どこかで見たこと読んだこと -25ページ目

湧き立つ雲


どこかで見たこと読んだこと

夏が来た、白い雲

海の向こうに、湧き起る

いくつも、いくつも、立ち起こる


自分自身の背後は、解らぬが

海の向こうに湧き起る。

白い夏が来た。


(CRANE)



どこかで見たこと読んだこと


男には胎盤がな~い。


どこかで見たこと読んだこと

NHKスペシャル「恐竜絶滅 ほ乳類の戦い」
2夜連続の1億2千年前に始まるほ乳類の歴史と進化を
壮大な科学的発掘資料からCGを駆使してドラマとして
構成した面白い科学ドキュメントでした。

特に、化石で発掘された恐竜の栄枯盛衰を丹念に
分析して行く。

ユカタン半島への隕石衝突による地球環境の激変。
大陸の移動による生存圏の多寡による進化の方向。

特に、今日の後編は、恐竜絶滅からほ乳類全盛期を
迎えた理由。
ほ乳類が全盛となって種の争いが始まり、有袋類と
胎盤類というほ乳類の進化の変遷。
ほ乳類で同等の種で争うと、脳の大きな種が生き残って
来たほ乳類の進化。
肉体的に優れた機能がない人間が、アフリカの草原へ
進出し、2足歩行を開始し、脳の容量を増やして、
生き延びてきた人間。

その進化の結果が現在の人間に繋がっている。

以上、壮大な進化の歴史から人間は、何かを学ぶ。

アフリカの草原に降りった猿人は、多くは捕食者の
餌食となったが、それを乗り越え、あらゆる食べ物を
得るために脳を拡大させた。


また前篇では、恐竜にはない胎盤での子育が、ほ乳類を
絶滅から救い、強大な恐竜の威力から隠れる為、乏しい
食材で生きて行ける進化を維持させたことが大きな幸運
という。
母と子供を繋ぐ胎盤の仕組みは、異生物の子供を
胎内に紐帯する高度なインターフェースであった。

また、強大な捕食者が居たことで、大きな進化、特性化
せせず、長く変化しなかった進化が、一気に多様性を
生むほ乳類の進化に良い時期を得ていたのが幸運だったという。


繁栄したほ乳類でも進化としては最後まで特性を出せない
猿人、人類は、止む無く草原へ出て、動物の死体や、貝や
魚、木の実、植物を採集することになる。
その中で、進化させたものが、脳の大きさであった。
人類は、脳の機能を社会的採集活動と社会的な捕食者への
警備、対応へと進化させた来たと想像させる番組であった。

同じ、ほ乳類も有袋類と胎盤類に大きく分かれ、狭い大陸
南半球と広い大陸の北半球に分かれた。この2種では、
広く危険も多い北半球の胎盤類のほ乳類が、強かった。
その違いは、有袋類と胎盤類の子孫の脳が大きくできるかという
進化の差が、生き残る結果となった。

脳は、人間と人間との高度な情報を伝えるインターフェース
であり、採集と防御を記憶により、情報戦争を捕食者へ
挑んできた歴史であったと思える。

そのインターフェース能力、情報戦で頂点に達したと
ある種の人間が、思い込、栄華を欲しいままにすれば、
過去の強力な捕食者達の運命も示唆し、かつ想像力を
刺激するCGを上手く使った面白い番組でした


どこかで見たこと読んだこと

映画「必死剣鳥刺し」


どこかで見たこと読んだこと

藤沢周平氏の作品は、映像化が難しいと言われ久しい。
それは、作者自身が、大変映画が好きで自身の作品が
映像化を企画した創作ではないと知っていたからだ。

殺陣、秘剣は、小説の表現形式と、人の心、それも
愛憎深き機微を表出させている。
読者は、その創作に心を揺さぶられる。

映像は、また違うイマジネーションを与える。
俯瞰とフォーカスによる再発見である。
そのような場面見たことがない。聞いたことがない。

正義と、大義名分は近しい。
ある権力の元での正義には、その額面通りの文言だけ
では通用しない。その合意形成は、民にも及ぶ。

正義に反旗を示すことは、民の合意とも離れることを
意味する。
ある者にとって、義憤による反旗は、孤独の罠に嵌る。
罠に嵌りやすい性格なのだろう。

読者は、民の合意にも反する心情に、心を揺さぶられる。
その愚直といえる、愚かしさに、正義が見向きもしない
ことへのある種の憤りと悲しみに、感情を移入する。
現実では、そう愚直には生きられないのだと、自分に
生き聞かせる。

その小説の映像化は、大変難しい。
愚直さに対する憤りと、反骨への憧憬を、如何に処すべきか。


この難しい課題に、映画「必死剣鳥刺し」も挑戦した。
海坂藩を舞台にし、その四季で藩の空気感、愚直と反骨への
空気感を庄内の風景から得ようと試みている。

吹浦からの鳥海山、金峰、母狩山、月山などの四季。
この庄内に暮らしてみて思うのは、山野、森、田園と実は
空と風の変化も大きく感性に影響すると感じる。

特に、冬の吹雪の切れ間の青空、夏の雄大な夕日は

庄内の空の特徴。


さて、今回の映画「必死剣鳥刺し」。制作の工夫が
各所に伺えた。
シンプルなキャスト、三左エ門、里尾、帯屋隼人正という
配置と藩主、連子、老中津田という対象。
それを解りやすくする脇役の面々。

