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幕末を生きる


どこかで見たこと読んだこと

本間郡兵衛(文政5年(1822年))-慶応4年7月19日(1868年9月5日)を
歴史書の中で探すのは、大変難しい。


それは郡兵衛の活躍した時代と仕事によることが大きい。
また、幕末、明治維新という激動期ゆえに、明治を見ずに散って行った
草莽の者たちの宿命なのかもしれない。

坂本龍馬、高杉晋作などは、歴史的に復活する。
それは、後代の政治や文化での要請だったのかもしれない。

要請が少ない人物の復活は、歴史的にはありえない。


郡兵衛の職業は、洋学者という分野になる。しかし、葛飾北斎の弟子として北曜と
いう名を与えられた絵師でもある。

絵師としての仕事は、ペリー来航時の黒船図が、酒田の本間美術館に
残されている。


その経歴の全体像は、石堂秀夫氏の歴史小説として、「黎明の人」が
2009年に蝸牛社から発行されている。今月、アマゾンの最後の1冊を入手した。

激動の幕末歴史の中で、湖底に沈潜した形跡をなんとか掬い取った奇跡的な
小説である。その現実は、沈殿物を巻き上げ視界を閉ざす泥へ変質し、
時代というクテリアに分解されかかっていた人物であるので、史実資料の
少なさが、フィクションとして集積することを阻んでいるのだと思う。

「黎明の人」が小説仕立てとなっているのも、納得がゆく。しかし、小説としては
風景、時代の風景としての人物表現に多少、期待が外れたものを感じた。

少ない風景描写、特に、18年振りの帰郷における風景描写の失敗は致命的であった。
(三瀬から大山に向かう折りの、月山の位置が、左右逆である。)
また、架空の女性の設定や、薩摩や土佐に利用される坂本龍馬、東北へ冷たい
勝海舟への終盤の言及は、史実であると理解はできるが、小説という論旨からしても、
必要性が感じられず、郡兵衛の洞察する紙面を少なくしてしまったところが
残念だった。


私は、もともと、本間郡兵衛の存在の知識すらなかったのだから「黎明の人」と
と言う作品の価値が低いと言う積りは、全く無く、また小説の批評をするのが
目的でもない。

「黎明の人」やネットの情報から、郡兵衛の心を空想してみようと思う。

本間郡兵衛のことは、出身地の酒田市の地方紙、「荘内日報」の地元の郷土の
先人・先覚の欄に記載がある。荘内出身の幕末から昭和にかけて活躍した人物を
詳しく紹介している。(郡兵衛の文章は、地元歴史家 田村寛三氏)
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp44.html



群兵衛は、酒田の豪商、本間家の親戚筋の家系の出てある。
一時は、武士として、小藩へ養子となって藩士となったこともあったが、江戸詰の
時に、男女問題をお越し、縁組を解消され、その後は、本間家の町人という存在
であった。

江戸では、蘭学、医学、彫刻、絵を学んだ。
藩士であれば、ここに剣術が加わるが、町人の郡兵衛には関係なく、美人画を
描く方を選んだ。庄内藩の酒田は、港町で活気があり、経済的に自立していた。
江戸の粋な世界に、相通ずる気持ちがあったのだと思う。
その中での蘭学、そして勝海舟の蘭学塾での塾頭で活躍してた頃が、郡兵衛の
最も、楽しい時期だったと思う。

それがペリー来航で、時代が鳴動してなが、変化をし始めると、交流していた
人物(勝海舟、佐久間象山)の影響などもあり、更に西洋への探求が始まる。


時代としては、藩閥体制の崩壊と明治維新の政治的な回天の時期である。
この政治、軍事的な季節では、藩の動静や所属が大きな意味があった。
特に、時代が閉塞した時の知識人は、下級武士に活躍の場所を多く与えられた。
脱藩してもどこの藩に属していたかのかで、政治行動が違って来た。

知識をもった下級武士は、藩閥の崩壊で、新しい制度が生まれる方に、
生き残る方向性を見出しやすい環境にいたのが、幕末という社会、組織構造だった。

興味が膨らみ、長崎へ出て行く、という個人的な探求は、どの組織にも
相手にされる素地は、全く無い時代だった。


その中の群兵衛は、特異だった。実家が裕福な豪商であったのだ。
とは言っても、才能が無ければ、興味すら出ないのが学問である。その学問を
身に付け、他人に教授できるレベルにあることは、全く個人の能力である。

