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まあだだよ 黒澤明監督 遺作


どこかで見たこと読んだこと

1993年 黒澤明監督 「まあだだよ」

スタッフ
監督: 黒澤明
製作: 黒澤久雄
原作: 内田百閒
脚本: 黒澤明
撮影: 斎藤孝雄 上田正治
美術: 村木与四郎
衣装デザイン: 黒澤和子
編集: 黒澤明
音楽: 池辺晋一郎
ネガ編集: 南とめ
助監督: 小泉堯史

キャスト
内田百閒:松村達雄
奥さん:香川京子
高山:井川比佐志
甘木:所ジョージ
桐山:油井昌由樹
沢村:寺尾聰
小林:日下武史
亀山:小林亜星
多田:平田満
古谷:渡辺哲
北村:頭師孝雄
三井:松井範雄
平野:杉崎昭彦
村山:冷泉公裕
太田:岡本信人
石川:竹之内啓喜
高山の息子:吉岡秀隆
地主:山下哲夫
土地を買った男:草薙幸二郎
肉屋の親父:谷村昌彦
馬丁:久世浩
猫を抱いたお婆さん:本間文子
魚屋の娘:鈴木美恵
酒屋の御用聞き:頭師佳孝
内田百閒の少年時代:西亨大
巡査:桜金造
巡査:板東英二
駅長:加藤茂雄
馬方:都家歌六


バブル華やかな時代に黒澤明監督が残した遺作。
当時の興業としては失敗作と言われている。
映画界でも、ジュラシックパークなどCGが全盛の時代背景が
災いしたのかと感想を持った。

内田百閒という個性的な作家は、エモーショナルな精神の関係を
大切にする。堅い精神とユーモア精神のバランスは、濃密な人間
関係を、それのみをと言える程、大切にする。
学生に「仰げば尊し」を歌われると直ぐに泣く先生。
そんな感受性高い先生と学生達との長く、濃い人間関係がドラマ
のテーマ。

この心の動きは、バブルに熱中する1993年当時の各世代には
少しウエットすぎる濃密な人間関係をドラマ化している。

実在の人物なのだから面白いはずの濃い人間関係に反応しない
時代の雰囲気というのは、やはり悲しい。私も上映時には見ていない。

しかし、今、見ると「赤ひげ」を作った黒澤監督の社会批判性が
色濃いドラマとなっている。
先生の隣の土地が買われるシーンは、バブル期の土地買収での
人間性への無頓着なビジネスライクの警鐘であった。
宴会での歌では、戦争直後の世相を、1993年の当時も変わって
いないポイントを表現する。
曰く、「民主、民主と言いながら威張っているのは悪いヤツ」。
現在の集中豪雨的マスコミやエリート官僚の上から目線にも通ずる。

戦争で焼け出されバラックの小屋住まいの松村達雄と香川京子が
とても美しいシーンを重ねるのが印象的であった。

遺作と言うのは、本人が思って残す訳でないが、黒澤明監督の
遺作は、この作品で良かったと思う。

映画の中で、飼っていた猫「ノラ」が行方不明になり、内田百閒と
妻は共々、憔悴し切る。
絶望したとろへ、別の「クルツ」がふらりと迷い込み、内田夫妻も
「ノラへ」の悲しみを越えて、「クルツへ」感情を移入する。
その時の内田百閒の解説が、遺作として興味深い。

ノラを失った百閒は、自分を因幡の白兎だと、「因幡の白兎」を
歌う。鮫に裸にされた兎は、大黒様に救われる。その大黒様とは
絶望した百閒を親身になって心配してくれた学生達や、近所の人
手紙や電話で励ましてくれた人のことだという。
これは、黒澤監督の周囲への思いだったのではないだろうか。
監督を支え、映画館で応援してくれた人々へのメッセージなのでは
ないだろうかと思える。

