どこかで見たこと読んだこと -24ページ目

北山修 最後の授業<4>

テレビのための精神分析入門<全4回>の第4回目の放送。

最後の授業 最終日 後半

カウンセリングとはどう言うことか、の講義。

昨日のセルフモニタの続きから「編集される自己」
芸能人としてはスーパースターのマイケルジャクソンの素顔は
どこへ行ったのか。
死後、リハーサルを撮って自分のパフォーマンスをモニタで
把握しようとるマイケルとは、どういうことか?
自分で自分の表を操作することになる。
つまり、自分を修正することができる。
醜さを含んだ素顔が、どこに行ってしまうことになる。

これからのカウンセラーは、引き裂かれた自己を取り扱う時代と
なって行く。
現代のモニタは、うぬぼれ鏡となっている。
醜い映像は削除(編集)できるから、存在しない。

しかし、機械的なモニタでは、自分の心は映し出せない。
そのような鏡は出てこない。
その心の裏を表現、指摘する領域の仕事がカウンセリング。

カウンセリングは、人の心のリフレクションを行う。
映画などの撮影では、リフレクターという反射板で、被写体を
強調する、それと同じことを、相談者の心に行うのがカウンセリング。

セルフリフレクションの手助け=省察を行う手助けを行う。

セラピストの心構え
・2者間言語が話せること
(社会では3者間言語が要求される。学会論文など)
・包容力があること
(他人の悩みに影響を受けない心の余裕があること)
・セラピストが係る2者間交流ができること
(ここだけの話を守る番人)
・スーパーヴィジョン、訓練分析を重ねること
(実際にカウンセリングを受けて修行する)
・他者からの心の光を照り返す(リフレクション)のが仕事

セラピストの原型、鏡としての母親機能
・照り返す鏡
・母親の眼差しは、心理を反映する
(生きているだけで嬉しい、など)

母親が子供を抱いて、鯉を指さし、子供を見つめて鯉を教えている
浮世絵。「共にながめる」

母子間交流を2者間交流の言語交流として図式解説。

「鯉」「母」「子供」を結び3角形を描く。
鯉と母の間は(名付け)
母は、情緒的交流
子供は、身体的交流

子供は、「鯉」を3角形の内側で共視として認識している。
母親が鏡として発した「鯉」の光を感じている。2者間交流。


*3月21日九州大学で行われたサヨナラコンサートの様子へ

・愛しの伊都の国
・あの素晴らしい愛をもう一度

授業に戻り「ラストメッセージ」
「母の言葉は、居なくなるから受け入れられる」
教員は辞めるのも仕事

<終わり>


リフレクションを使いこなすメディアとしての「北山修」が
復活するのを印象付ける番組となった。
多くの人々の心の裏に光を当てて来た臨床で、得た体験が
表のメディア「北山修」を更に、表に出す。(音楽、TV、書籍)
編集された表に、更に強い光を当てて出来た影が、
何を表出するのか、恐ろしいものなか、荘厳なのか、
好奇心だけは湧いてくる。
(私も、マスコミに毒された人間なのだ。)

非メディアの領域しか知らない普通の人間には、
とても耐えられないと個人的には恐怖感が先立つ。



北山修 最後の授業<3>

テレビのための精神分析入門<全4回>の第3回目の放送。

昨夜からの重松清氏との対談の続き。

北山:
1960年代のフォークは、身近な人を楽しませる為に、曲を作った。
1970年以降のニューミュージックと呼ばれた人たちは、不特定
多数の人々の為、ビジネスとして曲を演奏していた。
重松:
小説家も目の前の編集者を意識する。
北山:
精神科医がカウンセリングの時、ここだけの話にならないと
言葉はうそになる。
重松:
自分に役割がないと話ができない。
与えられた役割を演じている。
北山:
駅と駅の間で、偶然隣り合った人との偶然の会話だけが
本当の自分。同じ方向に向かった顔を合わせない会話。
旅の途中で本当の自分が出る。
重松:
沈黙があるから、本当の自分がだせるとも言える。
北山:
その通り、カウンセリングでは、患者はカウチに横になり
顔を合わせることはない、それは好きなだけ沈黙させる為
でもある。
対面法、正面から顔を合わせている時は、本当のことは
語っていない。


最後の授業 最終日 前半

今回の撮影のスタッフが最終日なので、教室に入る前から
撮影したいと言って来たが、断った。
分析医は、楽屋を見せない。
TVは、そう言うところを見せたがるのも解る。

分析医は自分を俎上に上げない。患者にとって私は白い紙でありたい。

セルフモニタリング
第3者の視線を意識する。
日本人が言う「みんな」という視線。
「みんなに見らている」「みんなに言われたくない」など

対人緊張:根源的な不安
・なぜなら人間は自分が見えないから
・自分を正確に映し出す鏡が欲しい。
(正確に)というのは、(ちょっとましに)という意味。

現代人は、見え方をモニターする機会が増えた。
TVに出ることでも体験できる。

現代人は、カメラ・ビデオで容易に「出演」を実現した。
日本人は、第3者から見られる自分をモニターで意識するようになった。
そこから、容易に自分を変えらるという思いが強まる。


明日へ続く

北山修 最後の授業<2>

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テレビのための精神分析入門<全4回>の第2回目の放送があった。

第一日目の講義終盤。


フォークル時代の作詞家として一躍、マスコミに取り上げられた時、
マスコミには自分の心とは違うことで、番組が作られていた。

作詞家として人の心を扱うことに長けていると思っていたが、
マスコミでは、作詞の心を通り越して、他のものに置き換えられ
失望を味わう。

この心の問題から、臨床精神分析を学ぶことになる。

マスコミュニケーションとパーソナルコミュニケーションで、
心の裏側を扱うのは、パーソナルコミュニケーションであり、
臨床精神分析である。

というところで、1日目授業終了。


この後は、小説家 重松清氏との対談。

重松氏からの質問:作詞はメロディの後か先か?