組織に属さず、才能がある場合、組織側にある者は、その組織に有利になる
と評価するなら、この自由な個性を利用したいと考える。

それが、長崎での郡兵衛の仕事である。
軍事的に言えば、フランス王国におけるスイス傭兵である。革命を叫ぶ国民より、
王族側は、傭兵を信頼し、傭兵は、それに応える。


幕閣や藩の幹部候補生は、身近に、蘭学の有能な教授を置いておきたい。
郡兵衛は、尊王攘夷と佐幕が激突する時代に居た。その為に、長崎では
佐幕、尊王攘夷の意見に係らない自由な立ち位置は、貴重だった。
その自由な立場は、自分自身も強く感じていただろうと推察できる。
英語を習った米国宣教師フルベッキのアメリカの自由、平等の精神の趣旨は
意外に簡単に受け入れられ、ヨーロッパやアメリカへの外遊では、その西洋の
資本主義における個人の自由による格差までも見透かしていた。

それを防ぐ制度としての株式会社の重要性も、当時、個人の自由と平等いう
本間家での経済活動の経験と観念から整合性を理解した日本人唯一の人物で
あったろうと考えられる。

その後の薩摩の開成所での英語教師としての就職から帰郷まで、郡兵衛は
自由と平等に関して、グローバルな視点から町民がどの様に生きて行くべきか
考えていた。

その意味で、幕藩体制から西洋型の市民社会を繋ぐ、仮留めの釘が必要だと
考えていたのだと思う。その町人の組織として株式会社を確信していた。

平成の現在、会社組織で、生活の生業を得ている人口は、日本民族の大勢を
締めている。この状況を、幕末に理解し、想定していた人物は、時代を超えて
いる。その精神は、グローバルな知識と、自由で、合理的精神に宿ることが
できる先見性である。
その時代が持て余す先見性は、必ず自由と孤独を生む。

組織の中で生きることを基盤とする時代において、組織に所属する者には、
先見性をもった自由は、危険な気分にさせれら、不安になる。
「意見は解るが、自由なつまり勝手気ままな者は、見たくない」

先鋭的に思考が行きすぎた郡兵衛は、自立した商人が、自由と平等な会社の
理想が理解できることに我が意を得たりと得意だったろう。
その合意に反して、庄内藩と薩摩藩との軋轢には、油断していた。
というより、興味がなかったのだろう。自由な行動を、目障りに思う多くの
旧体制のままの存在に気が回らなかったのだ。

その事態は、帰郷後1か月位で確定した。庄内藩が佐幕派で統一され、それ以外を
粛清したのだ。その兆候があった時、直ぐに薩摩へ逃げて行けば、幽閉される
ことは無かったろう。しかし、久々の酒田への帰郷と、豪商達の歓迎は、
逃げることで、酒田繁栄の好機が失われる様に思われ、逃亡の時期を逃した
ものと考えられる。


自由な港町、故郷への愛着が、判断を曇らせた。

いざ、拘束されると、幕藩体制において、組織を持たない、持っていたとしても
遠く離れた敵対する薩摩藩では、自由で孤独な理性は、絶望へと直結する。

女性問題を起こして、故郷を離れ、敵対薩摩藩の費用で、来訪した蘭学を収め、
自由な精神で、活動する町人を、佐幕へ粛清中で血を流して来た庄内藩士が、
島津の紋の羽織を着て歩く町人におめおめと自由を与える理由がない。


時代を余りにも超えた鋭利な理性は(現代の格差社会へも届いいる)、
幕末という旧体制時代の明治という手さぐりの時代を借り留めするには、余りにも鋭く、
釘は、どこにでも自由に打つことができた。

その鋭利な釘を使える組織人が、この時、日本中探してもどこにもなかったのだ。
自由に動く鋭利な釘は、危険としか見えなかった。

時代と時代を繋ぐ、自由な釘は、その時代の裏に鋭くはみ出ていた。
そんな長くはみ出た鋭い釘だけを見た人間は、自分にささる危うさのみが
気になり、恐怖を空想するのであった。


釘の叩き加減の解らない人々には、自由という文言を理解するが日常と

関連せず、手に余る煩わしいことと思えた。


処刑を決した組織側の人間を、自由の意義を理解した郡兵衛という個人が
変える術を、知らなかった、当時は、誰にも解らなかった。

唯一心に去来したのは、組織人とは相いれない折々に感じて来た孤独感であった。


庄内藩から自由になるには、死を選ぶしかないという孤独感は、郡兵衛の体と
心を確実に蝕む。幕末、豪商での育ちの良さと、西洋の知識で奇跡的に自由に
生きて来た人生が、不自由な空間で終わろうとしていた。

