東京リーシングと土地活用戦記 -18ページ目

東京リーシングと土地活用戦記

ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。

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横浜都市みらいは10月31日、横浜市営地下鉄センター南駅前に商業施設「サウスウッド」をオープンする。

<サウスウッド>


施設は、地上4階地下1階、延床面積10,874㎡で、耐火集成材による柱と梁の採用、駅前広場や半屋外空間への路面型店舗配置、敷地セットバック部分の利用による賑わい創出などによって、都筑の人々に親しまれる地域のシンボル的な存在となることを目指した。

店舗(店舗面積5,800㎡)は、シンプルでありながらも自然や質にこだわった日常型店舗を中心に構成。イートインスペースを備えた食のセレクトショップとしてのコンビニエンスストア、ハンバーガーと生花のコラボ店、京都の老舗珈琲店、北海道函館が本店のジェラート店、自然素材にこだわったスムージー店、地産地消と食育を大事にする農産物直売店、江戸時代創業の小田原の干物店、全国展開するサッカー用品店、シューズ店、眼鏡店などを展開する。

飲食店は、軽飲食と本格飲食を合わせ11店が出店。2、3階ではビューティーと学習関連があり、来年にはクリニックモールの開業を予定する。

都筑区は、平均年齢が39.8歳と横浜市内で最も若く、人口増加が著しい活気あふれる街であるとともに、大型商業施設が港北ニュータウンを中心に13施設も立地する商業激戦区となっている。

周辺の大型商業施設と差別化を図るため、「GREEN NEIGHBORHOOD(グリーン・ネイバーフッド=環境に配慮した上質な日常生活を楽しむ地域コミュニティの形成)」をコンセプトに、半径5kmの近隣商圏に多く住む30~40代の団塊jr.層をメインターゲットとして計画した。

施設概要
所在地:横浜市都筑区茅ケ崎中央6-1
敷地面積:3,507㎡
建築面積:2,941㎡
延床面積:10,874㎡
店舗面積:5,800㎡
階層:地上1~3階(商業施設)
地上4階(オフィス)地下1階(駐車場)
駐車台数37台
営業時間:10時から21時*店舗により前後有り
事業主体・管理運営:横浜都市みらい

■サウスウッド
http://southwood-ytmirai.com/

流通ニュース



観に行こーと!!

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フライング タイガー コペンハーゲン/表参道に旗艦店をオープン

店舗
/2013年10月02日
Zebra Japanは10月2日、渋谷区神宮前にライフスタイル雑貨ストア「Flying Tiger Copenhagen(フライングタイガーコペンハーゲン)表参道ストア」をオープンした。

昨年7月にオープンした大阪・心斎橋のアメリカ村ストアに続く、アジア2号店で東京への初出店。今回の出店を機に、ブランド名を「Tiger Copenhagen(タイガーコペンハーゲン)」から「Flying Tiger Copenhagen(フライングタイガーコペンハーゲン)」に変更した。

同社によると、「今後もさらに多くの日本の人々にショッピングを通じて驚きとエンターテイメントを提供するグローバルブランドへ“飛躍する”という想いを込め、ブランド名を変更した」という。

「Flying Tiger Copenhagenは、1995年に北欧デンマーク・コペンハーゲンで誕生。ユーモアや色彩に富んだアイテムを通じて、驚きとエンターテイメントにあふれたショッピング・エクスピリエンスを提供するファンライフスタイル雑貨ストア」(同社)。

現在、ヨーロッパを中心に世界19か国240を越える店を展開。日本では2012年7月、アジア圏としては初となる店舗を大阪にオープンした。

店舗概要
所在地:東京都渋谷区神宮前4-3-2
売場面積:136.43坪
店舗構成:1フロア
営業時間:午前11時~午後8時
定休日:不定休

2013年10月2日(水)「フライング タイガー コペンハーゲン 表参道ストア」がオープン
ヨンナナにっぽん [東京都4] | 13/09/03 23:41
2013年10月2日(水)、表参道駅A2出口徒歩約2分で以前「ロイヤルホスト 表参道店」だった場所に、北欧発の雑貨ショップ「Flying Tiger Copenhagen(フライング タイガー コペンハーゲン) 表参道ストア」がオープンします。

以前より、2013年秋に表参道にオープンするという情報は公開されており、今回出店場所も公開となったわけですが、その閉店に多くの人が衝撃を受けたロイヤルホスト表参道店の跡地に出店という事で、表参道の地元民(在住者・在勤者)の間では
「タイガーが表参道に!」
「ロイヤルホストの跡地に!」
と、Wの衝撃で、今回のフライング タイガー コペンハーゲン 表参道ストアの出店はよりインパクトのあるものとなりました。

ロイヤルホストの閉店は今でも思い出すと寂しさがこみ上げてきますが、フライング タイガー コペンハーゲンさんのような注目度の高いショップが表参道にオープンしてくれるというのは有り難い事ですし嬉しいですね。
「Flying Tiger Copenhagen(フライング タイガー コペンハーゲン) 表参道ストア」情報ページ
http://www.omotesando-info.com/shop/interior/shop/flying-tiger-copenhagen-omotesando.html


(C)Yahoo Japan,(C)ZENRIN
200 m
Flying Tiger Copenhagen(フライング タイガー コペンハーゲン) 表参道ストア

東京都渋谷区神宮前4-3-2 表参道スクエア 1F


インパクトあるネーー!!

燃えつきるキャロル ラストライブ1975.4.13


キャロル ルイジアンナ

キャロル 憎いあの娘



☆CAROLラストライヴ(日比谷野外音楽堂1975.4.13)【Wide】【HD­】
(収録曲)「愛の叫び」「メンフィス・テネシー」「ヘイ・タクシー」
「涙のテディ・ボーイ」「やりきれない気持」「エニタイム・ウーマン」


矢沢永吉が熱唱!HeyJude(ヘイジュード)【公式】


ドゥービーブラザースのホテルカリフをルニアが、流行ったのが・・

1975年・・・キャロル、ロック、フォークの全盛も・・この頃。

矢沢永吉さんも、ビックになりましたね。大好きです。

あの頃、吉祥寺で大学生・・40年も経ちました。



矢沢 永吉(やざわ えいきち、1949年9月14日 - )は、広島県広島市南区仁保出身のロックミュージシャン。身長:180cm。血液型:B型。[ウェキペディア]


愛称は「永ちゃん」「ボス」。ロゴマークの"E.YAZAWA"は商標登録されており(第1601017号ほか)®が表示されている。
ファンが熱狂的であることで知られている。2006年には、NHKスペシャルにて矢沢本人ではなくファンにスポットを当てた番組が放映された[1]。
ほぼ全曲にわたる作曲、及び数曲における作詞を手掛ける。クールス「紫のハイウェイ」など他のアーティストには「五大洋光」名義で楽曲を提供したこともある。
俳優として映画やドラマの主役を務めたこともあり、CM出演も多数にのぼるが、デビュー以後、特にテレビ媒体に露出することは少ない[要出典]、『ザ・ベストテン』などの歌番組にノミネートされても、ほとんど出演しなかった時期が長かった。多くのアルバムをセルフ・プロデュースし、コンサートの興行や演出なども自身の会社が行い、自らがそれら全てを取り仕切る。
2012年現在、楽曲数約400曲・ライブ総数約1800本・総動員数約600万人を超える。
オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(51作)を保持[2]。
オリコンDVDミュージック部門で最年長首位記録更新、60歳代での首位獲得は男女・洋楽邦楽含め史上初となる。
1970年代から1990年代までの3つの西暦10年代連続で、スタジオ・アルバム首位を獲得した男性ソロアーティスト
日本武道館最多公演記録は122回と更新中。
1978年、1980年、1982年で長者番付歌手部門第1位。
オリコンアルバムランキング最年長首位(63歳8ヶ月)を記録[2]。
ソロ歌手史上初のインディーズ作品によるオリコンアルバムランキング首位を獲得[2]。
家族[編集]

妻は米国人とのハーフで、1女2男の父親でもある。また、娘の矢沢洋子は歌手である。
洋子とは、サントリー「ザ・プレミアム・モルツ」のCMで初共演した。
経歴[編集]

