携帯を新しく買い替えて数ヶ月経ったが、最近はやっととんちんかんな漢字の変換が少なくなった。どうやらそれなりにこの携帯も学習してはいるようだ。しかし、そうはいっても特殊な当て字や、現在では日常会話は勿論のこと、文章中においてもあまり使われなくなったような言葉などは最初からこの携帯の辞書に含まれていないらしく全く表示されない始末なので、そうした言葉を地道に手動で登録するという作業が普段から私の文章を書く上での欠かせない日課のようなものになっている。それでも単語の方はそうして地道に登録して増やしていくことが出来るのだが、変換の際の文節の区切りは私の努力ではどうすることも出来ない。もともとこの携帯に搭載されているソフトが、文節の区切りに対してはあまり得意でないところがあるので、長い文を書いて一気に変換すると、わざとそうしているのかと怒りたくなるほどの奇妙奇天烈な漢字のブロックを出してくる。もちろん幾らでも修正は出来るのだが、何とかならないものかとは思う。そうしたものを見るたびに、もう少し学習してくれよと思いながら、少しお馬鹿さんな自分の携帯に呆れつつ奇妙な文章を修正している。見た目はスマートで美形なのだが、幾らか物覚えが悪く、手のかかる子供といった感じだ。その上、バッテリーパックが極めて薄く小さいせいか電池の減りかたが早い。つまり体力もない子なのである。しかし全体としてはとても気に入っているので、おそらくこの先二年は確実に使い続けるだろうと思う。美形であるということに関して以外は人事とは思えないようなところがあるので、このお馬鹿さんな携帯に私は妙に親近感が持てる。



ここのところ毎日暖かい日が続いている。そのせいか、咲き始めるまでには、まだもう少しかかるだろうと思っていた運河沿いの桜が、もう六分か、いや、七分咲きかといったほどに早くも咲き誇っている。ほとんど白といってもいいほどの淡いピンク色の花は、だいぶ離れた所からでもよく目立ち、朝日を浴びてまるで輝いているように見える。若葉と花が同時に出る山櫻の仲間であるため、そうした野趣を好まない人が多いせいか足を止めてまでその花を見る人は稀である。朝の忙しい時間ということもあるし、より華やかなソメイヨシノを見慣れた目には、幾らか地味で華が無いように見えるという理由もあるのかもしれない。しかし、間近でよく見てみると、その白い花弁が風に吹かれてふるふると揺れていたり、明日の朝には咲いていようかといった蕾の、まるで恥ずかしそうに頬を染めて俯いているような様子は何とも愛らしいものである。


もうかなりの花数があり、しかも咲き始めてまだ間もないので、傍を通り掛かると何ともいえない爽やかな香りが漂ってくる。香りといってもそれほど強いものではない。あるかないか分からないくらいの、ほんの微かなものである。百合のように甘い香りでは全然ないし、薔薇のような豪華で気品のあるものでもない。その香りの殆どは、芽吹いてすぐの若葉のような青みの強い香りである。その中にほんのりと微かな甘い香りが心地良く混ざっていて、けして秀逸なものではないが、嫌味のない爽やかなものだ。そうした香りが運河の潮の香りと混ざると、何ともいえない春らしく爽やかなものになり、車の排気ガスや下司びた煙草の煙などが途切れた時に、私はその心地良い春の空気を胸いっぱいに吸い込んで時間の許す限りこころゆくまで楽しむことにしている。


きわめて小さな幸せだが、これが私には無くてはならぬものなのだ。


今日は本当に暖かい。今朝など、ワイシャツの上に薄手のジャケットを羽織っているだけなのに、それでもいくらか汗をかいたくらいだ。空には雲もほとんどなく、三月とは思えない真っ青な空が広がっていて、まだ枯れ色の芝生を眩しいほどの光で照らしていた。


私の現在住まっている家の近くには、幸いなことに多くの桜が植樹されている。といっても、その殆どが戦後の高度成長期にこの地域を開発整備する際に植えられたソメイヨシノである。ソメイヨシノは横に低く張り出す枝振りも、その花数の多さもとても魅力的だ。何より若葉とは別に花だけが先に出て一斉に咲くという姿の華々しさは、山櫻の仲間では見られないとても見事なものだ。しかし、残念なことに咲くのが早い分、散り始めるのもとても早い。


