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ナチ・チャコパック

野沢那智さん10月30日午後3時36分、肺がんのため、
都内の病院で死去とのニュースが流れた。


享年72歳、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

野沢さんは劇団薔薇座の座長として多彩な人材を育てる。
表のメディアでの役柄とは違い鬼のような演技指導で
劇団員からは、「ナチ収容所」と呼ばれていたこともあるとか。


しかし、私には、TBSラジオの白石冬美さんとの深夜番組での
パックインミュージックのパーソナリティの語りが、野沢那智さん
です。1967年から1982年まで15年に及ぶ深夜番組。


鶴岡市の田舎で中学、高校時代と金曜パックインミュージックが
重なる。東京で一人暮らしが始まると深夜番組からは離れて行った。

田舎で情報に飢えていた青春時代には、深夜番組は、音楽や都会の
事情を想像させる情報に満ちていた。
演劇やメディアに関する身近な情報は、TVよりもよりラジオの深夜
番組にシンパシーを感じていた。

特に、ナチ・チャコパックには、同世代による投稿で構成される
リアリティに心が引かれた。


最盛期には、毎週千通近い投稿があり、読めるは、せいぜい10通程度。
その為、「もう一つの別の広場」という投稿集まで発行された。
今、私の手元には、10年目のもう一つの別の広場がある。

実家には、「もう一つの別の広場」の最初の号が残っているはずだ。
当時の深夜放送にコミットした若い世代のユーモアとペーソスの心情が
ここぞとばかりに、集まっていた。


現在、インターネットが盛隆となり、ラジオやTVからの若者が
離れているようだ。

私も、同様に、このブログに記事をだらだらと掲載している。
その掲載情動の基底は、深夜放送の読者投稿にあると思う。

多くの投稿では、没になる方が殆どであろう、稀に、常連的な読者も
現れるが、1か月間毎週続くとは、無かった。インターバルがあった。
1年とか、数年という単位である。

それより多くの没となった投稿の蓄積の上に、番組の質が維持されて
いることに、直観的な信頼があった。どちらが先か解らないが、
面白そうなパーソナリティには、多様で面白い投稿が増える。

パーソナリティの不完全さに、ファンが付く。

講釈が欲しい訳ではなかった。
自分の才能を読んで欲しかった。
存在することを知って欲しかった。
そんな狂おしい青春の自己主張に、応える番組が深夜ラジオに多かった。

今、インターネットのサイトが豊富になりすぎ、純粋に不安な存在の
自己主張を、安心して交流するには、若い人たち、自らが工夫し立ち上げる
しかない。


何か面倒な世の中になった。
不安定なパーソナリティを、未熟な誠意が、大きく育てる手立てがない。

お笑いとは、各あるべきだ。政治的な成熟とは、各あるべきだ。
世界を相手にするグローバルビジネスとは、スキルや経歴が如何にあるべきか。
など、基本的な手立てを講釈する人物ばかりが、増えて、若者は、息苦しく
情報を収集、発散させる。


若者は「とか・・・」など、直線的な物言いは、避けられ、後での解釈修正を
残し、不明瞭な保身的な言説が、尊ばれる。
イジメを全身的に受ける時代では止むを得ない悲しい世相。

であれば、潔くレトリックの神髄、和歌、短歌で、暮らせば良いのだろうが
そこまで面倒くさいことは、「疲れ」やすい精神が、絶対許さない。

「疲れ」やすい精神は、「没」になることに耐えられるのだろうか。
たぶん無理だろう、精神の疲れやすさが、後の言い訳として使う
準備でしかない。


多くの「没」が、多様な表現を「質」的に生み出す現場を深夜番組で
体感して来た世代の方が、精神的には疲れを知らない。

野沢那智さんは、ナチチャコパックでの投稿に、下記の意見を述べていた。
「人生案内的なものは避け、聴取者の投稿を、僕がその人の気持ちになって読み、
語る。聞き手と送り手の媒体に徹する」

狂おしい自己主張と未熟な精神を持った時期に、実体験としてこのような
媒体、メディアを体験できたことは、私の放送メディアと番組制作に対する
一つの大きな視点として、評価することにしている。

深夜番組のパーソナリティと共に生きたことは、実体験として、
私の人生の確かな一部となっている。

野沢那智さん、ありがとうございました。



どこかで見たこと読んだこと


最終回の様子がTVで取り上げられた。


時代劇豊作?