CAROL解散まで[編集]
実母が家を出て、実父は原爆後遺症で早逝したため、幼少期は親戚中をたらい回しにされる。その後は祖母に育てられ、極貧の少年時代を過ごした。この頃、近所の裕福な家の子供に「お前の家は貧乏でケーキなんか買えないだろう」とケーキの一部を顔に投げつけられるなどのいじめを体験した。このような経験が積み重なり「BIGになる」との思いが芽生えたと語っている。中学時代、ラジオから流れるザ・ビートルズを聴いてロックミュージックに目覚め、更にザ・ベンチャーズの広島公演に行ったことで、すっかり感化されスターになることを夢見るようになる。
1968年~1972年
高校卒業と同時に、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持って、広島から最終の夜行列車で上京する。しかし、横浜駅を東京駅だと思い込み途中下車、チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。蒲田、川崎、横浜、横須賀などのライブハウスの「ゴールデンカップ」やキャバレー、兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。
自作の曲「アイ・ラヴ・ユー、OK」のテープを「ビートルズのレコードを出しているから」と言う理由から東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)に持ち込んだが「売れない」と断られる。
「ザ・ベース」「イーセット」等バンドを経て、「ヤマト」を結成。「ヤマト」には、後に「矢沢ファミリー」と呼ばれるNOBODYの木原敏雄(ギター)、大森正治(ドラム)がメンバーに名を連ねていた。このころ、もう一人のNOBODYである相沢行夫とも知り合う。矢沢本人はこの「ヤマト」で芸能界デビューを望んでいたものの、様々な事情により解散。
1972年
矢沢が張り紙チラシで募集をかけ、ジョニー大倉・内海利勝・ユウ岡崎(この頃は別のドラム担当でユウ岡崎はデビュー後に参加)らとロックバンドCAROLを結成。ボーカルおよびベースギターを担当。
デビュー時、内田裕也とミッキー・カーチスの二者から誘いを受けたが、内田に詫びを入れ、ミッキーを選ぶ。しかしこの際、金銭的に著しく不利な契約を長期で結んでしまったため、後にミッキーとは袂を分かつことになる。ミッキーのプロデュースにより日本フォノグラム(現・ユニバーサルミュージック)からシングル「ルイジアンナ」でデビュー(フジテレビ『リブ・ヤング!』)。ジョニー大倉のアイディアで革ジャンにリーゼントといったかつてのロカビリースタイルで登場。当時はフォークソングと歌謡曲中心でロックバンドが商業的に受け入られなかった音楽界に突如として現れ人気を博すこととなった。
1974年
3月に、パリで行われた山本寛斎のショーにCAROLが出演し、「ルイジアンナ」「ヘイ・タクシー」「憎いあの娘」を演奏。
1975年
解散が決定的になった頃、矢沢はソロ活動を行う際にフォノグラムとの間に起こり得る問題を未然に防ぐため、単身CBSソニーに行き、幹部と面会し、自らのソロ活動を担保とした金銭面・ビジネス面の話をまとめている。面会後、CBSソニーから借金をして多大な金額をキャッシュでフォノグラムに払い、すぐに同社のプロジェクトチームが動き始めた。この時、同社が金銭的な部分を含めて助力を惜しまなかったことが、後の矢沢との信頼関係や、矢沢のキャリア形成に繋がった。
所属会社の要請で4月13日日比谷野外音楽堂において解散ライブを行う。ライブには親衛隊としてクールスのメンバーが参加。演出のために使用した爆竹が雨で湿って、その火花が舞台セットに燃え移りステージが炎上、メンバーは楽器を失うだけではなく、多くの借金を抱えるというアクシデントの中、CAROL解散。
1970年代、ソロデビュー[編集]
1975年
CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本) )に移籍後、CAROL関係の人間から離れ、一切のスタッフを総入れ替えし、ロサンゼルスレコーディングによる「I LOVE YOU, OK」でソロデビュー。
1977年
当時のファンは、いわゆる不良少年、無頼者の印象の人間が多く、矢沢自身に非はないが、会場貸出拒否、ファンの暴走、世論など数々の難題を克服して日本のロック・ソロアーティストとしては初の日本武道館単独公演を敢行。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1977 「TRAVELING BUS Part1」を1月4日からスタート(8月26日までの日本武道館まで)。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1977 「TRAVELING BUS Part2」を9月15日からスタート
1978年
CMソング「時間よ止まれ」が大ヒット、累計売上は ミリオンセラーを記録。同曲はバックバンドの一員として、坂本龍一がピアノを担当。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1978 「GOLD RUSH '78 PART-1」を3月20日からスタート
会場周辺を機動隊が取り囲む厳戒態勢の下、8月28日に東京ドームの前身となる後楽園球場で空前の単独公演を敢行。
自著伝第1弾「成りあがり」を出版。100万部を超える大ベストセラーとなる。ライターを糸井重里が担当し、糸井の出世作にもなった
長年、長者番付歌手部門1位の座にあった美空ひばりを抜き、初の第1位を獲得。
新聞世論調査におけるこの年の「ヒーローと呼べる人物」として第1位王貞治に次ぎ、第2位矢沢永吉として選ばれる。
1980年代[編集]
1980年代に入ると、矢沢は黄金期を迎え、売り上げ・動員数、共にロックスターとしての地位を磐石にする。海外市場に活路を求め、アメリカ西海岸に活動の拠点を移し、現地のプロデューサーやドゥービー・ブラザーズなどのミュージシャンを起用したアルバムを何作か世界・全米で発売する。
この頃より、積極的に交友を広げ、自身が有能と判断した人物に関しては、しがらみなどを気にせず、躊躇なく関わりを持つようになる。古くからの友人であった大野真澄はフォークミュージックを歌う人間であったし、ソロになった当初より大野と共に相談相手となっていた吉田拓郎も同じである。以降もフォークミュージック界の人間であった西岡恭蔵、また歌謡曲の分野で活躍していた大津あきらや山川啓介を作詞に起用している。近年でもブリティシュなモッドスタイルのバンド、ザ・コレクターズの加藤ひさしに作詞を依頼したり、その姿勢は変わることがない。
1980年
第1弾ドキュメンタリー映画『RUN&RUN』公開。
ワーナーパイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン )に移籍。アメリカでの活動を視野に入れたもの。
長者番付歌手部門1位78年に続き首位獲得。
1981年
単身渡米し、アサイラム・レコードと契約。
9月25日、第1弾海外版アルバム『YAZAWA』全世界発売。全米での売上げ枚数は約2,000枚だった。以後主なる活動拠点をロサンゼルスに定める。
1982年
2月10日 第2弾海外版アルバム『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』全米発売。
ビルボードの推薦曲として、シングル『ROCKIN' MY HEART』がジョージ・ハリスン、バリー・マニロウと共に掲載される。
ドゥービー・ブラザーズのメンバーと共にE.YAZAWA として“来日”し、凱旋武道館ライブ「MILES AND MILES」を敢行。このコンサートの模様はNHKで放送される。
長者番付歌手部門1位78年80年に続き首位獲得。
1984年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1984 「E' LIVE 1984」をスタート。
1985年
ライブエイドに出演。
1987年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1987「ROCK 'N' ROLL KNIGHT 2」をスタート。
第3弾海外版アルバム『FLASH IN JAPAN』全米発売。全米での売上げ枚数5万枚。MTVスタッフによるPV製作。後に自伝で「FLASH IN JAPAN」の印税が800万円だったと回顧。
日・米・伊合作映画『グッバイ・ヒーロー』の音楽を担当。サントラが発売される。
1988年
アルバム『共犯者』ロンドンレコーディング。
東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)に移籍。日本国内を重視した活動になる。
前述のアルバム世界発売であるが、ワーナーブラザーズはほぼ関与しておらずその実態は日本のワーナーパイオニア(当時)との契約であり、エレクトラ、アサイラム・レコードは配給だけを行う契約であった。この事からアメリカでのプロモーションは不十分な物であり、惨憺たる結果となる。第3弾『FLASH IN JAPAN』だけはワーナーブラザーズが全面バックアップを行ったものの、同様の結果に終わってしまった。この一件により、矢沢はワーナーへの不信感をつのらせ、同時期、石坂敬一の誘いもあって東芝EMIに移籍することとなる。
1989年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1989 「STAND UP'89」Part1を9/1からスタート
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1989「STAND UP '89 Special・2」を12/6からスタート
1990年代[編集]
1990年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1990 「Rock'n'Roll Army'90」をスタート。
1991年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1991 「Big Beat」をスタート。
1992年
アルバム『Anytime Woman』ではビートルズの元ドラマーリンゴ・スターの長男、ザック・スターキーが「Anytime Woman」と「銀のネックレス」を担当した。レコーディングはロンドンのアビーロード・スタジオ。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1992 「Anytime Woman」をスタート。
1993年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1993 「Come On!」をスタート。
1994年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1994 「The name is YAZAWA」をスタート。
TBS系列のテレビドラマ、アリよさらばで自身初となる、主演(「安部良太」役)と音楽監督を担当。
1995年
ベストアルバム『BIG BEAT』香港発売。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1995 「JUST TONIGHT」をスタート。
1996年
インターネット「E.YAZAWA ONLINE SHOW」スタート
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1996 「WILD HEART」をスタート。
原宿にてゲリラライブ敢行。
1997年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1997 「YES,E」をスタート。
ウェンブリー・スタジアム(英国ロンドン)で、エルヴィス・プレスリー没後20年を記念して行われたロックフェスティバル「songs and visions」にアジア代表として選ばれ、ロッド・スチュワート、ジョン・ボン・ジョヴィ、ロバート・パーマー、チャカ・カーン等と競演。世界60か国に放映されるが、ロッドから最初「矢沢? 知らないね」とコメントされる。しかしゲスト紹介とともに現れたYAZAWAのパフォーマンスを8万人の観衆は快く受け入れ、ロッド自身もエンディングでYAZAWAをステージ中央に呼ぶなどし、最後には楽屋裏で「君、うまいね。エルヴィスのナンバー最高だったよ。今度いっしょにツアーやろうぜ!」とまで言わしめたが、両者によるツアーは行われていない。この模様をNHKがドキュメント番組"Do You Know YAZAWA?"として制作、放送した。
ヘヴィメタルバンド、BOW WOWのギタリスト、山本恭司がツアーに参加。カリスマ同士の競演で話題となる。以後矢沢のツアーに参加する機会が増える。
ウィーンにてゲリラライブ敢行。
1998年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1998 「SUBWAY EXPRESS」をスタート。
1999年
映画「お受験」で映画初主演。 
9月15日、横浜国際総合競技場にて50歳バースデーライブ「TONIGHT THE NIGHT! ありがとうが爆発する夜」開催。
10月、世界最大のヨットレース「アメリカズカップ」のテーマソング(「ヘブンリー・クルーズ」)を担当。
初のアメリカでのツアー「Millennium America Tour」敢行(ホノルル、ロサンゼルス、サンフランシスコ)。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1999 「LOTTA GOOD TIME」をスタート。
2000年代[編集]
2000年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2000 「STOP YOUR STEP」をスタート。
ナラダ・マイケルウォールデンプロデュースのチャリティ・クリスマスアルバム『music of love~for tomorrow's children~』にスティーヴィー・ワンダー、スティング、エンヤなどと参加。
前年同様アメリカツアーを行う(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク)。
2001年
「E.YAZAWA ONLINE SHOW」終了。これを発展させる形で総合公式サイト「YAZAWA'S DOOR」をスタート。有料会員制度やグッズ、チケットの販売を開始。
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2001 「Z (zi)」をスタート。
FMフェスティバル'01テーマソング『この道の向こうに』を担当。
自著伝第2弾「アー・ユー・ハッピー? 」を出版。
2002年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2002 「ONE MAN」をスタート。
初のアコースティックコンサートツアー「VOICE」、デビュー30周年記念イベント「THE DAY」を敢行。
2003年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2003 「Rock Opera」をスタート。
ディズニーアニメ『ピノキオ』の主題歌『星に願いを』を担当し、東京ディズニーシーにてゲリラライブを行う。ディズニー社より表彰を受ける。
7月27日、大阪の万博記念公園で開催されたFM802主催の野外ロックフェスMEET THE WORLD BEAT 2003にシークレットゲストとして出演。披露したのは「ラブ・ファイター」1曲だけではあったが、突然の登場で数万人の観客を驚かせた。
2004年
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 「YAZAWA CLASSIC II」,「FIFTY FIVE WAY」をスタート。
7月24日、25日のPOCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004で、エアロスミス、ザ・フー、ブラック・アイド・ピーズ、レニー・クラヴィッツ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズと共に参加。大トリを務める。
2005年
ソロデビュー30周年を迎え、原点回帰すべく毎年恒例の武道館公演を封印しEIKICHI YAZAWA LIVE HOUSE TOUR 2005 「ROOTS」をスタート。
2006年
10月20日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2006 「NEW STANDARD ~Rock Opera2~」をスタート。
8月6日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL出演。
12月2日、ブルーノート東京にてライヴ。
2007年
8月18日、RISING SUN ROCK FESTIVAL 2007 in EZOに出演。
10月12日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2007 「THE REAL」をスタート。12月16日には、前人未到の日本武道館100回公演を達成した。当日の公演は最初の武道館公演と同じ服装で登場した。
郵便局会社民営化企画協力第一弾として、日本武道館公演100回記念「You Say YAZAWA矢沢永吉 フレーム切手」販売。
2008年
デビュー以来、欠かさずライブツアーを行ってきた矢沢が、37年目で初、ステージに立たないことを決意。“少しじっくり距離を置いて考える”というコメントを発表した。EMIミュージック・ジャパンの契約を終了し、自らのインディーズレーベル「GARURU RECORDS」を立ち上げる。
2009年
7月20日、ap bank fesにサプライズ出演。スポーツクラブで偶然小林武史と遭遇し、その場で小林から出演のオファーを受けたことがきっかけとなって出演に至った。
7月26日、HIGHER GROUND 2009出演予定だったが、大雨の影響により中止。
8月2日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL出演。
8月19日、新宿のタワーレコード新宿フラッグスビル店屋上で、ソロデビューにして初めてのインストアライブ
9月19日、東京ドームにて60歳バースデーライブ「ROCK'N'ROLL IN TOKYO DOME」開催。サプライズゲストとして、氷室京介、甲本ヒロト、ギタリストの真島昌利、長女の矢沢洋子が出演した。
9月26日、Think the water,Feel the music. LIVE for LOVE we support WaterAid出演。
10月30日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2009 「ROCK'N'ROLL」をスタート。
11月21日より第2弾ドキュメンタリー映画『E.YAZAWA ROCK』公開。
12月31日、「第60回NHK紅白歌合戦」に白組サプライズゲストとして出演し、大物歌手揃いの紅白で唯一2曲歌うことを許され「時間よ止まれ」「コバルトの空」を熱唱。「時間よ止まれ」の中で歌詞を間違えNHK側でテロップを消すという場面が見られた。
2010年代[編集]
2010年
5月30日、「東京大学 五月祭」にて、初の学園祭ライヴにサプライズ出演。
7月24日、HIGHER GROUND 2010に出演。
8月7日、8日のSUMMER SONIC2010に出演。
8月14日、RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZOに出演。
8月28日、音楽と髭達2010 "GENERATION"にサプライズ出演。
10月28日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2010 「TWIST」をスタート。
2011年
11月17日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2011「STILL ROCKIN' ~走り抜けて・・・~」をスタート。
2012年
5月12日、開業前の東京スカイツリー350m天望デッキにてスペシャルライブを行う。
8月20日よりEIKICHI YAZAWA 40th ANNIVERSARY LIVE in LIVE HOUSEを開催。
9月1日、日産スタジアム(横浜国際総合競技場)にてEIKICHI YAZAWA 40th ANNIVERSARY LIVE「BLUE SKY」を開催。
11月7日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2012「JAMMIN' ALL NIGHT」をスタート。
12月31日、第63回NHK紅白歌合戦に白組特別出演歌手としてサプライズ出演。「IT'S UP TO YOU」を熱唱。
2013年
様々な事件・騒動[編集]
山中湖の自宅取り壊し。
山中湖に建てた自宅が無断で『アサヒ芸能』[3]に取り上げられ、地図にも掲載された。そのため、熱狂的なファンが連日連夜訪れ、周辺は大騒ぎとなる。妻はノイローゼで入院一歩前、子供たちは登校拒否になり、しかたなく他の地区へ引越しした。その後、空き家となった住居に一部のファンが侵入し、スプレーで落書きや板を剥がしてのたき火、無造作に残された女性下着など、悪質な行為がエスカレートしたため、自宅を取り壊すこととなる。
ポルシェ盗難事件。
マネージャーによるコンサート売り上げ詐欺事件。
そっくりさんによる3億円CM裁判。
最終的に「肖像権を大切にしましょう」という共同提言を新聞に掲載した。
オーストラリアにおける事務所元側近による巨額横領事件。
土地取引を巡り、34億円という巨額の経済事件となった。1998年に事件が発覚して6年で完済したと報道されているが、「実際は15,6年かけて返済していた」と後に語っている。これはオーストラリア犯罪史上2番目の被害額である。
サントリー「BOSS」CM自粛。
サントリー「BOSS」CM中のセリフ「夏だからってどこか行こうってのやめましょうよ…どこ行ったって夏なんですから…」に、長野県の旅館経営者が抗議。このCMは自粛となったが、次回のCMではセリフが「冗談じゃねえよ」となった。
桑田佳祐による「すべての歌に懺悔しな!!」騒動。
1994年に桑田が発表した楽曲「すべての歌に懺悔しな!!」の歌詞を巡り、マスコミによって長渕剛と共に桑田に揶揄(やゆ)された当事者とされた。この際、激怒した長渕とは対照的に「お互いクリエイター。全然、気にしていないよ。それより桑田君の方は大丈夫か?」と逆に桑田を気遣っている。
キャロルの著作権を巡って、ジョニー大倉との争いが起きる。
ものまねタレントへの提訴。
2007年、ものまねタレントの石山琉大が、「矢沢永吉が唯一認めた」というキャッチコピーを自身の公式ホームページに記載し、ものまね芸および自身の経営する飲食店の広告・宣伝のために矢沢の氏名を利用した。しかし、石山自身の借金がたまり、イベント会場を借りたが支払いもせず、車販売などでも問題を起こして矢沢の事務所に苦情が来たことで矢沢が1000万円の損害賠償を求めて石山を訴えたところから始まった。
すると石山は精神的苦痛を理由に矢沢に対して1億円の賠償を求める逆訴訟を起こすが、結局矢沢は石山に誠意を込めて謝ってほしいとのことで石山側が折れ、石山からわび状と50万円を受け取ることで和解した。しかし、後に石山が和解に納得していないという内容のコメントを矢沢が自身のHPで発表したことで石山との関係が再び悪化、2009年10月19日に石山は名誉棄損を主張して矢沢に対して3000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたが、2010年3月25日、石山琉大の請求は全て棄却された。
上述のようなさまざまな逆境に見舞われるものの、CMやテレビドラマにたびたび出演。また主演映画公開など新分野に挑戦。2005年までに全ての借金を返済し、東京赤坂に5階建てのスタジオを建設するまでに至る。なお本人はその件に関し「また新たなローンが出来てしまった」と笑い交じりに話している。金融機関から「あなたは返済の優等生ですよ」と評価される。
特色[編集]

音楽の特徴と変化[編集]
矢沢は団塊の世代であり、彼らが若者の時代に多くが耳にしたザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズなどの楽曲の“洗礼”を受けていた。矢沢が最初にプロデビューを飾ったCAROLは、ロックンロールをベースにしたものであり、特にザ・ビートルズの影響を強く感じさせるものであった。CAROLは人気の高いロックンロールバンドであったが、矢沢永吉の音楽を表現するには限界があった。
CAROLの解散の後、ソロ活動を始めた矢沢だったが、バラード色を強く押し出した曲調に戸惑いを感じるファンは少なくなかった。当時まだ日本では珍しかった自分自身でプロデュースを行い、アレンジも同時に行うというセルフプロデュース方式をとり、アルバムを発表した。特に矢沢のアレンジャーとしての才能は卓越しており、その成果は初期のアルバムにて発揮された。
近年は大人の切ない世界観を渋く重厚に歌い上げ、自分自身の音楽性をクラシックロックとして、芸域を拡大し、新たな市場を開拓していった。巻き舌でコブシを利かせた歌い方は、一部には「演歌ロック」との評価もあった。作詞を手がけた作品はかなり少ないせいか、矢沢いわく「賛否両論をつけることも大切である」とのこと。
1980年代のインタビューでは、洋楽ロックをお手本に「パクリ」を繰り返している同業者を「軽蔑してるね」と批判している。「ロックに詳しい層から見ればダサいモノであっても、本当に自分の内面から生み出した音楽をやる。そうでなければ、恥ずかしくて人前に出られない」という趣旨の発言をしている。
チェコ・ナショナル交響楽団をバックバンドに招聘し、「Rock Opera」を開催した。
矢沢はシンガーソングライターではなく、自身をメロディーメーカーと自負し、作曲している。作詞をしないのは「才能がないから」としている。
音楽活動とその特色[編集]
主に矢沢の音楽活動は、キャロル時代から現在まで、歌番組への出演は極力控え、ライブ・パフォーマンスに重点を置く姿勢を貫いている。毎年欠かさず全国ツアーを行い、観衆と正面で向かい合い、そのステージ技量を見せ付けている。
ロッド・スチュワートに影響を受けたというマイクスタンドを振り回す独特のアクションは「マイクターン」と呼ばれ、ライブでの見せどころの一つである。白い特製のマイクスタンドを使い、マイクは動かないように白いビニールテープで固定し、シールドコードも白色に統一してある。矢沢はソロデビュー当時からこのスタイルを貫いている。ステージ衣装も白のスーツを着用することが多く、ライブ中盤から終盤にかけて矢沢タオルを肩にかけて登場する。コンサート終盤には楽曲(「止まらないHa-Ha」「トラベリン・バス」等)に合わせてタオル投げが会場全体に起こるのも大きな特色の一つである。この「タオル投げ」は矢沢が客に強要したのではなく、客側から「トラベリン・バス」演奏時に自然発生で起こったのが最初であると、自身が「オシャレ30/30」の中で語っている。また、いちはやく舞台装置にレーザー光線や可動式ライトなどを使用した。
全国ツアーは大都市圏のアリーナ、スタジアム会場だけでなく、地方都市の市民会館などにも毎年訪れている。コンサートの広告には、現在に至るまで「特攻服での入場はお断りします。また、他のお客様を威圧する服装・集団も入場をお断りすることがあります」という文言が入っている。かつて矢沢は暴走族やヤンキーなどの不良層から支持を受けており、それゆえコンサート会場周辺は不良の集会と化し、一種異様な雰囲気をかもし出し、一般のファンが近寄り難かったためである。また、過去の迷惑行為の多くが飲酒者によって引き起こされていたため現在では入場時、アルコールチェックが行われ、飲酒者を締め出している。
外国でアルバムを録音し、外国人のプロデューサーを起用するという、現在では当たり前の手法も、矢沢は早くから行っていた。1980年代前半には、レコーディングに参加したドゥービー・ブラザーズのメンバーらも連れてコンサートを行った。
矢沢に関する記事は、基本的に矢沢の事務所の了承を得てからでないと掲載できないようになっており、この事務所の厳しい目を業界話としては知っていた作家でコラムニストのナンシー関は、数あるコラムの中で唯一、矢沢のライブ(とその観客の様子)を取材したものが掲載前に事務所の検閲を受け、校正されてしまった顛末を著述の中で明かしている。
ディスコグラフィ[編集]

