一部の学校では春休みの時期に入っているのだろうか。普段なら目にしないような朝の出勤時間に、中学生や高校生と思われる年格好の一団を昨日辺りから目にするようになった。見かけるのはたいてい三人から五人くらいの集団で、朝から皆で遊びに出掛けるのだろうと思われる。駅のホームで、もう体はすっかり大きくなったにもかかわらず、まるで小さな子供のように大きな声を上げてはしゃいでいる。普段彼等が使っている路線ではないように見えて、まるで旅行者のように発車ホームや乗り換えホームを探して、メンバー全員で行きつ戻りつしている姿が今朝も目にとまった。


気心の知れた仲間同士で出掛けるのは、子供でも大人でも、そういった年齢や性別など関係なく楽しいものだ。彼等の姿も端から見ていて実に楽しそうに見える。しかし、願わくば階段付近や車輌の出入口付近で、集団で輪をつくって大声で話し込むのは控えて欲しいものである。何より、往来の邪魔になるし、それでなくとも朝は分刻みで動いている人々が多くいるのである。気が立っている人間も多い。そういった人間の中には理屈の通じない者もいて、つまらないことで要らぬトラブルに巻き込まれないとも限らない。そんなつまらない人間とつまらぬことでトラブルを起こして、治らない疵をつけられることになったり、光を失うようなことにならないとも限らない。駅の構内にいる限りそこまでのことはないだろうが、それでも毎年身元不明の遺体のファイルが新たに加わっている現実はある訳だから用心するに越したことはない。彼等がまだ目にしたことのない、日常とは別の大人の姿があり、そうした人喰いのような人種が現実に存在しているのだ。それを実際に目にした時に、あっと声を上げて全てを悟る時ではあまりにも遅すぎる。


君などのつまらない心配など無用の事とだという声が聞こえるような気がするが、老婆心から話したことだ。聞き苦しかったかもしれないが、しかし、話したことは本当のことなのでこのまま消さないでおく。それでも、何も好き好んで人生の春の盛りに、わざわざそうした醜悪なものと出会うこともあるまい。そうでなくても、全ての者とは言わないまでも、全体の数パーセントの者は嫌が応にもこの先そうしたものと出会う事になっているのだから。


こうした言葉も、私が既に失ったものへの憧憬から出たことなのだ。大勢で集まって、極端なくらいの大声で笑ったり話したりすることも、大袈裟なリアクションや取って付けたような自己主張も全て、端で見ているとまるで若いオスのチンパンジーが群れの中で行うディスプレイそっくりであり、目を覆いたくなるほどの滑稽さには赤面するほどだ。しかし、それで良いのである。むしろ、是非ともそうでなければならないのだ。私は彼らと同じくらいの年恰好の頃、そうしたことが出来なかった。若く未熟な頃はどれほど馬鹿者であってもよかったのだ。しかし私は馬鹿者になりきれず、つまらない小利口者になっていた。それが今となっては気も狂わんばかりに呪わしいのである。もし過去に戻れるとしたら、私は迷わず過去の自分の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶり、自分で利口だと思い込んでいることがどれほど愚かなことであるかを話して聞かせ、聞き入れないようなら力いっぱい頬桁をぶん殴ってやりたいほどだ。私は芸術や学問といった下らない事に目を眩ませて、神から授かった二度と帰らない春を蔑ろにしたのである。もし死後に裁きが下されることがあるとしたら、おそらくきっと非とされるのは私であろうと思う。神が与えた季節に背を向けて、穴蔵に引き篭もって本ばかり読んでいたのだ。私に五感がなく、春の訪れを知らなかったのだとしたら私は裁かれないであろう。しかし、私が醜悪であり非とされる理由は、自分が引き篭もっている穴蔵の外が春であるのを私自身が知りすぎるほどに知っていたことなのだ。これは大きな罪であると思う。



