最近、天気予報がなかなか当たらなくて困っている。昨日も、その前の日も雨に降られてしまった。やはり気象観測の精度が向上したとしても、春先の今頃のような不安定な時期は予報がたてにくいのだろう。今は昼を少し過ぎたくらいだが、空は白々しいくらいに真っ青に晴れ渡っている。それでも最近のようなことが続くと、今日もまた雨に降られるのではないかと今から要らぬ心配をしなければならない。

今朝、いつものように植え込みの銀木犀を見てみると、大きく膨らみ、沢山の花芽をつけた一株のなかに四つほど花を開いているものを見つけた。開いている花がそれだけなので、満開時のような、辺り一面に漂わせるほどの香りはないのだが、開いた花のひとつに顔を近づけてみると、鼻に心地よく抜けるような爽やかな甘い香りを放っていた。鼻の奥、目と目の間の奥の方を心地よく擽るようなこの系統の香りが私はとても好きで、毎年この花が咲くのをとても楽しみにしている。

小学校の頃、通学路に面した所に金木犀が一本植わっていたのをよく覚えている。今でもそれは変わらないのだが、当時から私は金木犀のあのけばけばしい見た目や、安物の車の芳香剤のような気分の悪くなる匂いがとにかく苦手、いや、もう全く嫌いだった。毒々しいオレンジ色の花が開いて、辺りに頭痛を起こさせるような匂いを撒き散らすような時期が来ると、私は遠くからでもその匂いを感じ取ることが出来た。その金木犀は通学路に面して植えられていたので、学校の行き帰りに嫌が応にもその前を通らなければならなかった。子供心にも、これをここに植えた人間は、きっと良かれと思って植樹したのだろうが、なんて有難迷惑で悪趣味な奴だったのだろうと心底呪わしく思ったものである。普段通りに歩いてその前を横切ると、単に匂いが嫌だというだけに留まらず、後々まで頭痛が残るほどだったので、その嫌な匂いを察知したその地点で大きく息を吸い込んで、そのまま真っ直ぐ走ってその前を横切り、息の続く限り遠くまで走ってその匂いから逃げていた。とにかく、その毒々しい花の色や大柄な姿、劣化した香料のような匂いは、私の中で恐ろしく醜悪なものに擬人化されて今に至っている。

それに対して、銀木犀は私にとってとても魅力的に思えるものだ。私がこの花、いや、正確には木であるが、その存在を知ったのは金木犀よりも後だった。それを知った時には、同じ仲間でもこうも違うものかとつくづく思ったものである。なんでも生物学的な分類上では、金木犀は銀木犀の突然変異による変種であるらしく、一般に木犀といわれる場合には銀木犀を指すのだということらしい。変種であり、そのうえ魅力の無いほうが金を名乗っているのだから名前というものは皮肉なものである。

華奢で小さな白い花はとても愛らしく、濃い葉の色との対比でより一層繊細に見える。小柄な低木なので、どことなく控え目で慎ましい印象を与えるが、周囲にいる者をその素晴らしい香りで魅了してしまい、嫌が応にも自らに関心を集めてしまう。こうした幸福な存在は人間の世界でも見られるものだ。そうした風を演じている人間も確かに多くいるが、我とは知らずにそう振る舞ってしまっている人を目にすると、私のような者の目を通してもやはり魅力的に映るものである。

人間斯く在りたしとは思うものの、なかなかそう在ることは難しいものだ。こうしたものは持って生まれたものなのだろうと日頃からつくづく思う次第だ。そして、私もまた銀木犀になり得ない者の一人である。かといって金木犀ではないし、なりたいとも思わないが。

そろそろ暖かくなってきたので本描きに移らなければならないだろうと考えている。冬の間は絵の具を使うには寒さで集中力が保てないので、専らスケッチブックにアイデアを描き溜める作業をしていた。もうそろそろ下地作りを始めなければならないだろう。

今年はいい作品が一点でも描ければと思っている。それに、今年からは作品のサイズを今までよりずっと小さくするつもりでいる。どうやら私には大画面の作品は合っていないようだ。

今日も本当に暖かい。もう手袋は要らないかもしれない。 今朝通り掛かりに先日話した桜の木を眺めると、大きく膨らんだ芽の尖端が少しだけ割れて、中から緑の若葉や白い花弁が覗いているのを見つけた。この桜は咲き始めてから満開になり、咲き終るまでの期間がとてもゆっくりとしているので、もう二週間ほどしてようやく花がちらほらと咲き出すくらいだと思われる。特にたいしたことではないのだが、それでも今からとても楽しみである。それに、家のすぐ近くにある銀木犀も、もうずいぶん蕾を膨らませていたので開花もまもなくのことと思う。


