半澤玲子Ⅺ
2018年11月21日(水)
昨日のデートはフェルメール展。
まず2階に上がり、同時代の画家たちの神話画、風景画、静物画、風俗画などを見て、それから一階に降りて休憩所を通り、最後にフェルメールの絵を集中的に見せる演出になっていた。
フェルメールの絵はほとんどが風俗画だから、この順序は、とてもうまく考えられていた。
2階の絵で「いいな」と思った作品がいくつかあった。画家の名前は覚えられなかったけれど、二人とも画集を買ったので、会場を出てから立ち寄ったビールバーでそれを見ながら感想を話し合った。
わたしは、パウルス・ボルの「ギュディッペとアコンティオスの林檎」とヤン・ウェーニクスの「野ウサギと狩りの獲物」という絵が印象に残った。特に、ボルの絵は、とても不思議な作品で、一度見たら忘れられない。遥かな神話の世界に吸い込まれるようだった。
堤さんは、同じボルの絵とユーディト・レイステルの「陽気な酒飲み」、アリ・デ・フォイスの「陽気なバイオリン弾き」が庶民の表情が生き生きと描かれていていいと言っていた。ハブリエル・メツーの「ニシン売り」も、庶民生活を描いた風俗画の中では、老婆とニシン売りの女の明暗のコントラストに感銘を受けた、と。
でも、それより二人で感想が一致したのは、そのメツーが描いた一対の作品、「手紙を読む女」と「手紙を書く男」が、主題と言い、タッチと言い、フェルメールそっくりだという点だ。
「これ、フェルメールをまねたんじゃないかしら」と、絵を前にして、思わず堤さんに近寄って囁いてしまった。しかもこの二作品が最後に展示されていて、それから1階へと降りてゆくのだ。
堤さんは、その時は黙って食い入るように見ていたが、あとで、「僕もまったく同じように
感じた」と言っていた。
「とてもよかったわ。『牛乳を注ぐ女』はもちろん傑作ですけど、わたしも堤さんが書いてらした『手紙を書く婦人と召使い』が特に気に入りました。例によって左から柔らかい光が差し込んでいるのに、手紙を書いている女性の白い衣装が強いコントラストを作っていて鮮やかに浮き出して見えますね」
「そうですね。同じことなんですけど、僕が今日感じたのは、この画家は、白の使い方がすごくうまいな、という点です。今日見た『赤い帽子の女』とか『ワイングラス』も『牛乳』もそうだけど、あの有名な『真珠の耳飾りの女』なんかでも、耳飾りの部分にちょっと白を置いて、すごく効果的ですよね」
「ああ、ほんとだ。『赤い帽子』の鼻先と下唇なんか、いちばん大事なところに点描みたいに白を置くんですね」
「しいて言えば、そこがメツーとは違うかもしれない」
それからわたしたちは、ビールのグラスを傾けながら、今日受けた感銘について、ずっと話し合った。もっと話していたかった。
「明日も早いんでしょう。そろそろ行きましょうか」
「わたしはまだ大丈夫ですよ。家まで近いですから。堤さんこそ、遠くてたいへん」
「僕は男だから、何とでもなりますよ。それに明日は休みだし」
「お友達と飲み明かしたりなんて、あります?」
「さすがに最近は自制を効かせますね。昔は、誰かが飲みたりなさそうだと、もう一軒、さらに飲み足りないと、めんどくさいから、ウチに来い、なんてんで、みんなでなだれ込んで徹夜とか。あのころが懐かしいです。ハハ……」
「堤さんのところは広さ、どれくらいなんですか。うちは1LDKで狭いんですけど」
「何平米くらい?」
「30いくつくらいだったかな」
「僕も一人だから狭いですよ。同じ1LDKで、リビングが少し広め、全体で40平米ちょっとですね」
行ってみたい、とまでは言えない。でも、ほんとは、なだれ込んじゃいたーい、と思った。
「堤さん、おしゃれだから、きっとお部屋もきれいなんでしょうね」
「いやあ、そんなことない。こないだ、帰ってみたら、散らかってるのに気づいてびっくりしました。男所帯に蛆が湧くってね。掃除なんてろくにしませんから。その時は慌てて片付けましたけど。……そうだ、そういえばあれはたしか、初めて玲子さんからメッセージをもらった時の夜ですよ。僕のことをユニークだって言ってくれて、うれしくて、それで、なんて俺の部屋は汚いんだって気づいたんだった」
「フフ……そうだったんですか。本とかで散らかってるんですか」
「本もありますけど、書類とか紙くずとか、ふだん使ってる家財道具」
