【これまでのあらすじ】

トイレタリー系企業で経理を担当する半澤玲子は、47歳のバツイチ。独り暮らしをしているが、武蔵野の実家で活け花の師匠をしている老母がいる。親友の絵理が婚活サイトへの登録を勧め、初めはためらっているが、ついに登録を決意する。

自身もサイトで恋人を得た絵理は、相手が妻子持ちであることを知ったが、好きで別れられないでいる。玲子は、恋愛とお見合いに失敗したアラサーの部下・さくらに婚活サイトを勧める。さくらは婚活ツアーで相手をゲットする。

玲子は、上司の中田課長からデートに誘われるが、付きあうつもりはなく、振ってしまう。しかしその純情さを知り、気が咎めている。サイトで新たなメッセージをもらった玲子は、相手の私立高校教師・岩倉に好感を持ち、一度会ってみるが、その強引さに嫌気がさし、これも振ってしまう。そのすぐ後、何気なく見た不動産会社営業所長・堤佑介のプロフィールのユニークな文面に関心を抱き、しだいに心を惹きつけられていく。

堤は、日々の多忙に追われる傍ら、政治問題や社会問題に旺盛な好奇心を持ち、貧困層の増大や予定された消費増税、水道民営化などに憤りを覚えている。また空室の増えたアパートの管理を託されており、そこに中国人一家が入居してくるので、トラブルの恐れを感じている。本部から「下町コンセプト」というプロジェクトの一端を担うことも任され、今後のたいへんさを予想して身を引き締めてもいる。

彼はやはりバツイチで、別れた妻との間に一人娘・亜弥がいる。亜弥は25歳の社会人だが、同居している母親に内緒で、時々堤と会っている。彼女は父に婚活サイトを勧める。堤は親友の大学教授・篠原からも再婚を勧められ、しぶしぶサイトに登録する。

一夜、篠原と飲んだ折、消費増税を国民が認めてしまっているのは財務省のデマによるものであることを聞かされ、驚くと同時に、マクロ経済への理解を深めて行く。

玲子が送ってきたメッセージに心を動かされた堤は、メール交換を重ね、次第に二人は恋の予感を募らせてゆく。やがて二人は、初デートに臨むことになる。

 

半澤玲子Ⅹ

                           2018年11月15日(木)

 

日曜日に、久しぶりに美容院に行って髪を整えてきた。だいぶ長くなって乱れてきたので、少しだけカットしてもらった。美容師が黒髪の濃いのをほめてくれた。

 昨日はよく晴れたさわやかな一日だった。

 堤さんに初めて会うので、お化粧も念入りにしてマンションを出た。

 数日前まで妙に暖かく、秋の初めに戻ったようだった。でもさすがに少し冷えてきた。寒いかなと思ったが、せっかくの日なので、ボタンデザインの入った白の丸首セーターにモスグリーンのロングスカートとしゃれてみた。ハーフコートははおったけれど。

 席に就くなり、隣の藤堂さんが「あら半澤さん、今日は素敵じゃない。もしかして?」と聞いてきたが、「うふふ……別にそんなんじゃないのよ」と言ってごまかした。

 実は仕事のほうはちょっと気もそぞろ。でもちゃんとやりましたよ。

 

 7時ちょっと前にカフェ・グラナダに着いた。ここは前にコーヒーを飲みに寄ったことがある。夜来たのは初めてだった。夜景がぎらぎらしていなくて落ち着きがある。

 細長い店なので、最初ちょっと戸惑ったが、堤さんは、奥のほうに来ていて、手を挙げて招いてくれた。

 ラフな茶色のジャケットを着こなしよく身につけていた。衿の少し大きめな真っ白のワイシャツがよく似合っている。面長でプロフィール写真で見たのと同じ丸い眼鏡をかけている。気さくな印象だけど、ちょっとデリケートかな。でも想像したのとほとんど違っていなかった。まだわからないけれど、少なくとも見た目には素敵な感じだった。

 「初めまして。半澤です。よろしくお願いいたします」

 「初めまして。堤です。こちらこそよろしく」

 やや高めだが、よく通る声だった。

 「お食事はまだなんでしょう?」

 「はい。お腹すいてます」

 はっきり言ってしまった。

 「僕もです」

 彼もはっきり言った。思わず二人から同時に笑いがこぼれた。

 堤さんは、メニューを差し出しながら、「どうします? 一品ずつ頼みますか。それともディナーコースで」と聞いた。

 「ではコースで」

 「飲み物は何にしますか」

 「じゃ、グラスワインの白を」

 「あ、それじゃ、ボトルをとりましょうか。飲みきれるかな」

 「わたし、あんまり強くないんですけど」

 「残ったら私が片付けますよ」

 堤さんはにっこり笑って、ワインメニューを示し、わたしに選ぶように促した。わたしはよくわからないままに、適当にフランスワインを指さした。

 メインディッシュは、堤さん、国産サーロインのタリアータ、わたし、真鯛のグリル トラパニ風。

 

 「ニックネームが変わってましたね」

 わたしのグラスにワインを注ぎながら、堤さんが言った。

 「ワレモコウは、前に実家に帰った時に、母が活けてたんですよ。それが印象に残ってたので、何となくつけちゃったんです」

 「そうだったんですか。もしかしたら、お人柄をあらわしてるのかななんて、勝手に想像しちゃいました」

 「フフ……わたし、あんなに逞しくありません。それに自分で自分の性格にちなんでニックネーム選ぶなんて、ヘンじゃありません?」

 「ハハ……ほんとですね。逞しい野草と言えば、僕は子どものころからアザミが好きなんです。アザミを活けることなんてあります?」

 「ああ、写真で見たことはありますが、わたしはまだないです。でもあの野性味のある強さ、わたしも好きです。活け花では使っていけない素材ってないんですね。でも何と組み合わせるかが難しそう。アザミはあんまり独り立ちしすぎてる感じがして」

 「なるほど。僕は、そこが気に入ってるんですけど、ちょっと怖い感じもありますね。よくわかりませんけど、挑戦してみるのも面白いと思いますよ」

 「そうですね。やってみようかしら」

 「それにしても、あのお花の写真、素晴らしかったですね。白とピンクと濃い緑。色も形の釣り合いもとても決まってると思いました」

 「ありがとうございます」

 「あれは、ハクチョウゲ、ですか。枝が横にうねるように伸びて」

 「そうです。よくお分かりになりましたね」

 「昔、実家の裏手に生えていたように思います。よく覚えてないんですが」

 「ご実家は横浜、でしたっけ」

 「ええ」

 「私の妹一家も横浜なんです」

 「あ、そうですか。どのあたり?」

 「北部です。戸栗区。結婚して武蔵野の実家から引っ越したんですよ」

 「ああ、それじゃ、東京に近くていいですね。僕は真ん中のほうですから」

 「でも浜っ子って、なんかすてきですね。おしゃれで開かれた感じで」

 「うん、まあ、けっこうみんなにあこがれられますけどね。でも生まれ育った土地って、本人からすると、愛憎両面ありますね。親兄弟との関係もからまってるし」

 わたしはそこで、「ああ」と相槌を打ったきり、その後が継げなかった。誰にでもある翳り。わたしもじつは妹とあまり仲が良くなかった。いまでもそのしこりが残っている。

 それからしばらく、わたしが質問した政治の話、好きだと言った画家の話、過去の旅行の話などをした。

 奥入瀬は若い頃、自分も友人と歩いたたことがあると彼は言った。やはり夏の夕暮れ時で、生い茂った森のなかにせせらぎの音を聞きながら、時々滝に出会うと、そのたびに心が洗われるようだったことを覚えている、と。

 そのうち映画の話に移った。

 「『広い世界の端っこで』はご覧になりました? アニメですけど」

 「ああ、見てないです。アニメはちょっと弱いですね」

 「おススメですよ。悲しい話ですけど、救いもあります」

 「そうですか。DVDになってますか」

 「たぶんなってると思います」

 「じゃ、買いますね」

 それから話題はやっぱり『万引きファミリー』になった。堤さんが言った。

 「是吉監督の映画は何本か見ましたよ。あの人の映画って、どれもけっこう重いですよね。はじめ、それがいかにもリアルな『あるある感』みたいに迫ってくるんで、正直、ちょっと見ていて苦しかったです。でもいろいろ見ていくうちに、だんだん慣れてきて、やっぱりこういう撮り方しないと、こういうテーマは描けないんだなってのがわかるようになりました」

 堤さんも、是吉映画みたいに、つらい体験をしてきたのかしら、とちょっと想像した。そういえば、彼もバツイチで、しかもお嬢さんがいるわけだから、あの『海の底のさらに深みへ』と似たような経験があるのかもしれない。

 彼の話が続いた。

 「『万引きファミリー』はそれが全部詰まってる感じでしたね。あれは、ちょっとカッコつけた言い方になりますけど、家族が難しくなってる時代に、ゼロから家族を作り上げてく現代の創造神話みたいです。結局、失楽園と同じように壊されちゃうんですけどね」

 現代家族の創造神話。なるほどうまい言い方だ。でも違法行為で楽園作ってるから、結局、いつか破綻してしまうのね。わたしはふだん感じていたことを言ってみた。

 「是吉監督の映画って、みんな家族関係が複雑ですね。あれ、何かこだわりがあるんでしょうか」

 「さあ、監督自身の育ち方に関係あるのかもしれませんね。それと、父性愛に執着しているのがけっこう多いでしょう」

 「ああ、ほんとに。もしかしたら自分が父親から愛されなかったのかもしれませんね。それと、悠木果林が出てるのがみんないいですね」

 「あの人の存在感はすごい。惜しい人を亡くしました」

 「あの人の遺作、ご覧になりました?」

 「えーと、たしかお茶がテーマの。ああ、見てないです」

 「ええ。『喫茶去』ね。あれ、わたし、お花に少し心得があるんで、興味があって、見たんですね。悠木果林、重要な役をすごくうまくこなしてますけど、映画はあんまりおもしろくありませんでした。別世界のきれいなところだけ見せているようで」

 「あ、そうですか。そうだとすると、やっぱり監督次第ってところも大きいんですね。コラボレーションの問題ですね」

 「ええ、そう思います」

 こんな話、誰ともしたことがなかった。何よりも、自由にものが言える雰囲気だった。ほかにもいろんな話題が出た。家族の話、仕事の話。堤さんは顔にあらわさないけど、仕事のほうは相当たいへんそうだった。

 気がつくと、あっという間に二時間が経っていた。

 「また会っていただけますか」

 彼が小さな声で言った。

 「はい」

 わたしも小さな声で答えた。

 「そうだ。フェルメール展、ご一緒しませんか」

 語調がすこし強くなっていた。

 わたしは喜びを押し隠しながら言った。

 「ええぜひ。でもうまく時間がとれるかしら」

 「あれ、たしか予約制だったでしょう。けっこう遅くまで入場できたと思うんですけど」

 「あ、そうですね。調べてみます」

 スマホで見ると、入場時間が6つに分かれていて、最終枠が7時から8時、閉館が8時半になっていた。

 「これなら、最終枠で予約して……」

 「行けそうですね。僕は、そうだな、来週の火曜だったら、遅くとも7時半には行けると思います。半澤さんは?」

 「はい。わたしも大丈夫です」

 「じゃ、火曜日、7時半に会場入り口で待ち合わせることにしましょうか。1時間あればじゅうぶん見れるでしょう」

 「そうですね。じゃ、今度はわたしが予約しておきます」

 「どうもありがとう。お願いします。今日はほんとにありがとうございました。これからもよろしく」

 「こちらこそ。……わたし、ちょっと化粧室に」

 鏡の中の自分を見つめた。ワインとおしゃべりのせいで、頬がだいぶ上気している。わたしは口紅をなおしながら、彼の目にどう映ったかしらと思った。勝手なことしゃべってアホな女だと思われなかったかしら。

 でも初めてにしては、お互いそんなに固くならずに、いろんなことを話せたなと思った。歳のせいもあるのかもしれないけれど、これまでのやり取りで、何となく気心が知れているところがあったからだろう。

 政治の話では、彼は慎重に、ゆっくり言葉を選んでいた。

 途中、知らない経済用語や疑問も出てきたので、その時は質問した。ていねいに説明してくれた。一回聞いただけでは呑み込めなかったけれど、でも、消費税の増税が、緊縮財政にこだわるケチな財務省のデマによるのだという点だけはよくわかった。

 ほんとに、みんな騙されてるんだ。知り合いに広く伝えたい気がしたけれど、政治運動をするんでもないのに、それはよくない。堤さんも、どうすればいいかについては、ちょっと困惑気味だったようだ。

 トイレから出て、テーブルに戻ると、彼はにこにこしながら座っていた。

 「そろそろ出ましょうか」

 「はい。あの……おいくら……」

 私はハンドバッグに手を入れかけた。

 「あ、もう済ませましたから」

 「え?……そんな。よろしいんですか?」

 「プロフィールに書いてなかったですか? 初デートは全額こちら持ちだって」

 彼はにこにこ顔を崩さなかった。

 「はあ……ではお言葉に甘えさせていただきます。ごちそうさま」

 岩倉さんは何と書いていたっけ、と、とっさに思ったが、それは忘れた、というか、気にしてなかった。もうどうでもいいことだ。

 外はだいぶ冷えていた。四つ辻の向こうに大学の大きな建物の壁がそびえている。私の母校だ。でもあまりいい思い出はない。別れた夫と最初に出会ったのもあそこだからだ。

 帰りは途中まで同じ方向である。地下鉄の乗り換えですぐ違う路線に別れてしまうのだけれど、その一緒にいられる短い時間がいとおしかった。そのせいか、かえって緊張して何も話せなかった。

 堤さんは、わたしが乗り換えるホームまで送ってくれた。電車が来た。別れ際に、彼が「もしどうしても都合がつかなくなったら、なるべく早く連絡入れます」と早口で言った。

 「そうしてください。お仕事大切ですから」

 そうならないように、と祈っている自分がいた。乗り込んでから窓の外を見ると、堤さんは、ホームに立って手を振って微笑んでいる。わたしも見えなくなるまで手を振っていた。

 

 帰宅は10時。シャワーを浴びながら、今日の出会いを思い起こした。シャワーのお湯のように、わたしのからだに幸福感が降り注いだ。

 フェルメール展の話が出た時に、エリはどうしているだろうとすぐに連想した。電話してみようかと思った。しかし、こっちがいい調子になっている時に、もし向こうがやばいことになっていたら?――そう気づいて、やっぱり思いとどまった。

 岩倉さんとのことも含めて、これまでのいきさつを話さないわけにはいかない。また、彼女のその後について聞かないわけにもいかない。もし慰めなくてはならない立場に立たされたら、こちらとしては、どういう言葉をかけたらいいかわからなくなる。

 その距離感をうまく埋められるほど、わたしは世故に長けていないし、彼女との間では、わざとらしいことを言ってもすぐに気づかれてしまうだろう。気まずい空気には絶対したくない。

いまは、堤さんと会ってきた余韻を静かに胸のなかで温めながら、寝ることにしよう。

 

 ベッドに入りながら考えた。

 彼はまじめな人。それはたしかだ。

 そして優しい。わたしのことを思いやってくれる。だれかさんとは大違い。でもこれは、いま、わたしをゲットしようと考えているからだけかもしれない。誰にでも優しいとは限らない。

 よく、どんな男の人が理想ですかと聞かれて、「優しい人」と答えるケースが多いけれど、「優しい」って、いったい何だろう。誰にでも優しければ、それがいいことなんだろうか。自分に対して優しさを持続できる人が、その人にとっていい人なんじゃないだろうか。

 堤さんはそういう人だろうか。もしかしたら、あのジェントルマンシップは、女の扱いになれてるってこととそんなに変わらない可能性だってある。

 彼はかっこいい。それはただわたしがそう感じてるってこと。他の人はそう感じないかもしれない。でもそれはそれで全然かまわない。

 彼は頭がよくて話題豊富だ。わたしの知らないこと、知った方がいいことをたくさん知ってる。

 わたしは彼が好き? ……たぶん。だって、彼のことを考えると、かすかに胸がときめくもの。

 彼とうまく付き合っていけそう? ……たぶん。少なくともここしばらくは。だって、会って話してるときの雰囲気がすごくいいもの……。

 

 そして今日。

 快適な気分で目が覚めた。ここのところあまりなかったことだ。顔を洗ってメイクしていると、下地やファンデーションのノリも悪くない。やっぱりねえ、と自分をからかうような気持ちになった。

 だいぶ朝が冷えるようになった。でも青空が広がっているので、日中はかなり気温が上がるという。さあ、ともかく今日は張り切って出社しよう。

 

 オフィスに入ってしばらくすると、新任の課長が部長と一緒に入室して、挨拶した。静岡支社から本社に戻ってきたという。中田さんはどちらかと言えば温厚で不器用なタイプだったけど、今度の安岡課長は、いかにもシャープで有能なイメージだった。わたしより五つくらい年下か。これから経理は厳しくなるかもしれないと直感的に思った。

 そういえば、この三日間、課長席が空席で、時々、藤堂さんが座って事務処理をしていた。

後で聞くと、藤堂さんにも新課長昇進の声がかかったのだけれど、受験期の子ども抱えて重責を負いたくないので、お断りしたのだという。

 わたし自身は、初めから総合職志望ではなく入社したので、この歳になっても役職にはついていない。

 

 9日の送別会では、中田さんは、何となく固い表情をしていた。藤堂さんを含む何人かが送辞を述べ、わたしが花束を渡す役を仰せつかった。渡すときに目が合った。彼はわたしをちょっと長く見つめ、それから目を伏せた。

 会が終わってしばらく経って、彼が廊下を急ぎ足に通り過ぎていくタイミングをとらえて、あの懸案事項について思い切って聞いてみた。

 「課長。ちょっとすみません」

 「え?」

 「これまでいろいろお世話になりました。京都に行かれても、どうぞお体を大切にされて……」

 「ああ、いやいや、こちらこそ。半澤さんも……」

 「それで、ちょっと確かめておきたいことがあるんですが」

 「何でしょう」

 「今度のご転勤の件なんですけど、わたしが計算間違いして失敗したことがありましたよね。その責任を取られて今度の人事が……」

 「え? ああ、そんなことがあったね。ありゃ、何の関係もありませんよ。だって支社とはいえ、昇進ですからね」

 中田さんは、笑いながら手を振って、もう歩き始めていた。

 「そうですか。よかった。それと、もう一つ……」

 「ん?」

 「申し上げにくいことなんですけど……課長がわたしを誘ってくださったことがあったでしょう」

 「ん?……ああ、あれね……いや、お恥ずかしい。あの時はヘンなことをして申し訳ない」

 「いえ、ヘンなことじゃないです。でももしかして、あのことを気にされてて、同じ職場に居づらくて自己申告されたのかななんて、わたし、勝手に気まわしちゃったんです」

 中田さんは、今度はわたしのほうに向きなおって、しばらくこっちを見つめていた。言葉を探しているふうだった。それからはっきりと答えた。

 「いやいや、そんなことありませんよ。自己申告なんて。ウチの人事がそんなこと聞き入れるはずがない」

 中田さんは、わたしからまだ目を離さなかった。心なしか、うっすらと涙をにじませているように見えた。

 「半澤さん……あなた、優しい人ですね。どうもありがとう」

 そう言って、静かに頭を下げた。

 やはりこの人は可愛い人だ、と改めて思った。いい人が見つかるといいのに。

 「京都に行ったらいい人を見つけてください」とうっかり言おうとしたが、振っておきながらそれは大きなお世話だ。危うく踏みとどまった。

 そのとき、わたしの立っている位置の斜め後ろのドアが開きかけた。中田さんはあわてて、「じゃ、これで」と言って足早に過ぎ去った。後姿が何となく寂しげだった。

 少し出過ぎかと思ったけれど、とにかくしこりが取れたような気がした。中田さんと私と二人だけで、短い送別会をやったわけだ。そっとしておけばいいのにと思って、相当躊躇したけれど、やっぱりやってよかったと思った。中田さん、お仕合せに。

 

堤 佑介Ⅸの2

 

 外で夕食を済ませ、帰宅したら9時半過ぎだった。

 テレビをつけると、韓国の大法院が4人の徴用工に計4億ウォンの賠償金を払うように判決を出した問題のその後を報じていた。

 韓国の反日態度にはあきれてものが言えない。

 しかしもとはといえば、毅然と対応しない日本政府が悪いと思う。3年前の日韓合意からして間違っていたのだ。

 あれでは、軍による慰安婦の強制連行があったかのように受け取られ、それに対して謝罪しているという、以前とまったく変わらない構図だ。何よりも国際社会に、そういう認識がますます定着してしまう。

 これで韓国はこれさいわいとばかりつけあがるだろうと思っていたら、案の定そうなった。聞くも不愉快なので、消してしまった。

 すでに一杯ひっかけているのだが、このままでは何か物足りない。例によって、オンザロックを作った。

 このところ、CDをかけるのが日課のようになっている。疲れを癒すため、だけではなく、何かを期待しているのだ。何か? それは決まっている。自分の心をその何かにシンクロできるステージに持っていくためだ。

 ヨーロピアンジャズトリオの『SONATA』――オランダのジャズトリオが、クラシックの名曲をいいセンスでアレンジしている。なかでもショパンの「雨だれ」が好きだ。

 

 11/2 19:44で玲子さんからメールが届いていた。

 書き出しが昔の手紙のようだった。

 しかもさっきまで静谷にいたのだという。本部での会議が午後まで延びていれば、終わった段階でメールを入れて、どこかで会うこともできたかもしれない。そう思うと、残念と思うより、彼女の言葉が急に身近に感じられて、むしろ慕わしさが増してくるようだった。

 でもそれをやったら、オフィスでの会議はできなかったわけだ。やはり早く社に戻って事をてきぱきと済ませたのがよかった。職業人としての誇りを失ったら終わりだからな。

 メールには、ハロウィーンのことが詳しく書かれていた。

 彼女の言っていることは、まったくその通りだと思った。あの空虚なバカ騒ぎは、政府の経済政策による若者の貧困化に大いに関係がある。でも彼らは、それが政治の悪に由来することを自覚していない。

 バイトテロなども同じだろう。これらの若者現象に見られるアパシーの気分が、ただ自分の置かれた個人的な環境のせいではなく、もっと大きな社会背景を持っていることに、みんなが気付くといいのだけれど、「ヘイワニッポン」では難しいだろう。

 また玲子さんは、消費増税が国民騙しである理由を訪ねていた。これにはきちんと答えないといけない。

 それと活け花の素敵な写真。『万引きファミリー』の的確な感想。

 会社のエントランスに飾る役なんて、すごく名誉なことじゃないか。しかもとても周囲の雰囲気にマッチしている。

 ハクチョウゲというのだったっけ、小さな白い花がたくさん、残り雪のように散っている。それが左にぐっと伸びて主枝を作り、中間枝というのか、中央にも立っている。右に濃い緑色をした短めのシダが三本、元のところに赤いバラがやはり三つ、これを副枝というのだろうか。

 活け花のことはよくわからないけれど、色合いといい、構成といい、とてもバランスが取れていて美しいと思った。

 胃の中に静かに沁みていくウィスキー、軽快なテンポの「雨だれ」、そして目の前に心を落ち着かせてくれるきれいにしつらえられた活け花。疲れが一気に癒されていくのを感じた。こういう芸のある人が羨ましかった。

 そういえば、半澤さんのお母さんは、お花のお師匠さんだと書いてあった。時間さえあったら、習ってみたい。

 そう、そんな時間が必要なのだ。というより、作らなくてはならない。みんな暇がない、暇がないというけれど、忙しい時ほど暇を作りたいという欲求が高まり、そして事実、その欲求によって暇が作られるものなのだ。

 

 私は玲子さんのメールを読んで、ある種の心地よい幻惑の中にいた。財政破綻のウソなどを、いまメールで説明する気になどなれなかった。それをするなら、口でゆっくり説明した方がいい。

 しかしそんなことより、彼女にじかに会って話したいという気持ちが強くこみあげてきた。政治経済の話なんかじゃなく、モネについて、佐伯祐三について、バッハやショパンについて、是吉監督の作品について、悠木果林について、フェルメールについて!