いやはや全く、笑ってしまうほどに小さな、取るに足らない楽しみだが、そうした楽しみでもなければ私の日常など極めてつまらないものなのだよ、諸君。



最近、近所に2軒向かい合って、個建ての家が建てられている。そこは私の部屋から目と鼻の先のごく近所なので、以前の建物や、それが取り壊された後、さら地になったその土地をいくつかのブロックに区割りしてゆく過程などを興味をもって眺めていた。


以前の建物を取り壊してさら地にしてから暫くは買手が、若しくは借り手がなかなか付かなかった。以前はまとまった広い土地だったのだが、さら地にした後、三つの区画に等分に土地を切り分け、さらにその後、その脇に車が一台通れるくらいの道を通したものだから、整理された後の一区画分の土地は、何とも猫の額のような、どうしようもなく狭いものになってしまった。しかし、こうして小さく土地を分けているところを見ると、おそらく売りに出されたものではなくて、借地として三世帯分を貸しに出したのであろうと今では思われる。


道路に面した区画ではなく、新しく通した道で奥へ入る格好になる二つの区画は、残りの一つに比べて比較的早く借り手が付いた。家一軒が建てられてゆく過程を眺めていてつくづく思ったことがあるが、それは、手に入れるまでは大変な苦労をしたであろう都内の一軒家も、着工してしまえば、まるで接着剤不要、色を塗る必要も無いプラモデルのように、ごく簡単に建ってしまうものなのだなということだった。


時間がかかるのは専ら配管を含めた基礎部分だけで、ようやく基礎が出来たようだなと眺めていたその数日後には、柱などの基本的な構造物は既に出来上がっている具合だ。その後、クレーンを使って一日で外壁が張られ、屋根が張られて、あっという間に外側だけにせよ、家一軒が出来上がっているような状態になる。内装の工事には、それまでよりも幾らか時間がかかるように見えるのだが、しかし、それもたかだか知れたもので、作業の音がしなくなったなと思って見てみると、もう工務店の人間が玄関先を掃いており、そしてそれを見かけた週末には、真新しい家の前に引越のトラックが停まっているというような具合だった。狭い土地を精一杯活用して建てられる多くの家の例に漏れず、その家もやはり三階建てで建てられた。もともと極めて狭い土地に建てられたものなので、その三階建ての家は幅の小さな方から眺めると、まるでサイコロを三つほど縦に積み上げたような、家というよりもむしろ塔と形容したくなるような奇妙に細長い外観を呈している。そしてそれと瓜二つのものがすぐ隣にもう一軒建っており、二軒ともほぼ同じ時期に完成した。


これは経験から言えることだが、こうした家の引越作業はとても大変なのだ。少しでも部屋の広さを確保しようとした為に廊下が極めて狭い。丁度、ドアを開いた時に向かいの壁に干渉しないくらいの幅しかないので、おそらく本当に最低限の寸法であろうと思う。同じような理由からであろうが階段の幅も狭く、その上傾斜もきついので、重い段ボール箱や、小さな家には不相応なくらい巨大なソファなどを、こすって壁に傷を入れないように慎重に運び込むのは心身共に参らされる大変な作業だったのを今でもよく覚えている。


小さな家から大きな家への引越しは、すべての物を運び込んでも、まだ空いているスペースがあるくらいなので比較的簡単なものが多かったのだが、大きな家から小さな家への引越しは、物が多いのは勿論のこと、その物自体も大きい物が多くて大変だった。加えて想い入れの強い物を幾つも持っている人が多かったので、「どうしてもこれだけは…」という想いから、狭くなるとは自分で分かっていても、それでも次の新しい住まいに持っていく人が多かった。その為、小さな部屋をほとんど占領してしまうような巨大なピアノや応接セット、無垢材でできた本棚などをクレーンで吊り上げて窓から入れたり、何度も切り返しをしながら汗だくになって地道にドアから運び入れたりする考えるだけでぞっとするような大変な作業が、そうした小さな家への引越しにはつきものだった。今ではこうして可笑し味をもって話せるが、当時は運び込む家に着いて、その家が小さな三階建てだったりすると、深く溜息をついたものである。


