半澤玲子ⅩⅤの2

 

 そして今日、28日になった。

 昨日、かなり遅くなって疲れていたにもかかわらず、早く目覚めた。

張りつめるような寒さだが、快晴だった。しかしそれは関東だけで、他の地域はだいたい曇り。夜には全国各地で初雪が見られるかもしれないという。東北や北陸には今年も豪雪の季節がやってくるのだろうか。つくづく南関東に生まれ育ってラッキーだと思った。

 ゆうちゃんの家に早く行ってみたくて、10時少し前に家を出た。日岡は駅前に大学があるので有名な駅だ。彼のマンションは、大学とは駅の反対側。家から1時間ちょっとでたどり着いた。赤いタイル貼りのしゃれた中層マンションだ。4階までエレベーターで昇った。ほんとに鍵がなかなか見つからなかった。そうね。簡単に見つかったらやばいよね。

 やっと探り当てて、ドアを開いた。 

 わたしのところより、間口が広いタイプで、しかもリビングがかなり大きかった。でも隣のベッドルームとリビングとに本棚やラックがあって、かなりのスペースを占領している。南向きで、日当たりがよかった。斜めに差し込む真昼近い日のために、白木のコーヒーテーブルが反射光でまぶしいほどだった。

 エアコンのスイッチを入れた。

 ソファの上にノーパソが投げ出してある。ラックにはCDやDVDがかなり並んでいる。間に趣味のいい花器や陶磁器のたぐいがいくつか置かれていた。中の一つ、この花器だったら活け花に使えるなと思った。

 ダイニングの壁には、ワイズバッシュのリトグラフ。チェロとバイオリンのデュオの絵だ。

 カウンターキッチンなので、これならお互いにお話しができる。矢原町のマンションにも愛着はあるけれど、ここもすっきりしていてとても快適だ。早く引っ越してきたいと思った。

ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。

 

 《愛しいれいちゃん、おはよう!💛

  よくいらっしゃいました。

  昨日までお仕事、お疲れさま。

  今日は、3時までには帰れると思います。

  僕はオフィスのほうでお昼を済ませるので、

れいちゃんは、冷蔵庫の中のものを適当に食べてください。

  なるべく早く帰ります。

  鍵は僕も持っているので、内側からかけておいてください。

  たいせつなれいちゃんに何かあったら大変!

                          佑介

 

 そういえば、彼の文字を見たのは、これが初めてだ。さらさらと流れる、女みたいなきれいな文字だった。最近の男の人には珍しい。活け花を習いたいというのが本気なんだというのがよくわかる気がした。

 冷蔵庫を開けてみた。ほんとに出羽菊の一升瓶が入っていた。いろんな食品が買い込んである。冷凍ご飯も作ってあった。それからシンクの脇にウイスキーが置いてある。昨日も飲んだのかしら。

 ベッドルームを覗いてみる。こちらには、不動産関係の本もあったけれど、多くは文学や哲学の本だった。フェルメール展の時ふたりで買った画集も下のほうに収まっていた。政治や経済の本もあった。『国富と戦争』という分厚い本に、付箋がいっぱい貼ってあった。取り出してみると、随所に線が引いてある。

 

 適当に昼食を済ませた。待ち遠しかった。しばらくしてからおもむろに「幻のポトフ」の準備にかかった。

 カチャリと音がした。わたしはキッチンから飛び出した。

 「お帰りなさい!」

 「ただいま!」

 抱きついてずーっとチューしていた。二週間ぶりよ、二週間ぶりよ、と心の中で叫んでいた。

 「ワイン、赤と白と買ってきたよ」

そういえばゆうちゃんは、重い鞄を肩からかけて、ワインの袋を片手に提げたまま、わたしを抱き締めていたのだ。

 「あ、ごめん、ごめん!」

 わたしは思わず笑ってしまった。

 

 まずは赤ワインで乾杯した。

 「お疲れさま。今年の秋はれいちゃんに会えて最高でした」

 「お疲れさま。わたしもゆうちゃんとこんなふうになれて、最高でした」

 ゆうちゃんも、キッチンに立って、スモークサーモンのサラダを作った。

 ポトフをふたりのお皿にたっぷりと。ソーセージが上等品だった。ゆうちゃんは、うまい、うまいと言って食べてくれた。たくさん作ったので、明日の分もまだある。

 「幻のポトフが現実になったね」

 「ほんとね」

 「もうすぐ、お母さんにお会いするんだね。緊張するな」

 「あら、全然大丈夫よ。母はすごく喜んでるから。久しぶりに楽しいお正月になりそうだって」

 「そう。元日でいいの?……妹さんご一家、お正月に来るんでしょう?」

 わたしは、例のいきさつを話した。少し意地悪が過ぎる調子だったかもしれない。ゆうちゃんは、じっと聞いていて、「そういう相性の問題って、しょうがないよね」と言った。

 「そういえば、ゆうちゃんのお兄さんのこと、これまであまり聞いたことなかったんだけど……」

 「兄貴? ああ、何とかやってるよ。あれはどうでもいいよ」

 「仲、悪いの?」

 「いや、そんなことない。ほんの時々、会って飲むけど、仲いいよ。でももう1年以上会ってないかな」

 「お仕事、何してるんだっけ」

 「ふつうの会社員だよ。機械メーカー関係。60になったのかな。いま定年が延びてるでしょう。だからあと5年くらい勤めるんじゃないの。退職したら田舎に引っ込んで百姓やりたいとか言ってるけど、どうだかね。あの人はものぐさだから」

