川崎20人殺傷事件現場をゆく | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

JR南武線沿いの稲田堤周辺までゆく用事があったので、

つい最近世間を震撼させたアノ事件があった南武線登戸駅前まで

足を伸ばして取材にいってみることにした。

 

テレビ画面の前で考えたり語るのと、現場独特の空気を感じながら

語るのではやはり違うだろうから。

 

 

 

登戸駅周辺といえば、オレが子供のころはまだ田園的な風景だった印象だが、

その後かなり拓かれて店や大通りが伸びる風景に変わっている。

 

事件は先月28日の朝に発生。

 

両手に包丁をもった岩崎隆一容疑者が20名を殺傷。

ふたりの方が亡くなられ、容疑者本人も自殺という事件だった。

 

被害者のほとんどが近所にあるカリタス学園という施設に通う子供たち。

 

地元では有名らしく、ひとつ隣りの駅周辺からあちこちでその案内表示を

目にした。

 

 

 

事件があった登戸駅に到着。

かつてたまに友人と呑みに下車したことはあったが、それは小田急線とJRを

連絡する側のロータリーなので、ここの場所から駅を眺めるのははじめてかも

しれない。

 

 

事件現場はここからすこし先だ。

方向的には南武線の線路沿いに立川方向になる。

 

駅の下を抜けると、もう近い。

 

このあたりから既に制服姿の警察官や腕章をつけたマスコミ関係者が

器具を担ぎながら歩き回っている姿が目立つ。

 

 

 

左奥に見えるのは上空から中継などでよく写っていたドラッグストアの「薬」と

書かれた看板だ。

 

 

すぐ先の道路挟んで反対側に人が集まっている様子が見えた。

たくさん置かれている献花も見えたので間違いない。

 

コンビニ手前に位置する現場。

(報道陣含めプライバシー配慮のため、今回あえて粗い画素で撮影)

 

 

事件自体が衝撃的だったせいか、数日経ってからでも報道陣の数がとても多い。

そして花をそえにくる人も途切れる様子はない。

 

カメラはずっと献花の山とその前で手をあわせる人たちに向けられており

祈り終わったあとの人たちのインタビューをしていた。

 

正直、オレもせめて添えられているたくさんの花のすぐ前で、手をあわせて犠牲者

の方のご冥福を祈らせてもらいたかった。

いつ、自分がそういう身に回ってもおかしくないので。

 

ただ、大変申し訳ないのだが、オンエアされるされないに関係なく、カメラやインタビューは

ちょっと遠慮させていただきたいので、失礼ながら道路挟んだ反対側の歩道にて

現場のほうにむけ、目をつむり手をあわさせていただくことにした。

被害者となった方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

報道も報道で仕事なのは十分理解しているが、ひとつだけ感じたことがある。

 

そこにやってきてしゃがんで手をあわせている人たちの表情をとらえようとして

ものすごく低い位置からのぞき込むようにしてレンズを向けるのはちょっとどうかなあと。

 

プレスとしてはあらゆる現場における「今」をいろんな角度から伝えるのが仕事だとは

思うけれど、だとしてもそこまでせず、通常の角度から撮影し、本人の了解が得られれば

その画像や映像を使用すればいいのではないだろうか。

 

悲しんでいる表情を映そうとするのは、事件後の現場を伝えるというよりも、

お涙ちょうだい的な映像、画像を求めているように見えてしまう。

テレビ局や新聞社も仕事だから他と違い、視聴者や読者の関心や感情を集める

素材が欲しいという気持ちはわかるけれど、これはドラマじゃなくて、実際に被害者が

存在してしまう現実なのだ。

生意気なこというようだが、そこまで執拗に撮影するとどうしても人の死とそれによる

悲しみの風景を数字に変換するツールにしてるんじゃないかと感じてしまう。

 

また、ここまでカメラやマスコミがいなければ、オレのようにプライバシーを気にせず

ゆっくりちゃんと添えられた花の前で心から手をあわせたかったという人たちもいたのでは

ないだろうか。

 

オレはテレビ関係者になれなかった人間なので業界事情はわからないけれど、

視聴率が大事な世界の中の報道でも、このような被害者がいる事件における現場取材に

おいては、どこのテレビ局も新聞社もいっせいにおしかけるのではなくて、協定的に

代表者一組がいって撮影してその様子を共用で使用するとかいうのはできないものなのか。

 