随分お喋りが過ぎてしまったようだ。なんだかんだと実の無いことを話してしまったが、私は何も意地悪からこうしたことを話したのではない。もし、そうした風に話してしまっていたのだとすれば、それは私の生来のねじくれた心や、対象の無い嫉妬心、劣等感からであろうと思う。都内に一戸建ての家を建てるということは、およそ給料を貰って暮らしている人間であれば大変なことだ。けして容易な事ではない。その費やされた努力に対しては、家の大きさや立地に関係なく称賛されてしかるべきことだと私は思う。何より、その家を建てた当事者からすれば、そこはおそらく多くの場合ついの住家となるものだろうから、そうした場所を自分で用意することが出来たということは立派な事である。しかし、私が最も尊いと思えることは、そこで育つ子供達に借り物でない場所、どこそこの何号室というものではなくて、きちんと土地の名前で呼ばれる場所を用意してあげられたことだろう。大人ならばともかく、幼い子供の育つ場所として、住人の名前の書かれたプラスチックの板が簡単に取り替えられるような場所で育つのは何とも不憫なように思われるのだ。自分の帰れる場所、動かされない場所があるということは大人でも大きい事であるのに、その心に世界を構築する段階にある子供であればなおさらだ。それは十分な愛情が存在していない家庭にあっても、その子を十分に支えてゆくに足るものである。子供の頃には意識もしないし、たいして有り難くも思わないが、大人になるとそうしたことの大きさや有り難みが心に滲みるようによく分かる。


当人達の思惑は私は知らない。が、私はそうした理由から家を一軒建てるということに大きな意味を持つのである。


しかし、今思い出してみると、引越しのアルバイトなどよくやれたものだと思う。本当に大変な仕事だった。冗談抜きで二度とやりたいとは思わない。

今朝は暖かさで手袋を外してしまうほどの陽気だった。冷たい北風もなかったし、日差しもあってまるで春のような穏やかさだった。もう暫くすればマフラーはともかく、手袋はすぐにいらなくなるだろうと思われる。手袋をしていてもすっかり手は冷たくカサカサに乾燥していて、手から外す時にはまるで滑るようにスルリと外れていたのがついこの間のことのように思える。今朝暑さで外した手袋はすっかり汗で湿っていて、サイズがきつくなったのかと思えるほど外しにくかった。日が暮れると、まだまだ冬の冷え込みはあると思うし、マフラーも手袋ももう暫くは活躍してもらうことになると思うのだが、それでもやはり、この冬随分助けてもらった彼等にもクローゼットで休む時期が近付いていることを実感する程の暖かさだった。

ツツジの植え込みの所に自然に生えているセイヨウタンポボが、今日の暖かな日差しを浴びて実に気持ち良さそうにその黄色い花をいっぱいに開いていた。こうしたものの種が何処から運ばれて来るのか実に不思議に思うのだが、都内の何処にでも見られるような植え込みの中に、知らない間にいつの間にか生えている。季節毎に都から委託されているのであろうような業者がやって来て、刈り込みを行ったり、雑草を刈ったり、ゴミなどを掃除したりしているのを時々目にするが、それでも彼等がいなくなることはない。けして育つ環境として良い場所ではないのだが、在来種を駆逐してしまうほどの生命力と繁殖力で、そうした劣悪な環境の下でもその勢力をすぐに元の状態に戻してしまう。雑草として見ると全く恨めしい限りのものなのだろうが、そうして小さな黄色い花をいっぱいに開いて風に吹かれている姿は、やはり花として愛らしいところがあるものである。しかし、欲を言えば、私としては在来種の大輪の花の方が好きではある。目の覚めるような黄色い大輪の花が、その小柄な姿と対比されて、何かとても無邪気で子供らしい、朗らかなひとを連想させるものがある。



今日は土曜日だったので、いつものことだが、くさくさとした、どうにも気分の乗らない心持ちで私は職場へと向かっていた。そういった日はちょっとしたことが気分を苛立たせるものである。それでなくとも短気で怒りっぽい質の私のこと、今日のような日はきっといつもにも増して、眉間に深く縦皺を刻んでいたことだろうと思う。幸いにもそれを自分自身で目にせずには済むのだが、周囲の人間にはずいぶんと不快な印象を与えていることであろうと思う。しかし、弁解するわけではないが、周囲の人間が想像するほどには実際には私は不機嫌である事は少ないのだ。そうした場合は実に稀であると言える。大抵いつもその十分の一にも満たない程度だ。しかし、悲しいかなもともと不機嫌で不景気な顔立ちである為に、実際よりもより一層そう見えてしまうようである。そういう難儀な器に私はもう何十年も入っているが、あまり居心地の良いものではない。しなくてもいい苦労をしなければならないし、多くの気苦労もある。いいことと言えば、労せずに人払いが出来るくらいなものだ。その上、残念ながらこの先何十年もこの器から出られそうにない。