冗談、言い間違い、替え歌からでもクリエイションは始まる。
メロディがないと作詞はできない。

更に重松氏が踏み込み、メロディは、制約か、可能性か?

ルール、定型は、心の受け皿を提供する。
しかし、今、ここの私の心の裏は、TVには表現されない。
薄ペラい液晶や、簡単な録画の再生で、本当の心は表現されない。


明日に続く


1970年以降のマスメディアが、変わって来たことと、変わらない本質を

述べていると思える番組です。


北山修 最後の授業<1>

最後の授業――心をみる人たちへ/北山 修
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北山修 最後の授業(1)



テレビのための精神分析入門<全4回>の第1回目の放送があった。

講義の趣旨が、TV出演を拒んできた経歴を精神分析から俯瞰した
面白い内容でした。

思わず、マイケル・サンデルの公開講座と比較しそうになるが
ハーバードと九州大学の設備の違いとなりそうなので、諦める。

精神分析の対象の精神の表裏構造を日本人の特徴を解りやすく
解説し、TVは、心の「裏」の部分が出ないと鋭く問題定義する。

講義のTV公開は、その撮影現場の空気とオンエアー時の印象を
比較するように学生に提案する。それ自体が実験的な体験となる。


第1回は、人間の心の創造性を星座への物語を引用する。
そのクリエイティブは、心から投影された物語として表現される。
心には裏と表の2重構造であるから、表現された言葉は、全てを
表現することは難しいので、言葉として表現する。

精神分析からみると「言葉は、人生を物語にする」と解説していた。
この物語は、精神分析から解釈すれば、物語の書き直しも出来る。

一方、この裏と表もある心をTVは、クリエイティブに引き出す
場合、他者の視線として、マイナスの影響に働くという指摘である。

心の裏と裏を言葉にすることで、見えないものに名前が付く、
カタルシスが得られる、意識化が始まる、筋が通る。
しかし、同時に、言葉にすると、内容が変容させ、心を変質させる
ことにもなる。

精神分析においては、裏と表のある心を言語化することでもある。
特に日本人は、誰かが見ていると思うと、本音がでない。
TVでは本音がでない。
日本人では、分析医が、来訪者の信頼感を与えると本音が出て
来る。来訪者の心の裏を言語化し、分析する。

第1回目は、こんな感じで、講義が進みました。
学生達も意外にリラックスしているので、北山先生も楽しそうです。
が、TV放送用に編集されているのが、怖い番組です。
夏の夜の放送向きです。

7月26日から4夜連続 教育TV22:25から22:50で放送です。

マイケル・サンデル

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学/マイケル・サンデル
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マイケル・サンデル教授の【これからの「正義」の話をしよう】が
本屋さんでベストセラーの棚にあったので、購入。
2010年4月4日日曜18:00から19:00「ハーバード大学白熱教室」で
放送されたハーバード大学での公開講義内容を、出版したものだ。
2~3回番組を見たが、教授のユーモアのセンスも相まって、
番組としても大変、興味深った。
最終日は、スタンディングオベーションとなっていた。

私は、政治哲学という分野には、余り知識は無かったので
良い機会なので読んでみた。

ベースは、哲学であったし、また、大学の講義がベースなので
教科書としても読めるので、安心した。

哲学的には功利主義のベンサムをスタートとして、政治へ影響が
あった哲学を身近な事例で例示しながら、正義を評価する際の
問題点を抽出するという手法で、各回の講義テーマを切り出して
いるので、一般読者も体系的に理解しやすい。

ベンサム(功利主義)、ルソー、ロック(社会契約論)、ミル(自由論)、
カント(定言命法)、ジョン・ロールズ(正義論格差原理)、
アリストテレス(正義論、政治論)、マッキンタイア(共同体主義)

正義論を、討議の土俵に乗せることを目的にした授業としては
とても知的な内容であった。

行政府としての正義は、議論、討議が経た結果であれば、物語を解釈する、
またはすべき、市民は、その討議の論点に、哲学が必要とこの書籍は
結論付けている。

サンデルは、その政治哲学を体系的に学習することを講義で進めている
という構造なので、面白い。

正義を語る市民としての認識を、
「私の人生の物語は他人の物語とかかわりがあるという認識」に求め、

共同体主義としての道徳的熟考は
「みずからの意思を実現することではなく、みずからの人生の物語を
解釈すること」で成立するという。

サンデルの結論として、正義を求め道徳への考察は、
「孤独な作業ではなく、社会全体で取り組むべき試みなのである。
それには対話者ー友人、隣人、同僚、同郷の市民などーが必要になる。」
つまり、正義を考える講義は、対話形式で行われるべきという。
それを実践しているサンデルの人格と哲学が、一般人からみると清々しい。
閉塞感のある日本の社会でも、清々しい人格と哲学が求めれている予感がする。

サンデルは、この本を、妻のキクさんに奉げている。
一般人は、ハーバード大学の学生と、キクさんに多少の嫉妬を覚えながら
読まなければならい。

(キクと呼び捨てにできない日本人の小心者の表現を許してください。)