外はうんざりするほど晴れている。朝のそれほど日の高くないうちでも、ここまで来る間に日の光が恨めしいほどに強くなったように思われた。駅前の歩道にある植え込みに植えられていた色とりどりの花々も、その強い光に力無く萎れているように見えた。どうやら春の花々の季節ももうすぐ終りらしい。
近所の白いバラがたくさんの蕾を付けている。去年の秋から二度ほど花をつけているのだが、どちらもきれいに咲ききらずに終わってしまっていた。花弁が半分ほど開いた後、そのまま満開になりきらずに萎れてしまうのである。たかだか花のこととはいえ、そうした姿は見るに忍びないものだ。そうした時は蕾の数も少なく、花自体も小ぶりだった。
どういった理由からそのようになったのかは私には分からないが、持ち主が対策を講じたのであろう、しばらくしてそのバラの枝は大きく刈り込まれていた。二月を過ぎてしばらくすると、短く刈り込まれていた枝からいくつもの若枝が伸びてきて、それらの新しい枝からはいかにも元気の良い、瑞々しい葉がたくさん生えてきた。日に日にその数を増してゆくその葉は、春の日の光を受けて日毎にその緑の色を濃くしていった。
たくさんの蕾が目につくようになったのはつい十日ほど前のことだ。以前にも話したが植物の成長というものは時にとてもダイナミックでその躍動感には驚かされるところがある。それだけ多くの蕾が目に留まるまで、すぐ側を毎朝通りながらその成長に気がつかなかったほどだ。
何にせよ、今日はそのうちの一輪が大輪の花を咲かせていた。その傍には開き始めた多くの蕾があって、明日か明後日には八分ほどに花を開いていると思われる。既に満開のその一輪からは胸の空くような清々しい香りが漂っていて、鼻を近づけて大きく息を吸い込むと脳の奥の方が痺れるような馨しい香りがする。まだ膨らんでいない蕾がいくつもあるところを見ると、これから花の時期が終わるまでの間、その姿と香りで十分に楽しませてもらえそうである。
人は生きている間、どれほど苦労し辛酸を舐めた者でも、最期にはそれまでの楽しかったことばかりが思い出されるという。別段私が死ぬわけではないが、ここのところ私はあまり暗いことを思い出したくないような心境になっていた。特にこれといった理由などはない。別に私の生活に何事か愉快なことが起こったわけでもないし、この生れつき黒ずんでいるような魂が、ある日突然眩いほどの純白のものに変わっていたというわけでもない。ただ何となくそうしたことを考えたくなかったのだ。頭に沸き起こるだけでも嫌だった。まぁ、この先走った初夏のような天気のせいにしてしまってもいいし、眩しい緑や頬を撫でる心地良いそよ風のせいにしてしまってもいい。
いや、そうではあるまい。私がそうしたことを考えたくなかったのは、何より私の心に急にどっと疲れが出たせいだと思う。じめじめとしたどうしようもない、果たして答えがあるのかどうかさえ分からないような事をうじうじと頭の中でこねくり回すつまらないことでも、それはそれでそれなりの体力が必要なのだ。普段なら絵と仕事以外ではそうした体力を使うことが無いために、それまでは余った力をそうした思考の戯れに知らず知らずの内に向けていたのだろう。しかし、そのようなこともまわすことの出来る体力が足りなくなると出来なくなるものらしい。
実に可笑しな話だが、そうした暗くてどうしようもない考えも、それなりに元気でなければ出来ないものらしい。じめじめとした暗い追憶が頭の中で嫌というほど繰り返されるのも、何より私自身に余力があり元気である証のようだ。
しかし、それにしてもそうした暗いことを考えないようにしようと意識すると、私にはたいして話すことなどないということに些か驚かされるものだ。昔のことにせよ現在の私の日常にせよ、とくにこれといって楽しく思われるようなことはない。先に話したように、折々に咲く季節の花々を愛でたり美しい夕日や朝焼け、ごく稀に見られるような濁りのない月の光などを楽しむより他には、私にはとくに愉しみとなるようなものはないのである。そのようなことをどれほど言葉を尽くして話してみたところで、目の当たりにした時の感動の十分の一、いや百分の一さえも言い表すことは出来ない。そのようなことは、ただただもう空しい徒労である。
洋の東西を問わず、たいていの場合、天国 極楽を描いた絵は通り一辺倒のもので変化のないつまらないものである。それに対して地獄を描いた絵には独創性があり、想像力に富むものであることが多い。そこに登場する者達はその姿も実に様々で性格も多様だ。何より罰を加える者も加えられる者も、全ての登場人物がその暗い世界で生き生きとして活動している。それに比べると天国、極楽の方はまるで時間が流れていないかのように静かで、あらゆる活動がある時点で停止しているかのように見える。
思えば人間の良しとするものなどごく簡単なもので、その数もそう多くはないのだろうと私は思う。人は生きている間、あらゆることを夢想してみては、あれもこれもこのようであればよいのになどと自らの幸福を様々に思い描くものだが、しかし、そうした数々の幸福の形態は、いくつかの太い主要な枝に繁ったほんの枝葉に過ぎないのだろうと思う。そして、それらの幸福の根本であるものは、ただひとつの太い幹であるに違いないと思う。
楽園を描いた絵が単調で静的なのは、人がこうでありさえすればよいと願うことを思い描いたときに、そうしたごくささやかな事柄以上のものを思い描けないためであろうと私は思うのである。
片や地獄というものにおいては人はその想像力を大いに発揮している。肌の色や宗教を超えて、無邪気にも意地悪な喜びから様々な暗い苦しみの世界をこれでもかと考え出すもののようだ。人は良しと思うことは少なくても悪しと思うことは実に多いものであるらしい。あれも嫌これも嫌、こうだったら苦しいだろう、こんなことなどされれば痛くて堪らないだろう、このようなことをされればどのように感じるだろうかと興味津々で様々なことを考え出す。私はそうした地獄の絵に描かれた亡者と鬼悪魔の、戯れにも似たお祭り騒ぎの地下の活動を見ていると、何とも奇妙なほほえましさや無邪気さを感じずにはいられない。勿論そうした事柄自体ではない、そうしたことをこれでもかと言わんばかりに考え出す人間の生れつき持っている想像力にである。
しかし、こうしたことを考え出すと際限無く続くものだ。今気付いたが、ずいぶん下らないことを長々と話していたようだ。これだけ話せればなかなか私も元気なようである。
いやはや可笑しなことだ、いつの間にやら私自身が知らぬ間に地獄の絵を描いていたようだ。