どこかで見たこと読んだこと -16ページ目

「きことわ」を読んで

きことわ/朝吹 真理子
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苦役列車/西村 賢太
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朝吹真理子さん「きことわ」
第144回芥川賞受賞作品を文藝春秋3月号で読む。

作品評価は、各選考委員の書評で出尽くしていると
思われる。
素人読者は素人らしくとぼけた評価を出して良いと
思う。作者もインタビューで、-これからは小説で
何を書き、伝えてきたいですか?の問いに
「全ては、読み手の自由で、事後的に発生するもの」
というスタンスです。
素人には、持って来いの作家ということです。

山田詠美さんも書評で述べていましたが
作品世界に心地よく引っ張り込まれる心地よさが
印象的な作品でした。
確かに、余りの長閑さに、途中、集中力を失い掛けた。

それも作者の意図であった。

その長閑な単調は、天象の一瞬一刻がくりかえさること
なくくりかえされることへの新たな発見であった。

面影でしかない過去の反復は、別荘の解体で、気配が消え、
未来から解放される。
その未来は、デボン期の魚とご機嫌よく繋がっていし、
月は、遠ざかる。

今は亡き春子も、面影の一つもあれば、生き生きと蘇る。
今、ここの携帯が繋がる先が、どこなのかの方が定かでない。

髪の毛が後ろから引っ張れることの方が、心には現実的なのだ
という感覚が生き生きしている。

この作品の心地よさは、意識の過去と未来の往復旅行の中での
身体性の瑞々しさ、潔さの表現にあると思えた。

愚昧な行為ばかりしていると、思い出したくないことも増えるが
清廉な生き方を選択できる人には、身体性は、容易に美や平穏へ
繋がる回路が成立し、美しい。


その正反対の生き方の選択をしている作品が、もう一人の
芥川賞受賞の西村賢太さん「苦役列車」であろう。
どちらの作品も身体性を心底信じている作家としての自我が、
輝いて、光っている。


朝吹さんは、清々しく輝き、西村さんは、しぶとく輝いている。



楽しい戦略

29日サッカーアジア大会で、日本代表は見事に優勝
怪我人も多く、厳しい試合ばかりでチーム総力戦で
乗り越えた優勝でした。



どこかで見たこと読んだこと



どの試合も、ファンは気持ちが引き込まれ、おかげで
その結果に何度も喜びを味あわせて頂いた。

選手、スタッフの皆さんのチーム団結力を実感できた
結果、大変、楽しいプレーの数々だった。

オーストラリアのフィジカルを生かした戦いに圧倒
されて、日本代表らしさが出ていないと感じると
監督、選手一体となって、選手交代、ポジションの
変更を機動的に行う。器用としか言いようがないが
勝つためには、選手は、やれることは、なんでもする
気持ちの現れだろう。

先発のDFの4人がロングボールの対応で、身長的に
苦労し、前線も左の岡崎、右の藤本が、機能しないと
判断する際、ザッケローニ監督は、長友などフィールド
選手に確認し、全員が確認するまで、交代させない。

オーストラリアのDFが、FW前田の動きに慣れた頃を
見計らって、李と交代させ、相手DFの隙を作る。

それらの積み重ねで、李に、左足、ボレーシュートを
狙い澄ます切っ掛けを作る。

普段から戦略を細かく構想し、各選手に説明している
監督の日常の賜物のであろう。

分析と戦略は、戦いの現場に生かされて、初めて、
分析と戦略の意味が出てくる。
戦況を自己解釈できる組織の監督と、同様に戦略を自己
解釈し、表現できる選手が必要だ。

ザッケローニ監督の優れている点が、戦う前の戦略と、
戦っている時の戦況分析が、一体化して点であろう。

それを破るのは、身体性と強い精神力を要求される。
その相手チームの戦いもまた美しいであろう。

監督と選手の戦略における技量の一体感を観るのは
心惹かれ、楽しいし、美しい。



翌日30日のザッケローニ監督の会見の一部



どこかで見たこと読んだこと


-システムは4-2-3-1を踏襲するか。
 日本の選手は複数のポジションができるので、
いろんなシステムが使える。唯一変わらないのは
勝つために試合をすること。



イタリア人らしい奥行きのある言葉は、
マキアベリズムというのもサッカーでは、楽しめる。
確かに「負けたら、どうするか」と言うのは、分析の
ひとつの項目でしかない。
ビジネスでは、分析の前の但し書きである。
企画書を作る時は、「負けたら、どうするか」を最初に
書くのも手である。