今年は、「時代劇 豊作」との記事が、日本経済新聞の
文化面に載っていた。(2010年10月23日朝刊)

昨年3月に他界された映画照明、映画制作現場の職人
中岡源権氏のお弟子さん達や、京都映画撮影所出身の
若いスタッフ達が、最近の時代劇の制作現場に活躍の場を
得ている。


TV制作やアクション映画から、時代劇作品を作くる監督も
出て来た。


しかし、その意味で時代劇作品は増えたが、映画評や映画好き
の友人やサイトの意見では、今年は、余り評判の良い時代劇の
噂を聞かない。

「武士の家計簿」、「最後の忠臣蔵」などが
まだ、上映を待っているので期待したい。

新聞記事によると、時代劇制作に、異分野からの参入や
新しい人材が出て来たが、まだ層が薄いという評価を下している。


ハリウッドでも、西部劇作品は、なかなか作る監督が出て来ない
のが現実である。

モデルとなる既存作品が多彩で、なかなか手法的に新鮮な映画が
作りにくいというのが本音だろう。


私は、スタッフに層が薄いということはないと思う。
実写系映画は、TVやインターネット、アニメ、CG
ゲームと映像作品として同じ土俵で、多様な競争をしている。
興業成績とシーンの新しさを、素人から見た印象や
マスコミの期待とに調整しながら、激しく競争して、層は濃い。


音楽でもクラッシクコンサートは、地方公演だと人を集めるが
大変だと聞く。クラッシクバレエともなると、地方での興業効果は
絶望的で、会場の問題もあり東京と大阪だけというのが現実。


各分野なかなか超越したスターが出てこないという事情もある。
銀幕でも同じで国民的なスターとして、世代間を超えるのが難しい。
家族共同体主義は多少、残っていても、年齢による興味の偏重は
年齢の差と割り切り、統計を取る段階で、既に断絶している。
その断絶を余り深刻に受け止めていない現実も歯がゆい。


産業構造の継承発展の困難さも同じであるが、功利が
解り易い芸能、技術でないと表層的な困難さから伝承を
不要とみなす。(伝承者の偏屈さは原因ではない)

技術と知恵の年代間の紐帯は、気分として、切れても
止むを得ないという資本主義の中で、営利優先主義
において、世代間でも利益の傾斜として捉えられれば、
人口密度で補い伝承させる社会を日本人は育てて来た。


その興業事業の映画企画は、営利競争の最先端にある。
壬生義士伝、たそがれ清兵衛、などの成功をみて後追いとしての
企画は、新しいスタッフ作品の幅を広げるが、制作側の安易さも
生じる。


制作現場に先陣としての気概はない。更に、批判者が内部に
居ない場合は、修正が利かず、作品の質的堆積がなく危ない。

監督がOKすれば、不可逆的に完了というのが、映画の掟である。


スタッフが自省し、監督以上のスーパーバイザーが居なければ
作品は監督の個人的な嗜好へ流れ、意外性は期待できない。

時代劇でなければならない強いメッセージが作品、監督に
なければ、成果として時代劇の意味はない。

「家族愛を表現する」「滅ぶなかでの義を辛くぬ意味を表現する」
などなど、メッセージを乗せる舞台背景としての演出が時代劇で
なければならない。


時代性だけでは、意味を伝える媒体にならない。
受動的な観客の感動を励起させない。


クラッシクバレエは、クラッシク音楽とバレエのメソッドが
解っていないと本当の意味での鑑賞はできない。
感覚的な受容はできても、舞台芸術の些細なメッセージの
解釈として、受け止められないのだ。

そんな面倒な事なら、観たくないという人が現代日本人の
多数となって来た。

TVによる表層的解説で、軽薄さに、甘やかされた消費者が、
その文化レベルの中央値の人々を構成している。
大都会には、バレエをレッスンしたり、その構成要素を知って
いる人が少しは居る。地方になるとその素養を持った人口は
極端に少ない。レッスン、批評する指導者がいないのだ。
地方公演が難しい理由である。


映画監督や、舞台監督、指揮者などが、気軽に公演を観に
来て下さいと、良くインタビューで答えるのを聞くが、
本当は、相当な勉強してメソッドを理解していないと楽しめない
準備を重ねている人たちである。


