今日は本当によく晴れている。今朝見上げた空は雲ひとつない青空で、その青空を背景に日に日に濃くなってゆく木々の緑がよく映えていた。


ついこの間まで一面にタンポポが咲いていた場所には、もう白い綿毛を用意したものがたくさん姿を現していた。まだきれいに咲いているのだが、歩道沿いのハナミズキの花弁も心なしか鮮やかさを失い、そろそろ強くなり始めた日差しに照らされて力無く俯いているように見えた。もうしばらくすれば散ってしまうだろう。季節は移ろうという言い方をするが、昔の人はこうしたごく小さなものでもひとつひとつの終りと始まりが襷を渡すように進んでゆく様をみてそのように言い表したのだろうと思われる。



今日は平日だが、おそらくきっと世間の多くの人々は連休で休みなのだろう。駅のホームも電車の車内も、歩道の人通りや車の往来さえ普段より少なくて、いろいろな場所が普段より静かに思える。


今外はきっと暖かいどころか暑いくらいだろう。初夏のような日差しがクリーム色をした向かいの建物の外壁に反射して眩しいほどだ。影も濃い。遠くから近づいてくるヘリの音が次第に大きくなって、私のいるこの建物の上を今通り過ぎていった。普段より車の往来が少ないせいか、いつも通っているはずのヘリの音が今日はやけに大きく響くような気がする。近くの運河を通ってゆく砂利運搬船のエンジン音が遠くに響いて、その規則正しいリズムが何ともいえない心地よい眠気を誘う。




こうした大型の連休の日と同じく、いつもの土曜日も日曜日も、毎週毎月同じような光景を目にするものだ。駅で待ち合わせているのだろう仲のいい中高生。一二泊の小旅行へ向かう若い夫婦や、嬉しそうにはしゃぎ回る小さな子供達。どんな相談事も話せるのであろうような親友と一緒に楽しそうに買い物をする女の子達の姿。睦まじく手をつないでゆっくりと歩みを合わせて歩く恋人達の後ろ姿など。私はいつもこうした光景を目にする度に、自分とは縁もゆかりもない余所事のような気がしてならない。何やらずいぶん以前にそうしたものとは縁が切れてしまっているような気がするのである。よほど気が立っている時は別として、たいていの場合、そうしたものを見たとしても何かを感じることはすっかり無くなってしまった。以前は嫉妬心なり虚しさなり感じていたものだったけれど、最近はそうした負の感情すら起こることが稀になってしまった。ただただ虚ろな眼差しで眺めているだけなのである。


そうして虚ろな目で現実の世界を眺めている姿を客観的に見てみると、私はまるで自分自身が影のない亡霊のように思われてならない。灰色で色みの薄くなった亡霊が生きた人間の世界に紛れ込んで、活発に活動する人々の間をさまよい歩いているように思われるのである。誰も私に気がつかず、誰も私が見えない。



いや、こうしたことは止めておこう。亡霊には亡霊なりにその在り方というものがあるはずだ。

別段これを飲んだからといって元気百倍とはならないのだが、それでも気休めに栄養ドリンクを流し込みながら今ホームに立って電車を待っている。


世間では今日から連休らしい。まぁ、どこもかしこもとはいかないのだろうが、それでもいつもの様子とは違い街はこころなしか静かだ。朝の人通りも少ない。私の仕事場にはゴールデンウィークなるものは存在しない。連休をとれない訳ではないが、今年はそうしたものとは関係なく少なくとも大型連休中は働くことにした。きっとどこへ行っても混んでいるだろうし、長い順番待ちや横柄な人間、バスツアーの観光客の群れを見ているだけで、楽しむより先に疲れてしまうだろうと思ったからだ。それでもこの季節は疲れがたまりやすいので月の中頃に連休がとれればとりたいと思っている。


今日は空が白く曇っている。所々に青空を覗くことができるが、全体として気分を曇らせる鬱とした空模様だ。



考えてみれば、このブログを始めたのは去年の今頃だったように思う。よくもまぁ、このような散文的なつまらないものが一年も続いたものである。全く驚くべきことだ。何よりこれを始めた当初は、よもや一年も続くなど私自身が思ってもみなかった。私は子供の頃文章を書くのが苦手で、夏休みの読書感想文など、本当に何を書いてよいやら分からず毎年途方に暮れたものだった。そんなふうだから日記など続けて書けたためしがない。いつもたいてい二月と持たなかった。そんな私が一年間も何かを書き続けることが出来るとは、過去の私が見たら驚くのは当然、決して信じないだろう。


