南域結界☆ ジェルソミーナ -31ページ目

3 鏡の微笑

 真暗な部屋の中に、彼のむせび泣く声だけが響いた。
 どれだけ泣いていたのかは分からない。
 宰相の私室の扉の前で、随分前から、背の高い軍服の女が、壁に寄り添うように立っていた。
 朝の光が、廊下に差し込む。
 シトラビンス准佐は細い目を上げて、飛んで行くスズメの群れを数えた。
 刻を告げる塔の鐘が鳴り、朝食を運ぶ下女がワゴンを押してやって来た。
 シトラビンスはそれを手で制して、
「ここには誰も入れないように。お疲れなのだ」
 と念を押した。

 キーツはいつの間にか眠っていた。
 大理石の床の上に眠るその姿は、涙に濡れ、痛々しかった。
 私室の中は薄暗い。
 厚いカーテンとカーテンの透き間をかいくぐって、太陽の光が忍び込もうとしている。
 冬の太陽は控え目に、大帝国の宰相の、やつれた横顔へ手を伸ばした。
(何を……泣いている)
 短い夢の続きの中で、彼は呟いた。
(あいつは死んだのだ。よかったじゃないか)
 熱を帯びた石の柔らかさが、深い眠りへと誘(いざな)ってくれる。
(やっと死んだ……死んでくれた……よかったじゃないか)
 彼は繰り返し呟いた。
 涙が頬を伝って落ちていくのが分かった。
(なぜ泣く。あいつを殺そうと思っていたのだろう。殺したいと願っていたのだろう。丁度よかったではないか。木偶が殺した……事故で死んだ。なんでもいい。全てが元通りになってくれたのだ……良かったじゃないか)
「うっ……」
 突然、嗚咽の波が胸を襲った。
「なぜ消えた」
 カーテンがはためく。鋭い光が刺し込んでくる。
 部屋の中は序々に明るくなってきている。
「なぜ消えてしまった……勝手に! なぜ最後までわたしの思い通りにならない! 逆らって、逆らって、逆らって、逆らって! わたしを苦しめるだけ苦しめて、なぜわたしの知らない所で勝手に消える? なぜそこまでして、わたしに逆らう? なぜ!」

 窓の格子が、完全に開け放たれた。
 ホウキに乗った二つの影が、地上から遥かに高い空で彼を見下ろす。
 一陣の冷たい風が吹き抜けて、影は小さく身震いをした。
 そっと、互いに目を見合わせる。
「なぜ、なぜなんだ。最後までわたしの思い通りにならずに死んで!」
 膝をつき、平伏するような姿で、彼は思いきり床を殴りつけた。
「くそっ!」
 遥か下の地上から、枯れ葉が窓まで舞い上がる。

 二つの影は、窓際に降り立った。
「なぜなんだ! なぜ……みんな消えてしまうんだ! なぜ、わたしだけを置いて勝手に去ってしまう! なぜ、わたしの思い通りにならない。なぜ、全て、わたしの望み通りにならないんだ!」
 彼は泣いた。
「消えていく……みんな……わたしを置いて、勝手に……」


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2 鏡の微笑

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 眠れない夜が続いている。
 キーツ宰相はここ数日間、何も口にしていない。
 こまごまとした仕事や予定は、全て大臣達に任せた。
 イリニア帝国に悲しみの悪魔「パスティ・レーン」を送る計画を、結界師に否定されて以来、彼はずっと塞ぎ込んでいる。
 あのような屈辱を受けたことは、彼の人生で一度もなかったのだ。
「くそっ!」
 こぶしから、新たな血がにじみ出る。
 あの木偶(でく)の一言で、必要ないと棄ててしまっていた感情が、湧きあがってきてしまったのだ。この世に自分は存在しないと嘯(うそぶ)く彼にも、わずかに残っていた、罪を悔やむ感情が。
 あの木偶に否定された瞬間、彼ははっきりと、自分が人間に引き戻されたと感じてしまった。
 だからこそ、
(あの木偶さえいなければ)
 彼は憎む。
 人間らしさを捨て、存在のない木偶達の上に、存在のない空虚な者として今まで、ずっと、安定して生きてきたのに。
(あの木偶さえいなければ、わたしは今も、空虚なままで生きていられたのだ。あいつさえいなければ、わたしはこんなにも苦しまずに済んだのに!)

 私室の外に、誰かが片膝をついた。
「失礼いたします、閣下。お伝えしたい事が」
 何度目かの呼び掛けに、宰相はようやく返事を返した。
「なんだ」
 使者は低い声で手短に、結界師が死んだこと。
 殺した男が宰相に会うために、城の下へ来ていることを告げた。

「引見の間へ通せ」
「はっ」
 足早に、宰相は別棟へ下りた。
 城も町も、もう寝静まっている。
 使者の灯したオイルランプが、引見の間への扉を案内した。
 宰相は扉を抜け、仕切りのカーテンを払いのけると、一刀の下に、振りむく男を斬りすてた。
「余計なことを!」
 血しぶきが上がった。
 男は声もたてずに、仰向けに倒れた。
 この男は城の裏手で、試作段階のマイエル砲を使い、結界師を暗殺しようと企てた男である。砲は大爆発を起こし、周囲の塔や城壁もろとも、吹き飛んでしまったのだが、この男は直前に、恐怖のあまり戦場から逃げだし、危うく一命を取り留めたのである。
 宰相は剣の血糊も拭い取らずに、真っすぐに私室へ帰り、扉を閉め、そのまま床の上に崩れ落ちた。
「なんということだ……」
 額を床に押しあてた。
「なんということ……」
 手にした剣を、壁に投げつけた。
「余計なことを……っ!」
 嗚咽が彼の口から漏れた。


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1 鏡の微笑

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     ―――――――――――――――――
     悲しくて 悲しくて 悲しくてたまらない
     誰か近くに
     もっとそばにいてくれ
     ―――――――――――――――――




 それはいつも、小さな作業場から始まっていた。
 ぜんまいを巻く音と、銀の筋を切る音が、いつも変わらず……聞こえていた。
 見上げると、いつも景色は霞んで見える。
 背を向けて、前かがみになった、大きな背中。
 節くれだった手が、机の上の、木箱を漁る。

 背中は決して振り返ることはない。
 ただ黙々と、やすりをかけ、ガラスを磨き、ネジを拾い上げて……
 決して。振り返ることは、しない。
 子守唄が聞こえる。

 ……そしていつか、椅子には誰も、いなくなる。



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