堤 佑介ⅩⅢの1

                                      2018年12月2日(日)

 

 28日に、玲子さんにメールを送った。30日に会えないか、と。返事はOKだった。

玲子さんは、その返事の中で、実家の隣の、可愛がってくれたおじさんが亡くなったと書いていた。

 「私たちの間には、『諸行無常』は、なしですよ」という言葉が、胸に切なく響いた。

 

 その30日に、西山ハウスに越してきたばかりの老夫婦から、さっそく苦情が来た。受けた本田が、しばらく話していたが、折り返しこちらから連絡すると言って、いったん電話を切った。どうにもらちが明かないと私に相談に来たのである。

 中身を聞くと、笑ってはいけないが、何といったらいいか、やっぱり人が聞いたら笑ってしまうような話だった。本田も困ったような顔をしながら、口元が笑っていた。

 要するに、ゲイカップルが、夜中に派手な音を立てるので、安眠できないというのだ。派手な音というのが何を意味するのか、だいたい想像がつく。声ではなく、音。もちろん、声も混じっているだろう。やっぱりゲイカップルって、激しい人たちがいるんだな。あそこの壁は薄いし。

 この日は、岡田も中村も谷内も出払っていたし、この種のトラブルを女性に任せるわけにもいかない。たまたま時間があったので、仕方なく、私が現場に出向くことにした。

 老夫婦の鹿野さんにしてみると、隣にどんな人が住んでいるのか知らないわけだから、深夜のドタバタは、さだめし不気味に思えることだろう。ヤクザでも住んでると思って、恐怖に駆られているに違いない。すぐうかがいますと電話を入れて、現場に向かった。

 「もう、困りますよ。なんか、毎日喧嘩でもしてるんですか。年寄なんで眠りが浅くてね、不眠症になっちゃいます。いったいどんな人が住んでるんですか」と、これは旦那の鹿野さん。

 「せっかくいい街に越してきたと思ったのに、これじゃ、怖くて怖くて、居ても立っても居られません」と、奥さん。

 間借り人どうしのトラブルや大家と間借り人との交渉に、当事者同士が直接渡り合わなくなってから、もうずいぶん長い時が経つ。これはこれで、みんなが求めたことだ。成熟した社会の知恵というべきで、とてもいいことだと思う。しかしその代わり、地域社会は崩壊して、みんな「隣は何をする人ぞ」になってしまった。

 私は、真相を明かさない方がいいと思った。年寄りだから、余計気持ち悪がる可能性が高い。第一、真相を知ったからと言って、問題が解決するわけではない。

 そこで、隣は兄弟で、二人とも酒飲みなので、夜中に調子に乗ってはしゃいでいるだけで、騒音以外の害はないと思いますと、一応の説明はした。しかしそれで「不眠症」や「恐怖症」が治るはずもないので、オーナーさんと相談して、どちらかに他の空き部屋に移ってもらうよう、調整してみましょう、と提案した。

 この場合、鹿野さんに移ってもらうか、笹森カップルに移ってもらうか。答えは自明だった。

笹森カップルに移ってもらうには、なぜそうするのか、隣室に迷惑をかけていることを、具体的に説明しなくてはならない。そのことで新たなトラブルを引き起こしかねない。仮に承諾したところで、移った先でまた同じ苦情が出るかもしれない。

 しかし、鹿野さんに移ってもらえば、それだけで済んでしまう。まだお互いに顔見知りでもないだろうから、笹森カップルのほうが不審に思うこともないだろう。何かあったら、部屋が気に入らないので、引っ越したとでも理屈をつけておけばよい。

 というわけで、一応納得してもらって、午後は、西山さんに連絡を取った。オフィスからの電話では、所員の耳もあるし、ことは簡単ではないので、彼の家に直接赴くことにした。

 柏台はけやきが丘から二つ東京寄り。しかし不動産価格はけやきが丘よりだいぶ落ちる。

築30年以上経っているという西山さんの自宅は、外観だけでなく、内部も、かなり痛んでいた。ついそういうところに目がいってしまうのが、この職業の性だ。

 奥さんがお茶と干菓子を出してくれた。意外と(といっては失礼だが)上品な感じだ。若い頃はけっこう美人だったろう。話の内容が気になるらしく、引っ込まないでそばに寄り添っていた。

 「電話でも申し上げたと思うんですが、鹿野さんからの苦情は、もっともだと思うんです」

 「笹森さんとこは、なんで夜中にそんなどたばたしはるねん」

 「それが……ちょっと申し上げにくいことなんですが、ゲイカップルの中には、夜の営みが激しい人がときおりいるらしいんですね」

 「友人いうふれこみやったけど、ありゃゲイカップルやったんか」

 しまった、それは西山さんには隠してあったんだ、と思ったが、彼はたいして動揺するふうも非難するふうも見せなかった。

 やがて西山さんは、にやにやしながら言った。

 「さよか。がんばっとりますな。あの手合いはそういうとこあるって話、わても聞いたことあります。おなごの声やったらまだ我慢できるんやろけどな」

 奥さんが、「あんた!」と言って西山さんの腕をぴしゃりと叩いた。西山さんはからからと笑った。

 「それで、このままだと、最悪、どちらかに立ち退いてもらわなくちゃならなくなるかもしれないと思いまして、私どものほうで考えたんですが……」

 西山さんは最後まで言わせなかった。

 「鹿野さんに2階の空室に移ってもろたらよろしいがな」

 「ああ、私どもも同じことを考えてました」

 「せっかく入ってもらったばかりやさかい、どっちにしたってすぐ立ち退きやいうたら、評判落としますねん」

 「おっしゃる通りですね。それは私どものほうで説得にあたりますが、ただ、問題が二つばかりあって、ひとつは、鹿野さんはお年寄りで、2階を喜ばないんじゃないかという点、ご夫婦どちらかに持病でもあると難しくなりますね」

 「うーん。ふつうに歩けるんでっしゃろ」

 「じつは私、担当していませんでしたから、今日初めてお会いしたんですが、部屋の中で見た限りではそのようですね」

 「ま、2階程度なら我慢してもらうんやねえ。よろしく頼んますわ」

 「わかりました。それから、もう一つは、鹿野さんの部屋が空いたとして、そこに新しい人が入居を希望して来たら、またトラブルにならないとも限りませんね」

 「うーん。そりゃそやね。ま、しかしいま6室埋まっとるんやから、当面は空室でもかまへん。そう急ぐこともないやろ」

 「そうですか。それじゃ、追加の募集はしばらく……」

 「見合わせときましょ」

 西山さんはなかなか決断が早い。思ったよりずっと早く話がついたので、引き返してもう一度鹿野さん宅を訪問した。

 大家さんが、せっかくだから住み続けてもらいたいと思っていること、二階は少し家賃が高くなるが、見晴らしもいいし、落ち着けるだろうこと、引っ越し費用は、トラックもいらないし、出入りの業者に頼めば格安で済ませられること、斡旋した責任もあるので、半額はこちらでもつこと、一両日中にでも可能なことなどを懇切丁寧に説いた。

 鹿野さんは、階段の上り下りの苦労を理由にはじめ渋っていたが、よそへ引っ越す手間と費用とかったるさ、いまの苦痛から解放されることなどを考えたら、背に腹は代えられないということで納得した。奥さんのほうが聞きわけがよかった。

 こういうことは早いに越したことはない。オフィスに戻って西山さんと業者と、両方に連絡を取った。両方とも、翌日でもOKということだった。大した荷物があるわけでもないし、段ボールも残っている。まだ梱包を解いていないものもある。見積もりは当日でもできるだろう。

 

 退社時刻近くなって岡田が帰ってきた。いきさつを簡単に話すと、

 「それはたいへんでしたね。私が当たれるとよかったんですけど」とねぎらってくれたが、やはり理由を聞いてにやにや笑いをやめなかった。

 「いや、この程度の厄介ごとはどうってことはないよ。これからもいろいろあるだろうね」

 「所長。ゲン直しに一杯行きませんか」

 「ありがとう。それが、残念だけど、今日はちょっと予定があるんだ。申し訳ない」

 これを聞いて、岡田は、さっきとは違ったにやにや笑いを浮かべた。

 「所長。八木ちゃんとも話してたんですけど、最近、なんかお安くないんじゃないすか」

 やはり悟られてしまっていたか。私は「いやいや、そんなんじゃないよ」と言ってごまかしたが、たぶんごまかせないだろう。だって独り者の酒好きが、長年のよきコンビである部下から、一日の仕事のあとで誘われたのだ。それを断るのは、そういうことでもなければ、いかにも理由が薄弱だ。

 時計を見ると6時を少し回っていた。

 「それじゃ、悪いけど、あと、頼む」

 「任せておくんなせえ。グッドラック」

 岡田は軽くウィンクした。

 駅に向かって歩きながら、あまり夢中になって統率がおろそかになってもいけないな、と考えた。ロシア農民運動のボス、ステンカ・ラージンの伝承を思い出した。しかしボルガに私の「姫」を投げ込むわけにはいかない。このテーマは、いまでも生きているんだなと思った。

 

 改札口の向こう、左手の片隅にあのライトブルーのコートがすぐ目に入った。にっこり笑って小刻みに手を振っている。帰りの通勤客でごった返している中で、私は急いで近づくと、思わず彼女を抱きかかえた。それから、チュッ、チュッ、チュッと3回キスした。

 彼女も自分のほうからためらいなく応える。気持ちが同じだと、どうしてこんなにタイミングが合うのだろう、と一瞬、不思議に思った。

 レストランを予約、と玲子さんには言っておいたけれど、じつは上階のホテルの一室も予約してあった。そのことはたぶんわかっているだろうな、と思った。少し不安がないわけではなかった。でも、もし抵抗感を示すようだったら、そのときはすぐ彼女の思いを受け入れることにしよう。

 そのホテルまでの道を、ぎゅっと手を握りながら歩いた。私に肩をすり寄せながら、「きつくて痛―い」と甘えた声で彼女が言った。

 食事をしながら、音楽の話になった。マズルカを贈ってから、どんな曲を聴いたのか尋ねてみたら、私の好きな曲とほとんど一致していた。特に「春」を挙げたのには、季節外れではあるけれど、二人の恋の気分を表現してくれているようで、とてもうれしくなった。

 「部屋が取ってあるんだ」と遠慮がちに言った時、彼女は少し顔をうつむけて、真面目にうなずいた。

 

 ドアを閉めるなり、私たちは余計な持ち物をソファに放り出して、固く抱きついた。私は舌で彼女の唇を開いた。彼女はそれをそのまま受け入れた。

 どれくらいそうしていただろう。永遠に続いてもいい、と思った。

 「シャワー、浴びてくる」と彼女がかすれ声で言った。

 待ち遠しかったが、念入りに整えているのだろうなと想像して、少しわくわくする気分にもなった。

 私は入れ替わりに洗面室に入った。女性向きに、なかなか豪華な造りになっていた。彼女の残り香が私の気持ちを高揚させた。

 下着のままシャワールームから出てくると、彼女はベッドの脇で、ガウンを着たまま背を向けて、何となくしょんぼりしたような様子だった。私はそっと近づいて、彼女を包み、ガウンを脱がせた。袖を外すときに身をよじらせるしぐさが色っぽかった。

 薄紫のセクシーな下着だ。私の興奮は高まった。「すてきだ」と思わず感嘆の声を漏らした。ブラジャーをゆっくりはずして床に落としてから、両の乳房をつかんだ。大きすぎず小さすぎず、とても形のいい乳房だった。正夢になった。

 彼女はこちらに首をひねって、私を見つめた。私はその官能的な唇にもう一度自分の唇を合わせた。そのまま、うなじや肩にキスを浴びせ、右手でゆっくりと肌を撫でた。その手を下腹部に滑らせ、ショーツの中に入れていった。濡れていた。

 「あ……」と小さな声が漏れた。同時に彼女の腰が折れ曲がるように傾いた。密着させた私のからだも折れ曲がった。そのままベッドに倒れ込んだ。

 

 ほの暗い灯りの中で、私たちは裸の肌を寄せ合っていた。青春時代に返ったようだ、と、思った。それからいろいろな感慨が頭の中を巡った。

「不安だったの……ありがとう」

 彼女が言った。

 私も不安だったのだ。彼女のそれほどではないにしても。

 日常の忙しさの中にだんだんと入り込んできた、大切な非日常。どうやったら、うまく運んでいけるか。彼女の心を逃がさないようにできるだろうか。あまり頻繁にしつこくしてはいけないし、でも、不必要に我慢するのもいけない……そんなことに心を労してきた。

 でも、とりあえずこぎつけた。これからも、違った形で心を労さなくてはならないだろう。

 「ねえ」

 「なあに」

 「何て呼ばれたい?」

 「そうね……佑介さんのお好みのままに」

 「れいちゃん、でいい?」

 「……うれしい」

 「れいちゃん」

 「はい」

 私は彼女の耳たぶを軽く口に含んだ。

 「あのね、れいちゃん」

 「なあに」

 「さっき、駅前でキスしたじゃない」

 「うん」

 「あのとき、ちょっと不思議に感じたことがあって」

 「なに?」

 れいちゃんはおもしろそうに、からだをこちらに向けてきた。

 「どうして、気持ちが合ってると、チュッ、チュッ、チュッてタイミングがぴったり合うのかなって」

 彼女はそれを聞いて、ウフフフフ、っと笑いだし、しばらく笑いが止まらないようだった。

 「あれ、そんなにおかしい?」

 「だって、いかにも佑介さんらしいんだもん。子どもみたい。ウフフフフ……」

 「そうか。やっぱりおかしいか。そんなこと気にするのって。でもなぜなんだろう」

 「きっと、キューピッドがそうさせてくれるのよ」

 「心が通い合うって、からだも通い合うことなんだね」

 うん! と言って、れいちゃんは唇を私に近づけた。短いやつの連発。今度もタイミングがぴったり合った。逆も真なりかな、と思った。心が通い合わなくなったら、からだを接触させるタイミングも合わなくなる? ふたつははっきり分けられないのだろう。

 それから彼女は、子どものころ何と呼ばれていたかと尋ね、じぶんも「ゆうちゃん」と呼んでもいいかと聞いた。そして「ゆうちゃん」の子どものころの話になった。私は中勘助の『銀の匙』の話をした。

 子どものころ虚弱だった中勘助が80歳近くまで生きたこと。私も虚弱だったこと。れいちゃんは、私の腕に縋りついて、ゆうちゃんも長生きしてねとささやき、私のからだ中にキスの雨を降らせた。愛しさが増してきて、私の欲望が頭をもたげ、再び彼女を抱いた。れいちゃんは声を上げた。そのハスキーな声がずっと耳に残った。

 

半澤玲子ⅩⅢの2

 

 翌日、つまり昨日、帰宅してからしばらくは、前日のことばかり思い出して、ぼーっとしていた。不安が大きかっただけに、それが解消して、期待以上に充足感があった。だからいつまでも余韻を確かめることになってしまったのだ。

 シャワーを浴びた。このわたしのからだを佑介さんがこんなふうに愛撫してくれて、と思うと、また芯のほうから燃えてくるものがあった。

 夕方くらいになって、ようやく頭が冷えてきた。そうしたら、これからどう生きていこうかという問題がしきりに気にかかってきた。そこで、佑介さんみたいに、「覚書」をつづることにした。といっても、彼のような社会のことや政治のことじゃない。もっぱら、自分のこれからのこと。

 佑介さんとの付き合いを大切にする、何といってもこれを最優先に考えたい。めったにない仕合せに巡り合えたのだから。

 さてそれをどうするか。もちろんわたしひとりで決められることじゃないけれど、でも自分なりにこうしたいという意思をはっきりさせておくことは必要だ。

 「結婚」という言葉が何度か浮かんでは消えた。たしかに結婚という形式を踏めば、親族や友だちに正式に認めてもらうことがひとつの安定装置としてはたらくだろう。でも、わたしはもう子どもを産めない身体だし、その形式にこだわる必要があるのだろうかとも思う。

 それと、世間の夫婦を見ていると、たいてい二、三年で新鮮さを失ってしまって、日常生活の惰性で仕方なく関係を続けているといった例が多い。

 たしかに子どもが生まれれば、いっしょに生活する意味はすごくはっきりするだろう。わたしには子育ての経験はないけれど、それはきっと、二人で作った存在を完成させていくという、逃げることのできない協同事業なんだ。でもそれは、二人の愛が続くということとはまた別の問題だろう。

 恋愛と結婚生活は全然違う。恋愛は相手のいいところばかり見ようとする。結婚生活のなかでは、相手のやなところばかりが目立つようになる。

 不倫も離婚もすごく多い。

 いまわたしは恋をしているし、佑介さんもわたしを愛してくれている。だから、諸行無常はわたしたちにはなしよ、と口では言った。その気持ちにウソはない。でも、もし結婚したら、じきに飽きられてしまうかもしれないし、わたしのほうで飽きてしまうかもしれない。

 だから、この仕合せな感情ができるだけ長く続くためには、結婚という形を取らない方がいいのかもしれない。

 かといって、時々会って食事して、セックスして、睦言を交わし合って、お誕生日にはプレゼントを贈り合ってというのも、なんか違う気がする。だって、いつも一緒にいたくなるっていうのもほんとの気持ちだもの。

 ああ、頭が混乱してくる。もしお互いに経済的余裕があるなら、家を二軒持って、どっちかに行ったり来たりする、というのが理想かもしれない。

  と、ここまで考えて、ふと気づいた。それって、いまのわたしたちにできないことじゃないんだ。わたしが実家でお花を教えて、佑介さんはいまのマンションに住み続ける。

 それから、職業の問題。これはわたしの場合、かなりはっきりしてきた気がする。たぶん、いまの会社に勤め続けることはもうないだろう。せいぜいあと1年。退職金もそれなりに出るだろう。これもちゃんと調べてみよう。

 いつまでもうじうじしていると、チャンスを失ってしまう。思い切って活け花の修行に賭けてみるべきだろう。退職金をつぎ込んでもかまわない。わたしには、母の跡を継ぐという強力な条件がある。これは一石二鳥だ。

 ただ、問題は……二つくらいありそうだ。

 一つは、わたしが今から始めて、果たして師範の免状がもらえるかどうかということ。でもこれはわたし自身の才能と努力にかかっているとしか言えないだろう。もちろん、この世界のこと、家元制度にからむいやな世渡りも覚悟しなくてはならない。

 もう一つは、あの武蔵野の閑散な地区で、新しい発想の教室を展開できるかどうか。それに、家だって、もう相当古くなっている。改築も必要だろうし、要領のいい宣伝も必要だろう。果たして生徒が十分に集まるかどうか。

 でもやってみるしかないだろう。人生の冒険は、もしかしたら中高年から始まる。それに、佑介さんの収入に依存するのは、わたしの本意ではない。稼げる間は自分の生活費くらいは稼がなければ。

 これ以上は、いまのところ考えが進まない。今度佑介さんに会った時、相談してみよう。彼は、この提案に好意的だったし、それに何よりも、佑介さんとの今後の関係のあり方にかかわっている問題だ。彼自身が自分の将来について、わたしとの関係についてどう考えているか、それが第一の問題だ。

 というわけで、話はもとに戻ってしまった。これ以上頭を巡らせてもしょうがない。なんにしても、また、早く佑介さんに会いたいと思った。

 

 夜、テーブルに置いたスマホが鳴った。飛びついてスワイプしたら、佑介さんではなく、エリだった。彼女のことをすっかり忘れてしまっていて、悪いことをしたと思った。

 「エリ! ご無沙汰ね。どうしてた? 元気?」

 「元気よ。でもいろいろあってね。明日会えないかしら」

 「いいよ。ごめんね、全然連絡しないで」

 「それはいいの。こっちもてんやわんやしてたから」

 「また北千種のあの店にする?」

 「なんならわたしの家に来ない? ごちそうする。しゃぶしゃぶでいい?」

 「お、いいね。もうそんな季節なんだね」

 「そうなんだよね。じゃ、4時ごろでどうかしら。ちょっと早いかな」

 「早い方がいいよ。いろいろ話せるから」

 「そうだね。いろいろね。じゃ、待ってる」

 「何か買ってこうか」

 「うーんと、ワインもあるし、材料は揃ってるから特にいらないと思うけど……あ、じゃ、悪いけど、食後のデザート、お願い」

 「わかった」

 てんやわんやとは、どういうことか。心の準備として、概略でもいいから聞いておけばよかったと思ったが、切れてしまった。

 声の調子は、いつものように快活な感じだった。でも彼女は気丈だから、声に弱みを見せることなどめったにない。だから、想像してもわからないのだ。会ってみるしかないと思った。