その意味を想像すると、黒澤監督は、遺作として傑作を残して行った
ことになる。


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断片的なこと

どこかで見たこと読んだこと

人は、愛は永遠が良いというけれど

散漫で断片的な愛も、人生。


道は影で切れてるが、向こうへ行くには問題ない。

リクルート事件から読むべきこと

リクルート事件・江副浩正の真実/江副浩正
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江副浩正著「リクルート事件・江副浩正の真実」を読む。


昭和63年6月(1988年)新聞が一斉にリクルート・コスモス未公開株
譲渡の記事が賑わった。
いわゆる政治献金事件:リクルート事件の被告当事者が、執行猶予も
含めた刑の処分が終わって、本事件の検察の取調べ、マスコミの報道に
関する回顧録である。

裁判の長期化や裁判員制度など裁判システムの見直しや、検察調書の
在り方などを被告当事者としての見直しを提言している。

売上高1兆円となったリクルート社の社長から会長職へ変わり江副氏が
対外的な活動を中心にした直後の報道であった。
それから、政治家への献金ルートが報道され、会長職も辞したが、
報道は止まず、財界(NTTなど)、政界再編を促す、大事件として
拡大して行った。

そして、江副氏の検察の捜査は、翌年の平成元年5月まで続き、初公判は
同年12月に始まり、平成15年(2003年)3月18日江副氏に懲役3年・執行
猶予5年の有罪判決が確定した。平成20年(2008年)3月18日に執行猶予
が解けた。

報道が始まって丁度20年である。これは、事件の規模の大きさもあるが
検察の捜査手法、思想にも問題を残した事件となった。

この期間に同期するように、日本は、バブルが崩壊し経済が停滞した。
世相的にも、阪神大震災、オウム事件など日本の安全神話も崩壊した。

世界は、社会主義の内部崩壊から冷戦構造が崩壊し、アメリカ資本主義
も、唯一の軍事経済の超大国となったが、911テロや金融システムの内部
矛盾を露呈し、世界経済の状態を不安定にさせている。


特に経済では、アジアの新興国の発展は目覚しいものがあり、中国、韓国
の東アジアの発展は、世界経済の中心となっている。

この経済の発展の手法は、製造業の日本の品質管理を取り入れ、また
アメリカの経済のグローバル化を先進的に取り込む経営手法を踏破した
結果でもある。
その間、日本も産業のIT化を促進して、新しい企業が生まれ成長したが
しかし、リクルート社の活動停滞は、成長という意味では、大きな損失
であったと言える。

正に、NTTとリクルート、日経とリクルートの関係強化で生まれる筈の
ビジネスがこの事件により、10年は停滞した。
世界のビジネス潮流から取り残された大きな新ビジネスのマインドは、
リクルート周辺に萌芽していたのは事実である。
この本を読んで、この事実は再認識しておく必要がある。

私は、平成7年に会社を辞め、個人企業の道を踏み出した。
この頃は、バブルは崩壊しつつあったが、IT化に一縷の光明を感じる
時期であった。しかし、ビジネスのインキュベーションの規模は、明らかに
社会的に不信感があり、若くて目新しい表現力が持て囃されるばかりで、
社会構造の変化を恐れぬリードオピニオンを構造的にもつ新ビジネスには
大変無理解な時代が続いている。

結果、日本の企業の国際競争力は、時代遅れの印象が強く、グローバル化
という新経済思想を生む気力すら失いかけている。

リクルートは、江副氏が東大在学中に就職情報と広告をリンクする
新しいビジネスモデルから成立し、事業展開は、江副氏の個人判断に
依存する大変、わかり易い会社であった。

その江副氏の政界、財界への人的なパイプは、未公開株の譲渡という
経済的なオプションの紐付けはあったが、共通可能性を前提とした
新しい事業を起こす人間関係も短時間に形成していたのも事実であった
ことを、今の企業人は思いを巡らせる必要がある。