あまり気負うことなく、何の義務感もなく、好き勝手に落書きのようなことを自分の都合のいい時に書いてきたのがよかったのかもしれない。更新することが仕事の一部になっているような人々には到底できないことだろうと思う。そうした、何かしら面白い話の種を見つけてでも何か書かなければならないような人々にはまったく頭が下がる思いだ。私には到底出来ないことだろうと思う。


私はきわめて猫っ気の強い人間なので、義務感などから自分を押し殺して気の向かないことをするなどということはほとんどない。相手に順位をつける場合も、社会的な優劣や成功の度合いからであることはほとんどない。犬っ気の強い人間なら気が向かなくとも尻尾も振ろうものなのだろうが、私のような人間にはそれがなかなかできないことだ。まぁ、単独行動であることがほとんどなので尻尾を振る相手も見当たらないのだが。


ここでこうして心の膿を撒き散らすようになってからというもの、鬱状態になることが極めて少なくなった。対象のあって無いような相手に話しをするだけでも、そうしたものを軽減するには十分な効果を発揮するようだ。


ここで一年間色々な事を話してきたが、話したいと思ったことを十分に話せたことなどあったためしはない。いやはや、文章を書くということはなかなかどうして困難な仕事だ。心にあることをその通りに表現することがとてつもなく困難なことであることを身をもって知ったような思いだ。書いても書いてもまだ足りないような気がして言葉を続けてみるのだが、いざそれを読み返してみるとその表現力の無さに愕然とさせられるときが実に多いものだ。


しかし、まぁそれでよいのだ。私は文筆家ではないのだから。自分の思ったことをただ吐き出せればそれでいい。それでも、その思ったことを的確に話せるようになれば、このもどかしい思いもいくらか軽くなるだろうけれど。



小雨ではあるが、しとしとと本格的に降っている。今日のような風のない日の雨は嫌いではないがこの梅雨時のような蒸し暑さだけはいただけない。


日当たりのよい場所に植わっているハナミズキがすっかり満開になっている。私が予想していたよりも咲くのがずっと早かったように思われる。日当たりのあまり良くない場所に植わっているものは咲き揃うまでにもう少し時間がかかるように見えるが、日当たりのよい道路沿いの歩道のなかに植えられたものは白や桃色の花を一面に咲かせている。どのような場所であっても、これだけまとまった花数が揃うと随分と華やかに見えるものだ。私の住んでいる街は決して洒落た美しい街などではなく、東京の縁にある所帯じみた街だ。しかし、そのような場所でも多くの緑と花々があれば見苦しい部分も優しく隠してくれるもののようだ。人の手による人工物では同じ様にはゆくまいと思われる。


今日のように湿度が高くて蒸し暑い日はいつも学校の床や窓が結露して、まるで水を撒いたかのように濡れていたのをよく覚えている。



私の場合、止まってから気付くということがよくあるのだが、すっかり料金を払うのを忘れていたらしい。携帯が止まって使えなくなっている。電話をかけることもかかってくることも殆ど無いが、ウェブを使えないのはかなり不便だ。時間を持て余してしまう。仕事が終わって家に着くまでは空いた時間にすることがないので、不意に思い出した昔話でもしてみようと思う。




こんな日に結露で床が濡れていたのは小学校でも中学校でも同じだったが、どちらかといえば小学校のほうが酷かったように記憶している。学校の施設は建物の大きさが十分あるにもかかわらず、商業施設とは違って建物全体に空調設備がなされていない上、十分な耐震性を確保するためにかなり太いコンクリートの柱や厚い壁などでできている構造のためそうしたことが起きやすいのだろうと思う。もちろん素人の推測でしかないのだが。