 まずは日程をなんとか調整して、喫茶店で会うことにしよう。もうかなりの情報をお互いに交換はしたけれど、やはり直接会ってみなければ、本当の人となりはわからない。そう考えて、メールで質問に答えることはせずに、ダイレクトに誘いのメールを書いた。

 

 《半澤玲子様

  メール、ありがとうございます。先ほど、帰宅してから開きました。お花の写真、素敵

ですね! こんな作品を作れる半澤さんにあこがれてしまいます。

  じつは今日、午前中、私も仕事で静谷にいたんですよ。残念ながらすれ違いでしたけれど。でも、また少しお近づきになれたような気がして、うれしくなりました。

 

  ハローウィーンの騒ぎのこと、まったくおっしゃる通りと思います。若者たちのこの空気は、明らかにいまの政治のまずさとつながっているでしょう。

  消費増税が、政府の国民騙しである理由についてお尋ねですが、これはなかなか簡単には説明できません。私も、この前友人から聞いた話を自分の中で咀嚼し直して、もう少し勉強する必要がありそうです。時期が熟したらお話ししましょう。

 

  マティス、佐伯祐三、フェルメール、どれも好きです。私の勝手な思い込みかもしれませんが、美術についても気が合いそうです。美しいものへ傾倒されるお気持ちと、お花を活ける趣味とがつながっていらっしゃるのでしょうね。私のほうはあこがればかりで、なにもできませんが。

 

  でも、そのこととは別に、一度、お会いできないでしょうか。やはりこうして情報交換をしているだけでは、お互いに誤解の余地を残すかもしれませんので、じかに顔を合わせて明確な印象をつかんだ方がいいように思います。それでうまく行かないようでしたら、その時点でまた考えましょう。

 性急なお誘いをして申し訳ありません。

 

 ただ、私は普通のサラリーマンのように、土日を休めませんので、スケジュール調整が難しいですね。勝手なことを申し上げて恐縮ですが、もし水曜か第三木曜の夜7時以降、ご都合がよろしい日がありましたら、一時間でも二時間でも会っていただけるととてもうれしく存じます。あるいは、土日でも、こちらが比較的早く仕事を終えられれば、お会いすることはできます。

 お会いすることに躊躇がなければ、その旨、お知らせいただければ幸いです。

 

 時計を見ると10時40分。風呂に入ることにした。湧いてからゆっくり入って、出てきたのが11時25分。

 メールを見ると11時13分に、早くも返事が入っていた。

 

 《堤 佑介さま

 こんばんは。早速のお返事、ありがとうございます。

 そうだったんですね。わたしもうれしくなりました。

 お会いできていれば、お話が聞けましたのに。

 ひとりでの食事は、慣れてはいるものの、やはり寂しいものがあります。

 

 お会いする件、同意いたします。

 近いところで、再来週の14日(水)か、15日(木)の7時ではいかがでしょうか。少したまっている仕事がありますので、それまでに頑張って、一段落させておきます。

 わたしは深草の近くに住んでおりますので、場所は都心近辺であればどこでもけっこうです。お任せいたしますので、どうぞご指定下さいませ。

 

 申し遅れましたが、わたしのつたない活け花をあんなにほめていただきまして、まことに光栄です。たいへん勇気を与えていただきました。この次も力を込めて挑戦してみようと思います。

 

 明日はお休みですので、今夜はまだ起きております。堤さんのほうでお差し支えなければ、お返事いただければ幸いです。

 

 やった。向こうから乗り気な様子がはっきりわかる。小躍りする気分で、すぐに返事を書く。

 

 《半澤玲子様

 さっそく申し出を受け入れていただき、ありがとうございます。

 それでは、14日の7時に、三谷駅のカトレ2階、カフェ・グラナダでお待ちします。

 予約は私のほうで入れておきます。

 お会いできるのを楽しみにしております。

 それではどうぞゆっくりお休みください。明日はお寝坊ができますね(笑)

 

 《堤 佑介さま

 承知いたしました。

 わたしも、心待ちにしております。

 堤さんも、明日のお仕事に備えて、どうぞゆっくりお休みくださいませ♡

 

 さあ、どういうことになるのだろうか。たとえうまく行かなくても、それはそれ、しかたのないことだ。俺は若くないんだから、たとえ振られても、そんなに傷つくこともあるまい、と、自分に言いきかせながら、ベッドに入った。でも心は何やら中学生か高校生のような気分になっていて、なかなか寝付かれなかった。

 ほんとにこんなことで何かが始まるのだろうか。亜弥がどこかで今の私を覗いていたら、やっぱりあのクスクス笑いをこらえようとするだろうか……。

 

堤 佑介Ⅸの1

 

                                      2018年11月2日(金)

 

 朝が急に冷えるようになった。薄手のコートを着て、マンションの玄関を出ると、向かいのビルの壁を、角度の鋭くなった光が照らし、路面に長い影を作っていた。私はやや物憂げな気分で、駅に向かった。

 半澤玲子さんという女性がいま私の生活圏に入り込みかけている。そのことが心理的な救いだった。

 例の中国人・陳秀洪さんは、私が篠原と会った翌日、木曜の夜に契約を成立させ、28日の日曜日にはもう引っ越してきた。午後になってゲイカップルの引っ越し車も到着した。かちあってしまったのだ。

 そういえば、こちらも契約までがスピーディだった。細かいチェックを要求しない分だけ早かったのかもしれない。

しばらくして、ゲイカップルのひとり、笹森さんから苦情電話がはいった。陳さんの車が前を塞いでいるので、その奥にある笹森さんの部屋の近くまで車を寄せられないという。

 少し動かしてくれれば通れないことはないと思うんで、何とかなりませんか、と電話に出たパート社員が応じると、陳さんのほうが積み下ろしでてんやわんやしているので、しばらく動かせないとのこと。そんなはずはないと思ってさらに事情を聞くと、何でも表には本人以外に若い男が一人いるが、二人で荷物運びに熱中していて、てんで取り合ってくれない。これを下ろしてしまうまで待ってほしいと言い張るのだという。

 引っ越し会社の人ならすぐ心得て動かしてくれるはずだ。さらに聞いてみると、陳さんの会社の車らしく、男も彼の部下のようで、陳さんが家の中に入ってしまうと、言葉が通じない。奥さんは中の整理と子どもの世話で忙しい。

 そういえば、彼はリサイクルの輸出を扱っている会社だったな、と思い出した。それなら大きなトラックがあるわけだ。

 笹森さんのほうは到着が遅れたので、日が短くなってきたこの頃のこと、早く積み下ろしにかからないと、日が暮れてしまうので焦っている。

 つまりは陳さんは、引っ越し代を節約して自分と仲間だけで済ませようというのだろう。いまどき、と思ったが、そこが文化の違いかもしれない。

 しかしそんなのんきなことは言っていられないので、たまたま手の空いていた岡田に現地に行ってもらうことにした。彼ならうまく処理してくれるだろう。

 岡田はかなり経ってから戻ってきた。どうだったと聞くと、「いやいや、何とか」と答えて経緯を説明した。

 「陳さんは夢中になってるので、ご苦労さん、少し休んだ方がいいですよと声掛けして、買ってきたポラリスウェット三本を差し出しました。私もちょっと荷物運びを手伝ったんですよ。それで、少しコミュニケーションの時間が取れました。一緒に運びながら『後ろも引っ越しで、日が暮れるのが早いから、何とか動かしてくれないか』ってていねいに談判したら、ようやく納得して、若い男に命じてくれました。あそこの取り付け道路もあんまり広くないですから、切り返しやバックで相当苦労してました」

 「さすがは岡田君。ポラリスウェット買ってくなんて、よく気づいたね。それで笹森さんのほうは」

 「ええ。引っ越しトラックの後から二人乗用車で入ってきて、憮然としてにらみつけてましたね。。あとで立ち話したら、こっちに連絡する前に車から降りて直談判したって言ってました。『それでも言うこと聞かないんですよ』ってね。腕なんか筋骨隆々で、もしかしたら一戦交えてたかもしれません。なかなか不気味な光景でした」

 岡田が面白そうに話すので、私は思わず笑ってしまったが、でも、幸先が悪い。これからが思いやられるかもしれない。

 「それで筋肉オネエのほうは片付きそうなの」」

 「ええ、まあ引っ越し屋のほうは夜までかかってもやるでしょう」

 「いやあ、そりゃ、岡田君こそご苦労さん。今日は一杯おごるよ」

 「ありがとうございます」

 

 それから昨日の木曜日に若夫婦が引っ越してきた。これで残るは、真ん中の老夫婦だけとなった。こちらはのんびりしていて、今月下旬くらいになりそうだという。トラブルが絡まり合わなければいいが。

 

 そして今日は、以前、静谷本部で話し合った「下町コンセプト」の原案がまとまったので、もう一度会議を開きたいからと、本部に呼び出された。

 本部では、ほぼこの前と同じメンバーが集まった。一人だけ、あの時の若い女性が来ていなかった。顔見知りの二人の女性が並んで座っていた。まだ開始時間まで間があったので、彼女たちの隣に腰を下ろして、試しに聞いてみた。

 「この前いらした若い女性は今日はお休み?」

 「ああ、原さんね。急にやめちゃったんですよ」

 「え? そうなんですか」

 これ以上詳しく聞くわけにいかない。関心を抱いているみたいに、ヘンに疑われるかもしれないからだ。すると二人が小声で話し合うのが聞こえた。

 「彼女、ちょっと根性ないわよね」

 「あの程度でパワハラなんてね。若い人はこれだから困る」

 「わたしたちの時なんか、あんなのざらだったわよ」

 「そこが困るのよね。だって私たちはしごかれるのが当たり前だったでしょう。そいでこっちが若い人を指導しなくちゃならない立場になったら、同じことを言ったりしたりすると、パワハラだって騒がれるんだものね」

 「ほんと、ほんと。どうやって対応していいか、戸惑っちゃうわね」

 なるほど、そういうことがあるのか、と、私は聞いていて、とても参考になった。

 この人たちだって、まだ30代前半くらいだろう。こっちから見れば見分けがつかないくらい若く見える。いつか亜弥が言っていた、25と18の違いのことを思い出した。

 所長としての業務に追われて、なかなか若い人たちの心理的な扱い方にまで気が回らない。ウチで言えば、八木沢と川越、谷内と本田の関係みたいなものか。彼らの顔を思い浮かべながら、そういうことって彼らの間にもあるんだろうなあと思った。

 それはそうだ。上から目線で、ウチは和気藹藹でやっておりますなんて自惚れてたら、思わぬ内部トラブルに出くわすかもしれない。余裕があったら、これから少し気をつけてみようと自戒の念を新たにした。

 それにしてもパワハラ――もちろん、あの某大学アメフト部事件のように、なかには許しがたいパワハラが、この企業の世界にはごろごろあるに違いない。あんなのは氷山の一角で、たまたま体育会系だったのでその体質が露呈したけれど、じつは普通の企業でも陰湿なかたちで日々行われているのだろう。

 それはそれで告発されてしかるべきだ。しかしいま、この女性たちが話しているような問題は、どうしたらいいのだろう。わずか十年足らずの年齢差で、立場が逆転し、上司のほうが、新人にどう対応していいかわからなくなっているという問題。

 仕事を覚えてもらうためには、ある程度ビシビシ鍛えなくてはならない。それでなければ戦力にならない。時にはぼんやり者に対して荒っぽい叱責も必要なことがある。でも、そうしようと思うと、「パワハラ」という言葉があるために、その言葉に怯えなくてはならない。

 男性の「セクハラ」レッテル恐怖症と同じように、女性の間にも「パワハラ」レッテル恐怖症があるのか。

 これもまた、繊細な個人主義化がいっそう進んだ一つの表れだろう。たぶんその背景には、不況が関係しているだろうし、また、コミュニケーション能力が過剰なほど要求される第三次産業化も関係しているに違いない。だとすると、なかなか解決は難しいな。

 と、ここまで考えた時、会議の開始時刻になった。

 社長以下、役員も入室した。このプロジェクトを重視している証拠だ。デフレ不況の折から、相当、エネルギーを注ぐ気なのかもしれない。

 「下町コンセプト」の概要と、開発重点地域について書かれた資料が配られた。ウチの営業所は、本部以外に、高野、深草、横浜、それに、けやきが丘の四か所。それぞれの営業所に比較的近い地域が開発候補地として選ばれていた。

 本部は、静谷区内と本宿区内の二か所が候補地、高野は高野区内、深草は墨東区内、横浜は中南区内、そしてけやきが丘は多良川を越して都内の大畑区内。それぞれ町レベルまで特定されていた。ウチが一番遠くてワリを食ってる感じだな。

 もっともこれはとりあえず選定されたモデル地区で、プロジェクトがうまく進めば、これから先も他の地区の開発に乗り出していくということだった。

 これらの地区を選定した基準とその評価が一覧表にしてあった。年齢構成、家族構成とくに単身者の割合、空室率(戸建て、賃貸マンション、アパート別)、図書館などの公共機関、医療機関、寺社、下町商店街の有無、町全体の雰囲気、自治会組織。商店街や街並みについては、何枚もの写真が添えられている。

 いくつかの地域を調べ、比較検討した結果、これらの地区を選定した、と事業開発部の主任が説明した。

 今回分譲マンションを対象に入れなかったのは、管理会社や管理組合が統率していて、たとえ空室があったとしても、そこを新たな開発の対象にすることには困難が伴うからだという。

 大畑区といえば私の住んでいるところだ。ただし、指定されている町は、薄田といって、だいぶ海寄りのほうだった。あのあたりは少しごみごみした地域が多い。しかもけやきが丘のオフィスからは、さらに遠くなる。二回乗り換えが必要だ。

 基本的な構想は、これらの地区にある戸建て空き家を買い取り、リフォームした上で売りに出すか賃貸する。また、空室率の高いアパートも場合によっては買い取り、リフォームして賃貸する。土地の場合は、借りるか買い取ったうえでアパートかシェアハウスを建設し、管理運営する。オーナーに売る気がない場合は、管理業務を引き受けたり、オーナーに積極的に働きかけて、入室率を高める活動をする。図書館や医療機関へのパイプ作りなども手掛ける。

 あとは、適切な物件の探索と画定の仕事が残っていた。

 疑問に思ったことが二つあった。該当地域の平均所得水準がどれくらいかという点と、予算をどれくらい見込んでいるかという点である。

 初めの質問は私がしたが、これは指定地区単位では、残念ながらまだ正確にはつかんでいないとのことだった。

 二番目の質問は、別の営業所の所長がした。最も気にかかる点である。

 事業開発部長が、プロジェクトの進行具合にもよるが、初めから十数億は見込んでいると答えた。どこかから、ほう、とため息が漏れた。

 別の質問があった。「下町コンセプト」を本当に中身のあるものとするには、単にそれぞれの地区で、単発の開発を進めるだけではなく、行政区の都市計画課との間に何らかのパイプを作る必要があるのではないか。

 これは、ウチ程度の事業規模の会社では、なかなか耳の痛い質問である。賄賂を使うわけにはいかないし、特にコネがあるとも思えない。

 事業開発部長は、それはたしかに難しい課題だが、すでに同時並行的に考えてはいて、近々、それぞれの地区が属する行政区の都市計画課に、本部から別動隊を送り込む予定だと答えた。

 「いいご質問ですね。行政機関との間に、何らかの有機的な連携ができると、こちらの事業も発展させやすくなります。しかしとりあえず、指定地区の状況を我々自身が把握する必要があります。今回の試みは、その意味もあるんです」

 最後に副社長が立って、各営業所へは、今月半ばをめどに、本部から頻繁に特別スタッフを派遣して、詳しい調査、実地交渉にあたらせるので、その節はよろしく協力をお願いすると発言した。

 これはなかなかたいへんである。業務が増えるうえに、会議に時間を割かれることになろう。私自身も含めて、うちのスタッフを現地に派遣する必要も出てくるだろう。

 解散した後、人事課に赴いて、けやきが丘営業所のスタッフの増員を願い出た。これは今までも繰り返し行ってきたのだが、今回は、さらにその必要性が増したのである。

 想像はできたが、人事課はあまりいい顔をしなかった。「わかりました。追ってご連絡いたします」と、そっけない返事。おそらくうまく行っても、派遣社員一人がいいところだろう。役割配分から考え直さなくてはならない。

 朝の物憂げな気分は、午後になって、ちらほら舞い落ちて来る道端の落葉のように、少しずつ増してきたような気がする。「下町コンセプト」――机上で空想している間は、いいアイデアだと思っていたが、いざ自分の仕事として現実化してくると、重荷になってのしかかってくる。

 まあしかし、そんなものだろう。いままでいつもそうだったように。案ずるより産むは易しと決め込んで、しばしはそんな負担感は忘れることにしよう。

 

 昼飯の後、本屋に寄って、鶴見未菜という国際ジャーナリストの評判の本『売られゆく日本』を買う。目次を見ただけで、これはたいへんなことが書いてあると直感した。電車の中で始めの水道民営化の部分をざっと読む。

 朝尾財務大臣がアメリカ講演で「日本のすべての水道を民営化します」と宣言したことは知っていた。こいつは何てバカなことを言っているのだと当時思ったが、それがいかに国民を愚弄したものであるかについては、それほど意識していなかった。

 ところがこの本を少し読み進めるうちに、怒りが込み上げてきた。

 水道民営化は、不動産取得と同じで、例によって外資規制がない。しかも施設の所有者は自治体で、参入企業は運営だけやればよいことになっている。だから災害による断水や修理に関して、企業が責任を負わなくてもよいそうだ。

 しかもほかの商品と違って、水には消費者の選択権がない。したがって、国際的な水メジャーが運営権を買い取れば、競争が成立せず、水道料金は高騰する。

 現にパリ、ベルリン、アトランタなど、民営化の失敗に懲りて、たいへんなコストを覚悟しながら再公営化に踏み切った都市が、200を超えるそうだ。撤退した水メジャーは、免疫のない、うぶな日本をこれ幸いとばかり狙っている。その動きを政府はなんと自ら歓迎しようというのである。

 そこまで読んだとき、また、けやきが丘駅を乗り過ごしそうになった。

 この前、篠原と会った後にも感じたが、こんなに政治や経済の問題に入れ込んでしまっては、肝心の仕事がおろそかになってしまう。しょせん、政治や経済の話は、いま自分の目の前に迫っているのではない観念の世界の話だ。

 私にとってはどちらも大事だが、さしあたり私に何ができるわけでもない。足元を忘れてはいけない。それにしても水道は日々の生活に直結してるからなあ……。

 改札をくぐって社にまで歩く道すがら、考えた。

 ともかく今日の会議の結果をみんなに報告したあと、どういうふうに今月半ば以降の職務配分を決めていけばいいかを話し合わなくてはならない。本部からのスタッフが来てからでは遅いのだ。もちろん実際にはどうなるか未知の部分が多いが、アウトラインだけでも合意しておく必要がある。その方針をまず私なりに設計し、みんなが所に戻ってから、少し残ってもらって説明する。それが私の今日の午後の仕事。

 

 欠けたメンバーもあったが、大半は退社時刻前に戻っていたので、「悪いが大事な話なので残ってほしい」と伝えて、今日の会議の結果とこれからの対応方針について説明した。

 考えられる仕事。

 

 ①本部から出向してくる社員を温かく迎えて、円滑に仕事が進むようにすること。

 ②モデル地区に選ばれた大畑区の町の状況を事前になるべく正確に把握すること。

 ③派遣された社員との協同体制を作ること。

 ④その主な担当者をだれにするか。

 ⑤他の仕事に支障をきたさないように、タイムスケジュールをそのつどうまく作ること。

 ⑥プロジェクトが始まってから、定期的に進捗状況をチェックし、今後の見通しについてきちんと判断できるようにすること。

 

 6項目のうち、①については、山下から、出向社員の頻度と人数について質問があった。それは今日の段階では未定だった。追って連絡が来るだろうが、こちらからも聞いてみることにすると答えておいた。

 ②については、岡田から、これは出向社員が来る前から、こちらで事前にスタートしておく必要があるのではないかという意見が出た。できることならそれが望ましいと答えた。

 ④と⑤と⑥は連動しているので、私が、社員の諸事情を配慮しながら、役割分担のたたき台を示した。ほとんど異議は出なかった。しかし、これも始まってみなくてはわからないので、臨機応変に対応しようということになった。

 八木沢が手を挙げた。

 「持ち家を売って、賃貸に代えて、そこにそのまま元のオーナーが住み続けるっていう手法がありますよね。あれなんかも、このプロジェクトでは考えられますか」

 「いいこと言ってくれたね。それはもちろんありです。あれって、けっこうメリットあるんだよね」

 川越が聞いた。

 「どんなメリットですか」

 岡田が説明する。

 「つまりさ、いちばんのメリットは、老後の財産が現金で残ること、それから、もしローンが残っていれば払い切れる。あと、引っ越ししなくていいでしょ。老人にとって引っ越しはたいへんだからね。もう一つは不動産だと遺産相続問題でもつれやすいけど、現金ならわかりやすい」

 「なるほど。よくわかりました」

 私が付け足した。

 「これからは、年取ったら賃貸のほうにシフトしていくだろうね」

 みんなの表情をうかがいながら、少しずつ話を進めていったのだが、だれもあまりうれしそうではなかった。それはそうに違いない。しかしここはわたしを信頼して、頑張ってもらわなければ困る。

 「たいへんになって申し訳ないが、それぞれうまく繰り合わせてしっかりやって行こう」

 そのほかにも、オフィスから該当地域までかなり距離があることなども交え、これから予想される苦労に対して、ねぎらいの言葉をボソボソとしゃべった。それでも谷内や本田、川越など、若手陣は、目を見開いて意欲を示してくれた。8時を少し回っていた。

 

半澤玲子Ⅸ

                                      2018年11月2日(金)

 

 今朝は早く目が覚めた。寒かった。温度計を見ると13度ちょっと。外はもっと寒いだろう。うっかりポトスとポインセチアをベランダに出したまま、昨日しまうのを忘れていた。もうお部屋に入れてあげなくては。

 窓を開けると、冷気がさっと入ってきた。晩秋の気配のなかに一瞬にして身が包まれる。

 この季節が好き。身が引き締まる思いがするし、木の葉がだんだん色づいてゆく。空気は適度に乾き、青空が広がる日も多い。今日も快晴が続くらしい。

武蔵野はもう紅葉が見られるかしら。母は元気にやっているかしら。ハナは?

