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2011年 初日

$どこかで見たこと読んだこと

2011年、あけましておめでとうございます。
日本海側では大雪だった元旦、神戸は日の出が見えました。


人間は、太陽を共有し、シェアしていることに注意を払う人は、余りいない。
太陽が、今より地球に近ければ、生きて行けない。
遠ければ、これもまた、生きては行けない。

太陽が正義かどうか問う必要もないない。ただ共有しているのだ。



仮想の都市は、多様性をサンプリングしたインターフェースと
自在な表現のディスプレイで構成されたコクピットの集合。
人は、その感性も含め、コクピットのシートに収まる。

距離は、意識の中に取り込まれ、シミュレーションされる。

スポーツは、既に概念として、精神の強靭さを競う分野へも拡張された。

芸術は、複製の合成による化学反応を実験する研究所となった。

移動は、主にシュミレーションで十分だとう市民が多数を占めている。

各個人は、嗜好が、演繹的か帰納的かで、ライフスタイルの路線を決める。
当然、途中でのリスタートの精神分析も含め、支援が、ハローワークの仕事と
なって久しい。

産業は、プロデューサーと工作者、管理エンジニアという職種での教育プログラムを
持っている。経営というコースは21世紀の中頃から誰も興味を持たなくなった。
新しい概念の産業が、外遊者に偶然発見されたら、それは、ノーベル賞などで、
その偶然性を称え、表彰し、新規の産業として公的な機関が表彰する。
市民は、結果的に表彰された外遊者は尊敬するが、やはり定まった公共機関の保障の
ないコクピットの孤独には、余り座りたがらない。これは古今東西の常識である。

常識から逸脱する行為を、月で生きると揶揄される。
公共機関では、多様性の改善を担保する偶然発見される外遊者の
確保は、重要な任務であり、観測設備には多大な予算が使われる。
都市間の競争でのインセンティブは、確保した外遊者から生じることが多い。

なぜなら、共有のエリアの拡張なのである。
標準インターフェースのサンプリング帯域が広げられることを意味する。

好奇の目で見られる外遊者が多いのも事実である。(違和感、変な人)
しかし、外遊者が確保されないとは、共有する糧が、いずれ枯渇することを
メタファーとして提示しているだけなのだ、やがて誰かが共有する為の
自己犠牲を払う決断をしなければならい時が来る。

公共の機関の職員の存在目的の一つは、その共有の変異情報を市民に広報することだ。
あらゆる芸術と文化を使いレジェンドを継続する為、警鐘を鳴らし、広報する。

新しいレジェンドにコミットする時は、今の都市とは、接続を解消し、
新しいコミットの共同体への接続からやり直すことになる。
その接続の議論が重要なのだ。
その直接的な議論が、接続の安全を担保できる。既に、コクピット内のモニターには
自分自身の論点のシュミレーション結果は出ているからだ。
新しい共同体に接続が相互に合意されれば、自分自身のコクピットは都市となる。

その再構築の時も、やはり距離に依存は、していない。
レジェンドに、距離が関係ないことが多々起きるのは、その所為だ。

都市は、大きくなっているのか、再分裂しているのかは、公共機関だけが
共有情報として持っている。
全て分裂した時に、公共機関は自動的に閉鎖される。いつかまた接続される
外遊者が出てくれば、都市として再開され、公共機関が起動する。

共同体として何を共有として選択するか、議論出来ない都市は
今では、有り得ないことなのだ。一時的に閉鎖された都市でも交信は可能なのだ。
外遊者を探し出す能力が、都市の公的な最低限の機能なのだ。


「初夢のつづき」

永遠の嘘をついてくれ

2月25日BS-hi「吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 」
2006年9月26日ライブの総集編を4時間放送していた。

このコンサートでは、吉田拓郎の「永遠の嘘をついてくれ」
サプライズゲストの中島みゆきとのデュエットが話題となった。

そのシーンを観ると、やはり感動する。
中島みゆきの登場の仕方や、歌う仕草、白いシャツが清楚で
感動する。

左腕を足にのばし、軽く触れ、その左腕に、じっと右手を
添える。妙に、色っぽい。

拓郎も同じ白いシャツであり、それが、愛を漂わせる。

中島みゆきの右手は、左腕ではなく、その白いシャツを
ステージで確かめるように触れているのだ。


「永遠の嘘をついてくれ」は、作詞・作曲 中島みゆきで
吉田拓郎に捧げられた作品だ。

ネットでは、その作曲の背景などが沢山出ているが、
中島みゆきが、吉田拓郎が好きだと言うことが定説である。

ラジオ番組などでは、吉田拓郎も、中島みゆきの「悪女」の
バックコーラスをやりたいと強く願望している。

「為せる恋、為さざる恋も、恋の内」ということでしょうか。

この二人のデュエットは、年齢を超えて、艶が出て来たと言えます。
コンサートの観客も70年代からのファンでしょう。
その年齢層のファンであれば、色恋沙汰、大失敗、苦い思いの成功、後悔
など、など日常茶飯事で、朝飯前。
吉田拓郎や中島みゆきの、苦悩や夢も、わかっちょる世代なのです。