 「どこに住んでらっしゃるの。ご家族は?」

 「横浜の江南区って南のほう。ご家族はですね。奥さんと息子ひとり。晩婚だったんで、まだ中学生じゃないかな」

 江南区って言えば、詩織が滑り止めに受けるって言ってた江南女学院があるところだ。

 「お百姓さんって、土地かなんか持ってるの」

 「うん。なんか、何年か前に長野県に買ったとか言ってた」

 「いずれお会いしなきゃね」

 「そうね。紹介します。そのうちね」

 そっけない言い方だ、と思った。ほんとにどうでもいいと思ってるみたい。男の兄弟ってそういう淡々としたものなのかもしれない。何となく羨ましく感じた。

 ゆうちゃんは立ち上がって、出羽菊を取り出した。

 「れいちゃん、どうする。ワインがいい? それともこっちに切り替える?」

 「そうね。わたしもお付き合いするわ」

 彼は籠に入ったたくさんのぐい飲みを持ってきた。

 「どうぞ、お好みのを」

 「わあ、いろいろあるのね。じゃあっと、これ」

 わたしは九谷を選んだ。ゆうちゃんは、ちょっと大きな志野。一升瓶をそおっと持ち上げてわたしのに注いでから自分のになみなみと。

 「お母さんのところ、生徒さん、何人くらいいるの」

 「ああ、ちゃんと確かめたことないけど、12、3人じゃないかしら」

 「12、3人ね。もしれいちゃんが先生になったら、30人くらいにしなくちゃね」

 「エー、そんなにできるかしら」

 「れいちゃんならできるよ。僕も援けるから」

 「でもゆうちゃんはお仕事で忙しいでしょう?」

 「うん、当分はね。でも、そのうち兄貴じゃないけど、身の振り方考え直そうかなとも思ってるんだ」

 「……」

 「このまま不動産屋続けていても、なんか空しい気がしてね。じゃあ、どうするかっていってもいまのところさしたる計画があるわけじゃないんだけど」

 声が沈んでいた。それきり彼は下を向いて黙ってしまった。何かあったのと聞こうとしたけれど、そのちょっと重苦しい雰囲気が、かえってわたしを思いとどまらせた。それから彼はふっきったように、顔を上げた。

 「ごめんごめん、心配しないで。こないだ56になったでしょう。60代が見えてきたよね。ほら、やっぱり20年以上同じ仕事続けてるとさ、ここらでもう一回、人生やり直そうかな、なんて、らちもないこと考えちゃうんだよ。それだけ」

 わたしとの出会い、そしてわたし自身がいま人生を変えようとしていること、それが知らず知らずのうちに影響を与えているのかもしれない。たしかにこの人、不動産業で一生を終えるには、多くの豊かなもの、有り余るものを持ちすぎてる。できることならちょっと勇気を持たせてあげよう。

 「わかるような気がするわ。ゆうちゃん、いろんなことできる人だもんね。それに、いま、昔の56と全然違うでしょう。まだまだ新しいことに挑戦できると思う」

 「ありがとう。それはわかんないけど、こないだも冗談半分で言ったよね。……これはいまのところ単なる空想だけど……たとえば、れいちゃんが華道の道を突き進むんだったら、営業の経験生かして、それにからむ形で、協同事業みたいなこと構想してもいいかなって」

 わたしも、それにはにわかに答えられなかった。そういうことでなくても、もっと何か……。

 「ほんとの意味で第二の人生ね。いますぐ決めなくても、ゆっくり考えればいいわよ」

 「そうだね。うん。ありがとう。でも、いずれにしても、あと三、四年は続けるよ。その間に考えればいい。拙速は禁物だよね」

 彼の表情がいくぶん明るくなった。どうぞお酒を召しませ、とばかりに、今度はわたしが重い一升瓶を抱えて彼のぐい飲みに注いであげた。彼はいきおいよくそれを飲み干した。

 こんなふうに、一気飲みするゆうちゃんを初めて見た。やっぱり何かあったんじゃないだろうかと、じつはちょっと心配。

 わたしは気分を変えるために、さくらちゃんの話をした。話題としては明るい話題ではないけれど、やや他人事のような調子をわざと作って、わたしたちの幸運を強調するつもりだった。心の中では、彼女のことをすごく気遣っていたんだけれど。

 さくらちゃんとは、あれ以来、突っ込んだ話をしていなかった。お互いに何となく距離ができた感じだった。でもきのうの残業の時、彼女のほうが先に退社するので、別れる時に親密なあいさつを交わした。ついでに、「来年は絶対幸運が巡ってくるわよ」と励ましてあげた。さくらちゃん、がんばって。

