社会福祉が必ずしも人のためにならない場合として、雇用保険のことがあると思います。


 雇用保険を受給するために、仕事を辞める人もいるほど、本当に困っている人のためのものというよりも、ただ、受給できる権利のような扱われ方をしている雇用保険。


 しかし、雇用保険がそういう使われ方をする中、雇用保険を払わないためにハケンが行われ、かつ、雇用保険のために辞め癖がついた労働者。


 そういう雇用保険による複合失業者が結構いるのではないかと思います。


 このことは、生活保護についても言えるでしょう。


 今、ハケンの関係で、市町村で臨時雇いを行っていますが、生活保護受給者についても、一定の労働義務を課す必要があるのではないか。


 あまりにも国にぶら下がる人が増えてくると、そもそも道徳が荒廃し、まともな社会を築くことができないでしょう。

 小泉元総理が、再び、カムバックしてきた。


 官房長官は、後ろからバズーカ砲を撃つのはやめてもらいたいと言っていたが、果たして、後ろから撃ったのは間違いないが、果たして、その玉は、どこにあたるのか。


 小泉発言については、麻生内閣については痛い発言だけど、決して、自民党には悪い発言ではない。


 むしろ、後ろから飛んできたバズーカ砲の弾が、自民党を通り越し、民主党に直撃することもありうる。


 小泉発言などがあってから、結局、民主党は再び陰の薄い頼りない男に逆戻り。


 どうして、このように民主党は頼りないか、アピールが少ないかというと、結局は、民主党も2世議員に似たエリート様ばかりでリスクを犯さない、主張のない議員が多いからだろう。


 その一人が鳩山幹事長。


 毎回何言っているのかいまいち不明。


 なぜ、あの人が幹事長なのかも不明。


 おそらく、鳩山氏の資産数十億円あるという金目当てととりあえず名門鳩山家ということなのだろうけど、それが自民党の2世議員と同じ穴のムジナ。


 そのムジナは、結局、実務能力もないから、ないないづくし。


 こんな民主党では、ずっと、自民党には勝てないと思いました。

 日本の内需が足りないことについて、どうしてだろうと考えると、どうも日本人は自分の所得に応じた消費を行わないことが原因だと思います。


 どうして、このように所得に応じた消費を行わないかというと、そういう消費の形を提案する広告が少ないのではないかと。


 だいたい、広告をみると安いという価格競争の広告がほとんどであり、品質やライフスタイルなどの広告は本当にすくないように思います。


 また、日本人は、サービスや情報に対してコストを支払うという意識も少なく、結局、不必要な情報ばかり得ており、損をしているように思います。


 こういう意味では、質の高い情報は有料であり、情報にはコストがかかるということをわかるようにしていかないといけません。


 生活スタイルの情報をどんどん流していくことも重要なのでしょう。


 ただ、この不景気でも、ケーキやパンなど一部の商品については、価格が高いにもかかわらず、売れ行きもよいわけで、品質にこだわる商品については決して消費は低くないところをみると、決して日本人が遺伝的に消費をしない民族ではないということがわかります。


 要するに、企業などの宣伝の方法だろうと思います。

 おそろしい議論で、役所は、役所のためでなく国益を考えろ、しかし、民間企業は、会社の収益だけ考えろなどいことが言われている。


 民間企業は、いつから国から独立して、収益だけ考えればよくなったのか。


 企業も社会的公器であり、収益の主体だけではないはずだ。


 こうした企業至上主義がはびこるのは、国境を越えた大企業が国家の規制をくぐり抜け、大きな権力を有するようになったことに端を発する。


 企業に対して、国がいかなる規制を設けようとも、他の国でその規制が設けられていなければ、その国から企業が去っていくだけである。


 ここに、自由貿易のおそろしさがある。


 たとえば、中国が人権無視の地獄絵図のような国であろうとも、安い商品を生産する工場があれば、その工場は生き残るということだ。


 日本人も同じく、すべての人々は、同じ品質で安い商品を購入する。


 こうした行為は、その生産国や工場が人権などを保護しているかどうかに関係がない。


 この問題をどうすべきなのか。


 そこが、現在のグローバル化の問題でもある。

 日本の歴史の中で天皇ほど不思議な存在はない。


 司馬遼太郎は、著作の中で、何度も天皇は、政治的な王ではなく、日本の先祖崇拝に対する祠祭をおこなうプリストキング(祠祭王)であると主張している。


 たしかに、日本人に名字、苗字があるが、たいてい天皇家の分家であるとそもそも称するものが多い。


 中には、明治時代、平民にも苗字を名乗ることができて、大半が、そういう勝手につけた苗字との主張もあるが、実際は、江戸時代においても、庶民それぞれ隠れ苗字などをもっていたようだ。


 日本では、宗教がなかなか真の意味で受け入れられないが、それは、純粋な祖先崇拝など、いわゆる山本七平氏が主張した「日本教」に日本人は入信しているというのが正しいのだろう。


 しかし、戦後教育の中で、日本は日本神話と切り離され、マルクス主義的な歴史と結合させられている。


 全く、神話には真実性がないと主張しているのだ。


 果たしてそれが本当に正しいのだろうか。


 戦前のスパイゾルゲが、日本を分析する上で古事記、日本書紀の分析を行い、日本の現状分析をおこなったことは有名な話だ。


 確かに、当時は天皇中心といわれた時代であったが、それだけとは言えない、何か日本人の根本問題として考える上での問題があるのだろう。


 日本人のメンタリティ及び日本人の現在と未来を考える上で古事記、日本書紀、そして、天皇というものの歴史を考えざる得ないと考える。


 そもそも、日本人とはなんぞやというと、それはDNA、要するに遺伝の問題ではない。


 大陸から来た騎馬民族、もともと列島に住んでいた農耕民族などと議論をするがほとんど意味がない。


 騎馬民族であろうと農耕民族であろうと、そのどちらであろうとほとんど影響を与えない。


 どこから来たかということにロマンを感じはするがあまり意味がないことだ。


 たとえば、中国雲南省の日本と似たような言葉を持つ民族と同じだとわかったとしても、それ自体意味がない。


 なぜならば、現在の我々とはあまりにも関係のない存在だからだ。


 要するに、日本人を規定する上で、おなじ歴史を共有する主体こそ、日本人と考えられるのではないか。


 古代、列島には渡来人がいた。


 しかし、現在、その伝承はあるだろうが、同じ歴史を共有する主体であれば、日本人だろう。


 反対に、日本人でアメリカに移民し、すでに同じ歴史を共有することなきアジア人種である元日本人ということもあるだろう。