中島みゆきの歌詞は、中性的で、主人公が男か女か、判然としない展開が
多数出てくる。


「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に吉田拓郎のアルバム
『Long time no see』に入っている。
アルバム制作前に、吉田拓郎が「遺書のような曲を」と彼女に頼んだ。

下記「ニャンちゅう 」さんのサイトに詳しい経緯があり。ご参照ください。
http://www.begets.co.jp/doda/archive/064.html


この周辺事情からして、ステージで見せた中島みゆきの吉田拓郎への
触れもせずかのような表現は、愛情の仕草と思える。


歌詞の最後

「君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」

は、男が女へのメッセージとも読めるが、中島みゆきから吉田拓郎への
意思表示とも言えそうだ。


60代ともなると、そろそろ大成し、悠々自適という方々も多いだろう。
一方、一般的な社会人としては破綻し、失敗の人生の渦中で、もがき
苦しむ人も多く居る。
50代は、その変更不可避的な人生段階、大筋が決定的となる年齢なのだ。
心が後悔の波に飲み込まれしまうと、息が出来ない年齢だ。

そんな2006年、二人は、まだ旅の途中だと、観客の心へ真直ぐに歌う。


頑張るということ


どこかで見たこと読んだこと


NHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」第2部 

第7回は、「子規、逝く」

明治35年9月19日 子規が亡くなる。
司馬遼太郎は、作品の中で、日本にとって明治という
時代は、純粋に若者の自己実現と国の近代化が、同じ
歩調を取った時代は、他に無かったのではと言う。
妹、律や、幼馴染、秋山真之と、子規の織り成す人間
模様の中で、子規が一番、明治の時代性に合っていた
人物と著者は評している。
子規の後日談として「ひとびとの跫音」を作品にしている。

国家主義の政治潮流に対し、庶民特に農民は裸足同然で
雑穀を主食とした生活に喘いでいた。

一方、時代の潮流に乗って世間の表で、活躍出来た人々も
人間個人として見た場合、近代化に頑張っていて、自己実現
に邁進していた。

この頑張るという概念は、一所懸命という様子を表現している
と思う。
一つのところで、不退転の意志を通すという状態を言うのだろう。

頑張れ!と言われた場合、「意志を通して下さい」と
言われているだろうか?と思う人はいない。

自分自身より明らかに能力や人情に劣ると思う人から
頑張れと言われると人は、余り良い気分になれない。

どうやって、何を頑張れば良いのか解らない場合もある。

自分自身が嫌いな役を、無理やり仰せつかった時など
頑張る方法が見当たらない。単純に経験で乗り越す事になる。

死期が近づいた子規も、頑張り様がない。
妹は、これだけ苦痛に耐えたのだから、早く、楽にして
上げたいと思う時があると告白する。

子規は、病に伏せてから、俳句の構想が心から自由に湧き
上がることに、苦悩する。真之などが、海外で活躍するのを
心から頑張れと応援するが、その声援が、わが身の諦め切れない
立身出世に虚しく返って来てしまう。湧き上がる俳句は、その
虚しさを埋める為に、真之を超えて湧き上がっていた。

頑張るということは、相手が必要なのだ。
2人以上、チームでないと、頑張る具体的な行動や指針は
見えてこない。頑張る意味では、チームの相手が、好きか
嫌いか、自分を理解してくれているかなど関係ない。
ただ、一人で、頑張ることは出来ないのだ。
一人で頑張るとは、個人にただ負荷を掛けている状態なのだ。
その事に気が付かないと「頑張って」も成果は何もない。
エネルギーを無駄に消費するだけである。

決して、一人で頑張ってはいけない理由が、時間も消耗に
なって行くことなのだ。

他人との関係による制約(ルール)が、頑張るということの
成果を判断する唯一の基準と考えられる。

仲間や家族が居ない心情では、頑張っても、成果は出ない。

強いのか、弱いのか


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第34節 2010年12月4日 ヴィッセル神戸 勝利

J-1 奇跡の逆転、残留決定

ヴィッセル神戸 最終節で、4-0で浦和を下し
16位から15位に上がり、J-1残留を決定!