 

 水盤のダリアが、そろそろ枯れてきた。少し水を足しながら、今度の花材はなんにしようかな、と楽しみながら考えた。知らず知らずのうちに、佑介さんに喜んでもらえるような花を選ぼう、と心に決めていた。

 やっぱりバラ、ピンクのバラに、カスミソウ、こないだ母のところで使っていた鳴子ユリあたりかな。それで、活けたら、写メじゃなくて、彼に来てもらう。そして……ルンルン♡

 でもエリにはどう話そうか。彼女が不仕合せな目に遭っていたら、わたしはどんな顔して接すればいいだろう。なるべく控えめに、そして、できれば、彼女の話の聞き役に徹することにしよう。

 

 エリの家は千野木駅から6分ほど歩いて谷沢の中層マンション。庶民的な商店街の中にある。わたしのところよりも古いけれど広い1LDK。便利だというので2階に住んでいる。

わたしは特に下町を好んだわけではないけれど、エリの場合ははっきりしていて、住むなら谷沢、と決めていたそうだ。

 ピンポン押して、「わたし」と言うと、「散らかってるけど、どうぞ」と顔を出した。やつれているようには見えない。

 おいしいコーヒーをごちそうになりながら、彼女が話し始めるのを待った。

 「要するに、ばれちゃったのよ」

 「うん……」

 「11月半ば、奥さんから電話があって、会いたいと言って喫茶店の場所を指定してきたの。怪しいと思って彼のスマホのメール記録を見たって言ってた。電話番号も登録されてるからね。そいで、まあ、型どおり、切れてくれと。凄い剣幕だったよ。でも、こっちにも防戦の仕方がないわけじゃない。最初はこっちも騙されてたわけだし、深い関係になってからあとで知ったってウソつくこともできたしね。それに、奪ってやろうかって覚悟も固めてたから、闘ってもいいと思ってたんだ。だけど、何か言おうとすると、すぐ感情的んなって、大声出して、全然聞く耳もたない。まわりに客もいるのにね。途中から、こりゃダメだと思った。そいで、とにかくらちが明かないから、この場は謝って、切れることを約束しておいたってわけ。彼も深く謝罪して約束したんだって」

 淡々と話してはいたが、さすがに奥さんとの出会いの部分では、感情の昂揚を隠せないようだった。その調子から、わたしは彼女の今の心境を読み取ろうとした。でもそれはできなかった。「覚悟も固めてたから、闘ってもいいと思ってた」というのは、その時点での心境、問題は、いまの心境と、これからどうするかだ。まだ半月しか経っていない。

 「彼からはその後、連絡ないの」

 「あったよ。3日ぐらい経ってからかな。悲しませちゃって申し訳ないって、しきりと謝ってた。妻のほとぼりを覚ますのは自分の責任だから、そのためにしばらく時間が欲しい、君とは別れたくない、これからどうするか、情勢を見ながら考えよう、少し落ち着いたら、こちらから必ず連絡するから、それまで待ってくれってね」

 「奥さんと別れたいって言ってたんだよね。その言葉、いまでも信じてる?」

 わたしの質問に、エリはしばらく答えなかった。冷めたコーヒーを口に運んでから、おもむろにつぶやいた。

 「状況が変わったからね。信じてるってはっきりは言えないけど、でも、できるできないは別として、そういう気持ちが今もあることはまあ間違いないかなあ」

 「わたし、あれから思ったのね。婚活で独身を装ってたのって、そんなに悪いことかなって。もしエリの言うように、別れたいって気持ちがほんとにあったんだったら、自然の勢いで他に女性求めるでしょう。それって、ふつうの出会いで不倫になっちゃうのとそんなに違わないんじゃないかな」

 「そう言ってくれると、なんか救われる気がする」

 「こういうことになって、かえって彼氏のその気持ちにドライブがかかるってことはないかしら」

 「うーん、それはどうだろうか。逆も考えられるよね。離婚ってひとりじゃできないからね。奥さんのあの剣幕じゃ、向こうが承知しないんじゃないかって気もする」

 それを聞いて、わたしは、誰だったか、昔読んだ女性作家の不倫小説の一節を思い出した。

 これを言うと、少しはエリを元気づけることになるだろうか。少し考えてから言ってみた。

 「ある小説で読んだことがあるんだけどさ、結婚生活って、年季が入るとたいていは愛情なんて醒めちゃって、あんなの、ただの給料運びだから、いなくてもいいなんて思うようになることが多いじゃない。ところが、いったん裏切られると、途端に逆上して、『あなたを愛してるのよ。その私を裏切るなんて!』なんていうんだってさ。なかなか真相ついてるなって思った」

 「なるほどね。結局プライドの問題なのよね。それと、他人事みたいな言い方でおかしいんだけど、人によりけりで、もう戻らないものは仕方がないってあきらめるケースもある一方で、逆に復讐の鬼みたいになっちゃって、意地でも別れてやるもんかっていう場合とか、いろいろあるんじゃないかしら」

「その奥さんの場合はどうだと思う?」

「たぶん、あの調子じゃ、後者でしょうね」

「で、エリは? もう闘わない?」

 彼女は、コーヒーポットの取っ手を握ったまま、また少し考えるふうを示した。

 「うーん。彼のこと、いまでも好きだし、これも彼次第みたいなところあるしね。……コーヒー、もう一杯、どう?」

 「いただくわ」

 テーブルに戻ってコーヒーを二人のカップに注いでから、エリは、伏し目になってしゃべり始めた。さっきよりずいぶん冷静で、静かな声になっていた。

 「これも他人事みたいなんだけどさ。仕事柄、よく統計資料とか見るじゃない。こないだ、こういうの見つけたんだ。不倫を許すかどうかっていう意識調査があってさ、それがなんと、彼の勤めてる広林堂の調査なんだけどね。もちろん彼とは何の関係もないよ。で、それが年次変化を追いかけてるのよ。それがなかなか面白くってね。面白いというよりも身につまされて考えさせるっていうか。要するに、この20年間で不倫に対する世間の見方はより厳しくなっているっていうのね……そうだ、「お気に入り」に入れてあるから、見てもらった方がいいね」

 そう言って彼女はタブレットを持ってきて、テーブルに立てた。

 「こっちに座らない?」

 わたしは彼女の傍らに席を移した。腕と腕とが接するようになり、二人のセーターを通して、肌のぬくもりが伝わった。わたしが彼女を慰めたり励ましたりしなくてはならないのに、なんだか彼女に庇護されているような気分になった。

 「これ、広林堂のLTLってところで出してるデータベースなんだけどね、1500項目にわたって衣食住や仕事や価値観とか人間関係について調査してるのよ。そんなかで、「好きならば不倫な関係でも仕方がないと思う」っていう設問があって、その結果が24年間でどう変化したかを載せてるわけ。直近2016年だと、ほら、この円グラフで「そう思う」が9.8%、10人に一人ね。ところが、このグラフ見て。98年には2割超えてたのに、この20年間で半減してるのね」

 

 

 「ほんとだ。そう言えば90年代って、快楽園ブームとか、石塚純の『不倫は文化』なんていう言葉もはやったわね」

 「うん。それでね、これ分析してる人が、「世帯給与月収」のカーブとそっくりだって、このグラフを載せてるのよ。97年にピークに到達するんだけど、だんだん下がって直近では49万円まで下がっちゃってるのね」

 

 

 「うわあ、下がり具合がそっくりね。つまり、家計が苦しくなると、不倫どころじゃないってことね」

 「うん。やっぱ、関係あるだろうね。それと、これみて。意外なのが、この不倫肯定派の下落の足を引っ張ってるのが、20代、30代の若年層だってことなのね」

 

 

 「ほんとだ。それって、若い人たちがいちばん経済的に苦労してて、『不倫なんて冗談じゃない。そんな暇あるわけねえだろ』って感じかな」

 「たぶん。90年代の若い女性って、男と同じくらいかそれ以上に肯定派が多かったのにね。わしら40代以上は横ばい。その変化の違いが目立つよね。それともう一つ、このレポートには、『いくつになっても恋愛をしていたいと思う』という設問があってさ。98年に『そう思う』が49.9%でピーク、2016年だと33.1%で最低。しかもさ、こっちは、20~30代の男は急速に意欲が低下してて、直近だと中高年層を下回るほど落ち込んでるのに、20~30代の女は、下がってることは下がってるけど、比較的高止まりなんだよね。

 

 

 「なるほどねえ。韮崎絵理研究員は、これをどう分析しますか」

 「つまりさ、若い女性は、不倫恋愛の現実的な余裕はなくしてて、それが道徳的な意識にも反映してる。だけど、じつはロマンチックな夢だけは捨てないでいる。ところが若い男性のほうは、そんな夢すら捨てちまってる」

 「そうすると、不謹慎な言い方になるけど、若い女性って、なんかかわいそうね。不倫でも何でも、とにかく恋愛の夢を持ってながら、それが実現できないってことよね。希望と現実との間にギャップがあり過ぎるわけでしょう」

 わたしはさくらちゃんのことが心配になってきた。こないだの表情、言い方に、何となく影がつきまとってた。

 「そういうことになるね。いくら恋愛したくたって、同年代の男がこれじゃね。いきおい年上を狙うことになるのかな。」

 「もしそうだとすると、不倫になる可能性が高いってことかもね。だってこれ見ると、50代、60代男性の恋愛願望はけっこう旺盛じゃないの。それってふつうに考えたら、妻帯者が願望満たすためには、若い女と不倫するってことでしょう」

 「そうかもね。でも、じゃあ、50代以上の男性がみんな結婚できてるかっていうと、いま、4人に一人は結婚経験がないんですよ」

 「一度も?」

 「一度も」

 わたしは、佑介さんがバツイチであることと、岩倉さんや中田さんが未婚者であることと、両方を思い浮かべた。佑介さんは「4人に一人」からは外れるわけだけど、長い間独身だったんだから、似たようなものかもしれない。身寄りがないって、やっぱ、寂しいことよね。

 そういえば、佑介さんはお嬢さんとは会っているのか、まだ聞いてみなかった。いずれにしても、女だけじゃなく、男も、いや男のほうがもっと寂しい状態なのかもしれない。

 「どっちがって一概に言えないけど、かわいそうっていえば、男もかわいそうだよ」

 エリが、わたしの思ってるのと同じことを口に出した。これから男と女はどうなるんだろうか。わたしはいま仕合せ気分だけど、それだって、どうなるかわからない。そして、エリとエリの彼氏は……?

 「みんな寂しいのね」

 「みんな寂しい」

 これ以上、エリの気持ちを聞いても仕方ないと思った。

 

 わたしたちは、夕ご飯の支度にかかった。わたしは野菜切り係。エリはほうれん草のおひたしを作った。すぐにIHヒーターの上で、お湯が煮立った。食べきれるかしらと思うほど、たくさんの霜降り肉が大皿に並んだ。

 赤ワインで乾杯。とても風味があるけど、ちょっと変わった味だったので、これどこのワインかと思って、ボトルを見た。

 「モルドバってウクライナとルーマニアの間に小っちゃい国があるでしょう」

 「あ、知らないわ」

 「元ソ連領で、冷戦崩壊後に独立したんだけど、経済が厳しくて、日本も貧国救済の名目で体制づくりに貢献したことがあるんだって。古くからワインの名産地だったらしいのね。ヨーロッパのワインと違うでしょう」

 「うん。すごく風味があっておいしいね。こんなの、ふつう、お店で売ってないでしょう。どうやって手に入れたの」

 「そこが、物流企業に勤めてる特権よ。ルートはよくわからないんだけど、同僚が何本か手に入れてきて、分けてくれたの」

 わたしたちは、しばらくの間、二人だけの宴を楽しんだ。

 

 黙っている時間が少し続いた。エリのこれからについて思いをめぐらした。それからわたしは突然口火を切った。

  「エリ、考えたんだけどさ、エリはやっぱり闘うべきだと思う」

 慎重に結論を出したつもりだった。けれど唐突だと思ったのか、彼女はちょっといぶかしげな表情を見せた。それから、

 「レイはいつから恋愛至上主義者になったんだ」と冗談めかして言った。

 「っていうより、いま生きてて、何が自分にとっていちばん大切かってことよ。それは別に恋愛じゃなくてもね。自分が打ち込んでる、何か。創作活動でも、子育てでも、」

 エリは、わたしの常ならぬ調子に戸惑いを感じたらしかった。しばらくわたしの目をじっと見つめた。それから溜息をつくように、言った。

 「ありがとう、レイ。とてつもなく難しいけど、やってみる。女の闘いね」

 「わたし、エリのためなら何でもするから。無責任な言い方するけど、これって、道徳とか法律とかの問題じゃないと思うのね。そりゃ、もう相手を十分傷つけてるわけだし、これからももっともっと傷つけることになるかもしれない。人の家庭を壊しちゃうかもしれない。それでもわたしはエリの味方よ。反対に、もしエリが迷った挙句、やっぱりそれはできないって決断したなら、それにはそれだけの理由があるわけだから、その場合でも、わたしはエリの決断をサポートするよ」

 「ありがとう。なんかファイト湧いてきた」

 わたしは、エリのグラスにモルドバのワインを注いだ。こんなにはっきりとものを言ったのは初めてなような気がする。やはり何かが私を強くしているんだと思った。

 

 偶然、トイレに入っている時に携帯が鳴った。佑介さんだった。胸がときめいた。

 「いま、大丈夫?」

 「うん。友だちの家にいるんだけど」

 私は声をひそめた。

 「あ、じゃ、あとにしようか」

 「ううん、いいの。いまトイレの中。フフッ。どうぞ」

 「あの、ただ声が聞きたかったんだ」

 「うれしい。いまひとり?」

 「そう。また会いたい」

 「わたしも。いつにしよう」

 「あさっては?」

 「火曜日ね。大丈夫よ」

 「じゃ、この前と同じ時間、同じ場所でいい?」

 「わかったわ。ゆうちゃん、大好き。チュッ」

 「チュッ。じゃね、れいちゃん」

 水を流してトイレから出た。聞こえちゃったかな。まあ、いいや、エリにはどうせ話すつもりだ。

 リビングに戻ると、エリは、少し物思いにふけっている様子だった。聞こえなかったらしい。

 「そうそう、フェルメール展、行った?」

 わたしのほうから聞いた。あの時、彼氏と約束したから行くと言っていたっけ。これはエリを励ます気持ちの延長で聞いたのだけれど、そこには同時に、自分の状況を伝えたいという心情が無意識に伴っていたようだ。飲むほどに、やっぱり告白したい気持ちが勝ってきたのだろう。

 「行ったよ」

 「いつごろ?」

 「この前レイと会ってからじきだから……10月下旬の土曜日だったと思う」

 「もちろん、彼氏とでしょう」

 「うん」

 「どうだった?」

 「よかったよ。ダブル・エンジョイね。彼がいろいろ解説してくれたしね」

 「作品は何がよかった?」

 「やっぱ、『牛乳を注ぐ女』と、それから『手紙を書く婦人と召使い』がよかった」

 あ、おんなじだ、と思った。

 「わたしも『召使い』に感動したわ。あと、メツーって、フェルメールそっくりの絵があったでしょう」

 「え? レイも行ったの いつ?」

 「わたしはレイよりひと月あとくらいかな」

 「ひとりで?」

 わたしは微笑みながら、首を横に振った。エリが複雑な状況に置かれているのに、自分のいまの仕合せ感をどうしても包み隠すことができなかった。エリが言った。

 「あ、そうか。そういえば、あん時、彼氏ができそうだって話、してたね」

 わたしは、そう話したことを忘れていた。その時、話に出た彼氏とは、岩倉さんだ。忘れていたということが、いまは佑介さんで心をいっぱいにしている証拠なのだろう。

 その後こちらにもちいさな「てんやわんや」があったことを説明しなくてはならない。浮気者と思われないように。

 わたしは、経緯をかいつまんで話した。母の跡を継ぐかもしれないことも、「恋愛以上、結婚未満」の状態が一番長続きするのではないかと考えていることも。

 聞き終わったエリは、感に堪えたような表情をした。それからにっこり笑って、

 「すごいじゃん、レイ。嫉妬しちゃうな。ちょっと目離すとすぐこれなんだから、隅に置けねえ」

 「アハハ……。でもまだわかんないよ、人生、何があるか。それに、彼とまだいろんなこと話し合ってないのよ」

 「レイのためなら何でもするから」

 わたしの口調を意識的にまねて、エリが言った。

 「お互い、がんばろう」

 改めて乾杯した。ちょうどボトルが空になった。

 最近、めったに売ってないサバランを千野木駅前のケーキ屋さんで見つけたので、二人でそれを食べた。

 

半澤玲子Xの1

                         2018年12月2日(日)

 

 佑介さんから4日前に来たメール。

 

 《11/28  21:38

  愛しい玲子さん

 

  どうしてますか。お仕事、お疲れさま。

  新課長のしごきで、へたばってなければいいけれど。

  僕のほうは相変わらずです。忙しいと言えば忙しい。

 

  この前、会社の近くの松風台というところで、一人住まいの84歳のおばあさんが老人ホームに移ったので、空き家となり、息子さんが売りに出したいと言ってきました。。日曜日に現地を見たのですが、もう古家と言ってよく、壊して更地にしたほうが高く売れると説明したのですが、一応そのまま売りに出すということになりました。元はここに住んでいたのでしょうか。人手に渡るとしても、なかなか壊す気にはなれないのかもしれません。

  世の物事は、人の生き死にも含めて、本当に移り変わっていきますね。もう11月も終わります。

 

  でもこの秋は、あなたに出会えたので、この歳になって僕の人生が新しい彩りに染められ、すごく生きる励みになっています。思ってもみないことでした。こういう移り変わりなら、大歓迎ですけれどね。

 

  今日は休日だったので、途中まで読んでそのままになっていた、中山武志という人の『国富と戦争』という大著に取り組みました。経済についてのみんなの常識を破っていて、すごく新鮮な本です。

 でも、フェルメール展に行く約束をしたあともそうだったのですが、あなたのことが気になって、なかなか読み進めませんでした。もし興味がありましたら、読み終わったあとで、どんな本かお話ししますね。うまく要約できるかどうか、自信がありませんが。

  

  活け花のお師匠さんになるかもしれないというお話、とても素敵で、希望の持てる将来像だと思います。もちろん、そこにはいろいろとハードルがあるのでしょうが、僕としては、そんな玲子さんにすごくあこがれます。本気で考えてみてはどうでしょうか。

 

  いまショパンのマズルカを聞きながらこれを書いています。マズルカの中で一番好きなのは、15番です。なんていうか、いたいけな少女がいっしょうけんめい輪舞しているイメージです。でも心から楽しくてそうしているのではなくて、曲芸師に訓練を受けさせられているような、そんな哀しみもこもっています。

  有名な5番と一緒に、添付しますね。

 

  30日の金曜日、もしご都合悪くなかったら、会っていただけませんか。場所、時間はお任せします。7時以降なら大丈夫です。

  お返事、お待ちしています。

 

 音楽にも詳しいんだわ。そういえばプロフィール欄に趣味の一つとして挙げていたっけ。

 さっそく聞いてみる。ああ、たしかに5番は聞いたことがある。15番は佑介さんの言う通りだと思った。一度そう言われたのでそのイメージが染みついちゃったのかもしれないけれど。それで他のマズルカと比べてみたいと思って、You Loopで探して聴いてみた。

 似たようなイメージのものもいくつかあった。23番、25番、38番なんかもそんな感じだ。25番はちょっと哀しすぎるかな。でもやっぱり15番が、一番佑介さんの言うことにぴったり合っていた。もう一度聴いた。主旋律のきらめきが際立っていた。