春先の冷たい雨に降られている姿や、時折吹く気まぐれな強風にあおられて、はっとする程の花吹雪を見せられた時など、その美しさに心を動かされると同時に、言いようのない切なさが心の奥底から沸き上がってくるのをいつも感じるものだ。しかし、もう少しそのままの姿を見ていたいと、決して叶わない虚しい希望を人に抱かせるほどに儚いさまが、きっとこの桜の魅力なのだろうと私は思う。


いつもの通勤路から少し路地を入ったところの日当たりの良い場所に立っている桜が、今朝見てみるともう五分咲きくらいになっていた。そこは南北に建物があって、その二つの建物の間が比較的広く空いているために冬でも日当たりが良く、その上、冷たい北風が直接入り込むことがないので、植物からすればさしずめ一等地のような場所になっている。そこに立っている桜は遠目には一本の木のように見えるのだが、近付いて見てみると実際には二本の全く別々の木であるという奇妙な姿をしている。どちらも幹の太さからして、おそらく同じくらいの時期に植樹されたものだと思う。二本の桜の木の間はおよそ3メートルほど離れていて、片方は地上からすぐのところで大きく枝を二つに分けていて、あまり上の方には伸びずに、まるで大きな傘を広げたように横へ横へと枝を張り出している。もう一方のものは、先に述べたものと同じように地上からごく近いところで二股に枝を分けているのだが、おそらくかなり昔に何らかの理由でその枝のひとつが無くなってしまったのだろう、片方だけになってしまった枝がまるで幹のように太くなって、地面から斜めに張り出していてる。二つの桜は別々の木であるにもかかわらず、まるでひとつの木であるかのように互いが互いの枝を伸ばしていない箇所へ、その隙間を埋めるような格好で調和をとって枝を伸ばしている。学術的には樹冠というらしい樹木の上部では、ふたつの桜の枝はまったくひとつのもののようになり、その姿は仲の良い姉妹のような印象を私に与える。


こう毎日が暖かいと、この桜もあっという間に満開になってしまうだろう。蕾が割れるまではやきもきさせられるが、蕾が割れて花弁がその先から顔を覗かせるほどの頃になると、それから先は驚くべき早さで花を咲かせて、見る間もなく花びらを散らしてしまう。


本当に、美しいものを見ると、美しいが故に惜しくなる。美しいが故にそれが失われるのが哀しくなる。美しさは罪なことというが、それを見せる方にも見せられる方にも、たいそう罪なことであるようだ。少なくとも私にはそう思える。いっそのこと美しさなどこの世界に存在しなければ、こうした思いを抱くこともなく心を悩ませることもないだろうにと思うのだが、しかし、我々が美しいものに惹かれる心を持たされたのには何らかの訳があってのことなのだろう。


出来ればこの姉妹にはゆっくり咲いてほしいものだ。忙しい私にはゆっくりと眺める時間をとることも難しいのだから。しかし、私の願いなどこうした美しい姉妹が聞き入れてくれるとは到底思えない。私はその姿をただただ眺めるばかりだ。

雨も二日続くと、いくらかうんざりする様な感じがあるものだ。特に今日は昨日より気温が低くいとのことなので、用心の為、しばらく着なくなっていたコートを何日かぶりに着て行くことにした。


思った通り外は肌寒く、マフラーまでは要らないが、コート無しでいるには無理があるような天気だった。雨天用に使っている、ソールがゴム製の靴を履いて家を出たのだが、濡れたズボンの裾が靴下に当たって水分が浸みるせいか、何となく踵の辺りが濡れたようで気持ちが悪い。


今日は祝日だ。いつもなら我先にと階段に詰めかける乗り換えの人の波もなく、ホームはどことなくひっそりとした印象さえ与えるくらいだ。もちろん錯覚だが、普段が人の雑踏で騒がしい場所なだけに、こういった日は自分一人の足音さえもいつもより響くような気がする。