 それに……。

 先週の木曜の朝、スマホを開けてみたら、「ゆう」さんから返事が来ていた。とても誠実でまじめそう。

 この人にメッセージを送ったのは、岩倉さんとの件とその後の失敗があったので、半ば自分をヴァーチャルな次元で救い出そうと思ったからだ。ところが思いがけず、返ってきた文面は、好意的で真剣に答えている雰囲気がにじみ出ていた。

 うれしかったので、先週の土曜日にちょっとがんばって返信した。

 

 《ご親切なお返事、まことにありがとうございます。

  わたしのほうで強引にご質問したのですから、堅苦しい印象を持ったなんてことはまったくありません。

  どちらかというと、政治や経済に興味をお持ちなのですね。私はそのへんは意識が低くて、あまり考えてこなかったのですが、これから「ゆう」さんに教えていただければ、と思っています。

  ただ、お話の中にLGBT差別と書かれてあったので思い出したのですが、ひと月ほど前にテレビで、ある月刊雑誌(名前を忘れました)が、LGBTについて書かれた論文のために休刊になったというニュースを見ました。

  わたしは、この雑誌を読んだことがありませんでしたし、どういう理由で休刊になったのかもわかりません。でも、こういう人たちが何かと話題になったりする背景には何があるのかという点については、関心を惹かれます。

  それから、不景気の原因についての「目からウロコ」というのにも、とても興味があります。政府は、景気は回復しているなんて言ってますけれど、そんな実感はありませんものね。こんな時に消費税を10%に上げたりして大丈夫なのかなと、日頃から心配しています。

 

  趣味の欄に活け花と書きましたけれど、いまはあまり真面目にやっていません。でもこのごろ少し本気でやり直そうかとも考えています。じつは、わたしの母がお花の師匠をしているので、その関係で、若い頃の見よう見まねで少し心得がある程度です。流儀は大原流です。

  国内旅行も美術館巡りも、最近はさっぱりです。プロフィールの趣味のコーナーって、あることないこと書き並べるところがございますでしょう。私も同じです

  でも昔行ったところで想い出深いところと言えば、夏の夕暮れ時の奥入瀬渓流、ランプの宿・青荷温泉、雪の越中五箇山合掌造り、京都天竜寺の紅葉、といったところでしょうか。

  画家で好きなのは、モネ、マティス、ミュシャ、佐伯祐三、日本画の加山又造……、いま東京で展覧会が開かれているフェルメールも大好きなのですが、土日は混むでしょうし、予約制なので、なかなか行く機会がつかめません。

 

  お話についていけるかどうか自信がありませんが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 だいぶメッセージを書くことそのものに慣れてきた。

しかし岩倉さんとのことにケリをつけた(と自分で決めているだけだけど)後、まだいくらも日にちが経っていないのに、もう新しいつながりを求めている自分に対して、軽薄さを感じないではなかった。

 でも、いいんだ。人の気分なんて5分で変わる、そう言い聞かせてすらすらとキーボードを叩いた。人生は乗りだってね。

 じきに返事が来た。

 自分の政治的な考えは、なかなか人にわかってもらえないので、あまり話さないようにしていること、それでもあなたにはもったいぶるのが嫌なので、簡単に話すこと、LGBT騒ぎは、実際に差別があるのかどうかよりも、野党が政治課題のために利用している面が強いこと、消費税増税の必要は全くないのに、政府が国民を騙していること、生け花についてもっと詳しく知りたいこと、旅行や美術の話を聞いて、あなたの趣味にとても素敵なものを感じたこと、などが書かれていた。

 そして最後に、Fureaiサイトのメッセージ欄は記入欄が狭いため、長く書きにくいので、もし差し支えなければメール交換に切り替えないか、ついては自分のアドレスはこれこれである、と付け加えてあった。堤佑介という本名とともに。

 わたしはこの提案に賛成し、自分のアドレスを教え、本名を名乗った。映画の話もした。先ごろ亡くなった悠木果林を惜しむ話も。折り返しメールが来て、自分も悠木果林が大好きで、『万引きファミリー』での演技に心から感服しており、本当に惜しい女優を亡くしたと嘆いていた。それが、おとといだった。

 先方がわたしにどんな感じを抱いているのか、しかとはわからない。でも少なくともわたし自身は、今までのところ、とても呼吸が合うのを感じていた。それで、ちょっと浮き浮きしている。このままいくと、近いうちに会うことになりそうだ。

 この呼吸の合い方は、岩倉さんとメッセージ交換していた時のそれとは違っていた。あの時は、しいて言えば、紳士淑女のよそ行きムード、それに対して、今回は、何と言ったらいいのか、懐かしい人に巡り合ったような感じなのだ。

 今日まで、岩倉さんは何も言ってこなかった。わたしのほうが誘うと言ってから10日以上たっているのに、どうして誘ってくれないのか問い合わせてこない。やっぱり向こうも実際に会ってみて、わたしへの関心を薄くしたか、それとも、じっと待っているのか。

 

 出社時刻になった。夜になるともっと冷えることを考えて、クローゼットからお気に入りのベージュのハーフコートを引っ張り出した。

 出社すると、中田さんが12日付で京都支社に転勤になることを知らされた。彼自身から聞いたのではなく、さくらちゃんに教えられたのだ。

 昨日、わたしが外出した折に、課に残っている人たちに伝えたのだという。中田さんはわたしには黙っていたことになる。

 本人に聞こえないように、さくらちゃんと小声でやり取りした。

 「みんなを集めて?」

 「いいえ。課長自身がデスクを回って、それとなく知らせてました」

 「みんな、びっくりしてたでしょう」

 「ええ。わたしもびっくりしました」

 「優しくて人望が厚かったものね。残念ね。新しい人は決まってるの」

 「さあ。決まってはいるんでしょうけど、正式には発表されてないです」

 京都での役職は経理部長ということだったので、支社とはいえ、一応は栄典ということになるのだろう。

 複雑な心境になった。

 すぐ思ったのは、わたしの失敗の責任を取らされたのではないかという懸念だった。さくらちゃんに聞いてみると、あれはその日のうちに修復したのだから、それはないだろうということだった。わたしにも特にお咎めはなかったのだし。

 「上からの単純な人事異動だと思いますよ。独身ですし」

 次に思ったのは、もしかして、わたしと同じフロアにいることが気づまりになってきて、自己申告したのではないかということだった。この疑いは、さくらちゃんには言えない。

 しかしよく考えると、何かもっともらしい理由をつけたにしても、ウチの社で自己申告がそう簡単に受け入れられる可能性は低い。やはりさくらちゃんの言うのが正しいんだろう。

 身近に起きたことを、あまり自分に直接関係があることとして結びつけてはいけないと反省した。

 そういえば昔、別れた夫から、酔った勢いで「女はよ、何でもてめえ中心に地球が回ってるって思ってるから、始末に負えねえよ」と言われたことがあった。その時はものすごくムカついて、人のこと言えるのか、自分はどうなんだと反発した。

 けれど、年を経ていろいろ見てきて、いま思うと、たしかに女は、周りのことを自分に引きつけて解釈しようとする傾向が強い。男のジコチュウとはまた違った意味でそう言えそうだ。だから女どうしの関係ってドロドロともつれがちなんだ。

 でもわたしにしてみれば、どうしても中田さんと自分とのかかわりにこだわってしまう。そして、ほっとする気持ちと、何となく中田さんが可哀相に思える気持ちとがないまぜになってやってきた。一抹の心のしこりが残った。

 今日からちょうど一週間後に経理の仲間で送別会をやることになったそうだ。その時に、機会をとらえて私の懸念を確かめてみよう。

 

今日はオフィスの一日が何となく長く感じられた。中田さんとは席が間近なわけではないし、直接顔を突き合わせる角度ではない。それでもこのフロアはパーティションで仕切られてはいないので、顔をあげてそちらを向けば、視線が合ってしまう。

 だから、今日はなるべく下を向いて、視線を合わせないようにしていた。パソコン上の帳簿とずっとにらめっこ。

 でも午後3時ごろになって中田さんは外出した。わたしは思わず両腕を挙げて大きく伸びをした。

 あくびが出たのであわてて口を手で押さえた。

 隣の藤堂さんが笑いながら「お疲れ?」と聞いた。わたしより少し前の入社だ。有能で、課長補佐的な役割をこなしている。

 「ううん、それほどでも。今朝早く目が覚めちゃったもんだから」

 「今朝、寒かったわよね。うち、戸建てだから冷えるのよ。半澤さんのところはマンション?」

 「そう。8階だから、冬はけっこうあったかいわね。でも今朝、窓開けたら寒かったー」

 「こないだまであんなに暑かったのに、秋って短いわね」

 「ほんとにね」

 藤堂さんは、結婚してお子さんもいる。たしかもう高校生くらいじゃなかったかしら。だから、彼女とは仲良くしてはいるけど、どうも共通の話題がそんなにないのだ。ママ友どうしだったら、きっと教育の話で盛り上がるんだろう。

 わたしは、そのことを羨ましいとは思わなかった。ただ、どうしても会話が途切れてしまう。向こうも高齢独身女にあえて話題を振ろうとは思わないだろうし、こっちの身上に探りを入れようとすることは避けるだろう。

 そんなわけで、それからしばらく、お互い仕事に没頭した。

 ようやく退社時刻が近づいてふと窓の外に目を向けてみたら、もう真っ暗だった。街の灯が早くも煌めいていて、人々をいざなっているようだ。

 朝、晩秋の気配を身に浴びたその日、今度は、日が急に短くなったことを思い知らされた。

それはそうだ。もう11月。冬至まで数えても二か月ない。

 ロッカーからハーフコートを取り出してはおり、一階に降りた。今日はひとりで飲みにでも行こうかしら。秋の夜寒のなかを、女ひとり、何か思いを秘めながら街路を歩き、とあるカフェバーのドアをくぐった、なあんてね。

 ふとエリを誘ってみようかと思ったが、もうちょっと我慢した方がいいような気がした。この前、告白されてから、まだ3週間も経っていない。どう進展しているか、何らかの決着がついているか……。

 仮についているにしても、エリ自身が、ある落ち着いた気分になってからの方がいいだろう。わたしもそういうエリと向き合いたかった。それにはもう少し時間が必要な気がした。

 

 会社から二駅ほどなので、静谷に出て、昔何度か行ったことのある宮越坂のカフェレストランに行くことにした。ちょっと引っ込んだところにあって、フランスの家庭料理を食べさせてくれるのだ。電話したら、席を取っておいてくれるという。

 静谷駅を出て、いつもの恐ろしい喧騒をかいくぐりながら信号を渡り、坂を昇る。静谷とはまたなんとその実際と似合わない町の名だろう。でも名がついたころは、きっとそれにふさわしい地域だったに違いない。

 そういえば、つい一昨日、ここで例のハロウィーンのバカ騒ぎがあったのだ。軽トラックがひっくり返されて警察沙汰になったそうだ。いつごろからあんなことが始まったのだろう。

 ここ二、三年、テレビで見ていると、何をするでもない若者男女がぞろぞろぞろぞろと、身動きも取れないくらいの至近距離で、多くはヘンな仮装をしながら歩いている。その光景は、何というか、とても虚無的なイメージだ。

 昼間ブラック企業でしごかれて、憂さ晴らしに、ともかく「ハロウィーン」という名目を頼って集まってくるのだろうか。

 別に西洋のお祭りに便乗することそのものに抵抗感はない。クリスマスだって同じだから。また仮装して、その上でカーニバルみたいに何かイベントをやるならわかる。

 でも見ていると、彼らは何にもやる気配がない。というか、特定の主催団体があるわけじゃないから、それはできない相談だ。お金だってほとんどないんだろう。

 この目的もなく何のまとまりもない若者群衆は、はっきり言って気持ちが悪い。ヨーロッパに押し寄せた難民の群れのようだ。

 痴漢もすごく多いのだという。その点でも難民に似ている。無秩序に大都会のど真ん中に放り出された無気力で孤独で寄る辺ない若者たち。

 一時の気晴らしといえばそれまでだけれど、わたしの若い頃にはこんな現象はなかったんだから、どうしても、いまの社会全体のどんよりした雰囲気を象徴しているような気がしてならない。「社会生活難民」とでも名付けたくなった。

 そして今年、とうとうミニ暴動みたいなことになってしまった。当然だと思う。

 

 お店に着いて、赤ワインとポトフを注文した。やっと人心地がついた。

 運ばれてきたお酒と食事に口をつけながら、あのバカ騒ぎのことがまだ気にかかっていた。

 政府は雇用改善を自慢しているけれど、本当は、その中身が問題じゃないのかしら。ブラック企業に雇われて低賃金でこき使われていたり、パートやアルバイトや派遣ばっかりだったら、実際には生活は悪化してることになる。

 多くの若者がそんな現状に置かれていて、希望をなくしている? だから、あんな無気力に見える集まり方をしてくる?

 いままでこんなこと、ほとんど考えたことがなかったけれど、なんでこのわたしが柄にもなく考えるようになったのかしら。そう思ったら、ハタとあることが頭に浮かんだ。

 もしかして、堤さんの影響かな。

 そうだ、きっとそうだ。

 いい年をして、頬がほてってくるのを感じた。いえいえこれはワインとあったかいお料理のせいよ、と自分に言い訳してみたものの、何となく周りのお客さんを意識してしまった。

 そういえば、一昨日の彼からのメールにまだ返事していなかった。

 堤さんというまだ見ぬひとりの男性へのわたしのいまの思いを、なるべく忠実に伝えたいという気持ちと、いま考えていたことについて彼がどんな答えを用意しているかを知りたいという気持ちとが重なった。

 大きな玉ねぎをそのまま口に入れてほおばり、濃厚なスープをすすりながらスマホを取り出した。

 この前のメールを見ると、消費税の増税は、必要がないのに、政府が国民を騙しているのだと書いてあった。どう騙されているのか知りたかったし、このことといま考えていたこととは関係があるように思った。

 

 《堤 佑介さま

 メール、ありがとうございます。ほめていただいて恐縮です。

 いま宮越坂のレストランで一人食事しながらこれを書いています。

 ついさっき、静谷駅からここまで歩いてきたのですが、ほんの二日前、ハル公前広場で例のハロウィーン騒ぎがあったことを思い出しました。それで、あの若者たちの騒ぎの意味は何なんだろうなんて、考えてしまいました。

 何かお祭りのようなイベントをするならわかるのですが、そうでもなくただ仮装したりしなかったりする男女が群れてぞろぞろと歩く。みんなが、あそこへ行けば何かがあるんじゃないかって頼りない期待を抱いてやってきて、でも何にもないんですよね。

 こんな言い方していいのかどうかわかりませんが、あれって一種の難民じゃないかって思いました。非正規で雇われていて、安月給でこき使われていたり、転職を繰り返していたり、ニートだったりする若者たちが、さしたる目的もなくただ賑わいを求めて集まってくる。なんだか空しいなあ、と、そんな気がしてなりません。

 これはやはり、不景気の世相を反映しているのでしょうか。

 この前の前のメールで、堤さんは、消費増税の必要などないのに政府が国民を騙しているとおっしゃっていましたね。

 あれはどういうことなのか、知りたくなりました。うまく自分の気持ちを説明できないのですが、若者たちがああいう目的のない行動に走る空気と、堤さんのおっしゃるいまの政府の「間違った政策」との間には、マイナスのつながりがあるのではないかという気がして仕方ありません。

 お忙しい中、申し訳ありませんが、もしわたしの疑問にお答えいただけるお気持ちになりましたら、お返事、よろしくお願いいたします。けっして急ぎませんので。

 

 暗くて難しいい話題になってしまいました。

 お仕事のほうはいかがですか。

 いろいろとたいへんなこととお察しいたします。

 わたしのほうは相変わらずです。

 少し前から、社員におだてられて、エントランスに花を活ける役を務めています。3日前、会社のエントランスの花を新しく活けてみました。じつは、その前に活けた花に手を引っかけて、花瓶を割ってしまったのです! お恥ずかしい。

 その償いに、自分で水盤を買ってきました。

 大原流は、ふつう、水盤と剣山を使いますので、これからは、この水盤で腕を見せることになります。スタイルには大きく分けて、直立型と傾斜型があるのですが(ほかにもいろいろありますが)、わたしはどちらかといえば傾斜型のほうが好きです。今回も左に大きく寄せる形にしてみました。写メお送りしますね。ご笑覧いただければ幸いです。

 

 『万引きファミリー』、わたしも見ました。とても重い映画ですね。一家で万引きや略取誘拐まがいの違法行為をやりながら、かえってそのことで疑似家族の絆がだんだんと深まっていくのが印象的でした。彼らに加勢したくなってしまいました。

 でも駄菓子屋のおじさんの優しい忠告も人間味あふれていて、すごくよかったですね。それと、尋問を受ける時の進藤さやかの迫力。

 ラストシーンで女の子が実家に戻されてベランダで一人寂しくしていたのがとてもかわいそう。あの子はこれからどうなってしまうのかと思うと、やりきれなくなります。

 

 また話題が暗くなってしまいました。ごめんなさい。この次は、もっと楽しいお話をしますね。

 今日は急に寒くなりましたけど、くれぐれもお風邪など召しませぬように。

 

 そのうち、映画や美術展などご一緒できるといいですね、と書こうと思ったが、やはり相手が誘ってくれるのを待とうと考えなおした。それに、お互いの休日がずれているので、なかなか会えない難しさをどう乗り越えるかが問題だ。

 平日、二人ともが早く退けた夜に会うか、そうでなければ、どちらかが有給休暇を取るか。仕事からいえば、わたしのほうが取りやすいだろう。何しろ向こうは、責任ある所長だ。

 ひょっとして、旅行だって一緒にする仲になれるかもしれない。そうしたらどう考えても休暇を取るのはわたしのほうだろう。

 ここまで考えて、自分がすっかり堤さんと会う気になっていることに気づいた。

 あ、旅行だってさ……。また頬がほてるのを感じた。

 いつの間にか妄想の世界に飛んでいるのかもしれない。深呼吸しながら、混んできた店内を見回した。ワインをお代わりした。渋味が口の中に広がると、それが浮き立つ自分を引き留めるように思えた。まるで日々の人生のそれのように。

 

 帰宅して落ち着いてみたら、岩倉さんからメールが入っていた。

 

 《お久しぶり。どうしているかなと思ってメールしてみました。

  あれから中間テストがあったりして忙しかったので、そのままになってしまいました。

 誘ってくれるかなと期待はしていたのですが、催促がましいのもどうかなと思い、こちらから連絡するのは控えていました。

 じつは、山好きの仲間で「高山植物研究会」というのをやっていて、明日、文化の日にみんなでで集まることになっています。急なお知らせで申し訳ないけど、もし都合がつくようでしたら、来ませんか。

  メンバーは、七、八人で、女性も二人います。山で撮影してきた高山植物の写真をプロジェクターで映して、どの山でいつ撮ったか、本人の説明を聞き、名前を言い当てたり、その時の経験談を話し合ったりします。そのあとみんなで植物図鑑(立派なのがあります)で確認し、その植物にまつわる生態系など、学問的な問題などについて議論を交わします。

  こう書くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、けっこう気楽な会です。楽しみながら、自然に知識が身につきます。お花をやっている玲子さんにとって、まんざら無関心でもないだろうと思います。

 終わってから、街へ呑みに繰り出します。よろしかったらこちらもどうぞ

 