かつて、映画や演奏公演では、スタッフが、異常とも思える程
細部を作り混んで作品を仕上げて来ていた。
全身全霊を作品に傾けているスタッフが何人も集まり、批判し
ながら作品を練り上げていた。


それ故、作品は、いい加減な客が観ても気軽に感動できた。

今の制作現場やリハーサルの現場に、本当に、観客に気軽に
楽しんで来て下さいと言える、渾身のエネルギーを作品に
向ける人が何人いるのだろうか、少し心配になる。
スタッフの層の薄さではなく、批判精神の薄さを心配する。

なぜ評価が良くないのか、反省の必要があるのは、
監督ではなくスタッフ、キャストの問題である。

更には、面倒だからという理由で、作品を批判しない
観客達は、スタッフ、キャストを育てないことになる。
大いにサイトで批評すべきである。
ここでお気軽さを発揮するべきです。


監督は、観客の預かり知らぬ「映画バカ」のはずなので、批判
しても意味がない。他に適当な映画バカ監督を探せば良いだけ。
監督は、使い捨てで良い。よい監督は使い捨ても、また来ます。
そんな映画バカより、大切なのはスタッフとキャストなのです。
この位の覚悟は、監督の最低条件、嫌なら助監督しなさい。

制作過程で、些細な失敗や批判が後で、判明したら腹を切る
覚悟のない監督が、時代劇を作ってはダメなのです。
まずは、切腹の作法を学んでから、作品に取り組みましょう。


いい加減な物語

他者を抑圧して、勝ちを得たいと熱望する時、物語が生じる。
もしくは、抑圧する事を自らの物語で達成する。


自ら発見した義を証明しようとする時、精緻な論証は、他者には
精緻な論証故、理解を得られない。

何故なら精緻な正義は、精密な1点に集約される。
しかし、その点が、神聖、精緻であるが故、見えない者が
多く出る。その時点で、正義は、衆人には得体が知れない。

しかし、事象は進み、人は輾転する。未だ真理を知らざるが
時は、進み、義は切迫しつつ問われる。
正鵠は、得られない。

ただ、義の周辺を一度でも感化したものは、直観として
義の在処は、感じることができる。

そして、その論考は、直観を契機とし、選択し、体験し、
正義であったかを、自省して初めて実証される。
その過程で、凡人は、義に近寄る。
変わらず、精緻な正義の神髄は見えない。

精緻な正義を中点とした周波数帯として、そこが正義であると
表現しようとすれば、証明ではなく、茫洋たる付近を語るしか
ない。また、深く証明しようとすれば、物語るか、奏でるしか
表現できない。

ままよ、孤独な天才が、正義の神髄を得ても、人々が理解できる
ように表現するのは、困難である。
表現する手立ても天才的であらねば、ならない。
孤高な天才は、敢えて、正義など知らぬ方が、まだ幸せである
のかもしれない。

正義を語るとき、物語、あなたの物語で表現するしか手立てが
ない由縁である。

物語らず、衆人に自らの功を明らかにすることを望む時、
他と争うことで実現する。
ところが、その醜い争いを隠す時、神話という物語が
必要となる。これもまた、歴史が残す証である。

人は、物語でしか正義を知り得ないし、また、語り得ない。

体験と歴史が語る物語を相手に語る時が、最も、正義に
思いを馳せる時である。ただ、それだけである。

映画「愛情物語」NHK BS-hi

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映画「愛情物語」THE EDDY DUCHIN STORY

NHK BS-hi 2010.10.19 22:00-24:10で鑑賞。

ショパン生誕200年を記念し、ショパンに纏わる映画。
昨日は、「戦場のピアニスト」だった。


<キャスト>
エディ・デューチン:タイロン・パワー
マージョリー:キム・ノヴァク
チキータ:ビクトリア・ショウ
ルー:ジェームズ・ホイットモア
ピーター:レックス・トンプスン
<スタッフ>
監督: ジョージ・シドニー
製作: ジェリー・ウォルド
原案: レオ・カッチャー
脚本: サミュエル・テイラー
撮影: ハリー・ストラドリング
音楽: モリス・ストロフ
オリジナル音楽: ジョージ・ダニング
ピアノ演奏: カーメン・キャバレロ