春分の日ということは、星の位置からいってもすっかり春ということになる。


毎年思うことだが、私の生活や人生などとは一切無関係に時間は過ぎてゆくものだ。私がお金に困っていようが、鼻毛が伸びたかななどと気にしていようが、ついつい痂を掻きむしってやり場のない怒りに舌打ちをしていようが、そんなこととは一切関係なしに、この地球は自転し、その周囲を月が回り、一年かけて太陽の周りを回っている。その太陽系も銀河系の中を回っていて、その銀河系も多くの銀河と共に、より大きなものの中のひとつとして運動している。もちろん誰もその目で見たことの無いものなので、どれほど科学的な根拠がある言ってその証拠を提出されようと絶対とは言い難いものなのだろうけれど、少なくとも私という者が貼り付いているこの地球が丸い球体で、太陽の周りを回っているということは人の目によって確認されていることなので信じることが出来る。また、私にとってはそれで十分でもある。


中学の頃、人体模型などが置いてある理科の準備室に、もう随分長い間授業で使われたことはないだろうと思われる、古びた天体模型が置いてあった。ふと、そうしたことが今思い出されたのだが、私はその天体模型に厚く降り積もった塵や埃が、まるで自分自身のように思われてならない。いや、大きさから言えばその塵よりもはるかに小さなものだろう。わずか太陽と地球の間を見渡してみただけでも私などこれほどつまらない存在なのだ、それならば、これより外の世界の事など語るまでもなく、私にとっては無用の存在と言えるほどのものだ。


そんな塵よりもつまらない存在の思いなどが巨大な宇宙の運動に影響を与えられるなどと考えるのは、思えば赤面するほど恥ずかしい、不遜な、思い上がった考えである。しかし、そんなこと誰しも分かっているはずなのに、何故こうして無情に時が過ぎてゆくのを、口惜しく、虚しい思いで歯噛みしながら眺めるのだろうか。小さい頃、学校の帰り道に沿って流れる小川に笹船を浮かべて、その船を追いながら帰ったことがよくあったが、私もまたあの時の笹船のように自らの力ではどうすることも出来ない大きな力の中で、ただただ流されているだけなのだろう。


昔ある男が、自分は秋の虫のようにひっそりと人知れず死んでゆくのが理想だと言っていたのが不思議と耳について今でもよく覚えている。その男が何者であったかははっきりとは覚えていない。大学の先生だか作家だか、あるいは宗教家だったかもしれない。まぁ、そういった類の人間だったことは、ぼんやりとだが記憶している。その時はその意味がよく分からなかったが、今考えてみると私もあるいはそうかもしれないと思い当たるところがある。


人間には自我があり、自分とその周囲を取り巻く世界を理性の目で認識することができる。獣とは違い、自分達がそれまで当たり前のように繋がれていた生命の輪をその外側から見ることが出来る。それが故に、ついつい人間は自分達のことを不当なほどに高く見すぎるところがある。しかし、先に話した通り我々などそうした巨大な宇宙と比較するどころか、この地球という星に限定したとしても、そこにうっすらと被った埃のようなごくつまらない存在でしかないのだ。そんな取るに足らない塵芥の存在の生き死にが何かに影響を与えられると考える方が甚だ思い上がった考えなのだ。それならば、我々もまた秋の短い命を生きて、誰にも知られることなくひっそりと虫けらのように死んでいったとしてもそれは全く自然なことであるように思う。死に意味がないのだとしたら、同じように生きること、生まれることにも、人が思い描くような大仰な意味などないのではないだろうか。もしそうなら、虫けらのように生きて、そして同じく虫けらのように死ぬのも我々のひとつの道のような気がするのである。


しかし、人間というものは傲慢なもので、頭ではそう理解していてもなかなかそう思い切れるものではない。それに、なかば獣として生きることが正しいこととも言い切れないし、人にそれが出来るとは私には到底思えない。


こうして悩む事自体が人間が人間である何よりの証明であり、その存在の持つ不動の属性なのかも知れない。もしそうだとしたら随分厄介なものに生れついたものだ。まるで出口の無い迷路、答えの無い数式だ。