 音楽のことはよくわからないけれど、全体に、ショパンのマズルカって、民族の哀しみみたいなものを背負いながら、それでもけなげに舞っているという感じだ。

 今度彼に会ったら、音楽についていろいろ聞いてみよう。

 あ、そういえば、お誘いが来ていました。金曜日。あさって。土曜日の前――これって、もしかして……そういうことよね。うれしい、すごく。そして恥ずかしい。

 でも、覚悟がいるわ。だっておばあさんですもの。うまくいくかしら。ああしようか、こうしようか……。

 でもそれは、夜が明けてから考えればいい。まだ間に1日ある。

 だいぶ遅くなってしまったけれど、とりあえず、すぐにでも返事を書かないと。

 

 《11/28 23:47

 大好きな佑介さん

 この間は、とても楽しいひと時をありがとうございます。

 新課長、大したことないから大丈夫です。

 佑介さんはたいへんそうですね。どうぞご無理をなさいませんように。

 

 >世の物事は、人の生き死にも含めて、本当に移り変わっていきますね。もう11月も終わります。

 

 この言葉、身に沁みました。

 というのは、あの日の翌日、実家に帰ったのです。佑介さんのお仕事で、おばあさんが老 人ホームに移ったので空き家をご覧になったのと同じ日ですね。それで、お隣のおじさんが少し前に亡くなったことを知らされたのです。小さい頃、とてもかわいがってもらったおじさんでした。

 

 公園の紅葉が青空に照り映えて、あんまりきれいなので、散歩に出たら、亡くなったおじさんの奥さんにばったり。彼女も一人になってしまったわけです。

 立ち話で、これからどうなさるのか聞いたら、わたしの母だって一人でがんばってるじゃないのと言われました。でも、母だっていずれ……ほんとに世は移ろっていきます。

 

 あの提案、なんだか現実味を帯びてきましたね。支持して下さってありがとうございます。でも、もしそうなっても、これからもずっとつきあってくださいね。私たちの間には、「諸行無常」は、なしですよ。

 

 30日、わかりました。なるべく早くお会いしたいので、7時に羽黒線羽黒駅中央改札ではいかがでしょうか。わたしは会社から5分ほどです

 

 すぐ返事が来た。自分のオフィスから羽黒までは、40分ほどで行けるので、たいへんありがたい、駅近くのレストランを予約しておくとあった。

 

 翌29日、仕事を終えてから、駅前のショッピングビルで、デパートの化粧品コーナーとランジェリー・コーナーに立ち寄った。不足してるわけじゃないけど、やっぱり……。

 服装は決めてあった。初めて会った時のボタンデザインの入った白の丸首セーターにモスグリーンのロングスカート。彼は覚えていて、褒めてくれたっけ。それにこれも彼が褒めてくれたチェスターコート。ちょっと寒いだろうけれど、なに、室内なら、大丈夫でしょう。

 ブラウン系のアイシャドウを使って眉を整えることにしたので、それも新しく買った。

 ブラジャーとショーツを買うのにとても迷った。面積が小さくて、セクシーなのが増えてる。私のお腹、そんなにたるんでないと思うんだけど、あんまり小さいと滑稽だ。でも、オバサン的なのはダメ。かといって、お水系も喜ばれないだろう。

 しばらく物色したあと、思い切って今着けているのよりちょっと小さめで、大人のセクシーな雰囲気を醸しているのに決めた。薄めのパープルと水色と白の三つをセットで。

 

 帰宅してから、念入りにお風呂に入った。ムダ毛のお手入れも。髪をドライヤーでよく乾かしてから、洗面所の鏡で乳房を映してみた。前は気楽に自惚れていたけど、ちょっと垂れてきたかなあ、と自信が揺らいだ。『マディソン郡の橋』のメリル・ストリープの気持ちが前よりもいっそうよく分った。

 髪をかき上げて、合わせ鏡で背中とお尻を映してみる。お尻の張りはまあまあだ。

 でもあんまり気にするのもどうか。佑介さんて、そんなことにさほどこだわらない人かもしれない。それに、あすは、まだ仕事があるんだ。どうせ少しは疲れが出る。

 それから今日の買い物を一応試着。ちょっとエッチな感じだけど、うん、だからこそOKよね(*ノωノ)。

 夕食は買ってきたもので簡単に済ませた。

 それからパソコンを開いて、にわかクラシックファン。YouLoopで次から次へといろんな曲を聞いてみた。

 ショパンのピアノ協奏曲1番、バッハのシャコンヌ、モーツァルトの40番、これは3楽章がすごくよかった。グノーのアベマリア、ヘンデルのオンブラマイフ、この2曲はチェロで。それからメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲、ベートーベンのバイオリンソナタ「春」――ああ、音楽っていいな。体を直撃してきて、そして、体の中に入って、それから今度は、自分が音楽そのものみたいになって一緒に連れだってどこかへ出ていく。まるで恋人たちのように。もしかしたらわたしたちのように。ウフッ。

 遅くなってしまった。まるで結婚式の前日のような気分で、眠りに入った。

 

 30日の朝になった。だいぶ冷え込む。でも天気は気持ちよく晴れている。

 ちょっとあの服装では寒いなと思った。それにまわりから何やかやと気取られるのもうっとうしい。そうだ、と思いついた。出勤には、野暮ったく着込んで、例の衣装は小さなキャリー・バッグがあるから、あれに入れて持っていこう。

 残業さえなければ時間的余裕があるから、退社してからどこかで着替えればいい。キャリー・バッグはコインロッカーにでも入れておけばいいだろう。こんなのって、女子高生なんかがやってる普通の知恵よね。

 

 新システムの講習があった。安岡課長が講師を招き、第一経理課全員が集まってパソコンを前に初期操作から指導を受けた。安岡さんは、こういうところ、けっこう律儀なんだなあ、と思った。

 ただ、わたし自身は、胸にいろいろなことを抱えているので、集中できず、適当にやっていた。安岡さんは助手よろしく、みんなの周りをまわって、不備や誤動作をいちいち指摘していた。わたしの適当さを彼に発見されてしまった。彼はていねいに修正してくれた。

 この新システムに苦労しながら習熟して、わたしはずっとここにとどまるのだろうか。それともその前に辞表を提出して、華道の道を突き進むのか。あるいは、システム習得に挫折し、OLとしてのやる気のなさを見抜かれて首になるか。

 佑介さんと一緒に暮らすこと――そういう選択肢も考えないではなかった。妄想はいくらでも膨らむ。彼に武蔵野に来てもらう。優しいから受け入れてくれそう。交通も彼のオフィスからそんなに遠くないことがわかったし……。無理ならしばらく彼のところで暮らしてもいい。

 「半澤さん、そこ、キー操作が違う方向に行ってますよ。それだと稟議書がカウントされなくなります。もういっぺん、S4の段階までもどらないと」

 「あっ、すみません。えーっと」

 また注意されてしまった。戻り方もよくわからない。安岡さんがうしろからわたしを抱え込むようにキーボードに両手を置き、複雑な操作を素早く行って直してくれた。噛んでいるガムの匂いがした。

 

 退社してから約束の時間までだいぶあったので、最近駅前のショッピングビルにできたパウダールームに寄って、着替えを済ませ、念入りにお化粧した。ケバくなってないかなと、気を遣った。

 羽黒駅の改札は出入りの乗客でごった返していた。少し早めに着いて、来たらすぐに見つけられるよう、改札口の向こうからやってくる人の波を追いかけた。

 来た。ダークグレーのトレンチコートがカッコイイ。わたしを見つけるなり、丸い眼鏡の奥の目がさっとほころぶのがわかった。

 改札をくぐって近づくと、人目もかまわず両手を広げてわたしを抱いた。わたしは彼の肩に顎をすりつけ、それから目を瞑った。彼は少し身を離してチュッ、チュッ、チュッと3回キスした。

 「早く会いたかった」

 「僕も」

 2,3分歩いて、きれいなホテルに着いた。一階にレストランがあった。

 「初めて会った時の服だね。やっぱりいいね。寒くない?」

 「大丈夫。ここ、あったかいし、それに……」

 「それに?」

 「佑介さんがいるから」

 彼は子どものように笑った。

 「そうそう、マズルカ、ありがとう。あれからYouLoopでいろいろ聞いちゃった。今度音楽のことも教えてね」

 「うん。でも僕あんまり知らないんだよ。クラシックって、聞き込んでる人、すごいからね」

 「あんまり知ってる人って、なんかひけらかすから好きじゃないわ」

 「そう言ってくれてありがとう。いつかコンサートにも行こうよ」

 「うん!」

 二人とも、簡単な一品料理で済ませた。

 食事が終わるころ、「部屋取ってあるんだ」と彼が言った。昔見たクロード・ルルーシュ監督の『男と女』を思い出した。わたしが生まれる前の映画だけど、少女期に見てとてもあこがれた。一度聴いたら忘れられないあの主題曲のメロディーが、いま、わたしの頭の中を駆け巡っている。

 

 意外と広い部屋だった。クイーンズベッドが幅を利かせていたが、手前にはテレビに面してラブソファまである。散財させちゃった、と思った。

 コートとバッグをソファの上に放り出して、彼に抱きついた。彼の両腕が、わたしのからだをがっしりと締め付けた。彼の舌が優しく私の唇を押し開いた。

 「シャワー、浴びてくる」

 「うん」

 新しくて、とてもきれいな浴室だった。もう一度お化粧直しをして、きのう買った下着をつけ、その上に、備え付けてあるタオル地のガウンをはおった。

 彼がシャワーを浴びるのを待つ間、わたしはなぜか急に不安になった。うまくいきますように。彼をちゃんと迎え入れることができますように……。

 わたしがベッドの脇にちょっとうなだれて立っていると、彼が後ろからそっと近づいてわたしの肩を抱き、わたしのほうに顔を傾けて静かに唇をつけた。同時にガウンの紐をゆっくりと引いた。ガウンが床に落ちた。わたしの不安は和らいできた。

 彼はからだを寄せたまま、ブラジャーのホックを上手に外した。そのまま手をわたしの腋の下から前に回して、ブラジャーを床に落とし、両の手のひらで乳房をそっと押し包んだ。抱き寄せる力がだんだんと強くなる。熱く固いものが腰に触れるのがわかった。

 「玲子さん……すてきだ」

 襟足から、うなじ、肩へと、彼の唇が這っていく。左手は乳房に、そして右手がゆっくりとわたしの下腹部を撫でながら、ショーツの中に差し入れられた。ぴりぴりと電気が走るのを感じた。何年も味わったことのない感覚だった。膝ががくんと折れ曲がった。わたしたちは一つになったままベッドに倒れ込んだ……。

 

 「不安だったの……ありがとう」

 「……」

 佑介さんは、黙って、サイドテーブルの水を飲んだ。

 わたしは人差し指を使って、彼の裸の胸を上から下へ、おへそのあたりまですーっと撫でた。

 彼はくすぐったそうに、くっくっと笑った。

 それから佑介さんは、わたしのことを「れいちゃん」と呼んでもいいかと聞いた。もちろんOK。

 「ねえ?」

 「ん?」

 「佑介さんは、子どもの時、お母さんから何て呼ばれてた?」

 「ゆうちゃん」

 「わたしもこれから、ゆうちゃん、て呼んでいい?」

 「いいよ」

 「ゆうちゃん」

 「はあい」

 「ゆうちゃん?」

 「なあに?」

 「ゆうちゃんはどんな子だった? 優等生? それともやんちゃ坊主?」

 「やんちゃ坊主。いたずらして叱られてばかりいた。人の家のイチジク、いっぱい盗んできたり、教室の机に彫刻刀で彫り物入れたり、友だちのノートに落書きしたり」

 「スカートめくりは?」

 「それはやらなかった」

 「なんで? わたしはしょっちゅうやられたよ」

 「なんでだろう。きっと、女の子にあこがれてたんだと思う」

 「ゆうちゃんは、そのころから変わってたのね」

 「そうかもしれない。中勘助の『銀の匙』って読んだことある?」

 「うん。若い頃ね。でもあんまり覚えてない」

 「僕、あの主人公にすごく共感したんだ。幼馴染の女の子と夜ならんで座ってて、月の光を浴びた青い腕を見せ合って、『まあ、きれい』っていうところがあるの、覚えてない?」

 「ああ、そうそう、思い出した。それで、そのころから、自分は、あの何ちゃんだったっけ。その子のことをきれいだと思い始めたっていうのね。」

 「そう。それで、自分は女の子みたいにきれいになりたいっていうんだよ。兄が無理やり釣りに連れてくんだけど、河原のきれいな石ころばかり拾ってて、兄に怒られる」

 「あのお兄さんは、男らしくしろ、鍛えてやるみたいに思ってたんでしょう?」

 「そう。ところがね、あのお兄さんは、実際の兄をモデルにしてるんだけど、その兄が途中で脳出血になって30年間も廃人として生きて、最後は自殺しちゃうんだよ。反対に虚弱だった中勘助のほうは、そういう家族の重荷を背負いながら、80歳近くまで生きてる。虚弱だから早死に、剛健だから長生きとは限らないんだね」

 「ゆうちゃんも小さいころ虚弱だったの?」

 「そう。虚弱だった。かけっこも遅かったし、高校まで泳げなかったし」

 「そしたら、ゆうちゃんも長生きね」

 「ハハ……それはわかんないよ」

 「長生きしてね」

 わたしは、そう言って、佑介さんの腕に縋りついた。それから彼のからだのあちこちに口づけを繰り返した。それで……佑介さんが私を抱きとり、またしてしまった。今度はさっきよりももっと快感が強かった。

 「あしたもお仕事、あるのよね」

 「ある。でも今夜はここに泊まろう」

 「え? 大丈夫なの」

 「うん。そのつもりで来たし、それにここからオフィスまで近いから、ちょっと早く起きれば大丈夫だよ。いま何時?」

 「10時半」

 「じゃ、この最上階にカフェバーがあるから、そこで一杯やってから寝ることにしよう」

 そう言って彼はもう服を身につけ始めた。

 きれいな夜景を眺めながら、お互いの子どものころの話にしばし興じた。時計の針が重なりかけたころ、部屋に戻ってベッドに入った。抱き合ってキスを繰り返しているうち、これまでなかったほどの安らかな眠りに落ちた。

 

堤 佑介Ⅻの2

 

 一夜明けた。今日は、西山ハウスに老夫婦の鹿野さんが引っ越してくる日だった。これで、新しく募集した時に入居手続きをした借家人は、すべて収まることになる。異質な人たちの隣りあわせ。トラブルにならなければいいが。

 しかし、それを言うなら、「下町コンセプト」でこちらが推薦したシェアハウスのほうが、もっとその可能性があった。一部屋が10室だし、キッチンとシャワールームは1階と2階に一つずつあって共有、誰が入居するのかわからない。

 老人どうしというのも、とかく頑固者どうしで喧嘩になりやすいし、異質な人々が共存できるかどうかは、入居者の組み合わせにかかっている。だれかリーダーシップを発揮できる人がいて、その人がトラブルを収めてくれるといいのだが。

 もちろん、こういう危惧は初めからあったので、買い取りに成功したら、厳格なルールを決めておく必要があることを、報告書にも盛り込んでおいた。ただ、難しいのは、年齢、性、

国籍などで、入居条件をつけられるかどうかだ。

 私自身は、たとえば60歳以上というような年齢制限をつけるべきだし、つけることはできると思う。「もみじハウス」とでも銘打って、そういうコンセプトの物件であることを初めから告知しておくのだ。また、国籍も日本人に限るとしてかまわないと思う。

 おそらく排外主義との批判が渦巻くだろう。しかし、日本の独身高齢者に集まってもらって和やかな共同体を作ろうという特別な理念を持った集合住宅施設なのだから、乗っ取られないためにも、はっきりとその趣旨を謳う必要がある。

 ことに移民促進の旗を振っているいまの政権下では、日本語や日本文化を理解しない移民が紛れ込む可能性がある。政府がだらしない以上、こちらが主体的に防衛に動くほかないのだ。こうした点までは、まだ本部とも、ウチでも話し合っていなかった。

 

 午後、例の松風台の戸建てから連絡が入り、ざっと査定してもらえないかとのことだった。性急な話だ。八木沢と私とで、現地に赴いた。

 売主は井上さんといった。私と同い年くらいだろうか。そういっては何だが、あまり柄のいい人には思えなかった。

 ざっと見て回ったが、八木沢の言う通り、これは上物付きでは厳しく思えた。

 「お急ぎですか」

 「そう。決めたことは早くやんなきゃ気が済まない性分でね」

 「明日以降でしたら、登記所も開いてますから、コピー取ってきて、もっと正確な判断ができますが」

 「いや、だいたいのところはわかるでしょ」

 「そうですねえ。じゃあ申し上げますが、どうぞお気を悪くなさらないでくださいね。最初にお断りしておいた方がいいと思うんですが、この物件ですと、上物があると、かえって売れにくいと思います。つまり、このまま価格査定すると、かなり低い金額になってしまいますが、それでもよろしいですか」

 「え? そうなの」

 井上さんは、自分の持ち物にケチをつけられたように、かなり不満そうな表情をあらわに示した。

 「はい。申し訳ありません」

 「んじゃ、ぶっ壊して更地にしちゃった方がいいってこと?」

 「それは建物によりますけどね。一般に築40年ということになりますと、耐震基準改定の前ですし、建物のほうはゼロ査定どころか、かえってマイナスになってしまうことが多いのが実態です。つまり、そのぶん現状で査定ということであれば、かなり金額が低くなるということです」

 「低くってどれくらいよ」

 「まあ……25から27ってとこですかね」

 「そんなに安くなっちゃうの。この地域高く売れるって聞いたけどな」

 「でもこれは、あくまで私どもの、大ざっぱな査定ですから、お客様のご希望通りで一度出してみてもよろしいですよ。あるいは、もしご不満でしたら、他を当たっていただくって手もあります。でも私ども、ここは長いですから、まずそんなに狂いはないと思いますよ」

 「いやいや、そりゃわかってるって。他当たる気はねえのよ。それより更地にしたらどれくらいなのよ」

 「そうですねえ、それもなんとも言えませんが、ここは土地は30坪いってませんよね」

 「いってない。27坪かな」

 「そうすると、解体料がかかりますので、それを上積みして……3000万以上で行けると思いますけれどね」

 「ふーん。解体料っていくらくらいかかるのかね」

 「これも業者さんによって様々ですけど、ここでしたら、そうですねえ、150万から200万程度見ておいていただく必要がありますね」

 井上さんは貧乏ゆすりをしながら、しばらく考えていた。

 「じゃさ、とにかくこのまま28くらいで出してみてくれる? ダメだったらまた考えっから」

 「かしこまりました。でもいちおう、正確な面積を知る必要がありますので、明日以降に数字を出しまして、ご連絡差し上げるということでよろしゅうございますか」

 「うん、いいよ。だけどなるべく早くな」

 

 オフィスに戻る道すがら、八木沢と車中で話した。あの客はバカに急いでるな、という点で、意見が一致した。

 「借金でも抱えてるんじゃないですかね」

 「うん、その可能性濃厚だね。でも立派なスポーツカーで来てたけどね」

 「ちょっとやーさんぽかったじゃないですか。ああいうのに限って車だけはいいの持ってるんですよ」

 「そうね。それだって抵当に入れてるかもよ」

 「そうですね。不良息子持ってお母さんも可愛そうですね」

 「ハハ……そうと決まったわけじゃないさ」

 それからそれぞれの業務に返って、一日は暮れた。

 

堤 佑介Ⅻの1

                                    2018年11月25日(日)

 

 昨日の朝、本部の前園君から電話があった。報告書の提出は、ウチが一番早かったという。

 「こないだはお世話様でした。とても勉強になりました」

 「こちらこそ」

 「それで、課長がですね、せっかく早く出していただいたので、報告資料を基に、所長と私と三人で、もう少し話を詰めたいというんですよ。急な話で申し訳ないんですが、今日午後は、ご都合いかがですか」 

 玲子さんとの約束がある。長引くようだと、間に合わないかもしれない。しかしそんなことは言ってられない。岡田に代わってもらうわけにもいかない。

 「いいですよ。ただ夜ちょっと予定が入ってますので、3時ごろからでもよろしいでしょうか」

 「ええっとですね。こちらから申し出ておきながらたいへん申し訳ありません。私が3時に予定が入ってまして、4時でしたら何とか」

 「わかりました。それでは4時に伺います。ぎりぎり6時半くらいまででよろしいでしょうか」

 「十分です。勝手なことを申し上げて、申し訳ありません」

 「いいえ。とんでもない」

 というわけで、まず静谷に出向いて一仕事終えてから、玲子さんと会うという形になった。

 しかし長引けば、最悪、デートは延期ということもありうる。

 

