どこかで見たこと読んだこと -31ページ目

女の子ものがたり

女の子ものがたり [DVD]/深津絵里,大後寿々花,福士誠治
¥4,935
Amazon.co.jp


「女の子ものがたり」脚本・監督 森岡利行をDVDで観る。

原作は、西原理恵子氏の自叙伝的漫画、西原さんの笑いとシリアスさを
見事に映像化した作品となっている。
特に、「女の子」というフレーズに、小学生時代、高校生時代、現在を
キャスティングの変化と脚本で表現した森岡監督のセンスが光る作品と
なっていた。


「女の子」にとっての、過酷な現実と、不幸と幸福感の心の葛藤が
「女の子」の成長とノスタルジーを交差させる脚本が、各時代の
キャスティングの変化に生かされ、最後に残る「なっちゃん」の心象を
際立たせることに成功している。


不幸な生い立ちをギャグで笑う作品は、多いが、そこから「女の子」の
心象をノスタルジーとして視聴者へイメージとして表出するのは難しい。

「女の子」と「過酷な現実」との並列と、一般共通認識へのコード化は
一歩間違うと、非現実なファンタジーへと安易に落ち込み易い。


逃避せずに、可愛らしい「女の子」と笑えない「現実」から、微笑みを
抽出するには、心が共感するドラマ性が不可欠となるが、本作品は

終盤の脚本が見事であった。


各世代のキャスティングの可愛らしさと笑えない現実、それでも
笑おうとする健気さで観客の心へ訴え掛ける。
反する男性は短絡化され「いじめ」「暴力」「性」「反社会性」のコード
としてのみ演出され、笑えないところが、ドラマとして笑える。

この女の子、世代別のキャスティングの可愛らしさと笑えない現実は
森岡監督の前作「子猫の涙」でも上手く使った手法です。
というか森岡監督の得意技なのかもしれません。


心の思い出から創作へ向かう「なっちゃん」役の深津絵理へ繋ぐ、
森迫永依、大後寿々花というキャスティングへの美的な感性は、
森岡監督の感性と思えるのです。

この映画を観て映画「プレシャス」を観たくなりました。


[プレシャス]

■ 監督 : リー・ダニエルズ
■ 出演者 : ガボレイ・シディビー、モニーク 、 ポーラ・パットン 、
マライア・キャリー 、レニー・クラヴィッツ

父と息子の10年間




どこかで見たこと読んだこと

最近は、めっきりプロ野球中継を見なくなった。
特に応援したいチームが無くなって久しい。

4月24日の東京ドーム 巨人対広島を見た。

今月7日にくも膜下出血で、急逝された木村拓也コーチ(享年37歳)の
追悼試合とあったので、どの様な試合か興味が湧いた。
試合は、連敗中の広島が、粘り強く試合の主導権を取る集中した流れ。
8回1死満塁で、1点ビハインドの巨人が、代打谷を送り、満塁ホームラン。
逆転、勝負を決めた。


木村拓也氏は、日本ハム、広島、巨人で現役を終え、今期から巨人コーチを
就任してた。
宮崎南高校時代、甲子園で、強肩、スラーガーとして捕手として活躍した。
プロに入ってからは、バッティングではスイッチヒッターで、守備では
投手以外ならどこでも対応可能で、ユーティリティプレーヤーとして高い
評価をされていた。
2009年9月4日巨人対スワロウ戦 12回巨人の最後の捕手が怪我をして急遽
木村が捕手を勤め、配球も問題なくノーエラーで役目を果たす。これぞ真骨頂。


24日の試合開始の際、始球式は、故人の長男恒希君(10歳)が父親と同じ
ユニホームと背番号で、勤めた。
それは見事な投球だった。ゆっくりとマウンドに立ち、普段と同じタイミングで
投げた。そのボールは、捕手阿部のミットへストライクとなって吸い込まれた。

10歳の野球少年が始球式で、ストライクを投げるのは、容易ではない。

やはり普段から父親がプロの捕手の立ち居地で、練習していたのが想像できる。

父を突然亡くした少年は、父の言った言葉に従ったのだ。
父は、息子に野球を教える時、捕手としてミットを構えただろう。
「そう、ここへ投げてこい」と。少年は、正に、その声の通りにした。
その投球に、観衆は、驚きのようなどよめきと少し遅れて大きな声援が起きた。


野球というとフォームに基本がある。キャッチボールから始まり、相手に届く
投球は、方向とエネルギーを持って、距離を越える。
父は、その美しいフォームを教えていた。
息子は、その教えを心から身に着けているように、美しさを持っていた。



どこかで見たこと読んだこと

共通可能性

情報理論、経済学、社会学、古典解釈などを調べてみると
いずれも、同じプロセスに共通するベクトルが見えてくる。


それは社会という共通感覚の集合体に、自己と言うパトスの
影響下にある人間を、如何に解釈させるかというプロセス。
自らが経験として自己の感情を、社会化する努力が必要であり、
その努力の成果が他者に共感されると、個人の感情は、意見
作品、製品、理論として、存在を許可されるというエネルギーと
方向性をもったプロセスである。