 そのあとに、会場と時間が書かれてあった。

 それなりに気を遣ってはいるが、なんだか素っ頓狂だ。言葉遣いもぞんざいになっている。いかにもあの人らしい。この前の「心豊か」に誘った時とどこか似ている。やはりわたしのことなど考えていないのだ。

 高山植物研究会? そんなところに、山について何の関心もないわたしがのこのこ出かけて行って、どうしようというのか。それとも、一回会っただけで、わたしを恋人気取りで仲間に紹介でもしようというのだろうか。

 もし本当にわたしのことを思っているのだったら、むしろなぜ10日以上も連絡してこな

かったのか、なじる調子でもかまわないから、その理由を問い尋ねてくる方が自然だ。1日

前になって、自分の仲間の会に引き入れようなんて、強引すぎる。

 明日は別に予定がなく、たまった洗濯と掃除を済ませたら、買ってあってまだ見てなかったDVDでも見ようかと思っていた。そう、まったくそのとおりにしよう。

 

 《岩倉様

 こんにちは。

 わたしのほうからお誘いするなどと言っておきながら、そのままになってしまい、申し訳ありませんでした。こちらも同じく、仕事が忙しくて、毎日帰宅が10時過ぎでした。

 お誘いいただきありがとうございます。でも残念ですが、明日は予定が入っております。

 またたいへん申し上げにくいことですが、少し考えるところがありまして、これからお付き合いを続けるかどうか、しばらく時間をいただきたく存じます。

 重ねてお詫び申し上げます。

 

堤 佑介Ⅷの4

 

 「そういえば敷島は、結婚して子ども作りながら、同性愛者だったよな。それについては何か言ってなかったか」

  「いい勘してるな。言ってたよ。男の子が、先生の作品には同性愛を扱ったものがあるが、自分たちは同性愛には生理的な嫌悪感を持つんだけど、そのへんはどうなんでしょうかと聞くと、敷島は、公認された愛なんてのは、スーパーマーケットで売ってる愛みたいなもんで、文学はそういうところに主題を求めない。許されない愛、みんなからつまはじきされるような愛のうちにこそ、純粋性を求めようとするのが文学なんだみたいなことを言ってた。自分が同性愛者だとはさすがに言わなかったけどな。でもそのあと面白いことを言ってた。これまでは同性愛もそういう主題としてふさわしいと思ってたんだけど、最近じゃ、かなり社会に認められてきちゃってるから、同性愛者にとってはいいことだけど、文学としてはおもしろくなくなってきたってな」

 「へえ。それは先見の明があるね。今の時代がまさしくそうじゃないか。杉山未久がLGBTの公認に危機意識を抱いているのも、裏を返せば、アブノーマルと見なされていた性的指向が、それだけ表通りをまかり通れるようになった証拠だよな。サヨクに政治的に利用されるのは別問題として」

 「そうも言えるな。俺の教え子に、自分もゲイで、LGBTを研究してる若いのがいるんだ。彼と話したことがあってね。いまの60代、70代の人たちは、知られたくないから偽装結婚して無理をしてでも子どもを作ったそうだけど、40代以下だとそれはないそうだ」

 「ああ、敷島はその口かもしれないな」

 「うん、たぶん。それと、静谷区で同性カップルとしての入籍を公認して以降、すごくセンセーショナルに騒がれたろう。だけど、実際には、法的な婚姻を望む同性カップルなんて、そんなに多くないそうだよ」

 「騒ぎすぎだな。娘と話した時も、親友から告白されたらどう思うって聞いたら、『親友だったらそんなのとっくにわかり合ってるよ』って怒られたっけ」

 「うん。そのLGBT研究者も、知り合いに『なんであの人たちは権利権利と騒ぐのかね、黙っていればいいじゃん』と言われたそうだ。騒いでいるのはごく一部らしいな。ただ、自分の親に子ども――つまり孫だな――を見せられないことにはけっこう悩むと言ってた」

 「なるほどね」

 「それともう一つ、世間は誤解してるけど、トランスジェンダーと性同一性障害とは、厳密には同じじゃなくて、トランスのなかにはゲイもバイもレズもいるんだそうだ。性同一性障害のほうは、はっきり医療の対象になる人を指すので、こちらは問診からホルモン療法、性別適合手術までのプロセスがちゃんと用意されてるらしい」

 「ふーん。ややこしいな。そうすると杉山論文もその誤解を免れていないわけだな。つまり性同一性障害は、トランスの部分集合みたいなものと考えていいのかな。そういう性自認はいつごろ、どういうふうにはっきりしてくるのかね」

 「けっこう早くて幼稚園ぐらいから違和感があったりするらしいよ。名前で困ったとか、中学生ぐらいだとプールや更衣室で同性の裸に感じちゃったとか、ともかく小さいころからのエピソードがしっかりあるかどうかが決め手なんだそうだ。こう説明してる俺も、複雑で、いまいちよくわからん。趨勢としては、トランスもだんだん医療の対象としては見なくなる傾向にあるらしい」

 「それで思い出したけど、俺はね、昔からこう思ってるんだよ。明確な性同一性障害とか身体的な両性具有とかは別として、人間の性ってもともと過剰なものを抱えてるから、ゲイとかレズとかバイとかは、グラデーションになってて、置かれた状況次第で、誰でも、と言うと大げさかもしれないけど、かなりの部分が、移行できるんじゃないかってね。軍隊とか寄宿舎とか刑務所なんかじゃ、女がいないから、代わりにオカマ掘ったりするだろ」

 「それは当たってるな。フロイトの言う『多型倒錯』ってやつだな。特に男はその傾向が強い。敷島が言うように、ますます『生産性』と関係なくなって、大地から置き忘れられる」

 「だからそういう男女のありようについての共通理解をみんながまず持ってから、ポリコレだのセクハラだのサベツだのの議論に踏み込めばいいって言ってるのさ。でないと、誤解から生じる差別や偏見はかえってなくならないだろう」

 「堤、それはでも難しいぞ。集団をカテゴリーで区別するのは、言葉を使う人間の業みたいなものだからな。そこにまず偏見や差別への入り口は用意されてる。LGBTなんて言葉を反権力のための武器に使ってる連中が、かえって不必要な線引きをして、サベツの再生産をしてるって見方もできる」

 篠原は、珍しく猫背をぐっと伸ばして向き直り、私を鋭く見つめた。

 そのなんとなく厳粛な調子に、思わずたじろいだ。その通りだと思った。

 キリスト教文化を強く引きずっている欧米には、反差別運動のためにそういう言葉を編み出さざるを得ない現実性があるのだろう。でも日本にはそういう宗教的な文化風土がないのに、お安くアチラから借りてきて、すぐ便利な道具にしてしまう。

 役所なんかは特に、「サベツじゃー」の一言を葵の印籠のように突きつけられると、たちまち言うことを聞く。こういう空気、何とかならないのかな、と苦々しく思った。本当はこんな問題、一部の人が言挙げしているだけで、大多数の人の生活にとっては、関係ないはずだ。

 そういえば、以前、所用で税務署に行ったとき、裏に20台以上止まれる駐車場があって、半分ほど埋まっている。そこに車を入れようとしたら、工事現場用のフェンスでふさいであった。係員が出てきて、「ここは身障者用です」と言うのである。なるほど「身障者用」と書かれた小さな札がわざわざ掛けてあった。

 私は、「あの駐車している車の主はみんな身障者の方なんですか」と聞いた。すると黙ってフェンスを取り外してくれた。一応断らなくてはならないお役目らしい。ご苦労なことだと思った。

 建物の表側には数台しか止める場所がなく、しかもちょうど申告時期だったので、多くの訪問者の行列ができていて、その整理のために駐車できないのである。

 「あなたに言ってもしょうがないけど、これってバカらしいと思いませんか?」と柔らかく聞いてみた。係員は面倒くさそうに、「そういうことは上のほうの人に言ってください」と、予想通りの答えが返ってきた。

 そうですね、と答えてその場は済んだが、考えてみると、「上のほうの人」の愚かな判断のために、せっかくの広い駐車場を、ほとんどいるはずのない「身障者」専用にしている。ほんの一部用意しておけばいいじゃないか。

 しかも「ここはすべて身障者用」と命じられた係員の人は、いちいち断ってはフェンスを開けたり閉めたりしなくてはならない。可哀相だと思った。

 「社会的弱者にウチはこんなに配慮してます」という表看板のために、係員の人は毎日空しい仕事を続けている。この人のほうがよっぽど弱者だ。

 

 それにしても、と私は心の中で苦笑しながら考えた。なんで自分はこんな直接関係のない問題に首を突っ込むんだろう。

 亜弥にも諭されたっけ。自分の仕事に関係ないことに夢中になるより、自分のこれからのことを考えなよって。そうだな。俺の癖なんだ、これは。

 亜弥のアドバイスを思い出したら、また、Fureaiから届いている女性のメッセージのことが気になりだした。このほうが健全かもしれない。

 ちょうどその時、アキちゃんが近寄って、「申し訳ありません。ラストオーダーなんですけど」と言った。

 さっき、きっとして私を見つめた篠原は、何と舟を漕いでいた。対策懇談会での熱弁と、さっきの「講義」と「朗誦」とで、だいぶ疲れたと見える。

 「やあ、もうそんな時間か。帰ろう」

 篠原は猫背を伸ばして立ち上がった。

 マスターが奥から元気よく声をかけた。

 「お疲れのようですね。どうも今日はいろいろ教えていただいてありがとうございました。またいらしてください。授業料払いますから」

 「ハハ……授業料だなんて。かえって寄りにくくなるよ」

 レジのところでアキちゃんが、愛想よくお礼を言う。

 「ほんとにありがとうございました。難しくて私なんかよくわかりませんでしたけど、でも消費税の増税が必要ないんだってことは何となくわかりました。何の力にもなれませんけど……」

 そう言ってマスターと目くばせしながら、なんと消費税分8%分を負けてくれた。

 「いいですよ、そんな」と、篠原と私はハモってしまったが、アキちゃんは頑として譲らなかった。

 

 電車の中でスマホを開く。

 ニックネーム「ワレモコウ」とあった。まずプロフィールを見直す。

 

年齢:47歳(認証済み)

 身長:159㎝

 タバコ:吸わない

 趣味:活け花、ショッピング、映画、美術鑑賞、温泉、国内旅行

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

年齢が高いので、ずいぶんためらいましたが、友人に勧められて、思い切って登録しました。

毎日仕事に追われ、出会いの機会がほとんどないうちに、ここまで来てしまいました。

でも、これからの人生のことを考えると、先が長いので、このままひとりで老いていくのには、とても寂しいものを感じます。

どちらかというと、インドア系で、静かな生活が好きです。

東京在住ですが、若い頃、仕事でいくつかの地方をまわりました。そのせいか、それぞれの土地の特色を味わうことに関心があり、休暇をとって国内各地を旅行することが時々あります。

年よりは若く見えると言われますが、これはお世辞かもしれません。

極端に離れているのでない限り、相手の方との年齢差にはこだわりません。

相手の方のお話に合わせるのは、わりと上手なほうです。

お料理は、普通にできます。煮物などが得意です。

わたしのことを可愛いと思ってくださる方との、長くつづく着実なお付き合いを求めています。

 

 《ディテール》

職業:トイレタリー系企業経理部

休日:土日

体型:やや細め

  居住地:東京

  出生地:東京

家族:母、妹

同居人:独り暮らし

年収:500万円以上

  婚姻歴:離婚

  子ども:なし

  好きな料理:和食、イタリアン

  お酒:時々飲む

  性格:温和・明るい

  学歴:四大卒

  休日の過ごし方:映画鑑賞、ショッピング、友人と会う、散歩、美術館巡り

  転居の可能性:時と場合による

  望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

 

 この写真には見覚えがあった。いくつも「物件」をスキミングした中で、きっと印象に残っていたのだろう。美人、と言うより、「可愛い」系だ。色も白い。

 「若い」という期待は裏切られたが、しかし私より八つ下、むしろ私とのマッチングは、年齢相応と言えた。それに、プロフィールに書いているように、実際、歳よりもずいぶん若く見えた。眉が濃く、澄んだ目をしていて少し茶目っ気が感じられる。

 今どきの四十代の女性っていうのは、人にもよるし、化粧のうまさもあるのだろうけれど、三十代前半と言っても全然おかしくないくらいに若い人がいる、と改めて思った。しかもこの人は四十代後半だ。

 山下よりも少し年上か。彼女には悪いが、見慣れているせいか、あるいは世帯やつれしているせいか、山下のほうがかなりふけて見える。

 ワレモコウさんは、私と同じバツイチである。離婚して何年経つのかわからないが、結婚生活に敗れた後遺症のようなものは感じられない。トイレタリー系で経理をやっており、活け花が趣味、とある。お嬢さん育ちなんだろうか。まあ、別にお嬢さん育ちでなくとも、お花を趣味にしている人ぐらいいくらもいるだろう。

 ワレモコウというのはたしか野草の名前だったな。お花で活けるのだろうか。「ワレモコウ」で検索してみた。

 花自体はそんなに華やかではないが、群生している画像が多く、けっこう野趣を感じさせる。こういう花みたいな人なのかな、いや、ただ何となくつけただけなのかな、などとあれこれ想像をしてしまった。

 独り暮らしだから、お母さんと妹が同居してるのか。あまりお母さんと馬が合わないのかもしれない。いや、そんなことはまるきりわからないな。

 などと思いを巡らせているうち、危うく乗換駅を乗り越しそうになった。あわてて下車する。

 さて乗り換えてからメッセージを読んでみた。

 

 《初めまして。

  マッチングしてうれしく思います。

  わたしはあまり自分からこんなことをするタイプじゃないんですけど、プロフィールを拝見して、関心を惹かれました。

  これからお話しすることにご興味がなければ、どうぞそのまま聞き流してください。

  まだこのサイトに登録してからそんなに時が経っていないのですが、数少ない方たちとのマッチングがありました。でも、「ゆう」さんのプロフィールは、わたしには、他の方とは違った一風変わったユニークなものに思えました。こんなことを申し上げてお気に触ったらお許しください。

  どこにそれを感じたかと言うと、いくつかあるのですが、いちばん興味を惹かれたのは、休日の過ごし方の欄に「覚書を書く」とあるところです。どんなことを書いていらっしゃるのかな、と知りたくなりました。

  また、「いろいろな社会問題に関心がある」とのことですが、どのような社会問題でしょうか。わたしにはむずかしいことはわかりませんが、日頃考えていることとの間に少しでも共通点を見出せたら、うれしく思います。

  お忙しそうで恐縮ですが、お返事いただければ幸いに存じます。

 

 これが2時間ほど前に書かれた文章だ。

 酔いが醒めずに、そのまま続いていくような気がする。乗り換えてからは、降車駅までそんなに時間がかからないので、あまり夢想にふけっている暇はない。それでも、自分がこの人と二人でちょっとの間だけ観覧車にでも乗っているような気持ちになった。

 ともかく、一人の可愛い「中年女性」(この言葉は使いたくないが)が、私の「変人ぶり」に関心を抱いてくれている。ずいぶんまれなことかもしれない。

 私が覚書を書いていること、社会問題に関心を寄せていること、それについて具体的に質問をしてきた。これには真面目に答えなくてはならない、そう、時間をかけて。

 私の覚書。

 いつもいろんなことをまとまりなく書いている。それは紹介するに値するだろうか。

 私の社会的関心。

 仕事を通して何かがあると、すぐにそこから発展して、少子化や晩婚化を考えたり、日本の貧富の格差について考えたり、中国人の静かな領土侵略を憂慮したり、LGBT騒ぎやポリコレブームの意味に疑いを持ったり、今日は今日で、篠原から財務省のとんでもない国民騙しについて聞かされて、ああ、俺は何にもわかっていなかったと自省したり――こんな自分をこの人はわかってくれるだろうか。

 でも、この変わり者に向こうは興味を持って、はっきりと聞いてきているんだ。ちゃんと答えなければいけない。

 美術館巡りと国内旅行。これなら一緒にできるかもしれない。お互い、身軽な身だ。たとえば、いまやっているフェルメール展やルーベンス展。また篠原が言っていた大分の湯布院……。

 駅を降りてから7~8分で自宅マンションに着く。その間も、まだ見ぬ人のことを巡って次々に妄想を膨らませていた。だがひょっとわれに返ると、シニカルに自分を見つめる目がやってくる。いったい俺は何をやってるんだ、と突き放したくもなった。俺はまだこの人がどんな人か、何も知らないんだ。冷静になれ、冷静になれ。

 それに、この人は休日が土日、俺は水曜と第三木曜だけ。すれ違うから、もし会えることになったとしても、お互いが早く退けた平日の夜くらいしかない。そんなにうまいタイミングがそう簡単に訪れてくるとは思えない。

 そう思ったとたんに、何かにつまずいた。あやうく身を立て直した。

 並木道を通っていたのだが、大きくなったユリノキの根が盛り上がって歩道のアスファルトを押し上げているのだ。

 見上げると南寄りの方向に満月が輝いていた。ひんやりした夜風がそろそろ色づき始めたユリノキの葉をかすかに揺らしていた。私は人通りもなく落ち着いたこの街路の真ん中で、ひとり気を高ぶらせている自分がおかしくなった。

 でも、そんな自分を偽ることはできない。

 

 帰宅すると、急に自分の家がいかに散らかっているかが気になった。これまでそんなことを気にしたことはなかった。こんなのは女性に見せられない。急いで片付けなくては。

 いや、俺は何を言ってるんだ。誰が俺の家に来てくれると言った。それよりも彼女――「ワレモコウ」さんにまず返事だ。

 明日は早いが、これは今日中に書いた方がいい。男の誠意の見せ所だ。でもあんまり長く書いてはいけない。相手だって、軽い気持ちで、試すくらいの気持ちでやってるのかもしれない。一人合点して自己満足に陥っては、こっちの気持ちを見透かされてしまう。

 ゆっくりと着替えを済ませた。酔いはほとんど醒めていたが、冷蔵庫から天然水を出してたっぷり飲んだ。風呂は省略。心を落ち着かせるためにシューベルトの即興曲作品90と作品142をブレンデルの演奏で、ボリュームを小さくしてかけた。そう、できるだけさりげなく。

 

 《メッセージ、ありがとうございます。

  ワレモコウさんのおっしゃる通り、私は少し変わり者だろうと思います。

  不動産業のような泥臭い仕事をしていながら、いや、それだからこそと言うべきでしょうか、余計、仕事と離れた世界に空想を馳せるのかもしれません。

  そんな私の部分に関心を寄せていただいて、正直なところ、びっくりしています。

  覚書というのは、ただの日記ではなく、社会問題にかかわることについて、メモを取っておくのです。そして、休日の時間のある時に文章を整えたりします。といっても、自分の中では、仕事とまったく無関係というわけではなく、仕事で出会ったいろいろな人や出来事と地続きの問題について考えたことを書いているつもりです。別にそれをどうしようという計画があるわけではないのですが。

 

  いま関心を持っているのは、まず第一に不景気がどうして終わらないのか、それから、少子化による生産年齢人口の減少、LGBT差別にかかわる問題、移民問題など、時々は国際情勢の理解にも首を突っ込みます。

  今日もある親しい友人と飲んできたのですが、彼は大学で社会学を講じているので、不景気の原因について話してもらい、目からうろこの思いを味わいました。 自分のこれまでの不明を恥じると同時に、これは多くの人が知っておくべきだと思っています。

  でも、初めてのメッセージ交換で、こんなお話をして、堅苦しい印象を与えてしまったかもしれません。

  本当は、砕けた話も大好きなのです。落語を聞くのを趣味にしているくらいですから(笑)。

 

  ワレモコウさんのお写真を拝見して、とても可愛らしい方だと思いました。また、文章に接し、しっかりものを考えていらっしゃる方のようにお見受けしました。

  私はこんな方からメッセージをいただいて、貴重な機会を得たので、とてもうれしく思っています。

  これに懲りず、これからもメッセージ交換を続けさせていただければ幸いです。

  よろしければ、お花のことや、国内旅行のこと、美術館巡りのことなど教えていただけると、ありがたく存じます。

 

 何か所も書き直し、やっと書き終えて送信ボタンを押したら、即興曲がちょうど終わりを

告げた。思えば、今日は出かける前と帰宅してからと、2回も音楽の世話になったことになる。

 いろいろなことがあったけれど、何か、自分がこれまでとは違ったある心のステージに昇

ったような気分だった。

 悪い予感もあれば、よい予感もある。悪いほうは、たとえそれが現実になったとしてもひ

るまず立ち向かい、よいほうは、美しい音楽に包まれるようにその流れに身をゆだねて行こうと思った。

 

堤 佑介Ⅷの3

 

 篠原がトイレに立った。

 後ろのアベックは、マレーシア、シンガポール、ジャカルタ、バリと周遊する計画をまとめようとしていた。楽しさが盛り上がっていた。

 日本が内憂外患、さまざまな危機にさらされているのに、私たちはみな、こんなふうにいつもの私生活の安定がそのまま続くと、どこかで信じている。後ろのアベックだけが浮かれているわけじゃない。

 いくら南海トラフ地震や首都直下地震の可能性が高まっていると知識情報で吹き込まれても、建設中のビルの作業をやめるわけにはいかない。明日のことはわからないからといって、明日がこのまま平和に訪れるという期待と確信を前提にしなくては、計画された旅行も、毎日の仕事も、何も進まないのだ。

 もちろん能天気な人たちが大半かもしれないが、現に自分が戦乱の真っただ中にさらされているのでもなければ、危機意識が切実なリアリティを持つことなんかないんじゃないか。

 今までも言ってきたけれど、私たちはいつもこの二重になった意識のもとで暮らしている。大きな「観念」と小さな「実存」とのギャップを常に抱え込みながら。

 これは当たり前のことなのだが、私はいまさらのように、この二重意識の奇妙さに驚き、そして、生に付きまとうこの矛盾を切なく思った。「観念」も大事だが、毎日の「実存」から逃れるわけにもいかない。