事件の様々な背景を取材して発信してこそメディアだとは思うが、各事件において

被害者家族のもとにたくさんのカメラやマイクを持った人間が押し寄せる光景をみると

毎回そう思わずにいられない。

 

 

 

現場ルポにおいては、オレからはこれ以上なにもないのでここまで。

 

さて――

 

この事件の犯人は事件後に自殺した岩崎隆一容疑者である。

容疑者と犯行についてはいうまでもなく擁護するに値する面はない。

 

誤解を招きかねないので先に断わっておくが、これからの論は今回の事件の

容疑者とは一度離れて……いや、完全に離れるのもまた違うから9割方離れて

これはこれでという目で読んでいただきたい。

 

 

今またメディアによるこういう事件の「報道の在り方」が問題になっている。

オレもそのへんにおいてずっと前から思っていたことがあって、いつか書こうと思いつつ

書けないままでいたのだが、それがやっとここ最近議論されるようになった。

 

今日もやっていたが、「死ぬならひとりで論」というやつである。

 

なんでもっと前からこの発言を疑問視する声がでなかったのか不思議だった。

 

「死ぬならばひとりで死んでくれ、とかいわないで」といったからといってそれは

別に岩崎容疑者を擁護しているわけでもなければ、味方してるわけでもなんでもないと思う。

 

「ひとりで死ね」という言葉を否定したからといって、だからそれが=「周囲を巻き込んで良い」

ということだなんて誰もいってもいないし、思ってもいないのだ。

 

何人で死ぬかという問題がじゃない。

遺族の方々は当事者だからそう思ってもしょうがないというか、思うのが通常だと思う。

 

単純に岩崎容疑者にたいしてじゃなく、今追いつめられているすべての人たちに向けての

表現の配慮の問題なのだ。

 

岩崎容疑者に話を戻していえば、たとえどんな背景があったにせよ、無実の人を既に

殺めてしまったのだから、どんなに叩かれてもしょうがない。もう死んでしまったとしても。

やったことは決してゆる許されることではないのだから。

 

でも、まだなにもやっていない人たち――

だけど、もう爆発寸前でその刃を自分に向けるか、他人に向けるかというところまで

追いつめられてる人たち――

 

いうまでもなくそんなことしないが、オレも精神的にやられてしまった経験は何度もある。

いってしまえば今でも除去できていない憎しみはある。

 

そんな状況のとき、「死ぬならばひとりで死んでね」なんていわれたらどう感じるだろうか。

凶行防止になるどころか逆効果だ。

殺意のトリガーには十分なりうる。

「ひとりで死ね」なんていわれたら、その逆をやってやろうと思っても不思議ではない。

 

先日紹介したオウム死刑囚井上嘉浩についての本。

その中で井上が教祖である麻原にたいしていくつか疑問に感じたことの一つが

ハルマゲドンについてだった。

 

麻原はハルマゲドンについていつも語っていたが、自分たちがそのハルマゲドンをどう乗り越えて

ゆくかという説法ばかりだったらしい。

 

つまり自ら救世主だといっているにも関わらず、まずハルマゲドンを回避するにはどうしたら

いいかという話は一切なく、完全にハルマゲドンを肯定したうえで、自分たちオウムがどうやって

それをやり過ごすかということがとても疑問だったという。

 

救世主といっているわりには論点がズレているのだ。

 

それと似ているといっていいかはわからないが、今騒がれている論争もなんとなく

ズレているように見える。

 

「死ぬならひとりで死んで」と「こんな世の中だからこういう事件がおきてもしょうがない」

という論理が互いに相手を潰そうとしている構図の流れになりつつないかという危惧。

 

すごく極端にいってしまうと、最低限‘ひとりは死ぬ’ことが暗黙の前提になった討論になって

しまいそうで怖いのだ。

 

本当に突き詰めないといけない答えは「誰ひとり自殺しない、巻き込まれないような

世の中にするにはどうしたらいいか?」ということではないのだろうか???