 お昼近くに、けやきが丘駅からバスで5分ほどの、高級住宅が多い松風台で、84歳の高齢女性が一人で住んでいた戸建てを売りに出したいという話が入った。昼休み後、八木沢が現地に赴き、帰ってきて、状況をわたしに報告した。

 「お母さんはいなくて、息子さんが来ててですね。お話を聞きました。ご家族は別のところに住んでて、こちらに引っ越してくるわけにもいかず、お母さんを引き取るのも難しいんでいろいろ悩んでいたけれど、試しに老人ホームに入ってもらって、ダメだったら、その時点でまた考えようということだったらしいんです。そしたら、お母さんが、ホームが気に入っちゃって、これでいいって言ったんですって。それで、こっちは売ろうという話になったそうです」

 「データはどうなの?」

 「そんなに広くないんですね。2階建てで延べ床95平米くらいかな。まだ登記簿取ってませんから正確にはわかりませんが、庭がほとんどなくて隣家と軒を接してますから、容積率150%くらいでしょうね。三方囲まれてて、南側が狭い道路です。しかも築40年経ってるんですよ」

 「ふむ。建物の傷み具合は?」

 「水回りなんかは一応改装してますけど、かなり古い感じが目立ちますね。ちょっとあれはそのまま売るのは厳しいと思います」

 「うん。まあ、その判断はわれわれ専門家の判断として、オーナーさんはそのまま売りたいって言ってるの?」

 「今のところそういう感じです。わたし、松風台って広い高級住宅ばっかりみたいな印象持ってたんですけど、そうでもない物件もあるんですね」

 「高級住宅は目立つからね。たしかに印象と実態は食い違うことが多い。松風台には、慎ましい家もけっこうあるよ。それはそれとして、とりあえず売主さんの希望通り、上物付きで査定して、一定期間出してみたらどうかしら。買い手つかなかったら、壊して更地だな」

 「はい。そのほうが高く売れると思います」

 「そのへん、売主さんによく話してわかってもらってください。今日はちょっと無理だけど、私も近いうち見に行って、判断しましょう。どうもご苦労様」

 「はい、わかりました」

 

 「課長がけっこう気に入ってるんですよね、報告書」

 本部の一室で、前園君が言った。

 「いや、前園君のおかげですよ」

 「そんなことないです。所長が書かれた冒頭の位置づけと、優先順位に感心してましたよ」

 すぐに課長の島崎が入ってきた。私の本部時代の同僚でもある。

 「これ、いいよね、堤。今回のプロジェクトにぴったりだよ」

 「ありがとう。しかし、正直言って、こないだの横浜営業所の所長が質問してたように、ウチ程度の事業規模じゃ、単発的で限界があるね。都市計画的広がりが持てない」

 「そりゃ、わかってるさ。でもやらなきゃしょうがない。それで、大筋この路線でいいと思うけど、細部をもう少し詰めたいんだ。」

 それから私たちは、交渉の進め方、交渉の主体を本部とウチのどちらに置くか、期限、プレゼンの張り方などについて協議した。一番もめたのが、交渉の主体の問題だった。

 ウチでは、人員数と能力からしてとても責任が持てない、本部から出向要員として二、三名現地に派遣して仮事務所でも置いてもらえるのが最も望ましい、そうでなければウチに常駐してもらうしかない。そのスペースなら何とか提供できると説明した。

 しかし島崎もなかなか強硬だった。そんな余裕は確保できそうもない。何とかそちらで頑張ってもらえないかというのだ。私は繰り返し事情を話し、それは無理だと主張した。第一、本部の出向要員とウチのスタッフの接触を深めておく方が得策ではないか。

 この議論で感じたのは、あの温和で、私とも気の合っていた島崎が、官僚的な姿勢をずいぶん露骨に示すようになったことだった。それは本部に長くいて、昇進途上の彼としては仕方のないことなのかもしれないが、それにしても、「彼は昔の彼ならず」だ。しかし、ここで気まずくなるわけにはいかない。

 前園君が、現地視察をして、岡田と一緒に報告書の原案を書いてくれていたことが幸いした。話が膠着状態に陥っていた時、彼が遠慮がちに、自分が出向してもいいですよと言ってくれたのだ。結局、私の説得がおおむね通って、本部要員の出向が認められるかどうか、上と相談してみるということになった。

 「わかった。でもこれは急ぐ話だからな。1号や13号が売れてしまったら元も子もない。そのへんはどうなんだろう」

 「まあ、いまの情勢では、そんなに早く売れることはないと思うよ。その見込みについても報告書に書いた通り。何しろ、ウチの近辺でも、空室が1年2年埋まらないのはざらだからね。まして空き家の買い取りとなったら」

 会議というのは、双方の言い分がもともと決まっていて、同じことの説得を繰り返すことが多い。時間はそのあいだにどんどん過ぎていく。

 本部を出たのは、6時40分頃だった。あわてて静谷駅に走る。クソ島崎め、と心の中でつぶやく。

 牛詰神輿坂駅に近づいたころすでに7時になっていた。玲子さんにメールを入れる。すぐに「お店でお待ちしています。どうぞごゆっくりいらしてください」と返事が来た。ほっとした。

 

 「おん」の階段を昇ると、玲子さんがにっこりと手招きしていた。今日は地味目の服装だなと思った。しかしその笑顔で、会議で感じたストレスがいっぺんに吹き飛ぶ心地になった。

 ビールがうまかった。思わずふう、とため息を発してしまった。

 それから、金目鯛の煮つけや芋がらやアスパラガスを肴に日本酒を飲むことにした。玲子さんも飲むと言った。

 かつて牛詰神輿坂に落語を聞きに来た話から、いつか落語に一緒に行きましょうという話になった。

 「落語のよさを外国人に理解してもらうのって、たいへんだと思うんですよ。最近は意欲的な噺家が苦労しながら世界を回っているようですけどね。あれ、どこまでわかってもらえるのかなあ。俳句なんかもそうですけど、日本の伝統文化って、ほんとに独特で、西洋人にはなかなか理解されないような気がします。」

 こう話したとき、玲子さんがこの前送ってくれた活け花の写メを思い出した。

 「そうそう、そう言えば、この前の野ブドウとダリアの写真、あれも素晴らしかったですね。あれはお家で活けたんですよね」

 「ありがとうございます。そう、母にもらった水盤で初めてうちで活けてみたんです」

 「活け花も日本独特で、ほんとにいいですよね。日本庭園と同じで、自然の素材を使いながら、まるで自然に生きているかのように手を加える。手を加えることで、自然以上に造化の美がそこに出現する。西洋のフラワーアレンジメントのような人工性が露出しないで、ひっそりと隠される……こんな理解でいいんですか」

 「ええ。その通りだと思います。ただ、流派や作品によってはすごく人工的なのもありますし、近年は、フラワーアレンジメントのほうも、けっこう活け花に近いのも増えてきてますね。ただ、花数が多くてびっしりなのが違いますね」

 「ああ、間の感覚がないんですね。だから、ブルーノ・タウトって建築家が桂離宮見てびっくりしちゃったんでしょうね。昔、一度だけヨーロッパに行ったことがあるんだけど、いろんな記念建造物の壁や破風が、人の顔や体のレリーフでびっしり埋められてるのね。こっちは逆にあれにびっくりした憶えがあります。ちょっと哲学風に言うと、彼らは『無』とか『空』を恐れていて、すべてを人間の手つきで埋めずにはいられないのかな、と思ったのね」

 「ああ。なるほど。だから外へ外へって出て行ってあんなに強いとも言えるんじゃないかしら」

 「そうか。それは考えなかった。それって、関係ありそうですね」

 連想が、文化論から海洋進出や植民地収奪や帝国主義など、西欧の歴史と政治というややこしいほうに及びそうになったので、それは思いとどまった。

 ビールを飲み終わった玲子さんのお猪口にお酒を注いだ。透明なマニキュアをしたきれいな可愛い両手がそれを支える。

 「僕もお花、習ってみたいな。男がやってもおかしくないでしょう?」

 「ええ、全然。大原流の家元は、まだ三十代の男性です。それと最近は男性でお花を習う人が増えてるみたい」

 「暇がもう少しあったらなあ。玲子さん、教えてもらえない?」

 半分冗談のつもりだったけれど、彼女はそれをまともに受けた。

 「わたしなんかより母のほうがいいですよ。でも遠いですからねえ」

 「いえ、玲子さんがいいです」

 愛の告白の意味も込めて、すこしおどけ気味に、しゃっちょこばって言ってみた。

 「まあ、フフフ……ありがとう。でもそれだと、わたしもきちんと修業しないと。活け花は奥が深いから」

 お酒のせいもあるのだろうけれど、彼女の頬がほんのりバラ色に染まっている。こちらも楽しい空想が膨らんでくる。

 「これはどう。玲子さんがご実家に帰った時に、お母さんの教えをみっちり乞う。それで自信つけて、僕に時々伝授してくれる。もちろん、授業料払います」

 「授業料なんていらないわ。水臭いです。でも、そのお話って、まんざら空想でもなくって、わたしもちょっと本気で考えたことあるんですよ。会社辞めて真剣に修行積んで、師範の免許取って、母の跡継ごうかなって」

 「え、そうなんですか。最近ですか」

 「ええ、最近」

 もしそれがほんとなら、彼女は、会社勤めに飽きてきているのかもしれないと思った。無理もないことだ。

 「玲子さん」

 「はい?」

 「会社、きついですか」

 「そんなにきつくはないですけど、ただ、今度、課長が変わって、若いバリバリの人になったのね。その人が、いきなりシステム変更するっていうんですよ。私みたいなオバサンには、それにちょっと抵抗感があるんです。もともと機械に弱いんで。同僚で同じこと言ってる女性も多いんですよ」

 「ああ、なるほど。たしかにそれはわかるところがあるなあ。とにかくIT社会になってから、次々と新しくなりますからね。僕なんかも、もう四苦八苦してますよ。だんだん若い連中に任せていかないとね」

 私も昔なら定年だ。しかし役職としての責任はあるし、先はまだ長いし、ここでへばるわけにはいかない。それにしても、玲子さんがそういう気持ちになるのはとてもよく理解できた。 「芸は身を助く」――お母さんがそういう仕事をしているという条件は、身を引くための強い牽引力になるだろう。

 「お母さん、おいくつ?」

 「75です。まだ元気ですけど、どっちにしても、いずれはわたしが同居しないと……」

 そう言って、彼女は少し目を落とし、何か考えているふうだった。話がにわかに現実的になった。私は、武蔵野で活け花教室を開いているというお母さんのことを思い浮かべ、それからそこで若先生を務めている玲子さんの姿を想像した。

 いい構図に思えた。そしてお前は? お前はどうするんだ、という声がした。私は、私は、彼女にプロポーズする? もし彼女が武蔵野に引っ込んだら、私とは疎遠になってしまうだろうか……そんなことはないだろう。そんなに遠くないんだし、会おうと思えばいつでも会えるし。

 もし彼女が会社を辞めたら、いまよりも、もっと会える時間が増えるんじゃないだろうか。そうしたら、別にすぐにプロポーズとまではいかなくても、ゆっくりつきあっていけばいい。きっと彼女も受け入れてくれるだろう。

 そう思うと、彼女が欲しいという気持ちがじわじわとこみ上げてきた。

 「まだ、飲む?」

 「はい」

 お酒のお代わりが運ばれてきた。

 きれいな両手の間にお猪口があった。ゆっくりと、ゆっくりとそこに大信濃を注いだ。これが今の私の気持ちですというように。すると彼女は、それを形のよい唇にもっていって、やはり、ゆっくり、ゆっくりと飲み干した。

 それからふいに彼女が言った。

 「佑介さん……ってお呼びしていいですか」

 「ええ、もちろん」

 「佑介さんのご両親って、どんな方だったの?」

 「ああ、お袋は……そうね、小さくて繊細なたちでしたね。文学が好きで、小説をよく読んでました。でもけっこう教育ママで、兄と私は、よく食卓で勉強させられましたよ。厳しいところもありましたね。人付き合いは、あんまりうまいほうじゃなかったです。僕は可愛がられましたけどね」

 話しながら私は、お袋が、男と女がお互いの家族のことを話し出すとその二人は好き合っている証拠だと、何の根拠もないことをしきりに言っていたのを思い出した。

 「お見合い結婚?」

 「うん、そう。あれは、あんまり相性のいい夫婦じゃなかったな。親爺のほうは、ものにこだわらない、社交的な人でしたから。ただ、大酒飲みでね、よく外で飲んで、会社の仲間を家に連れ込んできましたよ。」

 玲子さんは、くすっと笑って言った。

 「それって、佑介さんのこないだの話と似てますね」

 「え? あっ、そうか。そんな話、したね。でも親爺のほうがずっとひどかったですから、どうぞご安心。親爺は人連れてきて、自分は寝ちゃうんですよ。お袋は酒飲めないのに、招かれざる客の相手をしなくちゃならなかった。そのうち、親爺がひょっと目覚めて、『なんだ、××、まだいたのか、もう帰れ』なんていうんですよ。お袋はまじめだったから、そういうの、すごく嫌がってましたね」

 「アハハ、おもしろいわ。お父さんっておもしろい方だったのね」

 「いやあ、いまでこそ笑えますけど、はたで見てる子どもの目からすると、すごくいやでしたよ」

 「ああ、それはそうでしょうね。ごめんなさい」

 「いえ、いいです。それと、ちょっと酒が入った時はご機嫌がよくて面白いんだけど、日曜日なんか、ぶすっとして、こうやって一日中ひげを抜いてるんですよ」

 「アハハ、笑っちゃいけないけど、それもおもしろい」

 今度は、玲子さんのお父さんについて聞いてみた。

 「うちの父は、お酒飲みだったけど、そういうところはなかったですね。酔っぱらってもあんまり崩れるとこともなくて。ごく普通のサラリーマンとして一生を終えました。定年退職してからも、死ぬちょっと前まで別の会社に勤めてたんですよ。ええ、わたしや妹にも優しかったです。でも最後はやっぱりお酒で肝臓やられちゃいましたけどね」

 「じゃあ、幸せなご夫婦だった?」

 「ええ、そんなに喧嘩もしませんでしたしね。まあ、幸せだったって言えるのかな」

 10時をだいぶ過ぎた。そろそろ、ということで、立ち上がった。

 玲子さんの明るいブルーのコートが、影になった場所のハンガーにかかっているのに、今まで気づかなかった。着せてあげようと思ったら、彼女はもう自分でとり、袖を通していた。淡いグレーのセーターにとてもよく似合った。彼女自身が活け花みたいだった。

 抱きしめたい、と強く思った。客はもういなかったが、店員が控えている。まさかここでは、と我慢した。

 牛詰神輿坂駅までの、人通りのない暗い道を、黙って歩いた。少し進んでから、彼女の肩にそっと手をまわし、抱き寄せてささやいた。

 「玲子さん……好きです」

 彼女もそれに応えるように、私の胸に頬をすり寄せた。それから首をこちらにもたげて目を閉じた。

 唇を合わせると同時に、彼女の両腕が私の首に絡みついてきた。とても官能的な唇だ、と感じた。青いきれいな花を摘み取る――そんな気持ちで腰に回した手に力を込めた。衣服を通しているのに、不思議にからだの温かみが伝わってくる。

 長いことそうしていた、と思う。

 身を離したとき、彼女は私に支えられながら、目を閉じてはーっと長い息を吐いた。この口づけが彼女の心をこれまでとは違う世界へ連れていった――そう私は確信した。

 彼女は明日も休日だ。このままホテルへ、という考えが浮かんだ。けれど、彼女が聞き取れないほどの声で言った。

 「あしたの佑介さんのお仕事が……」

 私は言葉を封じられたように、彼女の目をじっと見つめた。しばらく見つめていた。うん、そうだね、わかった。もう少し待とうね。きっとそれはいいことだ……。

 改札をくぐって手を固く握りあいながら、ホームへの階段に向かう時、彼女が私の耳元に口を寄せてささやいた。

 「佑介さん……わたしも好きです」

 ホームへの階段を降りる時、あたりに誰もいないのを幸い、もう一度抱き寄せて口づけをした。彼女の柔らかい胸の感触が伝わってきた。いつかの夢が正夢になりそうだ、と思った。

 

 

半澤玲子Ⅻの2

 

 目が覚めてからしばらく、ベッドの中で昨日の余韻を楽しんでいた。布団のぬくもりと、きのう二人の心の間に通った温かさとが重なった。布団をきゅんと胴体の真ん中のほうに抱き寄せた。布団に顔を埋めると、うっかり昨夜の興奮にそのまま襲われそうになった。

 起きてみると、だいぶ寒い。本格的な冬が近づいているようだ。でも空は気持ちよく晴れていた。

 床暖房をつけて、エアコンも暖房にした。

 母に会おうと思った。「中間報告」という言葉が浮かび、自分で笑ってしまった。「中間報告」というよりも、もう一月以上会ってないし、実家には2か月以上帰ってない。母もおそらくわたしに会いたがっているだろう。

 電話すると、4時に生徒さんが3人来るのだという。じゃあお昼を一緒にということになった。

 

 1時ごろ実家に着いた。武蔵野は紅葉の真っ盛り。公園の木々が陽光を受けて美しく照り映えていた。風もさわやかだ。路肩の溝にはすでに落ち葉が積もり始めている。サクラ、カエデ、コナラ、イチョウ……。

 玄関を開けると、ハナがのっそりと出てきた。

 「ただいま」

 「お帰り」

 奥から母が顔を出した。和服姿だった。和室には座卓の上に花器やハサミ、花材などが積み上げてあった。赤いラナンキュラスと鳴子ユリ。

 床の間の活けものは、今日は、四角い枯れた感じの水盤に、苔柿と斑入りのコリウス、黄色い小菊があしらってあった。苔柿かあ、いいな。晩秋にふさわしかった。

 「あら、もう着替えちゃってるの」

 「うん。玲子と話が長くなるかもしれないからね」

 「紅葉、きれいね」

 「こっちは、もう朝晩相当冷えるのよ」

 暖かいかき揚げそば。ネギをいっぱい入れてふーふー吹いて食べた。ハナはちゃっかり私の膝の上。

 「この前、お隣の増川さんのご主人が亡くなったのよ」

 「あら、そう。いつ?」

 「この前の金曜だから」と母はカレンダーを見ながら、「9日ね。珍しく雨が降った日よ」

 中田さんの送別会があった日だ。

 「いくつだったの?」

 「82だって言ってた。食道がんだって。わたしはお焼香に行ったけど、人がほとんど来なくて、ちょっと寂しいお葬式だったわ。傘さしながら出棺待ってたら、冷えちゃってね」

 「あのおじさんには、小さいころ可愛がってもらったわ。残念ね。おばさん、これからひとり暮らし?」

 「さあ、息子さんたちが越してくるかもしれないわね。こんな静かなところでも少しずつ変化していくのね」

 「諸行無常ね」

 「玲子のほうはどう? 変わりない?」

 「こないだ、課長が変わったの。京都支社に転勤になって、新しい課長が来たんだけど、若くてシャープなんで、ちょっとこれまでよりきつくなったわね。さっそく新しいシステムに変えるんだってさ」

 「そう。それはたいへんね。無理しないようにね」

 「ありがとう。そのへん、こっちもベテランだから心得てるわ。適度に距離を取ればいいのよ」

 風がひとしきり樹々を通り抜けたらしく、はらはらと落葉が舞い降りるのが窓越しに見えた。ハナが何か感じたのだろうか。わたしの膝から降りて、窓のほうに歩いて行った。

 「その後、お付き合いのほうは?」

 やっぱり来たか。わたしは少し首をうつむき加減にして小さな声で言った。

 「うん。好きな人できた」

 「そう。それはよかったわね。どんな人だか聞いてもいい?」

 この前、三谷三丁目での別れ際に母から聞かれて、その時はたしか、「進行中」というようなあいまいな答え方をした。でもあの時、頭の中にあったのは、岩倉さんだった。それが一月ちょっとの間に相手が変わっている。