私のメッセージで、散らかってることに気づいたなんて、こそばゆい思いがこみ上げてきた。おもしろい人。可愛い人。わたしのこと、初めてファーストネームで呼んでくれた。
でも、わたしが休みの日に行ってお掃除してあげます、というのも、まだ、言えない。
この前と同じように、地下鉄ホームで別れた。別れ際に彼が握手を求めてきた。ほっそりした手だったけれど、暖かい感触。
今度は堤さんのほうの電車が先に来た。堤さんが電車の中、わたしがホームで、この前と同じように手を振り合った。
そして今日。
新課長の安岡さんは、思った通り厳しい人だったが、態度は意外と優しく、言葉遣いも丁寧だった。
本部の状況を早くつかもうという熱心さの表れだろう。部下を集めて、会議を開いた。経理の効率化を図るために、システムを少し変えたいと言う。
すでに部長の承認を得ているのだが、と断ったうえで、新しい会計システムの導入を提案した。そのための説明資料が配られた。
「政府が働き方改革を今年の4月に閣議決定して、来年4月に施行されますね。これに対応して、わが社でも、無駄な残業をなるべく減らして、みなさんにもっとゆとりを持って仕事に取り組んでほしいという方針が決まっています。経理部門でも、この方針に従う必要があります。というよりも、みなさん、日々実感されている通り、特に経理部門こそ、残業を減らせないネックになっていると言っても過言ではありません」
ここで安岡課長は、言葉をいったん切り、みんなの顔色を見た。たしかにその通りだ。経理は、なぜかほかの部門に比べて、手作業が多いのだ。みんなうなずいていた。安岡さんは、それから、ちょっと言葉の調子をやわらげて、話を再開した。
「私も、静岡時代に苦労したんですよ。なんて経理は細かくて面倒なんだろうってね。それで気づいたことの一つに、各書類の仕訳が、書面項目別に分類されているでしょう。これなんですね。経営陣や現場から、ある事業を新しく始めるにあたって、昔の仕事を参照したいから、これこれのプロジェクトに関係した書類をそろえてくれないかって要求がよく来ますよね。ところが、こっちは、稟議書や契約書や請求書なんかをそれぞれ別々にファイリングしてる。でもあるプロジェクトって、それが行なわれたときには、こういう各書類がひとつながりの紐でつながってたはずなんですよね。ところが書類項目別に分類すると、バラバラになってしまってるから、それらをいちいち探し出して、紐でつなぎ合わせなきゃならない。それでないと、経営陣や現場の要求に応えることができないわけなんです。この部分が手作業になってる。だから残業が多くなっちゃうんですね。要求には期限がありますから、さあ、たいへんです」
これも確かにその通りだ。みんなこれで苦労してきた。再びみんながうなずくのを見て、安岡さんは満足そうに言葉をつづけた。
「もちろん、この問題だけが経理の非効率を生んでるわけじゃありませんけど、けっこう大きな問題であることはたしかだと思うんです。これはコンピュータにファイリングしてある場合にも、方法が今までのままだったら同じことですね。棚から探すのと、PCから探すのとそんなに変わらない。それで、あるプロジェクトごとにいろんな書類をさっとリンクできて、まとめて差し出せるようなシステムはないかって探したんですよ。専門家に任せずにね。そしたらあったんです。それがお配りした資料の「HOPE21 ITEM」ってやつです」
みんなは資料に目を注ぎ、急いで追いかけた。すぐには把握できない。戸惑いの表情が浮かぶ。
「ああ、いいです、いいです。すぐにはわからないですよ。パソコンで実際に動かしてみないと。私、静岡で導入してやってみたんです。初めはちょっと苦労しましたけど、慣れるとすごく効率的ですね。実際、残業時間減りましたよ。それでこちらでもさっそく導入してみてはどうかということなんです」
話は、何となく分かった。でも、そのITEMとやらに慣れるのがたいへんだな、やだな、と内心思った。わたしなど、旧式でやってきて慣れてるし、機械には弱いほうだ。年取ってから頭を切り替えるのは、かったるい。いいかげん仕事そのものにも飽きてきてるし。
そうしたら、藤堂さんが質問した。