そうした理由から、私は日ごろから余程のことでなければそうした“若気のいたり”には目をつむることにしている。そもそも十代、二十代の男女など獣も同じだ。そしてそれでこそ健全なのだ。男にいたっては十代、二十代などカラスに笑われるようなおつむしか持ち合わせてはいない。人は愚か者であってはならないが、元気のよい馬鹿者なら大いに結構である。馬鹿者であるが故に間違いも犯すだろうが、そうした時にこそ年寄りが諭してやればいい。法に触れるようなことなら法の裁きに則って償わせればいい。間違いを犯すのは幸か不幸か人間の重要な性質のひとつだ。そうしたものになりきれず、若い頃から達観した目で物事を眺めているような者が、年を経るにつれて毒虫へと変化する最も厄介な種類の人間なのだ。



どうやら今日は口が過ぎたようだ。我とは知らず年寄りの繰言のようなことをしている。

しかし、繰り返すがよくよく気をつけたほうがいい。昆虫と違って人間の毒虫は他の人間と姿かたちがそっくりな場合が多いからだ。その上、悪党の言葉ほど耳に甘く響くものだ。

せっかく楽しく出掛けるのだ、楽しく帰って来たいではないか。

雨も久しぶりに降るといいものだ。とりわけ今日のような風もなく静かに降る雨は何となく心を落ち着かせるようなところがある。


人にせよ植物にせよ、成長というものには不思議で神秘なところがある。そのダイナミックに変化してゆく様を直接目にすることが出来ないがゆえに尚一層そう感じられるのだろう。小学生の時に、なかなか芽を出さずにやきもきしたアサガオが、ある朝見るとひょっこり双葉を出していて、それがとても不思議なものに感じられたのを今でもよく覚えている。そうした自分の見ていない間に何が起こったのだろうと思わせるような奇妙な感覚を目にするたびに、私は何かとても神秘なものに触れたような思いがするのである。


人の場合には、成長において極端な程の跳躍が見られることは稀だが、植物のそれにおいては、時折そのあまりのダイナミックさに驚かされる時がある。


つい昨日までは、まだ赤茶色いままだった桜の蕾が、今朝見てみるとほとんど全てのものが赤茶色い蕾を割って緑の若葉を覗かせていた。蕾自体も前の日とは比較にならぬほど大きくなっており、遠目にも枝先に小さい豆でも出来たような輪郭をつくっていた。その様子はまるで枝先に無数のピスタチオが付いているように見えて、私にはそれがとても可笑し味のある、とても愛らしいものに思えた。植物は時折こうして人の度肝を抜くような劇的な変化を見せて私たちに心地よい驚きを与えてくれる。


なるほど、どおりで最近朝起きられないはずである。もうすっかり春なのだ。

年が明けてから初めてマフラー無しで過ごしてみたが、今日のような天気が続けば、もうコートも含めて必要ないかもしれない。いや、むしろ電車の中では暑いくらいで、いくらか汗をかくほどだった。思えばそれだけ暖かくなったのであろうと思われる。

毎年思うことだが、一月を過ぎると、その後夏まではあっという間に時間が過ぎてしまうような気がする。もうしばらくすると桜の季節だが、不思議と待ち望んだその季節は、来たと思った時には早くも過ぎ去った後のような気が毎年のようにするものである。

春は私の一番好きな季節だが、同時に物狂おしいほどに切なく、心を疲弊させるようなところがある。浮き立つような気分と同時に、得体の知れない不安や苛立ちを覚えるものだ。どうしてかは分からないが、この季節は始終胸苦しいような感じが体の内側に渦巻いているように感じられる。それでも、そんな私の心などとは一切関係なしに、春の太陽はしらけるほどにきらきらとした光を私に浴びせかけてくる。こういう時、私にはまるで太陽が愛すべき脳天気な馬鹿者に思えてならない。疎ましく自分勝手だが、それが邪心から出たことではないのでどうしても憎めないような、そういった幸福な者にである。実際、そんな人間にこれまで何度か出会ったことがある。


近いうちに海を見に行きたいと思っている。一年の内で春の海ほど魅力的なものはないと思っているからだ。勿論、これは私の独断である。

二月や三月が一番良い。外海の広い水平線を眺めていると、不思議と渦巻くような得体の知れないものが一時的にもせよ大人しくなる気がするのだ。