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私の世界では、
「私はあなたを愛しているだろうか」
という問いだけが重要なのです。
「あなたは私を愛しているの?」
この問いは牢獄です。
それは拷問部屋のようなものです。
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原文「私の世界においては、『私はあなたを愛しているだろうか』だけが重要な問いだ。『あなたは私を愛しているだろうか』は牢獄。それは拷問部屋」


私はあなたを愛しているのだろうか。
その問いだけが重要なのだ。

この前半部分に、

…は??
( ・◇・)?
なんか間違ってね?
「あなたは私を愛してくれているのか」
でなけりゃ、
「私はあなたに愛されているのだろうか」
じゃないの?

と、目がパチクリ :-O になりそうですよね。

しかし、今日まで地道にケイティさんをフォローしてきた我々です。
目がパチクリになっても、気を取り直して後半に注意、注意。

あなたは私を愛しているのだろうか。
この問いは牢獄だ。

ろろ、牢獄?
…し、しかも拷問付き!?
(`Д´≡`Д´)??

どうやら私たちの思考回路のデフォルト設定は、
「私は愛されたい」
になっています。

なんと生まれたばかりの赤ちゃんから、どうやらこの設定になっているらしい…

様々な事情から、愛情や世話を充分に受けなかった赤ちゃんが発育不全になるという例は、少なくありません。

もし「私は愛したい」が設定になっていたとしたら。
私たちは誰がどんな態度や言動をしようと、いつも愛に溢れて幸せ満開のはずです。
「私は愛したい」なら、他者の事情は一切お構い無しのはずですから。

殴られても蹴られても、ぜーーんぜん、構いません。
あなたが私を、丑三つ時に藁人形に五寸釘打って呪い殺すくらい憎んでも、全く何の関係もありません。

私は愛したいのです。
だから、私は愛します。
以上、おしまい。
…となるはずですよね。

このために唯一、必要な質問。
それが、
「私はあなたを愛しているのでしょうか」
なのだと、今日のケイティさんは教えてくれます。

おそらく、「愛すること」がこの唯一大切な質問のポイントではありません。
「私はあなたを愛しているのか、いないのか」
ではない。
私はきちんと、あなたを愛せているのでしょうか?
という問いではないのです。

本当に大切なポイントは
「私は、本当は何を求めるのか」
だと思います。

「私」が、何を求めようとするのか。
愛されることを求めるのか。
それとも「私」から、愛することを求めるのか。

私が、自らすすんで一方的に愛することを求める。
それを導くための質問が、今日のケイティさんが教えてくれる
「私はあなたを愛しているのでしょうか」
なのだと思います。


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忘れないでください。
すべての時間が終わりを迎える時、それは今です。
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原文「注意。すべての時の終わりは今」


今日のお言葉はストレートですね。

「今」には、今以外の「時間」なんてありません。
今ではない「時間」は、みんな「今」ここにいる私の空想です。

明日も明後日も、来週もみんな、私のアタマのなかにしかない空想です。

それに気づいたら、「時間」は終わります。
つまり「時間」とは、私にとって「本当」ではなく空想なのだ…
というのが、私自身にとっての了解事項になる、ということです。

空想なのです。
「本当に」存在しているものではないのです。

空想を空想だと正確に認識していれば、その空想に実害はありません。

今週のドラえもん、やっぱり面白かったー
("⌒∇⌒")

それで、おしまい。
…なのと一緒です。

しかし空想を空想と認識せず、実際に存在すると信じてしまうと、しばしば実害が生じます。

タケコプターと信じて、帽子に竹トンボを張り付けて二階から飛び降りたら…
それは大変なことになっちゃいますよね?!

明日や明後日が「今」の私のアタマのなかの空想ではなく、「本当に実在する」と信じてしまうと、実害が及ぶこともあり得ます。

明日のプレゼンが心配で眠れなくなっなり、胃が痛くなったりしてしまうのです。

「明日」は空想です。

それがわかれば、もう一枚資料を追加しておこうとか、パワポがちゃんと使えるか早めに出社して確かめておこうとか、実際的で前向きな対策が思い浮かんだりします。

空想を「本当」と思い込んで心配するエネルギーが、より建設的な方向に向かうのでしょうね。

こうしてみると、人間て、結構賢いもんですね!
(^◇^)


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「これから何が起こるのだろう」
それについて投影したなら、代償は自らの人生です。
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原文「何が起こるのかを投影した瞬間、あなたは人生を犠牲にしている」


あなたの思考が、現実をつくる。
あなたの思考は現実化する。
…こんな言葉、時々耳にしますね。

私が考えたことが、そのまま目の前に現れる…
と解釈されがちな表現ですが、その本来の意味は今日のお言葉にある「投影」です。

たしかにこれは、「私が思ったとおりの出来事が起こる」と言えなくもありません。
しかし、それが正確であるとも言えないでしょう。

実のところ、私たちが目にしている「出来事」は、すべて原因と結果の法則に従って生じています。
この法則を逃れる「出来事」はありません。
この世界では、すべてが公正かつ厳格にその法則に従っています。

そのような「出来事」を見るとき、私たちにはふたつの選択肢があります。

ひとつは、起きている「出来事」をそのまま、ただ見る方法。

もうひとつは、私たちの思考に合わせて、「出来事」をどう見るかを選ぶ…という方法です。

この後者の方法が、「投影」といわれるものです。
そして、私たちはよほど意識的になって自分自身を訓練しない限り、この「投影」方式が初期設定になっていて、無意識に「投影」を繰り返しているのです。

つまり。
私たちはたいてい、目の前の出来事を「客観的に、ありのまま、ただ見ている」と考えています。
しかし実のところ、多くの出来事を「主観的に、自分の好みに合わせて、選択的に解釈して見ている」のです。

これには、それなりの訓練を積まないと気づけないものです。

なぜといえば、私たちは基本的に
「私はありのままをただ見ている」
ということについて疑わないからです。
それがあまりにも「当たり前」「自然なこと」なので、はてなマークの出番すらありません。

しかし、今日のケイティさんは、この私たちにとって「あまりにも当たり前で自然なこと」である初期設定の「投影」には思いの外高価な代償がある、と言います。

それはなんと「いのち(life)」。
私たちがいちばん大切だと信じているものです。

私たちが「投影」の代償として支払っている、とケイティさんがいう「いのち」。
それが私たち自身にとってどのようなものなのか、「投影」を当然のものとして繰り返す私たちにはわかりません。

ほんの一瞬でも、その「投影」を停止してみないと、分かりようがないのです。

たとえば今、私の目の前にあるもの…

これは扇風機です。
それは、本当なのでしょうか?

…(゜ロ゜)

こうした問いかけを重ねて、気づくことはたくさんあります。

ということは、問いかけをしなかったらそれには気づけなかった、ということでもありますね。

これは扇風機だ。
それは絶対、「本当」なんだ。

そう信じていたときには気づけなかった「なにか」。

それが、投影の代償なのでしょう。
そしてそれを、ケイティさんは「いのち」と呼んでいるのです。