そうした精神状態の時は、人のちょっとした行為が気分を苛立たせるものだ。


よく、今時の若い者はとか、昔の人はそんな風ではなかったなど、やたらと過去を懐かしがり、それらを過度に美化して時世をいたずらに貶す人がいるものだ。二言目には今時の子供はといいながら、あれもそう、これもそうと、年若い者の至らない部分をいちいち数え上げて非難がましく言う人がいる。しかし、よくよく見ていると、そうした年配の人々にも随分と至らない部分が多くあるものだ。中年でも老年でも、それぞれ歳の頃に応じてそうしたところは見受けられる。中年では横柄、尊大が頭をもたげ、老年では我が儘や意固地が人格を占領しつつある人がいる。場合によってはそうした年配の人々のもののほうが、若年のもののそれよりも人の目には見苦しく映るものである。


以前話したことだが、私は日常の交通手段のほとんどを電車に依存しているような人間だ。電車での移動は車の移動とは違い、多くの見ず知らずの他人と共に移動するので色々なものをよく目にする。お年寄りに席を譲る感心な若者を見かけることもあるし、押した押さないでつかみ合いの喧嘩をしている男を目にすることもある。事実は分らないが触った触ってないで揉めている男女を見かけることもあるし、常軌を逸した大音量で雑談する中年女性の集団に遭遇することもある。そうした救われないほどの醜態をほとんど毎日目にする中で私が思うことは、人の程度の低さなど年齢によって多いの少ないのなどと言えるものではないということである。


時代が下るにつれて人の程度など、金から銀へ、銀から銅へといった具合に少しずつその格は下がっているのかもしれない。そしてまた、そういった風に思っているほうがかえっていいのかもしれないと私は思うのである。なまじ過去の偉人や優れた人間の輝かしい偉業などに目を眩ませてしまうと、今の時代が暗くつまらないもののように思えて、年配の人間ともなるとついつい時世を貶しがちになる。最初から人の程度など時代が下るごとに落ちているのだと思えば、自分もまたその前の世代の人達よりも劣っているのだから、その後の世代のことを悪し様に言うことなど出来ないはずだ。それでは人の程度は底なしに落ちてゆくものなのかと問う人がいるだろうが心配には及ばない。人間というものは生まれ持ったその傲慢な習性でもって過去の偉大な人間を越えようとするし、今までもそうしてきたのだ。そうした落下しながらも再び浮上を繰り返す不断の運動が、人間をいまだにこの地球上に存続させているのだと私は思うのである。



人とは不思議なもので、ちょっとしたことで気分ががらりと変わってしまうものだ。


電車を降りると、私の前をひと組の親子が同じく電車から降りてきた。母親と、まだ2歳になるかならないかの幼い女の子だった。大人には何ということもない電車とホームとの間の隙間を注意深く母親の手にひかれて渡り終えると、私の前、十歩ほどのところを階段に向かって歩き出した。その子がまだ歩き始めて間もないことは、子供のいない私にも容易に想像できるほどの歩きつきだった。母親はゆっくりとその子に歩調を合わせて歩いていた。一緒に外出が出来るくらいなので、それほどよちよち歩きではないのだが、それでもわずかな時間で私はその親子のすぐ後ろまで来ることが出来た。階段の前は多くの乗降客でいつも混んでいるが、その日もやはり同じように混んでいた。しばらく待って階段を上りはじめたのだが、私のすぐ前をいっぱいに足を上げて一段一段階段を上がるその子を見ていると、大人には何ともないこの一段の階段がどれほど大きな段差であろうかと思い、私は知らぬ間に心の中でその子のことを応援しているような具合だった。新たにホームに入ってきた電車の起こす風で、まるで絹糸のように細くしなやかな髪が柔らかく揺れていた。もうしばらく見ていたい思いもあったが、私も乗り換えの電車の時間があったため、その親子を追い越すと改札を出て乗換先のホームへと急いだ。