シングル[編集]
アイ・ラヴ・ユー、OK / セクシー・キャット (1975年9月21日)
真夜中のロックンロール / 最後の約束 (1976年3月21日)
ひき潮 / 写真の二人 (1976年9月21日)
黒く塗りつぶせ / せめて今夜は (1977年6月21日)
時間よ止まれ / チャイナタウン (1978年3月21日)
I say Good-bye, So Good-bye / 天使たちの場所 (1979年4月1日)
THIS IS A SONG FOR COCA-COLA / RUN & RUN (1980年3月10日)
涙のラブレター / レイニー・ウェイ(1980年5月10日)
兄貴に相談(アルバム「ザ・ロック」に付属 1980年11月28日)
抱かれたい、もう一度 -LOVE THAT WAS LOST- / The Ride (1981年4月25日)
You / Shampoo(1981年9月25日)
YES MY LOVE / YOKOHAMA FOGGY NIGHT (1982年2月20日)
LAHAINA / SEPTEMBER MOON(1982年4月10日)
ROCKIN' MY HEART / WHY DID YOU EVER GO (1982年10月9日)
ミスティ-misty- / WHY YOU … (1983年6月29日)
LAST CHRISTMAS EVE / シーサイド#9001(1983年11月16日)
THE BORDER / I SAID I LOVE YOU(1984年3月10日)
逃亡者 / BALL AND CHAIN(1984年7月10日)
TAKE IT TIME / あ・い・つ (1985年6月25日)
BELIEVE IN ME/ 棕櫚の影に(1986年5月25日)
FLASH IN JAPAN ※アルバム未収録 / YOKO (1987年5月13日)
共犯者 / RISKY LOVE(1988年7月6日)
ニューグランドホテル / キャンディ(1988年9月21日)
くちづけが止まらない / ルイジアンナ ※アルバム未収録 (1988年11月30日)
SOMEBODY'S NIGHT / アゲイン (1989年4月26日)
愛しい風 / 六本木ショット ※アルバム未収録(1989年7月19日)
バラードよ永遠に / FLESH AND BLOOD(1989年10月11日)
PURE GOLD / I LOVE YOU, OK -1990 Version-(1990年5月23日)
夢の彼方 / フェンス越しのFICTION (1991年4月19日)
ラスト・シーン / LONELY WARRIOR(1991年5月31日)
BIG BEAT / DON'T WANNA STOP(1991年12月11日)
Anytime Woman / Sail Away ※アルバム未収録 (1992年6月3日)
Anytime Woman -English Version- ※アルバム未収録 / アンジェリーナ (1992年6月17日)
東京 / 心花よ(1993年2月10日)
黄昏に捨てて / 闇の中のハリケーン(1993年10月27日)
アリよさらば ※アルバム未収録 / SEA BREEZE(1994年4月27日)
いつの日か / センチメンタル・コースト(1994年5月25日)
夏の終り ※アルバム未収録 / 抱いちまったら(1995年2月8日)
青空 / THE TROUBLE MAN ※アルバム未収録(1995年5月24日)
MARIA ※アルバム未収録 / 終わりじゃないぜ ※アルバム未収録(1996年5月16日)
もうひとりの俺 / WILD HEART(1996年11月7日)
Still ※アルバム未収録 / China Girl(1997年9月3日)
あの日のように ※アルバム未収録 / だから、抱いてくれ(1997年11月7日)
チャイナタウン / 黒く塗りつぶせ(1998年7月29日)
Oh!ラヴシック / I have no reason / 馬鹿もほどほどに -Live at CLUB CITTA' KAWASAKI Sep.29th,1998- ※アルバム未収録(1999年6月30日)
THE TRUTH / Brother!(2000年8月9日)
背中ごしの I LOVE YOU / THE STRANGE WORLD -remix- ※アルバム未収録(2001年8月29日)
鎖を引きちぎれ / 気ままなロックン・ローラー CD-EXTRA仕様(2002年7月26日)
Tonight I Remember ※アルバム未収録 / Little Drummer Boy ※アルバム未収録(2003年10月25日)
ONLY ONE / 面影 (2005年8月24日)
夏の終り / この道の向こうに(2007年9月5日)
Loser (2009年2月25日)
コバルトの空 / 未来をかさねて (2009年6月3日)
オリジナルアルバム[編集]
I LOVE YOU,OK (1975年9月21日)
A Day (1976年6月21日)
ドアを開けろ (1977年4月21日)
ゴールドラッシュ (1978年6月1日)
KISS ME PLEASE (1979年6月21日)
KAVACH (1980年6月10日)
YAZAWA (1981年8月5日)(海外発売 第1弾)
RISING SUN (1981年10月25日)
P.M.9 (1982年7月10日)
YAZAWA It's Just Rock'n Roll (1982年12月4日)(海外発売 第2弾)
I am a Model (1983年7月20日)
E' (1984年7月25日)
YOKOHAMA二十才まえ (1985年7月25日)
東京ナイト (1986年7月25日)
FLASH IN JAPAN (1987年5月18日)(海外発売 第3弾)
共犯者 (1988年7月21日)
情事 (1989年6月21日)
永吉 (1990年7月31日)
Don't Wanna Stop (1991年7月5日)
Anytime Woman (1992年6月24日)
HEART (1993年3月31日)
the Name Is... (1994年7月6日)
この夜のどこかで (1995年7月5日)
MARIA (1996年7月3日)
YES (1997年8月8日)
LOTTA GOOD TIME (1999年8月6日)
STOP YOUR STEP (2000年9月27日)
YOU,TOO COOL (2001年9月27日)
横顔 (2004年9月1日)
ONLY ONE (2005年9月14日)
ROCK'N'ROLL (2009年8月5日)
TWIST (2010年6月9日)
Last Song (2012年8月1日)
ライブアルバム[編集]
THE STAR IN HIBIYA(1976年11月21日)
スーパーライブ 日本武道館(1977年11月21日)
LIVE 後楽園スタジアム (1978年12月5日)
The Rock (1980年11月28日)
1982 P.M.9 LIVE (1983年3月26日)
STAND UP!! (1989年2月15日)
Anytime Woman LIVE ALBUM (1992年9月30日)
LIVE!YES,E (1998年4月22日)
LIVE DECADE 1990~1999 (2000年3月29日)
CONCERT TOUR"Z"2001 (2002年3月30日)
ベストアルバム[編集]
THE GREAT OF ALL (1980年7月1日)
THE GREAT OF ALL VOL.2 (1980年12月1日)
THE GREAT OF ALL-Special Version- (1983年11月21日)
THE BORDER (1984年2月15日)
ROCK'N ROLL (1988年3月25日)
BALLAD (1988年3月25日)
THE ORIGINAL (1990年10月31日)
THE ORIGINAL 2 (1993年12月8日)
E.Y 70'S (1997年10月1日)
E.Y 80'S (1997年10月1日)
E.Y 90'S (1997年10月1日)
ALL TIME BEST ALBUM (2013年5月15日)
その他アルバム[編集]
TEN YEARS AGO (1985年11月28日)(キャロル時代の楽曲のセルフカバー)
SUBWAY EXPRESS (1998年9月8日)(セルフカバー)
SUBWAY EXPRESS 2 (2002年9月4日)(セルフカバー)
YOUR SONGS 1 (2006年5月17日)(リミックスベスト)
YOUR SONGS 2 (2006年5月17日)(リミックスベスト)
YOUR SONGS 3 (2006年5月17日)(リミックスベスト)
YOUR SONGS 4 (2007年9月26日)(リミックスベスト)
YOUR SONGS 5 (2007年9月26日)(リミックスベスト)
YOUR SONGS 6 (2007年9月26日)(リミックスベスト)
ONLY ONE~touch up~ (2011年7月6日)(リミックス)
DVD&Blu-ray[編集]
※はDVDとBlu-rayでのリリース、それ以外はDVDのみ
OPEN RECORDING GIG (1996年)
SUBWAY EXPRESS LIVE IN HOUSE (1999年)
SUBWAY EXPRESS LIVE IN BUDOKAN (1999年)
TONIGHT THE NIGHT~ありがとうが爆発する夜~ (2000年)
THE FILMS VIDEO CLIPS 1982-2001 (2001年)
THE STAR IN HIBIYA (2001年)
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR“Z”2001 (2002年)
YAZAWA CLASSIC -VOICE- EIKICHI YAZAWA Acoustic Tour 2002 (2003年)
ONE MAN in BUDOKAN EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2002 (2003年)
Rock Opera Eikichi Yazawa (2004年)
雨に眠れ-SLEEP IN THE RAIN- (2004年)(TSUTAYAオンライン限定)
ROCK 'N' ROLL KNIGHT2 (2004年)(ファンクラブ限定)
FIFTY FIVE WAY (2005年)
YAZAWA CLASSICII (2005年)
FIFTY FIVE WAY in BUDOKAN (2005年)
RUN&RUN (2006年)
お受験 (2007年)
Rock Opera2 NEW STANDARD (2007年)
THE LIVE EIKICHI YAZAWA DVD BOX (2007年)
THE REAL (2008年4月23日)※
SPECIAL X'mas LIVE (2009年1月30日)(ファンクラブ限定)
ROCK'N'ROLL IN TOKYO DOME (2009年12月09日)
E.YAZAWA ROCK (2010年7月21日)※
THE LIVE HOUSE ROOTS in Zepp Tokyo 2005 (2011年4月13日)
New Standard ~ Blue Note Style ~ 2006(2011年4月13日)
ONLY ONE~touch up~ SPECIAL LIVE in DIAMOND MOON (2011年8月17日)
EIKICHI YAZAWA 40th ANNIVERSARY LIVE 『BLUE SKY』(2012年11月7日)
LD[編集]
RUN&RUN (1981年)
MILES AND MILES (1983年)
矢沢永吉ヒストリー (1984年)
東京ナイト (1986年)
矢沢永吉ヒストリー2 (1987年)
STAND UP '89 ARENA (1990年)
STAND UP '89 DOME (1990年)
ROCK'N ROLL ARMY '90 BUDOKAN (1991年)
1991 BIG BEAT STADIUM (1992年)
1991 BIG BEAT BUDOKAN (1992年)
LIVE VIDEO Anytime Woman (1993年)
VIDEO CLIPS (1993年)
The name is YAZAWA (1995年)
OPEN RECORDING GIG (1996年)
SUBWAY EXPRESS LIVE IN HOUSE (1999年)
SUBWAY EXPRESS LIVE IN BUDOUKAN (1999年)
VHS[編集]
RUN&RUN (1983年)
MILES AND MILES (1983年)
矢沢永吉ヒストリー (1984年)
東京ナイト (1986年)
矢沢永吉ヒストリー2 (1987年)
E' LIVE 1984 (1988年)(ファンクラブ限定)
STAND UP '89 ARENA (1990年)
STAND UP '89 DOME (1990年)
Rock'n'Roll Army '90 BUDOKAN (1991年)
1991 Big Beat STADIUM (1992年)
1991 Big Beat BUDOKAN (1992年)
VIDEO CLIPS (1993年)
VIDEO CLIPS2 (1993年)
Anytime Woman EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1992 (1992年)
Come On ! EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1993 (1994年)(ファンクラブ限定)
THE NAME IS YAZAWA CONCERT TOUR 1994 (1995年)
OPEN RECORDING GIG (1996年)
JUST TONIGHT EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1995 (1996年)(ファンクラブ限定)
WILD HEART EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1996 (1998年)(ファンクラブ限定)
YES, E EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1997 (1998年)(ファンクラブ限定)
SUBWAY EXPRESS LIVE IN HOUSE 1998 (1999年)
SUBWAY EXPRESS LIVE IN BUDOKAN 1998 (1999年)
お受験 (2000年)
校歌[編集]
Nishiyamato Academy of California School Song 「今日をありがとう」
出版物[編集]

成りあがり[編集]
著書
1978年に小学館より刊行された赤貧の少年時代を綴った自伝。インタビュアーに糸井重里を起用し、独特の矢沢口調で構成されている。ベストセラーとなり、そのサクセス・ストーリーは社会現象にまで昇華した。文庫版は角川文庫より刊行。
ドラマ
2002年11月23日、フジテレビドラマにて放送、TOKIOの松岡昌宏が矢沢を演じる。ほぼ矢沢の著作に基づいて構成されており、出生から武道館での大声援でのライブパフォーマンスが描かれている。また、日本で初めて、革ジャンにリーゼント・サングラスのスタイルでテレビ出演を行い、全国放送されたエピソードが紹介されている。
デモテープを持ち込んだレコード会社の受付に、後に妻となる女性がいて出会うという設定に変更されている
漫画
『漫画版 成りあがり』 (前編・後編の全2巻。1993年4月。矢沢クラブ)
江原良道による漫画化。 同年に『コミック版 成りあがり』として風雅書房より再刊(前編:1993年9月25日、後編:1993年12月6日)。
『成りあがり 矢沢永吉物語』 (全3巻。2008年 - 2009年。角川書店)
『コミックチャージ』連載のきたがわ翔による漫画化。主人公が亡き父の遺品である「成りあがり」を読んでいるという構成。
その他[編集]
矢沢永吉写真集 SUPER PHOTO LIVE (1979年) 稲越功一 小学館
19490914 THE LIFE OF EIKICHI YAZAWA (1995年) 新潮社
地球音楽ライブラリー 矢沢永吉 (1997年) TOKYO FM出版
アー・ユー・ハッピー? (2001年) 日経BP社
イチロー×矢沢永吉 英雄の哲学 (2006年) ぴあ
矢沢永吉×操上和美写真集「FACE EIKICHI YAZAWA 2006-2009」(2009年)
論文[編集]

CiNii収録論文 国立情報学研究所
出演[編集]

テレビドラマ[編集]
アリよさらば (1994年 TBS) - 安部良太 役
時よとまれ (1995年 テレビ朝日 土曜ワイド劇場)
雨に眠れ (2000年 TBS 月曜ドラマスペシャル) - 小野静夫 役
音楽番組[編集]
ベストヒットUSA
ミュージックフェア
夜のヒットスタジオ
歌のトップテン
ライブエイド - 小田和正、南こうせつと共演
うたばん
HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP
夢・音楽館
SOUND ARENA
MJ -MUSIC JOURNAL-
SONGS
第60回NHK紅白歌合戦(ゲスト出演で正規な出場ではない)
僕らの音楽-OUR MUSIC-(自身の出演CMのライバル会社がスポンサーを務めている番組だったため、番組内のCMはACジャパンに差し替えとなった)
第63回NHK紅白歌合戦(ゲスト出演で正規な出場ではない)



韓国戦時徴用訴訟 新日鉄住金が賠償応じる意向


公開日: 2013/09/30
戦時徴用の個人補償を求めた訴訟で韓国高裁が賠償命令判決を出した問題。
新日鉄住金は敗訴の場合、賠償に応じる意向と産経のみが報道。
1965年の日韓条約を反故にするかのような判決に従うのはなぜか?また産経のみしか­報道しないのはなぜか?詳しく伺います。

※番組では田原さんへの質問、ご意見をお待ちしております。
政治経済に限らず、身近なちょっとした疑問など、田原さんに聞いてみたいことがある方­はメールでお寄せください。
よろしくお願いいたします。
http://www.jfn.jp/RadioShows/owj_fri





少年H映画化8月10日公開 田原総一郎さんと妹尾河童さんの対談です。


公開日: 2013/07/26
妹尾河童さん原作の少年Hが映画化され、8月10日に公開されます。
田原総一郎さんはこの映画をご覧になられ3回泣いたとの事です。

この少年Hを作成した背景である戦時中の事について
妹尾河童さんと田原総一郎さんが語っています。

戦争は永遠に起こすものではないと思います。
戦争の歴史を風化させたくない」
そういう思い
で妹尾さんが作られた作品だそうです。

vol.849 田原総一朗の現代ビジネス塾より
画像:http://livedoor.blogimg.jp/meiseen/im...