実在のピアニスト、エディ・デューチンの人生の成功と絶望。
そして、家族の愛情。
音楽は、ジャズをベースとしたダンスミュージック。


名作は、名優の演技と音楽が、スクリーンを美しく彩る。
鑑賞後の映画のシーンが、脳裏に残響とともに残る。
父エディが不治の病と知らされた息子ピーターが、母となった
チキータは、「僕が守る」と言うセリフから、ノクターンの
ピアノ連弾となるラストシーンが印象に残る。

映画には出ていないが、実際のエディ・デューチン演奏の
ノクターンの音源も残っている。

数あるショパンのノクターン(夜想曲)の中で、『第1番(作品9-1)』、
『第2番(作品9-2)』及び『第3番作(作品9-3)』の3作品は、1831年に
ほぼ同時期に作曲されたもの。

これら3作品は、ショパンの魅力を早くから見出したピアノメーカーである
プレイエル社の社長カミーユ・プレイエルの夫人マリーに献呈されている。

『ノクターン(夜想曲)第2番 変ホ長調 作品9-2』は、この映画「愛情物語」
のカーメン・キャバレロの演奏で、更に人気を博した。

現在の高度なピアノ製品に向け、機能や性能の開発が進んだ時代でもあった。
ショパンは、そのプレイエル社の次々改良されて行くピアノに合わせて
作曲をしていた。現在のものより、残響性能は劣っていたが、新しい音色を
模索し新たな開発している時代でもあった。
演奏には、高度な技巧や感性が次々と要請された。
特にペダル操作は繊細さが必要とされた。

ショパンの曲の哀愁は、祖国ポーランドへの憧憬とショパンの美意識への
複雑で、繊細な追究過程によるものかもしれない。
幸不幸が織りなす人生模様とも思える。
言えることは音楽は、ショパンの人生そのものだったということだ。

芸術の美に魅了された者は、一つ間違うと、不幸の中にあることすら鈍感に
なる程神経をすり減らすことがある。
その救済は、他者からの無償の愛情だけである。

佐賀のがばいばあちゃんでは、「深刻なことは、夜話すな」であった。
ノクターンは、がばいばあちゃんの昼の生活には、余りにも辛すぎるのである。
日常的な苦悩の比較ではショパンの美の探求過程は、まだ余裕がある。

ピアニストは、ショパンの美の技巧の繊細さに挑戦するのである。
ショパンの求めたものが愛情と解るまで弾きつづけるのがピアニストである。
エディ・デューチンも、成功と絶望の中で、家族の愛情を知ることになる。

NHK BS-hi チベット 天空の一本道


どこかで見たこと読んだこと

NHK BShi ハイビジョン特集 2010.10.15 20:00-21:30
「チベット 天空の一本道」

中国側のヒマラヤ山脈の東の果てインドとの国境にも近い秘境。
4千メートルを超える大峡谷に少数民族の集落が点在する。

冬の間は雪に閉ざされる為に、馬一頭がやっと通れる峠越えの
険しい断崖絶壁の一本道を使い、町まで買い出しに行く大運搬の
キャラバンを組む、距離は100Kmになる高低差の激しい山道。

人や馬が転落、衰弱して死ぬことも稀ではない危険な道だ。

少数民族は、チベット族のメンバ族、ローバ族、中国語とは
異なる独自の言語を使う。


近年、学校や行政機関も出来、電気なども設備されてきた。

この危険なキャラバンは、村人の運搬業として現金収入源とも
なっている。危険な仕事だが、高価な馬を仕入、役所や工事の
食材や資材を運ぶ。

その仕事の運搬に合わせ、私財も町で買って来る。

30Kgもある洗濯機や窓のアルミサッシ枠などを、人力で担いで
運ぶ。大変な危険と苦労だ。

このチベットの村にも、自動車道の設備の話もあるが、
村人は、運搬収入が無くなるのは困ると考え、道路は不要と
考えている。
しかし、娘や妹の就職や、進学を考えると、都会との接続は
いずれ、必要になるだろうと秘境という自然が破壊されると
予測してしまう。


今、この天空の一本道の運搬業は、危険だが、村人を強く
逞しくし、近代化への自信ともなっている。

秘境の村は、天空への道で、家族の心を寄り添わせ、助け合い、
救いとなっている。

現代社会でも、必要とされているのは、助けあいでの救いだろう。

無縁社会での孤独死が問題となっているが、死が危険であるとは
簡単なロジックだが、都市社会では、危険そのものを削除することに
血眼になって、そのプロセスで大切なものを失ったのではないだろうか。