 「ほら、さくらちゃんだけじゃなくて、エリみたいに隘路に嵌り込んじゃった例もあるでしょう。だからわたしたちってすごくラッキーだと思うのね」

 「その通りだね。こないだ篠原と会ったんだけど、打率1割くらいじゃないかなんて言ってたな」

 お酒はほどほどにして、ポトフをもう一度お皿に盛り、ご飯を食べた。

 

 いっしょに後片付けを済ませてから、リビングでコーヒーを飲んだ。ゆうちゃんがテレビをつけると、韓国のレーダー照射のその後を報じていた。それによると、韓国政府は最初、レーダー照射を認めていたにもかかわらず、きのうになって、照射そのものを否定したという。そして今日の夕方、防衛省はようやく哨戒機が撮影した当時の映像の公開に踏み切ったというのだ。

 「これってひどいわね」

 「ひどい。でもある程度予想されたことだよ。これは毅然と対応しない日本が悪いんだよ」

 ゆうちゃんは、冷静な調子で答えた。あまりのことにもう怒る気もしないのだろう。少し韓国の話をしたが、適当なところで打ち切った。

 「いつ引っ越してこようかなあ」

 「楽しいね。それ考えるのって。そうだ、売りに出すとき、僕の会社の深草営業所ね、あそこに出せばいいんだ。査定をなるべく高くしてもらえるよう、僕が話を入れておくよ」

 「でも査定が高くてもその値段で売れるとは限らないでしょう?」

 「それはそうだけどね。初めに安い査定されると、オーナーは何となくそれに引きずられて、安くつける傾向があるんだよ。いったん安くつけちゃうと、上げるわけにいかない。まずは査定額よりある程度高く出して、様子を見る。焦らず、ゆっくり」

 「あ、そういえば売るの急ぐ必要、全然ないのね。先に引っ越しちゃったっていいんだもんね」

 「そう。あんまり売り急がない方がいいよ。買い手がついてからもね、負けろとか言ってくる客けっこう多いけど、これ以上は絶対引きませんて、頑張りとおした方がいい。手の内明かしちゃうけど、不動産屋は早く手数料欲しいもんだから、先方の言うことを聞いてやってくれないかってしつこく口説いてくる。でも落とされちゃだめだよ」

 「そういうの、ゆうちゃんもやるの」

 「やるし、部下にもやらせる。正直、あんまりいい気持じゃないけどね」

 あんまりいい気持じゃないってところに、この人らしさを感じた。

 「わかった。がんばるね。時期的にはいつごろがいいの。やっぱり転勤や新学期控えた3月?」

 「うん。一般的にはそうだけど、れいちゃんの場合、特にこだわらなくても大丈夫だよ。あそこならいつ売りに出しても、買い手つくと思う。ただ『いっぱち』って言って、一月と八月は避けた方がいいけどね。それと、引っ越して空き家にしてからお客さんに見てもらった方が、見映えがするよね」

 「早く引っ越したい」

 「僕も早く一緒に住みたい。ただ、ここだと、荷物多いでしょう。それで、お花飾るスペースが足りないんじゃないかって」

 「あら、わたしのところより広い分だけ、結局おんなじよ。これだけあれば大丈夫よ」

 それからゆうちゃんは、しばらく考えるふうをした。やがて何か思いついたらしかった。

 「でもやっぱり二人で住むとなると、ちょっと手狭だよね。だから、いっそここも売って、もっと広いところに引っ越す手もある」

 「ああ、考えてなかった。それいいかもね。家探す専門家がここにいるし。新居探し、楽しいしね」

 わたしはうれしくなって、ゆうちゃんの首に抱きついた。口を思い切り口で塞いだ。彼が何か言ったけどもぐもぐしてわからなかった。

 「でも、ゆうちゃんはこの街に愛着とか、ない?」

 「特にないなあ。いろいろと便利なところだけどね。でももっといい所もたくさんあるよ。れいちゃんはどの辺に住みたいとかってある?」

 「ゆうちゃんがいればどこでもいい。でも、あえて言うならぁ……」

 「あえて言うなら?」

 「ねえ、ゆうちゃんの職場の近くってダメなの? 職住近接」

 「それはいいアイデアだけど、あそこは高いんだよね。少し前、駅前に東海不動産が300戸くらいの新築マンションを売り出したんだけど、70平米台で何と8000万くらいしてた。それでもすぐ完売だったね。資産家が運用のために買う人もけっこういるみたいで、その賃料が何と28万」

 「すごいわね。それはちょっと無理ね」

 「うん。あれは条件がよすぎるからね。でも条件下げれば見つからないこともないよ。築浅の中古で賃貸って手もあるしね。駅から多少遠くてもいいなら、安いところも見つかると思う」

 一緒に新居探しなんて、考えただけでうきうきしてくる。わたしが退職したらゆうちゃんの休日を利用して二人で探せばいいんだし、不動産見つけるのにこんな強い味方はいないんだし。