「もし本当に残業時間減らせるんなら、取り入れることに大賛成ですけど(さすが、キャリア組の藤堂さん)、問題は、コストパフォーマンスと、適応の難易度、それと、一番知りたいのが、これまで積み上げてきたデータ処理の方法と中身を、新しいシステムに転換できるかどうかってことなんですけど」
何となく、古株の藤堂さんと、新進気鋭の安岡さんとの間で、火花が散りそうな雰囲気だった。
「いちいちごもっともな懸念だと思います。最後のご質問からお答えしますが、これは、システム自体にその転換の仕方が内蔵されてますから、そこをいじれば問題ありません。もちろん、項目別分類に復帰させることもすぐできます。相互置換が可能なんです。それから、コストパフォーマンスについては、全課入れ替えとして試算しまして、部長に報告して許可を得ております。まあ、業務量との関係にもよりますが、そんな不利益を出すようなことはないと思いますよ。中長期的には、確実に効率化が期待できます。それから、適応の難易度、これは申し訳ないんですが、みなさんのご努力で、できるだけ早く慣れていただくと申し上げるしかありません」
やっぱりね。それに適応するために、かえって残業が増えちゃったりして。
しかしこれは、部長のお墨付きを得たトップダウンだ。文句を言える筋合いではない。
お昼をさくらちゃんと一緒に食べた。さっそく午前中の会議の話になった。
「ねえ、新課長の話、どう思った?」
「正直言って、きついですね。ここだけの話ですけど、中田さんの時のほうが、ほんわかしててよかったです」
「そうよね。わたしも同じだわ。なんであんなに効率、効率っていうのかしらね。さくらちゃんは若くて適応早いからいいでしょうけど、わたしなんかおばあさんだから、また新しいシステムに変えるのかよって、なんかげんなりするわ」
「いえ、わたしもIT苦手だからよくわかります。でも、案ずるより産むは易しって考えるほかないですね」
「そうね。そう考えるしかないわね。それとね、働き方改革って、冒頭で言ってたでしょう。まるで既成事実だから、疑う余地がないみたいに。でもあれ、残業代ゼロ法案って言われてるわよね。残業減って賃金減らないんならいいけど、減った分だけ賃金も減るわけでしょう。わたしたちのためみたいなこと言ってるけど、結局、経営側が人件費削減しようって発想から出てるんじゃないの」
「ああ、たぶんそうだと思います。高プロがそもそもそうですもんね。あれって賃金を労働時間から切り離そうって発想ですよね。いまんところ、高所得者に限定してますけど、ああいうの一度やると、どんどんこっちにも降りてくるでしょう。気づいてみたら、わたしたちの年収でも、残業代は一切払いませんなんてなるかもしれませんね」
さくらちゃんとこういう話をしたのは、初めてだった。この子もそういうこと真剣に考えてるんだと思って、感心した。
「なるような気がするわ、きっと。でも、残業ってなくなるわけないのよね。仕事は繁忙期にはどっと来るんだから。私たち普通のOLにとっては、労働時間と賃金を切り離そうって発想がそもそも合わないと思うわ。それに、ブラック企業がその習慣を悪用するわよね。なんか、いまの日本て、何でもアメリカのマネしておかしくなってない?」
「ええ。いろんな面でそうですね。非正規もどんどん増えてるし。だから若い人、なかなか結婚できないんですよね」
若い人……さくらちゃんの口から「若い人」なんていうの、似合わない気がする。そうだ、彼女自身、いま、結婚に限りなく近づきつつあるんじゃなかったのかしら。話題転換。
「あ、そうそう。結婚て言えば、さくらちゃん、その後どう?」
「わたしですか。ええ。続いてます、何となく」
前のように溌剌とした雰囲気ではない。
「何となく? まだゴールじゃないってこと?」
「ええ。それが、二人の間では問題ないんですけど、向こうのお家との関係とか、いろいろあって」
「そうなの。たいへんね。ちょっと立ち入ったこと聞いていい?」
「どうぞ」
「相手の方って、何してる方なの」
「野川でお醤油の卸売やってるんです」
「ああ、サラリーマンじゃないの。」
「ええ」
「野川っていったら、キンケイ醤油のあるところでしょ」
「ええ。系列化されてはいるらしいですけど、一応独立した問屋さんなんですね。それで、ご両親もご高齢で、一人っ子だから、跡を継がなきゃならないんです。結婚するなら、家に入ってくれって」
「それで、さくらちゃんは、OKなの?」