感動の逆転劇なのだが、素直に喜べない。

前節15位だったFC東京が、勝か引き分けで、
神戸の残留はなかった。
FC東京の対戦相手は、最下位の京都。
普通に戦えば、引き分けられる相手。

神戸は、確かに強い。
何に強いかと言えば、残留ボーダー戦線に強い。

毎年、残留ぎりぎりの線上を、終盤に争っている。
残留の瀬戸際の精神力が強く、平常心で戦える。

今期も、第6節辺りから、既に、残留ボーダー付近に
居座り、戦ってきた。

しかも、ほぼ毎年、優勝戦線とは遠いボーダーラインを
行き来しながら戦っている。
これは、もう、慣れの問題かもしれない。

最後ギリギリの試合で勝たねばならなく成ったのは、
自らが招いた年間の試合の積み重ね、結果である。
サッカーは、個人競技というよりチーム競技である。
毎回、出場する選手も異なる。

有望な選手が多くいても、チームとしてリーグの順位とは
正比例しない。

今年のFC東京がその事例である。当初、メンバーから
優勝候補のチームと評価されていた。
選手もその気だった。
しかし、結果が、最後に勝たないとJ-1に残留出来ないと
なった場面では、選手は、精神の安定に欠いた。

先取点を取られ、動揺し、追加点を取られる。
戦略が機能していない試合の良くある結果である。
平常心で、ボーダーラインでの戦いが出来なかった。

この場合、FC東京は、弱いと言える。
ヴィッセル神戸は、ボーダーラインの戦いに強いと言える。

しか~し、シーズン中を見ると、どうも勝つべき試合での
負けが多いのは、ボーダーラインではないという精神的な
弱さ=平時の甘さが、露呈しているのでないかとの、
疑惑が地元ファンには、浮かんでくる。

サッカーで、残留は、もちろん尊敬され称賛されることだが、
ファンは、毎年恒例化する瀬戸際の勝利を全く望んでいない。

平時に、なぜ、人は甘くなるのか?
この原因を、我が負け越し人生と重ね、熟考してみようと思う。

亡国のキャピタン


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ヘンドリック・ドゥーフ(アムステルダム:1777~1835)


東アジア日本史の中で、余り有名ではないが世界史と密接な事件があった。

1808年 「フェートン号事件」 イギリス フリゲート艦フェートン号が
長崎に来航。時代は江戸時代、文化5年。長崎の平戸だけを世界の
窓とした鎖国の江戸幕府政権下だった。貿易は、オランダ東インド
会社の商館が独占していた。


一方、ヨーロッパは、フランス革命の嵐の後で、ナポレオンが大陸を
席巻し、オランダは、フランスに制圧され、国王は、イギリスに逃れた。
イギリスは、ネルソン提督の活躍により、制海権を握っていた。
当然、インド、アジアへの進出で、植民地、貿易相手国の開拓へイギリスは、
覇権を求め、旧オランダの植民地を接収していた。

このイギリスとフランスの勢力争の波は、極東の島国にも波が立った。

その日の朝、10月15日、まだ、旧オランダの権益下にあった
東インド会社の長崎商館、商館長キャピタン ヘンドリック・ドゥーフの
元へ、母国からの久々の艦船の入港の一報が職員からあった。
商館が最も賑わいを増す状況を迎えていた。来日して5年、そろそろ
帰国の順番でもあった、少し気がかりなのは、ヨーロッパの情報と
日本人遊女の瓜生野と二人の間に今年生まれた子供のことだった。
しかし、キャピタンの未来は、長崎の青空のように明るく感じられていた。

親しくなった長崎奉行 松平康英へオランダ船来航を報告し、恒例に
従い、日本の通詞と共に商館職員2名をボートで、船へ向かわせた。


ボートが船に近づいた時、商館から望遠鏡で見ていたドゥーフから
異様な、罵声が発せられた。

なんと母国オランダの旗を上げていたフリゲート艦は、ボートが着くと
ユニオンジャック旗へ、薄笑うかの様に平然と差し替えた。
その瞬間、フリゲート艦の背後から武装したボートが現れ、商館職員の
ホウゼンルマンとシキンムルを艦船に強制連行してしまった。

その2人を人質として、イギリス船は、悠然と、飲料水、食糧(肉類)を
要求して来た。応じなければ、港内の和船を攻撃すると脅迫した。
これは、イギリスが植民地を他国から奪う際の常套手段だった。