ある国家の国家的なプロジェクトを、日本政府と協調して受注するのは
今や普通のこと、または、少しアジア諸国からは、政府との協調が弱い
という印象すらある。
なぜ、企業担当者と政府の担当官が、気軽に協調できないのかは、マス
コミへのリクルート報道を見てきたからである。
国力とは、企業人と政治家、行政官の連携なしには生まれない。

町の自治会でも役員が、ある企業と仲良く仕事をすると、
必ず批判する人が出てくる。
曰く、癒着ではないか、儲けていないか、所詮、生活者とはこの程度
の善悪を問うのが日常です。
市民のこの無知を知って、下世話な心理をマスコミが煽ると、リクルート
位の会社を停滞させることは、簡単なことです。その恐ろしい情報操作に
江副氏は、大変な恐怖を感じたのが、この本にも出ています。

視聴率に迎合するマスコミと検察が方向を同じにして報道をするのは、
大変危険なことなのです。

経済界は、江副さんを越えるベンチャーマインドが育っていない事実を
この本から正に学ぶ必要がある。
弁護士や秘書の支援があったにせよ、安易な献金が政治腐敗を生むにせよ
検察官と江副氏は一人で戦ったこの事実を、見逃してはいけない。

ベンチャーマインドの育成とは、一人になっても戦うことも厭わない人を
育てることだと江副氏の行動は教えてくれる。
企業人を育てる時、自己責任を理由に突き放すこととは、その教育係りに
企業内ベンチャーや新事業を起こすマインドや経験がないことを証明して
いる。不適任者である。
成功者の企業本を、いくら読んでも、今、この時、この企業に求められる
マインドは、どこにも出ていない。失敗した者の本音の中にだけ読める。

映画「ニューオリンズ」1947年アメリカ

ニューオリンズ [DVD] FRT-232/ルイ・アームストロング/アルトゥーロ・デ・コルドヴァ/ドロシー・パトリック/ビリー・ホリデイ/...
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映画「ニューオリンズ」をDVDで500円でレコード屋さんで購入 
1947年アメリカ映画(白黒)

監督: アーサー・ルービン
製作: ジュールス・レヴィ
脚本: エリオット・ポール
ディック・アーヴィング・ハイランド
ハーバート・J・バイバーマン
撮影: ルシアン・アンドリオ
音楽: ナサニエル・フィンストン
出演:
ルイ・アームストロング
アルトゥーロ・デ・コルドヴァ
ドロシー・パトリック
ビリー・ホリデイ
ウディ・ハーマン
アイリーン・リッチ
ジョン・アレクサンダー
リチャード・ヘイグマン
マージョリー・ロード
ジャック・ランバート
バート・コンウェイ
サミー・デイヴィス・Jr
シェリー・ウィンタース
エセル・ウォーターズ

古いJAZZも好きな方には、お勧めの音楽映画。
サッチモやビリー・ホリディのファンには、歌う姿見えるだけでも
優れたDVDです。
各演奏も十分時間を取り、1940年代を活躍したプレーヤーが
楽しめるだけでも、ありがたい500円で購入できるです。

舞台は、1917年のニューオリンズから始まり、地元の歓楽街で
カジノを経営する主人公と、ニューオリンズに越してきた良家
の令嬢で、オペラ歌手の女性との恋の物語がメインテーマ。
制作は、1947年であり、白人・黒人の社会的な位置づけは
現在とは比較にならない程、断絶している。

白人の恋物語に、サブテーマとしてのクラッシク界からみた
JAZZというジャンルが社会的な認知される時間経緯を物語の伏線に
している。またその社会認知は、本質的には、アメリカの白人が、
どのように黒人の音楽JAZZを、アメリカの音楽して受け入れて来たのかの
歴史ともなっている。

この映画でも、黒人JAZZを認め来たのは、ダークサイドで経済的に
活躍した少数の白人が居て、クラッシクに飽き足らぬ思いの音楽的な変化
を求める変わり者の白人に少しずつ認知されて行ったこととして表現している。