私の通った小学校は小高い丘の上を、校舎と校庭の敷地が確保できるだけの広さの分を削り、平らに造成して建てられていた。山の上というわけではないが、低い山裾に連なった丘の上に建つ恰好になっているその校舎は、すぐ下の平地の塲所から見ると、とても高い場所に建っているように見えた。丘の上にある学校に向かって螺旋状に車道が続いていて、そこの学校に通っている子供でなくとも、その坂道を上って毎日通うのは大変骨の折れることだろうと思えるようなものだった。


その校舎は二階建ての二棟から成っていて、正面を南に向いて前後に並んで建っていた。南側と北側の校舎が両端でつながっており、つながった部分の外側が児童用の玄関になっていた。東西二カ所の玄関は奇数の学年と偶数の学年でそれぞれ分けられていて、学年が変わるごとにそれぞれが東西の靴箱に移動していたのをよく覚えている。どちらの側も入口を入った正面が開閉可能の大きなガラスの扉になっていて、校舎と校舎の間にある中庭を挟んで向こう側の玄関を見ることができた。今考えてみると、この大きな開口部は緊急時の脱出口の役目も果たせるように設計されていたように思われる。


そういう訳で校舎全体を平面として見ると、南北に狭く東西に長い形の、口の字のような長方形の形をしていた。校舎に挟まれた真ん中の部分は先程話したように中庭になっていて、長方形の真ん中より東側に椰子の仲間のような植物を真ん中にして周りにツツジを配したような植え込みがあり、その逆の西側には鶏やウサギ等が飼育されている7メートル四方ほどの大きな檻があった。何度も話してきたことだが、幼い頃から友達を作るのが下手で、たいていいつも一人で休み時間を過ごしていた私は、その檻の前に座り込んで、金網の隙間からその辺りに生えている大きめの雑草の葉や餌用に用意されている野菜の葉などを突っ込んで、寄って来た鶏がその葉をついばむのをただただじっと眺めていた。"パツッ パツッ"という紙がちぎれるような音をたてて鶏は葉をついばんでいた。その日まだ餌が与えられていない時などは、私が緑のものを金網から差し込むと鶏達は先を争うようにして我先に集まってきたものだった。その檻は中庭の北西の隅にあって、私はその檻の出入口のある西側の段になった部分に腰掛けて餌をやりながら鶏を眺めていた。檻が東からの日を遮ってしまうので私が腰をかけていたコンクリートの段差はほとんど日が当たらず、かなり晴れているような日であってもいつもお尻にはひんやりとした感じがあった。そうした冷たいコンクリートの段差に腰をかけて鶏を眺めていると彼等の色々な表情を観察することができた。勇ましい雄や、それに負けないくらい向こうっ気の強い雌の一団。いつもおどおどしている体の小さな雌。絶妙な距離を保って様子を伺い牽制しあう若い雄達。その雄達のまるで木彫のような立派な艶のある脚や鉤爪などを私はまじまじと眺めていた。


そうした鶏達の他に同じ檻の中でセキセイインコも飼われていたし、ウサギも同じ所で飼われていた。時期によってはヒヨコがいた時もあったが、しばらくするとたいてい居なくなっていた。理由は知らないし、おそらく大人の事情によるものだと思う。ウサギはしばらくしてある事情により飼われなくなった。事情というか、むしろ正確には事件といわなければならないものなのだが、どちらにせよあまり面白からぬことなのでここでは話さないことにする。今はそうしたことを話したくない。


檻の陰のコンクリートの段に座って一人で鶏に餌をあげながらそれを黙ってじっと眺めている児童の姿は、誰がどう見ても友達のいない根暗の少年に見えるだろう。何より私自身がそう思う。私が過去に戻れるものなら優しく肩を抱いて何事か話し掛けてやることもできるだろうが、そんなことはブラウン博士でもいないかぎり無理な話だ。


今頃の季節の晴れた日などは、その冷たいコンクリートの段に腰掛けて中庭を眺めると、春の日差しを浴びて芝生や伸びてきた雑草の緑がきらきらと輝いていた。温まった芝生からは緑と土の匂いが立ち上って鼻の奥をくすぐった。