脚気の症状が出て、徐々に、精神的に、生気を失って行った。

藩から医者が来て、体を見て行った。この無愛想な医者は、脚気の処方と称し
薬を無造作に置いて行った。
この医者の冷たさと処方に、郡兵衛は、悲しみに満ちて心が乱れた。
しばらく、昔の日々を思い起こしていた。


高野長英、吉田松陰、佐久間象山らの気持ちが解った気がした。
心に少し落ち着きが戻って来た。一気に、薬を全て飲み込んだ。


吐き戻したが、胃の痙攣で意識が薄れて行く、外の方からヒンヤリとした空気が
流れて来た。狭い座敷牢で、郡兵衛は口を押さえたまま、その風に向かい崩れ落ちた。
郡兵衛が帰郷して来た海の方から、夕立で雷鳴が轟くのを耳の奥で聞いた、
それは大西洋を渡りアメリカの港に着いた時、聞いた雷鳴と似ていると思った。

「懐かしい、私のふるさとよ」と、思った瞬間、激しい痛に意識が薄れて行った。


小さき負傷者たちの為に

中島みゆきさんの昨年のアルバムに入っている曲。アルバムのテーマからすると、

動物園の動物達と人間達の関係を歌っているのですが、今回の東日本大震災の後、

被災地の記録写真を背景に YouTubeに歌と画像がアップされている。 中島みゆきさんの

歌詞の中で、「卑怯と戦う姿勢」を鼓舞している。動物になぞらえ「小さき負傷者」に対して、

健全だと思っている方が、正しいとか、エライとか、思うこと自体が、卑怯だと言っている訳です。



なぜ、「弱い負傷者」と言わず、「小さき負傷者」か。歌詞から判断すると言葉の量で区分して

いるようだ。人間は、多くの言葉を駆使して、命を維持している。動物は、人間に比して、

言葉への依存度は小さい。 命を支える実において、伝えるものの質に差はない。

余りにも激しい災害に遭遇すると、人は、言葉を失う。まさに、小さき負傷者になってしまう。

映像冒頭の津波直後の油まみれの母と子の写真に、卑怯と戦う心を呼び起させる。

小さき負傷した我が子を、抱きかかえる母に、対して、国の政治家は卑怯なことをしている。



国会の中で、多くの言葉を使い、自分の主張は正しく、自分が、どれだけエライか、

仲間と言い合って、のんびり生きることに一生懸命だ。

震災復興をしたい国民に対し、これは明らかに、卑怯だ。 復興をすることが出来るのは、

国会議員だと自分たちが思っているのに、言葉は、国民の為と言っている。

国会議員の建前が、一番、重要と言わんばかり。卑怯である。



被災者を待たせて、自分達が主人公だと国会に逃げ込んで、

現実は、見ない様にしている。

法律が最も大切だと、自分たちの仕事を増やして、国会とは難しいと苦悶している。

卑怯な人達だ。



おさまとおばま

フランスでのG8会議も終わり、ますます日本の政治的リーダーの国家
セキュリティに関する認識の甘さを露呈し、会場で、孤独感を増した。

これも某リーダーの言うところの「運命」の一部なのだろうが、国民
にとっては、全く、広義の震災復旧において政治的な塩漬け状態を
2か月間も見せつけられ、更に、改善する様子すら、全くない。

この時期では、リーダーが変わって、即決、解決する問題でも無くなった。
海外の首脳会談で、英語でセニュリティに関するコミュニケーションができない
リーダーはもはや、リーダーの資質において、問題である。


グローバルな市場を相手にする一般企業では、英語でのコミュケーションは、
採用時点での評価であろう。ましてやリーダーは、絶対に無理である。


更に、話が混乱するのは、国家セキュリティ自体への政治的な感度である。


昨日夜21時から、NHK-BSプレミアムの番組「歴史館」でハリウッド映画の
イージーライダーが取り上げれられ、時代的な背景、映像制作の文脈で
詳細な議論がなされていた。メンバーの構成が良かったと思える。
井筒監督、高橋源一郎氏は、この映画と青春時代が、全く同期している。
少し遅れて、藤原氏、中村氏と続く、当時の文化的な空気感を知らないと
評価のできない映画なのだ。
番組の構成は映画の時代的な背景が非常に、良く解る内容だった。