 それから話が少し具体的なほうに進んだ。マンションか戸建てか。ペットを飼おうか。それだと戸建てのほうがいいかもしれない。もっとも猫ならマンション、犬なら戸建てかな。

 「れいちゃんは犬と猫とどっちが好きなの」

 「私は猫ね。実家で飼ってるのよ。ハナっていって、もうおばあさんだけどね。ゆうちゃんは?」

 「僕はどっちかっていうと犬派だけど、猫のほうが気楽でいいかもね。あと、資金のこともしっかり考えとかないとね。これかられいちゃんが活け花やってくのにいろいろ必要でしょう」

 「それはそんなに心配しなくって大丈夫だと思う。貯金も多少あるし、退職金ももらえるし」

 「そうだね。僕も貯金はいくらかあるし、ここを売ればそこそこお金もできるし……。そうだ、年が明けたらちゃんと資金計画立ててみよう」

 「うん!」

 

 ふと、ダイニングのリトグラフが目に入った。チェロの絵を見て、こないだゆうちゃんが勧めていたドヴォルザークのチェロ協奏曲のことを思い出した。

 「ねえ。ドヴォルザークのチェロ協奏曲、聴かせてくれる?」

 「ああ、そうだったね」

 ゆうちゃんは立って、すぐにラックから目的のCDを取り出してかけた。慣れた手つきだった。

 牧歌的なホルンの響きが入ったやや長い前奏の後に、それを引き継いでチェロが不意に躍り出てくる。感傷的なところと力強いところが入り混じって、わたしをどこか異郷に連れていってくれるようだった。一度聴いたら忘れられない曲だ。

 しばらく陶酔の境地に浸っていた。終わってから余韻を楽しんでいると、ゆうちゃんが「どう?」と聞いてきた。

 「いいわねえ。一曲全体がすごく一つの曲想でまとまってる感じ。楽章が違っても同じ曲の変奏みたいね。チェロって、なんていうか、すごく女泣かせだわ。ゆうちゃんみたい」

 彼は私のおしまいの言葉に思わず笑いを漏らした。それから言った。

 「最近、年のせいか、こういう感傷的な曲がしきりに聴きたくてね」

 明るい声だったが、そこに微かな憂愁の影のようなものが感じられないでもなかった。

 ふたりとも肩を寄せ合いながら、かなりの間じっとしていた。年のせい――それだけじゃないと思えて仕方がない。彼がさっき、いまの仕事に対する倦怠のようなものをふと漏らしたのがやはり気にかかった。

 

 不意に彼がボソッと言った。

 「お風呂一緒に入らない? 狭いけど」

 急に言われたので、ちょっとどぎまぎしたけれど、うれしかった。からだの内部から熱くなってきた。雰囲気ががらりと変わった感じがした。

 わたしが先に入って、からだをシャワーで流していたら、すぐ彼が入ってきた。男のものが聳えているので、笑いながらそれにシャワーをかけた。それからお互いにシャワーのかけっこをして、ふざけ合った。その間だけは、何もかも忘れて、子どもに返ったみたいだった。。ふざけ合ったあげく、わたしたちは、窮屈なお風呂場のなかで結ばれた。ベッドの上とはまた違った不思議な快感が全身を満たした。

 背中の流しっこをしてから、湯船に一緒に入ると、お湯がどっとこぼれた。それを見て、わたしはなぜか、こもった空間でふたりだけの儀式を終えたような感覚に襲われた。

 「ねえ」

 さっきのふざけ合った華やぎは薄らいでいき、どことなく厳粛な気持ちになった。

 「ん?」

 「これからも一緒に入ろうね」

 まじめな調子で言った。

 「うん」

 彼も真面目に答えた。

 

 「私のベッドより広いね。これダブル?」

 「セミダブル。これでふたりじゃ、やっぱり狭いよ。引っ越したら、ダブルかクイーンズに買い替えよう。」

 ゆうちゃんが、ズームスイッチを最低まで絞った。

 同時にベッドインして、お休みのキスを交わした。

 薄暗がりのなかに、大きな本棚と遮光カーテンだけのシンプルな室内がぼんやりと浮かび上がる。タイマーをかけてつけっ放しにしたエアコンの音が静かに流れている。

 なかなか寝付かれなかった。いろいろな想念が浮かんでくる。

 こうしていま、かたわらに好きになった男の人がいる。腕と腕とが触れあってお互いの体温を伝え合っている。

 去年の今頃、わたしは年末の忙しさに疲れたからだをひとり、狭いベッドに横たえていた。おととしも、さきおととしも、その前の年も。

 わたしは、それぞれの年に何を考えていたのか。

 何にも考えていなかったのかもしれない。変わることのない時の流れに倦んで、ため息ばかりついていたのかもしれない。慣れ切った仕事を毎日こなし、こんなふうに年老いていくのだなと、あきらめの気持ちがしだいに深まっていった。おそらく、そのあきらめの気持ちそのものにも慣れていったのだろう。