 わたしは自分に対して皮肉な気持ちになった。若い人たちみたいだ。でも、自分なりの言い訳はできるんだ。セフレを次々と変えるなんてのとは、わけが違う。

 「ちょっと変わった人なのよ。仕事は中堅どころの不動産会社の営業所長なんだけどね。政治とか経済とかに関心が高くて、いろいろ難しいこと考えて、メモ取ってるんだって」

 「へえ。たしかに変わってるわね。ふつうだとゴルフとか囲碁とか」

 囲碁と言われて、別れた夫が夢中だったのを思い出した。母はそれを知っていたはずだが、いまはそこに連想を馳せた様子ではない。わたしはあわてて自分の中に甦った記憶を打ち消した。

 「そうよね。あの人、やっぱ変わってるんだ」

 自分に再確認させるように言った。でもその変わってるところがわたしは好きなんだと、ひそかに別の再確認をした。

 「きっと知的な方なのね」

 変わっているという言葉が持つネガティブなニュアンスを打ち消したいと思ったのか、母がわたしの気持ちを代弁するように言った。

 「どこで出会ったの?」

 「婚活って知ってる? 恋活とも言うけど」

 「ああ、聞いたことあるわ。お見合いの現代版みたいなものでしょう」

 「うん。まあ。インターネットで、仲介してくれるのよ。それをビジネスでやってる会社がたくさんあってね」

 「ふーん。そういう時代なのね」

 「うん。すごく流行ってるみたいで、それだけ、みんなが出会いを求めてるのね。でも成功率は低いみたいよ」

 「へえ。わたしは、若い人たちは、自由に恋愛して好きに結婚相手を見つけてるんだと思ってた」

 「それが、なんていうか、自由だからこそ、これっていう相手が見つからないらしいのね」

 「ふうん……それはなんだか……湾の中でだったら魚取れたのに、大海に出ちゃったら、どこで見つけたらいいかわからなくなっちゃったみたいね。わたしたちは湾の中だけで満足してたからね。お父さんとだって、小さな職場で知り合って、そのまんまゴールしたんだもの」

 巧みなたとえを言うのに驚いた。75歳の母が、直感的に真実をつかんでいる。

 「それで、その方のお歳は?」

 「55歳。もうすぐ6になるって言ってた」

 「ちょうどいいじゃない。少し年配のほうが落ち着かせてくれるわよ」

 母は、もう結婚相手みたいに考えてる。いろんなことを聞いてくるし、いつもの母よりも、ハイテンションだ。それだけ、わたしのことを心配してきたのだろう。

 「でもお母さん。まだ、何も決めたわけじゃないのよ。向こうの気持ちだってあるし」

 それにファースト・キスしただけだし、と心の中でつぶやいた。

 「はい、そうでした。失礼いたしました」

 そう言って母は笑い出した。わたしもつられて笑った。お母さん、うれしそう。

 「それよりもね、彼、堤さんっていうんだけど、わたしとおんなじで美術鑑賞が趣味なの。そいで、こないだ、ほら、フェルメール展やってるでしょ。一緒に行ったのよ。そしたら、けっこう鋭く分析するのね。わたし、感心しちゃった」

 「まあ、どうもごちそうさま」

 わたしは覚えずのろけていることに、母によって気づかされた。えい、どうせなら、この際、自分の気持ちをさらけ出してしまえ。

 「それとね、お花のこと、興味持っていろいろ聞くのよ。お母さんのことも話したら、習ってみたいなあ、でも遠いし、時間が取れないしって残念がってたわ」

 「ホホ……玲子が教えてあげればいいじゃない」

 「そんなことも言ってたなあ」

 「でも、その堤さんて方、思いやりのある方みたいね」

 「うん。歳にしてはちょっと繊細すぎるかな。オヤジ臭くないのよ。でもありがたいわ。ウソでもわたしの関心事にちゃんと話題振ってくれるんだもの」

 「ウソでも、なんて、言うもんじゃありませんよ。礼節をわきまえてるってことでしょう。お花でもお茶でも、形から入ることが大事だっていう考え方が基本になってるじゃないの」

 「はい、そうでした。先生。それとね、落語が好きで、そのうち連れてってくれるって。忙しいからいつになるかわからないけどね。落語の本、紹介してくれたわ」

 「まあ、落語が。それはいいわね。伝統芸能って意味じゃ、まんざらお花と無関係とも言えないでしょう。静と動の違いはあるけどね」

 言われて初めて気がついた。まったく別世界と思っていたけれど、考え方によっては、あれも高座に一人座って、ある宇宙を構成してみせるのだ。噺家自身が活け花みたいなものだ。活け花だって、よく向き合っていると、人みたいに絶えずこちらに何か語りかけているのがわかる。ちょっとこじつけ臭いかなとも思ったが、きっと何かの参考になるには違いない。

 「それにしても、楽しそうでよかったわね。ほんとによかった」

 母が心から喜んでいるふうが伝わってきた。それが結論のようになって、会話にけりがついた。

 

 食器を洗ってから、ちょっと散歩に行くと言って表に出た。出たところで、落ち葉を掃除している増川さんのおばさんと出くわした。わたしはまず黙礼した。

 おばさんは、少しけげんそうな表情をしたが、すぐ気づいて、笑顔を返した。

 「まあ、玲子ちゃん? お久しぶりねえ」

 「お久しぶりです。母から聞きました。このたびはご愁傷さまでございました」

 「はい、どうもありがとう。でも、もう年でしたしね。順繰りに逝くのよ」

 「おばさん、大丈夫ですか」

 「ええ。ちょっとごたごたしたけど、もう元気になったわよ」

 「これからお寂しくないですか」

 「そうね。息子たちに来てもらおうかとか、いろいろ考えてはいるけど、向こうの都合もあるしね。ま、四十九日過ぎてからゆっくり考えるわ。いざとなったら一人でもいいと思ってるの。お宅のお母さんだって、ああしてがんばってるしね」

 話している間にも、落ち葉が舞い降りてくる。今年は木枯らしが吹かないそうだ。だから落ち葉は一つ、また一つと、静かに枝を離れていく。その風情は、はかなさが目に見えるようで、なかなか味わい深い。増川のおじさんもそういうふうに散っていったのだろう。

 公園を一回りして家に戻ると、3時だった。

 「準備、手伝うわ」

 「なに、大したことないよ。3人だからね。それより玲子、なんだったらお前も一緒に活けない?」

 「わたしが? おじゃまじゃない?」

 「そんなことない。むしろありがたいわ。みんなにも紹介するよ」

 「花材は余分にあるの?」

 「あるわよ」

 「どんな方たち」

 「学生さん一人と、30代二人、みんな女性。まだ初級よ」

 「わかったわ。付き添うのも勉強になるわね」

 「そうよ。アドバイスしてあげて」

 アドバイスまでできるかどうか、それは自信がないけれど、いい活け方かそうでないかは判断がつくだろう。

 

 「娘の玲子です。少しばかり心得があります。こちらが渋川さん、と、山根さん、で、こちらが学生さんの前原さん」

 「玲子です。どうぞよろしく」

 「よろしくお願いしまーす」

 「今日から傾斜型のレッスンに入ります。傾斜型は、主枝をぐっと左か右に延ばして、垂直線から60度ないし90度の範囲内に傾けます。そして客枝を前方に。上から見た時は、そうですね、主枝と客枝の間が120度くらい開くのが標準です。それ以外はすべて中間枝です。その点は直立型と同じで……」

 教本を開きながら母がしゃべり始めた。わたしも母と並んで、プリンセスと呼ばれる花器の前にラナンキュラスと鳴子ユリを置いて、神妙に母の話を聞いた。鳴子ユリが主枝と中間枝、ラナンキュラスが客枝。

 みんな真剣に活けていた。ほぼ活け終わったところで、母が一つ一つ点検、修正。私のには何も言わなかった。前原さんのはけっこうセンスがよかった。若いってことは素晴らしい。

 山根さんがちょっと悪戦苦闘している感じ。で、わたしが、中間枝の挿し場所についてアドバイスした。

 「このあたりにもう一本、そうですね、これくらいの長さで挿すと、右側の空きすぎてる部分がしまってくるんじゃないかしら」

 「わあ、ほんとだ。どうもありがとうございます!」

 「いいえ。先生に見てもらってくださいね」

 母がちょっと直すと、やはり一段と形になってくる。この前の冗談半分の話を思い出し、研鑽をつんで、ここで教えるのも悪くないなあ、と思った。でもすぐに佑介さんのことが頭に浮かんで、この間と同じような混乱に陥った。

 彼にもここに来てもらって、いえ、わたしのマンションで、それとも彼のマンションに出張して、でも、彼は忙しいし、休日は食い違ってるし……などなど。バカな妄想に耽っているうち、レッスンは終わって、お茶菓子が出た。わたしが用意すべきだった。

 「先生、ありがとうございまーす」と若やいだ声。渋川さんが気を利かして「玲子先生もありがとうございまーす」と言うと、二人がそれに唱和した。

 玲子先生、か。そういえば、明日あたり、そろそろ会社のエントランスのを頼まれそうだ。

 「いつもおんなじこと言ってますけど、先生に直していただくと、ぐっと引き締まりますね」と渋川さん。

 「わたし、こちらに来てよかったです。大学にもカリキュラムに一応、華道ってあって、取ってるんですけど、ああいうところだと、大ざっぱで、いまいち繊細な心みたいなのが学び取れないんですね」と前原さん。

 母は終始にこにこしている。

 「みなさん、すごく熱心だから、わたしも教えがいがありますよ」

 「あの、すっごく失礼なこと、お聞きするんですけど……」ともじもじしながら山根さん。

 「なあに?」

 「玲子先生は、もしかして先生のお跡を継がれる……?」

 わたしは思わず吹き出してしまった。大きく手を振って、今日はたまたま実家に戻っただけで、自分には全然そんな資格はないんだと弁解した。でも考えてみれば現実的な疑問だ。

 「ホホ……そうね。もうわたしも何年できるかわかりませんものね。それって考えておく必要があるわね。どう、玲子」

 ちょっと、母さん、こっちに振ってくるなよ。

 「ええ。でもそのためには、これからお勤め辞めて猛勉強しないと」

 ふーん、とみんなは感に堪えたように息を漏らし、「お花って奥が深いんですねえ」と渋川さんがまとめた。

 みんなが帰ってから、母と夕食も共にすることになった。その折にも、「跡継ぎ」の話が出たが、この前わたしが冗談半分で言ったことが、今日はもう少し現実味を帯びてきているのが感じられた。

 後片付けを終えてから、ハナを抱っこして、チュッとキスして、実家を後にした。

 

半澤玲子Ⅻの1

                                2018年11月25日(日)

 

 フェルメール展に行った翌日、堤さんからメールが入り、24日の土曜日に会えないかと打診してきた。つまり昨日だ。今度はわたしの休日に合わせてくれたのだと思う。わたしは、すぐOKの返事をした。うれしかった。

 場所は神輿坂の一番奥のほう、「おん」という和食の店だった。わたしの家からは、地下鉄一本。これも配慮してくれたのかしら。

 神輿坂といえば、中田さんを振ってしまった場所だ。かすかにあの時のことを連想して複雑な思いがよぎったが、でも、そんなことにこだわる必要はない。

 そして昨日、少し早めに家を出た。寒い曇り空の一日だった。グレーの浅い衿のタートルネックセーターに、黒地に白いストライプの入ったロングのワイドパンツ、明るいブルーのチェスターコートといういでたち。

 早めに出たのには理由があった。おかしな話だが、こだわる必要はないと言っておきながら、中田さんのことが心のどこかでまだ気になっていたのだ。それで、神輿坂を歩いてみようというつもりになった。できればあの店にも。

 それで、牛詰神輿坂の駅から降りて約束のお店「おん」の場所を確かめてから、神輿坂に出て、飯野橋のほうにゆっくり降りて行った。にぎやかな人通りを縫って、真ん中より少し下くらいまで来たとき、右に曲がる小路があった。

 見覚えがあったので、そこを曲がったら、すぐあの古い格子戸の店を見つけた。ところが「十月末日をもって閉店いたしました」と貼り紙。わたしは一瞬たじろいだ。

中田さんと会ったのが、たしか十月の初めころ。ということは、あれからひと月もしないうちに店を閉めてしまったのだ。

 もちろん、自分に関係があるわけはないけれど、でも、なんだかこのお店にも中田さんにも悪いことをしてしまったような感じがした。

 飲食店に限らず、しばらく行かなかった店に行ってみると、閉店していたという経験に、ここ数年よく出会う。この前、便利だった自宅近くのホームセンターが閉店したし。地方はもっとひどいらしい。

 長引くデフレ不況のせいだろう。政府は景気は回復基調とか、いざなぎ越えとか言ってるけど、それはウソだ。この前、堤さんに消費増税のインチキなからくりを聞かされていたので、なんだか、いまの政府のやっている緊縮財政路線に無性に腹が立ってきた。

 そういえば、ウチの会社でも、売り上げの減少傾向がここのところ見られるし、製品価格の値下げをやむなくされて、下請けにその差額分を押し付けているケースも多くなっている。

もしかしたら、中田課長の転勤と、辣腕の安岡新課長の赴任も、本社の業績不振と関係あるのかもしれない。だから、安岡さんは、来てから間もなく、ああいう合理化システムの導入を企画したのではないか。

 経理部門を合理化しても、あまり業績改善には役立たないと思うけれど、でも残業時間を減らせれば、それだけ人件費節約にはなるわけだ。しかしこういうのって、全体から見れば悪循環じゃないのかしら。

 そう考えると、中田さんのことがよけい可哀相になってきた。あんなに冷たく突っぱねるんじゃなかった……。とは言ってもなあ、こればっかりは。

 いまごろ、京都で中田さんは頑張っているだろうか。いい人見つけてくださいね、と今度は本気で祈らずにはいられなかった。

 

 もう一度坂を昇り、毘沙門天を通り過ぎ、少し下りかけたところで左に曲がる。「おん」にたどり着くと、約束の時間には少し早く、堤さんはまだ来ていなかった。

 1階がカウンターで、2階が掘りごたつ式の座敷席。予約を告げると、座敷席に案内してくれた。小さいけれど、木がふんだんに使われていて、和風に徹している感じだ。カウンターに若いカップル、座敷席には、わたしたちの席と離れて、中年男性の三人組。

 堤さんは、きっとこういうのが一番の好みなんだろうな、と思った。入ってきた時、カウンターの横に日本酒の大きな棚が置いてあるのに気づいた。豊富な種類が揃っている。彼は、どんなお酒が好きなんだろうか。

 約束の7時半ちょうどに、「すみません。もうすぐ牛詰神輿坂に着きます。10分くらい遅れます」とメールが入る。「お店でお待ちしています。どうぞごゆっくりいらしてください」と返事。

 掘りごたつに足を下ろして待っている間、天井を見上げると、昔の民家のような太い梁が渡されていた。そういえば、青荷温泉もこんなふうだったっけ。

 そのとき、堤さんが階段を昇ってきた。わたしは子どもみたいに手を振って招いた。

 「ごめんなさい、お待たせして。会議が延びちゃって」

 「いいえ。たいへんね。お疲れ様」

 中ジョッキで乾杯。

 お料理は。

 「ここは金目鯛の煮つけが名物だそうですよ。それいきますか」

 「はい」

 「嫌いなもの、ない?」

 「ないです」

 「じゃ、茹でアスパラと、お刺身の盛り合わせ取りましょうか。それと鳥の竜田揚げ。玲子さん、あと何か、どうぞ」

 「このキュウリの梅昆布和えっておいしそうね……それと……揚げ出し豆腐」

 「じゃ、それいきましょう。芋がらもうまそうですね」

 注文を終えると、堤さんは、ジョッキを一気に半分ほど飲み干し、ふうとため息をついた。

 「お疲れだったのね」

 「ちょっとね。本社でややこしい打ち合わせがあって」

 「無理なさらないでね」

 「どうもありがとう」

 「ここ、いいお店ね。くつろげるわ。よくいらっしゃるの?」

 「いや、ここは二回目です。駅の向こう側に牛詰指物区民ホールっていうのがあってね」

 「サシモノ」

 「ええ、指に物と書くサシモノ。きっと江戸時代から指物師が多かったんでしょうね」

 「まあ、あのあたりは職人さんの町なのね。味のある名前ね。それでこっちは色町……なるほど」

 「ええ。そこに友人と落語を聞きに来たんですよ。その帰りにここを見つけて寄ったんです。落語を聞いたあとなんで、雰囲気満点でした」

 「ああ、落語。わたしもいつか行きたいわ。連れて行って下さる?」

 「もちろん。いい出し物を探しておきましょう。あまり縁がない?」

 「ええ、ほとんど。ずっと昔、誰か年配の男性にくっついていったことがありますけど、たぶんその時だけですね。誰が出たのかも忘れました」

 「そうですか。それならかえって新鮮な感じで楽しめそうですね」

 「堤さんはごひいきの噺家さんているんですか」

 「ええ。暇がなくて、ごひいきというほど聞いてませんけど、最近では、志んざ、三之輔、談奴なんかがいいですね」

 「まあ、ひとりも知らないわ」

 「みんな、それぞれすごい芸達者ですよ。あ、そうだ。落語好きの友人にもらった『落語閻魔帳』って本があって、300席近い有名な落語を解説してるんですが、これ、とても便利ですよ。著者は、えーっと、矢島正一だったかな、ちょっとあやふやですが」

 「それ、買います」

 「それから、小説で、佐藤佐恵子って人の『話せども 話せども』っていうのが、二つ目を主人公にしていて、すごく面白いです。小説そのものが、落語の現代版人情話みたいになってるんですね」

 「二つ目って言うと……」

 「一番下が前座ですね。つらい修業を積んで、やっと二つ目。それからがまた大変で、師匠のお眼鏡にかなうと真打となります」

 「その本も買うわ」

 金目鯛とお刺身を二人でつつく。揚げ出し豆腐は一つずつ。竜田揚げは、堤さん二つ、わたしが一つ。ちょっと夫婦になったみたいな気分だ。

 「金目鯛、おいしいですね」

 「ほんと。名物って書いてあるだけあって、うまいですね」

 堤さんのジョッキが空になったので、「お酒、召し上がる?」と聞いてみた。

 「あ、そうします。ここは酒の種類けっこう多いんですね。」とメニューを見ながら「この大信濃っていうのは、香りがあってけっこううまいですよ。玲子さんも飲む?」

 「はい。いただきます」

 「すみませーん。大信濃の二合とお猪口を二つ」

 丸く広くなった陶製の片口冷酒酒器になみなみとたたえられた大信濃が運ばれてきた。

 堤さんが私のお猪口にゆっくりと注いでくれた。

 日本酒はふだんほとんど飲まないけど、口に含むとほのかに香りが広がって、コクがあり、ほんとにおいしい。日本酒ってこんなにおいしかったんだ。

 それから話があっち飛び、こっち飛び、とても楽しい思いをした。活け花の話もした。堤さんはまじめだけれど、お酒が入るとけっこうひょうきんなところがあって、お腹を抱えて笑う場面もあった。

 「大酒飲みはウチの家系でね。親爺はそりゃあひどかったですよ」

 「お兄さんも大酒飲みなんですか」

 「そう、血は争えない。僕が学生のころ、兄は会社勤めから帰ってきて、よく玄関前で寝ちゃってた。まあ、兄の場合は可愛いもんでしたけどね」

 別れた夫の記憶が甦ってきた。あの人の場合は半端なかった。いまで言うDVってやつだったからな。ふと心配が兆したので、杞憂だとは思ったけれど、

 「佑介さんは、大丈夫?」

 「僕も若い頃は、多少無茶したけど、もともとそんなに強くないんで、汚い話で申し訳ないけど、飲み過ぎると戻しちゃうんですよ。だからだんだん自分のペースがわかってきてね。それと、食べたり水飲んだりしながら飲むと、あんまり酔わないんですよ」

 彼は、ほんとに目の前に残った竜田揚げをぱくりと口に放り込み、もぐもぐ噛んで、それから水をゆっくり飲んだ。

 たぶん、ウソじゃないだろう。今日だって相当飲んでるけど、乱れない。きっといいお酒なんだわ。

 時計を見ると10時を回っている。ああ、時間が経つのが早い!