コンサートホールで、JAZZを演奏してハッピーエンドなのですが
その場に、黒人は出ず、白人のウディ・ハーマン楽団がオーケストラと
ヒロインが共演し終わる。
今の日本人から見えれば、サッチモ、ビリー・ホリディは、どこへ行った!
と突っ込みたくなる。

これゆえ、1947年当時の社会的な黒人の現実の白人社会での位置づけが良く
理解できる。今から60年程度前のことである。

音楽史JAZZの変遷も良く解るのももう一つの側面です。


ニューオリンズの演奏スタイルが、シカゴのダンスホールで洗練され
アメリカ中に広がり、白人のみの構成楽団(ウディ・ハーマンなど)が
出来て、講演も専門のプロダクション会社も出来、ビルボード誌でも
トップを占める音楽シーンになって成長して行く。

ニューオリンズからショービジネスとしてニューヨークへ舞台が変わって行く。

この映画で、アメリカの白人の考え方が見えてくる。
ビジネス的に結果を出した者だけが、成功者と呼ばれ、社会の地位を与える。
その上から目線は、今も変わっていないと思われるのです。


ビジネス的な努力や成功もしないで、自己主張だけを行う人々は、社会的な
底辺へ、下層へと押し込んで行くのがアメリカ的社会正義なのだと感じる。

普天間基地など米軍の基地が沖縄に偏重している問題を日本から考える場合
太平洋戦争で戦い圧倒的な武器で日本を制圧した国が、日本を信用すること
はないことから始めるべきだ。
戦争を常に続ける世界で最も武器が豊富な国のアメリカ軍の部隊が、地元の
要望で、基地を移動することは絶対にない。


軍事基地を移動するのは、戦略上での基地存続の意味がない場合か、
地元の反戦運動、反米運動が高まりによる兵士の士気低下、テロ攻撃への
対策コストの増加など維持に不利な条件が出る場合だけである。

沖縄の日本への返還時に密約があった通り、沖縄の全体をみた基地には、
核兵攻撃を遂行できる機能があることは当然であろう。
また諸外国に、沖縄には核兵器が無いと表明する日本は重要な意味がある。
武器のカモフラージュである。沖縄の普天間がいとも簡単に移動できるので
あれば、普天間には、核兵器がないことを証明することになる。

どこにあるのか解らないことが、軍事抑止力では重要である。

その中で、日本人は沖縄の基地機能で、何を選ぼうとしているのか、
沖縄から米軍の基地を無くすのであれば、先ず日本の自衛隊が核兵器を保有する
ことを考えなければならない。
それを考えないのであれば、現在の米軍が、戦略上グアムの基地に撤退するのを
待つしかない。
それが嫌であれば、太平洋戦争を思い返し復讐する気持ちが民族的な合意になら
ねば、米軍を撤退の声を国内で合意することすら出来ない。

太平洋戦争中のヤルタ会談で、日本は、アメリカ軍の傘下になることが軍事的に
決まったことです。
世界に独自国家を冠する民族であれば、民族的な統一性が必要だが、
現在の日本人は自己の利害以外に興味を持つものが、ほとんど何も無いのが、
現状である。(アメリカの思うつぼともいえる)
マスコミ、インターネットを見ている限り、米軍の単純な発想と正面から
向き合う政治家、人物は、今の日本には居ない。
映画「ニューオリンズ」のサッチモやビリー・ホリディの様に、
最後のシーンには呼ばれないキャストだけだ。
黒人達は、この映画の20年後に黒人の公民権運動が白人と対決し、議論し、
社会的な平等の権利を手に入れた。

それに比較して、今の日本人は、現状の敵を分析する能力と分析に著しく欠けて
いる。太平洋戦争の軍部となにも議論する冷静さから逃避する考え方が、全く変
わっていない。300万人の戦没者、沖縄戦での民間人の死者を本当に哀悼している
のであろうか?(逆に戦争被害者意識で平和ぼけしているのではないか?)