社会に対しては、個人は何らかの欠落感が、成長過程で発見する。
それが、社会性を生む人間の本質を構成し、他者と連携、紐帯しても、
完璧な存在には成りえないことは感づいているが、孤立よりは生存
の可能性を時系列的に高めることを予感として知覚している。


その自己欠落の認識と社会への共通認識への工夫と努力という自己解釈は、
「共通可能性」としてエネルギーと方向性を持つと体系付けた方が
より理論的な社会的連携と生産性を生むことが予測できる。


個人(感覚的存在)⇔共通可能性⇔他者(社会的存在)というベクトルが
存在していることが解って来たのだ。

個人(感覚的)⇔他者(社会的存在)という直接関係は、問題を
個人の上でも、社会問題の上でも本質的に拡散可能で、複雑な事象を
生成するだけなのである。


つまり、「沖縄の基地を海外に移転する」というテーマがあった場合
個人⇔他者で意見を並べても、アイディアや事象が増えるばかりである。

個人の意見や、ソリューション、芸術作品は、全て「共感可能性」という
方向とエネルギーを持ったプロセスを経てから述べないと、社会性を
持たないということを理解して、自己の意見、ソリューション、作品を
提示しないと「社会化への努力」が伝わらないのです。


他者の意見の流用や、リピートは、受信者が、その情報、作品に
社会への共通可能性つまり、社会共感性を重視してない、または
理解していない状況であることを投影している。これはかつて
「共通可能性」の方向とベクトルで他者が受信した経験を、信じて
いるだけのことである。現状は変化しているが、その影響下にないと
信じている状態ですので、他者は、止められません。

しかし、それ自体も経験と捉える自己があれば、「共通可能性」の
プロセスの過程であるので問題はないのです。


「沖縄で基地の側で暮らす市民」「沖縄から基地が移転される場所に
暮らす市民」「市民の安全と生活を行政する行政官」「日本政府」
「基地を利用する米軍海兵隊」「米軍を統括する米政府」
現在、「共通可能性」のプロセスにあるのは、上記の分類に所属する
人々という個人と他者の分類です。


この中で、共通可能性をプロセスとしてエネルギーを使っているのは
「沖縄で基地の側で暮らす市民」です。
彼らは、「日本政府」の対応に我慢できない場合は、「①アメリカ合衆国
民になる②中国人民になる③日本から独立する」ことも許されている存在です。
そして、どの結果も、他者として、共通可能性として十分理解できるのです。
「共通可能性」を理解できない人が驚くだけのことです。


他者のアイディアを流用したり、他者の成果を自分のものにするのは
ある意味、権威主義的な現代を特徴付けていますが、それは自己学習
能力を下げた人間の「共通可能性」を活用した受信者としての自己利益
です。ただ、悲しいかな、権威主義が邪魔をして視野の広い意見の
発信者にはなれません。権威主義者は、平穏な日常以外に興味がない
ので、閉鎖的な側面がありますが、受信の自己利益を蓄えられた過去
を懐かしむことでは事なかれ社会に貢献することでしょう。


安易な権威主義に落ち込むのを防ぐのは、発信者としての学習と経験を
他者を意識し「共通可能性」から情報を解り易くコード化する努力を
惜しまないことです。


人類が社会性を持つ限り経験から発言を求める他者は、永遠に消えることはないのです。


私の活動も営業やプレゼンの際は、経験に裏付けされた「共通可能性」を
明示してゆくことになる。私と会議される方々は、お楽しみに。


以上の論考を一行で纏めるのは困難だが、論語に
「詩に興り、禮に立ち、樂に成る」とプロセスが述べらていた。

人間形成の到達点へ向かうことは、ベクトルのプロセスとしてしか表現できないようである。

イノベーションの新時代

イノベーションの新時代/M S クリシュナン
¥2,100
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経営にコア・コンピタンスという概念を広めた
プラハラード氏は、ビジネス経営学者です。


企業の実務経験に裏付けられたコンサルティング理論を
発表しています。本書は、一年前に発表されました。


本書の柱は冒頭に表明される。結論をあとに述べたがるビジネス書との大きな違いはここもある。
「個客経験の共創」と「グローバル資源の利用」を柱とし、それをマネージメントするシステム作りが

本書の要点になる。


「個客経験の共創」は、消費者にとっての価値は、自分だけのかけがえのない経験から生まれる。

特定の個人を主役に据えるべきとの思考の表現である。


情報理論で言う「自己解釈過程」の契機が「経験の共創」である。共通認識を基底にした情報のコード化である。
価値観とは、経験の中で生成されたコード情報である。精緻にコード化され、社会価値と相対化することで、

価格が決まる。

顧客は、しかし個々別々であり、社会に対する相対化から個人の絶対化という振れ幅がある。

(社会的な流行として翻弄される幅)その絶対化というと自己責任みたない言い方も最近はあるが、
実態は、主人公化というものだと言うのが、プラハラード氏の考えである。消費の中で主人公化する

