないことだが、母はあのような男であっても別れて独りになる孤独のほうをはるかに恐れたのだと思う。昔から自分にはもう帰る家はない、この家を出なければならなくなったら独りぼっちだといつも口にしていたが、母にとっては独りになるということが死や終末、幼い頃の孤独感や疎外感といったものを強く連想させたのだと思う。





こういった母の様々な暗い陰が子供だった私の目にも見えていたので、私は母に何事かを負わせるようなことが昔から出来なかった。無理を言うようなことも、何かをねだるようなことをしたこともない。思い返してみると私は母に甘えたことがないばかりか手をつないだ記憶さえない。母は子供だった私の目にも昔からどこか可哀想な女性として映っていたようなところがあった。



しかし、そうした母の苦労も終り、今は三人の孫娘と一緒に幸せに暮らしている。正月に帰郷した際、少し見ない間にすっかりお婆さんになってしまっていたが、手を焼きながらも孫娘の世話をする母の姿はとても幸せそうだった。私もこれからは帰れるときには出来るだけ帰って顔を見せるようにしようと思っている。






長話になってしまったが、こうした人にたかだか容姿のことで恨みを負わせるようなことなど出来ようはずがない。また、そうすべきでもあるまい。醜く生まれついたのは私自身の運によるものなのだろう。


それに醜い人間には醜い人間なりの生き方というものがある。あのクリムトも自分の熊のような容姿を嫌って終生自分を描くことはなかったという。それでも美に憧れたその男は後世にあれだけのものを残すことが出来たのだから、程度の差こそあれ、私にもきっと出来るはずである。