どこかで見たこと読んだこと -32ページ目

DVD 空気人形


どこかで見たこと読んだこと-CD

映画のメイキングを観る為に、DVDを購入した。
ペドゥナの役作りには、彼女の個性が強く反映している。
空気人形に感情移入する余り、涙が溢れ止まらない撮影が
幾度もあったようだ。


その撮影の前の台本読み合わせの際から、是枝監督は、
丁寧に脚本の意図を出演者全員に細かく説明している。
この映画を作るそれぞれの段階で、縁の様に、才能が
集まって来るのが面白い。


おそらく個々は、ばらばらに才能を提示しているのだが
是枝監督が「空気人形」を作る(統合する)過程で、
自らが空気人形を解釈しながら作り上げていたのが良く
解るメイキングでした。


自然なものと、人工のものを比較すると、人工的なもの
には、内部に必ず欠落しているものがあると言える。


つまり、空気人形という作品は、現代的、人工的なものと
自然的、生来的なものとの混在を表現している。


性処理代用品という欠落した人工的なものと同様、
生来的な人の生にも欠落は内包していると、欠落した
ものが増え続ける現代の弱体化する生を、応援する。


その役目を芸術に見出す是枝監督が居る。


現実の個々の人生は、日々の中で表面的に通り過ぎる。
その人間関係の密度の薄さが、人工的なにおいを日々に
暗い影を落とすが、その人工的と思われたものにさえ
自らの感性に目を凝らすと、光と風が美しく透け、日々
成長して来るのだと、これに気付けるのが芸術なのだ。


現代に欠落している存在の生をそのままとして受け入れる
ことは、吉野弘氏の「生命とは」の詩として読むこととで
同義であることを、この映画は強く主張している。

この様な現代を、芸術として、成長しながらコード化
するには自分自身がそのコード化の過程に飛び込み、
解釈するしかないようだ。


空気人形の成長の過程が、自らの体験に基づいている。

DVDのライナーノートに監督が下記の様に書いている。


『今まで僕自身が描いていた「不在」や「欠落」というものの、
人間や世界における価値観の転倒を、僕は、この作品作りを
通して経験したのである。いや、この作品全体を貫くテーマ
がそこにあったのだということに映画を作りながら気付かされた。』



音楽や映像の美しさが、これらの情報の過程を彩る新しい
理念の映画です。

メイキングが本編以上にお勧めのDVDです。

詩篇1

思う様に行かぬことに、人は悩みやすい。
実のところは、やるべきことをしていないだけ。

樹が新しい葉を芽吹くのを見ると、もはや気候が
変わったとひとは知る。


ひとは、宇宙の樹が、気候を知り、機を逃さず、
やるべきことをやっていることを信頼しているのだ。

思う様に行かぬことのひとつは、宇宙に出ると
人は即死すること。


宇宙は、一見、私の命を拒否している様に見えるが
宇宙が求めているのは論理に整合する心なのだ。
心の外側の宇宙の樹は、目印、象徴だけ。


環境が変わると行動する心だけを求めている。

私の心は、もはや私だけのものではない。

思う様に行かぬことが、宇宙の実態である。


思う様に行かない世界に、生きていることに気が付くつと
苦難や迷妄の意味や理由が、良く判る。

それは宇宙に突然、身を晒すこと以外の出来事だと解る。


直ちに整然と行動させる心のみが、宇宙と同化して生き続ける。

もはや、思う様に行かないことの理由を問う意味が
人間には無いことに気が付く。


耳を塞ぎ、目を閉じ、口を閉じても、そこは孤独な宇宙が
あるだけ、それを知り続けるだけだ。

それでも、心は、開かれた感触を使い、論理的な行動を触発する。


その時々の論理性の変遷が、人類の歴史であり、宇宙の樹。

(CARNE 2010年4月15日)


どこかで見たこと読んだこと

党名といえど・・・・


どこかで見たこと読んだこと


「たちあがれ日本」という党名

なんと上から目線の政党名だろうか、それに気が付かないところが
お爺さん達ということだろう。


平沼氏と与謝野氏は、日比谷高校の同級生ということなので
きっと高齢者達の同窓会の目標となろうと目論んでいるのかもしれない。


私達、国民は眠っているのか?座っているのか?
その様に見える政治家の意識に、違和感を覚えてしまう。


世界から見て、日本とは、品質管理を生産エンジニアリングにまで
高めて生産意識の改革により製品品質の平準化する手法を評価されて
いる。正に企業文化を評価されているのである。
昨年まで、世界第二位のGDPという企業の生産性の評価が、日本の評価
の特徴であった。


