大阪市の橋下市長が、学校の歴史教育をめぐって、文部科学省を批判した。近現代史をしっかりと教えていないことに対する批判である。

思い返せば、私が小中学生だった頃も、歴史の終盤はすっ飛ばしていたし、試験に出ることも少なかった。大学受験では世界史を選択したが、やはり出題の中心は19世紀以前だったように思う。

よく「日本がアメリカと戦争をしたことを知らない高校生がいる」という事実に驚く人がいるが、現状の学校教育を考えれば、決して驚く話ではない。

近現代史好きな私としても、橋下市長の気持ちはよく分かる。明治維新後の日本の歴史をしっかりと学ぶことは、現代社会のあり方を考える上で大きなヒントが隠されていると思うし、国際教養人としても、日露戦争や太平洋戦争の経緯などを知らないと、恥をかくことがあるだろう。

普通に考えてみても、歴史は「古代から下っていく」より、「現代から遡っていく」方が自然だと思う。

例えば、自分の出自について知る時、父母→祖父母→曽祖父母…といった具合に、自分から上に遡って調べていけば、そのつながりがよく理解できる。でも、いきなり江戸時代の○○左衛門氏のことを知っても、どこか現実味がないし、自分の所までしっかりとつながらなければ、何の役にも立たないであろう。

明治維新後、日本が短期間で列強と肩を並べる繁栄を築けた経緯、韓国から中国、東南アジアへと覇権を拡大していった経緯、太平洋戦争に向かった経緯、戦後の民主主義社会の中で起きたさまざまな出来事など、いずれも知っていることで、仕事や日常生活で役立つことは多い。

一方で、卑弥呼の時代から、少なくとも戦国時代くらいまでの歴史を知っていても、日常生活において役立つことはほとんどない。もちろん、教養として知っておいて損はないし、その間の人間ドラマは非常に面白いのだが、「国民が共通に備えるべき」という義務教育の理念からすれば、現代史の方に軍配が上がるだろう。

なのに、何故に現代史が軽視されるのかと言えば、そこに思想の問題が絡むからである。

例えば、先の太平洋戦争一つとっても、それを「侵略戦争」と位置づける人もいれば、「自衛のための戦争」と位置づける人もいる。この解釈の違いは、今後の日本社会のあるべき方向性にも少なからず影響を与えてくるので、取り扱いが難しい。

すなわち、特定の政治的理念等を持った人間が、どちらかの立場に偏って講釈することで、教室が政治活動の場となってしまいかねないからである。

だからこそ、日本の歴史教育は、過去から現代へと下ってくる形で、江戸~明治くらいまででさり気なく「フェードアウト」していたとも言えよう。

とは言え、橋下市長の主張も、理解できなくはない。ただ、これを具現化するのであれば、やり方には注意する必要がある。多くの子どもが偏見を持たず、事実だけを淡々と学んでいけるような授業ができるならば、近現代史を学校で教えることには、大いに意義があると思う。

「文脈」の中で学んでこそ面白い歴史だけに、果たしてそんなことができるかは微妙だが…
先日、山崎豊子の『二つの祖国』を読み、ほぼタイミングを同じくして、2010年に放映されたドラマ『99年の愛』をDVDで観た。どちらも日系二世の生涯を描いた作品。ストーリーもかなり似通っていて、共に小説を読み、ドラマを観た妻は「混同する~!」と苦笑いしていた。

『二つの祖国』は、日系二世としてアメリカで生まれ育った男が、日本の真珠湾攻撃によって強制収容所に送られ、その後アメリカ軍に入って戦い、戦後は極東軍事裁判(東京裁判)に関わるというストーリー。

太平洋戦争下における日系米人の立場、フィリピン戦線の状況、東京裁判の様子などが非常に克明に綴られていて、小説としてはもちろん、歴史書として価値の高い作品だと思った。

今から30年近く前、NHKで『山河燃ゆ』という大河ドラマが放映されたが、この原作となったのが本作。主人公の天羽賢治を演じたのは松本幸四郎。その弟の忠を西田敏行、ライバルであり友人のチャーリー田宮を沢田研二が演じていた。

まだ小学生だった私は、今ひとつ物語の核心を捉えられないでいたが、東京裁判のシーンで、被告に「絞首刑(death by hanging)」が言い渡されるシーンだけは、強く記憶に刻まれている。

原作は、東京裁判でのやり取りを非常に克明に描写しているが、大河ドラマの方は廣田弘毅と東郷茂徳の二人にスポットを当てていた。廣田は、A級戦犯で死刑を言い渡された者のうち、唯一の文官。軍人ではない、外務官僚上がりの元総理である。

廣田弘毅の生涯については、城山三郎の『落日燃ゆ』に詳しく描かれているが、彼は協調外交を路線にした平和主義者であり、「自分が総理のうちは、絶対に戦争は起こさない」と言い張り、幾度となく軍部と衝突した人物である。