【出演】藤原帰一, 中村うさぎ, 井筒和幸, 高橋源一郎, 【朗読】奥田民義


番組では、高橋氏の「ハックルベリーの冒険」とアメリカ・ニューシネマ世代の
各映画の類型のご指摘は、秀逸であった。
曰く、「男が二人で」「アメリカから脱出する方向性を持つ」その旅で西部
開拓を終えたアメリカとは何かを各物語は問っていると、なるほどと思う。


また、イージーライダーでの弁護士役ジャック・ニコルソンの存在とセリフ
の意味が大きいという解釈も非常に心に残った。
夜、寝る前に弁護士は言う
「自由を語る事と、自由であることは違う。アメリカは自由を語るために
殺人も犯すが、実際に自由に生きる人を見るのは怖いのだ。」
そして、その夜、南部の住民に寝ている所を襲われ、弁護士は殺される。


この映画では当時、南部で起きた公民権運動家の殺害事件や、リベラルな
北部政治家へのテロが背景にあると指摘している。


しかし、これは、今のアメリカも変わらないだろう。
オサマビンラディンを、シールズを使って、海外で、暗殺する。
身柄確保より、政治的な殺害を最優先するところが、アメリカ的である。
国家のセキュリティ効果で考えれば、当たり前のことだ。
結果ベストとは、とても思えない事件であるが、その決断には、更に状況を
超えた最悪な戦いを分析する情報と国民受けを狙う政治ロジックがある。

アメリカのルールである。自由を脅かす者には、容赦はしないというステー
トメントである。

アメリカから軍事的に勝手気ままに振る舞う自由は、世界中の誰にもない。
「おさま」と「おばま」は、一文字しか違わないのである。
「ば」を「さ」に変えて、絶対許さない復讐劇は、執念深い自由の女神の
居る国のセキュリティ思考なのだ。


日本の最悪のシナリオを描けない政治リーダーに対しては、セキュリティに
関する腹を割った話し合いは、G8に参加した各国の首脳から、一度も聞こえ
ることなく閉幕した。

一般的な政治ロジックである国家のセキュリティに基づく議論では、
その政治家の個人のセキュリティ意識の共有が、もっとも重要なのは当然だ。
「運命」だからと言って個人の感覚で国家セキュリティ上重要な情報を
イージーに扱うリーダーとは、話し合う場が国際的にはない。

G8で、日本は国内はもとより国際的にも非常に危険な状態になったと言える。

私が政府関係者だったら、一歩間違ったらと不安で、おびえる。
「かんなおとさま」から「おさま」という文字をアメリカに発見されたら、
危険この上ない。
アメリカに徳川家康が居たら、どんな因縁つけて来るか解らない。


全てを悟ったイージーライダーには、明日は無かった。
国家セキュリティにおいてイージーなリーダーの明日は、どっちだ!


国会で、震災直後のセキュリティ感覚が無かった政府の情報の混乱ぶりは、
小学校低学年のクラス会より劣り、言った言わないで、すごいことになっている。


早く、政権回想録を書かないと、ノンフィクションが、いつの間にか絵本の
寓話集の棚に分類されそうな勢いである。



どこかで見たこと読んだこと

Rでカプラン・マイヤー曲線 作図演習

データマイニングエンジアの里洋平さんのブログ
Rで生存時間分析の事例があります。


Rの使い方を学習する練習問題として役立ちます。
また里さんは、解析の応用にも言及されていますので
エンジアの新しい動向をご教示頂ける貴重なサイトです。

では、実例に従い、Rで実行してみましょう。
演算式をそのままコピーすれば、グラフの表示まで可能です。
データは、
Rのサンプルデータ
colon : Stage B/Cの結腸癌患者を対象とした術後補助化学療法の
比較臨床試験データ を使います。

1)どの様な構成データか確かめる場合は、Rコマンダーで
データの表示をする確認できます。

> library(survival)
要求されたパッケージ splines をロード中です
> colon.OS <- subset(colon, colon$etype==2) #死亡に関するデータのみを取り出す

図1
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2)次にsurvfit関数を使って、生存時間分布を推定
> result.KM <- survfit(Surv(time, status)~rx, data=colon.OS)
> result.KM
をコンソールにコピーすると推定が表示される。
Call: survfit(formula = Surv(time, status) ~ rx, data = colon.OS)

  records n.max n.start events median 0.95LCL 0.95UCL
rx=Obs 315 315 315 168 2083 1656 2789
rx=Lev   310 310 310 161 2152 1540 NA
rx=Lev+5FU 304 304 304 123 NA 2725 NA