例外はあるが、基本的には南側の校舎が児童の教室と、職員室や校長室、保健室があり管理棟のようになっていた。それに対して北側の校舎は理科室や音楽室、家庭科室などの教科ごとの教室が並んでいた。南側も北側もどちらも共に南側に部屋があって廊下は北側を通っていた。そのせいか廊下は気温が上がりにくく、コンクリートも冷たいままなので、夏でもそこはひんやりとしていた。南側はまだ廊下が中庭と面していて光が入るためにいくらか良いのだが、北側の校舎の廊下は終日長い影に覆われていたので、ひんやりどころか日によっては肌寒くさえあった。特に今日のような雨の日は肌寒い上に湿度がかなりあって、床は結露でびっしょりと濡れていた。濡れた床の上を多くの生徒がそのまま歩くために、校内の全ての廊下に無数の足跡と、水分と埃の混ざった黒いもので汚れていた。見た目が見苦しいのは言うまでもないが、この状態はとにかくよく滑り危険だった。特によく滑って危険だったのは階段を下りきった所だった。ついそうなっているのを忘れて勢いよく下りたりすると、足をついた途端に滑って仰向けに転びそうになったことが私もよくあった。その体勢で仰向けに倒れると後ろの階段で後頭部を強打することになるので、今考えてみるとずいぶん危険なものに囲まれていたものだと思う。


そういう訳で私の通った小学校の廊下は、こうした雨の日はいつも結露でびっしょりと濡れていたものである。あの独特の湿度と匂い、黒い汚れやつるつると滑る足元の感覚を今でもよく覚えている。



どうしてまたこんな取り留めのない、まるで意味も内容もないことを長々と話してしまったのだろう。読み返してみるとただただ思い起こしたことを書き留めただけであることに私自身が驚かされた。しかし、我ながらよく記憶していたものだ。どうしてか知らないが小学生の時のことは不思議とよく覚えている。ほとんど思い出せない高校生の頃とは較べものにならないほどだ。扉を開けるだけでむっとするほど煙草臭い職員室や、食べ物と生地、洗濯用洗剤の混ざった独特の匂いのする家庭科室。理科室の隣にあった理科準備室のホルマリン漬けの標本や年季のはいった木製ケース入りの古びた人体模型。ずらりと並んだオルガンの机のある音楽室。その隣には理科室の場合と同様に準備室があって、そこには打楽器や管楽器を中心にして様々な楽器が置かれていた。いつも埃っぽくて木屑のの匂いのする図画工作室もよく覚えている。作業台がとにかくぼろくて、台の端のほとんどは鋸や鑿の傷でいっぱいだった。他にも掃除の後なかなか渇かない日当たりの悪いトイレや一年生の教室のおもちゃのように小さな机や椅子。花壇の花々や教室の前に並んだアサガオの植木鉢、巨大なヘチマ、いつも靴の中に入った砂利。挙げはじめればきりがないほどよく覚えている。卒業してから一度も行ったことはないが、いずれもう一度行ってみたいものである。しかし、こうしたご時世では敷地内に勝手に入るようなことはできないだろう。残念なことである。


とりわけ楽しかった思い出があるわけではないのだが、青春の記憶の無い私にとって黄金のような少年時代の記憶がたっぷりと詰まっているのがこの校舎なのである。私が子供を儲けてその同じ学校に通わせるようなことは絶望的に無いと思われるが、その代わり私の一番上の姪が今その同じ学校に通っている。ランドセルの色は赤く変わっても、同じ学校に自分の姪が通っているのは何やら心の浮き立つような喜びを感じるものだ。過去に自分が目にしていた風景の中で彼女が今何を感じて成長しているだろうかと思うと言葉にならない喜びが溢れてくる。今の私にはこの三人の姪達がそれぞれに自分らしく成長して幸せになってくれるのが唯一つの希望であり人生の楽しみだ。有名にもお金持ちにもならなくていい、ただ優しく人を思いやれて真心のある立派な人間になってほしいと願うばかりだ。夢の実現などはその副産物であっていい。何より人と社会の役に立つ勇気ある人物になってほしい。私などが口にしてよい言葉ではないのかも知れないが、自分がそうなれなかったが故により一層そう思われるのだ。


もう新学期が始まって一月だ。色々なことに頑張っていると思うがどうしているだろうか。


私はいつも君の味方だ。だから誰も、何も恐れなくていい。