そんな彼が、煮え湯を飲まされ続けた軍の幹部(土肥原賢二、板垣征四郎等)たちと共に、巣鴨プリズンに収容され、処刑されたのは皮肉としか言いようがない。当時、廣田の死刑判決には、多くの関係者が驚き、検察関係者の中でさえ「馬鹿げた判決だ」と言った者がいたそうである。

この判決には、「罪」の重さに対する「罰」という以上の、政治的な事情があったのかもしれない。

話は戻って、『99年の愛』。こちらは最近のドラマとあってとにかく映像の美しさ、スケール感に圧倒されてしまったた。

テーマが重いだけに、「そんな所に注目してどうする!」と突っ込まれそうだが、ロッキー山脈の壮大な風景、透き通った沖縄の砂浜、原爆が落とされ焼け野原となった広島などの風景が、とにかく美しく、心に刻み込まれた。

その美しい風景描写は、残酷で悲しいストーリーとの対比という意味でも、効果的な演出だったように思う。

日系二世だけで編制された「第442連隊」の活躍が、多くのアメリカ人の心を捉え、その後の日系アメリカ人の社会的地位を押し上げたという描き方は、やや誇張があるかもしれないが、文脈としては間違っていないのだろう。

いずれの作品もテーマとなっているのは戦争。戦争がいかに人を苦しめ、人と人の絆と切り裂いてきたかを「家族」という視点で描いている。

完全に平和ボケしている自分には、淡々とした歴史小説より、そうした目線で綴られたストーリーの方が、リアリティを持つことができた。

戦争が終わったのは、今から67年前。40歳の自分が生まれる27年前の出来事と考えれば、そう遠い過去の話ではない。

果たして「平和ボケ」なんぞしていてよいものか。これらの作品を読んで観て、ふとそんなことを思った。
我々制作プロダクションは、常に競争原理にさらされています。

世の中に同業者がごまんといる中でクライアントに選んでもらい、仕事を発注してもらう必要があります。

だから少しでも安く、クオリティの高い仕事をするか、自分たちにしかできない仕事をしなければなりません。

そうしなければ、いつでも仕事を失い、路頭に迷います。

一時期、あるクライアントと弊社は、映像制作においてほぼ独占状態で、競争原理が働いていなかった時期がありました。この会社にとって映像制作は、ほぼ初めてのことで、うちから持ちかけた話でもあって、全面的に任されていた感がありました。

相見積もりもなく、仕事を任せていただけたのは非常にありがたく、売上面でも助かっていましたが、あまり感心しない状況だと思っていました。そのため、私はよく「他の制作会社も探してみてください」と逆説的なことを話していました。

なぜ、そんなことを言ったかのか、それは競争原理が働かない中では、双方に甘えが出てしまうからです。

クライアントには、「これ位やってくれて当たり前」という理屈が生まれ、プロダクションには「これだけやってあげているのに」という理屈が生まれます。これらの理屈は競争原理が働かない中での利己的な理屈にすぎず、何の説得力もありません。

競争原理に晒されていれば、他と比較しながら、最適な仕事の進め方、価格設定というのが、自ずとはじき出されるはずです。

その後、そのクライアントさんは別の映像制作会社とも取引を始め、結果的に価格面での判断から、弊社との取引はほとんどなくなりました。これは仕方がないことですし、むしろ良かったと思っています。

世の中、すべての物の値段が同じなんてことが、あるはずもありません。キャベツ一つ買うにせよ、300円の物もあれば、200円の物もあります。必ずしも皆が200円の物を買うかといえば、そうではありません。見た目や産地などを判断しつつ、ある人は300円の物を買い、ある人は200円の物を買う。それが、当たり前のことであり、この競争原理の中でこそ、皆が幸せに暮らせていけるというのが、自由経済の大原則です。

が、この競争原理が働かない領域というのが、日本にもあります。代表的なものが電気です。私たちは、電気会社を選ぶことができません。いわば独占状態です。首都圏なら、東京電力から電気を買うしか、選択肢がないのです。

もし、「私は多少価格が高くても、クリーンで安全な電気を使いたい」という人がいても、東電の電気を使うしかないのです。東京電力は民間企業です。おかしな話ではないでしょうか。

よく「原発が止まると、電気代が高くなる」という理屈を聞きますが、それは本当なのでしょうか。競争原理も働かない中で、それをほぼ独占している企業が、そんな理屈を並べても、信用できるはずなどありません。

もし、東京電力の1社独占状態が崩れ、複数の会社が電気を売るようになれば、自ずと原発が作る電気が高いかどうか、判明することでしょう。現状、1社独占状態がある中で、「原発が作る電気は高い」などと、盲目的に考えてはならないと私は思います。