アメリカ軍からすれば、何もしないのが、対日本軍事戦略の中身で済むし、
極東アジアで、核兵器を守る部隊と即応する部隊を、維持するのは、アメリカを
守る上では、当然の処置である。中国、ロシア、北朝鮮もそう米軍が考えている
こと前提に日本周辺を警戒、監視している。

病院は建てたけれど(NHK教育 ETV特集)

NHK教育2010年5月23日放送 
ETV特集 「病院は建てたけれど」


2005年の研修医制度改革にともなう医師不足に悩む地域で
公立新病院を建てたけれど、医師不足で病院の経営が赤字で
地域財政に大きな負担となっているケースが紹介されていた。

基本的に病院院長と地方自体の病院計画策定部門との考え方が
噛みあっていないことに、全ての問題があるのがよく解る。

問題が発生した自治体は、自分自身で問題解決策を策定できない
ので、どうしても外部の医療再建の経験者を呼んで、対策を
講じることになる。


この問題で一番の問題は、新病院を計画する時点で、病院経営を
する責任者が居ないことです。

首長や議会の影響で、希望的な観測の自治体の病院建設案は
作られるからである。

市民へ医療施設の最新設備化は、大変喜ばれる可能性の高い
簡単なお題目となるからである。

安易なお題目は、安易な計画書と欲望的な裏付けを育む。
曰く、「救急時の体制整備」、「地域経済の振興」、「地域
就職現場の拡充」「地域医療連携の強化」などなど。


しかし、これらに共通する欠陥要素が2つある。
1.各標語の収入の数値化と支出の数値が出ていないこと
2.目標の責任者が明示されていないこと

企業活動をしている者には、非常に当たり前のことが成されて
いない。病院経営へのプロフェッショナルが伺えない。


病院経営の番組を見て思うのは、問題提示をする際の報道の甘さが
最近気になり出して来た。

地元の医者は頑張っている。自治体は無責任だ。
医療は制度崩壊している。民間の病院再建のノウハウを導入せよ。
報道機関は、これからも正義の側で報道する。
どうも、これらの観点以外から番組を構成できないようだ。


自治体と医者に、効果的な病院経営を要請しない市民を問題に
するべきではないかと思う。
医者を叩く為、陰口ばかりを言う市民。
自分への利益還元を期待する市民。
これらの存在なしに、無責任な病院建設計画など出る訳がない。
これらの市民の欲望も含め、乗り越えるプロフェッショナル性が
新病院計画立案には内包されていなければならい。
だから、高い哲学と理念なしに、新病院は作れないものです。


なぜなら、欲望に汚れた心の持ち主でも病気で意識を失えば、
普通の人間として適切に扱うのが医療だからです。


自分の命を、夢物語の経営組織に任せるのであろうか?
体の調子が悪いとき、インターネットで調べ、薬や医者を探さない
のであろうか?
インターネットで調べた情報で、医者を探して行く時、どのような
病院か調べないのであろうか?


自らの住まう地域の中核病院が、公共病院であった時、その病院が
建てられる時、住まう地域住民は、その建物の建築費や運営費の
配分をのみ高望みするだけで、病院の経営のプロフェッショナル、
責任者を特定しないのでしょうか?


地域に医療施設で、計画が杜撰なのは、市民としてのプロ意識が
杜撰なのです。市民がアマチュアであれば、その市民の中から
出て来た自治体職員や首長、議員もアマチュアの域を超えることが
ないのは容易に想像できるのです。
どんな業界に関しても市民はプロになって行くしかないのです。

特に、自分自身の体のプロは、あなた自身です。
自治体職員は、他の自治体と比較され恥を掻くのを一番恐れる人達です。

アマチュアの定義は簡単です。見通しが「甘い」だからアマという。
パラフレーズに耐えるものがプロの仕事です。