 スマホに手が伸びた。誰もが一時の不安からそうするように。そして篠原のご説を聞かされた後でも、いや、後だから余計だろうか、自分の「実存」に立ち戻る気持ちになった。

 もう一度、出羽菊をお代わりしながら、自然とFureaiのアプリに指が伸びた。

 ある女性からメッセージが入っていた。10/24 20:23とあるから、いま入ったばかりだ。へえ、と思った。読みかけたが、篠原が戻ってきたので、帰宅してからゆっくり読むことにして、急いでスマホをしまった。

 「おや、またお代わりしたのか。じゃ、俺も」

 そう言って篠原は、今度は加賀鷹を注文した。

 

 「そう言えばさ」と私のほうから話題を切り出した。

 「ひと月前に『海風45』が休刊したろ。あの最終号、読んだ?」

 「いやあ、小沢宋次郎のだろ。あれ、読みたかったんだが買いそびれた」

 「その前の杉山未久のは?」

 「あれは読んだ。『生産性』についての炎上はバカバカしいな。杉山論文はあの人の猪突猛進ぶりが出てて誤解を招きやすいところがあったけど、主旨はまともだと思ったよ」

 「俺は後でネットで読んだんだけど、同じ感想だな。サヨクがLGBTを政治課題に担ぎ出してる欺瞞をよく突いてる」

「だからこそその後の成り行きを注視してたんだけど、まさか突然休刊するとは思わなかったな」

 「俺はあくる日、慌てて買ったよ。あとでAladdinで見たら3000円の値がついてた」

 「へえ……それでどうだった、小沢論文は」

 私が意見を述べる番だった。主客逆転の感じだ。

 「ちょっとあれはいただけないな。LGBTに対する誤解もあれば偏見もある。要するに性的マイノリティに対する自分の違和感を絶対化して、エラそうに息巻いてるだけだ。痴漢も法的に許されるべきだってのには、思わずのけぞったよ。何よりも教養をひけらかして高みに立った口調が鼻につく。ただ汲むべきところがまったくないわけじゃない。結婚の意義を説いてるところはその通りだし、サヨクの政治利用の欺瞞を突いているところは、杉山論文と共通している」

 「なるほど。そうすると、杉山論文の援護射撃っていう編集企画に乗って、かえって不毛な対立を煽ってるって構図かな」

 「そんなところだな。それでLGBT問題については、こういう政治的な左右対立の議論に持ってく前に、その根っこのところにもっと考えるべきことがあるんじゃないかなって思ったんだよ」

 「というと?」

 「この前、『女は腫物』って話が出たよな。あの時、男の委縮にはポリコレの風潮がすごく作用しちゃいないかって言ったろ。それで、そういうポリコレブームに対する違和感をまともな議論に持ってこうとしても、すぐジンケンだ、サベツだってやられる。そういう土俵の中で議論しようとすると、これこれの言動は、人権違反か、サベツに相当するかどうか、っていうふうにしか論じられないだろう。それが、なんていうか、肝心のことを言わせなくしていると思うんだよ」

 「肝心のこととは?」

 「男女の性差を議論の中で認めるのか認めないのかって問題さ。男と女は違うだろう?」

 「まるっきり違う生き物だな」

 「欲望のあり方も男と女じゃずいぶん違うよな」

 「うん。堤は、その違いの一番重要なのはなんだと思う?」

 そう聞かれると、なかなかスパッと言えない感じがするが、ここはほかならぬ篠原と飲んでる席だ。エイヤーで言ってしまった方がいい。

 「男はまず女の身体に欲情して、女はまず男の心に欲情する。この違いをバカにしちゃいけない」

 「ほう、堤にしちゃずいぶんざっくりした言い方だな。そんなふうに決めつけられるか」

 「概しての話だよ。社会学だって平均を対象とするんだろ」

 「おっと、これは一本取られた」

 「別の言い方をしてもいい。男は女のセクシーな魅力に取りつかれるけど、女はその視線を受けとめて、自分をできるだけセクシーに仕立て上げようとする。お化粧や身だしなみやファッションに対する関心の度合いは男の比じゃないだろ。その非対称な関係のフォームって、今も昔も変わらないんじゃないか。いや、なんでこんなことを言うのかっていうと、俺はガキの頃から不思議だったんだよ。若い女の顔や身体はもともと美しいか、そうでなけりゃ美しく装ってるから、男が目で見てそれに魅力を感じるのは当然だと思える。だけど逆に、ふつうの男の身体なんて、別にちっとも美しくないだろ。なのに女は男のどこに魅力を感じてるのかなって」

 

 サラリーマン四人組が入ってきた。店内は狭いので、彼らが座ると、もうそんなに空きはない。篠原は、そちらをちらりと見てから、私のいつもの不思議がりをおもしろそうに受け止めた。

 「筋トレで鍛えた身体なんかは?」

 顔に笑みが浮かんでいた。学生に質問するように私を試すつもりらしい。こちらは少し身構えた。

 「……あれは男のナルシシズムだと思うよ。まあ多少はあるかもしれないけど、男が自分の筋肉みせつけたって、たいていの女は、そんなところにあんまり性的な魅力を感じないと思う」

 「よし、今度、堤説が正しいかどうか、女子学生にアンケート取ってみよう」

 「いや、大いにやってみてくれ。俺はウチのスタッフも含めて何人かの女性に聞いたことがあるんだ。そしたら、キモイわねっていう女のほうが多かったぞ。すてき!なんて目を潤ませる女はいなかった」

 「堤先生のフィールドワークはサンプル数が足りない気がする」

 「ハハ、茶化すなよ。データはそっちでそろえてくれ。でもだいたい経験的に言ってそうだろ。つまりこれは、女が男の性的魅力を別のところに見出しているんじゃないかって説の状況証拠のひとつだ。その別のところってのは、心のあり方、自分にどう向き合ってくれるかっていう態度だって言いたいわけさ」

 「しかし、芸能人やアスリートのイケメンには女どもが殺到するじゃないか。桐生結貴とか」

 「あれはほんとにきれいな男だな。男っていうより歌舞伎で言えば女形みたいな……あれは普通の男じゃないよ。それに一般的にはさ、女どもが殺到するのはスターとファンていう落差を前提としているからだよ。言ってみれば、強いえり好みの気持ちの投影だよ。もちろん街の男でも、ほれぼれするようなイケメンだったら、女心はその顔かたちを見て多少は心を動かすかもしれない。でも、男が美人の女やセクシーな体つきをした女を求めるほどには、女は男のヴィジュアル面を気にしていないと思うよ。ところが異性に対する関心は、男以上にものすごく強い。男とは違った形でな」

 「高校のころだったかな、真剣な顔して、女には性欲がないんじゃないかなんていう奴もいたっけな」

 「それは間違いだな。ただ入り方が違うんだよ。もちろん、いったん性関係になったら、性欲の激しさでは女も男も同じさ。いや、女のほうが激しいな。どうみても女のほうが快感が強いようだからな」

 「それは昔からよく言われてるな。ギリシャ神話にも出てくる。女のほうが七倍いいとか」

 「うん。だけど、その気になるかならないかのところで、すごく違いが現れるのさ。男はいい女だと思ったら後先見ずにやりたくてしょうがなくなるだろ。だけど、女は男が自分の身体目当てだとかぎつけると、ほとんど必ず拒否したり逃げたりする。『わたしの心をわかってくれるのじゃなきゃいや』ってな。つまり女は初めから『自分にとっての男』を無意識に選んでるんだ」

 「なるほど。篠原社会学教授もあんまり真面目に考えたことがなかった」

 「売春を考えると一番わかりやすいよ。あれは例外を除いて、必ず男が金を出して買う形を取るだろ。つまりお願いしてやらせてもらうわけだな」

 「女のほうはさせてあげるわけだ」

 「そう。強姦するんでもない限り、許諾権はいつも女が握ってる」

 「それは、結局、女が子どもをはらんで子孫を残すっていう生物学的な負荷を背負っているから、慎重になるように宿命づけられているんじゃないか。進化心理学的に言えば……」

 私は近頃はやりらしいこの学問のことをよく知らなかった。それに、動物行動学などを持ち出して、生物学的な答えに還元することで喜んでしまう多くの人たちの興味関心のあり方にあまり共感できなかった。

 私が話したいのは、その種のことではない。だから悪いと思ったが、篠原の講釈をあえてさえぎった。

 「そうかもしれない。人間も生物の一種だから、そういう自然性から逃れられないのかもしれない。でもさしあたり、俺はその理由については関心がないんだ。俺が気になるのは、いまのポリコレ、セクハラ、サベツ議論が、そういう大きな男女差の問題を見ないようにして成り立っているってことなんだよ。だから話が、『平等人格』っていう作られた枠組みの中でしか語られない。そうじゃなくて、その大きな違いをまず男女みんなで確認しあってから、ポリコレやセクハラについて議論した方がいいと思うんだ」

 「しかし近代社会の枠組みから『平等人格』のたてまえを外すわけにはいかんだろう」

 「もちろん法的な意味ではな。しかし、文化圏が違えば、そんな近代的なたてまえは吹っ飛ぶじゃないか。イスラム圏じゃ四人まで奥さんが持てるし、いまだに女はブルカをかぶってるところが多い」

 「うーん、そりゃ、社会学でもよく問題にされるところだ。自分たちの文化圏の法的なたてまえが普遍的で、人間のすべてを覆っていると錯覚すると、とんだしっぺ返しを食らう。そのいい例が移民・難民を大量に受け入れたドイツのケルンで3年前の大晦日に起きたムスリムの若い男性による500件もの強姦事件だ」

 「ありゃひどかったな。ヨーロッパは失敗したな」

 「ロンドンじゃ移民が45%だってさ。それもほとんどが若い男で、多くは仕事にあぶれてる。いま手元にデータがないけど、犯罪もすごく増えてるらしい」

 「それも言ってみればポリコレの失敗だろ。要するに、俺が言いたいのは、自由平等の原理だけじゃ割り切れない人間の領域がこの世にはあるっていう了解をみんなが持ってほしいってことなんだ」

 「その最も重要なものがセックスの領域である、と」

 「そう。そういう幅広いものの見方が、ポリコレブームでだんだん狭められてしまっている。でもそんなのがおかしいってことは、我々の足元をよく見れば、誰でもわかることだろ。男と女の付き合い方、ふるまい方の基本を見ればな。男と女はもともと平等な人格の対立関係じゃないだろ。」

 私は内緒話のように声を落として、

 「うしろのカップルがいちゃいちゃやってるけど、これが男女の基本的振舞い。ここに平等・不平等なんて概念が入り込む余地はない。関係がもつれた時だってそうだよ。それは葛藤というんで、何も権力対立じゃない」

 「そう言えばな、だいぶ前の話だけど、こんなことがあった。ストーカーって言葉が流行り出した頃のこと。ストーカー法が成立する以前だったな。ある小人数の会合に呼ばれて弱者とか、サベツについて話したんだ。話が終わってから、質疑ということになった。とても砕けた会合でね。しばらくしたら、ひとりの若者が言い出した。『俺、ストーカーって言葉、嫌いなんです。俺、いまある女に狂ってるんですよ。狂って何が悪いんだって思うんです』 みんな一瞬、しんとした。俺は内心、こいつ、なかなかいいこと言うなって感心したんだ。だけど、『そうだ、そうだ、どんどん行け』って言うわけにもいかなくてな。しょうがないから、『うん。昔はそういうの、痴情のもつれと言ったんですね。こっちのほうがいい言葉だと思わない? せいぜい犯罪にならないレベルでがんばってください』って答えておいたんだ。彼がそれで納得したかどうか、よくわからなかったけどな」

 「それはいい話だな。戦前の阿部定は、痴情の極致で、一つの理想だよな。吉蔵ももちろん切られて本望だったと思うよ」

 「しかし堤。さっき言おうとしてたことはわかるけど、それ、公式の場で不用意に言うと、きっと誤解されるぞ」

 「おや、こないだはポリコレがはびこると、晩婚化がますます進むことについて論文書くって言ってなかったっけ。今どきサヨクなんぞを恐れていて、何ができるって息巻いてたじゃないか」

 「ヘヘ……あんときは酔った勢いでな。でも酔いが醒めたら、誤解受けないように書くのはなかなか難しいってことがわかった。もう少し慎重に論理を整えないといかん」

 「それ、篠原先生、ぜひやってください。きちんと書けば、わかってくれる読者は必ずいる。いるどころか、多数派であることは間違いないと思う。俺は別に公式の場でこんなこと言うわけじゃないからな。相手が篠原だから無責任に言ってるんだ。くどいようだけど、俺は男と女が平等じゃないとは一言も言ってないよ。先進国に住んでる限り、法的に平等なことは当然だ。ただ男と女の違いに対する感受性を大切にしようと言ってるだけだ。巷の人は、もの言わないけど、こんなことは本能的にわかってると思う。男と女は違うから面白い。違うからかみ合う」

 「なが身はいかにか成れると問いたまえば、あが身は成り成りて成り合わざるところひとところありと答えたまいき。ここにいざなぎのりたまわく、あが身は、成り成りて成り余れるところひとところあり。」

 さすがよく暗記してるな、と思ったが、少なくともこいつにはわかってもらえたようなのでほっと一息ついた。ただ、朗誦しているうえに、篠原はもともと声がでかい。後ろのカップルがけげんそうにこちらを見ているのが、背中でわかった。

 サラリーマンたちの会話の声が盛り上がってきたので、篠原はそれに対抗するようにだんだん調子を上げていく。

 「かれ、このあが身の成り余れるところをもちて、なが身の成り合わざるところにさしふさぎて、国を生み成さんとおもう。生むこといかに……」

 「わかった、わかった、もういいよ」

 アキちゃんとマスターが笑いをこらえている。

 「つつみのみこと、あなにやしえおとこを」

 私はつい吹き出してしまった。

 「やめろ、やめろって」

 照れ隠しから、私は「これ、早く食えよ。うまいぞ」と言いながら、刺身の皿を篠原のほうに押しやった。

 

篠原はようやくやめて、別のことを言いだした。

 「そういえば、こないだ、You Loopで、敷島倭文夫が高校生の男女二人にインタビューを受けてるのを聞いたんだよ。敷島はなかなか真剣に答えていて、おもしろいんだな。そんなかで、男の子のほうが『女って考えるのかしら』って聞くんだ」

 「女の子の前でか」

 「そう。ああいうことが半世紀前のあの時代にはまだできたんだな。俺は羨ましいと思った」

 「敷島はどうした」

 「大問題が出てきた、と笑いながら、男が考えるのと女が考えるのは全然違うというんだ。女の考えは自然や大地に近いのに対して、男はいつも自然や大地から遊離しちゃってて、論理的で整理されて見えるけど、じつはいつの間にか大地から置き忘れられてる……」

 「それはズバリとうまく言ってくれてるな。俺も賛成だ。」

 「そうなんだ。それで、女の子が、女の人のほんとの生き方は何ですかって聞くと、敷島が、『それは自分には良妻賢母としか言えない、人間の母だよね、男がそこからくみ取る源泉のようなものだ』ときっぱり言う。その後がまたいい。女は愛される存在と常識は言うけれど、じつは女こそ愛の天才だと言うんだな。男は夾雑物が多すぎて、愛で世界を包むなんて絶対できない、と……」

 「良妻賢母はともかくとして、女が愛の天才だというのは、本当だな。しかしそういうことを最近言う人はいなくなった。文学者がもっと自信をもって言うべきじゃないのかな」

 「それは、『文学者』なんてもういなくなったと言い換えることもできる。この前、恋愛が自由化したために、男女の命を懸けた出会いがなくなってしまったって話したよな。あれと通じるんじゃないか。少なくとも、近松はもう出ない」

 「なるほどそうだな。だから俺は、これから結婚や家族がどうなるかが気になるんだ。ていうか、大げさに言えば、途上国の多産系移民が押し寄せれば、先進文明の住民なんて衰退していく一方だろう」

 「うーん。そうなると、もうそれは自然法則とつながってくる感じだな。動物でも水生動物はものすごく卵を産むけど、陸に上がるとあんまり産まなくなる。その連続線上にありそうだ」

 「おい、それこそ発展途上国の国民を下等動物扱いするのかって、糾弾されそうだぞ」

 「いや、そりゃもちろんここだけの話だけど、でも、日本人だって戦前は普通に5人くらい産んでたじゃないか。避妊が広まったのは戦後の話で、少なく生んで大切に育てるなんて思想が出てきたのも戦後だ。アフリカ系やインド・パキスタンなんかは、いまでも4人から6人は当たり前。文明が進めば進むほど、乳児死亡率が低下して、個人生活が大切になって、少子化が進む。これは社会学的な事実だ。そしてその社会学的事実が、じつはすっぽりと自然学的事実に包まれてるんじゃないか」

 「やがてついにゼロ人に収斂していく、と」

 「そう。途上国だって文明が行きわたれば、そのうち同じ運命をたどるぞ」

 乱暴な仮説、と思ったが、たしかに当たっているような気がする。なんだかため息が出てきそうだ。後ろのカップルは相変わらずいちゃいちゃやっているが、彼らは結婚するのだろうか。子どもを作るのだろうか。

 実際、私の周りを見回しても、中高年独身者や、結婚していても子どもが一人という人ばかりだ。もっとも私個人のちっぽけな人生にとって、人類全体の運命がどうなろうと、知ったことではないとも言えるのだが。

 そう考えて、ふと自分が曲がりなりにも「婚活中」であることに気づき、さっきの女性からのメッセージのことが脳裏をかすめた。心がざわめかなかったと言えば嘘になる。

しかしいまの自分には「生産性」がないと言えば、その通りなのだ。その意味では同性愛者と同じだ。メッセージを送ってきた相手にはもしかして「生産性」がある? と考えて、まだ写真も年齢も確かめていないことに思い至った。ひょっとして若い? とあらぬ期待を抱いたが、いやいや、五十代半ばの俺なんぞにと、あわてて打ち消した。

 

堤 佑介Ⅷの2

 

 篠原は、まず咳ばらいを一つしてから、おもむろに語り始めた。

 「まず国債は100%円建て、つまり自国通貨建てなんだよ。政府の負債がいくら積み上がったって、政府は通貨発行権を持ってるよね。だから負債の分だけ円を刷りゃあいいんだから、原則的には返せないってことはありえない。だから財政破綻なんて起こりようがないんだよ。ほんとは刷る必要もないんだけど、それはまあ、あとの話として……」

 「ちょっと待って。よく言われてるのは、ギリシャが財政破綻したように、日本も下手したらそうなるって話だよな」

 「ギリシャは通貨発行権がなくて、ユーロで借金してるから、自国の財政政策に失敗したらEUにユーロで返さなくちゃならない。EUは金貸す代わりに、ギリシャに緊縮財政を強要した。だからギリシャは悪循環に嵌って、ますます苦しくなったんだ。自国通貨建てかそうじゃないかは決定的なのに、連中は、ギリシャの例を引いて、国債の返済が滞るとギリシャみたいに財政破綻するぞ、とインチキなレトリックを使ってきたわけだ。みんな一国の財政を給料の決まってる家計と同じように考えるから、この罠にまんまと引っかかる」

 「ああ、なるほど。その違いは分かった。日本政府はその点、外国から借金してるわけじゃないからEU各国と違ってフリーなんだってことだな。だけど、借りたものは返すのが常識だろう」

 「いったい誰に返すのかね。銀行が返済を政府に迫ったとでもいうのか。これもあとで話すけど、銀行は政府が国債を発行してくれなかったら、かえって困るんだよ。しかも政府は公共的な資金が必要な時には、いつだって借金し続けてきたんだぜ。でも現にこれまで財政破綻したことなんか一度もなかったじゃないか。経済評論家の三石貴之が言ってたけど、明治時代初期から今まで、政府の負債は何と4000万倍近いそうだ。だけど全然破綻なんかしてない」

 「うーん。そういえばそうだな。だけど、これもよく言われてるよな。日本は民間に膨大な金融資産があるから、それがあるうちは大丈夫だけど、政府の借金がそれに近づいていくと危ないって」

 篠原は「そこだ」と言いながら、グラスに残った千代鶴をぐっと飲みほし、お代わりを頼んだ。アキちゃんがあわてて厨房に走る。ブランデーグラスに注がれた千代鶴は、なんだか少しいつもより多いような気がした。

 「まさにそこが大きな間違い。みんな、民間が銀行にお金をたくさん預けてるから、政府は借金が増えても財政破綻を免れてると思ってるけど、話は逆なんだ」

 「逆?」

 「逆。銀行が手持ちの金融資産を元手に国債を買ってるんじゃなくて、彼らは国債を買うことで預金を作り出しているんだ。国債を購入しなかったら銀行は預金取引にも対応できない。これは経済理論家の中山武志が『国富と戦争』っていう大著の中でわかりやすく説いてる。

 「ちょっと待ってくれ。もう少しゆっくり。通貨を発行するのは日銀じゃないのか」

 「紙幣はね。しかし、日銀はじつは政府の子会社だ。行政府と合わせて統合政府と呼ぶ経済学者もいる。子会社だから連結決算で、政府が借りた分をチャラにできるんだ。現にこれまで日銀は大量の量的緩和をやってきたろ。市場の国債の買い取りだな。あれでもう、いまの時点で300兆円ぐらいは政府の負債は事実上減ってる。つまり、日銀が買い取りのために発行した通貨で、ちゃんと返済ができてる」

 「じゃあ、政府は自分から返す必要は全くないわけか」

 「そう。政府は負債を増やしてって全然かまわないんだよ。だけどいまの日本政府みたいに、どうしても返したいのに返せないって悩むんだったら、無利子無期限で次々に借り換えて行けばいい。でも悩む必要なんか何もないのさ。いま話したように、政府が国債を発行することで、つまり借金をすることで、かえって民間の預金が生まれるんだからね。これを経済学の用語で、信用創造といってる。信用創造は、べつに政府と民間との間でだけ成り立ってるわけじゃなくて、市中銀行と民間との間でも成り立ってるんだ」

