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「あなたのファンタジーである世界」って、厳密にいえば何のことでしょうね?

それは、あなたの過去と未来のすべてです。
(ひとつ残らず、全部ですよ)
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原文「厳密には、あなたの幻想の世界とは何か?あなたの過去と未来の全体(ただそのすべてのみ)」


過去と未来がぜーんぶ「幻想(ファンタジー)」だとすれば、「幻想」でないものは何でしょう。

過去と未来ではない「時」…
それは、現在、すなわち「今」ということになります。

「今」目の前で起こっていること。
それを「今」、見ている。

そのような「今」は、幻想ではないということになりますね。

ではそもそも、私たちお得意の(?!)「幻想」とはいったい何なのでしょう。

精神分析学ではこの「幻想」を、欲望の充足と深い関係があるものとして考えるそうです。
興味深いですね。

欲望を満たすために、幻想を作り出すとすれば…
幻想の源になっているその「欲望」の正体とは、「『今』への不満」なのではないでしょうか。

今、目の前に起きていること。
今、自分が見ている、経験していること。
そうしたものに対する不満が「欲望」となって、幻想の世界ーすなわち、すべての過去と未来とを作り出している…と、いえるのではないでしょうか。

今目の前にあるもの、今の自分の経験に100パーセント満足していたら、欲望は生まれません。
従って、ファンタジーを抱く理由もないはずです。

そしてすべての過去と未来が幻想の世界であるならば、その源である「今への不満」もまた、幻想だといえるのではないでしょうか。

つまり、私たちが今に対して不満をもつ理由は、実はないということになります。

私たちは、本当は「今」に100パーセント満足できるものなのです。

なにせ「今」以外、ひとつ残らずぜーーんぶ「幻想」なのですから…

ケイティさんは自分自身を、「リアリティの恋人」と呼んでいます。
「私はあるがままのリアリティを愛しています」
と語ります。

彼女は問いかけを通して、「今」に完全に満足できるのだ…という真実を見いだしたのでしょう。

そしてそこから、今日のようなメッセージによって、私たちを招いてくれているのだと思いました。



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悲しみ?
それは全部、だだっ子のかんしゃくよ。
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原文「すべての悲しみはかんしゃく」


かんしゃくの原語は「tantrum」。
幼児が、だだをこねた挙げ句にする大騒ぎなどのことです。
最近はあまり見かけなくなりましたが、ひと昔前はスーパーのお菓子売り場などで時々見られた光景ですね。

おかしかってー
かってかって、かってーー
(お母さんの厳しい「ダメ!」宣告)
お…お…お…
(うるうるうる)
うわぁぁん!!!
ママのばかぁぁぁー

…というアレです。

しかし今日のケイティさん。
私たちの「悲しみ」は、みんなこの「ママのばかぁぁぁー」と同じだと言うのです。

ちょっとちょっと。
あのねえ、アタシは7年つき合った彼氏にふられたんですよ。
お菓子売り場のコドモと、一緒にしないでよ。
結婚しようって約束してたのに。
専務の娘だかなんだか知りませんけどね。
そりゃアタシより若い。しかも美人。
だからって…
だからって…
(うるうるうる)
うわぁぁん!!!
たかしのばかぁぁぁー

…てあれ、なんかコドモと同じになってる((-""-;)

いやいやそういうことではないのです。
たかが三歳児のお菓子と、婚約までした恋人の心変わりは、同じレベルで考えちゃあいかんでしょそりゃ、って話。

…しかし。
それは本当なのでしょうか?
( ・◇・)?

いずれにしても、なぜ今日のケイティさんは悲しみを「かんしゃく」と呼んでいるのでしょう。

実をいうと悲しみとは、自分の思い通りにならなかったときに起こります。

将来を約束した婚約者の心変わりであれ、お菓子を買ってくれないお母さんであれ、悲しんだり感情的になるのは相手が思い通りになってくれないからなのです。

この点に目を向けて考えれば、悲しみは、実は自分の思い通りにならないことに端を発しているのがわかります。

ケイティさんはよく言っていますよね。
「リアリティと争えば、あなたは必ず負けを喫して苦しむことになります」

目の前に起きていることと争った結果、私たちは悲しみに囚われ、苦しみます。

どんなに私たちのほうが正当で、リアリティに非があると思えても、それは実際に起こってしまったのです。
起きた出来事を変えることはできません。

お母さんは、今日はお菓子を買ってくれませんでした。
彼氏はよりよい条件の女性のほうを、選んだのです。

それがどんなに非難されるようなふるまいに思えたとしても、もう変えることはできません。
起こってしまった、リアリティなのですから…

それについて不満をもち、争い、悲しむのは、私たちのわがままであり「かんしゃく」なのです。

「かんしゃく」である悲しみは、私たちにとって苦しいものです。

その原因は、実は私たちがリアリティを受け入れようとしないことにある…。

それに気づければ、これから悲しくなったときには
「お。ワガママなんだな、かんしゃくなんだな」
と思い直せます。

自分自身の、リアリティに対する考えを見直すことができますね。


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どこでもないところ。
それが、私が我が家のように寛ぐところです。
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原文「どこでもないところで、私は寛ぐ」

「nowhere」で、私は寛ぐ。
「nowhere」こそが、私にとっての「我が家」。

Facebook上の今日のお言葉の背景の写真は、締められた水栓からぴちょん…と滴り落ちる水滴です。

この水滴は、水栓を離れました。
でもまだ地上に落ちきってはいません。

どこにも所属していないこの水滴、どれほど自由なことでしょう。

このどこにも属していない、滴り落ちるさなかの水滴…

ケイティさんはそれを「孤独」や「不安」、「恐怖」などと呼んではいません。

どこにも属していない、滴り落ちて行くその瞬間の水滴に「我が家にあって、寛いでいる」というイメージを重ね合わせています。

私たちが探し求めてやまない「我が家」。

それはある地点ーたとえば、旅の「終着点」にあるのではないのかもしれません。

それは「とある場所」ではなく、どこでもないところ…nowhere そのものなのかもしれません。

そんな nowhere は、いったいどこにあるのでしょうか。
私たちが本当に寛げる「我が家」とはどこにあるのでしょう。
どこを探せば、そのnowhere は見つけることができるのでしょう…?!

それはまさに nowhere 。
「どこでもないところ」なのでしょうね。
(*´∀`)