 「そろそろ行きましょうか」と二人でハモって、立ち上がった。

 伝票をつかんだ彼に向かって、

 「今日はわたしも払います」

 「いやいや、僕が誘ったんです」

 彼はわたしの申し出を相手にしなかった。

 わたしがライトブルーのチェスターコートをはおると、佑介さんが目を見張るようにして、

 「あ、きれいなコートですね。とてもよく似合う。初めてカフェ・グラナダで会った時も素敵なお洋服だなって思ったんですよ。白い丸首の、衿のところにきれいな刺繍がしてある……」とほめてくれた。

 「ありがとうございます。よく覚えてらっしゃるわね。男の人って、女性の服装にあんまり関心持たないでしょう」

 「ええ。一般に男は相手の服装に関心がないですよ。女性は見てほしいのにね。でもあの時の僕の場合はきっと……」

 佑介さんは、その後を言わずに、言葉を濁した。何が言いたいか、わかった。

 くすぐったかった。だからわたしもその後を問いただそうとしなかった。でもなんであれ、この人が、視覚的な感受性に優れていることはたしかだ。それはこの前のフェルメール展の時でわかっている。

 

外は晴れて星が出ていた。月も出ていた。満月よりちょっと欠け始めているだろうか。

わたしたちは、神輿坂の表通りの明るさにぎやかさとは対照的に、人通りも街灯もめっきり少なくなくなった短い道のりを、ふたりして牛詰神輿坂駅へ向かって歩いた。

ほどよい月明り、そして楽しいお話の余韻と、酔いのほとぼり。二人の足音が少しずれながら響く。どちらからともなく、身を寄せ合っていた。佑介さんがそっとわたしの左肩に手をまわした。ほとんど同時に、わたしは首を傾けて、彼のコートの胸のあたりに頬をぴたりとつけた。

 彼が声にならないようなかすれ声でささやいた。

 「玲子さん……好きです」

 言わなくていいの、わかっているの、とわたしは心の中で言った。

 佑介さんは、立ち止まって、両手でわたしを引き寄せた。わたしは彼のほうに首をもたげて目をうっすらと閉じた。彼の唇が近づいてくるのがわかった。はじめ、それはちょっとわたしの唇に触れ、一度離れてから、今度は強く長く押し当てられた。

 わたしは両手を彼の首に回した。ハンドバッグが肩までずり落ちる。わたしを抱く彼の両手が、背中から腰のほうへと下がっていき、その力はさらに強くなった。

 あそこが濡れてくるのがわかった。何年ぶりなのだろう。もうこの成り行きは止まらないと感じた。でも……。

 だれかが道の向こう側を通り過ぎる気配を感じた。

 好奇心でこっちを見ているだろうか。なに、かまうものか。

 身を離してから、わたしは言った。

 「あしたの佑介さんのお仕事が……」

 彼はわたしの目をじっと見ながら、

 「ええ」

 と素直に答えた。それからわたしの手をぎゅっと握った。わたしもぎゅっと握り返した。人通りの途絶えた暗い道を駅へ向かって歩き始めた。

 駅へ降りる階段はもうすぐそこだった。もっと遠ければ、もっと時間があれば、と思った。

 明るい改札口を通ってから、わたしはやっと彼に耳打ちした。

 「佑介さん……わたしも好きです」

 彼はわたしを見て、黙って微笑んだ。ふたりで手を固く握りあいながら、ホームに向かった。階段を降りる時、もう一度唇を合わせた。

 わたしはそのまま乗って行けばいいが、佑介さんは、次の飯野橋で乗り換えてしまう。

 「また一駅でお別れね」

 「そうだね。また連絡するね」と彼が言った。わたしは二度、三度大きくうなずいた。そして、車両の内と外とで、前と同じように、でも今度はわたしが車内、彼がホームに残って手を振り合いながら別れた。代わりばんこだ。

 

堤 佑介Ⅺ

                                    2018年11月21日(水)

 

 本部の前園君が18日の日曜日、朝一で訪れた。まだ30になったばかりくらいだろうか。背の高いなかなかの好青年だった。岡田と私が対応した。

 「若輩で未熟者ですが、よろしくお願いいたします」

 「こちらこそ、どうぞよろしく。チーフの岡田が同伴します。候補地がちょっと遠くて申し訳ありません。二回乗り換えがあるんですよ」

 「存じております。本部が選定したんですから。むしろこちらが謝らなくてはならないところです」

 前園君は、そう言って快活に笑った。

 「それじゃ、岡田君、頼む。帰ってからまた話し合おう」

 「私もご一緒に一度こちらに戻りますので」と前園君。

 「それはご苦労様です」

 「参りましょうか。じゃ、所長、行ってまいります」

 「いい成果を期待してるよ。でも張り切り過ぎてへばらないように」

 「大丈夫です。レポリタンC飲んできましたから」

 彼らの留守中、こちらもすでに入手している該当地区の情報をもう一度整理した。

 脈のありそうな物件にあらかじめ目星をつけておいた。それぞれに、1号、2号というように番号がふってある。

 売り物件で土地1件、戸建て3件、賃貸物件で戸建て2件、アパート6件。それにシェアハウスで一つ、丸ごと売りに出ているのがあって、これはかなり有望に思われた。築5年、10室あって、私鉄菅沼駅から徒歩4分、菅沼駅からJL蒲畑駅までは一つである。価格は9850万円と、意外に安い。

 この物件は、単身高齢者世帯が激増している今の時代に合っているし、「下町コンセプト」にも適合していそうだ。しかし、なにぶん、現物を見ないことには何とも言えない。

 午後になって、本部の人事課から電話がかかり、12月1日付で派遣社員を一人、こちらに回してくれるという。予想通りだったが、誰も雇ってくれないよりはマシだ。これで少しは、事務作業や雑用面で楽になるだろう。

 午後5時半過ぎ、当たりが真っ暗になってから、二人は帰ってきた。

 「ご苦労様。少し休んでください。お疲れのところ申し訳ないけど、一服したら、報告と感想を聞きます。みんなにも残ってもらうから」

 じきに岡田が報告を始めた。

 現地の不動産屋を10軒近く回り、あらかじめ連絡しておいた通り、こちらのプロジェクトを簡単に説明した。理解を示すところもあったが、交渉を嫌がるところもあった。半々くらいか。乗り気な不動産屋は、指定した物件を案内してくれた。戸建ての空き家売り物件は、古すぎるか、面積が大きすぎるかで、あまり食指が動かなかった。1号の土地には古家があるが、立地がとても便利だし、安い。近々最寄り駅に駅ビルができるのだという。6号の賃貸戸建ては、やや脈がありそう。賃貸アパートの空室率は、判明した限りでは、7号と11号がかなり高いので有望。しかし何といっても、今日一番の収穫は、13号のシェアハウスだった。築浅だからとてもきれいだし、7割くらい空いているそうだから、オーナーはおそらく経営難と償却の無理を感じて売りに出したのだろう。

 岡田は、ネットの紹介では見ることのできない部分の写真を、タブレットで見せてくれた。やはりそうか、と私は思った。これはねらい目かもしれない。前園君も、これがイチオシだと思うと述べた。

 その後も話し合いを続けた。7時近くなったので、直接かかわらないスタッフには退社してもらった。腹が減ってきたので、残ったメンバーで、店屋物を頼んだ。

 結局、前園君には明日も来てもらうことにして、もう一回だけ岡田と二人でリサーチを頼むことになった。

 1号と13号は有力候補として、それ以外の可能性を探る。両物件とも、すぐに売れてしまうことはまず考えられない。その後、三つから四つくらいに絞り込み、それぞれについてなるべく詳しい報告書を二人で協力して作成し、私がチェックする。

 前園君が言った。

 「所長、差し支えなければ明後日もうかがいますよ。報告書は時間をかけてきちんとしたものを作った方がいいでしょう」

 「その通りですね。それじゃ、悪いけどお願いします」

 川越がかなり遅くまで残って、何やかやとわたしたちの世話を焼いてくれた。何度か前園君を憧れるような目で見つめるのを、私は見逃さなかった。お茶を出すときの手つきにも何となく同じものを感じた。

 「川越さん、ご苦労様。もう帰っていいよ」と私が言うと、「そうですか。では」と返事して身支度を始めたが、何となく未練がありそうだった。

 

 三人の打ち合わせが終わったのが、九時過ぎだった。いつもの居酒屋で一杯やることにした。

 「いやあ、たいへんだったですね。前園君、どうもありがとう」

 「いえいえ、とんでもない。仕事ですから、岡田さんとコンビになれて、よかったです。とても勉強になりました」

 岡田はジョッキを口につけて傾けたまま、大きく手を振った。

 「前園君は優秀ですよ。すごく勘がいいんで、僕も助かった」

 「ハンサムだしね」と私が付け加える。

 「そういえばさ、川越が前園君のこと、まんざらでもない雰囲気で接してたけど、岡田君、気づいた?」

 「よくぞ聞いてくれました。気づきましたとも。一目ぼれってやつじゃないですかね」

 前園君は「いやあ、そんな」と言って、照れ笑いを隠さなかった。

 「やっぱりそうか。前園君、独身?」

 「はい」

 「どう、あの子」

 「はあ、なかなか素敵な……」

 「所長、何言ってるんですか。こんなイケメン、彼女いるに決まってるじゃないですか。まずそれを確かめなきゃ」

 「あ、そうか。彼女いますか」

 「はあ、一応」

 「ほれ、ごらんなさい。所長とはちがうんだって」

 「ハハ……これは参った」

 そう笑い飛ばしながら、俺だってこの歳で彼女くらいいるんだぞ、もっともまだレベル0.5くらいだけどな、と、心の中で、一昨日会ったばかりの玲子さんの顔を思い浮かべた。

 「あの、失礼ですけど、所長、おひとりなんですか」

 前園君が意外そうな口ぶりで聞いた。

 「そうなんですよ。面目ないことにバツイチです。こっちはしっかり家庭持ってますけどね」と私は岡田を指さした。

 「あれを家庭と言えばの話ですけどね。なんかもう最近バラバラですわ」

 「そういえば進一君、いくつになったんだっけ」

 「高2です。もう反抗期で、親の言うことなんかてんで聞かない。来年は受験生だってのに、バイクに凝っちゃって全然勉強しないんすよ」

 「でも、我々だってそうだったよね。その歳のころは。……奥さんはお元気?」

 「元気通り越して、夜空を飛び回ってます。今日はコンサート、明日は合唱クラブってね」

 「フフ……稼ぎがあると、しょうがないよね。いいんじゃないの、家でくすぶってるより」

 「そりゃ、まあね。私も専業主婦にはなってほしくない。経済的負担がたいへんだし、主婦って鬱憤抱えますからね。とばっちりがこっちに来る」

 「前園君は結婚考えてるの?」

 「自分ですか。ちょっとまだわからないですね。いつかしたいとは思ってますけど」

 「失礼だけど、おいくつ?」

 「31です」

 「それじゃ、まだ早いかもね。30代前半の男の未婚率ってどれくらいか知ってます?」

 「3割くらいですか」

 「34歳まで取っても、47%」

 「そんなですか。じゃあ、まだ安心ですね」

 「個人的には安心かもしれないけど、晩婚社会が少子化の大きな原因になってることはたしかだよね」

 「ああ、なるほど」

 岡田が横槍を入れる。

 「ほらね、ウチの所長、仕事に直接関係ないことに妙に詳しいんですよ」

 昼間、前原君と二人の時、私の噂をしたな。私はすこしおどけ気味に言った。

 「ちょいと待ちたまえ、岡田君、これは関係なくないんだよ。人口構成とか世帯構造って、これからどういう種類の不動産をどれくらい提供すべきかってことにかかわってこない?」

 「あ、そうか! すみません。これはうかつでした」

 「だから、『下町コンセプト』でも、単身高齢者を主たるターゲットにしてるじゃん」

 「まったくそうですね。所長の研究熱心には兜を脱ぎます。」

 「いやいや、未婚率とか、世帯別構成人員とかは知っといた方がいいけど、岡田君の言う通り、じつは、私は関係ないことにもいろいろ首を突っ込むんだよね。これは一種の病気です」

 「所長は、やっぱり真面目なんですよ。真面目の上に超がつくぐらい」

 「あの、感じるんですけど、所長と岡田さんとは、すごく息があってますね。何年くらいになるんですか」

 岡田と私は顔を見合わせながら、「えーと」としばし考えた。

 「私が本部からこっちに来たのがリーマンショックの前の年だから2007年」

 「僕が来たのがその2年後ですね。だから9年か。え、もうそんなになるんですね」

 「いや、彼がいてくれなかったら、ここの営業所はもちませんよ。ほんとに助かってます」

 「とんでもない。所長にはほんとにお世話になってるんですよ。改めて御礼申し上げます」

 岡田は肘を直角に曲げて、開いた膝に手のひらに当て、頭を深く下げた。私はその姿を見て笑ってしまった。

 「苦しうない、膝を崩せ」

 「は」

 「でも、羨ましいですね。こういうつながりって。いまの本部ではなかなか」

 「……作りにくい?……それはなぜだと思う?」

 「いやあ、よくわかりませんけど、けっこうみんな、自分の持ち場だけ守ってるって感じですかねえ」

 そうかもしれない、と思った。どこの業界でも、合理性を重んじるようになって、効率優先になっている。短期で採算が取れない部門はすぐに切り捨てられる。そのようにして上で決めたことが、官僚的にトップダウンで下に降りてくるのだ。

この前、ネットを見ていたら、iPS細胞の研究でノーベル賞をもらった山上哲弥さんの研究所では、研究者の9割が非正規職員だと知ってびっくりした。

 文科省が、すぐには役に立たない時間のかかる研究には金を出さない、つまりはあの財務省の緊縮財政が学術研究の発展も阻んでいるわけだ。こんなことでは、やがて日本からノーベル賞は出なくなるだろう。

 快い出会いがあり、協力体制もうまく行きそうで、それには満足感が伴っていたが、反面、内部でいつもと同じ鬱屈を抱え込む心境にもなった。

 

 昨日20日の夕方、ようやく本部に報告書を送ることができた。二人の合作はなかなかよく出来ていた。いずれも、ネットにはない写真付き。微調整をしてから、四つ選んだ物件に優先順位をつけるのがよいと思った。

 

 1位 13号のシェアハウス

 2位 1号の土地

 3位 11号の賃貸アパート

 4位 7号の賃貸アパート

 

 これに、冒頭、「下町コンセプト」についての私なりの考えを付け足し、さらにそれぞれの取得にかかるコストの概算結果を入れておいた。

 結局、土地にしてもアパート建設ということになるのだから、これが受け入れられれば、

すべて小さな間取りの賃貸住宅ということになるのだった。そのほうが、ある種の下町的共同体の雰囲気が作り出せるかもしれない。その代わり、西山ハウスがはらんでいるようなトラブルの可能性も増すかもしれない。

 こういう生活のあり方は、日本が豊かだった時代から見れば、貧しい時代への復古と言えなくもなかった。見方を変えれば、落語の長屋ものに出てくるような、庶民的な人情世界の復活を目指しているとも考えられる。

 実際、そういう貧困層、高齢者層がどんどん増えているのだから、これはある意味で必然的なことなのだと言えるだろう。政治が変わってくれない限り、残念ながら、私たちの仕事の領分では、そんなことを試みるしか、手がない。

 心構えとして大切なことは、そういう人が、できるだけ毎日を気持ちよく暮らせるような環境を提供することだ。

 

 そして昨日は玲子さんと待望のフェルメール展デートの日でもあった。

 早いところ報告書の仕上げを終えて、と思ったが、そうもいかない。3時ごろ原案が出来上がってきたが、それから完成までに3時間半くらいかかってしまった。

 まだ残っている所員もいたが、本部への送信を終えてから、ちょっと約束があるのでと後を頼んで、慌てて飛び出した。岡田と八木沢がちらりと意味深な視線を送ってよこした。

 途中で腹がグウと鳴ったので、乗換駅でいったん改札を出て、立ち食いの釜揚げうどんを食べた。

 西郷さんの銅像のわき道を急いで登った。

 会場前には長い行列がS字状にできていた。会社帰りが多いのだろう。

 玲子さんは、列の前から三分の一くらいのところにいた。にっこり笑って、早く早くというように手を振った。

 「よかった、間に合って」

 「息を切らしてらっしゃるわね。お忙しかったんでしょう」

 「ええ、ぎりぎりまで報告書を作成していたもんですから」

 「たいへんでしたね」

 「まあ、いつものことです。でもおかげで、何とかいいのができたと思いますよ。入学試験みたいなもので、締め切り時間が迫ってくると、けっこうエネルギーを集中できるんですね」

 会場入り口は2階になっております、と案内員がやかましく繰り返していた。

 私は、じつはこの上山の森美術館があまり好きではない。奥にある、ル・コルビュジェ設計の西洋美術館に比べると、外観も展示空間も数等格が落ちると考えている。でも、いまは玲子さんとフェルメールが見られるのだから、そんなことはどうでもよかった。

 初めの展示は、フェルメールと同時代の画家が描いた肖像画、宗教画、神話画と並んでいて、風景画、静物画から風俗画へとつながっていた。2階にはフェルメールの絵はなかった。最後の3枚がハブリエル・メツーという人の絵だったが、特にそのうち2枚は「手紙を読む女」「手紙を書く男」と一対になっていて、フェルメールが描いたのではないかと思った。

 「女」のほうの衣服は、「真珠の首飾りの女」や「手紙を書く女」と同じだし、「女」も「男」も、左の窓からの光の当たり方が、フェルメールの他の絵とそっくりだ。

 玲子さんが近寄ってきて、「これ、フェルメールのまねじゃないのかしら」と囁いた。まさにその通りだった。しかも制作年代の推定が1年ほどしかずれていない。絵画の考証などまったくの門外漢だが、もしかしたら同一人物の可能性だってある。

 私はしばらくこの二枚の絵に見とれていた。それから1階に降りて、順にフェルメール作品をじっくり見ていった。やはり、「手紙を書く婦人と召使い」が素晴らしかった。夫人の白い衣装と召使いの顔が、窓からのほのかな光を受けて、背景の黒ずんだ絵の前で、くっきりと浮き出している。

 見終わってから、美術館横のエレベーターで、下の飲食店街に降りた。

 「ビール、飲みませんか」

 「いいですね」

 一緒に買った画集をビールバーで広げながら、感想を話し合った。

 意見の違うところもあったが、だいたいが一致した。

 私は言った。

 「メツーもそうですけど、フェルメールは男女同士で手紙を書いたり読んだりする絵が多いですね。当時の上流階級の習慣だったんですね」

 「手紙を書く習慣て……いいですね」

 玲子さんが目を大きく開け、少し上に向けて、何か憧れの対象を見るようにつぶやいた。

 「そうですね。昔の人は悪筆でも文章が下手でも、時間をかけて一生懸命だったんでしょうね」

 「その切実さを考えると、なんだか胸が熱くなりますね。でも今は電話やメールで簡単に片づけてしまう……」

 「電話はたしかにあれだけど、メールでは、肉筆の生き生きとした表情はたしかに伝わらないかもしれませんね。でも、昔の手紙みたいに文章で頑張ればいい。僕たちも手紙を通じて知り合ったようなもんでしょう」

 「ああ、ほんとに」

 彼女は、今度は両手を頬にあてて、肘はテーブルにつけず、私をまっすぐ見つめた。じっと見続けていた。そのひたむきな視線は、私をたじろがせた。少し恥ずかしくなったので、目を下に落とした。何気なく言った言葉が彼女にもたらしたその重みに、自分自身が耐えきれないような気がしたのだ。

 なぜか篠原が言った、敷島倭文夫の言葉を思い出していた――「女は愛の天才で、男は夾雑物が多過ぎて、愛で世界を包むなんて絶対できない」……。

 私は彼女の思いをしっかり受け止められるだろうか。

自信がなかった。でも、こんなふうに見つめられている自分はいま、最高に幸福な瞬間を味わっているのかもしれないと思った。

 

半澤玲子Ⅺ

                                     2018年11月21日(水

 

 昨日のデートはフェルメール展。

 まず2階に上がり、同時代の画家たちの神話画、風景画、静物画、風俗画などを見て、それから一階に降りて休憩所を通り、最後にフェルメールの絵を集中的に見せる演出になっていた。

 フェルメールの絵はほとんどが風俗画だから、この順序は、とてもうまく考えられていた。

2階の絵で「いいな」と思った作品がいくつかあった。画家の名前は覚えられなかったけれど、二人とも画集を買ったので、会場を出てから立ち寄ったビールバーでそれを見ながら感想を話し合った。