 「というと? たとえば企業が銀行から金借りる時とか」

 「そう。みんな、銀行が企業や個人に金貸すときは、銀行に預金者からかき集めたそれだけの金がプールされてると思ってるだろ。財布の中の現金を貸すみたいに」

 「え、そうじゃないの?」

 「そうじゃないんだよ。借りたい企業がやってきて1000万円貸してくれって言うだろ。そしたら、極端な話、銀行は自分のところに一銭もなくても、通帳に1000万円貸したって書き込む。それだけで貸し借りが成立するんだ。だから信用の『創造』というわけさ。じつは、このリクツは国債の返済の場合でも同じで、政府は別に借金ぶんの通貨を発行して返済に充てるんじゃなくて、日銀当座預金の帳簿に、いくらいくら返済した、と記帳するだけでいいのさ。実際、毎年そうやってる。その時に何十兆円なんていう莫大な現ナマを動かすはずがないじゃないか」

 「でも通貨発行権があるからこそ、返済ができるんだろ?」

 「もちろんそうさ。だけど通貨発行権というのは、借りることが保証されてる担保みたいなもので、何も現ナマをいつでも出せますって話じゃない。その担保を活用して記帳することが、そもそも通貨が動いたことになるんだ」

 うーむ。すぐにはピンと来ない話だ。何か物事の考え方を根本から変えないといけないような気がする。

 「腑に落ちない顔をしてるな、堤。無理もない。それは、貨幣流通というのが、何か金や銀みたいな現物が動くことだという観念に囚われてるからだ。これは昔からずっと続いてきた囚われなんだ。紙幣が流通して、金銀が本位貨幣じゃなくなって、兌換が停止されたいまでも、まだみんなこの観念に囚われてる」

 「……それは、つまり、こう言ったらいいのかな。貨幣流通は、モノが流通してるんじゃなくて、人と人との信用関係の動きを表してるだけだ、と」

 「百点。そこまでわかってくれると話がしやすい。堤が、だれかの振り出した債権を持ってるってことは、その誰かをその額面の分だけ信用したってことだ。それ以外の意味はない。これを政府と民間の関係に適用してみよう。だれかの債務は必ず他のだれかの債権だよな。言い換えると、誰かの赤字は、他の誰かの黒字。だから政府が赤字国債を市中に振り出したってことは、そのぶん民間が黒字になったってことだ。つまり政府が国債を発行して、それが預金に変わって企業の生産活動に使われれば、それだけ民間経済は潤うことになるんだ。企業はその刺激を受けて、今度は自発的に設備投資なんかに乗り出すことになる。それ以外にデフレから脱却する道はない」

 「しかし国債は預金や現金とは違うだろう」

 「いや、それは取引の形式が違うだけさ。そのからくりを説明してるとややこしくなるからやめるけど、国債も現金紙幣も預金も、その本質が借用証書だって点では同じだよ」

 「現金紙幣が借用証書?」

 「そう。あれは日銀が国民から借りてる借用証書なんだよ。現金は、モノやサービスとすぐに交換できるから、ピンと来ないかもしれない。でもその借用証書の値打ちを俺たち日本人はみんなが信用してるだろ。だからこそ、誰かが生産したモノやサービスと交換できる。つまり人から人へと譲渡することができるわけだ。でもいったん日本から出たら、ただの紙屑だよな。じつは、130年も前に福沢諭吉が同じことを言ってるんだよ。俺一枚は最高額の借用証書だぞーって」

 「へえ……そうなのか」

 「また、こんな勘違いもある。政府はまず税金を徴収して、それを使って政府支出に充てる、とみんな考えてるけど、実際にはそうじゃなくて、毎年、まずは政府短期証券を日銀に発行して、日銀当座預金を調達する。それを政府小切手の形で支出するんだ。税金を徴収するのは、その後なんだよ。つまりは、別に政府は税収がなくても普通に支出できるのさ。だから、社会保障の支出が足りないし、これまでの国債も金利含めて返さなくちゃならないから、みんな、増税を我慢してくれーって言うのは、全然嘘っぱちなんだよ」

 私は滔々と語られる初めて聞く話に、半ば呆然としながら、ゆっくりとその意味をかみしめようと思った。にわかには消化できない話だ。

 ともかくこの話は、家に帰ってから、もう一度頭を整理して、ぜひ書き留めておかなくてはならない。

 

 私も出羽菊のお代わりを頼むことにした。何度も篠原の言ったことを反芻した。

 「……なあるほど。マクロ経済のからくりが少し読めてきたぞ」

 アキちゃんは、慌てて一升瓶とグラスを取りに行った。私自身どこまで理解したかおぼつかなかったが、マスターもアキちゃんも、とてもすんなり理解したとは思えない。そりゃあそうだろう。彼らはそれでもいっとき、篠原先生のよき生徒だった。

 戻ってきたアキちゃんはグラスに酒を注ぎながら、言った。

 「私たち、騙されてたんですね。でもどうすればいいんでしょう」

 私はブランデーグラスに注がれた出羽菊を、静かにゆすりながら、篠原の言葉を反芻した。そして言った。

 「どうやらそのようだね。どうすればいいか。それはゆっくり考えよう。まだ聞きたいことがある」

 わかってみると、そんなに難しいこととは思えなかった。すると、政治家やマスコミは、みんな騙されてることになるのか。

 「するとだな、財務省はどうしてそんなデマを振りまいて国民を総なめに騙してきたんだ。官僚にそんな悪意があると思えないんだが」

 「それはあいつらが省内で出世するために、自分たちだけのドグマに忠実になってるからとしか言えないな。あれは『緊縮真理教』ともいうべき一種の狂信団体だよ。各省や政治家へのその影響力は猛烈だ。それも邪教中の邪教だ。彼らは歳入と歳出の数字を机上で均衡させることしか考えてなくて、国民生活のことなんかこれっぽっちも考えてない。そうやって膨大な国民をこれまで不幸に陥れてきたんだ。だいたい税収だけで歳出を賄おうって発想が根本的に間違ってる」

 篠原は、千代鶴を荒っぽくあおった。

 私は目の前に出てきた、特大オムレツにゆっくり箸をつけながら、慎重に聞きただした。

 「篠原の考えに従うと、デフレ脱却のためには、政府が税収に依存しないで、もっともっと国債を発行して、積極的に財政拡大をすべきだ、ということになるかな」

 篠原は間髪を入れずに答えた。

 「デフレの時には当然だよ。特に未整備のままになってる地方のインフラ、全国の劣化したインフラにすぐにでも投資しなくちゃいけない。しかもこれは建設国債で賄って固定資産として残るんだから、本来、例の『借金』に含めるべきじゃないんだ。何しろ日本は災害大国なんだからな。インフラが地方に整備されれば、地方経済だって活気づくし、こんなに東京一極集中しなくて済むはずだ。ほかにも、科学技術の遅れとか、教育費や国防費の不足とか、社会福祉の切り捨てとか、みんなあの『緊縮真理教』から出てる。これさえなけりゃ日本はとっくにデフレ脱却して、いまごろGDP1000兆円ぐらい軽く超えてるよ。」

 

 若いカップルが入ってきた。アキちゃんが新しいお客さんのほうに走り、マスターは「いらっしゃい!」と威勢の良い声。しかし篠原は見向きもしない。アベックは、私たちのカウンターのちょうどうしろのテーブルについた。

 私は彼らのことを少し気にしながら、また声を落として聞いた。

 「それって、アガノミクスでやるはずじゃなかったっけ」

 「やるはずだった。国土強靭化とかいってな。でも阿川政権は、財務省に跪いちゃって、何にもできなかったんだ。金融緩和だけやって、財政出動しないから、金がブタ積みで、企業も怖いから投資に手が出せない。野党も、アガノミクスは失敗だったなんて与党攻撃してきたけど、そもそもアガノミクスは、その一番大事なところが行われてないんだよ」

 「おい、声を少し小さく。ところで、公共投資のために国債は、どんな情勢でも、いくら発行してもかまわないのか」

 「いくらでもってことはない。インフレが過熱しない程度まではな。それこそ、金利を睨みながら日銀と政府と二人三脚でコントロールしてきゃいいわけだ。これは通貨発行でも同じ。国債も通貨も、必要に応じて発行すればいい。大々的に公共事業もできるし、その経済効果で国内の需要も高まるだろう。そうすればさ、GDPが増えるから、税収だって増えるんだよ。そうそう、公共事業っていえばさ、ピークが20年前だったんだけど、いまその何%くらいか知ってる?」

 「7割くらいか」

 「4割ちょっとだよ。こんなんで、大災害が続いたら、日本はいっぺんで終わりさ。今年もあっちこっちで災害が頻発したけど、あのクラスのが首都圏を襲ったら、地方には助けようにも助ける力がない。」

 「それでおまけに消費増税か」

 「そう。阿川政権はとんでもないことやってるんだよ。消費増税は国民生活を苦しめるだけじゃない。グローバル企業の法人税を減税する肩代わりにも使われてるんだ。これやったら日本経済はもうダメだ」

 「要するにグローバルなほうに資本が全部向いちゃってるわけだな」

 「そう。これはやばいよ。日本のGDPは消費が6割だから、内需が落ち込んでいくと致命的だ」

 「もう一つ聞きたいんだけど、もし国家予算が国債や財務省の短期予算で賄えるなら、わざわざ国民から税を取り立てる必要ってなくなるんじゃないか」

 「いわゆる無税国家論な。理念としては可能だけど、現実にそれをやると、インフレの過熱を抑えるのが難しくなる。それと富裕層からたくさん取って社会保障などで貧困層に回すという、いわゆる所得の再分配機能が税にはあるからな。だから本来、消費税みたいな、貧乏人に負担がかかる税は、デフレ期には絶対やっちゃいけないんだ」

 「なるほど。インフレ抑制のためと、格差是正のために税はあるのか」

 「そう。財務省はこれまで、デフレの時にインフレ対策をやるという大バカなことをやってきた。だから、インフレが過熱して来たら、これまで取ってきた得意の緊縮路線をやればいいのさ。」

 

 後ろのアベックが海外旅行を話題にしていた。

 「バリ、すてき! 行ってみたいわ」

 「マレーシアもけっこういいらしいね」

 「ね、ふたりの休暇調整して、行こ、行こ」

 若い人はいいな、と思った。それで思いついた。

 「政府はIRとか、観光客の増加で稼ぐつもりらしいけど、あれはどうなのかね」

 すかさず、篠原が答える。

 「国内生産や国内労働者を大切にしないで、インバウンドで埋め合わせようなんて考えたらおしまいだよ。それこそギリシャみたいになっちゃう」

 この前、岡田が言っていたことと一致する。

 「だいち、インバウンドなんて見かけは目立つけど、何千万人来ようが、落としてく金なんて、GDPんなかじゃほんの微々たるもんだ。為替の影響も受けるし、輸入がちょっと増えただけで目減りしちゃう。それに、この前の話じゃないけど、これほとんどが中国人や韓国人で、残りは台湾人と香港人。なかにはビジネス目的もたくさんいるんだ。しかも観光地が荒らされて問題になってる。京都や金沢なんかたいへんみたいじゃないか」

 「そうだな。さっきの俺の話とも関係あるな」

 「関係ある、関係ある。大方の日本人はそういうことを見ないようにしてる。政治家もマスコミもな」

 「こういうこと考えてるのって、ごく少数派じゃないか」

 「そうさ。だから困るのさ」

 

堤 佑介Ⅷの1

                                     2018年10月24日(水)

 

 あれから西山ハウスに関していろいろなことがあった。

 西山さんから中国人を受け入れる旨の連絡があったのが、先週の火曜日の午前中。

 結局は背に腹は代えられないと考えたのか、それとも、トラブルが生じた時、いざとなればウチだけに任せず、接触に慣れた自分が出て行ってもかまわないと考えたのか、それはわからない。

 とにかくこれで、管理業務を請け負わなくてはならないことになった。

 すぐに入居希望者の陳秀洪さんに必要書類を郵送した。

すると、水・木の連休をはさんで金曜の午前にはすべてそろえて、奥さんが五歳くらいの男の子を連れて直接来所した。彼女はこの前も同伴していたそうだが、もう一度内見したいと言う。

 さすが中国人夫婦。書類提出の速さとその鋭敏なビジネス感覚に感心した。これから取りかかるリニューアル箇所をあらかじめ細かくチェックしたいのだろう。

 彼女は、普通の奥さんとは違うちょっと派手ななりをしていた。おそらく夜、お水系に勤めているのだと思われる。1年ちょっと前に夫に呼び寄せられて日本に来たそうだ。

 山下の手がふさがっているので、中村に頼むことにした。接客があまり得意でない彼では、押しまくられやしないかと少し心配だったが、まあ、何事も経験だ。

 案の定、帰社した中村に話を聞くと、ドアや窓の立て付け、隣室との壁の厚さ、水回りの劣化状態その他、いろいろな部分を詳しく調べ、図面の該当箇所にチェックマークを入れながら、カタコトの日本語で何度も質問したという。

 書類に遺漏はなかった。印象だけからすれば、なかなか堅実な夫婦のように思えた。

 「旦那に今日の調査報告をして、これからいろいろと注文つけてくるんだろうね」

 「そうだと思いますよ。西山さんがなんていうかですね」

 「まあ、覚悟の上だろうね。ただ敷金取ってないんだから、それが武器になるよね」

 

 それからあくる土曜、予想通り、いろいろな注文をつけてきた。日本人にもその手合いはいくらでもいるから、別に嫌な感じは抱かなかった。ただ、西山さんとの間で折り合いをつけるのが面倒なだけだ。

 久しぶりにスタッフに昼食をおごることにした。みんなで近くのファミレスに集まった時、そのことが話題になった。

 「いや、私も言葉の壁があるのと、とにかく細かいんで苦労しましたよ。普通の倍近く時間がかかったんじゃないかな」

 中村が弱々しそうにぼやいた。

 「すみませんでしたね。ほんとはわたしが当たるべきだったのに」と山下。

 「いえいえ、それはいいんですけどね」

 「ったく、たかが8万かそこらの家借りんのに、文句が多いんだよ。先が思いやられますね」

 強気の八木沢が毒舌を吐いた。

 「しかし、これは中国人に限ったことじゃない。最近の借主は、安い家賃の家に限ってけっこうタカビーなのが多くて、ああだ、こうだとクレームつけてくるよ」

 岡田がとりなすように言った。そこで私。

 「ストレスが溜まってるんだろうな。これも不景気からきてるんじゃないか。阿川政権になってからワーキングプアはずっと1100万人超えてるし、生活保護世帯はここ20年で急増して160万世帯で高止まり。アガノミクスなんてデタラメだよ。国民の不満は相当高まってると思うね」

 「そこへもってきて中国人がどんどん入ってくるんでしょう。西山さん大丈夫かしらね」

 山下が心配そうに言う。岡田がそれを受けて、

 「西山さんもだけど、これは日本人全体の危機ですよ。インバウンドなんかで浮かれてる場合じゃないよな。だれか優秀な政治リーダーはいないんですかね」

 みんな黙っているので、私が答えた。

 「どうもいそうもないね。もっと危機が深刻になると出てくるかもしれないけどね。とにかくいざなぎ越えなんて、政府はインチキな発表ばかりしてるし、こうやって貧困層が増えると、貧困層どうしでいがみ合いになりやすいんだな」と、私。

 「悲しいことですね。それはとても」

 山下が感に堪えたように言った。その溜息混じりの調子がみんなの笑いを誘った。

 「どうして日本はこんなことになっちゃったのか、私もよくわからない。今度、大学で社会学教えてる友人と会う約束になってるんで、じっくり聞いてみるよ」

 まあ、ぼやいていても仕方がないから、それぞれの持ち場で頑張るしかない、という平凡な結論でこの粗末な昼食会は終わった。

 

 一方、普通の若夫婦とゲイカップルとは、それぞれ日曜日と月曜日に書類をそろえてきた。

 私はどちらにも応対しなかったが、若夫婦は2階に、ゲイカップルは1階、中国人と一つ間を開けた部屋に入居することになった。

 また同じ日曜日に、新しい入居希望者があった。西山さんよりは少し年下の老夫婦だ。担当にあたった本田によれば、年金暮らしで、夫のほうは、デパートの地下駐車場入り口での交通整理をやっている。臨時雇いだそうだ。奥さんはパートに出て何とか生活をしのいでいる。あまり風采の上がらない雰囲気だったという。

 老夫婦は中国人とゲイカップルの間の部屋に入居することになった。

彼らは皆、汚れた部分のクロス張替えやクリーニングなど、標準のリニューアル以外に格別の注文をつけたわけではなかった。しかし私はこの三組が並んで入居する結果になったことに、何となく嫌な予感がした。

 とはいえ、オーナーにとってはとにかくありがたいことで、今のところ西山さんの作戦は成功したと言ってよかった。こんなに短期間に四組も入居が決まったのだ。残るは2階の二室だけとなった。

 さらに昨日の火曜日、西山さんに来てもらって、陳さんの注文とのすり合わせを行った。電話でだいたいのことは話してあったので、彼は別に嫌がるふうは見せなかった。

しかしあまり面白い話でないことはたしかである。そこで私は、他の新しい入居者のことを伝えて、ご機嫌を取った。

 「ほんま、おおきに。思うとったよりずっと早く埋まりましたな」

 さすがに西山さんは相好を崩した。頬と目尻の皺がいっそう深くなった。

 「ええ。あと2室も早く埋まるといいですね」

 「ま、そううまくはいかんやろけどな」

 「期間をおいて、第2弾という手もありますよ」

 「そやね」

 西山さんはまたにっこりした。

 「それでさっそくですが、例の陳さんの要求の件ですが……」と、私は図面を出して、陳さんの奥さんがチェックした点を一つ一つ指摘していった。

 「あ、いろいろおますようやけど、全部はあきまへんな。建具関係は代えるわけにいかんね。敷金も取っとらんのやから。網戸の隙間なんて我慢してもらうんやな。ほんのちょっとですやろ。壁も穴が開いてるわけやないんからどうしょうもない。ノブの不具合は調整してもらいましょ。フローリングの傷の大きなもんも、直しましょ。あとは何でしたかな」

 「風呂とキッチンの水道栓の締りが悪いんで、パッキンを代えてくれと」

 「それはOKやな」

 「あと、照明器具関係ですね。少し暗いっていうんですよ。これは他の入居予定者もちょっと言ってましたけどね」

 「そりゃしかし、器具全体を代えんでもええんとちゃいまっか。とにかく点くんやから。LEDでも何でも、新しい電球自分で買うてきてつけりゃえやないか」

 「そういう契約条項になってますね。それで当面いいと思います。全部代えたら出費もかさみますからね。……ただ、これは先の話ということになりますが、いずれいろんなところが痛んできますから、ちょくちょくリニューアルしていく必要がこれから出てくると思います。私どものほうで借主さんと怠りなく接触を保つようにして、何かクレームが出た時には、そのつどアドバイス差し上げることにいたします」

 西山さんの笑顔は消えていた。「しんきくさいこっちゃね」とつぶやいて、相談は終わった。

 夕方、先方に貸主の条件を伝えようと電話すると、会社が休みなのか、夫の秀洪さんが出た。早口だった。しばらくごねていたが、敷金ゼロを持ち出して粘ると、向こうもさすがに折れてきて交渉が決着した。

あとは、入居時期を決めてもらって、契約書を交わすのみだ。やれやれ、と思ったが、あの嫌な予感は消えなかった。ほんまにしんきくさいこっちゃ。

 

 そして今日は休日。篠原との約束の日だった。

 午前中は洗濯、昼飯は牛乳とベーコンで、スパゲッティ・カルボナーラを作った。冷蔵庫がさみしくなっていたので、午後は買い出し。

 篠原と会うまでまだ時間があった。フルニエの弾くドヴォルザークのチェロ協奏曲を聞き、ちょっとばかり感傷に浸った。チェロはいつも女性に呼びかけている――そんな気がしたのも、乾いた日々を送っている私の我田引水か。

 「夕凪」へは私のほうが早かった。スマホに連絡メールが入った。20分ほど遅れるという。だいぶ忙しいらしい。

 先にビールとつまみを頼んで一人でやっていた。休日にこの店に来たことはなかったが、客は他にはいない。

 やがて篠原が猫背を丸めて入ってきた。なんだかどことなくじじむさくなり、髪の毛も少し薄くなったような気がする。早くも冬物のジャケットを着込んでいるせいだろうか。

 「やあ、たいへんそうだな」

 「悪い、悪い。さっきまで少子化問題対策懇談会ってやつに出ててさ。ちょっと議論がもめてた。……あ、すいません、ビール。それと……堤、適当に頼んで」

 私はメニューを見ながら、生ガキ、さつま揚げ、特大オムレツ、刺身盛り合わせ、などを頼んだ。

 「なに、それは政府の機関?」

 「まあ、政府の息のかかった外郭団体だな。こないだ堤が言っていたように、『子ども手当なんかに金つぎ込むより、若い男女の出会い機会を増やす方向に積極的にシフトべきだ』ってぶったら、きょとんとしてる会員もいるんだな。頭の固い連中が多いんで、なぜそれが必要か説明するだけでも骨が折れたよ」

 「それで説得されたのかね」

 「まあ、理解してはくれたものの、動きゃしないだろうね。それと、感じたのは、女性会員のほうがこういうことには理解が早いな」

 「なるほどね。そうかもしれない。女性は愛については男より真剣だからな」

 篠原はジョッキを傾けて少し飲んでから手を止めて、カウンターに置き直した。

 

 「そういえば、お安くないことをこないだ言ってたな。あれからどうした」

 アキちゃんに聞かれたりすると恥ずかしいので、私は声を落とした。

 「どうもこうもないよ。ただあんなこともやってみるかくらいの軽い気持ちさ」

 「だけど、あれは、相当コストがかかるんだろ」

 篠原はこちらのことなど忖度せず、いつもの大きな声だ。私はちょっとはらはらした。

 「本気でやったらね。まったくいいかげんじゃ意味ないから、まあ半分本気ってことで、一応『6か月コース』申し込んで、12000円払わされたよ」

 「それで? いい『物件』が見つかったかい。もうかれこれ10日も経ってるだろ」

 「物件」と言ってくれたので助かった。それなりに心得ているようだ。

 私はさらに小声になる。

 「それがあんまり熱心に見てないんだよ。顔写真だけはヒマつぶしみたいによく見てるけどな。マッチングしたのも二、三あったけど、どうも言ってることが俺の趣味じゃないっていうか、ありきたりっていうか。そういえば67のばあさんもいたな。ちょっと引くよ」