何を失ったのか?それは、相互扶助での救いである。
自由な人間関係から、心が救われることだろう。

迷惑が掛かる人でも、許される関係。
危険に敢えて近づくことで、疎ましく思われることも許す関係。

迷惑はお互い様ではないかと本音で言える人生経験、社会体験
ではないだろうか。


たき火は、今は、条例で出来ないが、本当は、やるべきだ。
たき火は、老人達の楽しみを奪った。危険だということを
子供たちに教えることも出来なくなった。

曰く、煙が周囲に迷惑だ。火事が起きる可能性が高まり迷惑だ。

老人というより、人類古代よりの闇に対する精神面、生理面での
救いのイコン、「炎」を迷惑と位置付ける社会では、孤独死は
発生するのも当然だろう。

迷惑を掛ける人をも、仲間に入れた方が、相互扶助という心の救い
という目的には近道なのだ。


その迷惑が許容する社会に、損害訴訟と社会思想が高度に成長する
必要がある。

現代の日本では、金銭優先が個人主義的家族共同体で停滞して
いる文化段階なので、今少し、時間が必要だろう。(約100年程度)


私は、その意味で、変わった仕事をして、金銭的な成功には
縁の無い、一般には商売が下手な人々が存在して行くことが、
今の日本には大切だと思う。NPOなどと綺麗ごとを言う社会も
まだまだ未熟なのです。助成金目当ての社会保障と変わりない。

商売上手は、所属団体に関係なく、身の処し方は上手なものです。
ほっておいても大丈夫です。(新自由主義)


個性的な集団が多く点在する様になることを、日本社会には
お勧めです。日本は内部からは変わらない民族と言われ久しい。
しかし、世界の理念、オピニオンリーダーを求められる現代では
尚更、個性的な企業の存在は、日本には必須です。


また、必要悪とうそぶき、不正な事業で利益を得る暴力団などは
どうしましょうか?
これは最も扱いは簡単で、放置すれば良い。
団体への所属をよしとして、一般社会から迷惑と思われている時は
いずれににしても放置するしかない。いずれ仲間から不利益を蒙り、
そのグループから迷惑な人間と思われスポイルされる時が必ず来る
からです。その筋の関係者と係りになった時も、相手に教えてあげ
ましょう。「いずれ仲間からスポイルされたら、救われますよ」と
そのスポイル感が、そのダメな人間には、チャンスなのです。
どこにも行くところがない者という意味で、商売下手点在企業と
同じです。存在意義が危険に近づき、危険な生活です。


さて天空の道の番組ですが、危険を乗り越える運搬キャラバンは、
心を通わせる村人との協力があり、無事に成功する。
雨で泥道となり、高山で体は冷える。途中の沢には、転落した馬の
死体が岩に引っ掛かっていた。
悲しいかな天空に通じる道は、険しいのである。


天空にある村で、家族は、心を通わせ、まるで一体かの様に共同する。
その道が険しければ、険しい程、迷惑な奴も、救いの共同体に同化する。

自然とは、その意味で、放置された危険を孕むが故、人々は相互扶助に
救いを求め、自然への畏敬と美を共に発見するものだろう。

番組としても、美しい渓谷の風景、太陽を浴びた神々しいヒマラヤ山脈を
映し出し、少数民族で歌われるタカになって青空を飛びたいという民謡も
大変、美しく、心に響くのでした。


いつか、東京でも老人がたき火で、暖を取る姿をあちこちで見かけ、
そのたき火に子供やおばさんが、寄り添う風景を期待しましょう。
そんな危険が散在する都市社会を作ることが、孤独死を無くす唯一の
手段と断言できのです。


危険は、相互扶助の心の関係で乗り越えるしかありません。

危険を未然に排除するつもりが、心の居場所まで失っていたのです。
現代人の決めた条例が、自然界で最高の選択だと思うのは早計です。
無自省に自然を破壊して来た人類は、自分自身も破壊して来たのに
気が付かないのも止むを得ないことなのです。

自然の中で並列すると、人間は、余り優秀ではないのです。

その事に気が付いているかが、現代の架空共同体に問われていることです。

会社の社長が、それ程、優秀でない場合、社員はどうするか?
会社を辞めるか、社長を無償を覚悟で助けるかの、どちらかしかありません。

天空の村同様に、現代社会でも無償覚悟で助け合うのが正しい選択です。