妹尾河童ウェキペディア

妹尾 河童(せのお かっぱ、本名同じ、旧名:妹尾 肇「せのお はじめ」、1930年(昭和5年)6月23日 - )は、兵庫県神戸市林田区(現在の長田区)生まれのグラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家。
エッセイ『河童が覗いた』シリーズで発表されるその緻密な手書きイラストレーションも知られている。妻はエッセイストの風間茂子。

小学生の時芥川龍之介の『三つの宝』を裕福な友人から借りたくて、その友人が冗談で出した「空中2回転が出来たら貸す」という条件を鵜呑みにして失敗、肩から落下して骨折した。本自体は友人が父親に内緒で貸し出した。
旧制第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)に進学。家を空襲で失い、学校に住むことになったが、教室を等分してすのこで区切るという簡易部屋であったため一時期荒れる(仕切りであるすのこは、間を障子紙で塞いだ粗末なもので隣の子供が一日中妹尾家を穴を開けて覗き見していたため精神的にイラついたという)。「ボクこのままやったらなんか気がおかしくなってしまいそうや」と父に言って家出。そんな息子に父は暖かい言葉をかけて見送ったという。この家出の最中の棲家は旧制中学の使われていない美術室であった。
1949年(昭和24年)第二神戸中学校を卒業。その後、藤原義江に師事し、1954年(昭和29年)に独学で舞台美術家デビュー。後に藤原は「僕は若い舞台美術家を誕生させたかったんだよ」と述べているが、藤原にその意図はなかっただろうと妹尾自身が否定している。「トスカ」の公演直前、藤原はある舞台美術家に本来支払うべき報酬をずっと払っていなかったため、「今までの分を支払わなければ、今度の舞台美術の設計書は渡せません」と抗議された。藤原は売り言葉に買い言葉で「ああ、じゃあいいよ」と答え、上演予定日が迫る中で舞台美術が確保できなくなってしまった。藤原は当時グラフィックデザイナーとして仕事をしていた妹尾の存在を思い出し、必死で口説いた。結果として上演は成功し、当時辛口批評で有名だった評論家も絶賛したので妹尾自身も気をよくし、妹尾はその後も藤原から舞台美術を半ば無理やりやらされ、気がついたら生業となっていたのだという(『河童の手のうち幕の内』より)。
若い頃は女遊びが激しかったといい、そのことを自身ビョウキと表現している。
フジテレビ美術部に22年間在籍し、『夜のヒットスタジオ』の美術スタッフとして名を連ねる[1]。また『ミュージックフェア』のセット美術で第1回伊藤熹朔賞テレビ部門を受賞。『ザ・ベストテン』の美術デザイナー・三原康博は妹尾の照明デザインに大きな影響を受けたと述べている[2]。1970年には文化庁新進芸術家在外研修員に選ばれ、ヨーロッパに留学し舞台美術を学んだ。
自身の少年時代を描いた著書『少年H』は上下巻を合わせて300万部以上の大ベストセラーになり、1997年(平成9年)毎日出版文化賞・特別賞受賞。1999年(平成11年)および2001年(平成13年)にはフジテレビにより2時間スペシャルドラマ化、2013年(平成25年)にはテレビ朝日開局55周年記念作品として映画化された。
モデルガンのコレクターであり、52年規制に伴う規制強化論に対し、モデルガン愛好家協会の会長として戦い抜いたことでも知られる。
自身の個展「河童の覗いたトイレまんだら展」において、海外の古典的なトイレに腰掛けて用を足しているという、トイレにちなんだシチュエーションとした自身の蝋人形が製作された事がある。(この顛末は、河童の手のうち幕の内で紹介されている。)
なお、「河童」はデビュー当時のあだ名であり出生当時の本名は「肇(はじめ)」であったが、それが本名以上に浸透してしまったため1970年(昭和45年)に家庭裁判所の承認を取り付けて改名。それ以降は「河童」が(戸籍上も)本名である。
少年時代は、クリスチャン(プロテスタント)であった両親(特に母親)の影響もあって教会に通っていたが、本人は小学校時代より信仰に馴染めなくなっており、教会で戦勝祈願をしている女性信者を見て、中学校入学後に教会に通わなくなった。以後は現在に至るまで無宗教である。
名前と改名に関して[編集]

『少年H』の由来ともなっている子供のころのあだ名は、母親がセーターに大きく名前(肇)のイニシャルである「H」と編みこみ、これを見た同級生から「H」と呼ばれたことによる。母親はさらにHの下に「SENOH」と編んだので街中で見知らぬ人に「君は妹尾くんって言うんやね」と話しかけられ「何故僕の名前がわかるんやろ」と本人は不思議に思っていた。
『河童が覗いた仕事場』の立花隆のインタビューで大阪、朝日会館でのグラフィックデザイナー時代、近くのバーで出た菊の花の漬物を見て「他の花も喰えるんじゃないか」と店に生けてあった花を片っ端から食べたところ、しばらくすると急に腹が痛くなり七転八倒店の中を転げまわった。それを見ていた『航空朝日』編集長斉藤寅朗が「おまえは河童みたいな奴だな」と言ったことが始まりと述べ、『河童の手のうち幕の内』ではあだ名が異常に浸透してしまい、藤原歌劇団の舞台美術を手がけた際も本名を思い出してもらえず、プログラムに「妹尾河童」と書かれてしまったと事の経緯を書いている。 勤務先のフジテレビで来客が受付に「妹尾肇を呼んで欲しい」と伝えても「当社にはそのような人物はおりません」といって業務に差し障りが生じたり、また「妹尾肇」宛の郵便物が近所に住む「松尾肇」という人物に届いたりと度々仕事のみならず生活においても支障が生じた。さらに文化庁の事業により海外に派遣されることになったが海外において舞台美術の名義がすべて「妹尾河童」で紹介されており、文化庁交付書類上の「妹尾肇」という人物と同一人物であることをいちいち説明するのは大変ということで「妹尾河童」という名前でのパスポート取得のために改名を決意する。
しかし家庭裁判所は「本来改名というのは珍奇な名前で苦しんでいる人を救済するためにあり、あなたのような普通の名前から珍妙な名前は前例がなく、到底認められない」と一度門前払い。食い下がる妹尾に対し「では上申書を提出しなさい」とうながし提出させる。上申書を受け取った裁判官は読みながら時々うなづいたり笑ったりし「よく書けていました」といい改名を認めた。普通の上申書の書き方と異なっていたようである。上申書の全文及び改名騒動の顛末は『河童の手のうち幕の内』河童の由来は『河童が覗いた仕事場』で読める。
家族[編集]

両親はともに広島県福山市出身で親戚。家も隣りの幼馴染であったという[3]。父は洋服店を営んでいた。彼が修繕を行った服の中には杉原千畝のビザを受け取って来日したユダヤ人のものも含まれるという。
最初の妻は病で亡くす。1961年、風間茂子と再婚。風間は妹尾を最初写真で知り、個人写真で他の人は全員正面から撮っていたのに妹尾だけ見返り美人風に撮っていたので変わったキザな奴だと思ったとのこと。風間との結婚は契約結婚であり毎年結婚記念日に「また一年結婚生活を行うかどうか」の意思表示を行い同意した場合再度一年更新するとの取り決めを二人で交わし現在まで更新中。上記の理由から妹尾家の表札は「妹尾」と「風間」で別となっているので時々「離婚したんですか?」「家庭内別居なさったんですか」と尋ねられることがあるという(風間の著書『まま子、実の子、河童ン家』より)。
最初の妻との間の子供に「狸(まみ。狸穴(まみあな)から)」と名づけようとしたという。結局読みは同じで別の漢字をあてた。風間との間には男児をもうける。「河太郎」という名前を候補に考えていたが、知り合い数十人による投票で「太郎」に決定。この妹尾太郎は後に画家となり立花隆のネコビルの猫や妹尾の『少年H』の表紙を描いている。
著書[編集]

河童が覗いたヨーロッパ
河童が覗いたインド
河童が覗いたニッポン
河童が覗いたトイレまんだら
河童が覗いた「仕事場」
河童が覗いた50人の仕事場
河童が覗いた仕事師12人
河童が語る舞台裏おもて
河童のタクアンかじり歩き
河童の対談おしゃべりを食べる
河童の手のうち幕の内
河童のスケッチブック
少年H


少年Hを書いた妹尾河童さんを、知っているかネーー
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October 01, 2013

売上速報、食品スーパー、2013年8月、堅調!

食品スーパー、売上速報、2013年8月度:PI研、独自集計23社約2,200店舗

2013年度
  8月度:全体105.1%(既存店100.2%)
  7月度:全体103.8%(既存店99.0%)
  6月度:全体105.8%(既存店100.9%)
  5月度:全体104.1%(既存店99.2%)
  4月度:全体103.1%(既存店97.9%)
  3月度:全体105.1%(既存店100.5%)
  2月度:全体101.2%(既存店96.9%)
  1月度:全体101.7%(既存店98.8%)
2012年度
  12月度:全体102.5%(既存店99.7%)
  11月度:全体102.0%(既存店98.8%)
  10月度:全体100.5%(既存店97.5%)
   9月度:全体103.7%(既存店100.3%)
   8月度:全体102.4%(既存店 99.1%)

2013年:
8月度ベスト10
  1.マックスバリュ中部121.0(既存店98.7)
  2.マックスバリュ東海119.5(既存店97.5)
  3.Olympic:フード111.8(既存店110.8)
  4.ヤオコー109.0(既存店101.6)
  5.マックスバリュ東北108.2(既存店101.0)
  6.マックスバリュ北海道107.3(既存店106.0)
  7.ハローズ106.9(既存店99.6)
  8.オオゼキ106.9(既存店102.5)
  9.ダイイチ104.5(既存店104.6)
 10.イズミ104.5(既存店104.5)

7月度ベスト10
  1.マックスバリュ中部120.2(既存店96.7)
  2.マックスバリュ東海120.1(既存店96.7)
  3.マックスバリュ九州109.1(既存店102.5)
  4.ヤオコー109.0(既存店101.4)
  5.オオゼキ107.7(既存店103.3)
  6.Olympic:フード106.5(既存店105.7)
  7.マックスバリュ北海道106.2(既存店105.0)
  8.ハローズ 105.3(既存店98.3)
  9.バロー105.0(既存店96.8)
 10.マックスバリュ東北102.7(既存店98.3)

6月度ベスト10
  1.マックスバリュ東海(静岡)121.7(既存店97.2)
  2.マックスバリュ中部(三重)117.8(既存店95.3)
  3.Olympic:フード(東京)114.6(既存店110.7)
  4.ハローズ(広島)109.8(既存店103.2)
  5.オオゼキ(東京)108.9(既存店104.5)
  6.ヤオコー(埼玉)108.4(既存店102.3)
  7.ヤマザワ(山形)107.4(既存店101.3)
  8.イズミ(広島)106.0(既存店105.2)
  9.マックスバリュ北海道(北海道)105.6(既存店105.4)
 10.マックスバリュ東北(秋田)105.4(既存店102.3)

既存店:
2013年度
8月度、伸び率べスト5
  1.Olympic:フード111.8(既存店110.8)
  2.マックスバリュ北海道107.3(既存店106.0)
  3.ダイイチ104.5(既存店104.6)
  4.イズミ104.5(既存店104.5)
  5.オオゼキ106.9(既存店102.5)

7月度、伸び率べスト5
  1.Olympic:フード106.5(既存店105.7)
  2.マックスバリュ北海道106.2(既存店105.0)
  3.オオゼキ107.7(既存店103.3)
  4.マックスバリュ九州109.1(既存店102.5)
  5.ダイイチ(北海道)101.4(既存店101.5)

6月度、伸び率ベスト5
  1.Olympic:フード(東京)114.6(既存店110.7)
  2.マックスバリュ北海道(北海道)105.6(既存店105.4)
  3.イズミ(広島)推定106.0(既存店105.2推定)
  4.オオゼキ(東京)108.9(既存店104.5)
  5.ダイイチ(北海道)103.3(既存店103.5)

PI研のコメント:
食品スーパー、23社、約2,000店舗の2013年8月度の売上速報を独自に集計しました。結果は全体105.1%、既存店100.2%と堅調な結果です。ただ、上位2社、マックスバリュ中部121.0%とマックスバリュ東海119.5%はM&Aがらみですので、異常値です。また、Olympic:フード111.8%は昨年が厳しかった分、反動が大きくなっています。したがって、これらを除くと若干全体の平均が下がりますが、それを加味しても、ベスト10を見る限り、堅調な伸びといえそうです。食品スーパー業界、ここへ来て、新規出店を積極的に取り組む企業とそうでない企業との格差が開きつつあり、成長戦略をどう打ち出すが課題となりつつあります。コンビニが空前の新店戦略に打って出ており、ドラックストアもM&Aを含めて、成長戦略にシフトしているといえ、今後、食品スーパーも成長戦略が格差をより広げると予想され、各社がどのような成長戦略を打ち出すか、注目です。


GMSより・・食品スーパーのが・・安くていいって・・あるかもねーー






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AKB48 恋するフォーチュンクッキー(男性ボーカルフル)


みのさん・・どうしちゃったの・・

消費税も・・・・こまったものです・・

つまんない日は・・指原ちゃんの

恋するフォーチュンクッキー

で・元気でもだそーーぜーー!!
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【石平のChina Watch】
「地王」の狂気 バブル崩壊の予兆
2013.9.27 11:17 (産経)

北京市内で開催された不動産物件を紹介する展示会。各地で「地王」が出現している =今年4月(共同)

 中国の不動産市場で今「地王」という新造語がはやっている。国有地使用権譲渡の入札で競争相手を圧倒する大金を出し意中の土地を手に入れた開発業者のことだ。今月初旬から各地で破天荒な「地王」が続々と出現したことが大きな話題を呼んでいる。

 まずは4日、北京市内の農業展覧館の敷地にある2・82ヘクタールの土地が21億元(約336億円)で取得された。1平方メートルあたりの単価で7・3万元(約117万円)だ。中国で国有地譲渡が始まって以来の単価最高記録という。

 翌5日、上海、杭州、蘇州の3つの大都市でも「地王」が現れた。上海市内の徐家匯界隈(かいわい)、杭州市内の華家池界隈、蘇州市内の金鶏湖界隈にある3つの1等地がそれぞれ、217億元、136億元、47億元で落札された。

 そして18日、天津市内の「黄金地帯」にある国有地が130億元で業者に譲渡された。これも天津市国有地譲渡史上の最高額である。

 狂気とも思われるような「地王」がなぜ続出するのか。著名な経済学者で中央テレビ局特約評論員の馬光遠氏は今月6日のブログでこう分析している。

曰(いわ)く、今の「地王現象」は地方政府と不動産開発業者との共謀の産物である。全国の地方政府の負債総額が20兆元にも達している中、返済に迫られた各地方政府は巨額の土地譲渡金を獲得しようとする。一方、業者たちは「地王現象」を華やかに演出することによって、「今買わなかったら後になって不動産価格はさらに上がるぞ」との空気をあおり、一般の人々に物件購入を急がせようとたくらんでいるのである。