ツールがシステムとなって企業は顧客へ提示して行くのである。


その提案した事業システムが、個客という経験を作りえるかということなのです。つまり経験を学び

「樂に成る」ことが目的になる。温故知新の現代的な思想と感じる。


「グローバル資源の利用」は、政治面、経済面からの世界の潮流であるが、グローバルの本質を見失って

はいけないと個人的には思う。内田樹氏の「日本辺境論」で言うブリコルールという「ありもの」から工夫が

できる人、つまり、限られたものの中から先駆的に有用性を学ぶ力を持っている人も、同様に、捉え難きを、

捉えるには、自らの経験に基づく知を持っていると言える。


グローバルとは、限られた資源の中で最も有用性を持っている資源を探す平原、フィールドのことである。

国家や人種とは関係ない事業での有用性のことである。


以上、プレハラード氏の著作を読むと、企業家としては、大いに勇気を得られる。

が、しかし、今の日本の世の中で(大企業や官庁をメインにした)イノベーションの重要性を真剣に学ぶ人は

居ない。特に権威主義に身を委ねている人々が多い日本の場合、学習すら他者に権威により委ね、
結果だけを自己の手柄とするのが、普通と思われている。これを効率性と勘違いしている人、多数。

その意味で、日本の社会では、プレハラードの理念で事業を構築するのは、理想主義扱いされ、

否定的な評価が多数を占める。(アマゾンの書評のレベルでよく解る)

大変悲しいことだが、日本企業に構わず世界のビジネスは進むのです。

内田氏が、日本辺境論などで、日本人の「本質を学ぶ力の劣化」=「子供化」を嘆く、故縁がある。

心を発見する

空気人形 豪華版 [DVD]/ぺ・ドゥナ,ARATA,板尾創路

¥6,300
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DVD空気人形 豪華版の続きです。

空気人形の作品は、映像詩と呼ぶに相応しい。
断片としての素材が、フレームと音響で、統一されている。

非日常の感情の浮揚が、自省として反復される。
その反復された自省をイメージとして保持するのが詩であろう。

映画の場合、シーンは、脚本によって、制作の初期段階で
計画されるが、撮影現場と、編集により、自省される。

背景、ロケ現場、演技者、照明、カメラ、衣裳などスタッフが
脚本に基づき、シーンを解釈するのが、映画制作である。

実際の撮影現場で、予め決められたシーンに、リアルな情報が
解釈されて、公開へ向けて統合されるシーンが制作される。

この過程が、情報の圧縮を生むのだろう。
カメラマンが、レンズのフィルターを選択し、
レールを使ったカメラワークが、決められたシーンへ
反射された光の意味をフィルムに焼き付ける。

決められたシーンが、光と音響で、彩られる。

構想してから、シーンが撮影され、繋がれ、編集される。
そのおのおの過程で反復された自省は、情報として圧縮され
詩となり、公開される。

観客は、思い思いに、映像詩の行間に自分自身の心を反映させる。
その個人的な反映が、映画の保持された自省と共感するとき
この映画は、理論として社会的な共通感覚としての倫理となる。

白川静先生の「孔子伝」に詩に関する叙述がある。

論語に「詩は以て興すべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨む
べし。」とある。孔子の詩に関する思想を白川先生は丁寧に解説して
くれている。

======== 孔子伝 より抜粋 ==============
興とは、「詩に興り、禮に立ち、樂に成る」というときの興であろう。
さとるというほどの意味である。心の開かれることをいう。
心が開かれて、はじめて他を理解しうる。他を理解することは、共同の
いとなみの基礎である。このような彼我の理解の上になり立つ世界に
おいてのみ、感情を訴え詠歎することができる。詠歎は、「怨」、
すなわち感情の傾斜から発するというのが、孔子の詩に対する理解で
あった。
================================

この詩の創作過程の意味から、映画「空気人形」を解釈すると
「心」と「他者の関係」がテーマであったことがよく解る。

業田さんの漫画「空気人形」と吉野弘さんの詩「生命は」とが
原作となって、映像と音楽で、是枝監督が「空気人形」に心を
情報として織り込んだ映像詩として作り出している。

このスキームに興味が湧かないと、この作品は楽しめない。
(映画は興業として開催されるので、好き嫌いは必ず出てしまう。)

つまり感情として、他者との関係から自分自身を内省することに
慣れていない人には、感情を傾斜させることはない作品という意味から
しても、二重に詩的な映画であることを証明している。

今は樂に成らずとも、いずれ詩的な分野に興味を持って、
その嗜好から再度、鑑賞するとまた違う映像詩の世界が見えてくる
作品になっている。

都会で過食症を病み、自閉的になった少女が、「めぐみ」を含めた
ばら撒かれた「燃えないゴミ」を、偶然、開けた窓の外に発見し、
「きれい」と発音して心が開かれた。
詩的な心のあり様とは、他者から与えられるのはなく、自らの日常から、
他者を理解する感情の傾斜として、自らの内部の欠落の中での発見であり、
内部の他者であるが故、自省でしか知覚できないことのメタファーである。




孔子伝 (中公文庫BIBLIO)/白川 静

¥940
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