数年前、ある著名人の方にインタビューを行う機会があった。テレビなででもお馴染みの方で、私が中高生の頃にはゴールデンタイムで冠番組も持っていた方である。
インタビューが終わり、最後に私が「記事ができたらお送りしますので、内容を確認してください」と言うと、その方は「いえ結構。自由に書いてください」と仰った。
その方曰く「メディアがどのように私を表現しようと、それは自由。でも、私という存在は何ら冒すことはできないし、変わることはない。それが私の考えです」とのこと。達観した考えだなと、感心したものであった。
著名人の人物像は、メディアを通じて形成される。それが、本人の意向と一致していればよいが、必ずしもそうとは限らない。時に、ちょっとした言葉尻をつかまえ、傲慢な人間や冷徹な人間、優柔不断な人間などに描かれることもあろう。
しかし、それはメディアが創造する偶像、虚像に過ぎず、自分という存在は自分しか分からない、それが他人に理解されなくても構わないという考え方もできる。前出の方は、そうした考えに至ったのであろう。
そんな風に達観できればかっこいいなと思う。しかし、こと芸能人や政治家に関して言えば、望まざるイメージの形成は、自身の仕事・生活という死活問題にかかわってくるから、看過することはできない。
その方は、インタビューから1年後に、ある不祥事がメディアで騒がれ、以後、テレビ等への露出はほとんどなくなった。その時、ふとインタビューの時の言葉が脳裏の浮かんだ。
「メディアがどのように私を表現しようと、それは自由。でも、私という存在は何ら冒すことはできないし、変わることはない」
数ある報道は、本当に真実を伝えていたのだろうか。
そんなことはさておき、一つだけ確信できることがある。おそらくその方は、テレビや雑誌などで派手に取り上げられることに、何ら未練がなかったということ。今はきっと、彼らしく、自由に、緩やかに生きているのだろう。
インタビューが終わり、最後に私が「記事ができたらお送りしますので、内容を確認してください」と言うと、その方は「いえ結構。自由に書いてください」と仰った。
その方曰く「メディアがどのように私を表現しようと、それは自由。でも、私という存在は何ら冒すことはできないし、変わることはない。それが私の考えです」とのこと。達観した考えだなと、感心したものであった。
著名人の人物像は、メディアを通じて形成される。それが、本人の意向と一致していればよいが、必ずしもそうとは限らない。時に、ちょっとした言葉尻をつかまえ、傲慢な人間や冷徹な人間、優柔不断な人間などに描かれることもあろう。
しかし、それはメディアが創造する偶像、虚像に過ぎず、自分という存在は自分しか分からない、それが他人に理解されなくても構わないという考え方もできる。前出の方は、そうした考えに至ったのであろう。
そんな風に達観できればかっこいいなと思う。しかし、こと芸能人や政治家に関して言えば、望まざるイメージの形成は、自身の仕事・生活という死活問題にかかわってくるから、看過することはできない。
その方は、インタビューから1年後に、ある不祥事がメディアで騒がれ、以後、テレビ等への露出はほとんどなくなった。その時、ふとインタビューの時の言葉が脳裏の浮かんだ。
「メディアがどのように私を表現しようと、それは自由。でも、私という存在は何ら冒すことはできないし、変わることはない」
数ある報道は、本当に真実を伝えていたのだろうか。
そんなことはさておき、一つだけ確信できることがある。おそらくその方は、テレビや雑誌などで派手に取り上げられることに、何ら未練がなかったということ。今はきっと、彼らしく、自由に、緩やかに生きているのだろう。