 「しかし、67はともかくとしても、おぬしもあんまり歳のことなど言ってられないんじゃないか」

 「そりゃわかってるさ。しかし全体としては、若い連中どうしで盛り上がってるだけみたいなところがあるから、こちらは片隅でそっと」

 「何だ、目の保養か。そりゃ堤自身のほうも情熱が足りないな」

 「そうかもしれない。何しろ、仕事のほうで厄介なこともあってな。なかなか気持ちがそこまで回らないんだ」

 「厄介なことって?」

 

 私は西山ハウスの1件をかいつまんで話した。

 篠原は興味を示して、途中、いろいろと口をはさんでディテールを知りたがった。特にゆくゆくけやきが丘がイタリアのプラートみたいになってしまうのではないかという懸念を漏らしたところでは、次のようなことを言った。

 「その懸念は、気持ちとしてはよくわかるな。じつはあれから、中国の不動産爆買いのことが気になって、埼玉の芝山団地と群馬の大沼町に行ってみたんだ。大沼町はブラジル移民で有名だよね。ところが、あそこも韓国人や中国人がどんどん増えてる。低賃金で食っていけないブラジル人たちが、教会にすがるだろう。そこでコンビニをにわか作りの教会に改築して、プロテスタントの韓国人牧師が管理してる。ブラジル人はカトリックなのにね。その背後には中国が絡んでいるらしい」

 「へえ、そうなのか」

 「芝山のほうは、すでに7割以上が中国人らしい」

 「え、7割以上? ネットには半分近くって書いてあったと思うけど」

 「掃除のおじさんに聞いてみたら、そう言うんだよ。何しろ羽場空港に大きな案内広告が出てるそうだ。トラブルはあるかって聞いたら、そりゃあるけど、立場上言えないって答えてた。印象的だったのは、玄関に各戸のポストがあるだろ。部屋番号が打ってあるだけで、名札がほとんど入ってないんだよ。たまにあると、それは日本人名。日本人は高齢化してるから、ここはそのうち乗っ取られるだろう」

 「うーん。中国人には、『郷に入ったら郷に従え』ってのがないからなあ」

 「それと、北海道や沖縄や対馬の不動産が中国や韓国に爆買いされてるのはけっこう知られてるけど、いま問題になってるのが、奄美大島の東端の西古見っていう35人しかいない集落に、5000人だか7000人だかの中国人を乗せた20万トン級のフェリーが停泊する計画が進んでいるんだ」

 「国交省は何してるのかね」

 「いや、何言ってんの。国交省のお墨付きで推進されてるんだよ」

 「反対運動は起きてないのか」

 「起きてるけど、それが奄美の美しい自然を守れっていうエコ系の運動なんだ。それはそれで大事だけど、国防の要地を守れっていうんじゃないところが問題だよ。それだと辺野古の珊瑚を守れと同じになっちゃう」

 「この前も同じ話ししたけど、とにかく日本じゃ、外国人の不動産取得はフリーパスだからな。『外国人土地法』には、相手国の土地規制と同じ規制を政令で定めることができるって書いてあるのに、政令を出したことは一度もない。これじゃ戦争なんかしなくたって、領土をどんどん侵略されちゃうよな」

 「そう。これ知ってる? いま全国で所有者不明の土地が九州全体より多いんだって」

 「ああ、聞いたことある。400万ha超だってな」

 「さすが不動産屋。これも恰好の餌食だな。誰かが買って、転売されちゃったら、全然追跡できないんだそうだ」

 「だいたい、登記が任意ってのが異常だよ。日本の土地行政はないに等しい。登記を義務化すれば、それを土台にして外国人の土地購入の規制もしやすくなると思うんだが」

 「それも今の緊縮財政下じゃ難しいだろうな。義務化するためには登記費用を安くしてもらわなくちゃ困る。そうすると国の負担を増やさなくちゃならんからな」

 一身上の話をしていた時は小声で済ませていたが、こういう天下国家問題になると、自然と声が大きくなる。普段あまり口を利かないマスターもカウンター越しに耳を傾けていたらしく、中トロをきれいな手さばきで切り分けながら、珍しく自分から言葉を発した。

 「そりゃひどいですね。政府はいったい何してるんだろ」

 「そうなんですよ、マスター」

 「ウチなんかも関係ありますね。漁場が荒らされたら、お客さんにいいネタ出せなくなりますよ」

 新しい客が来ないのをいいことに、アキちゃんまでが真剣そうに聞いていた。

 篠原が言った。

 「漁場といえば、釧路なんかもう危ないですよ。港の周りに中国系企業がひしめいてるからね。あそこは北海航路の拠点にしようってんで狙われてるんだ。そういう事態に対して政府も北海道庁も、何ら対策を講じようとしない。幕末のころ、ペリーが来たでしょ。あんときは幕府の官僚が頑張って、外国人の国内移動距離を港中心に半径何キロ以内ってちゃんと決めたんだよ。そのころ中国では西洋人が国内を勝手に歩き回ってたからね。その中国が今度は、北海道をはじめとした日本の不動産を買いあさってるんだ。あのころの日本の気概はどこに行っちゃったのかね」

 鎖国を解いて国を開こうという時代と今とでは比較にならないだろうと思ったが、それにしても、こんなに自分からグローバリズムを受け入れてしまうのは日本人の気概が失われたからだという篠原の意見には賛成だった。

 私が黙っていると、アキちゃんが言った。

 「なんか、戦争しないで平和でいいって思ってたら、いつの間にか土地は取られてるし、移民はどんどん入ってくるし、怖いですね」

 「そ! アキちゃんとやら、いいこと言った。ドンパチだけが戦争じゃないんだ。これからの戦争は、サイレント・インヴェージョン、つまり静かな侵略といってね、経済戦、情報戦、歴史戦の時代なんだよ。不動産爆買いは経済戦の一種だな。だからもう戦争は始まってるんだよ」

 マスターが言った。

 「でもそれに対して政府は何にもしようとしないんですよね、負けっぱなしのままですか。日本は滅びちゃうじゃないですか」

 「とにかくデフレ脱却してまずは国力つけなきゃどうしようもないな。マスターの言う通り、このままじゃ日本は滅びるよ」

 ビールの泡を唇に残しながら、前回と同じように、吐き捨てる口調で篠原が言った。

 この前「財務省は諸悪の元」と言った篠原の言葉の、その深い意味を聞きそびれたので、今回そこを突っ込んでみることにした。

 「しかし不思議なんだが、デフレ脱却できてないのに、消費税を増税しなくちゃならないのはなぜかね。やっぱり国の借金で財政破綻しちゃまずいからか」

 「え!? 堤までそう思ってるのか。こりゃ財務省やマスコミの洗脳が隅々まで効いてるな。国の借金1000兆円で財政破綻ってのは、ありゃ、全部、財務省が流したデマだよ」

 「デマ?」

 虚を突かれて、思わず私は聞き返した。

 「そう。三十年以上も前から政治家やマスコミを巻き込んで流してるデマだ。現に破綻なんかしてないじゃないか。国債金利はゼロだし」

 「しかし財政が苦しい中で、これから借金を続けていけば……」

 「これだから洗脳効果の恐ろしさには、今さらながらあきれる。だいたい国の借金て言葉がよくないよ。まるで俺たちが借金してるみたいだ。現に国民1人当たり800万円とか言って脅しつけてるからな。」

 「じゃ、なんて言えばいいんだ」

 私は自分も洗脳されていると言われて、ちょっとむっとしたが、篠原の言うことが本当なら、これはぜひ聞いておかなくてはならない。マスターもアキちゃんも、口を開けて黙ってしまった。

 「あれは、政府が日銀当座預金を通して銀行なんかから借りてるだけだから、『政府の負債』というべきなんだ」

 「ふーん。しかしいつか返さなきゃまずいことも確かだろ」

 「返す必要なし。破綻の可能性もなし」

 「なんだって? どうして」

 私は自分が常識だと思っていたことが、そのまま裏返しにされたような気がして、びっくりしてしまった。

 

 

 

 

半澤玲子Ⅷの2

 

 「ここには何回くらい来てるんですか」

 「そうね。五、六回かな」

 「お家でも自炊なさるんですか」

 「ええ。外食はみんなで飲む時とか、どっかに出かけた時だけかな。」

 「偉いですね。おひとりなのに」

 これはちょっとカマをかける意味があった。でも動揺したふうは見せない。

 「いや、ひとりだからこそ、やりたいようにできるんですよ。山歩きするでしょ。山で炊事する時も、固形燃料をもってって、火おこしから始めるんです」

 ボロは出さない。ごく自然な調子で答えたので、ほんとにひとりなんだろう。

 「へえ、すごいですね。メッセージ交換始めたころ、先生だからインドア系かって思ってたんですが、アウトドア系でもあるんですね」

 「はは、原始人ですよ。いや、僕はね、毎日10時には寝て、4時には起きるんですよ」

 「え? どうしてそんなに早起きなんですか」

 「早朝マラソンと、授業準備。いつの間にか習性になっちゃったんだな。動物みたいですよ」

 「真冬でも?」

 「真冬でも」

 違和感と言うほどではないが、こういう自分のポリシーをガッチリ守っている人には、何となくなじめないものを感じた。

 さっき食事に誘った時だって、どこに行くかもう決めてあったらしく、わたしの希望を尋ねもしないで、さっさと店まで連れてきた。ふつう、「何が食べたいですか」くらい聞くんじゃないかしら。

 ぐんぐん引っ張って行ってくれるという意味でなら、頼もしいと言えないこともない。でもちょっと強引な気がする。もう少しこっちの意向を尊重してほしい。

 こんなに自律的でマイペースで生きてるなら、なんで婚活なんかわざわざするんだろう。やっぱりセックスが目的? もしそれだけならもっと若い恋人を作ればいい。ヘンな話だけど、高収入なんだから、こっそり風俗に通ったっていい。それとも60近くなって、さすがに伴侶が欲しくなったのかしら。

 やっぱりそうなんだろうなあ。

 しかしそれなら、もう少し、初対面の女性にいろいろ関心を持ってくれてもいいはずだが、ほとんど自分のことばかり話して、わたしのことを聞こうとしない。

 メール交換していた時は、けっこうスムーズにコミュニケーションができていた。

 試しに『広い世界の端っこで』の話を出してみたら、彼も見たといっていた。そして爆心地近くで被爆し『夏の花』という作品を発表してから、後に自殺した原民喜という作家のことを詳しく教えてくれた。連想で、大学時代に自殺した自分の友人のことも。

 いい文章だった。

 毎日、計算ばかりしていて味気ない、岩倉さんのように自由な生き方をしている人がちょっと羨ましいと伝えたら、平凡な日常を生きるってけっこうたいへんなものですよね、と的確な同情の言葉が返ってきた。

 でも会ってみると、文章から感じられたあの紳士的で文学的で優しいイメージとはずいぶん違った。

 わたしのことをどう思っているのか、はっきり聞くべきだと思った。相手のことを、ほんとに気遣っているようには見えない。食器をカウンターに運びながら頭の中で急いで作戦を練った。戻ってきた時、思い切って聞いた。

 「今日初めてお会いして、わたしのこと、どう思いました?」

 「え? あ、ああ。素敵だと思ったよ。年齢よりずっと若いし。またお会いしたい」

 「ほんとかしら?」

 やや媚びるような目線を送りながら、作った声で迫ってみた。自分でもいやらしいとちょっと思ったけれど。

 岩倉さんは、ふさふさ頭をごしごしと掻いた。明るすぎる電灯の下で、フケが光って散った。

 「ほんとだって。メールにも書いたでしょう。こうして会えたのも何かの縁ですよ」

 「じゃ、今度、わたしがお誘いしたらつきあってくださる?」

 「もちろん」

 「仕事が忙しくて、残業もありますし、あまり予定が組めないと思いますけど、それでもいいですか」

 「いいよ。仕事何だっけ」

 唖然とした。ボケてるのじゃないかと思った。やはりわたしの勘は当たっていたのだ。

 「レオン本社で、経理やってます。メールで書いたの、お忘れ?」

 「ああ、そうでした。ごめん、ごめん。そうね。計算ばかりで味気ないって書いてたね。……うん。」

 それ以上、わたしのことを何も聞いてこない。そのぎこちない間が空くのを潮時と見て、わたしは時計に目を走らせながら、いきなり言った。

 「すみません。明日もちょっと、家で処理しなくちゃならない仕事があるんで、今日はこれで失礼します」

 「え? もう帰っちゃうの? まだ8時前だよ」

 「岩倉さんも早く寝なくちゃならないんでしょう?」

 「ま、そりゃそうだけど……。じゃ、わかった。また今度」

 あっさり承諾した。ほんとに未練があるんだったら、もう少し引き留めろよ。今日はあなたに会えた特別の日だからとか何とか言ってさ。

 お互いのマイレジを持って、会計カウンターに向かった。予想した通り、おごってはくれなかった。合計金額を割り勘にしてもくれなかった。わたしの伝票のほうが、二品プラス、チャージ代がついて、はるかに高かったにもかかわらず。

 

 職場での続けての失敗の理由が、土曜日の岩倉さんとの出会いにあることは明らかだった。

 わたしはいい年をして、インテリであること、高収入であること、そして文章がうまいこと、登山好きのようなロマンチシストであること、これらのことに幻惑されてしまったのだ。

 自分の弱さを思い知らされた。苦い後味が残った。

 日曜日一日、前日の出会いが何だったのかをくよくよと考え続けた。

 

 わたしから誘うと言ったけれど、もちろんその気はなかった。向こうから誘われると断りにくい。誘うと言っておいて、だんまりを決め込むつもりだ。もししつこく連絡してくるようだったら、折を見て、付き合いを断つ旨を伝える。

 それにしても、あの口臭には参った。ネットにいかがわしい治療CMがあれほど出ているわけだ。身近で誰も指摘する人がいないのだろう。それはプロフィールがインチキではないことの証拠かもしれないと思って、何とか我慢した。

 口臭なんて小さなことで、せっかくできたつながりを壊してもよいのか、と一度は考えた。またわたしの職場がトイレタリー系だから、よけい気になるのか、とも。

 いやいや、しかしこれは小さなことではない。会うたびにあのにおいを嗅がなくてはならないのだとしたら、どうしても我慢できない。それを面と向かって言うわけにもいかない。言ったことで相手が傷つくというより、気分を害するだけで、意に介さないんじゃないかしら。そうなると、お互いの気分がいつもギクシャクするだろう。それはなんだかとても嫌だ。

 以前、わたしと同年輩のある独身女性の家に行ったら、犬を飼っていた。犬は嫌いじゃないけど、コッカースパニエル系なので、臭いが部屋に相当強くこもっている。本人は気づいていないようだ。そんなに親しい仲じゃなかったので、その時も注意しそびれてしまった。

 その話をよくもののわかる年長の女性にしてみたところ、「今度行ったときに、消臭剤を持っていって、『はいこれ、ワンちゃんにプレゼント』とさりげなく渡せばいいんじゃない」とアドバイスしてくれた。なるほどと思ったが、それきりその家に行くことはなかった。

 ウチでも口臭を抑える商品はいくつか出している。マウスピュアという名の系列で、歯磨きから口内噴霧液、錠剤、サプリなど。

 でも、相手は犬じゃなくて、人だ。「はいこれ、あなたにプレゼント」というわけにはいかないだろう。消してもらいたいなら、やはりはっきり言うのでなければ。

 それに、関係を続けたくないという気持ちは、口臭だけが理由ではない。

 あの人は、自分の生き方というものを強く持ちすぎている。そうして、それに対する疑いを抱いていない。人からその生き方を批判されたり、もう少し妥協が必要だと忠告されたりしても、けっしてそれを変えようとはしないはずだ。

 ロートレックで支払いを別々にしたのも、「心豊か」で自分のマイ伝票のぶんしか支払わなかったのも、ただのケチというのとは違う。

 相当な年収があって、その年収を何につぎ込むかについて、はっきりした目的があるので、他のこと、わたしたちの日常生活を作っている些細なことに配慮する気がないのだ。本当は、そうした些細なことへの配慮が、人と人との関係を円滑にしていくことにとってすごく大事なのに。

 だからわたしも、あの人の視野の中では、一個の人格を具えた人間として見られているというよりは、「そろそろ伴侶が必要になってきた」という自分本位の気持ちの一対象としか見られていないのだと思う。それは今度の登山では新しいピッケルが必要だというのと同じに違いない。

 そう考えると、口臭が強いという体の特徴と、あくが強いという性格の特徴とが重なって感じられた。それは同じ一つのことなんだ、たぶん。

 わたしが彼とつきあい続けたとすると、その付き合いのスタイルはどんなふうになるだろう。彼は情熱をもって、わたしを強引に自分の世界に引き込もうとするだろうか。

 そうじゃないと思う。

 彼はきっと、わたしのことを、自分の周りにある、あってもなくてもいいような、でもあった方が便利な道具みたいに扱うだろう。

 それにしても、「文は人なり」なんて言うけれど、この言葉が当てはまらない例を、岩倉さんとのたった一回の出会いで、わたしは手ひどく味わったわけだった。

 

 溜った澱のようなものを、日曜一日ぼんやり過ごすことで、何とか洗い流せると思っていた。ぼんやりと言っても、きちんと反省して、仕切り直しにまで持っていくことで。

 けれど無意識のレベルまでは、どうも清算できていなかったようだ。それがおとといときのうの失敗になって現れた。

 

 そして今日。

 今日はさいわい職場では何事もなく、平穏無事に過ぎた。仕事も比較的早く終わった。

 それにしても失敗の連続。

 投入れを割っちゃったほうは、会社に弁償すれば済む話だし、そんなに心のダメージも大きくはなかったけど、昨日のやつはきつかったな。

 でも、ふと、さくらちゃんがあんなに思いやってくれたことを思い出した。あれはありがたかった。

 そして、お土産までついていた。彼女の婚活はうまく行きそうだ。わがことのようにうれしかったっけ。

 しかし、とわが身に戻ってみて、さて、今回の挫折で、このやり方での彼氏探しはもうあきらめるか。それとも、たった一度出会っただけなんだから、もう少し続けるか。

 エリに相談してもいいんだけれど、エリは今、それどころじゃないだろう。彼女はあれからどうしたろう。別れたろうか、まだ続けているだろうか。

 いずれにしても、いまはまだ会うべき時じゃない。ここは自分で決めるしかなかった。自己責任、自己責任。

 結論が出ないときは、「ふーちゃん」みたいにお風呂に入るに限る。今日は体が温まるマイバス4にしよう。

 

 お風呂から上がって、何となくスマホを開いて、Fureaiアプリに行ってみた。ぜんぜん期待など抱かずに。

 一応習慣のように毎日見てはいたけれど、マッチングが来ていても、まじめに相手のプロフィールを探ってあれこれ迷うのはやめていた。岩倉さんに焦点を絞っていたからだ。

 その焦点がもう完全にぼやけてしまった。かといって、誰かほかの人を積極的に調べるという気も生まれてはこなかった。

 ただ、少し気分を変えたかった。これまでマッチングしてきた男たちのプロフィールを、お風呂上がりの気分で野次馬式に追いかけてみた。ちょうど大して読む気もない雑誌をパラパラめくるように。

 写真、年齢、プロフィールの文章、どれもいまいち。趣味の一致するケースは多かったが、趣味の欄は、わたし自身があれこれ寄せ集めて書いているので、共通項があったとしても、実際には、感性としてそんなに重なり合うとは限らない。みんな同じようなことをたくさん並べるものだ……。

 

 ふと10日前に来た男のプロフィールが目に留まった。

 

堤 佑介婚活サイトFureaiプロフィール】

 ニックネーム:ゆう

年齢:55歳(認証済み)

 身長:171㎝

 タバコ:吸わない

 趣味:音楽、美術、映画、落語鑑賞、読書、気の合った友人との会話

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

仕事に追われる毎日です。

趣味欄にいろいろ書き並べましたが、どれも忙しくて思うに任せません。

離婚してから13年経ちます。

もう遅いかもしれませんが、連れ添う人を求める気持ちが募ってきたので、

無理とは思いながら登録してみました。

一人娘は成人して職を持ち、別れた妻と同居しています。

自分は昔から不思議がり屋のところがあり、

ものごとを理屈っぽく考えるたちです。

いろいろな社会問題に関心があります。

いまの仕事は、さまざまなお客様とじかに接することが多いので、

人間好きの自分には適しているのかもしれません。

あまり自分から希望を語るべきではないとは思いますが、

もしお付き合いしていただけるなら、

世代が近く、共通の話題を持てる人がいいと考えています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 《ディテール》

職業:中規模不動産会社営業所長

休日:水曜日、第三木曜日

体型:中肉

  居住地:東京

  出生地:横浜

家族:長女一人。両親は他界。

同居人:独り暮らし

年収:700万円以上

  婚姻歴:離婚

  好きな料理:和食、イタリアン、その他何でも

  お酒:飲む

  性格:真面目・明朗・好奇心旺盛

  学歴:四大卒

  休日の過ごし方:読書、散歩、覚書を書く、音楽鑑賞(主にクラシック)、時々落語

  転居の可能性:時と場合による

  望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

  初デートの料金:自分が全額負担

 

 ほかのプロフィールとはちょっと違う、と感じられた。ほかのは、自分を売り込もうという気が見え見えなのが多い。

 でもこの人のには、それが感じられない。文章の調子は、ちょっと硬くて、ぶっきらぼうと言ってもいい。年のせいかもしれない。

 でもその前にまず顔。

 不動産屋って、偏見持ってたけど、なんか、らしくない雰囲気してる。特に美男てわけじゃないけど、眼鏡の奥のちょっと垂れ眼気味の目が優しそうだ。それでいて意志が強そうで口元がきりっとしている。歳のわりに、オヤジ臭くなくて、どことなく可愛い。