 いろいろな人々のことが頭をよぎる。

 

 そう、さきおととしの秋には父が亡くなったのだった。肝臓がんで入院した時、母がほとんどつききりで看病していた。手術を含めていろいろな治療を試みたが、やがて治療はもう無理だと言われた。わたしも妹も何回か見舞ったが、行くたびに衰えていく様子がわかった。

 余命いくばくもなくなったころ、個室のドアを開けると、父は「玲子か」と意外にはっきりした声で言った。母はその時、どこかに外出していた。

 「お前はお母さん思いのいい子だ。これからもお母さんを大切にしてやってくれ」

 わたしが涙ぐんでいると、目ざとくそれを見つけた。

 「人にはそれぞれの寿命というものがある。玲子、これでいいんだよ。だからこそ人生には輝きもあるのさ。お父さんは少しも後悔してない」

 それが最後に聞いた言葉だった。

 いい言葉を残してくれたと思ったが、それでも、その同じ年の暮れ、私の人生はまだ輝きの片鱗も見えなかった。それなりに明るい毎日を過ごしてはいたけれど。

 

 エリ――何度も援けてもらったのに、いま彼女は苦境の中にいて、わたしは何の力にもなってあげられない。あれからどうしたろう。彼女のことだから、きっと闘いに挑戦しているに違いない。これからどういうふうに荒浪を乗りきっていくのだろう。

 強くて颯爽としたエリ、そのエリがこの秋には、二回、自分からわたしに援けを求めてきた。そうはっきり助けてくれと言ったわけではないけれど、いまから思うと、やはりあれは参っていたのだ。もう少し何かしてあげられなかっただろうか。してあげることはできなくても、せめてもう少し何か言ってあげられなかっただろうか。

 年が明けたら、一度こちらから連絡を取ってみよう。たとえば、わたしが彼女の了解を得て、彼氏に会ってみる。三人でか、一対一でか。そうすれば、何かがつかめるかもしれない。何か具体的で適切なアドバイスをしてあげられるかもしれない。そういうアクティヴな踏み込みが必要だ。

 

 さくらちゃん――あんなに甲斐甲斐しくて、真面目で、可愛いさくらちゃんが、短い間に三回も機会を逸してしまった。今の時代、いや、いつの時代でも、結婚することが必ずしも女性の仕合せに結びつくわけではないけれど、でも彼女は明らかにそれを求めていた。

 佑介さんが言っていたように、結婚したくても、いろいろな理由で結婚できない人たちが、いま日本中に溢れている。みんな一生懸命工夫しているのに。

 私のようなちっぽけな個人が接することのできる人なんて、ごく限られてる。その限られた人のことをいくら心配してあげても、それでもその人の運命をいい方に変えることができなかった。まして多くの知らない人々の人生に影響を与えるなんて、できるわけがない。

 せめてさくらちゃんのような素敵な子が仕合せをつかむことができるように、祈り続けるしかない。

 

 中田さん――あわてて去って行ったあの後姿が忘れられない。「じゃ、これで」が最後の言葉だった。不器用で朴訥で、でも仕事熱心だった。

 わたしに気があるなと思い始めたのは、彼が誘いをかけてくるよりずいぶん前だったのだが、そのころわたしは彼の人格を見誤っていた。LGBTなんかに関して饒舌に蘊蓄を傾けていたのは、一種の照れだったんだなあと、いまにして思う。

 彼と最後に話したとき、これでしこりが取れたと思ったけれど、完全には取れていなかったことが後でわかった。だってゆうちゃんとのデートのとき、わざわざ早く駅に着いて、中田さんに誘われた神輿坂の店に出かけていったんだもの。でもその店はもう閉まっていた。

 その日わたしはゆうちゃんと初キスして、それで止まらなくなってしまった。それは必然の成り行きだったし、中田さんを振ったことはみじんも後悔していない。それにしても、あんないい人を振るというのは、あとあとまでどことなくしこりを残すものだ。

 こんなふうに思い起こしていること自体が、まだしこりが完全には取れていない証拠だろう。いや、一度心に残ったしこりは、一生取れないに違いない。それはちょうど返すことのできなくなってしまった借金のようなものだ。

 

 人は人と出会い、そして別れていく。ある人々のことは永久に忘れてしまう。でも別の人々のことはいつまでも覚えている。いい付き合いができた人のことは、そういうものとして記憶に宿る。でも覚えているのは、そういう人ばかりではない。

 かえって、もう一度会おうと思っていたのに亡くなってしまった人、立ち去ったので、心の借金を返せなくなってしまった人、しこりが残っていてももう取り返しがつかなくなってしまった人、そういう人々のこともわたしたちは記憶に宿す。

 たぶん私たちの生活には、そういうことがよく見えないままに絶えずあるので、人は人を求めることをやめないのだと思う。そこにあるのは、ただ懐かしさとか恋しさとかいうような感情だけではない。むしろ人と人とを新しく結び直す道を差し出してくれるきっかけみたいなものだろう……。