「私自身は、まあ、ちょっと抵抗感はあるんだけど、覚悟はしてるんです。でも私の両親、特に母が反対なんですよ。苦労するばかりだし、先行きも不安定だって」
「そうかぁ。結婚となると、やっぱりいろいろと出てくるのね。昔より、そのへん、難しくなってるみたいね」
わたしは、わがことのように溜息を洩らした。
「いいんです。きっと何とかなりますし、してみせます」
「そうね。がんばってね」
「はい。それより、先輩。最近、なんか華やいでますよ。わたし、何かあったとにらんでるんですけど。こないだも素敵な服着てたし」
やっぱり悟られるのか。とぼけてやり過ごしてもよかった。でも、こっちがさくらちゃんの行状を突っ込んでる以上、黙ってるのはフェアじゃない。
「うん。まあ、ちょっと付き合い始めた人がいるの」
「わあ、すごーい! 年上ですか、年下ですか」
「かなり年上ね。でも、まだ、そんなんじゃないのよ。どうなるかわからない」
「どうにかしてくださいよ」
昨日、展覧会デートをしたこと、これは話した。でも、どういうふうに知り合ったかは、「秘密」ということにしておいた。彼女に婚活サイトを進めておきながら、じつは自分もそれをやっていたというのを告白するのは、いかにも照れ臭かったからだ。
午後は意外と早く終わった。そうだ、今日は帰宅したら、ウチで花を活けてみよう。せっかく置いた水盤がまだ空になっていたので、おととい、通販で花材を取り寄せておいたのだ。
夕食はなんにしようかしら。ちょっと寒いし、この間、宮越坂で食べたポトフがおいしかったから、あれをまねて作ってみよう。
駅を降りて、いつものスーパーで、買い物をした。ジャガイモと人参はあるから、キャベツ、ソーセージ、インゲン、ニンニク、ローレルなどを買った。マスタードはあったかしら。念のため。
煮込むのにそんなに時間はかからなかった。二人分くらい作って明日もこれでOK。味見をしてからお皿に盛ってみると、うん、われながらうまそうだ。
赤ワインの小瓶があったので、それを開けてグラスに注いだ。
熱いポトフを食べているうちに、この間、レストランで食べながら堤さんにメッセージを送った時のことが、鮮やかによみがえってきた。ハロウィーンのバカ騒ぎについて意見を述べたら、すごく賛成してくれたっけ。
それと、昨日、堤さんが言っていた、初めてメッセージを受け取って家に帰ったら散らかってるのに気づいたっていう話。
そしてわたしは、明日の分も、ということで二人分のポトフを作った。自分の中でこれらのことが自然に結びついて、ああ、堤さんの家にまで押しかけて、二人でポトフを食べたいという思いが、急激と言っていいくらいに襲ってきた。それは、いまここにこうしていることの寂しさと背中合わせだ。
ちょっと思いついて、お鍋に残っている分を、お皿に盛ってテーブルの上に乗せ、写真を撮った。それをもう一度お鍋に戻した。
今度いつ会えるかしら。
食事を終えてから、一休みして、活け花に取りかかった。花材は、野ブドウと赤いダリア。
青い水盤の右に寄った部分に剣山を置いて水を張り、余計な葉と枝を切っていく。野ブドウの長い枝を主枝としてぐっと右に延ばし、中央に客枝としてダリアを三つ配置する。変化に富む枝ぶりを利用して、左側にも短く野ブドウをあしらう。
濃い赤と葉の緑、間をおいていくつも可愛くぶら下がる微妙な色合いの丸い小さな実。
なかなか満足できないけれど、うん、まあこんなところか。
写真を撮った。当然、堤さんに送ることを考える。
《11/21 22:41
堤 佑介さま
昨日は、楽しい一日をありがとうございました。
好きだったフェルメールを一緒に見ることができて、とても幸せを感じています。
また、堤さんの鋭い観察力に感心いたしました。
今日、この前静谷のレストランからメールを送ったときに食べていたのと同じポトフを作ってみました。けっこうおいしくできましたよ。明日の分もと思って二人分作ったんですけど、ほんとは、二人で一緒に食べられたらなあ、なんて、気持ちで作っていたのかもしれません。
たぶん、堤さんに褒められたので、調子に乗ったんだと思いますけど、いま、自宅で、野ブドウとダリアを活けてみました。
ポトフの写真と一緒に送ります。
明日はお仕事ですよね。がんばってください。
どうか安らかな眠りが訪れますように。お休みなさい。💛 》