 物事を真剣に考えるタイプっていうか、「ディテール」の性格欄に「真面目」と書いてあるのと、そんなにギャップがない感じ。

 離婚やその後の家族関係をわざわざ書いてるのも、正直そうで好感が持てる。

 「不思議がり屋」「理屈っぽく考える」「いろいろな社会問題に関心がある」「気の合った友人との会話」――こんなことを書いてくる人はあまりいない、と思う。少なくともわたしが受け取ったプロフィールの中にはなかった。

 そして、休日の過ごし方として、「覚書を書く」というのが、いちばん変わっている。そんなことあえて書く人がいるだろうか。

 おもしろい人だ。不動産の営業なんてやりながら、それとは別の自分をどこかにしっかりと取っておいているようだ。謎めいている印象がある、と言ったらいいかな。

 もっとも岩倉さんだって、教師をしながら、登山に情熱を傾けていた。そういう意味では共通しているわけだけど、これくらいの年長者になれば、わらじを二足も三足も履いている人はたくさんいるだろう。

 でもこの人のは、そういうこととはどこか違っている。仕事と趣味、というのではなく、「社会問題への関心」にどうしても引きずられて行ってしまうという感じなのだ。

 覚書って、いったい何を書いているんだろう。思わず興味を持ってしまった。

 もちろんとんだ食わせ物だっていう可能性もある。岩倉さんで失敗したばかりなのに、書いてあることをそのまま信用しちゃいけない。

 しかし、わたしは、こういう試みにとにかく踏み込んでしまったのだ。やめてしまうか続けるか、さっきまでどっちつかずの堂々巡りをやっていた。

 けれど、仮に続けるなら、こういう変わった人をマークするのも一興かもしれない。どうせアラフィフのババアだ。それに10日も前に発信されているから、もう別の人とマッチングが成立しているかもしれない。ダメ元のつもりで噛んでみるか。

 さくらちゃんの明るい未来を想像して、そしてお風呂に入ってさっぱりしたら、なんだか元気が出てきて、やるだけやってみようという気になっている自分を発見した。

 疲れてはいたけれど、こちらからメッセージを送って、その反応を見るのも面白い。なんだか妙に強気になって、昨日と一昨日の失敗に対する取り返しをしてやろうかとも思った。

 

 《初めまして。

  マッチングしてうれしく思います。

  わたしはあまり自分からこんなことをするタイプじゃないんですけど、プロフィールを拝見して、関心を惹かれました。

  これからお話しすることにご興味がなければ、どうぞそのまま聞き流してください。

  まだこのサイトに登録してからそんなに時が経っていないのですが、数少ない方たちとのマッチングがありました。でも、「ゆう」さんのプロフィールは、わたしには、他の方とは違った一風変わったユニークなものに思えました。こんなことを申し上げてお気に触ったらお許しください。

  どこにそれを感じたかと言うと、いくつかあるのですが、いちばん興味を惹かれたのは、休日の過ごし方の欄に「覚書を書く」とあるところです。どんなことを書いていらっしゃるのかな、と知りたくなりました。

  また、「いろいろな社会問題に関心がある」とのことですが、どのような社会問題でしょうか。わたしはむずかしいことはわかりませんが、日頃考えていることとの間に少しでも共通点を見出せたら、うれしく思います。

  お忙しそうで恐縮ですが、お返事いただければ幸いに存じます。

 

 わたしにしてはずいぶん大胆なことを書いてしまったな、と思ったけれど、なに、かまう

ものかと半分破れかぶれみたいに決心して、送信ボタンを押した。やはり岩倉さんとのことの反動の気持ちが強かったのかもしれない。

 これで今夜はぐっすり眠れるような気がした。

 

半澤玲子Ⅷの1

                                  2018年10月24日(水)

 

 昨日はずいぶん冷え込んだのに、今日はまた、9月下旬並みの暑さだという。それに昼夜の温度差が激しい。毎日何を着ていくかに苦労しなくてはならない。

まるで最近のわたしの動揺する心みたいだ。

 おとといときのう、社内で続けて失敗を犯した。

 ひとつは、おとといの昼休み、早めの食事から帰ってきた数人のグループとすれ違う時、エントランスに自分で活けたコリヤナギに腕が大きく触れ、花瓶をひっくり返してしまったのだ。ずいぶんぼーっとしていたようだ。花瓶は割れ、水が四方に飛び散った。

 さくらちゃんが宣伝してくれたせいで、しばらく前からエントランスの活け花は、わたしが担当することになっていた。

 ちょうどまた、活け花でもう一度頑張ってみようかなどと思っていた矢先だったので、金曜日に少しばかり凝ってみた。翌日岩倉さんに会う予定になっていたので、心の弾みも手伝っていたかもしれない。

 投入れの口元に赤いバラを数本あしらい、コリヤナギを縦と横に大きく伸ばした。なかなか評判がよかった。それが災いしたのである。

 きのうの失敗はもっとまずかった。

 月ごとの収支報告書の明細に打ち込んだ数字に、一部間違いがあることを指摘されたのである。これを間違えると、決算から社員の給料まで、全部やり直さなくてはならない。給料日は明日。

 中田課長が、何とも言えない複雑な目をしながらわたしのほうを見ていた。睨むというのでもなく、同情的というのとも違う。

 面と向かって叱ることはしなかったけれど、部下のミスは上司の責任でもある。査定に響くことは覚悟しなくてはならないだろう。彼に意地悪されても仕方ないと思った。

 ともかくこのミスのおかげで、きのうは深夜までかかり、帰りはタクシーだった。

 さくらちゃんが自分から申し出て手伝ってくれた。最後まで付き合うと言ってきかなかったが、彼女を深夜まで引き留めるわけにはいかない。終電時間を見越して、ある程度目途がついたところで、帰ってもらった。

 なぜこんな失敗を重ねたのか、理由はもちろんわかっている。

 

 ミスの修復に費やしたきのうの残業中、一息入れようと、お茶にした。さくらちゃんがコンビニで買ってきてくれたおにぎりを食べた。

 話は自然、彼女のお見合い(代理婚活)のその後を聞くほうに向いていった。あれから2か月くらい経ったかしら。

 「ええ、それがですね。あれ以来、全然音沙汰なしなんですよ。やっぱ振られたんでしょうね」

 さくらちゃんはさばさばした調子で答えた。

 「そうだったの。それは残念ね」

 「いいんです。希望なくしてません」

 その声と表情がとても明るい感じだった。

 「そうね、そのポジティブな姿勢が一番大事よね」

 わたしは、いまの自分の気持ちを押し隠し、つとめて彼女を励ました。

 「じつは、一か月ほど前に、婚活バスツアーっていうのに参加したんですよ」

 ああ、そういうのもあったなと、思い出した。イベント系は年齢制限が厳しかったが、40代対象のバスツアーというのもないではなかった。

 でも複数の見知らぬ人たちがいきなり同じ場所に集まって時間を共有するという企画にはなじめず、わたしは初めから候補から外したのだった。

 でもさくらちゃんなら、いかにもお似合いだ。身を少し乗り出した。

 「あらそう! それでどうだったの?」

 「ええ。一応マッチングしました。わたしより2つ年上で、とても誠実そうな人です。話していて気が置けないっていうか。ツアーの最後にカップル誕生おめでとうみたいな大げさな儀式があって、3組の中の一組に入っちゃったんですね。そんときは、恥ずかしくって、ちょっとやめてくんないかなって思ったんですけど」

 これはまんざらでもない雰囲気だ。さらに身を乗り出した。

 「それから? その人とはデートしてるの?」

 「はい。週一ぐらいで、二人の時間が空くときに」

 さくらちゃんの頬がほんとにさくら色に染まった。これだから若い人はいい。

 「まあ、よかったじゃない。今度は、きっとうまく行きそうね」

 「だといいんですけど」

 うん。これはほんとにうまく行きそうだ。わたしは、自分のことは差し置いて、心から祈らずにはいられなかった。くやしさ、嫉妬、そんな感情はみじんも湧いてこなかった。

 

 話はわたし自身のことに戻る。先週の土曜日、20日午後4時。

 わたしが少し早めにロートレックに着いて待っていると、岩倉さんは時間ぴったりに現れた。几帳面な人なのかな、と思った。そうか、先生だものね、と合点が行った。

 ちょっと緊張した。なるべく薄化粧にして、グレーのツィードのワンピースに淡い水色のジャケット。落ち度はないか、急いで自分を見まわし、髪を整える。

 岩倉さんは、写真よりももっと武骨な感じだった。身長のわりに頭が大きい。白髪混じりのふさふさとした髪にあごひげを生やしていた。スポーツシャツにウィンドブレーカーというラフな格好。山男みたいだ。そう、山歩きが好きだって書いてたっけ。

 「初めまして。岩倉です。どうぞよろしく」

 頭をほとんど下げず、気さくな感じで挨拶した。太い、よく通るバスだった。唇のずいぶん分厚い人だと思った。

 「半澤です。どうぞよろしくお願いします」

 「僕はコーヒー。半澤さんは?」

 「わたしは……そうですね、じゃあカフェオレを」

 慌てて答えた。てきぱきとことを進めていくのが好きなタイプらしい。

 しばらく今年の異常気象のこととか、旅行や山登りなどお互いの趣味とか、当たり障りのない範囲で話をしているうち、だんだん打ち解けてきた。

 日本の有名な山はだいたい登りつくしたので、還暦を過ぎたらアルプスやヒマラヤに挑戦したいという。情熱的な人のようだ。ついていけないのではないかと、ふと不安を感じた。

 「お仲間と昇るんですか。それとも一人で」

 「仲間と昇ることもありますが、一人のほうが多いですね。ほら、思惑がぶつからないで気楽じゃないですか」

 「すごいですね。山に憑かれる魅力って何ですか」

 「そこに山があるからだ……っていうのは冗談で、やっぱり苦労して登頂した時の達成感でしょうかね。下界を見下ろしながらゆっくり深呼吸する。最高の気持ちです」

 「高山植物との出会いなんかも素敵でしょうね」

 「ああ、それもあります。ユキワリソウとかとかコマクサとかね。特にユキワリソウは可愛いですね。今年のゴールデンウイークに一人で剣岳に昇った時、咲いてたんですが、あの時は恋人に会ったみたいな気持ちになったなあ」

 わたしは笑いながら、「まあ、よかったですね」と相槌を打ったが、ちょっと無神経だな、とかすかに思った。彼はこちらを気にするふうはなく続けた。

 「イワベンケイって知ってます?」

 「ああ、ごめんなさい、知らないです」

 「急峻な岩場なんかの厳しい環境に生えるんですが、その名の通り、よくこんなところにって、その生命力の強さに驚きますね。こっちが必死に昇っている時に、さりげなく咲いてるんですよ。あれも感動的だったなあ」

 それから彼はスマホを取り出して、最近撮ったといういくつかの花を見せた。わたしは顔を近づけて画面を覗き込んだ。イワギキョウ、シナノキンバイ、ミヤマリンドウなど、わたしも知っている花だった。どれもなかなか見事に撮れていた。

 「スマホがなかった時にはね、大きいカメラで撮って、帰ってから図鑑で調べて、アルバム作りましたよ。5冊くらいあるかな」

 「まあ。勤勉でいらっしゃる。拝見したいですね」

 「今度持ってきましょう」

 お世辞で言ったつもりだったのだが、彼はこれからもつきあい続けることを自明のように考えているらしかった。それとなく誘うテクニックともとれないことはないけれど、どうもそうとは思えない。

 じつは自己紹介した時から気になっていたんだけれど、口臭のひどく強い人だった。写真を見るために顔を近づけたらいっそう臭ってきた。露骨に顔をしかめるわけにいかず、これ、何とかならないのかな、と思った。

 「きれいに撮れてますねえ。まさに天然の活け花ですね。そっくり取ってきて飾ってみたくなります」

 顔をできるだけ遠ざけてから、気を取り直してもう一度フォローした。その気持ちに偽りはなかった。

 すると彼は、両手でバツ印を作って「それはNG」と言った。

 人里離れた高山に咲いていてこそ高山植物の可憐な魅力が味わえるのに、「そっくり取ってくる」なんてもちろん思わない。本気で言ってると思ってるのかしら。

 そんなこと知ってますよ、と返してやりたかったが、気まずくなるのを避けた。

 「活け花用はみんな栽培植物ですからね」

 「そういえば、ワレモコウってニックネーム見た時にね。おもしろいなって思ったんですよ。だって、あの花って、あんまり目立たないでしょう。僕は野山でよく見かけますけど、知ってる人、少ないんじゃないかなあ」

 「ええ、でも活け花ではけっこう使うんですよね」

 「うん。それ知ってね。納得しました。華道には全然詳しくないんですけど、大原流ってのもいいですよね。蒼華流なんて、派手さで見せているようなもので、奇をてらっていると感じるんですが、どうですか」

 話題が華道の話になって、ひと安心。

 「ええ、メールでそう書いてらしたわね。わたしも同意します。でも、最近は、どの派もいろんな試みに手を出していて、あんまり区別がつきにくくなってきてます」

 「そうなんですか。よく言えば自由、悪く言えば伝統の喪失……」

 「ああ、そういうことになりますかしら」

 わたしはそういうとらえ方でお花の世界を見たことがなかったので、新鮮に感じた。

ただし、そこまでだった。

 「いや、僕の授業でね、いろいろ感じるんですが、古典と現代文と両方やってるでしょう。

そうすると、伝統の喪失ってことをすごく感じるんですよ。たとえば、戦前の近代文学では自然主義が主流になってましたが、あれは明治になって西洋文明がどっと入ってきてから、そうなったんですね。でも僕は、本来の自然主義が誤解されたと思ってるんです。日本の伝統が否定されると同時に、自然主義イコール私小説みたいになって、ヘンな歪んだものになってしまった。大きく言って破滅型と身辺雑記型とに別れるんですが」

 心配したとおり、ちょっとついていけないものを感じる。

 「……」

 「それとね、短歌なんかでも、現代短歌は、古典的なものとまったくちがってしまった。瓦沙智さんてご存知ですよね」

 「ああ、あの『マリネ記念日』の。高校のとき読んで、私たちのこと歌ってるみたいって感じて、すごくぴったり来ました」

 「いや、たしかに彼女の登場は新鮮だったし、才能のある人だと思います。それはそれでいいんですが、現代文の教科書には、子規以降の近代短歌しか載ってないんですよ。もちろん瓦さんのを載せているのもあります。でも本当は、古典から現代へとつながっている、そのつながりと変遷を教えるべきだから、国文の歴史と対になるような形の教材づくりをすべきなんですね。そうすれば、瓦沙智だって、ああ、こういう流れの中で出てきたんだ、こういう必然性があるんだってことがわかって、高校生にもっと深く伝統を味わってもらえる」

 男の蘊蓄というやつだ。エリに、ちゃんと聞いてやれと偉そうにアドバイスしたっけ。そうアドバイスした手前、ちゃんと聞かなきゃと思って聞いていた。言いたいことは半分くらいはわかった。

 「あの、難しいお話で、全部わかったかどうか自信がないんですけど、お教室で、そういう形で教えることはできないんですか。教科書通りでなくて」

 「いやあ、一応、私立の名門校ですから、生徒は勝手に勉強はしますがね。だからけっこう教師の自由裁量でできる部分はありますよ。でもいかんせん、年間カリキュラムの拘束が強いんでね」

 そういって彼は、授業計画の一覧表を出して見せた。自分で作ったのだという。手書きだった。風貌に似合わず、小さくてきれいな字がびっしりと書き込んであった。

 「大枠が決められているので、それに沿って、この日は何をやり、次の時間はこれ、というように計画を立てておかないと、全体をこなせない。そこを踏み外すのは、なかなかできないんです。性分でしょうね」

 やっぱり几帳面な性格なんだ。きっと、私などよりはるかに事務能力に長けているのだろう。でももっと羽目を外しちゃえばいいのに。わたしの高校時代なんて、そんな先生、いっぱいいたけどなあ。

 「だから、さっき言ったようなことを本気でやるには、時間が足りない。おまけに文科省の縛りがだんだんうるさくなってきてる。いま、大学でも即効性のある教育が求められていてね、実用的なほうへ、実用的なほうへとシフトしているんです。そうなると、高校も大学受験で実績出さなきゃならないから、それに合わせざるを得ない。助成金打ち切られたらおしまいですからね。まったく文科省はろくでもないことばっかりやってる」

 見ると怖い顔をしている。

 ご説自体は正しいように思えたが、こうして強い調子でまくしたてられているうち、なんだかわたしが怒られているような気がしてきた。分厚い唇から漏れる口臭もだんだん耐え難くなってくる。

 だいたい初デートでしゃべる話題かしら。山や活け花について話していたさっきまではまだよかったのに、自分の仕事にかかわることを興奮してしゃべっているうちに、聞き手の気持ちを思いやる姿勢がだんだん奥にしまい込まれてしまったようだ。もしかして、大勢の生徒相手に毎日講義してるから?

 

 食事をしないかと誘われた。

 新高野に面白い店があるという。本宿三丁目から地下鉄で四つ目。少し抵抗があったが、せっかく出会ったのだし、この人のことをまだよく知らない。もう少し付き合うべきだと思ってOKした。

 レジのところで、岩倉さんは、お店の人に「別々に」と言った。もちろんそれで構わないが、ちょっと引っかかった。時間に正確、几帳面、お金の面でも、もしかして?

 

 彼が連れて行ってくれた店というのは、「心豊か」という名で、なんと自分で厨房に入って食材を選び、自分で料理するのだ。飲み物はカウンターで注文する。梅酒50円からという安さ。

 店は50人ほど座れる広さで、6時前なのに、もうかなりにぎわっていた。土曜日なので、パーティに使う人が多いらしい。

 マイレジというのを首からぶら下げて、食材に貼ってある価格シールをはがして伝票に張り付ける。エプロン、食器、調理用器具、調味料などはタダ。ただし初めての客は、30分200円のチャージを取られる。

 厨房には、どんな料理にも対応できるように、食材が山ほど積まれている。それに営業用の大型冷蔵庫。ガスコンロが一列に何台も並んでおり、中央に調理台。どちらにも男性女性が数人、せっせと立ち回りを演じていた。

 岩倉さんは、料理が得意らしい。メニューをいろいろ考えてきたようで、食べられないものはないかと聞いてきた。

 「大丈夫です」

 「じゃあ、中華で行こうか。餃子と、レバニラ炒めと、バンバンジーでいいかな」

 「はい」

 「僕が餃子を担当するから、玲子さん、レバニラとバンバンジーお願いできる?」

 「は、はい」

 早くもファーストネームで呼ばれていた。中華はあまり得意でない。それに、このお献立って、ちょっと偏ってないかしら。まあ、それはいいとして、バンバンジーは簡単だが、レバニラは、っと、レシピを一生懸命思い出そうとした。

 「あ、レシピだったら、その棚にいろいろ本があるよ。わからなかったら僕が手伝うから」

 エプロンをさっさと身につけながら、こちらが準備しているゆとりもないままに、岩倉さんはてきぱきとことを進めた。こういうところはなかなか頼りがいがある。

 でも、とわたしはふと考えた。これって、もしかしてわたしを試しているんじゃないかしら……。いや、そんなことを考えてるゆとりはない。

 鶏ささみと、キュウリ、トマトもあった方がいいな。それからっと。レバー、どれくらいがいいかしら。岩倉さん、大食いなのかな。それを予想して、少し多めに取り出す。

 たしか牛乳にかなりの時間つけとくんじゃなかったっけ。自信がないので、本をめくって、簡単レシピの項を見ると、15分とある。

 これなら、その間にバンバンジーを作ればいいな。ささみともやしはチンでいいだろう。酒と塩で味付けしたが、耐熱容器がみつからない。

 「岩倉さん、すみません。耐熱容器、どこですか」

 岩倉さんはすでにボールにひき肉やキャベツ、ニラなどを入れてこね回している。

 「あの高いところにあるよ」と、ぶっきらぼうに答える。

 ところが今度は、レンジがあいにくふさがっている。空くまで待たなくちゃ。

 その間に、野菜を洗って、キュウリを細切り、トマトをていねいに八つ切りにしていく。ついでにニラ、ニンニク、ショウガも切っておく。レンジが一つ空いたのを横目で見つけ、すぐに占領。4分くらい、か。

 今度は、ゴマダレ。これは既製品で間に合わせる。

 再び岩倉さんのほうを盗み見ると、餃子の皮で材料を包みにかかっている。その手つきはプロ級だ。

 そろそろレバーを牛乳から出し、水分を切って片栗粉でまぶし、フライパンに入れて調味料、ニンニク、ショウガを。

 こんがりしてきたので、ニラをからめる。これで何とか出来上がり、のはずだ。

 餃子の焼けるいい匂いがしている。

 「岩倉さん、ニンニクとショウガもご自分ですりおろしたんですか」

 「そうだよ。オイスターソースも入れたよ」

 

 競争心を煽られた。受験生のような気分を久しぶりに味わった。焦ったせいで、買ったばかりのワンピースにゴマダレのしずくをこぼしてしまった。

 でもとにかく何とかやりおおせた。餃子は時間がかかるから、この分業はまあ適切だ。

 それぞれを二皿に分け、テーブルに運んでから、二人ともビールを注文した。

 「玲子さん、マイレジがまだかかってるよ」

 「あらやだ、アハハ……いやあ、馴れないんで」

 「さて、お手並み拝見……うん、なかなかよく出来てますよ」

 岩倉さんは、厳しい調理師のような目つきをしながら、バンバンジーとレバニラを代わる代わる口の中で味わっていた。

 「ありがとうございます。この餃子もほどよく焼きあがっていて、すごくおいしいです」

 立ち込める料理の匂いで、岩倉さんの口臭が気にならなくなった。

 それだけではない。共同作業をやった時の充足感のようなものが、さっきの彼の強引な印象を和らげている。

 いっしょにお料理して、いっしょにそれを食べる。そのことが、わたしの気持ちをほぐして彼にいくぶん近づけたことは事実だった。