藩政に悪影響を与えていると思われた連子、殺害という
テロを行った三左エ門は、テロリストとして処遇された。
正義が、テロリズムにあるとも思えない。

連子の存在は、藩政の中枢にとって、失政の言い訳で
あり、絶妙なバランスを取っていた。
その政争の道具を外した三左エ門は、ある意味、愚か者である。
テロの結果は、誰の得にもなっていない。という構図は、淡々と
描かれていた。

藩主と連子の恋と、三左エ門と里尾の恋において、質的な差の
無いことも良く表している。

粋の芸能、能から始まる物語は、壮絶な殺陣と秘剣で終わる。
冒頭の静謐から、閉門蟄居の閉塞感、そして壮絶な殺陣へと
向かうドラマは、閉塞感のシーンが長すぎると思える。

小説では、殺陣と秘剣は、一気に書き上げ、愚直な剣士の
哀愁を誘う。

映画では、殺陣のシーンの長さが、逆転して閉塞感のシーンを
冗長性へ印象を流してしまう。
両方のシーンを生かすには、殺陣のシーンは、一気に進むべき
ではとの印象が残った。

里尾が三左エ門の元を去る時の涙のシーンが、閉塞感の強い
印象のシーンです。
そのシーンに対応する終盤の殺陣のシーンが映像には必要です。


このシーンのバランス、と残響、残像などが、藤沢周平氏の言う
映像化の困難さを如実に表している。
作者が映像化が難しいという作品ほど新規の創造が大きな意味を
残すと考えられる。

それは、海坂藩という架空の庄内平野を想定した作品においては
なおさら、現地の植生、風景、四季をよく読みこなす必要がある。
作家は、東京の書斎で制作しているのである。
その創造がどこから起きたかの要素を読み込まないと映像化は
更に難しい。

なお、藤沢周平氏は、ドクトルジバコやローマの休日など
音楽も良い映画らしい映画がお好みだったようです。

梅雨明け2010


どこかで見たこと読んだこと

7月17日土曜日九州から関東まで梅雨明け
神戸も朝から夏空が広がり、梅雨明けを実感。
南からの夏の空気が入ってきた。
昨日までの雨が、川の水量をまだ増している。
一昨年、ゲリラ豪雨で惨事が起きた都賀川も
六甲山から流れ出る透明な水が勢い良く流れ、
清々しい梅雨明けでした。

気温は34度程あったが、川沿いの日陰は、
水音と綺麗な空に、納涼気分が増す。

夏空に入道雲が立ち上り、空気の入れ替わりを
教えてくれる。

都賀川を渡る東海道線、梅雨明けのまだ盛り
上がりきれぬ入道雲の白さに、その気分もまた
変わる。空気が変わる。



どこかで見たこと読んだこと

予言の楽しみ方


どこかで見たこと読んだこと

タコの予言で、ワールドカップは盛り上がっている。
ドイツの水族館のパウル君は、一躍有名人もといタコです。
勝負は、時の運と言えますが、自分の国が敗退した人も一緒に
世界中で楽しめるのは、これもワールドカップなのでしょう。
これまで、ドイツの敗戦と、3位まで当てて、残すは、決勝戦のみ。
スペイン対オランダでは、スペインを選択している。

しかし、予言と希望的な感想との違いは、判然としない。
感想を後の時代に、予言であったという言い回しをする。
その場合の予言は、明らかに感想である。
文言の発案者が、周囲に予言と宣言し、周囲もその言説が未然に
確認できる場合、将来、予言として評価される。

ということは、予言は、未来に対して恣意的な解釈に訂正を
求めたりはできない。
既に、発案者の意図とは、違っていても、予言が当たったと
言われると、もう、どうしようもない。予言者として崇められる。

大体、生きている内は、ひどい評価されていない場合が、殆ど。
生き神様にされても、また困る。

餌を食べているだけのタコなら良いが、文言として更なる発案
としての予言を求められのも、将来の恣意性を考えただけで
背筋が凍る。

現在を過去の経験から詳細に分析した結果の成果が、未来を予言的に
なるのは、現在から過去を評価した長さと精度の結果である。

未来への文言は、過去からしか生まれない。
未来は、過去の投影とも言える。
宗教は、死後の世界という未来を扱っているから、予言は必須となる。

鬼籍に入った人物の言説を今、分析すると、当然、予言は当たる
ものが散見されることになる。

日本という国は、昔、辺境であったし、今も辺境であるというのが
内田樹氏の分析であるが、きっと将来は、予言と言われるだろう。

この意味で、今、生きながら発案した内容を出力した結果を予言と
言われたらパウル君を思い起こす必要がある。
予言は、今を楽しむ為にあることに、本義がある。

ギャンブルに人は、楽しみを見出すのは、今という刹那を楽しむ
手段なのだろう。私は、ギャンブルに熱中しない。宝くじ程度。


私は、自分に勝ちを掛けては、いつも負けるギャンブラー。
それは、予言ではなく、一般的な現実なのである。
自分に勝ちを掛けて、勝つことは、まずは無いことを知っているから、
人々の会話で、予言が成り立つ。