 

半澤玲子ⅩⅤの1

                                     2018年12月28日(金)

 

 《12/16 17:24

  💛💛💛恋しい恋しいゆうちゃんへ💛💛💛

  メール、待ち焦がれてました。ありがとう。

  わたしもすごく楽しかったです。人生のうちでいま、いちばん仕合せかもしれない。

  こんな年になってって、諦めていたのに、素敵なゆうちゃんに巡り合えて、いまだに信じられない気持ちです。

 

  鞄、気に入ってもらえてとてもうれしいです。オフィスで話題になるなんて、わたしもちょっと誇らしい気持ち。噂なんてほっとけ。

 

 きのうは、実家の母のところに泊まりました。さっき帰ってきたところです。

 みんな打ち明けちゃったよ。母はすごく喜んでた。それで、一度お会いしたいって言ってました。お正月にでもいかがですか。

 辞職して華道に打ち込む決心の話もしました。これも母はすんなり認めてくれました。前に話したときは、こっちもぐらついてたから、あんまり本気にしてなかったんだけどね。

  

 「即興曲」90と142、ありがとう。母のところから帰ってくる途中、本宿で途中下車してイヤホンを買いました。ほんとにすごくいい音ね。

 90は帰ってきてすぐ聞きました。全曲、すてきね!

 142は、いまちょうど聞き終わったところです。旋律の美しさもさることながら、なんていうか、とても内省的で、こないだ「暗い」なんて言っちゃったけど、孤独に美を追究してるシューベルトの姿が浮かんでくるようです。寄り添ってあげたい感じ。

 あ、もちろん、こういう素晴らしい曲を勧めてくれたゆうちゃんに寄り添うのよ。

 

 活け花のほうは、明日にでも大原流の本部に連絡を取って、いろいろ聞いてみるつもりです。母は、分派争いのことなんて遠い昔のことだから、もう関係ないだろうって言ってました。

 今度は、傾斜型だけじゃなくて、並ぶ形や開く形など、いろいろ挑戦してみるつもりです。ただ、部屋が狭いのがちょっと気になります。

 

 わたしも正直なところ、年末処理で、やっぱりちょっと忙しいので、28日にしてよかったです。でも待ち遠しいなあ。音楽のことやいろんなこと、また教えてくださいね。

 

 旅行のお話、うれしい! 金沢でいいですよ。昔行ったことあるけど、もう何年前になるかしら。ついでに加賀も回ってみたいですね。

  

 お仕事、たいへんそうだけど、どうぞ無理なさらないでね。

 またメールくださいね。待ってま~す。大好きなゆうちゃん💛 》

 

 

 

 ゆうちゃんへのお返事メールを書いた16日の夜、珍しく妹の真奈美から電話があった。何か月ぶりだろう。半年以上?

 「ご無沙汰してまーす。姉ちゃん元気だった?」

 「ほんとご無沙汰だねー。元気だよ。まあちゃんたちは?」

 「うちも元気よ。詩織がもうすぐ受験でしょう。いま追い込みでたいへん」

 「あ、そうだったわね。志望校、もう決まってるんでしょ」

 「もちろん」

 「どこ?」

 「エリスが第一志望なんだけどね。ちょっと厳しいかな。それで滑り止めに江南女学院

選んだのよ。こないだの模試では、まあ何とかこっちは行けそうで。でもあの子ちょっと

気が小さいから本番に弱いんじゃないかしらって心配でね。だから、この冬期講習で猛特

訓受けなくちゃなんないの。体力的には大丈夫だと思うんだけどね。でもいま、子ども少

なくなってるのに私立は希望者が多くて昔より厳しくなってるのよね。こないだも塾で父

母面談があったんだけど、やっぱり先生も詩織の気の小さいとこ見抜いててさ。クラスの

ランク一つ下げて、そこでいい思いして自信つけるのも一つの手ですね、とか言うのよ。でもさ、そう言われちゃうと、今度は何となくムカついちゃってさ。だいち、詩織になんて言っていいか、傷ついちゃうんじゃないかって、親としてはなかなか難しいところなのよね。それでさ……」