詰まらないこと程、細かく明確に先に済まして、

本番を理解し戦略は楽しもう。

ダブル受賞


どこかで見たこと読んだこと-会見


第144回芥川賞と直木賞の選考会が17日夜、
東京で開かれ、芥川賞に朝吹真理子さんと西村賢太さん、
直木賞に木内昇さんと道尾秀介さんのそれぞれ2人が選ばれました。
芥川賞と直木賞、共にダブル受賞となったのは7年ぶりです。


それぞれ男女ペアでのダブル受賞。目出度いことです。
と言っても文学ファンというほどの人間でもないので
毎回、それほど興味を持って受賞作品を観て来た訳ではないが
今回は、NHK「かぶん」ブログで受賞者のインタービューや
選考者の代表インタービューを読んで大変面白かった。




特に、芥川賞の選考者、島田雅彦氏のインタービュー内容が
大変面白かった。
選考の評価と批判が、非常に解り易い。
ご自身は、芥川賞の受賞は逃しているそうだが、芥川賞への
思い、もしくは、文学への思いが明瞭で、良いインタービュー
と思えた。

文学賞はある意味、出版社のコマーシャルであるが
そのことをエンターテイメントとして割り切っていて、
それに拘泥することがない清々しさを感じる。

受賞作品を読むということより、先に批評を知ることは、
一見、映画の予告編のようなものだ。

大変、良い映画の予告編は、大変面白い。
詰まらない映画は、予告編の方が面白いことがある。
予告編は時間軸も本編とは異なる点なので、趣旨だけの
エッセンスのみだらから良いのだ。
本編では、無駄なシーンで、折角の趣旨が散漫となり、
作品として失敗していることが多々ある。

話題を島田氏のインタービューへ
詳しくは、NHK「かぶん」ブログで
http://www.nhk.or.jp/kabun-blog/100/70093.html
是非、読んで下さい。

最後のインタービューのまとめが大変良い。




どこかで見たこと読んだこと


質問者:
(対照的な2人が選ばれることについて)
島田氏:
文学というものは、人がエモーションとか体験とか能力とかを
駆使して行う営みですから一種の自然だと思っています。
そこには多様性が約束されていなければならない。
ただ社会動向として、何か人々が考えることとか、
行うこととか似通ってきたときに、どこかで全く違うアイデアで
生きていくとか、考えていくというようなそういう試金石に文学、
あるいは芥川賞がなるのであれば、私は手助けしたいと個人的に
思っている。


この短い文章に、島田氏の文学論が凝縮されていると思う。
社会動向としての均質した考えとは、経済的有利を人生の唯一の
評価基準とする社会の思考のことである。

文学は、その閉塞した社会動向に、全く違うアイディアで、
人生を提示する。


その提示が自然なのは、多様性を担保していたからだとい言う。

人と違う生き方が、成立する企業活動が、経済でも実は重要なのが

なかなか理解されない。

企業で成功を収め、利益を得るというに、社会的紐帯が結ばれる。
公的な機関や成功者の周りに集まることが、より経済的に
安定している。多くの大学生は、官庁、大企業へ就職しようとする友人、
親族とのお約束ごとなのである。

社会は、皆に平等に機会が与えらる訳ではない、なぜなら、社会も
自然の一部だからである。

その自然の中で、自分だけのアイディアで、事業を興すことは
人と違うアイディアで生きることで、一般社会人には、理解され
ない、一般的なお約束ごとの中で安住、評価されることで、自分を慰め
ているのであるから、一般と異なるアイディアに否定されることは
基本的に否定的になる。

多様化する前に、消える可能性が高く、周囲から否定されていることで
自分自身も安心する。
その様な人間をユーザーにして行くのは、大変高度な理念と、逆節話法を
使いこなさいと事業が成り立たない。
特に、ユーザーを自分で作る必要があるので大変なのだが、他人と違う
アイディアで自然に生きて行くとは、縄文時代では、日常のことだったと
思うと、やはり遣り甲斐がある。

