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私は、あのことやこのことに対して感謝しているのではないの。
私は、感謝しているのです。
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原文「私はこれやあれに感謝するのではない。私は感謝している」


最後の
「私は感謝している」
という表現は、おそらく
「『私』とは『感謝している状態』そのもの」
ということをいわんとしているのだと思います。

何らかの感謝すべき対象がなくても、ただ「ありがとう」という心の状態にある。
それが「私」なのだ…
ということでしょう。

ところで、ここでひとつ実験です。

もしも「あれやこれの、感謝すべき対象」をきれいサッパリ心から片付けてしまうと、どうなるでしょう?

予想としては、
「ワガママで自己チューな人非人になる」
がダントツかな?(笑)

だからこそ、私たちは必死で、これまでお世話になった方々のことや、私たちの生活を支える大自然の恩恵を忘れまいとします。

だって、それを忘れちゃったら感謝のカの字もしませんよ?!
なんせ私ら人間は、そもそもワガママで自己チューなんですからねぇ…

ムフ(^w^)

…それは、本当ですか?

まあ試しに、一度「ありがたく思うもの、こと」を心の中から片付けちゃってみてくださいって。

いーから、いーから。
ヾ(・◇・)ノホレホレ



ね?
不思議でしょ?

自己チューにもワガママにも、ならないですよね?

そうなのです。

今日のケイティさんが言うように、実は私たちの心の「本来の状態」は「感謝している状態」なのです。

これは、ケイティさんが特別におエライからではありません。
彼女は、ただ真面目で正直な問いかけを繰り返すことで、「本来の心の状態」に戻ったのです。

私たちの心の、本来の自然な状態は「感謝している状態」なのだ…

それがわかれば、無理やり「ありがたかったあのこと、このこと」を握りしめていなくてもよくなります。

それだけでも、ずいぶん省エネですよね?
(  ^∀^)


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あなたはあまりにも自分自身に眩惑されています。
だからきっと、自分自身は実在していると思っているでしょうね。
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原文「あなたはあまりにも自分自身に魅入られているので、おそらくあなたは実在すると考えている」


原文の「hypnotize」という言葉。
ヒプノセラピーと同じ語源で、催眠にかけられているような、なにかに魅入られているような状態を指します。
催眠術にかかったように、自分自身の判断力を喪失している状態です。
それを、訳文では目がくらんで判断力を失うという意味の「眩惑」にしました。

私たちは「私」に魅入られ、眩惑されている。しかもその「惑わす力」は相当強力です。
その強力な「力」によって、私たちは正確な判断力を失ってしまいます。
そして「私」が実在すると考えようになる…

この「惑わす力」、必ずしもそれが美しい、良い、素晴らしい…ということではありません。

美醜や善悪に関係なく、私たちの正常な判断力を失わせるほどの強い「影響力」なのだ…とうことです。

それほど強力な力をもつようにみえる「私」。

この「私」について、じっくりと思索する価値は充分にありそうです。

しかし、今日のお言葉の後半も、これまた見過ごせません。

…だからあなたは、きっとあなた自身が実在していると思っているでしょうね。

これが、
「あなたはそう思っているだろうが、『あなた』なんてものは実在しないのだ」
という意味なのだということくらい、「私」にだってさすがに分かります。

実在していない「私」の「惑わす力」によって、判断力さえなくしてしまう。

それは、どういうことなのでしょう?
実在していないものに惑わされる…?
そもそも、実在していないものに、そんなことをする「力」があるのでしょうか。

それでもやはり、私たちは「私」は実在していると思っています。
惑わされているわけです。

いったい何に、惑わされているのでしょう?
私たちを催眠状態に陥らせるような「力」は、どこにあるのでしょうか?

突き詰めれば、その「力」とは、「実在を信じること」そのものです。

たとえば今日の話題の「私」。
その「私」が本当に実在するかどうかは、実はたいした問題ではありません。

その「私」が「実在すると信じること」…
それが、問題なのです。

この「信じること」こそが、きわめて強力な「惑わす力」です。

この強い「力」が実在しないものに向かわず、浪費されなくなるとき、私たちの「催眠」はようやく解かれることになるのでしょう。


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二人ならいいけれど、
三人なら仲間割れ。

スティーブンと、フェルメールと…
それに、「私」じゃない。

これなら差し引いてゼロ。
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原文「二人なら気が合う。三人なら仲間割れ。スティーブンに、フェルメールに、『私』ではないもの。これでゼロ」


ケイティさんはこの夏、「ザ・ワーク」のヨーロッパツアーだそうです。

今日の「名画特別篇」は、17世紀のオランダの画家フェルメールの作品にお言葉がついています。

この絵は、
「兵士と笑う女」。
ツアーで訪れたオランダの美術館の所蔵かなと思いきや、ニューヨークのフリック・コレクションの所蔵だとか。

お言葉の中にある「スティーブン」は、ケイティさんの現在のパートナーだそうで、これまでにも時々登場していますね。

原文にある
「Two is company. Three is a crowd」
はことわざ的な言い回しです。

直訳すると
「二人は仲間。三人は群衆」
なのですが、要は
二人なら仲間として、和気あいあいといられる。
三人になると意見が別れて仲間割れし、ただの他人の寄せ集めになってしまう。
…というような意味です。

で、もしここにスティーブンとフェルメールとケイティの三人が揃うなら…
ことわざ通り、わやくちゃな他人同士の集まりになってしまうかも?!

しかし。
ケイティ=「私」じゃない。
「私」ではないのは、「0(ゼロ)」…。

スティーブン、フェルメール、ケイティを各々「1」とすると、「1」が3倍。
1×3=3
になります。
これ、険悪になりがちの「三人」ですね。
f(^_^;

しかし、もしもこの中の誰かが「0(ゼロ)」だとしたら?
1×0=0
で、答えは「ゼロ」。

…そもそもゼロならば、仲間割れのしようもありませんよね。

私たちは、「仲間」になってくれる相手を求めます。
「私=1」として、同じように「1」である相手を探して「2=仲間」になろうとします。

しかしこの「2」は、すぐに「3」続くことだって充分にあり得ます。
すでに「仲間割れ」の可能性を秘めていると、いえなくもない…

これが「ゼロ」なら、「1×2=2」のような「気の合う仲間」にもなることはありませんが、「仲間割れ」することもありません。

では「ゼロ」が孤独なのかというと、そうでもないみたいです。
「ゼロ」だって、誰とでも一緒にいられますよね。

しかし「ゼロ」は、関わったものもみんな「ゼロ」にしてしまいます。
それで差し引きも「ゼロ」になるわけですが。

仲間割れが怖くて、ずっと「1」のままでいるというやり方もあります。

でも、いくつ集まっても「ゼロ」という可能性も、あるのですよね。

…それにしても。
これまで私たちが考えていた「2=仲間」の「仲間」って、なんなのだろう?

そんなことを考えた、本日の「名画特別篇」でした。