 つまり、業者たちは乾坤一擲(けんこんいってき)の販売促進のため、あえて「地王」となったわけだが、その大いなる賭けを支えているのはやはり、一般消費者が今後、より高い価格で不動産を大量に買ってくれるとの熱い期待であろう。しかしそこには、大変危険な落とし穴があるのである。

 ちょうど「地王現象」が話題を呼んでいるこの9月、全国の商業銀行による住宅ローン業務停止の動きが急速に拡大しているのである。

 国内紙の『毎日経済新聞』は11日、北京、上海、広州、深センなどで複数の商業銀行が住宅ローン業務を停止していると伝えた。数日内に多くの国内メディアも同じ情報を流したから事実なのであろう。それから1週間、成都・重慶・済南・南京・洛陽・合肥などの地方都市でも、多くの商業銀行が住宅ローン業務の停止あるいは貸し出しの制限に踏み切ったという。

 金融不安が拡大している中で、中国の商業銀行は保身のためにリスクの高い不動産関係融資から手を引こうとしているのだ。まさに、7月4日掲載の本欄が予想した通りの展開になっているのだが、問題は不動産市場に与える深刻なダメージである。

 「地王」たちが巨額の資金を投入して土地を購入すれば、当然それを高く売らなければならない。だが、銀行の住宅ローン停止が今後も続くなら、一体誰が彼らの作った高い不動産物件を買おうとするのだろうか。そのままでは、「地王」たちを待っているのは、もはや破滅的な結末でしかない。

 そして「地王」の破滅は結局不動産バブル崩壊の引き金となろう。不動産価格が暴落すれば銀行の不良債権はさらに膨らみ、金融不安の危険性はよりいっそう高まる。そうすると銀行はさらなる保身策に走り、ますますお金を貸さなくなる。

 その結果、不動産市場はさらに冷え込み、企業活動も萎縮してしまう。中国経済は、果てのない転落の道をたどっていくであろう。

 上述の馬光遠氏も指摘したように、今の異様な「地王現象」はまさに、中国経済の「最後の狂気」のように思えてしかたがない。



【プロフィル】石平 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。

中国の腐敗[ウェキペディア]

世界最大の党員を抱えるだけに、党員による汚職・収賄などの腐敗が深刻化している。2012年10月、規律検査委員会の賀国強書記が、2007年11月から2012年6月までに汚職や職務怠慢などで66万人以上の党員を処分し、このうち2万4000人以上が刑事処分のため司法機関に移送されたことを明らかにした[5]。
党幹部の中には子弟をアメリカ、カナダなどに移住させ、いつでも海外へ逃亡できるよう準備している者も少なくない。また、1,000人以上の幹部が二重国籍を有している。北京市検察機関は、90年代半ばから、2008年までに、2万人弱の汚職官僚が海外逃亡をし、その際持ち去られた国家資金は8000億元(約12兆円)に達したと述べた。このような事に対して胡錦涛政権は幹部の国外逃亡を事前に阻止するため、幹部のパスポート管理や不正の疑いがある者に対して出国制限を課す、既に外国に逃亡している者を現地の政府・治安機関に身柄拘束を要請するなどの対策を打ち出している。



今日のテレビニュースで・

中国の収賄検挙数が・・

16万人と言っていた・・

これも・・中国の「最後の狂気」か??



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消費税増税「先送り」で安倍政権に起こること

政府税制調査会総会であいさつする安倍晋三首相(右から2人目)。同3人目は会長に選任された中里実東京大学教授=2013年6月24日、東京・首相官邸【時事通信社】

 消費税増税をめぐって、政府が有識者から意見を聴取する「集中点検会合」が6日間の日程を終えて、8月31日に終了した。延べ60人の参加者が意見を述べたが、2014年4月から消費税率を8%に予定通り引き上げるべきだという意見が大勢だった。

 安倍晋三首相周辺には、増税積極派と慎重派が存在する。積極派の筆頭格である麻生太郎副総理兼財務相は8月に入ってから1週間に2回以上ものペースで、増税を早期に決断するよう安倍首相に促している。

 だが、安倍首相のブレーンとされる浜田宏一エール大学名誉教授や本田悦朗静岡県立大学教授はしきりに引き上げ時期の延期や引き上げ幅を1%ずつなど小刻みにすることを安倍首相に進言している。このため安倍首相はまだ迷っているようだ。

過半数は握っているが……

 8月下旬、安倍首相は都内のアークヒルズクラブでマスコミ関係者と会食した。デフレ脱却の足取りがまだしっかりしていないことや現在の日本の景気の先行きなどに不安材料があるためか、予定通りの増税に迷いを隠せない安倍首相に対して、出席者の1人が疑問を投げかけた。

 「消費税を上げないなら、通さなくてはならない法律が何十本もありますよ。大変ですよ」

 昨年8月に「社会保障と税の一体改革に関連する法律」の成立に伴って改正された消費税法には、来年4月に消費税率を8%、さらに、2015年10月に税率を10%に上げると明記してある。一部の慎重論者の主張に従って税率の引き上げを先送りしたり、上げ幅を小刻みに変更したりする場合には、法律の再改正が必要になる。

 来年4月に間に合わせるためには、遅くとも来年1月召集の通常国会の前半で法律を再改正する必要がある。しかし、通常国会は何が起きるか分からないし、来年度予算案の審議などで日程的に窮屈である。

 そう考えていくと、常識的には今秋の臨時国会で再改正法案を処理しなければならない。しかも通すべき関連法案は数多い。安倍内閣にはそんな余裕があるのか。出席者はその点を指摘したのである。

 これに対して、安倍首相は自信たっぷりに次のように答えたという。

 「与党は衆参両院で多数を持っています
のでね」

 自公両党は昨年12月の衆院選圧勝によって衆院では総定数480のうち、過半数どころか3分の2(320議席)を上回る325議席を占めている。参院でも、7月の参院選大勝で総定数(242)の半数を大きく上回る134議席を保持している。

 当たり前のことではあるが国会の意思決定方法は多数決であり、野党に対して議席数で大差をつけていることは大きい。これが安倍首相の自信の根拠だろう。また、通さなくてはならない法案が多いとはいえ、国会の通常の手法だと、関連する法案は一括して処理されるので、何十回も採決を繰り返すということにはならない。だから、この点も心配ない。

成長戦略に手が回るか

記者会見する菅義偉官房長官=2013年9月5日午前、東京・首相官邸【時事通信社】

 同様に菅義偉官房長官も楽観している。8月上旬のある夜、記者団が菅氏に尋ねた。

 「税率や引き上げ時期を変更するとなると法案を修正しなければならない。臨時国会は成長戦略国会にならないのではないか

 菅氏はすぐに反論した。

 「そんなことはない。たとえ変更したって、成長戦略のための修正
なのだから」

 しかし、報道関係者らが指摘しているのは、そういうことではない。率直に言って、安倍首相と菅官房長官の政治判断は甘い。ここでは消費税率引き上げの是非についての経済的な側面における議論は横に置くが、政治的な側面に限って言えば、今から法律を再改正するのはきわめて危険である。

 与党は衆院で3分の2以上、参院で過半数の議席を占めているので、理屈上はどんな法律でも必ず成立させられる。国会における多数決原理は絶対である。だが、より大きな意味での政治論的には、国会の数の論理は絶対ではない。世論は国会とは異なる判断をする場合があるからだ。

 仮に消費税法を再改正する国会審議が難航したとしよう。与党は野党の慎重論を押し切って、法案を採決して成立させられる。だが、多数派による極端に強引な手法は、国民的には評判が良くない。

 「税金が上がるのが遅れるのだからそんなことはないだろう」と自民党議員は言うが、そうでもない。過去には恒久減税をめぐって失脚した首相もいた。世論は、税金を上げるか下げるかにかかわらず、国会の混乱とか与党の独断、あるいは1度決めた政策のぶれというようなものがとても嫌いなのである。

ボディブロー

衆院本会議を終え、笑顔で退室する安倍晋三首相と麻生太郎副総理兼財務相=2013年8月2日午後、国会内【時事通信社】

 しかも、3年後には衆参同日選挙があるとも言われる。税率引き上げ時期をずらせば、選挙直前に増税を実施しなければならない。これは、あるべき税制だとか社会保障の財源という論点を抜きにして言えば大失敗である。むしろ早いうちに増税して選挙までの間にほとぼりが冷めるのを待つというのが政治的には正解。政治戦術としては、時期をずらすぐらいなら税率をまったく上げない方がずっとましである。

 また、国会が混乱すれば、他の重大問題にも影響が及ぶ。秋以降に、成長戦略、集団的自衛権の行使容認、選挙制度改革、社会保障制度改革、日本版NSC(国家安全保障会議)設置、秘密保全法案のほか、中長期的には憲法改正問題など、数え切れない課題がある。消費税法再改正の論議でもみくちゃになって、他の課題にかまっていられないという事態は避けなければならない。

 しかも、これらの中には、憲法改正や集団的自衛権問題など、世論の強い支持が必要なものもある。消費税問題で世論が安倍内閣から離れていけば、こうした課題処理も頓挫しかねない。

 たとえこの臨時国会を思惑通りに乗り切ったとしても、世論の反発はボディブローのようにじわじわと効いてくる。1年後あるいは数年後に、「あの国会で余計なことをしなければよかった」と後悔することになるかもしれないのだ。

 もちろん、予定通り消費税率を引き上げる場合でも、安倍内閣への世論の批判はあるだろう。税金は安ければ安いほどいいと考える国民は多い。実際、各種世論調査でも増税慎重論が多い。だが、来年4月に消費税を増税しても景気が失速しなければ、そうした批判も下火になるだろう。逆に増税で景気が長期間冷え込む(短期の冷え込みは想定内)ようなら、そもそも安倍内閣の経済政策「アベノミクス」はそれほど成功しなかったということを意味する。その場合は、消費税を上げるとか上げないとか以前の問題である。

 安倍首相側近は8月下旬の記者団との懇談で、「消費税率引き上げについてはぶれない方がいいと思う。ぶれたら一国会が吹っ飛ぶ」と懸念を表明した。秋の臨時国会が無駄になるという認識はその通りだが、安倍首相の判断がぶれたら、問題はそれ以上に拡大するだろう。過去をさかのぼれば、消費税をめぐっては一国会どころではなく、内閣そのものがそれこそ吹っ飛んでいる。

集団的自衛権と公明党

政府・与党連絡会議であいさつする公明党の山口那津男代表(左)=2013年9月2日午後、東京・首相官邸【時事通信社】
 消費税だけではない。集団的自衛権や選挙制度改正、憲法改正など、安倍首相が掲げる主張の中には、一内閣どころかいくつもの内閣が退陣に追い込まれてもおかしくないほどきわどい課題が多い。

 これらのうち集団的自衛権の行使容認問題には、すでに暗雲が垂れ込め始めた。公明党が反対しているからだ。

 最近、公明党幹部はあらゆる機会を通じて、集団的自衛権の行使を容認すべきではないと繰り返している。それでも安倍首相の決意は固いが、ついに漆原良夫・公明党国対委員長は8月中旬、親しいマスコミ関係者との会合で、連立政権からの離脱に言及した。

 「集団的自衛権は、唯一連立離脱に値するテーマだ。首相が退かなければ、こっちが出るしかない」

 もちろん、できることなら連立政権から離脱したくないというのが公明党の本音だろう。公明党にとって最善のシナリオは、安倍首相が集団的自衛権の行使容認をあきらめてくれることである。このため、漆原氏の発言も、それとなく安倍首相サイドに伝わることを期待して、あえてマスコミ関係者に話しているふしがある。要するに、安倍首相を脅しているのだ。

 これに対して、安倍首相側近は8月25日、記者団に次のように語った。

 「公明党は結局、最後はついてくるだろう。ただ、集団的自衛権はそんなに焦って処理しなくてもいい

 首相周辺は、公明党は連立離脱しないだろうと楽観視している。この発言もまた、公明党側に伝わることを想定して、牽制球を投げているのだろう。しかも、この発言が巧妙なのは、「焦って処理しなくてもいい」と付け加えている点だ。「離脱しないだろう」と軽くみられた公明党が腹を立てて短絡的な行動を起こさないように逃げ道を作ってやっている。つまり、公明党にとっては自民党側の態度は気に入らないものの、集団的自衛権問題の先送りによって、すぐに連立を離脱しなくてもいいという口実になる。

 公明党はもともとリベラル色の強い政党であり、路線的には自民党よりも民主党に近いとまで言われてきた。このため、憲法改正や集団的自衛権などで保守色の強い安倍首相が就任して以来、自公両党の溝は広がっている。

 だが、現在の連立与党の枠組みを維持することは、両党にとって共通の利益でもある。政権を壊さないようにしながらも、集団的自衛権に関する議論を自分たちに有利に進めるためにはどうするか。両党は互いの腹を探り合い始めた。今後、熾烈な駆け引きが展開されるだろうが、両氏の発言はその序曲である。

進まぬ野党再編

記者会見を終え、厳しい表情で会場を後にするみんなの党の渡辺喜美代表(左)と浅尾慶一郎幹事長=2013年8月23日午後、国会内【時事通信社】

 一方、野党では一時盛り上がりを見せていた再編の動きが暗礁に乗り上げている。みんなの党の渡辺喜美代表は、新党結成に傾きつつあったと言われる江田憲司幹事長を更迭。さらに、日本維新の会や民主党の若手議員と交流を深めていた柿沢未途衆院議員を離党に追い込んだ。

 野党再編には2つの方向性がある。1つは、各党有志が集まって新党を結成する方向。柿沢氏や日本維新の会のメンバーらが目指しているのはこれである。民主、維新、みんな3党の英語表記の頭文字をとって名付けられた「DRY(ドライ)の会」もこの方向で動いてきた。

 これに対して、渡辺氏は新党結成ではなく、各党がその存在を保ったまま連携する「政党ブロック」構想を掲げている。渡辺氏はみんなの党を壊したくないのだろう。

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は8月23日、大阪市役所で記者団に対して、「柿沢さんの動きに大賛成だし、期待しています」とする一方、「渡辺さんが代表を務めるみんなの党と一緒にブロック単位で組んで行こうという政治家は極めて少ないと思いますよ。政治というのは理屈、合理性だけでなく人間的な好き嫌いというのも入ってくるから」と述べた。

 野党再編を考えた時、たとえば政党の合併や新党結成というものは、実はそれほど簡単には進まない。選挙区の従来の支持者との関係が問題になるし、同一選挙区に相手の党の候補者がいた場合には、どちらが選挙区を譲るのかという問題も生じる。新党で、誰が主導権を握るのか、あるいは政党交付金の配分をどうするのかという問題もある。

 これに対して、政党ブロック構想は案外簡単である。各政党は組織として残ったままなので、嫌になったら離脱すればいい。政党ブロックという単語は聞きなれないかもしれないが、日本ではすでに例がある。いや、現在もある。

 自民党と公明党による連立与党である。これもまた、両政党の存在を残したまま、政策を一致させてひとつの政権を形作っているのだから、政党ブロックと呼んでいいだろう。渡辺氏はこういう形を野党でも作ろうとしているのだ。

飛び交う怪文書

 ただし、ネックになるのは橋下氏も指摘している人間関係の問題である。8月になってから、みんなの党に関する複数の怪文書が永田町で流通している。

 真偽不明の文書なので、あまり詳しく書くことは避けるが、みんなの党の立法事務費や政党交付金の問題、人件費の支出に関する疑惑、浪費、公選法違反疑惑などに言及、果ては渡辺氏の夫婦関係についてまで書き連ねてある。

 重ねて書くが、文書の真偽は不明である。ただ、こういう文書が出回っているということは、党の現状を快く思っていない人物がいるということでもある。また、江田氏や柿沢氏の処遇だけでなく、選挙での候補者選定など、渡辺氏の政治判断に不満を漏らす議員も多い。みんなの党内は決してうまくいっていないのだ。身内をおさめられないようでは、他党といかに連携できるかがカギとなる政党ブロック構想など成功するはずがない。

 これからも各党からの離党者がポロポロと出ることはあるだろう。しかし、今の雰囲気を見るかぎり、政党ブロック構想にしろ新党結成にしろ、大規模な野党再編はしばらく結実しない情勢なのである。

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来年4月に消費税を増税しても景気が失速しなければ??