 わたしは、パウルス・ボルの「ギュディッペとアコンティオスの林檎」とヤン・ウェーニクスの「野ウサギと狩りの獲物」という絵が印象に残った。特に、ボルの絵は、とても不思議な作品で、一度見たら忘れられない。遥かな神話の世界に吸い込まれるようだった。

 堤さんは、同じボルの絵とユーディト・レイステルの「陽気な酒飲み」、アリ・デ・フォイスの「陽気なバイオリン弾き」が庶民の表情が生き生きと描かれていていいと言っていた。ハブリエル・メツーの「ニシン売り」も、庶民生活を描いた風俗画の中では、老婆とニシン売りの女の明暗のコントラストに感銘を受けた、と。

 でも、それより二人で感想が一致したのは、そのメツーが描いた一対の作品、「手紙を読む女」と「手紙を書く男」が、主題と言い、タッチと言い、フェルメールそっくりだという点だ。

「これ、フェルメールをまねたんじゃないかしら」と、絵を前にして、思わず堤さんに近寄って囁いてしまった。しかもこの二作品が最後に展示されていて、それから1階へと降りてゆくのだ。

 堤さんは、その時は黙って食い入るように見ていたが、あとで、「僕もまったく同じように

感じた」と言っていた。

 「とてもよかったわ。『牛乳を注ぐ女』はもちろん傑作ですけど、わたしも堤さんが書いてらした『手紙を書く婦人と召使い』が特に気に入りました。例によって左から柔らかい光が差し込んでいるのに、手紙を書いている女性の白い衣装が強いコントラストを作っていて鮮やかに浮き出して見えますね」

 「そうですね。同じことなんですけど、僕が今日感じたのは、この画家は、白の使い方がすごくうまいな、という点です。今日見た『赤い帽子の女』とか『ワイングラス』も『牛乳』もそうだけど、あの有名な『真珠の耳飾りの女』なんかでも、耳飾りの部分にちょっと白を置いて、すごく効果的ですよね」

 「ああ、ほんとだ。『赤い帽子』の鼻先と下唇なんか、いちばん大事なところに点描みたいに白を置くんですね」

 「しいて言えば、そこがメツーとは違うかもしれない」

 それからわたしたちは、ビールのグラスを傾けながら、今日受けた感銘について、ずっと話し合った。もっと話していたかった。

 「明日も早いんでしょう。そろそろ行きましょうか」

 「わたしはまだ大丈夫ですよ。家まで近いですから。堤さんこそ、遠くてたいへん」

 「僕は男だから、何とでもなりますよ。それに明日は休みだし」

 「お友達と飲み明かしたりなんて、あります?」

 「さすがに最近は自制を効かせますね。昔は、誰かが飲みたりなさそうだと、もう一軒、さらに飲み足りないと、めんどくさいから、ウチに来い、なんてんで、みんなでなだれ込んで徹夜とか。あのころが懐かしいです。ハハ……」

 「堤さんのところは広さ、どれくらいなんですか。うちは1LDKで狭いんですけど」

 「何平米くらい?」

 「30いくつくらいだったかな」

 「僕も一人だから狭いですよ。同じ1LDKで、リビングが少し広め、全体で40平米ちょっとですね」

 行ってみたい、とまでは言えない。でも、ほんとは、なだれ込んじゃいたーい、と思った。

 「堤さん、おしゃれだから、きっとお部屋もきれいなんでしょうね」

 「いやあ、そんなことない。こないだ、帰ってみたら、散らかってるのに気づいてびっくりしました。男所帯に蛆が湧くってね。掃除なんてろくにしませんから。その時は慌てて片付けましたけど。……そうだ、そういえばあれはたしか、初めて玲子さんからメッセージをもらった時の夜ですよ。僕のことをユニークだって言ってくれて、うれしくて、それで、なんて俺の部屋は汚いんだって気づいたんだった」

 「フフ……そうだったんですか。本とかで散らかってるんですか」

 「本もありますけど、書類とか紙くずとか、ふだん使ってる家財道具」

 私のメッセージで、散らかってることに気づいたなんて、こそばゆい思いがこみ上げてきた。おもしろい人。可愛い人。わたしのこと、初めてファーストネームで呼んでくれた。

 でも、わたしが休みの日に行ってお掃除してあげます、というのも、まだ、言えない。

 この前と同じように、地下鉄ホームで別れた。別れ際に彼が握手を求めてきた。ほっそりした手だったけれど、暖かい感触。

 今度は堤さんのほうの電車が先に来た。堤さんが電車の中、わたしがホームで、この前と同じように手を振り合った。

 

 そして今日。

 新課長の安岡さんは、思った通り厳しい人だったが、態度は意外と優しく、言葉遣いも丁寧だった。

 本部の状況を早くつかもうという熱心さの表れだろう。部下を集めて、会議を開いた。経理の効率化を図るために、システムを少し変えたいと言う。

 すでに部長の承認を得ているのだが、と断ったうえで、新しい会計システムの導入を提案した。そのための説明資料が配られた。

 「政府が働き方改革を今年の4月に閣議決定して、来年4月に施行されますね。これに対応して、わが社でも、無駄な残業をなるべく減らして、みなさんにもっとゆとりを持って仕事に取り組んでほしいという方針が決まっています。経理部門でも、この方針に従う必要があります。というよりも、みなさん、日々実感されている通り、特に経理部門こそ、残業を減らせないネックになっていると言っても過言ではありません」

 ここで安岡課長は、言葉をいったん切り、みんなの顔色を見た。たしかにその通りだ。経理は、なぜかほかの部門に比べて、手作業が多いのだ。みんなうなずいていた。安岡さんは、それから、ちょっと言葉の調子をやわらげて、話を再開した。

 「私も、静岡時代に苦労したんですよ。なんて経理は細かくて面倒なんだろうってね。それで気づいたことの一つに、各書類の仕訳が、書面項目別に分類されているでしょう。これなんですね。経営陣や現場から、ある事業を新しく始めるにあたって、昔の仕事を参照したいから、これこれのプロジェクトに関係した書類をそろえてくれないかって要求がよく来ますよね。ところが、こっちは、稟議書や契約書や請求書なんかをそれぞれ別々にファイリングしてる。でもあるプロジェクトって、それが行なわれたときには、こういう各書類がひとつながりの紐でつながってたはずなんですよね。ところが書類項目別に分類すると、バラバラになってしまってるから、それらをいちいち探し出して、紐でつなぎ合わせなきゃならない。それでないと、経営陣や現場の要求に応えることができないわけなんです。この部分が手作業になってる。だから残業が多くなっちゃうんですね。要求には期限がありますから、さあ、たいへんです」

 これも確かにその通りだ。みんなこれで苦労してきた。再びみんながうなずくのを見て、安岡さんは満足そうに言葉をつづけた。

 「もちろん、この問題だけが経理の非効率を生んでるわけじゃありませんけど、けっこう大きな問題であることはたしかだと思うんです。これはコンピュータにファイリングしてある場合にも、方法が今までのままだったら同じことですね。棚から探すのと、PCから探すのとそんなに変わらない。それで、あるプロジェクトごとにいろんな書類をさっとリンクできて、まとめて差し出せるようなシステムはないかって探したんですよ。専門家に任せずにね。そしたらあったんです。それがお配りした資料の「HOPE21 ITEM」ってやつです」

 みんなは資料に目を注ぎ、急いで追いかけた。すぐには把握できない。戸惑いの表情が浮かぶ。

 「ああ、いいです、いいです。すぐにはわからないですよ。パソコンで実際に動かしてみないと。私、静岡で導入してやってみたんです。初めはちょっと苦労しましたけど、慣れるとすごく効率的ですね。実際、残業時間減りましたよ。それでこちらでもさっそく導入してみてはどうかということなんです」

 話は、何となく分かった。でも、そのITEMとやらに慣れるのがたいへんだな、やだな、と内心思った。わたしなど、旧式でやってきて慣れてるし、機械には弱いほうだ。年取ってから頭を切り替えるのは、かったるい。いいかげん仕事そのものにも飽きてきてるし。

 そうしたら、藤堂さんが質問した。

 「もし本当に残業時間減らせるんなら、取り入れることに大賛成ですけど(さすが、キャリア組の藤堂さん)、問題は、コストパフォーマンスと、適応の難易度、それと、一番知りたいのが、これまで積み上げてきたデータ処理の方法と中身を、新しいシステムに転換できるかどうかってことなんですけど」

 何となく、古株の藤堂さんと、新進気鋭の安岡さんとの間で、火花が散りそうな雰囲気だった。

 「いちいちごもっともな懸念だと思います。最後のご質問からお答えしますが、これは、システム自体にその転換の仕方が内蔵されてますから、そこをいじれば問題ありません。もちろん、項目別分類に復帰させることもすぐできます。相互置換が可能なんです。それから、コストパフォーマンスについては、全課入れ替えとして試算しまして、部長に報告して許可を得ております。まあ、業務量との関係にもよりますが、そんな不利益を出すようなことはないと思いますよ。中長期的には、確実に効率化が期待できます。それから、適応の難易度、これは申し訳ないんですが、みなさんのご努力で、できるだけ早く慣れていただくと申し上げるしかありません」

 やっぱりね。それに適応するために、かえって残業が増えちゃったりして。

 しかしこれは、部長のお墨付きを得たトップダウンだ。文句を言える筋合いではない。

 

 お昼をさくらちゃんと一緒に食べた。さっそく午前中の会議の話になった。

 「ねえ、新課長の話、どう思った?」

 「正直言って、きついですね。ここだけの話ですけど、中田さんの時のほうが、ほんわかしててよかったです」

 「そうよね。わたしも同じだわ。なんであんなに効率、効率っていうのかしらね。さくらちゃんは若くて適応早いからいいでしょうけど、わたしなんかおばあさんだから、また新しいシステムに変えるのかよって、なんかげんなりするわ」

 「いえ、わたしもIT苦手だからよくわかります。でも、案ずるより産むは易しって考えるほかないですね」

「そうね。そう考えるしかないわね。それとね、働き方改革って、冒頭で言ってたでしょう。まるで既成事実だから、疑う余地がないみたいに。でもあれ、残業代ゼロ法案って言われてるわよね。残業減って賃金減らないんならいいけど、減った分だけ賃金も減るわけでしょう。わたしたちのためみたいなこと言ってるけど、結局、経営側が人件費削減しようって発想から出てるんじゃないの」

 「ああ、たぶんそうだと思います。高プロがそもそもそうですもんね。あれって賃金を労働時間から切り離そうって発想ですよね。いまんところ、高所得者に限定してますけど、ああいうの一度やると、どんどんこっちにも降りてくるでしょう。気づいてみたら、わたしたちの年収でも、残業代は一切払いませんなんてなるかもしれませんね」

 さくらちゃんとこういう話をしたのは、初めてだった。この子もそういうこと真剣に考えてるんだと思って、感心した。

 「なるような気がするわ、きっと。でも、残業ってなくなるわけないのよね。仕事は繁忙期にはどっと来るんだから。私たち普通のOLにとっては、労働時間と賃金を切り離そうって発想がそもそも合わないと思うわ。それに、ブラック企業がその習慣を悪用するわよね。なんか、いまの日本て、何でもアメリカのマネしておかしくなってない?」

 「ええ。いろんな面でそうですね。非正規もどんどん増えてるし。だから若い人、なかなか結婚できないんですよね」

 若い人……さくらちゃんの口から「若い人」なんていうの、似合わない気がする。そうだ、彼女自身、いま、結婚に限りなく近づきつつあるんじゃなかったのかしら。話題転換。

 「あ、そうそう。結婚て言えば、さくらちゃん、その後どう?」

 「わたしですか。ええ。続いてます、何となく」

 前のように溌剌とした雰囲気ではない。

 「何となく? まだゴールじゃないってこと?」

 「ええ。それが、二人の間では問題ないんですけど、向こうのお家との関係とか、いろいろあって」

 「そうなの。たいへんね。ちょっと立ち入ったこと聞いていい?」

 「どうぞ」

 「相手の方って、何してる方なの」

 「野川でお醤油の卸売やってるんです」

 「ああ、サラリーマンじゃないの。」

 「ええ」

 「野川っていったら、キンケイ醤油のあるところでしょ」

 「ええ。系列化されてはいるらしいですけど、一応独立した問屋さんなんですね。それで、ご両親もご高齢で、一人っ子だから、跡を継がなきゃならないんです。結婚するなら、家に入ってくれって」

 「それで、さくらちゃんは、OKなの?」

 「私自身は、まあ、ちょっと抵抗感はあるんだけど、覚悟はしてるんです。でも私の両親、特に母が反対なんですよ。苦労するばかりだし、先行きも不安定だって」

 「そうかぁ。結婚となると、やっぱりいろいろと出てくるのね。昔より、そのへん、難しくなってるみたいね」

 わたしは、わがことのように溜息を洩らした。

 「いいんです。きっと何とかなりますし、してみせます」

 「そうね。がんばってね」

 「はい。それより、先輩。最近、なんか華やいでますよ。わたし、何かあったとにらんでるんですけど。こないだも素敵な服着てたし」

 やっぱり悟られるのか。とぼけてやり過ごしてもよかった。でも、こっちがさくらちゃんの行状を突っ込んでる以上、黙ってるのはフェアじゃない。

 「うん。まあ、ちょっと付き合い始めた人がいるの」

 「わあ、すごーい! 年上ですか、年下ですか」

 「かなり年上ね。でも、まだ、そんなんじゃないのよ。どうなるかわからない」

 「どうにかしてくださいよ」

 昨日、展覧会デートをしたこと、これは話した。でも、どういうふうに知り合ったかは、「秘密」ということにしておいた。彼女に婚活サイトを進めておきながら、じつは自分もそれをやっていたというのを告白するのは、いかにも照れ臭かったからだ。

 

 午後は意外と早く終わった。そうだ、今日は帰宅したら、ウチで花を活けてみよう。せっかく置いた水盤がまだ空になっていたので、おととい、通販で花材を取り寄せておいたのだ。

 夕食はなんにしようかしら。ちょっと寒いし、この間、宮越坂で食べたポトフがおいしかったから、あれをまねて作ってみよう。

 駅を降りて、いつものスーパーで、買い物をした。ジャガイモと人参はあるから、キャベツ、ソーセージ、インゲン、ニンニク、ローレルなどを買った。マスタードはあったかしら。念のため。

 煮込むのにそんなに時間はかからなかった。二人分くらい作って明日もこれでOK。味見をしてからお皿に盛ってみると、うん、われながらうまそうだ。

 赤ワインの小瓶があったので、それを開けてグラスに注いだ。

 熱いポトフを食べているうちに、この間、レストランで食べながら堤さんにメッセージを送った時のことが、鮮やかによみがえってきた。ハロウィーンのバカ騒ぎについて意見を述べたら、すごく賛成してくれたっけ。

 それと、昨日、堤さんが言っていた、初めてメッセージを受け取って家に帰ったら散らかってるのに気づいたっていう話。

 そしてわたしは、明日の分も、ということで二人分のポトフを作った。自分の中でこれらのことが自然に結びついて、ああ、堤さんの家にまで押しかけて、二人でポトフを食べたいという思いが、急激と言っていいくらいに襲ってきた。それは、いまここにこうしていることの寂しさと背中合わせだ。

 ちょっと思いついて、お鍋に残っている分を、お皿に盛ってテーブルの上に乗せ、写真を撮った。それをもう一度お鍋に戻した。

 今度いつ会えるかしら。

 

 食事を終えてから、一休みして、活け花に取りかかった。花材は、野ブドウと赤いダリア。

青い水盤の右に寄った部分に剣山を置いて水を張り、余計な葉と枝を切っていく。野ブドウの長い枝を主枝としてぐっと右に延ばし、中央に客枝としてダリアを三つ配置する。変化に富む枝ぶりを利用して、左側にも短く野ブドウをあしらう。

濃い赤と葉の緑、間をおいていくつも可愛くぶら下がる微妙な色合いの丸い小さな実。

なかなか満足できないけれど、うん、まあこんなところか。

 写真を撮った。当然、堤さんに送ることを考える。

 

 《11/21  22:41

 堤 佑介さま

 昨日は、楽しい一日をありがとうございました。

 好きだったフェルメールを一緒に見ることができて、とても幸せを感じています。

 また、堤さんの鋭い観察力に感心いたしました。

 

 今日、この前静谷のレストランからメールを送ったときに食べていたのと同じポトフを作ってみました。けっこうおいしくできましたよ。明日の分もと思って二人分作ったんですけど、ほんとは、二人で一緒に食べられたらなあ、なんて、気持ちで作っていたのかもしれません。

 

 たぶん、堤さんに褒められたので、調子に乗ったんだと思いますけど、いま、自宅で、野ブドウとダリアを活けてみました。

 ポトフの写真と一緒に送ります。

 

 明日はお仕事ですよね。がんばってください。

 どうか安らかな眠りが訪れますように。お休みなさい。💛 》

 

 

堤 佑介Ⅹ

                                     2018年11月15日(木)

 

 昨日の夜、玲子さんに初めて会った。休日だったので、時間が来るのがもどかしかった。

 こういう時は、何かにかまけるに限る。洗濯と掃除と、昼飯づくりと、買い物。それでも時間が余るので、本の整理をした。これが一番集中できていい。

 だいぶ要らない本がたまってきたので、それらをまとめたら、けっこうな量になった。「捨てないで本舗」にメールしたら、すぐ返事が来て、今日中に段ボールを届けてもらえることになった。

 積読本もけっこうあった。篠原から教わって、こないだ買った中山武志の『国富と戦争』もその一つだ。そうだ、玲子さんに会ったら経済について説明しなくちゃならないかもしれない。しかしこの大著を今から読むわけにもいくまいと思った。

 目次を見てから、本文をパラパラめくってみた。次のようなくだりが目に飛び込んできた。

 

 《しばしば、日本政府が巨額の債務を累積しているにもかかわらず、財政破綻を免れているのは、民間部門が多額の金融資産を抱えており、これらの金融資産が銀行などの金融機関を通じて国債の購入に充てられているからだと言われてきた。……しかし、この議論は、銀行が預金を元手にして国債を購入するという、現実の信用創造の過程を転倒させた見方を前提にしている。実際には、内生的貨幣供給理論が示すように、銀行の国債購入が預金を創造するのである。したがって、民間金融資産の総額は、政府債務の制約にはならない。……個人や企業といった民間主体とは異なり、政府は通貨発行の権限を有する。それゆえ、政府が自国通貨建ての国債の返済ができなくなることは、政府がその政治的意志によって返済を拒否でもしない限り、あり得ない。……自国通貨建てで国債を発行している政府には、個人や企業のような返済能力の制約が存在しない。その限りにおいて、政府には、財政収支を均衡させる必要性は皆無なのである。

 

 これだ、篠原が言ってたのは。しばらくその前後に書かれていることにくぎ付けになっていた。すべてを読みたくなったが、そんな暇はない。それに、こんな鮮やかな理屈を初デートの女性に説いたりするのは、限りなく野暮な話だ。口で言ったってすぐにはわかってもらえるわけでもないし。

 それにしても、篠原という奴は、普通の社会学の枠をはみ出して、よくこんな経済理論の領域にまで羽を伸ばしてるな。あいつもやっぱりタダモノじゃない。

 ふと時計を見ると、五時半近くになっていた。女性を待たせてはいけない。本の整理ですっかり手が汚れてしまったし、汗もかいた。あわてて本を閉じて、シャワーを浴びることにした。

 

 約束より10分ほど早く着いた。予約した席は奥のほうだった。入り口のほうを見つめていると、やがてそれらしき女性が現れた。少しあたりを探すようにしながら、ゆっくりこちらに近づいてくる。しゃれた服装をしている。

 私は手招きした。彼女はにこっと笑い、足を速めてテーブルのそばまでやってきた。

 立ち上がって型通りの挨拶をし、二人一緒に席に就いた。「ほんとに若く見えるな、これで47歳?」と内心びっくりしていた。

 白ワインで乾杯した。カチンという心地よい音。

 私が先に口火を切った。

 「お仕事は忙しいですか」

 「いえ、それほどでも。経理ですからやることは毎日決まっていますし。堤さんはお忙しいでしょう?」

 「ええ。僕はやっぱりそこそこ忙しいですね。それに今度、本社のほうから新しいプロジェクトを命じられて、その分忙しくなりそうです」

「どんなお仕事?」

 「下町コンセプト」について簡単に説明した。

 「いろいろと気もお遣いにならなくちゃなりませんね」

 「そうなんですよ。でも、本来は営業が仕事ですから」

 「不動産業は何年やってらっしゃるんですか」

 「もう20年以上、かな。その前は友人と塾を経営してたんですよ」

 「あら、そうなんですか。わたしも学生時代は塾でバイトしたことがあります。教えるのって難しいですね」

 「子どももいろいろですからね。熱心になればなるほど難しくなります。でも何でも一つの道って難しいですよ。特に最近は、サービス業が多くなって、生身の人間を相手にするでしょう。コミュニケーションが苦手な人にとってはつらい時代ですよね」

 「ほんとですね。その点、わたしなんか数字相手だから、少しは気楽かも」

 私はこれを聞いて、ちょっと違うんじゃないかなと思った。もしかして謙遜している?

