ダイヤが乱れて、路線内を何度も停車し、車間調整をしながら運行されている時の列車の車内は、たいていの場合ひどく混んでいて、とにかく不快なものだ。むっとするほどの人いきれもそうだが、頭頂部に無遠慮に吹きかけてくる人工的な冷たさのエアコンの風はとくに私が苦手とするものだ。混んでいるにもかかわらず普段と同じように大声で笑い興じる若いサラリーマンの一団。外回りの営業マンだと思われる中年男性は、巨大な肩掛けの鞄が場所を塞ぎ周囲の迷惑になっていることを自分自身でも知りながら、それでもなお荷棚にそれを置こうとはせず、夢中になって週刊の少年向け漫画を読み耽っている。こうした人々は全体の乗客の割合からすればごく僅かなのだろうけれど、見苦しいものというのはすぐに目につくもので、しかもよく目立つ為にそうした小数の者のために全体の程度が随分低く見えるものだ。恐らく子供の目にも同じ様に見えて、同じような印象を受けているだろう。そうしたことを考えると何とも残念な感じがするものである。悪いことや見苦しいことというのは一人それを止めるだけで随分と良くなるものなのだけれど、哀しいかな人は専らそうしたことに関しては自分一人くらい大丈夫、自分一人止めたくらいでなどと考えて、それが間違った事と知りながら正すことが出来ない場合がほとんどである。残念ながら私もその例に漏れるものではない。人間の残念な習性だが、出来れば小さな子供の目には触れさせたくないものだ。
そうした混んだ車内では視線を落ち着かせるような場所もままならず、仕方なく中吊りに目をやると、いつもと変わらない虚しい言葉が躍っていた。車内のエアコンでひらひらと揺れているその姿が文字通り重さのない軽薄なものに思われた。こうした言葉を目にするたびに残念に思うのは、なにも人目を引くための過剰に脚色された言葉や扇動的な見出しでも、全くありそうもないことに苦しい理屈を付けて事実のように見せかけている事柄自体ではない。何より虚しいのは、こうした事を書いている大部分の人間が他の誰よりもそれが根も葉も無い話か不正確な情報を基にした単なる推論であることを知りすぎるほど知っている点なのである。人の興味を誘うような見出しが何のためにあるのかを想像すると、不愉快さや怒りなどではなくて、どうにもやりきれない残念とも虚しさともつかない言葉にならない思いがするものである。
有事に際して臆することなくペンを執ることは勇敢で讃えられるべきことであると思う。しかし、平時においてペンを持ち続けるのも別な意味で骨の折れることのようだ。愉快犯的な者もいるには違いないだろうが、こんな事のためにと思いながら言葉を紡いでいる者も決して少なくはないだろうと思う。
こうした言葉を求める者もいて、それが人としての必要悪であろうことは私もよく分かってはいるのだけれど、それでも時々必要以上のものが求められていたり提供されていたりしているように思えてならない時がある。求める方が悪いのか、提供する方が悪いのか、その判断はなかなか難しく私などでは到底答えを導き出すことなど出来ないのだけれど、それでも経済的成功のみを至上のものとし、また、そうせざるを得ない社会の構造がこうした歪みを生じさせているのであろうと思う。その程度の事なら私のような者でも容易に見通すことは出来る。
風こそ冷たいが、朝はもうすっかり暖かくなった。うんざりするような車内の人込みから解放されて歩くいつもの通勤路は、普段よりずっと広々としたように感じられた。暖かい春の日差しを浴びて大輪の花をつけたタンポポが花弁をいっぱいに広げていた。その様子がまるで両腕を広げて胸いっぱいに春の空気を吸い込んでいるように見えて、何ともすがすがしい気持ちになった。その傍らにはヨモギが生えていて、数日前までは明るい色をした若葉だったのだが、今朝見た時にはかなり背丈も伸びて、葉の色も濃い緑色に変わっていた。
昔よく祖母と一緒にヨモギを摘んだことがあった。それを使って蓬饅頭を作るためである。
祖母は明治生まれの昔風の人だったので、何かを教えるような時にもあまり言葉で事細かに説明したりするようなことはなかった。こういうのをといった具合にヨモギの葉の実物を私に見せてそれと同じものを摘んでくるように言うだけといったことがほとんどだった。そうしたことを手伝っていた頃は、私も小学校の二年か三年生くらいだったので、雑草のような葉っぱを見せられてそれと同じものを摘んでくるように言われても分かる筈もなく、摘んできた中の約半分は違う植物の葉っぱだったのをよく覚えている。摘んできて半分近くを捨てられる時もあったし、摘んでいるそばから違う違うと注意される時もあった。その上、出来るだけ若葉をなどと注文を付けられるのだから、まずヨモギという植物自体をよく理解していない小学生には大変な作業である。繰り返すが、ヨモギなど小川の土手にいくらでも生えている雑草なのだ。少なくとも小学生の感覚では雑草である。それが食べられるなどまだ思ってもいないのだ。にもかかわらず、その中の若葉だけを摘んでこいなど、思えば祖母も無理無体な事を言っていたものである。その程度のこと知っていて当たり前と祖母は思っていたのだろうが、西洋に追いつけ追い越せの時代から生きている祖母とは違い私は現代人なのである、分かるわけはないのだ。そうして悪戦苦闘しながらも、私は今日のようなぽかぽかと暖かい春の日差しの中で祖母と一緒に川の土手にしゃがみ込んでヨモギを摘んでいたのをなぜだかよく覚えている。
それでも何とか必要な分の量は集まり、饅頭の材料にするために祖母と私とでそのヨモギを擂鉢で擂り潰した。祖母が擂り粉木ですり、私が擂鉢を押さえているという役目だった。ゴリゴリと調子よく祖母の擂り粉木が回転し、たくさんあったヨモギの葉が次第に小さくなっていった。明るい黄土色の擂鉢の内側に鮮やかなヨモギの緑がとてもよく映えていた。独特の調子で回る祖母の擂り粉木が時折止まっては鉢の内側の上の方にせり上がってきたヨモギの葉を底の中央部へと戻すと、また先程と同じ調子で擂り粉木が回転を始める。そうしたことをヨモギの繊維が細かくなるまで繰り返すのだが、その間祖母が何かを話すことなどほとんどなかった。ただただ無言で祖母は擂り粉木ですり、私はそれを見ながら黙って擂鉢を押さえていた。擂られたヨモギの青い匂いが鉢から立ち上っていた。勿論、その作業が完了するまで私が解放されないことは言うまでもない。
思えば私が手伝ったことなど僅かなものだ。祖母など、このために前日から豆を選り分け、小豆を水に浸して準備しているのだ。当時の幼い私では知るよしもないことだが、どれだけ手間のかかることかを知った今では大変に有り難く思える。残念ながらもうそのことを伝えることは出来ないのだが。
こうしたことを話すと、私がさも優しいおばあちゃん子のように聞こえるかもしれないが、それは単に両親が共働きで家にいることが少なく、しかも他の兄弟のように一緒に遊ぶ友人がいなかったために結果として同じ時間を多く過ごしたに過ぎない。クソババァを始めとして、不意に訪ねた客が偶然聞いたら通報されかねないような罵利雑言を投げ付けたことなど数え切れないくらいだ。悔やまれることだが今では本当に感謝している。祖母のおかげで身につけることが出来たようなことに思い当たる度に、そうしたことの多さに驚かされる思いだ。