そうした批判も下火??

最近のマスコミは・・・

JR北海道か??


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脱・中国レアアース…日本の動き見誤る 対日「禁輸」3年
2013.9.16 09:48 (産経)[中国]

レアアース問題をめぐる動き

 平成22年9月7日に起きた尖閣諸島(沖縄県石垣市)沖での中国漁船衝突事件後、中国が日本への経済制裁とみられる措置をとって約3年。ハイブリッド車(HV)のエンジンにも欠かせない資源、レアアース(希土類)の輸出規制の強化は日中双方にどのような影響を及ぼしたか。(飯田耕司、兼松康、塩原永久、本田誠、北京 矢板明夫)



輸出66%減、代償大きく

 対日経済制裁の象徴となったレアアースの事実上の禁輸。レアアース価格は急騰、日本は脱レアアースと中国依存からの脱却を迫られ、企業の投資もかさんだ。しかし、その後は供給過剰に陥り、中国のレアアース採掘業は低迷。資源物資を外交交渉のカードにした代償は、決して小さくはなかった。

 中国・内モンゴル自治区の包頭市。世界最大のレアアースの技術基地を目指した広大な工業団地の入居企業は少なく、閑散としている。同市に隣接し石炭産地として知られたオルドス市でも、100万人収容できる新市区の住民が3万人に満たず「鬼城(ゴーストタウン)」とさえ呼ばれる。

 「町を建設したとき、レアアースで収益を上げている包頭や(包頭から約150キロ離れた鉱山都市の)バヤンオボの富豪の投資も期待したが、バブルははじけた」。関係者はこう語る。不動産と石炭、そしてレアアース需要の冷え込みが重なり、街の景色を変えた。

中国最大のレアアース生産業者、包鋼稀土の株価は今、30元(約480円)程度。ピークだった3年前に比べて、約3分の1に下落。中国税関総署の統計によると、昨年のレアアースの輸出額は前年から66・1%減少し、9億600万ドル(約900億円)にとどまる。

 「今年も減少傾向は止まらない。昨年夏ごろから、多くの関連企業は実質的な生産停止に追い込まれている。在庫を少しずつ減らしているのが現状だ」。あるレアアース企業関係者はこう明かす。

 厄介な問題はほかにも起きた。レアアースの密輸出だ。輸出規制後、収入が減ったレアアース企業の従業員が密輸業者に転じたケースもあるという。

 レアアースは地面の表層近くにあるため採掘が比較的簡単で、密輸業者が「土」として運び出し、安値で売りさばく事案が急増している。密輸出されたレアアースが香港や台湾などを経由して日本に渡ったものも少なくなく、密輸出が「レアアース産業に大きな打撃を与えている」(中国工業情報化省の蘇波次官)。正確な統計データはないが、公式輸出量の約1・2倍と推測する中国メディアもある。

 「昨年の釣魚島(尖閣諸島の中国名)国有化の時、中国政府が日本に対し経済制裁を実施しなかったのは、その2年前の反省があったからだ」。中国外交関係者はこう漏らし、日本の官民を挙げた急速な脱レアアースの動きの影響を「見誤った」と語る。

日本企業、ベトナム進出

 ベトナムの首都ハノイから東方に約100キロにある工業都市ハイフォン市。南シナ海に面するディンブー工業団地で、信越化学工業がレアアース磁石の主原料の分離精製をする工場を本格的に稼働させた。

 「中国の状況を受けて以降、それまで全く拠点のなかったベトナムでの設立の検討を始めた」(同社)結果だ。投資額は20億円。中国の輸出停止の影響で、レアアース価格が急騰。HVに搭載する高性能磁石に使うジスプロシウムは、23年7月に1キロ3千ドル超と、前年4月に比べ10倍以上跳ね上がっていた。

 衝突事件直後の事実上のレアアース禁輸措置は、同社が事業方針を改めて見直す契機となった。磁石を高温状況下でも安定的に使うために用いられるジスプロシウムは、ほぼ中国にしかないのが実情だからだ。

 製作工程で発生し、以前は捨てるだけだった端材や切断時の切りくずもリサイクル。今ではレアアース磁石を作るためのレアアース使用量のうち、十数%はリサイクル品から作られている。さらに、ジスプロシウムの使用量を半分にしても磁力を維持できる新製法を開発。「顧客先のほとんどの企業で、ジスプロシウムを減らした磁石を採用している」(同社)という。

 しかも、ベトナムには、ジスプロシウムが取れる鉱脈が存在する可能性が高い。同社はカザフスタン産のレアアースの使用も検討中で、中国以外の国に視線を向ける大きなきっかけになった。

世界最高水準の低燃費HVを今月発売したホンダ。今年春からレアアースの再利用技術の開発を本格化した。日本重化学工業の小国事業所(山形県小国町)に委託し、HVの使用済みニッケル水素電池からレアアースを回収して、電池メーカーに販売する事業を今年3月から開始。6月には、HV用モーターの磁石として再利用する取り組みをTDKなどと始めた。

 11年に発売したホンダ初のHV「インサイト」の廃車が増えるとみられる2年後から回収のピッチが上がるとみている。日本だけでなく、米欧での使用済みバッテリーも回収していく方針だ。

 政府はレアアースの使用量を削減する技術や代替材料の開発、鉱山権益の確保など調達先の分散化を推進。22年度補正予算では、対策費として約1千億円の計上を余儀なくされたが、「中国にレアアースの輸出制限を外交カードとして使わせないようにする必要がある」(経済産業省幹部)と強調する。

「世界の対中観、悪化させた」

 レアアースの中国依存度は急速に低下した。日本貿易振興機構(ジェトロ)によると、日本の輸入金額に占める中国のシェアは、22年に87・7%だったが、24年には60・4%まで減少最大の輸出先だった日本の需要減で、中国は同年のレアアース輸出総額を前年比で6割以上減らした

 丸紅経済研究所の鈴木貴元シニアエコノミストは、「日本企業の中国への警戒を高めただけでなく、中国に対する世界の見方も変えてしまった」と話す。中国政府が不当にレアアースの輸出を規制しているとして、日本は米国、欧州連合(EU)とともに昨年3月に世界貿易機関(WTO)に提訴。年内に判断が出る見通しだ。

 中国は今も資源を外交の道具としたことを認めていない。政府中枢部からレアアースの禁輸について、直接的な指示はあったのか。

 「船長への裁判権行使を早く阻止しないと、国務院(政府)は軍などの対日強硬派に主導権を奪われる。その前に対日圧力をかける経済的手段を探した結果、レアアース禁輸措置が浮上したのではないか」。元経産省の官僚で現代中国研究家の津上俊哉氏はこう分析する。

 しっぺ返しを食らった格好の中国について、みずほ総研アジア調査部の伊藤信悟・中国室長は「指導部は政治目的の達成のため、軽々に経済的な手段を利用することが割に合わないと知ったはずだ」と指摘する。


$東京リーシングと土地活用戦記


「脱中国」が鮮明に…12年の中国レアアース輸出額は66%減
Y! 【経済ニュース】 2013/02/02(土) 11:26 サーチナ

  中国税関統計情報センター(CCS)によると、2012年の中国のレアアース(希土類)輸出総額が前年比66%減の9億600万ドル(約800億円)にとどまったことが分かった。中国新聞社が報じた。

  中国は12年、レアアースの輸出割当量を計3万996トンとしていたが、実際の輸出量は前年比63.5%減の1万6265トンにとどまり、3年連続で減少となるなど、レアアースの「脱中国」が鮮明となった形だ。

  中国政府がレアアース輸出を規制するなかで輸出量の小幅な減少は想定内だったが、価格の暴落はレアアース生産企業にとって深刻な問題だ。中国のレアアースの価格は11年のピーク時に比べて3~4割ほどにまで下落しているからだ。

  中国税関統計情報センターの報告は、国際的にレアアースが供給過多となっている現状を示すものだ。10年に起きた中国漁船衝突事故で中国政府が事実上の対日レアアース輸出規制を行ったことで、11年には価格が高騰した。

  その結果、日本企業は技術革新を迫られ、中国産レアアースへの依存度を減少させた。さらに各国がレアアース採掘を始めたことで調達先が多様化し、中国は世界のレアアース供給の95%を
担っているが、この5年以内に70%にまで減少すると見られている。(編集担当:及川源十郎)


こんなこと・・まったく、マスコミは・・取り上げようともしない・・


$東京リーシングと土地活用戦記


時の旅路にて
できれば全力でお断りしたい・・・ので
Posted by 世羽 on Sep 10.2013 時事ネタ 0 comments 0 trackback
(つぶやき)これからの未来、確かに、けっしていいことばかりではない。
でも、だからといって、ひたすら指をくわえて我慢しているだけなら
未来を動かすことなんぞ、できない。

昨日、ほんのり嬉しい気分に包まれた日本でしたが・・・。
早くも
水を差す話しが流れ始めています。

報道によると

日韓全面協力、18年冬季と20年夏季五輪成功へ
日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長と
韓国オリンピック委員会(KOC)の金正幸会長は、
9日、ブエノスアイレスで会談し、
韓国で開催される2018年平昌冬季五輪と20年東京夏季五輪の成功に向け、
全面的に協力することで合意
した。

・・・だ、そうで・・・。

リップサービスでなければ
はっきり言って、これは好ましくない。
双方によくありません。

どちらの国も、自国開催が決まれば、それなりに嬉しいものです。
しかし、
それは「独自の力」で成し遂げなければ意味がなく・・・。

先日来、書き込んでいるように
韓国はこれまでも
日本に多大な協力を求め、金銭的な返却約束を反故にし続けています。

最近も「みずほ銀行」が
韓国輸出入銀行に5億ドル(約487億6000万円)の融資をしましたが、
以前書いたとおり、
日韓ワールドカップの建設費の融資額、約300億円は未返済のままですし、
これまでのIMF援助金、ODAの有利子負債における利子の支払いも
ほとんど滞ったまま
です。

その負債は、日本円にして10兆円を軽く超えるとされ
返されるべきお金が戻ってきていない・・・というのが現状
です。
(ことによると、もっとかもしれません)

これほどのお金が、今の日本にあったら、
どれだけのことができるでしょう。

日本自体が借金大国なのですから
「すべてが世界一」と自称し、
日本を「敵」と見なしている隣国の機嫌をとるなど
もはや必要ない
でしょう。

それでも韓国は、そんな背景は“全くない”かのように
いまだ日本を徹底的に侮蔑し、見下し
その反面、今回もまたオリンピックの援助を要請
しています。

日本はいいかげん、一方的な援助を打ち止めにしなくては・・・。
都合の良いときだけ利用される国であることを止めなければ・・・。

というより・・・もはや

韓国自らが招致した件は
韓国が自らの手で「落とし前」をつけなければなりません。
そうでなければ、韓国自身のまことの発展にとっても、益にはなりません。
雪不足で代替地が必要なら、北朝鮮と友好的に場所の賃貸を協議するほうが
よほどいいのです。

日本には・・・
他国の機嫌をうかがうことで
自国のスタンスを失う「自虐的な国の在り方」を改める時が、
すでに来ています。


つまり、今はもう、
断固「否!」と言う勇気を出しても良い時。
いえ、勇気を出すことが求められている時
・・・なのです。

オリンピック云々を抜きにしても
今、この波に乗らないと、
両国の発展は、予想以上に遅れてしまうでしょう。

しかも、もうすぐ2014年が迫っています。

ここから始まる2年間は、
人類にとって非常に大切な時間。


2012年末などを遙かに超えた、大事な2年間です。

この2年間をどのように切り抜けていくかは
地球上の「国々」「人々」「自然」の命運を分ける・・・
といっても過言ではありません。

すべてにおいて、今までのやり方が通用しない、
それこそ、本当の「変革の時期」が始まります。

世界は今、その時間へと動いています。

永代における過日も、
日常の日々も
同じことの繰り返しではありません。

たとえ少しずつであっても
経験の上に、新たな「別の経験」が重なって
「ひとつの大きな織物」を創っています。


織物に火をつけて燃やすか、
ビリビリに破いて捨て去るか


根気よく、さらに美しいものへと織りつづけていくかの
分かれ道。

正しいことがまかり通る世界とは
嘘偽りがない世界
です。

そこに近づいて行くには、
公にも、私的にも、
それぞれが、
どんな糸(意図)を織り込んでいくかにかかっています。

おめでたいことなら「一緒に喜んで」なんぼ・・・
Posted by 世羽 on Sep 08.2013 時事ネタ 0 comments 0 trackback
(つぶやき)うまく言えないが、いろいろと先視の世界が変化している感。
いいことだ

いろんな場所で書かれていることを眺めてみると
面白いことがわかります。

・どちらかというと、思想が「左」に近い人。
・反原発を打ち出して、放射能問題を最優先する人。
・個人的な「心の問題」や「経済問題」に悩み、
 どうしても周囲が暗く映り、
 世の中で起きる「喜びの感情」を受け止められずにいる人。

そんな方々の多くが、
今回の五輪開催に反対し、決定後も気にくわない
ようでした。

確かに福島の問題は色々あります。
放射能のことも楽観視できません。

でも、プレゼンのときの以下の言葉が響きます。

まず、日本国民を代表して御礼申し上げたいことがございます。
2011年、大きな地震、そして津波を体験しました。
国際オリンピック委員会(IOC)と関係者の皆様には、深い同情の念を表していただきました。
私どもはそれに対する感謝の気持ちは一生忘れません。
                    ―――高円宮憲仁親王妃久子殿下―――


日本の良さを日本語の一言で表すと、「おもてなし」です。
それは訪れる人を慈しみ、
見返りを求めない深い意味があります。
先祖代々受け継がれ、最先端の文化にも根付いています。
これは日本を理解する鍵になります。
                    ―――滝川クリステル―――


今回の招致にあたって、とりわけ問題となったのが福島の件でした。

「放射能被害の実態がわからないなか
五輪を開くなんて、言語道断、世界への責任はどうする」
「政府は放射能対策にお金を回せ」・・・と糾弾する気持ちもわかります。

ただ、そのような皆さんでさえも、もし

「ほんとうに、どうにかしたいのです。
でも労力が足りません。
そこまで言ってくださるなら
お国のため、未来のため、愛する人たちを救うため
ぜひ、お力をお借りしたい。
もちろんお給料をお支払いしますから
ぜひ、現場に入って処理を手伝ってください」

と言われたとき、
「いやです」・・・と言うかもしれません。

今、福島原発の現場で働いている人たち
なかでも、地位的に一番下にいて処理をしてくれている人たちは
どんな方が多いかは、ご存じでしょう。

日給も飛び抜けて高いとは言えず、
元締めに給与の上前をはねられ
それでも、働けるなら、少しでも高額なお金がほしい・・・
そう思い、危険なことは重々承知で現場に入る人たちがいます。

しかも、一般の人にも、それなりに危険度が認知されてきていますから
そうそう、なり手もいません。
人員不足のため、893がらみで送り込まれる人も多い。
過去に傷をもち、世の中から「つまはじき」される人さえも。

けれど、彼らが
東電の技術者や、工事業者と協力して危険な仕事をしてくれているからこそ
何とか、福島が維持できているわけで。

線量が一定レベルに達すれば、作業する人たちは次々と入れ変わります。
そしてまた、新しく、名も無き労働者が投入されていく・・・。

放射能の問題が、無視できないとしても
それを「命を護るため」
他国への責任はどうする・・・と言って叩くにしても
あの場所で働いている彼らに
心からの「ありがとう」を口にしたことが
あるのでしょうか。