ドゥーフも、長閑な日本暮らしにヨーロッパ人の冷酷さの用心に欠けて
いた。


怒った長崎奉行は、長崎防衛の当番であった鍋島藩にイギリス船の焼き
討ち、または、捕捉を命じた。ドゥーフも長崎奉行所へ避難して来た。

その時、長崎奉行は、耳を疑う報告を聞く。
太平に慣れた長崎防衛当番の鍋島藩が、勝手に兵をわずか150人に減らして
いたのだった。内密の事業仕訳。これでは、焼き討ちどころでは無かった。

ドゥーフからの戦闘回避への進言もあり、止む無く、奉行所から水を供給し、
商館からは豚や牛が提供され、無事、人質は解放され、17日にイギリス船は、
去って行ったのだ。
しかし、その後、イギリス船は度々、長崎周辺に現れる。
これを機に、幕府は、外国船打払令を出すことになり、わずか半世紀を経て
大政奉還へとたどり着き、幕府は自ら政権を返上する。


またイギリスは、1811年ジャワ島を攻め、オランダ東インド会社を支配下に
置いたが、長崎には、このことは知らされず、ドゥーフ他、職員は放置され、
亡国の商館となったまま、日本に存在し続けた。
フランス支配からオランダがネーデルランド連合国として独立するまで、
日本にドゥーフも滞在した。その境遇においても商館を閉じないドゥーフらの
矜持に、幕府は同情し、彼らが日本国内で生活の糧を得ることを例外的に認めた。
江戸時代の日本人には、亡国の辛さを理解する人心が多く居たということだ。

この事件と顛末からキャピタンとしてのドゥーフは、日本に最も友好的な
キャピタンと評価されている。
ドゥーフは、1815年に帰国が叶い、1835年オランダで亡くなっている。
日本では翌年、1936年に坂本龍馬が生まれた。

江戸から明治へと国内は維新する。それは、イギリス、フランスの勢力争い、
ロシアの南下、アメリカの西方開拓と世界の波に真面に、激動する時代を
迎えることだった。

イギリスは、グラバー商会経由で、薩長土肥藩から、明治政府へと
関係を深め、1903年の日英同盟へと繋がる。

イギリスは、フェートン号事件の20年後、中国でアヘン戦争を仕掛けている。
イギリスは、中国からのお茶や生糸など大量の輸入があったが、国内から
中国へ向けて販売する物品がなく、貿易赤字となっていた。
その貿易不均衡の安易な解決と植民地化を狙いアヘンを中国に流入させたと
考えられる。そのころ、イギリスは、至る所で、世界の波を高くしていた。


幕府は事件後、鍋島藩の老中など幹部数名を切腹、藩主鍋島斉直を
100日閉門とした。
その60年後、鍋島藩(肥前藩)は討幕派として戊辰戦争を迎えることになる。


薩摩、長州もイギリスと戦い、相手の戦闘能力を身を持って知った。
海洋国家イギリスの実力を知った薩摩、長州、土佐、肥前の各藩の特徴は
江戸から離れ外国との交流が(密貿易)可能な僻地、地方であったことである。
薩摩は、琉球国家と。長州は対馬経由、韓国と。肥前は、韓国、中国と。
土佐には、アメリカの教育を受けたジョン万次郎がいて、龍馬がいた。


一方、フェートン号事件の幕府の当事者、長崎奉行だった松平康英は、
公式には、事件の2か月後に病死となっている。
実際は、国威に傷を付けたとの自責からの切腹、自害であった。
突如、世界にひとり矢面に立った武士としてのこれもまた矜持だったと思う。
戦力不足は、窮乏する鍋島藩の独断であったし、例え戦っていても負けていた。
そして、命を救った人質は、亡国のオランダ人なのだ。


フェートン号 性能諸元
クラス: ミネルヴァ級フリゲート
全長: 砲列甲板:141ft(43.0m)
全幅: 39ft(11.9m)
喫水: 13ft 10in(4.2m)
機関: 帆走(3本マストシップ)
乗員: 280名
兵装: 38門[1]:

上砲列:18ポンド(8kg)砲28門
後甲板:9ポンド(4kg)砲8門、
18ポンド(8kg)カロネード6門
艦首楼:9ポンド(4kg)砲2門、
18ポンド(8kg)カロネード4門



世界に対峙する時、日本人としての矜持の必要性は今でも変わらない。
更に、亡国の人の矜持も、理解できる多くの人々の存在の総和にこそ、
誇るべき国家的潮流があると言える。