 どこかでストップをかけないと、延々と続く。要するにわたしに何の用があって電話して

来たんだ。

 「詩織ちゃんなら上のクラスでも大丈夫よ。それで、今日は?」

 「あ、そうそう。それでね。冬期講習が24日から始まっちゃうのよ。クリスマスイブか

らよ。クリスマスも返上。だから代わりに23日にウチでパーティやろうって話になって、

子どもたちに聞いたら、玲子おばちゃんにも久しぶりに会いたいって言うの。23日、都合

どう?」

 「来週の日曜日ね。大丈夫よ」

 だいたい電話の声が高い。それに「子どもたちに聞いたら」は余計だろう。自分は別に会

いたくないんだけど、と白状してるようなものだ。

 「じゃ、悪いけど(悪いなんて思ってないんだろう)、ウチに来てくれる? 詩織も、小

学校最後のクリスマスだしね。雰囲気盛り上げたくて」

 「わかったわ。何時ごろ行けばいい?」

 ちょっと冷ややかな調子になってるのが、自分でもわかった。

 「そうね。あんまり早くてもなんだから(なんだから、って何?)、よ……あ、5時くら

いでどうかしら」

 「わかったわ。崇さんもいるんでしょう?」

 「それがゴルフで、帰りが8時くらいになっちゃうっていうのよ。途中から合流ね」

 何となく、ご一家の雰囲気がわかるような気がした。そっか、三人だけじゃ寂しいもんね。

 「そしたらさ、あらかじめネット通販で、プレゼントが当日時間指定で届くようにしとく

からさ、詩織ちゃんと英ちゃんに何が欲しいか聞いてもらって、また連絡くれる? うん、

メールで指定してくれるとありがたい」

 「わかった。じゃね」と、電話を切ろうとするので、たまに自分からかけてきたんだから

もう少し愛想ってものがあるだろうと思って、「英ちゃんはこの頃どうなの?」とこっちか

ら水を差し向けた。

 「英太はサッカーに夢中よ。こないだも地区の大会でミッドフィルダーで出てさ、準決勝

まで行ったんだけど、惜しくも敗退。すごく悔しがってたわ。小さいのに負けず嫌いで、よく頑張ってるなあって思う。パパもあいつはなかなか根性あるなって言ってるのね。まあ、勉強のほうはいまいちだけど、そろそろあの子も来年は考えなくちゃ……」

 はい、そのへんでいいでしょう。

 「あら、まだ3年生でしょ。男の子はわからないわよ。両親が頭いいんだからこれから伸び

るわよ」

 と、ごまをすっておいて、それ以上は続けさせず、

 「あ、お正月はどうするの。お母さんところには行かないの?」

 「それが、お母さんにもしばらく会ってないから、行きたいのはやまやまなんだけれど(ほ

んとにやまやま?)、なにしろ、詩織が大晦日と元旦しか休めないのよ。だからせめて家で

過ごそうと思って。姉ちゃん、代わりに行ってあげてくれる?」

 「代わりに」はないだろう。でも、そのほうがゆうちゃんを紹介できるから、こちらとし

ては好都合だ。「いいわよ」とあっさり言っておいて、今度はこちらから電話を切った。

 みんな、自分の関心事にしか興味を示さない。もっとも人のことは言えないけど。しかし

あのキンキン声でまくしたてるのだけはやめてもらいたい。母親続けてるうちによけいひどくなったような気がする。

 兄弟他人の始まり、か。母にもしものことがあったら、何か言いだしそうだな。あ、それよりもわたしが母の跡を継ぐ時点で、きっと何か言ってくるだろう。佑介さんとのことだって、黙ってるわけにいかないし。

 今度行ったとき、そんな話が出るかもしれない。向こうから何か聞いてきたら、佑介さんのことは黙っているにしても、この際、辞職して華道一本で行くことに決めたことをはっきり言うことにしようか、どうしようか。やっぱりまだやめておこうか。

 でも、こんな取り越し苦労に悩まされるのは、精神衛生上、よくない。活け花で母の跡を

継げるかどうかだって、まだわからないんだし。出たとこ勝負で行くことにしよう。

 そう思って、この夜はゆうちゃんの面影を胸に抱いて、早々と寝た。

 

 17日の昼休み、大原流本部に電話した。母が師匠をしていて、自分にも多少心得があるこ

とを話してみた。上の者に相談してみると言って、電話を替わった。名簿を調べてくれて

確認が取れた。いろいろ話をしているうちに、向こうがこちらを信用してくれたようで、そ

れでは初等科を飛ばして本科から受講して下さいということになった。

 1月に出す辞職願いが受理されるのが2月になるだろうから、それが済んでから入会手続

きをすることにした。5月に研究会があって、そこで点数がよければ、師範科1期に飛び級

も可能ということだった。やったぞ、がんばるぞ。でもそれからが、いろいろとたいへんだ

ろうな。

 このことを夜、ゆうちゃんにメールで知らせた。彼はお返事メールで、わがことのように

喜んでくれた。それから、わたしの母には、お正月にお邪魔してぜひお会いしたい、とも。

 わたしは、大晦日をわたしの家で過ごし、翌日一緒に実家まで出かけることにしようと提案した。すぐOKのメール。

 

 23日、横浜の真奈美一家の自宅に行って来た。姪っ子、甥っ子には会いたかった。去年

の夏以来だった。ふたりともずいぶん成長していた。特に詩織はもう女の子から思春期少女

へと変貌した感じだった。

 明滅する可愛いツリーの傍らで食事した。詩織と英太がわたしの送ったプレゼントを持

ってきてお礼を言った。英太にはニッキーのサッカー・ウェアー、詩織はちょっと意外だっ

たが、英文社のシャーロック・ホームズ文庫全集。あまり本に親しむような子ではなかった。

塾の友だちに感化されたのかもしれないし、勉強漬けの毎日から早く抜け出したくて、読み

物に飢えてきたのかもしれない。あるいはうがちすぎだが、母親のくびきから脱したいという間接的な反抗のサインか。少し値が張ったけれど、いずれにしても、けっこうなことだと思った。