何かしろ・・・」というのは簡単です。
けれど、実際に「処理する方法」は、そんなに簡単ではありません。

でも、現場には、一般が知る以上に頑張ってくれている人たちが
たくさんいるのです。

そんな「痛い問題」を抱えるなかでの、五輪開催決定でした。

ちょっとだけ、想い出してみてください。

あの震災の当日でさえ、この世に生まれた赤ちゃんがいました。
その報道は、
絶望感に満ちていた日本の人たちに
言葉にならない暖かい感情を起こしたはず。

結婚式があって、
新郎・新婦が喜びにいるとき
いくら可能性がありそうだから・・・としても
「なんか嫌な未来が視える」と、
ただ、ただ、叩き続けるのは
ほんとうに新郎・新婦に必要なことでしょうか。

未来はけっして完全には確定していません。

さまざまな、起きる事柄の時間ポイントも流動します。
劇的に「放射能問題の解決」がなされる未来もあるのです。

そんな未来を創り出したいなら
今は、たとえ少し遠回りに「感じられ」ても
究極の「悪いこと」でない限り、喜んで迎えるほうが得策です。

自然のこと、放射能のこと・・・
悪い部分だけを考え出すとキリがありません。

未来を変えたいと願うとき、
実際は「喜びながら変えていくほう早い」・・・のです。

どうせです。
敷島に宿る“霊的なエネルギー”
そして、そこに住む「日本人の底力」・・・を
これから、もっと・もっと発揮してみようじゃありませんか。

喜ぶ、明るい心を失わないなら
        
この先何が起きたとしても

未来には必ず救いがあるでしょう・・・。

そのきっかけとなるかもしれない五輪招致決定
このさい、「喜んで」なんぼ・・・です。

斥候兵と「ロザリオ」・・・
Posted by 世羽 on Sep 07.2013 聖母マリア 0 comments 0 trackback
(つぶやき)タム山塊か・・・。巨大火山だったことがわかったと言うけれど、
ずっと前から知ってたような? どこでどう知ったか想い出せない。
どこでもらった記憶かもわからない。
だとすると、房総の近海にも隠れ火山が?・・・まさか。

今現在の地下、海外モードのほうが強いが、猛烈な唸りが止まらない。
少し警戒感が出てきている。

浮き世の風・・・の吹き流し・・・的な話しですが・・・。

心と魂で知ったことを言葉で伝えようとするのは
なかなか難しいものです。

聖母マリア・・・
この霊的な存在がどんなに清く、穢れなく、美しいか・・・
感じることを言葉で説明するのは、ほんとうに難しい。

でも、伝えたいような・・・。
そんな気持ちになることがあります。

聖母は宗教の別・無宗教を問わず、
助けを求める人を見放すことがない・・・と
昔から伝えられていました。

「ロザリオの祈り」・・という信心業がありますが
聖母を知り、愛するようになると
一般の人でも
ごく自然に、聖母に祈りを捧げたくなる気持ちが湧き
「ああ・・この祈り」と感じて、ロザリオを繰る人が多くいます。

普仏戦争のころ。
ずいぶん前のことですが、ひとりの斥候兵が手記を残しています。

それはこんなものでした。

そのとき、わが旅団はローマにいた。
しかし、「ただちにフランス帰還を・・・」と命ぜられ、
ヴィノア将軍指揮下の大13師団に編入された。
セダンの戦いではムジュールにいた。

将軍の巧妙な退却後、わが旅団は
「パリ防衛の任務を帯びた部隊」の一部を編成することになった。

幾多の激戦があって
わが部隊はヴィトリーに送られ、その地で防衛工事をはじめたが、
敵が絶えず私たちを狙い、困難と不安に支配されていた。・・・・

私の部隊長は、
彼が“塹壕の敵”・・・と呼んでいた敵方の陰険な戦術に対抗するため
射撃の達者な兵からなる決死隊を作り、私もその一員に加えられた。

私たちは弾丸の空費と、敵に発見されるのを避けながら、
敵状を偵察しなければならなかった。

夜明け少し前のこと。
雑木に取り囲まれた1本の大木のところへ辿り着いた私は
初めて歩をとめた。

そこでしばらく身をひそめ、さらに辺りを偵察していると・・・
自分が、プロシア兵の銃口の的になって、
“死の門”の前にいるかも知れない・・・ということを忘れていた。

足下で小さなアリが
自分よりも大きな荷物を引きずっていくのを面白がって見たり

玉虫が、気の幹のところで緑の羽をひろげるのに感心したりしていた。

また、水の流れにさらわれそうになっている草花の青い茎を
まっすぐに直してみたりもした。

イヴリーとシャラントンの要塞では、砲声が聞こえ、
ムーランサゲの方でも小銃の音が絶えず響き、
手榴弾の不気味な唸りが私の頭上をかすめ、そこかしこで炸裂していた。

しかし、

この鉄と火薬の嵐も
私の心を、小さな「アリ」や「玉虫」や「草花」から引き離すことができなかった。

こうして1時間が過ぎ、それからまた1時間。
私は既に、自分の任務に失望し始めた。

すると突然、
道路の樹のうしろに、一つの手がチラッとしたように思えた。

ははあ、あそこに敵がいるな・・・と、双眼鏡をとると、
すぐ間近に人の頭と両手が見えたので、思わず後ずさりした。

その男が静かに、棒で地面に穴を掘っているところを見ると、
まだ私がいることに気づいていないようだ。

その男はドッカと腰を下ろし、両足を投げ出し、
頭を左ひじにのせ、まるで歩哨の任務を忘れたかのようにしている。

容貌はいかにも正直そうで、
軍服下には、自分の家のことを夢見る“農家の純情な青年”の気配がうかがわれる。
私は、この紅顔可憐な青年を、
ウサギでも殺すように撃たなければならない・・・
そんな自分の“悲しい運命”を感じた。

私は身構えた。

銃を手にし、両ひじを地につき、銃床を方にして、
青年兵士がもう少し身体を上げるのを待った。

彼の“死の苦痛”を少なくするために、胸を撃とうと思ったのだ。

やがて、このババリア兵は、頭を挙げてあたりを見回したが、
私のいる方へは視線を向けなかった。
しかも、誰もいないと思ったようで、膝の上に革袋をのせ、
袋の中から何かを取り出したのだ。

私は早速、銃をおいて双眼鏡を手にした。

なんと、ババリア兵は、ロザリオを手にしている。

そのうち彼は立って、それからひざまづき、十字架のしるしをした。
今や彼の身体は、まったくもって私の前にさらされた。

戦闘的本能が、ふたたび私に銃をとらせた。
そして青年を狙った。

彼は私の銃口の前に不動のままだ。
頭を少したれて、両眼を天に上げている。

彼の唇が動き、彼の指の間をロザリオの珠が静かに滑っていく。

突然!

ああ・・・何事が私に起こったのか、私にはわからない。

私の血管が、全身の血潮が、ふるえおののいた・・・・。

そのとき

この青年の上に、天から、ある不思議な光明が降り、
金色の雲になって、また天に昇るのを見た気がしたのだ。

そして、聖いまぼろしが私の全身を支配すると、
銃は私の手から滑り落ちていた・・・。

私が思わず、その場所から退こうとした瞬間、
ヒューヒューと弾丸の幾つかが私の身近をかすめていった。

ハッとして、そのとき初めて、われにかえったが、
銃弾がどこから発砲されたのか、まったくわからなかった。

あの青年の祈りが、私を護ってくれた・・・そう思った。

その後私は、精兵としての義務をつくし、国家への負債を払い、
ついに負傷して野戦病院に送られたが、勲章を授与されることになった。

(あのババリア兵は、おそらく、
ロザリオの祈りが自分を救ったのも知らずに、故国へ帰っただろう)

                   ――ヤコブ・オルヴァル――
斬新な話しではありませんが
ここには、祈りの力が働くときによく起きる典型例が見てとれ・・・。

つまり

何か、特別な「恩寵」が降(くだ)るときは
人は、その少し前から、前兆のようなものを無意識に感じ始め
通常とは少し異なる精神状態に導かれます。

そして、その後、決定的な体験に遭遇し、
そこで魂に響く「何か」を得る
のです。

たぶん、このパターンは
信仰対象が「ある・なし」に関係なく起きるでしょう。

そして・・・

どんな立場や状況に置かれようと
自分の力でやれることをすべてをやったなら・・・安心し
そうした自分の努力にあわせて
高次からの助力を素直に祈る・・・これは、有意義なこと。

それは
人が考える以上に、色々なことをうまく運ぶでしょう。

聖母は「神」の位置づけではありませんが
人類を助ける役を担っている存在です。

そんな聖母に
いわゆる“願い”のためだけではなく
愛情をもってロザリオの祈りを捧げる・・・
そんな素朴な行為が昔から行われてきたわけで。

それは、「多々ある道」のなかのひとつです。

この道を行く人は、

特に聖母の助けを通して神を見出し
「み旨」とはどんなものか、
つまり、高次の神聖なプログラムを知り、
しかも愛情をもって、それに合わせようとします。

祈りの意味は、単純なようでいてけっこう奧が深い・・・。

どのような方でも、それぞれの道の途上では
特別に「祈る」ようなことに遭遇するかもしれません。

そんなおりには

それぞれの選ぶ、見合った“祈りの形”のうちで
時宜にかなう素晴らしい「み旨」・・・みつかりますように。

まったくの独り言
Posted by 世羽 on Sep 05.2013 つぶやき 0 comments 0 trackback
(つぶやき・・・のみ)

関東住みの人なら、何となく変な感じがあるんじゃないだろうか・・・。
今なら、そんな感覚がつかみやすいだろう。

ここのところ、気象が荒れていて
巷では、いろんな物騒な報道もある。

それでも

敷島はがんばってくれている。
正直、ありがたい・・・という感覚しか浮かばない。

予想とか、そんなものをするのは好きではない。

でも、関東地域の下、
また伊勢を中心にして、その北と南方向の地下がおかしい・・・のは事実だ。

とにかく押されている。

(大震災前日に見た、かなとこ雲に似たものを張っておきます)

専門家は、気象条件が云々・・・と言うけれど
感覚的には、雷の鳴っている大地の下が動いている。
それゆえの雷雲の発生だ。
単に熱帯低気圧や前線のみからくる影響ではない。

これから、外交にしても、自然にしても
けっこうな正念場
がやってくるだろうが・・・

それでも、今いる場所で、精一杯生きればいい。

永遠の生命を信じているからこそ
いつ、何が起きても受け止められる。

自然の動きは、人間の生き様と同じ。
人間はその上で生かしてもらっているにすぎない。

恐れるなかれ・・・だ。

どんな人生を送っていようとも

愛する人、家族、子供、友人・知人・・・・その他たくさんの人や生き物たち
それらすべてを
いつも、あふれる笑顔、暖かい心で包め。

できるかぎり心穏やかに、日々を送れ。

人として・・・
嘘をつかず、正直に、純粋な愛をもって一生懸命に生きる・・・。


それが生み出す「透明なエネルギー」こそ
生かしてくれている「大自然」への、
地球への
人間からのお返しになる。

他国を大事にする人たちの話し・・・
Posted by 世羽 on Sep 04.2013 時事ネタ 0 comments 0 trackback
(つぶやき)なんだか、地下の動きが大きくなっている気配。
日本全体がよじれている感じ。それでも大地が堪えてくれている。
・・・ありがとう・・・。

こんな報道が目にとまりました。
けっこう凄いことなのに扱いは小さい・・・www。

村山富市元首相が人民日報に寄稿、
「現行の日本国憲法の改変は絶対に許してはならない」


2013年9月2日。
村山富市・元首相が、日本の現行憲法を変えることは絶対に許してはならないとする文章を人民日報に寄せた・・・というものです。

(はあ・・・)

中国に寄稿・・・という時点で、思惑は読めますが
「平和」の2文字をふりかざせば何でも許される・・・と
いうのでは、ちょっと・・・。

村山さんにも、この方を愛するご家族がおられる。
でも、
国を想い、世界を想う一日本人としては
たとえ目上の方、かつての重鎮であっても、猛省を促したい・・・。

そのあたり、「寄稿内容」を追いながら、つぶやきます・・・。
(・・・引用も入れたので、長いです。適宜飛ばしてお読みください)

私が首相に就任した後、まず韓国、中国などのアジアの国々を訪問した。
そこで、第2次世界大戦期の
「日本の植民地統治と侵略が、アジアの隣国にぬぐい去れない痛みをもたらした」
ことを、身をもって感じた。

下線のところ
「村山氏らのような思想の方々」がたびたび口にする
“決まり文句”です。

これまでも書いてきたように、先の大戦の本質は上記とは異なります。
寄稿された文章は、むしろ
この人の背後にある幾多の反日思想団体のプロパガンダそのものです。

阪神・淡路大震災のとき
自衛隊が「すぐに行く」と言っているにもかかわらず
自衛隊が違憲であるという思想のもとで躊躇し
出動を何時間も遅らせた張本人
は、いったい「誰」だったでしょう。

ちなみに、あの日あったことについて眺めるべく・・・。
「国民に知らせたい日本の実態」さん・・・から
引用自由とあったので、以下をコピペしてみました。ありがとうございます。
(文字強調は当方です)

震災の時間系列と村山氏をめぐる周囲の動向記録

17日
05:46 地震発生
05:50 陸自・中部方面航空隊八尾基地、偵察ヘリ発進準備。
05:50 第三十六普通科連隊(伊丹)営舎内にいた隊員、
   約三百人による救援部隊・編成開始
06:00 CNNワールドニュース、トップニュースで「マグニチュード7・2。神戸で大地震」
    と報道。

06:00 村山起床。テレビで震災を知る。

06:20 テレビで急報を知ったダイエー中内功社長出社
06:30 百里基地、偵察のためRF4発進を検討するも断念。
   4ヵ月前、北海道東方沖地震でRF4が墜落し、
   社会党の追及で当時の指揮官が更迭されたため。
06:30 中部方面・総監部、非常勤務体制
06:30 村山、園田源三秘書官に、電話で状況把握を指示
   (園田本人は「そのような事実は無かった」と否定)

06:30 警察庁が「地震災害対策室」を設置、
   大阪、京都、奈良などに機動部隊の出撃命令を出す
06:35 第三十六普通科連隊(伊丹)、倒壊した阪急伊丹駅へ伊丹署の要請で先遣隊出動
06:50 陸自・第3特化連隊(姫路)非常呼集
07:00 スイス災害救助隊、在京スイス大使館へ、日本政府への援助申し入れを指示
07:00 金重凱之秘書が国土庁防災局に電話で状況確認し、
   村山に「特にこれといった情報は入っていない」と報告。
07:14 陸自・中部方面航空隊八尾基地、偵察ヘリ1番機発進。高架倒壊等の画像撮影。     出動要請がないため訓練名目

07:30 村山総理に一報

07:30 陸自・第3特化連隊(姫路)、県庁へ連絡部隊発進
07:35 第三十六普通科連隊(伊丹)、阪急伊丹駅へ48人応援
07:50 石原信雄官房副長官、川崎市の自宅を出発
07:58 阪急伊丹駅救助活動48人
08:00 官邸、防衛庁に、派遣要請がきているか確認するも、要請無し
08:00 ダイエーが地震対策会議。
   中内社長、販売統括本部長にヘリコプターで神戸へ飛ぶよう指示。
   おにぎり、弁当など1,000食分と簡易衛星通信装置を搭載。
08:11 徳島教育航空群所属の偵察機、淡路島を偵察。「被害甚大」と報告
08:20 西宮市民家出動206人