未来は、過去からやって来る。


正に、島田氏が言う、「人がエモーションとか体験とか能力とかを
駆使して行う営み」とは、縄文時代のメインテーマであったと思え、
そして、100年先を思う時でも、人が自然の中で生きる営みには、違いが
ないと確信できる。なぜなら、私、自身、自らのアイディアだけで
自分の周囲に迷惑を掛けながら生きているからである。実証していのです。

日本経済の中で、縄文的活動を実践して経営で利益を得てしているのです。
木の実の採集=好みのユーザーとしか仕事をしない。
狩猟、漁労=自然、季節で来た仕事を大切にし、祭壇で祀る。


今年の芥川賞作品は、予告編が面白い。文芸春秋、買ってみます。(笑)

愛に利益あり

ビジネススキルの基軸には、事業おける理念が重要だ。
また成功、失敗に係らず、理念が継承されているかが
その事業の外的な評価となる。

事業理念に継続が無い場合、その組織のトップの社会観
人生哲学の貧弱さを証明する。


大きな組織に安住することが、人生の成功と思われる。
しかし、危険なのは、その組織の限界への挑戦は、
内部に存在する者からは、起こり得ない。
過去の成功に依存する傾向が強まる。
個々人が悪人ということは無いが、集団で悪に走ることは
先の太平戦争で、日本人は経験したが、その事に反省する
論調は、マスコミ、国民の間では薄い。
逆に被害者意識を広める風潮もある。

集団で、グローバルな人材を超えた先端的な事業を構築
できる訳がない。

集団に甘んじる意識は残念だが、とがった、先鋭的な発想の
個性を消す。

甘んじて、安定した(保証はないが)生活を目指すか、
自己の発想を実現するか(こちらも成功の保証はない)を
日々、人間は、迷い自問する。

スキルアップとしての大組織での活動は、大変勉強になる。
しかし、自らの欲する事業理念が、その組織では
選択肢にない場合は、組織を変えるか、独立するしかない。

日本人は、集団で能力を開花させることが上手いと思う。
エリートと集団の身近さ、平均値が近いという良い面がある。

一方、癖の強い、頑固な性格の人間は、独立に向いている。

私は、この癖の強い、頑固な人は、組織とは距離を置き、
個性を発揮できる人々が活躍する場が、増えることが
日本の社会、ビジネスには、有効であると思う。

定年のないユニークな自営業は、日本の未来の可能性を広げる。

私、自身が企業を独立し、変わった内容の個人事業を15年続けている。

特に有能であるわけではない。個性が強いだけである。

日本人の集団主義より、個人主義が性格にあう。

お客さんから、仕事をもらうのだが、好きなお客さんから仕事が
欲しいという、ビジネススタンスが、禍して、全く業績が上がらない。

お客さんを選んでいるという言うより、何をやっているのか
解りにくい仕事ということだ。妙な仕事をしている。

さて、それでも15年仕事を続けていられるのは、お客さんも解らない
しいて、私も言わない理念があるからだ。

事業の理念は、「愛に、利益あり」である。
まずは、利益を考え、サービスを更に考え、社会の将来を考え、公益を
考えて行くと、作業として愛がなければ、利益が出ない現実である。

愛とは、お客さんから無理やりに、騙してでも、利益を取ろうすると
出現してしまうのである。
お客さんが勘違いしたものを、サービスすると、見解の相違が不満として
即座に出て、金銭の授受も険悪になる。

「メディアはメッセージ」であると、「マクルー」はん、は、言いはった。

「メッセージ」を情報システムを駆使して、伝えようと苦心している人、
全員が、私のユーザーである。
メッセージがあり、伝えるメディア(情報機器)を使いこなしている人、
もしくは、使いこなすことを諦めた人は、私のユーザーではない。

経験として、他人へ伝えるべき、深いメッセージを持っている人には、
愛がある。
またそう言う人物ほど、上手にメッセージを伝えたいと日々情報収集や
表現の工夫を努力している人でもある。