 「いや、でもやっぱりその数字も人に差し出すわけですから、相当神経使うんじゃないですか」

 理屈っぽいことを言ってしまった。ボトルから彼女のグラスにワインを継ぎ足す。あわてて彼女が今度はボトルを取ろうとした。それを手で制した。

 「あ、いいです、いいです。独酌で……」

 「そういえば、わたし、こないだ計算間違いしちゃって、冷や汗かきました。若い子が手伝ってくれて、深夜までかかって何とか修正しましたけど」

 「そうですか。それはたいへんだったですね。おとがめなし?」

 「ええ、さいわい」

 「それはよかった」

 店内はかなり混んでいた。店員が店の広さに比べて少ない。あっちこっち、走り回るようにして客に対応している。最近はどこでも感じるが、雇用者を減らして安い給料でこき使っているのだろう。デフレが続いている証拠だ。

 彼女のほうに目を移すと、丸首のセーターの上の白い肌にぽっと赤みがさしていた。可愛い、と思った。いつも私をいら立たせている、いまの社会に対するいろいろな不満をいっとき忘れることができた。

 彼女が言った。

 「そうだ、覚書って相当たまってるんですか。わたし読んでみたいです」

 「いやあ、思いついたことをまとまりもなくパソコンに打ち込んでるだけで、ただの書き散らしのようなものです。とてもお見せできるような代物じゃないですよ。まったく自分のため。ただ時々読み返して、現代社会のおかしな現象に対して、憤りをそのつど復活させたりしてるわけです。精神衛生上、あまりよくないですね。でも好奇心だけは旺盛で、理屈屋だからやめられないんです」

 「わたしも、堤さんほどじゃないですけど、女には珍しく理屈屋だって、この頃気づきました。好奇心もけっこう旺盛なほうです」

 「そう言えば、消費増税のからくりについて知りたがっていましたね」

 「あ、そうそう、あれはどういうことなんでしょう」

 「僕もこないだ知ったばかりで、友人の受け売りで、うまく説明できるかどうかわからないんですけど……」

 「かまいません。聞きます」

 ナイフとフォークを皿に置き、濃い眉の下のクリッとした目を見開いて、生徒のような真面目な顔で私を見つめた。また可愛いと思ってしまった。

 「国の借金が1000兆円を超えて、このままでは国家財政が破綻するって報じられているでしょう? でも、あれは財務省が税金の収入だけで支出を賄おうと考えていて、国債をこれ以上増発させないようにしているからなんですよ」

 「阿川首相じゃなくて、財務省がですか」

 「そう、財務省の力はものすごいみたいですよ。阿川首相といえども抵抗できない。いわば国家権力内部の抗争ですね」

 「でも経理の観点からすると、負債は増やさない方が健全ですよね」

 さすが経理だけあって、そこを突いてきた。でもそれは、企業や家計と政府とを同一視しているからだ。みんなこのトリックに引っかかっている。わたしもこの前まで引っかかっていたのだ。

 そこで、日本の国債は100%円建てで、政府は通貨発行権を持っているので、原則としていくら負債を増やしても、返済できること、また、国債を発行することで政府の支出が増えれば、それは政府が民間に仕事を発注するわけだから、その分だけ需要が発生して、経済活動がかえって活発になること、などをゆっくり説明した。

 玲子さんは、初めわかったようなわからないような顔をしていたが、やがて、だんだん

呑み込んでくるふうだった。私のつたない説明を一つ一つ心の中でかみしめるように、軽いうなずきを繰り返していた。

 「ハイ!」と彼女が手を挙げた。またまた可愛いと思ってしまった。私は笑いながら、講演者が質問を受けるように、「どうぞ!」と手を差し出した。

 「あの、いま聞いてて、よくわかったとは言えないんですけど、でも、そんなに難しい話とも思えないんですね。それなのに、どうして政治家やマスコミって、反対のことばっかり言ってきたんですか」

 「いい質問ですね」

 私は、彼女の振舞いに便乗して、先生然とした風を装って、答えた。

 「それは、要するに、その難しくないはずのことがわかってないんですよ。ちゃんとマクロ経済のことを勉強しないからです。みんな財務省の財政破綻論に騙されちゃってるんですよ。自分のお財布の中身から類推しちゃうんでしょうね。でも私たちは政府と違って通貨は発行できませんよね」

 「政治家って、政治のプロなのに、そんなに頭が悪いんですか」

 「そうとしか言えないですね。私たちだって、国家の経済がどうなっているかなんて、普段考えないでしょう。そのレベルと同じなんですよ。頭が悪いだけじゃなくて、国民の代表なのに、すごく怠慢」

 私は、玲子さんのズバリとした言い方に痛快な感じを覚えた。その通りなのだ。

 「それと、ほんとはわかってるくせに、財務省の御用学者を務めている経済学者がいます。いろんな理屈をつけて、消費増税はどうしても必要だってね。財務省は、繰り返し繰り返し学者やエコノミストに財政破綻危機を吹き込んで、彼らを篭絡してきたんですよ。私たちも、偉い学者さんが言うことだから正しいんだろう、と何となく思ってしまう。それをうまく利用して、国民に負担を押し付けるんです。実際、2014年に5%から8%に増税されましたよね。その結果は、消費が落ち込んで、民間の投資活動も不活発になって、いまだに悪影響を及ぼしてます」

 「財務省は、国民を苦しめてやろうと思ってるわけじゃないでしょう」

 「それは思ってませんよ。だけど、ほら、官僚って、一度、ケチケチ路線が正しいって信じ込むと、それを宗教みたいに固く守って、絶対変えようとしないじゃないですか。もちろん彼らは善意でやってるつもりなんです。でも『地獄への道は善意で敷き詰められている』って言葉もありますしね」

 「そうなんですか。わたしたちどうすればいいんでしょうね」

 「そこですよね、問題は。たとえ正しい認識を持ったからって、権力が間違った政策をやって居座ってたら、どう動かしようもないですもんね。他にも阿川政権になってから、国民を苦しめるような政策をどんどん進めてます。あれは一言で言うと、巨大な多国籍企業と株主の利益のためだけの政権ですね」

 「野党には期待できないんですか」

 「いまの野党には全然期待できませんね。彼らも財政破綻論を信じ込んでます。それに阿川民自党政権を倒すことだけに執着して、自分たちがどういう政権を作りたいのかっていうヴィジョンが何もないから、、与党や閣僚の失言とか、スキャンダルとか、枝葉末節なことばかりほじくり返しているでしょう」

 「そうですね。国会中継って、テレビ番組の中で一番つまらないですね」

 「ハハ……。ほんとに困ったことですね。さっきの話で言えば、私たちとしては、日本には財政問題なんてないんだっていう認識を少しでも広げていくしかないと思いますよ」

 「だけど、わたしたち、ふだん会話してて、政治の話なんかできませんよね。下手なこと言うと人間関係壊すでしょう」

 「その通りですね。それはやめた方がいいと私も思います。だから社会的発言力を持ってる人で、信頼できる人を探し出して、その人たちの発言をたとえばSNSでハンドルネーム使ってシェアするとかね。絶えずその人たちの言動を追跡するとか。それくらいしかできないですね」

 「堤さんは、どんな人を信頼してるんですか」

 「まずは、例の篠原っていう社会学者の友人ですね。でもあいつはあんまり社会的発言力はないな。彼から紹介された中山武志とか、三石貴之とか、内閣官房参与の藤川悟とかは、頑張ってますね」

 「あ、その藤川さんて、聞いたことあります。よくテレビとかネットに出てませんか。関西弁ですごく雄弁な」

 「ええ、でも彼らは、残念なことに、まだ圧倒的な少数派なんですよ。そうだ、それと、最近買った本で、国際ジャーナリストの鶴見未菜さんという人の『売られゆく日本』というのがあります。これは今の日本がどんなにグローバル資本に浸食されているかが具体的に説かれていてとても参考になりますよ。すぐ読めますから、よかったら読んでみてください」

 「はい、読んでみます」

 そういって彼女は、著者名と書名をノートした。

 「こういう人たちが中心になって、多くの人がうまく結集するといいですね」

 「いや、じつは僕もそれを願ってるんですけどね。失礼、ちょっとトイレへ」

 ここらあたりで、政治話はもう限界だと感じた。これ以上やると、せっかくの場が白けてしまうだろう。それにしても、玲子さんは、よく聞いてくれたものだ。私は自分を変人として紹介したけれど、この人も少しばかり変人かもしれない。

 しかし一方で私は思った。政治思想を仲立ちにして男と女が仲良くなるとしたら、それって、何となく邪道じゃないだろうか。

 できればその部分はなるべく棚上げにしておいて、もっと純粋にエロスの次元で惹かれあうようになりたい。政治の話なんかしなくたって、そうなれるはずだし、この人となら、なれそうだ。そっちで頑張ろう。

 トイレから戻って、好きな画家の話をした。酔いも手伝ってか、佐伯祐三はユトリロなんかよりずっといいと言ってしまった。彼女はうれしそうに微笑んだ。

 加山又造という人は、西陣織の図案家の息子だそうだ。スマホで、彼の絵を見せてもらった。いかにもその血を引いていて、しかも現代風で華やか。玲子さんが活け花をたしなむのと関係がありそうに思えた。

 それから旅行の話。青荷温泉というのは、前もってネットで調べておいたのだが、秘湯として有名らしい。数年前、親友と行ったのだという。夜はランプだけになり、テレビもないし、携帯も通じないという。彼女と一緒に行ってみたいとちょっとエッチな空想がよぎったが、もちろんそれは言わなかった。

 映画の話。是吉作品について花が咲いた。偉そうに蘊蓄を傾けてしまった。

 あっという間に二時間が過ぎ、帰り際にフェルメール展に誘ったら、快く応じてくれた。とてもうれしかった。

 地下鉄のホームで別れる時、彼女の電車が発車してホームを去るまで、窓越しに手を振り合っていた。こんなことするの、何年ぶりだろう、と思った。初デートで、恋の実感が深まったのを確実に感じた。

 

 一夜明けた。

 さいわい今日も休日だ。昨日の楽しかった余韻が心の底のほうでずっと後を引いていた。しかし、そうそう乙女チックな気分に浸っているわけにもいかない。昨日、手に取って読みかけた『国富と戦争』に、初めから挑戦してみようと決めた。

 だが、1時間ほど読んだものの、苦手な経済の本である。どうも気が散ってしまう。目は文字面を追いかけていながら、いつの間にか心は、昨日の玲子さんの可愛いイメージを思い浮かべてしまったりしていた。

 これではいけないと思い、ぐっと抑えて、何とか読み進んでいった。すると、ここで説かれていることが大学で習った経済学とはまったく違うということが漠然とわかってきた。

 もともとあまり関心を持って聴講していたわけではないが、あのころ大学で鳴り物入りで教えられていた経済学は、誰もが利益最大化という目標に向かって合理的にふるまう経済人であるという仮定の上に成り立っていたように思う。だから世界規模の自由市場の維持を至高のものと考える思想的立場だった。

 著者の中山さんは、この仮定を認めていない。人間の経済行動の不確実性をまず前提にしている。その上で、戦争や制度や地勢などが、経済動向に大きな影響を与えると説いていた。しかも戦争のような世界史的な大事件は、平和になってからも、その「型」のようなものが残り続けるという。

 これは、あのころアカデミズムから放逐されたケインズの考えを復活・継承するもののように思われた。たしかケインズもそうだったと思うが、中山さんは、モノやカネの動きにかかわる人間の経済合理的な行動だけに限定する「経済学」という学問の限界を見極め、それ以外の人間行動の要因を幅広く視野に入れようとしている。

 大著なので、なかなか読み切れそうもないが、印象としては、こういうとらえ方のほうが大学で今も教えられている「経済学」なんかより、はるかに現実をとらえるのに適している感じがした。

 午後遅くまで頑張って300ページくらいまでこぎつけた。19世紀後半に、自由貿易主義を採っていたイギリスが不況にあえぎ、保護主義を採っていた大陸ヨーロッパのほうが、自国の経済を繁栄させ、かえって貿易を拡大させたと書いてあった。これも新鮮な指摘だ。しかしここらが限界だった。

 

 あきらめてネットサーフィンに切り替えたら、いつの間にか、「フェルメール展」のサイトに行っていた。今回は、これまでで最大点数で、10点、途中で1点入れ替えるという。それ以外にも、17世紀オランダの画家たちの宗教画や風景画や静物画が集められている。

 フェルメールの作品は32点しか残っていなくて、ほとんどが上流家庭の室内を描いている。以前、7年くらい前だろうか、フェルメールを中心とした展覧会が静谷で開かれ、ひとりで行ったことがある。その時、「地理学者」という絵にとても感動した。

 窓からの差し込む光と、机の手前に寄せられた絨毯の襞、地図や本や地球儀などに囲まれて青いガウンを着た壮年の学者が、右手にコンパスを持ち、左手で机の角をしっかり押さえている。

 何よりも私はこの学者の姿勢と表情に、知へのあくなき情熱を見出して、できれば自分もこんなふうにありたいと思ったものだ。空しい願いではあったが。

 「地理学者」は、今回は残念ながら来ていない。でも今度は、二人で「牛乳を注ぐ女」や「赤い帽子の女」などが見られるのだ。その時のことを考えただけで楽しくなる。

 終わった後、時間が取れるだろうか。8時半に美術館を出るとして、彼女の都合を聞いて、もしOKなら、1時間くらいは大丈夫だろう。あまり強いてはいけない。近くで一緒に軽く一杯やりながら感想を話し合う――そんな埒もないことを空想して、心が早くも浮き立ってきた。

 それはそうと、と、われに返った。そろそろ夕飯の時間だ。冷蔵庫を開けてみた。

 ホッケの干物と豆腐で済ませることにした。豆腐にはネギのみじん切りとショウガのすりおろし、それに上等の鰹節をたっぷりかける。飯は冷凍しておいたのをチン。

 日本酒の買い置きがあるので、それを、飯を食べ終わった後に冷で一杯。

 

 そういえば。明日は、本部からの出向社員を初めて迎える日だ。先日、事前に本人から連絡があった。前園と名乗った。若い元気な声で、はきはきと予定日の調整について相談してきた。これならうまく運ぶかもしれない。

 まずは岡田と一緒に薄田に行ってもらうよう手はずを整えておいた。街を歩いて雰囲気を感じ取り、事情をよく知る現地の不動産屋を訪ねて現況をつかむ。薄田地区での空き家状況や世帯構成を正確に把握するために、区役所での調査も必要になるだろう。役人がうまく話に応じてくれるかどうか。

 なかなか実を上げにくいプロジェクトだ。二つ返事で引き受けてくれた岡田に、頭が下がる思いだった。

 しかし、あまり取り越し苦労はしないようにしよう。前園君と岡田の報告を聞いてから、新たにチーム編成を考えてもいいかもしれない。

 

 また感傷的な気分に浸りたくなった。パールマンのクライスラー名曲集をかけ、ベッドに寝っ転がって、目を瞑った。

 「愛の喜び」にさしかかったところで、心が躍り、玲子さんとの昨日の楽しい会話がほうふつとしてきた。弾むようなハーモニーが、そのまま彼女と私の共感の時を表現してくれているように思った。

 ところが「愛の悲しみ」に続くと、その単音に終始する沈んだメロディのシンプルな流れが、ひとりになった時のはかない気分を掻き立てる。

 いまの自分の恋も、やがてこのようにはかなく終わるのかもしれない、いままでそうだったように。そう思うと、いつの間にか、反省的で思索的になっている自分を見出した。

 これまで何度もこういう感覚に襲われてきた。それは、自分のとりあえずの身の上と直接関係のない「観念世界」、たとえば日本の危機について読んだり考えたり話題にしたりしている時と、日々の生活や仕事上の問題に意識を集中させて余裕をなくしている時、そして、ちょうどさっき玲子さんへの思いに耽ったり美にあこがれたりしていたように、ロマンティックな空想のなかに自分を自由に遊ばせている時、この三つの時が、私の中でせめぎ合い、三人の役者となって舞台にかわるがわる登場するのだ。

 私の意識は、いつもこの三人の役者を相手にして流れている。若い頃からそうだった。そして、どの役者と一番親しくなったらよいのか、わからない。

 前に、この感じを、観念と実存との矛盾の意識ととらえたけれど、実際は、もっと複雑で、そこに、現実に裏付けられた空想が侵入してくるのだ。

 思えば、誰でもそんなふうに生きているのではないか。日常的現実と非日常的な空想とか、観念世界と実存とかいったように、二元論で考えただけでは、生にかかわる意識の全体をとらえそこなってしまうような気がする。

 観念は日常的現実を通して現れるし、空想の中でリアルな感覚が生き生きと躍動したりする。また日常的現実にしても、いつも過去や未来のように、いまここにない世界と不可分にかかわっているので、容易に追憶や郷愁や夢や空想に結びついていく。

 私は、この意識の多面性に翻弄されている。

 いま玲子さんに恋をしている。できればそこに全神経を集中させたいと思っている。でも青春時代と違って、これまでの人生経験で否応なく培ってしまったけち臭い「知恵」や、日々の生活への配慮、残された命数への見通しなど、さまざまな夾雑物が、それを邪魔する。

 それでも、愛しく思える人と出会えたという幸運を壊さないように、できるかぎりこの運命の女神の導きに忠実につきしたがって行こうと思った。

 

 《11/15  20:23

  半澤玲子様

  昨日は楽しい一日を、ほんとにありがとうございました。

  めったにないことに出会えたのだ、と本気で思っています。つい浮かれてしまって、ややこしい話を一方的にしてしまいました。でも、熱心に聞いていただいたので、私としてはとてもうれしかったです。

  今日は、朝から、昨日紹介した中山武志の大著に挑戦したのですが、半澤さんのことが気にかかり、午後遅くまでかかって、半分ほどでダウンしてしまいました(笑)。

  それから後は、フェルメールについて調べて、お約束した日のことをあれこれ想像していました。実は7年前にも一度、フェルメールとフランドル絵画展というのがあって、その時、「地理学者」という絵に深く感動した覚えがあります。今度は「地理学者」は来ていないようですが、その代わり、「牛乳を注ぐ女」がありますね!

  何はともあれ、20日が待ち遠しいです。

  今日は、お疲れではなかったですか。

  どうぞ今夜は、ゆっくりお休みください。

 

 《11/15  20:51

  堤 佑介さま

  いまちょうどメールしようと思っていたところです。

  こちらこそ、楽しくてためになるお話、ありがとうございました。

  政治の話はむずかしかったですけど、さっき、一生懸命思い出して、メモを取っておきました。この次、また機会がありましたら、教えてください。

  それと、是吉監督についてのお話がとても印象的でした。検索してみたら、もともとドキュメンタリーを撮っていたんですね。あの緻密なリアリティは、そこからきているのかもしれないと思いました。

  「地理学者」の本物は、わたしは見損なってしまいましたが、堤さんがあれに感動されたというの、とてもわかるような気がします。いい絵ですね。

  わたしも20日を、首を長くして待ちます。何よりも、お会いできるのがうれしい!

 

  今日は、長年の上司が転勤になったので、新しい課長が赴任しました。鋭い目つきをしていて、怖そうです。慣れるまでは緊張の日が続くかもしれません。

  それでは、堤さんも、ごゆっくりお休みくださいませ。 ♡