それに対して、戦後、国際政治の中で新しい手法として、見習うべき
政治家の名前は、一度として聞こえて来ない。
しいて言えば、バブル崩壊の対処手法や、戦後の復興など、ダメージ
に対する政策は政治研究の素材としては、扱われているが、個々の政治家
の理論や手法が評価された試しは、一度としてない。(評判にもならない)
この様な政治家を持った国民の身にもなって欲しい。


政治家は利権という簡単な権威主義で成立していた。
それが、1988年のリクルート事件により、利権主義が、格好のマスコミの
ネタになることを政治家が知って、新しい手法=政治家としてどうやって
国民に対して権威主義を維持できるかを、模索して、今日まで来ている。

小沢氏も当然、リクルート事件で検察や、マスコミ、国民への対処方法を
学習し、現在も、ケーススタディとして活用しているのが良く解る。
しかし、政治的隘路をこじ開けるには、愚直に待つという手法を取っている。
これは今までには、無い手法であると思う。この評価は歴史がする。
過去ブログで言いましたが、民主党は、3年は滅茶苦茶しても良いと思う。
それほど、自民党の政治は、リクルート以降、政治手法が混濁していた。
戦後、数十年という長い政権維持が、沈殿し停滞を生むだけであった。
今回、野党になったことは自民党にとっては、良い機会であった。


日本は、リクルート事件を総括する必要がある。
リクルート事件が傷つけたのは、政治家の屁の様なプライドばかり
ではないのである。
1)ベンチャー精神の企業育成を30年遅らせたこと。
2)サービス業のグローバル化を鈍らせたこと。
という大きな痛手を産業界は受けた。

これは一つの企業の悪事として過去に仕舞い込もうとする政治家の
意識により、世論がリクルートの正の面を再評価できないでいる。


産業界からすれば、政治家の権威主義に振り回された結果、
ODAとして過去に日本が支援して来た国が、インフラ整備を開始する
案件でも、韓国やロシア、中国の後塵を拝し、グローバル化する
国際関係の中で、影響力を急激に失っている。


グローバル化の遅れや、世界市場への戦略の遅れは、1988年に始まった。

その主役の政治家が、上から目線で、国民が世界へどの様に対応するかを
どの様に述べると言うのであろうか?


ローカルな権威主義から脱却し世界へ向かって立ち上がるべきは
政治家の方であり、世界への戦略を述べることが出来る政治家を

日本は求めています。


リクルート事件で傷ついた「育成すべきベンチャー精神」「サービス業の
グローバル化」を政治家として日本に回復する能力を新党に期待するのです。

蔓日々草


どこかで見たこと読んだこと


六甲山を散策、目的は「満開の山桜を見る」でした。


本居宣長の有名な和歌
「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
この和歌の面白い構造は、匂う主体が、桜ではなく
朝日の方へ位相をずらし、桜の香りを朝日を基点に展開している
ところだと思います。
主体が、朝日になっているのですが、この和歌を読んだ人は
頑なに桜の方への感情志向を留めたまま、朝日へは移動しない。

つまり、大和と敷島の掛詞と同じ構造を、朝日と山桜は
いつまでも持っているのです。


言うにいえない大和心を現すのには、その実態ではなく
敷島であり、朝日であるという構造で表現した訳です。

式であらわすと(敷島=大和)=(朝日=桜)です。
ということは、曖昧な大和は、この式では、曖昧の一例が
もう一つ平行提示されただけです。
山桜を見ながら、大和心は、薫るばかりで、なかなか
これという定説、特定言説はありません。ということです。


ここでイライラして、感情論にまかせ、戦争でもしむけたりすると、
更にイライラが高じ、最後には自棄を起こすこと間違いありません。

大和心を実行する場合は、曖昧さに安住したりイライラせず、
新しい世界を目指し、かっこ悪くても自分の意見を実行する
優雅さを香らせることに集中したいものです。その意味では
知行合一の哲学が大和心です。