 

綺麗事だよ。それはわかっている。

人が生きていて、人同士つながりがある以上、ストレスも疎外もあるから殺人やテロ

などの今回の事件みたいなことをすべてなくすのは不可能だ。

 

でも思考停止したらそこで終わり。

討論するテーマを間違えたらそこで終わり。

戦う相手を間違えたらそこで終わり。

 

今回の論争はどうしたらもっと生きやすい世の中になるかという論議ではなくて

自分と異なる意見を潰す戦いに過ぎなくなりつつある。

 

そんなこと一生懸命考えたってどうせ世の中は変わらないから同じ、っていう概念は

自分ひとりが空き缶をポイ捨てしたところで、環境に大きく影響されるわけじゃない

という概念と同じ。

 

 

感情をもった人間だから、仲間内であったときや、居酒屋で吞んでいるときにときには

やや不謹慎な発言をすることもあるだろう。

オレは聖人君子でもなんでもないから、そのレベルなことでもいってはいけないなんて

ことをいうつもりはない。

オレだってたまにはいっている、たぶん。

 

でもね、やはりそれなりに公平な立場で影響力もあるニュースキャスターや弁護士が

公共の電波で「死ぬならば1人で死んでくれ」などといってはいけないよ。

 

岩崎容疑者についてはもう既に罪のない人を殺めてしまったからそういわれてもしょうがない

部分はあると思う。オレもそこまでいうつもりはない。擁護も一切するつもりはない。4

 

でも、こうしている今現在もどこかで追いつめられている人は存在するはず。

 

もしかしたら、まだ最後の誰かの一言が歯止めになるかもしれない。

でも、そんなタイミングでテレビをつけたらそこ映る影響力ある人間が

「死ぬならひとりで――」

などといっているのを聞いたら、どう思うだろうか。

自分がその立場になったことを想像して考えてほしい。

 

 

 

 

さっきも書いたが今回の事件で報道の在り方がまた考えられるようになって

きた。

これは大きいことかもしれない。

 

メディアが「ひきこもり」というワードをやけに強調して前面にだして報道

していることが偏見を煽るという意見だ。

「闇」というワードも個人的には強調している印象。

 

誤解されたくないからクドイくらい重ねていうが岩崎容疑者を擁護するつもりは

微塵もない。

 

でもやはり……過去にもなにかの記事で書いたように、メディアもメディアで

例によって「理想の通り魔像」を描き出そうとしている節はたしかにある。

 

程度の強弱こそあるかもしれないが、生きている以上、「闇」のない人間など

いない。

 

部屋から過去の殺人事件を扱った古い雑誌が2冊見つかったとか騒いでいる。

 

猟奇殺人やテロについて書かれた本が2冊見つかっただけでそれが殺人の動機で

あるのならば、オレはもう何十人、何百人て人間を殺しているよ。

 

そんな本や新聞くらい誰だって読むことあるやろ。

という意見が某新聞社の記事に書いてあったがまさにそのとおり。

 

これもまたいうまでもなく容疑者のほうを擁護しているのではなく、似た嗜好を持ったり

似た境遇にある人を同じような犯罪予備軍というくくりにするなという警鐘だけれど、

このへんについても昨日今日あたりで、代弁してくれている人が増えてきたので

オレがこれ以上書くまでもない。

 

最後にひとつ。

 

今回の事件の容疑者は殺傷をおこなったあと、すぐに自らの首を切り自殺した。

 

それにより、警察もマスコミも

「犯行の明確な動機がわからないまま容疑者が死亡してしまった」

といっている。

 

オレの推測だと、犯行後するに自害する犯人の理由には2つあると思う。

 

ひとつは、逮捕されて残りの人生を刑務所で過ごすのが嫌だから自害するパターン。

 

もうひとつは、あえて逮捕もされず供述もせず自害して終わり、社会的には動機不明として

そのまま死ぬパターン。

 

今回の事件の容疑者は後者なんじゃないかとオレは感じる。

 

やったのは自分だとアピールして歴史にある意味名を残す。

その一方、明確な動機や理由をはっきりさせず、警察や世の中にたいして

事件の動機という永遠の課題を残したままこの世を去る。

 

そこまですべてひっくるめて、世の中への復讐だったのじゃないかと

オレは感じずにいられない。