ホームへ着いてもすぐに乗り換えの電車があるというわけではない。平日でもいくらか待たなければならないのだが、土曜日はさらに待たなければならないのだ。しかし、ほかの時間帯ならともかく、少しぼうっとしたい土曜日の朝のこの時間においては、電車を待つのもそれほど特に苦にならないので、私は自販機で温かい缶コーヒーを買って、それを飲みながら何となく階段のほうを虚ろに眺めていた。しばらくすると、先程の親子が階段を下りてくるのが見えた。階段を上っていた時と同じように、一段一段ゆっくりとした足取りで親子はホームへ降りてきた。ホームへ着くと、その子は母親と出掛けるのがよほど楽しいらしく、しきりにホームの中央を走りまわっていた。母親もとくに大きな声で咎めだてたりすることはなかったが、そこはしっかりしたものでホームの端には決して行かないように目を配っているようだった。


しばらく見ていると、その子は私の立っている方へ走ってきて、傍にあった時刻表などの書かれた案内板でかくれんぼを始めた。母親に向かって、自分では隠れていると思っているらしく「もういいよー」と呼びかけているのだが、その案内板は下のほうが30センチほど空いているので、彼女の体の一部はおろか、母親からは顔から下すべてが見えているような具合だった。私はそのあまりにも愛くるしい無邪気な姿に、普段は誤解を受けるのを恐れてあまりそうした光景をじっと見ないように努めているのだが、その日は少しぼんやりしていたこともあって、どうやら私は知らない間に口元に笑みさえ浮かべてその光景を長い間じっと見ていたようだった。というのも、ふと我に返った時に口元に笑みがあったことに後から自分で気がついたからである。


彼女はそうしてしばらくかくれんぼをしていたのだが、先に話した通り、まだ歩きはじめて間もないと思えるくらいの年頃なので、歩いたり走ったりする姿は傍目にもバランスが悪く、危なっかしく見えた。急に立ち上がったりすると弾みで後ろによろけそうになっていて、君の知ったことではないと言われそうだが、なんともハラハラさせられた。そうして彼女はその案内板の周りをうろうろしながらかくれんぼを続けていたのだが、とうとう心配していた通り、立ち上がった拍子にバランスを崩して前に倒れて案内板に頭をぶつけてしまった。やれやれ泣いてしまうかなと思って見ていると意外にも彼女は泣かなかった。頭をぶつけた場所が縁の金属の部分ではなく、比較的柔らかいプラスチックの部分だったということもあるのだろう。きょとんとした目で母親を見上げると、すぐに案内板の方に向き直って「めっ!めっ!」と言いながらおもちゃの人形のもののような小さな手で、自分に痛い思いをさせたその案内板をしきりに叩きはじめた。時折、どうだ叩いてやったぞと言わんばかりの勝ち誇った得意そうな目を母親に向けているのがとても愛らしかった。彼女の小さな手でいくら叩かれようと案内板はびくともしないが、私はその彼女の独自の正義感とタフさ加減に頼もしいような、感心するような奇妙な感覚を覚えた。


その後、私もその親子もホームに滑り込んできた電車に乗った。私とその親子は別々の車両に乗ったので、その親子がどこまで行くのか、どこで降りたのかは私は知らない。しかし、車窓を流れるいつもの朝の景色を眺めている時に私の心にあったことは、その親子と会う前に私の心に渦巻いていた不安や理屈などはどうでもいいというような、実に無責任な話だが、それはいい意味での諦めの感情だった。


どれほど思いをめぐらしてみても、私も死に、私の前の世代も、その前の世代もいずれ死ぬ。後の世代にしてやれることも確かにあるが、出来るだけの事をしてあげたからといって、後の世代の人間が我々の思い描いたような道を辿るかなど誰にも分かるものではない。そうであるなら、もうやれるだけの事をやった後はただただ信じるしかないのである。


“やれるだけのこと”も“信じる”ことも人間にはなかなか厄介で困難なことだが、いよいよとなった時に腹を括って諦めるくらいの事なら私も含めて大抵の人間には出来ることだ。後は信じて何かを託せる人間がいれば、この世に生を受けた者であれば出来すぎであろう。おそらくきっと、これ以上のことは無用のことだはないかと私には思える。


運河のきらきらと光る水面を眺めながら、今朝の私はそういったことをぼんやりと考えていた。