日本の歴史の中で天皇ほど不思議な存在はない。
司馬遼太郎は、著作の中で、何度も天皇は、政治的な王ではなく、日本の先祖崇拝に対する祠祭をおこなうプリストキング(祠祭王)であると主張している。
たしかに、日本人に名字、苗字があるが、たいてい天皇家の分家であるとそもそも称するものが多い。
中には、明治時代、平民にも苗字を名乗ることができて、大半が、そういう勝手につけた苗字との主張もあるが、実際は、江戸時代においても、庶民それぞれ隠れ苗字などをもっていたようだ。
日本では、宗教がなかなか真の意味で受け入れられないが、それは、純粋な祖先崇拝など、いわゆる山本七平氏が主張した「日本教」に日本人は入信しているというのが正しいのだろう。
しかし、戦後教育の中で、日本は日本神話と切り離され、マルクス主義的な歴史と結合させられている。
全く、神話には真実性がないと主張しているのだ。
果たしてそれが本当に正しいのだろうか。
戦前のスパイゾルゲが、日本を分析する上で古事記、日本書紀の分析を行い、日本の現状分析をおこなったことは有名な話だ。
確かに、当時は天皇中心といわれた時代であったが、それだけとは言えない、何か日本人の根本問題として考える上での問題があるのだろう。
日本人のメンタリティ及び日本人の現在と未来を考える上で古事記、日本書紀、そして、天皇というものの歴史を考えざる得ないと考える。
そもそも、日本人とはなんぞやというと、それはDNA、要するに遺伝の問題ではない。
大陸から来た騎馬民族、もともと列島に住んでいた農耕民族などと議論をするがほとんど意味がない。
騎馬民族であろうと農耕民族であろうと、そのどちらであろうとほとんど影響を与えない。
どこから来たかということにロマンを感じはするがあまり意味がないことだ。
たとえば、中国雲南省の日本と似たような言葉を持つ民族と同じだとわかったとしても、それ自体意味がない。
なぜならば、現在の我々とはあまりにも関係のない存在だからだ。
要するに、日本人を規定する上で、おなじ歴史を共有する主体こそ、日本人と考えられるのではないか。
古代、列島には渡来人がいた。
しかし、現在、その伝承はあるだろうが、同じ歴史を共有する主体であれば、日本人だろう。
反対に、日本人でアメリカに移民し、すでに同じ歴史を共有することなきアジア人種である元日本人ということもあるだろう。