目的地で今年も咲く山桜を鑑賞した後、下る途中、満開の桜の木の
斜面に、その裾野に目が行きました。紫の爽やかな色の花が群生し
ているのが見えたのです。蔓日々草の群生でした。
蔓日々草は、地中海原産の蔓状の常緑ツル植物で、強健で乾燥にも
強く観葉としても広まり、現在では日本全国に野生化し群生する
ことも多いようです。


六甲山は、穏やかな大阪湾に面し、地中海的な雰囲気もあります。
この植物が群生するには気候的にも最適かと思います。

この植物の和名ゆらい、日々草は、マダカスカル原産で、一日花です。
一日花は、桜が散るのとは違い、毎日、萎むので、別の儚さがあります。

蔓日々草は、花が日々草に似ているということだけで命名されたようで、
花は日々、常緑の葉を輝かせ、元気に咲いています。



桜とは比べ物にならない程、蔓ですので地面に近く、散り際は、
悪そうです。(笑)

しかし、遠く地中海から来て、今は、六甲山に逞しく群生している
蔓日々草の紫の花と、しっかりとした葉の輝きに、大和心が刺激を受け
凛として感じるのを、満開の桜の下で、確信するのでした。

現代日本人は、世界に対する自己表現において、常に美しさを
香らせる常緑さが求めらているのです。
大和の心を感じるのは、あなたではなく、あなたと接した諸外国の人の
方ですから。



どこかで見たこと読んだこと

春の兆し

3月21日の朝は、夜来の嵐の置き土産「黄砂」の朝でした。
濃霧と同様、太陽の日差しは遮られていたが、空気の色が
黄ばんでいるので、「黄砂」だと解った。

午後、車のタイヤを交換するので、その間は、仕事をして
いました。夕方、車を引き取りに行く、途中の公園で、
桜が咲いていました。

朝方の「黄砂」も、いつの間にか吹き流され、青空が見えていた。
桜の花びらを透かした夕方の日差しが綺麗でした。

今朝、黄砂に煙る甲子園で高校野球の開会式がありました。
近年は、式の司会進行は、同じ高校生によって、進められている。
手作り感があって、良いと思う。
しかし、高野連会長の挨拶は、余りにもビジネスライクな謝辞が
多くて何か場違いな印象が強かった。そんなにスポンサーに媚び
なくても、スポンサー企業も最近は大変な事情なのは、国民は
よく知っていると思います。


私は甲子園の開会式は好きです。
夏の甲子園の暑さも印象的だが、まだ肌寒さと木々の開花が始まる
春の清廉な季節の甲子園も好きです。

今年の国歌独唱は、広島音楽高校の野々村彩乃さんでした。
昨年の全日本学生音楽コンクール全国大会の声楽高校の部で1位
となり、甲子園での独唱となった。
4月からは、大阪音楽大学でオペラを勉強とのことす。
未来へ向け夢と希望への清廉な歌声が感動的でした。
春の甲子園の開会式に、国歌独唱は季節にも合う良い企画です。



どこかで見たこと読んだこと


                     甲子園開会式で国歌独唱した野々村さん



「君が代」の歌詞は、古今集の「わが君は 千世にやちよに 
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」から採ったと言われて
います。作曲は、明治初期です。西洋式に軍隊を整備し始めた
明治政府は、ヨーロッパ諸国から軍事教官を招聘していた。
その教官から公賓を迎える際には、相互の国歌にて歓迎の意を現す
慣例があることを聞いた明治政府が、急いで国歌を作ることになった。

まだ西洋音楽を学ぶ者が少ない時期と王政復古を成したばかりの
時代なので、天皇公家集団の本懐とする和歌、雅楽から出典した
のは、当然のことで、歴史的な継続性も自然に残せた。

丁度、甲子園という舞台に鮮烈デビューした高校生と同じように

心は清廉だが、西洋音階などの知識も無く、心細かったと思う。

しかし、「君が代」に新生日本の誇りを託して世界へ送り出した。


これらの経緯を思い、ようやく咲いた桜の花びらを透かす
日差しの様に清廉なイメージを歌声に感じ、若者達と一緒に、
心の中に共感できる式典は、いつまでも続けて欲しいものです。



どこかで見たこと読んだこと
公園の桜、開花

(3月21日黄砂の去った夕方)