京王線刺傷事件現場をゆく  ーI am Jokerー | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

前に記事にも書いたがホアキン・フェニックス主演の映画「JOKER」は映画館に

観にいった。

その「JOKER」に憧れたという服部恭太容疑者が起こしたのが今回の事件。

もう一部ではジョーカー事件と呼ばれているらしい。

 

下は停車した電車の窓から乗客の人たちが脱出しようとした京王線の国領駅。

 

世田谷一家殺害事件

八王子スーパー強盗殺人事件

川崎20人殺傷事件

に続いて事件現場を歩く……。

 

 

犯行現場がどうだったという情報ばかり流れていたが、事件に至る背景は

ほとんど報道されていない。

大事なのはそこかと思うのだが。

 

動機としては「仕事も人間関係もうまくいかずいやになった」ので

「人を殺せば死刑になれると思った」というのが報じられている。

 

まだ24歳だという。

24歳で絶望するにはまだ若すぎる。

悪い意味で絶望するのにも適齢期というのがあるのだ。

 

オレだって、これまで仕事の問題や、友人だと思っていた人間の裏切りを

経験してきた。

絶望は決して癒えない

だけど熱と同じで、喉元過ぎれば多少麻痺というか和らいでくる。

というか諦めといったほうがいいかもしれない。

人はいつも‘with絶望’の世界を生きているのだ。

言葉には必ず対義語というのがある。

絶望があるから希望だってあるのだとオレは思う。

絶望の存在しない世の中に希望などない。

犯人は本当の絶望期まで我慢ができなかったのだろう。

 

 

 

あえて、そのへんの評論家や教育者が語るような綺麗事は書かないが

24歳で絶望をしったようなことをいわれるのが腹が立つ。

あまりに若くして真の絶望を見たつもりになっている人間こそ、その負の刃を

無防備な外側にむける傾向があると思う。

それなりに年齢を重ねてから絶望した人間は、刃を外にむけず、自分に

向けて静かにひっそりと絶命するのではないだろうか。

 

ちょっとネットで軽く容疑者のことを検索してみたら、人間性や過去について

もいくらか情報があったが、そのへんを絡めてかくときりがないので、そこは

踏まえないで書くが、同じ単独型の不特定多数攻撃事件にしても、この容疑者の

場合は、秋葉原事件の加藤智大死刑囚とはやはりタイプが違う。

 

もちろん、いかなる理由があれ、無関係の人に刃をむけた時点でアウトではあるが、

加藤智大死刑囚の場合は多少、同情する部分があったのと、それなりに耐えてきた

ところもあったのかなという印象はあった。

だが、服部容疑者の場合はどうにも甘えにしか感じられないのである。

 

人を殺せば死刑になれると思ったというのは、事件をおこした人間の口からよく聞く。

つまりは自分では死にきれないということだろう。

だがそんな彼らが人の手で殺されたいというわりには、警察署やヤクザの事務所に

行って暴れず、無抵抗の市民がいる場所で暴れるのも不思議である。

結局は臆病なのだ。

 

このての事件が起きると、ニュースとかではよく

「果たして、犯人をそこまで追い詰めた社会の存在があったのか?」

というテーマが語られるが、今回のジョーカー事件については、そこまでの背景があった

ような印象を受けない。ひどく甘えた末の事件のように思える。

 

映画の「JOKER」もとんだ迷惑だ。

ただ、なにか起きると諸悪の根源は残酷なゲームだとか、登場人物が影響を与えやすい

アニメだとか、一部の人々は悪者を設定したがるが、今回は影響元となった映画のことを悪く

いう人間がいないのは救いだったかもしれない。

 

なにはともあれ、今回のような事件が起きると、世の中に本当に安全な場所なんて

ないんだろうなと改めて思う。

本当にテロなどにもあわず、誰からも命を狙われない場所があるとすれば、それは

皮肉にも、そういう事件を起こした人間が入る刑務所のなかくらいかもしれない。