08:20 貝原知事、職員の自動車で県庁到着。対策会議を開くも派遣要請出さず
08:26 総理、官邸執務室へ(予定より1時間早い)。テレビで情報収集。
08:30 セブンイレブン災害対策本部、被災地店舗へおにぎりをヘリ空輸開始

08:45 村山「万全の対策を講ずる」とコメントを発表
08:50 韓国政府、「日本関西地域非常対策本部」設置
   (本部長・金勝英=キム・スンヨン=在外国民領事局長)設置
08:50 石原信雄官房副長官到着。「現地は相当酷い」とコメント
08:53 五十嵐広三官房長官「非常災害対策本部を設置し小沢潔国土庁長官を現地に派遣する」と発表
09:00 呉地方総監部、補給艦「ゆら」が神戸に向けて出港

09:05 国土庁が県に派遣要請促す

09:18 村山、廊下で記者に「やあ、大変だなあ」と。
   視察はしないのかとの質問に
   「もう少し状況を見てから」とコメント

09:20 総理、国土庁長官、月例経済報告出席。地震対策話題無し

09:40 海自輸送艦、非常食45000食積み、呉を出港
09:40 神戸消防のヘリコプターが、上空から市長に
   「火災発生は20件以上。市の西部は火災がひどく、東部は家屋倒壊が目立つ」
   と報告。
   市長は直ちに県知事に、自衛隊派遣を検討するよう電話で要請

10:00 村山、月例の経済報告終了後、廊下で、記者の
   「北海道や東北と違い今回は大都市での災害だが、対策は?」
   との質問に
   「そう?」とコメント

10:04 定例閣議。閣僚の外遊報告。非常対策本部設置決定。
    玉沢徳一防衛庁長官には
   「沖縄基地縮小問題で(上京してきている)大田昌秀知事と
   しっかり協議するように」と指示。
   震災についての指示なし

10:10 兵庫県知事の名で、派遣要請
   (実際には防災係長が要請。知事は事後承諾)

10:15 中部方面総監部、自衛隊災害派遣出動命令
(村山の指示で3000人限定。到着は2300人)
10:25 姫路の第3特科連隊の幹部2人がヘリコプターで県庁に到着、県災害対策本部の会議に参加

11:00 村山、廊下で会見。
   「総理が現地視察する予定は?」との記者の質問に、
   「状況見て、必要があればね」。
   「総理は行く用意はありますか?」
   「そうそう、状況を見て、必要があればね」

11:00 村山総理、「二十一世紀地球環境懇話会」出席。
   「環境問題は国政の最重要課題の一つとして全力で取り組んでいく」と発言
11:00 京都機動部隊が兵庫入り
11:15 村山、廊下で記者に、山花貞夫前社会党委員長の新党結成問題に関して、
   「山花氏は自制してもう少し話し合いをして欲しい」とコメント
11:15 非常対策本部設置(本部長・国土庁長官の小沢潔)
11:30 非常対策本部第1回会議
11:34 五十嵐官房長官、記者に社会党分裂問題を聞かれ、
   「それどころじゃない」と発言し首相執務室入り。

   現地で被災した新党さきがけ高見裕一からの電話情報を元に、
   村山に事態の重大さを力説

12:00 新党さきがけ高見裕一、現地から官邸に電話。自衛隊増員要請するも、
   村山「高見は大げさだ」と冷笑

12:00 政府与党連絡会議中、五十嵐官房長官が村山に「死者203人」と報告。
村山「え!?」と驚愕

12:48 淡路島・一宮町役場の中庭に自衛隊ヘリ三機が到着。
   隊員がオートバイで被害調査を実施
13:10 渋滞に阻まれていた自衛隊・第三特科連隊215人が到着。救助活動を開始
13:30 防衛出動訓令発令検討するも断念
13:30 大阪消防局隊・応援部隊到着
13:50 社会党臨時中央執行委員会が
   「党内事情より災害復旧を優先すべき」として、山花氏の離党届を保留
14:07 村山総理、定例勉強会出席
14:30 小沢国土庁長官、現地空中視察へ
15:36 河野洋平外相「総理は人命救助と消火に力を入れるようにといっていた。
   総理が現地に行くのは国土庁長官からの報告があってからのようだ」とコメント

15:58 村山、廊下で記者からの「改めて聞くが、総理が現地に行く可能性は?」
   との質問に
   「明日、国土庁長官から現地の状態を聞いてな」とコメント

16:00 村山総理、地震後初の記者会見。

   「関東大震災以来、最大の都市型災害だ。人命救助、救援の万全を期したい」、
   「近く現地入りする」(初めて現地入りを明言)。5分で終了

18:00 補給艦「ゆら」が姫路港に入港。緊急物資を積載し、神戸に向かう
19:50 兵庫県知事、海上自衛隊に災害派遣要請
21:00 兵庫県知事、航空自衛隊に災害派遣要請
  
   筑紫哲也「温泉」発言。火災の猛烈な業火で立ち上る煙を見て・・・

18日
辻元清美ピースボート現地入り。
   印刷機を持ち込み宣伝ビラを配布し始める。
   「生活に密着した情報をとどける」と銘打つが、内容は、ピースボートの宣伝や、
   被災した喫茶店主の「国は17日付で公庫の返済分をきっちり引き落としよった」や、
   韓国基督大学による韓国風スープ炊き出しの話しなど。
08:00 海上自衛隊・補給艦七隻が、非常用食料10万食と飲料水1620tを積載し呉を出港。
09:46 初の緊急閣議
11:40 海上自衛隊・徳島航空隊が海上自衛隊・阪神基地に救護用の食料を空輸
13:00 自衛隊5200人と、陸上自衛隊ヘリ65機が王子公園を拠点に救助活動、
   物資輸送を開始。

19日
村山、記者会見で
   「高架に木切れ等が紛れ込んでいたが、欠陥工事ではないか?」
   との女性記者の質問に、
   「そんなことは後で調べる。今はそれどころではない」と激昂
   (結局その後の調査なし)。

11:32 村山首相と土井たか子衆議院議長が伊丹空港に到着。
   村山土井、ヘリで現地視察。灘区の王子公園陸上競技場に着陸。
   当時救助に当たっていた自衛隊ヘリには、
   王子グラウンドヘリポート以外への着陸を禁止していた。

   クリントン、在日米軍支援を申し入れ。
   救助犬、発電機、航空機、横須賀母港の空母インディペンデンスを
   救護   拠点とした救援活動を申し入れるも、
   村山拒否。毛布37000枚のみ輸送機で到着。

山口組幹部宅で物資分配

(なので、その後、こんなことも言われたわけで)

20:00 神戸市に入る国道2号線などを災害対策基本法に基づき、一般車両通行を禁止にする。

20日
筑紫哲也、現地で、焼け跡で遺留品を探す住民に近づき、撮影するなとの叫びにもかかわらず放映。「住民は感情的になっています」と発言。

21日
筑紫「なぜ行政は、お年よりなどのために車を出せないのか。道路が危ないというが、車はたくさん走ってる。自衛隊の頑丈な車もある」

18日より市職員10人で救援物資仕分け。交代、休憩無く、過労で次々倒れる。
その夜、筑紫「市の対策は手ぬるい。個人ががんばっている。3日目までおにぎり一個しか配られなかった」

村山は国会で
「なにぶん初めてのことでございますし、早朝のことでもございますから、政府の対応は最善だった」(後に全面撤回)

   自衛隊・艦艇4隻給水活動

   新進党・海部党首、村山に政治休戦申し入れるも、
   「政府は国会運営携わる立場ではない」と拒否

24日
村山、(交通制限や物価統制の可能な)緊急災害対策本部設置必要なしと答弁

こうして、眺めていくとき
果たして、この方の論に説得力があるかどうか・・・。

・・・次に進みます。

任期中には、第2次世界大戦終戦50周年という歴史的な節目を迎えた。
日本は自らが犯した「戦争犯罪」について深く反省する必要があり、
全世界に向けて今後は平和、民主主義、国際協調の道を進むと表明していた。
このような背景から、私は「村山談話」を発表 した。

「戦争犯罪」・・・そもそも、犯罪と戦争は一緒にできる言葉ではありません。
そして、
日本が戦争にいたった経緯を深く知るならば
当時の開戦状況が、いかに仕組まれ、
どのように日本が「戦争の道」へと追い込まれて行ったかが、わかるでしょう。
齢を重ねたかつての重鎮が、本当にそれを知らないはずがない・・・。

自らが犯した戦争犯罪・・・と言い続けるなら、それは偽りの喧伝に等しく・・・。

私が「村山談話」を発表したのは、
日本がもし、今後アジアや世界の国々と平和的共存を望むのなら、
必ず過去の歴史について徹底的に清算しなければな らないからだ。
私は、中国・韓国などのアジアの国々は、「村山談話」を通じて、
「日本は歴史問題上で過去とは一線を画した」と認識し、
次第に日本を受け入 れていったのだと考えている。
そのため、第1次安倍内閣を含むその後の内閣もみな「村山談話」を継承していった。

これまで他国に対し、自国の利益よりも巨大経済界の私的な思惑を重要視し
日本の矜恃を示せなかった歴代の政府いずれにも責任があります。

この村山談話に「喝」を入れる勇気ある人もいなかった・・・。

現在、清算を盾にし、
日本に対して「嘘と偽りの歴史」を押しつけようとしているのは、
中国と韓国のみ
です。
日本が前に進めないのは、むしろ
彼の国々に引きずられていると言ってもいいでしょう。

しかし、安倍氏が2度目に首相に就任してからは、
「侵略の定義は国際社会でも定まっていない」として、「村山談話」を修正すると表明した。
まだ、 安倍首相がどのように「村山談話」を修正するかははっきりしていないが、
もし侵略を否定すれば、関係各国は日本の歴代首相の発言に対して不信感を抱くだろう。

何度でも言いますが、
侵略のために、あの戦いが始まったわけではありません。
それからすれば、現首相のスタンスは、ふつうの意見です。

加えて
いつも不信感とやらを抱き続ける中国と韓国。

これら両国とは、
本当なら徹底的に距離をおいたほうがいいのです。
いまだ、これら両国に進出を考えている企業があるなら
それは止めたほうがいい・・・。
あとで必ず泣きをみることになるでしょう。

第2次大戦後、日本の歴史教育は近現代史についてほとんど教えてこなかったため、現在は多くの日本人が過去の戦争について理解していない。
過去の 歴史を正確に学ぶことは、隣国との友好関係の助けとなるだけでなく、
日本自身の今後の発展において重大な意味を持つ。
私は日本政治の右傾化を非常に憂慮している。
日本の政治家たちは、日本がかつて隣国で行った植民地統治と侵略の歴史について、
より深く学ぶ必要がある。
そうしなければ、同じ轍を踏むことになる。

文中に「歴史を正しく教えて来なかった」旨・・・がありますが
教えてこなかったのではなく、間違ったことを教え
いかにも日本だけが悪者であるという印象感覚を植えつけてきた・・・
と言ったほうが正しい。

多くの人は、いまだ、その印象感覚の支配下にあります・・・。
これをとりはずずことが、むしろ日本の急務です。

一度気づいたなら、その人は二度と、元のおかしな思想には戻りません。
つまりマインドコントロールが解けた状態と同じになります。


日本は「ポツダム宣言」、「カイロ宣言」および東京裁判の判決を受諾したからこそ、
国際社会に復帰できたのである。
もし、日本の首相と閣僚がA級戦犯を祭る靖国神社を参拝すれば、
日本はかつて受諾した国際条約を否定することになる。
私は、首相と閣僚が靖国神社に参拝すべきでないと考える。
最近、憲法改正が1つの大きな課題となっているが、基本的人権や平和と民主主義を基調とした日本の現行憲法を修正することは絶対に許してはならない。

(嗚呼・・・ホントすごく堕落した気持ちになって正直言うなら)

東京裁判・・・これが如何に不当な裁判であったか・・・
数々の証拠もあるのに、この方および関連の思想・政治団体は、
それを無かったごとくに扱います。
あの「拉致」を決して認めなかったときと同じように・・・。

一般の多くの人たちも、A級戦犯という言葉は知っていても
その人たちがどのような様で当時を生きたかを知りません。

日本人であって、当時の「戦争の経緯」を無視するなら
それは、まさに
戦争で命を落とされた「すべての方々」への忘恩・冒涜にほかなりません。

広島の原爆記念館の石碑には「過ちは繰り返しません」と刻まれている。
これは広島県民だけの誓いではなく、すべての日本国民の誓いであるべきだ。
平和国家になることは、日本国憲法が示す方向である。

石碑の文言・・・解釈もいろいろできますが・・・。
いずれにしても、原爆を落としたのは日本ではないでしょう。

これらの話題、今にはじまったことではありませんが・・・
改めて問いたいのです。

村山氏のような人たちはいったい、
どこの国に住んで
どこの国を思いやる御仁たちなのでしょう。
日本に住みながら、別の国の喜ぶことを書き、行い
自国に不利益をもたらし、自国を貶める。

しかも、言っていることすら真実でないなら・・・
もう、何というか、言葉を出すのも・・・

日本国憲法がどのようにして作られたかの経緯は
一般の人たちも、もっとはっきり知る必要があるでしょう。

敗戦国になったとはいえ
当時の白人世界を揺るがした日本。
欧米社会からすると、日本は非常にめざわりでした。

なので、日本が二度と国力を持てないよう骨抜きにし、
工業発展を阻止し、愚民化を画策し
国土を「4つに分割」して統治しようとした当時のアメリカ、
その裏で、暗躍する勢力が作った憲法


それは
「War gilt information program」にもとづく
自虐史観の助長にほかなりません。

とどのつまり
「日本はアジアの解放者ではなく、残酷な侵略者だった」という洗脳が
GHQ主導で行われたのです。

そしてこれが、マッカーサーによって
「侵略国家日本は、心を改めて、永久に軍隊を放棄し、
国権の発動たる戦争も放棄し
世界平和を希求する」
という趣旨の、平和憲法の部分に繋がっていきます。

これは、実際のところ
日本がどこに攻められようと、指をくわえていろ・・・に等しい条文でした。

しかし、その後、朝鮮半島に有事が起こり
太平洋側に位置する日本が、まるで浮沈空母のように
地理的な戦略上の護りとなっていることをアメリカは認識します。
ゆえに
憲法解釈の見直しをはかり、
「自衛権」はある・・・と言い出したわけ
で。

これに飛びつく朝日をはじめとするいくつものメディア・・・
賛同する思想家や学者のお歴々
彼らは、はっきり言って
日本の「獅子身中の虫」でさえ、あり得る。

しかし、そんな「虫」を身に抱えながらも
日本はここまで辿り着きました。
それは、
日本ならではの、
長い歴史に培われた国民性(の長所)がなしえた
まことに凄い成果なのです。

いま日本は、
この呪縛から脱する「勇気」を奮い起こし
立ち上がる「時
」が来ています。

それは、今後の世界情勢さえ左右する・・・。

憲法改正が即、戦争に繋がると考えさせる促しを
メディアの多くが流しています。
その闇は、以前にメモしたごとくです。

ですから、このような欺瞞の数々・・・を
国粋主義に走ることなく
戦争美化などの観点でもなく
誰かしらを責めるのでもなく
冷静な判断をもって
一人でも多くの方が見破る「時」
です・・・。

偽りの歴史観に縛られ、「日本ではない国」を利する部分が憲法にあり
それで保たれる平和だとしたら
それは「偽りの平和」・・・。


まことの「気づき」とは、内面の問題だけではありません。
同時に、外で起きることへの「気づき」も必要です。

微力な「書き手」の独り言ではありますが
そんなことを、心から訴えてやみません。

時の旅路にてさんより



馬鹿やローー達が、はびこる世の中になってほしくないですね・・