私とって、愛に、利益がある由縁である。

愛を感じたら、既に、もうけものである。

2011年、CES

「2011 International CES」(Consumer Electronics Show)が
先週ラスベガスで開催され、現地レポートや記事がネット上で
沢山読める。

レポートの内容では、日本メーカーと韓国のサムソン、LGとの比較が
多い、また、韓国企業のアメリカにおける躍進を印象付けるレポートと
なっている。
下記に情報通信総合研究所のスタッフのレポートがある。

http://www.icr.co.jp/newsletter/researchers_eyes/2011/Reyes201106.html


現地の状況の正確なレポートと思う。
NTT系の研究所あるのである意味、情報機器企業のトップのレポートと
言ってよいだろう。

日本企業を評価することは、先控えいるが、スマートTVというマルチ
表示化の趨勢をリードし始めた韓国企業に対し、日本企業が3D表示に
限定した展示となり、アメリカ市場での遅れ露呈し、敗北を決定付けた
展示会となったようだ。

ここ数年、日本の凋落が言われたが、いよいよ現実的な商品の差となって
現れ出したと言える。

1995年頃からの韓国家電メーカーの生き残りを掛けた世界戦略が日本を
凌駕してしまった。
この16年間、日本メーカーも工夫はしたのだろうが、国内需要に気を
取られ、世界規模での商品開発思考に、大きな欠落があり、停滞していた
ことになる。

私自身、1995年に日本電子メーカーを退職し、独立したが、当時を
思い起こすと、やはり、来るべきことが起きたという印象だ。

何が、日本のメーカーが、挑戦的な事業への戦略を妨げたのか?
世界戦略から発想したスタンダードという公益思想が育たなかったという
ことに尽きる。
技術力に於いて、韓国、中国企業などは、安い労働力で粗悪なマネしか
出来ないと勝手に思い込んでいた。国民には、最近までそう思っていた
人も沢山した。そのマイナス思考が、事業計画を自社の都合に偏移させ
挑戦無用な平穏な方向へと助長して行った。

高度成長期のような収益構造を再現しようと、リストラのハザードを
低くすることに、専心した16年であった。

商品企画は、世界の市場評価より、日本ブランドで作れば売れるだろう。
というコンセプトが精一杯だったのだ。

アメリカの企業は、商品のコンセプトには敏感だ。

iPadの主要部品は、韓国製と中国製である。

iPadを作りあげることで、新しい生産コンセプトは、韓国、中国の
生産経験から蓄積、包括的に生み出された。かつて日本が生産技術に
高度な蓄積が生じたようにである。

これが現場力である。
コンサルタントが勉強して考えた現場力と、生産現場の優れたメンターが
蓄積した現場力との思想の再構成力の差が生じたのである。

日本のコンサルタントは、物作りの経験からコンセプトを再構築する際には
全く不要である。メーカーには、師匠と弟子の歴史があれば、それで良い。

日本のコンサルタントに最も欠けている能力は、日本のメーカーが
韓国のメーカーから負けた原因が、自分たちの存在にもあると全く気が付か
ないことだ。我々を選んだのも経営者なのだという言い逃れをするだけだ。

他人やることを批評するのは、この様に簡単だ。
コンサルタントはだれでもできる。しかし、エンジニアリングからコンセプト
を再構築するのは、物づくりの現場からしか出来ない。

日本のメーカーも、再度、情報機器は、何を伝えるべきか、生産現場で
探すことを事業の美学、思想までビルドアップすることを共有する方向に
おおきく、精神を入れ替えるしかありません。
そこから、少子高齢化社会での事業の公益として証左することで、世界に
先進的な事業コアとして、構成できるのです。

自己解釈過程を経た情報機器でなければ、商品にならないという
考えで、16年前独立し、全く変わらず仕事を継承しています。
この情報の本質的な過程を、理解しなければ、新しい情報機器のコンセプトは
生じないことに経験的に、目覚める人が出来くる状況に日本は、直面して
いるだけです。

本質な思想も、余りに状況に先んじて言っても、理解はされません。
理解が必要な状況になるまで、実践し、言い続けることが重要なのです。