3)kaplan-Meier曲線
> plot(result.KM, lty=1:3, xlim=c(0, 3500), ylim=c(0,1), xlab="Time", ylab="Event Free Fate", main="Survival Curve")
> abline(0.5, 0)
> plot(result.KM, lty=1:3, xlim=c(0, 3500), ylim=c(0,1), xlab="Time", ylab="Event Free Fate", main="Survival Curve")
> abline(0.5, 0)

図2
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4)Log-Logプロット
> plot(result.KM, lty=1:3, fun="cloglog", xlab="Time", ylab="log(-log(Event Free Rate))", main="Log-log Curve")
> legend(20, 0, legend=c("Obs", "Levamisole", "Levamisole+5-FU"), lty=1:3, bty="n")

図3

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廉価版CDと感性チェック

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私は、趣味で音楽のCDを買う。
買って失敗したということも多々ある。
思い込みで買い込み、じっくり聴くと感じが異なる場合である。
映画音楽のサントラ版でも、映画と違う印象が異なることもある。

音楽が好きだという程度で、楽譜が読める訳でもない。
ようは感覚的に楽しんでいるだけだ。

この様な人間にやっかいなのが、CDショップやスーパー
などの店頭ワゴンで販売されている廉価版と称する販売である。

基本的に、なんらかの理由で、廉価なのである。
販売コスト、製造コスト、版権であろうか?
製造コストと版権になにか秘密めいた、如何わしさもある。

この廉価版を買う動機は、コスト以外には考えられない。
音楽評論家が、わざわざ買う必要性はない。
せいぜい、好みの音楽家のCDだからとか、遠距離ドライブの
音楽という程度の理由だろう。

と、言うことは、良く知っている楽曲や演奏家のものを買う。
ジャケットには、演奏者などのクレジットが出ているから
それを見て、誰の演奏かなどを吟味する。

さて、先週、クラッシクの廉価版のワゴンをCDショップで発見。
1枚定価1000円とあるが、すべてどれでも、290円と破格。
クラッシクの作曲家が殆ど並ぶ、演奏曲目も、各作曲家の
人気楽曲で、心憎い程、上手くまとめられている。

私は、チャイコフスキーと決めたることにした。
①は、「白鳥の湖」と「眠れる森の美女」
②は、「バイオリン協奏曲 ニ長調」と「弦楽セレナーデ ハ長調」
いずれも代表作である。
迷った。290円だが迷って、②に決めた。
演奏と指揮者のクレッジトを見たのだが、
演奏 Festival Orchestra Belgium
指揮者 Perre Narrato

後から調べたら、どちらも架空っぽい。
ベルギーフェスティバルオーケストラは、存在しないようだ。
つまり、クレジットのみの存在である。指揮者を検索すると
一部、MP3でダウンロードできる音楽が発見できるが、こちらも
存在感は、限りなく薄い。

つまり、架空ということだ。
このジャケットを調べると、どうもUAEから輸入されているらしい。

ここに来て困ったことがあった。
このCDの演奏は、非常に良かったのだ、協奏曲のバイオリンのソロが良いのだ。
素人受けしているだけとは、思うが、何度聞いてもあきない演奏である。
セレナーデの方も、全く、問題ないと私は思っている。
これなら①も欲しいと思い、本日買いに行ったら売り切れていた。しまった。

玉石混合とは良く言ったものだ。
クレジットに偽りがあるのは確かだが、今となっては証明のしようがない。
だれかの演奏のコピーかもしれない、有名でない楽団のアルバイトかもしれない。

直輸入盤として販売会社と、どこら辺りから購入したかは、書いてある。
しか~し、誰もが騙されたと言えば、どうしようもない。

演奏から本物を探すなどということは、素人には絶対無理です。

ただ、買ったCDの演奏を私が気に入っているという結果からすれば
チャイコフスキーの楽曲自体が、良いのだと、しか言いようがない。

このシリーズのCDのジャケットは、全て作曲家の肖像か、写真を使っている。
確かに、このジャケットの表現し、意味するものは、本物である。

CDの場合、収録エンジニアの技術、編集の技術も大変重要だ。
今回のCDは、困ったことに、それも全く問題ない。

しっかりしたレーベルからの廉価版では、もう、物足りないのである。

架空演奏者の廉価CDの魅力は、自分自身の感性チェックにある。