 真奈美から近況について何か突っ込まれるかと思ったが、それは杞憂だった。彼女自身が、それどころではないという雰囲気なのだ。かえって助かった。

 崇さんが帰ってきた。すれ違いと言うのではないけれど、少し話をしてからお暇した。崇さんは、働き盛り。わたしより一つ下だが、お腹が出てきて堂々としていた。

 

 25,26,27と、残務整理に追われた。給料日が重なったので、その最終チェックが必要だっただけではなく、残務整理も新システムで行わなくてはならなかったので、よけい時間がかかってしまった。

 26日の夜、ゆうちゃんからメールが入っていた。休日だったので、一生懸命、片付けと掃除と雑巾がけをした、とのこと。

 「ゴミがいっぱい出ました。少しはきれいになったと思います。ポトフの材料は買ったので、28日、もし自分よりも先に来れるようだったら、どうぞ来てね。鍵はメーターボックスの中にかけておくね。メーターの裏側なのでちょっとわかりにくいかも。では楽しみにしています」

 日岡駅からの地図とストリートビューが添付されていた。掃除で奮闘しているゆうちゃんの姿が目に浮かんだ。思わず笑みがこぼれた。

 

堤 佑介ⅩⅣの4

 

 じつは、前々日の10日に、臨時国会が閉会したことを苦々しく思っていたのだ。こんなひどい国会は初めて見たという気がした。それは、入国管理法改正、水道法改正、漁業法改正という、グローバリズムに奉仕する法案を矢継ぎ早に通したことにかかわっていた。

 入国管理法改正は移民受け入れの拡大、改正水道法は水道の民営化を意味していた。

移民受け入れ拡大は、ヨーロッパですでに失敗が検証されていて、これに反対する国民運動が各国で盛り上がってる。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアその他。イギリスは国民投票でEU離脱を決めたが、その主な動機の一つに、大陸からの移民規制がある。

 ロンドンではすでに45%が移民。スウェーデンは、いまや世界第三位の犯罪大国。

 移民受け入れを拡大すると、低賃金競争が起こって、デフレはますます進む。国論は国民生活を守ろうとする人々と、排外主義を批判する人々とに分裂する。文化摩擦が深刻化し、治安も悪化する。本来なら実習を終えて本国に帰るべき技能実習生をそのまま日本に残して、低賃金で奴隷のように使い続けることを許してしまう。やがて家族を連れてくることも許す。

 しかも阿川政権は、日本語教育や日本の文化慣習になじませる施策やテロ対策など、何の受け入れ準備もしていない。そして、ろくに審議もしないまま、数十万人の新たな移民を受け入れるこの法案を強行採決してしまった。

 野党は、体を張って抵抗していたが、しかしその抵抗の理由が的外れだった。国民が貧困や危険に陥ることなどまるで意に介せず、ただ入ってくる移民の人権だけを問題にしていたのだ。ということは、移民受け入れそのものについては、待遇さえ多少よければOKだと考えていることになる。こちらも欧州の失敗のことなどまるで念頭にないのだ。

 水道法改正の場合、水は消費者に選択権がない。外国の水メジャーが独占するし、利益が上乗せされるから水道料金がどんどん上がる。災害時に故障や断水が発生しても、民間企業は責任を負わなくてもいい仕組みになっている。パリ、ベルリン、アトランタなど、世界の各都市では失敗に気づいて、公営に戻しているところが200を超えている。

 わが国の漏水率は世界一低く、しかも飲料水として飲める世界でも数少ないきれいな水だ。自治体が少ない予算で懸命にその良質さを守ってきたのに、なぜ外資に売り渡すのか。これも財務省の緊縮路線からきている。

 「あ、その話は、こないだゆうちゃんが最初に勧めてくれた『売られゆく日本』にも出ていたわね」

 「あ、あれ読んだんだ。勉強熱心だね」

 漁業法改正は、農協法改正と同じで、漁業協同組合を解体して、株式会社に明け渡そうとの趣旨である。そうは謳っていないで珍妙な理屈をつけているが、農協の場合を見れば明らかだ。もちろん外資規制はない。

 れいちゃんが質問した。

 「そんなこと、為政者はわかっているはずじゃないの? どうしてそんな自分で自分の首絞めるようなことばっかりするのかしら」

 「それは、いまの政権が、全体として自由貿易や規制緩和、つまりグローバリズムをいいことと信じていて、政策の基本を、グローバル資本の利益になるようなところにばかり置いているからだよ」

 「国民生活のことなんか、全然考えてないのね」

 「考えてない」

 「日本は、これからどうなっちゃうのかしら」

 「このままいくと滅びるよ。一番ありそうなのは、中国に吸収されちゃうことだね」

 私はそれから、最近読んだばかりの『領土喪失』についての話をした。

 日本には、不動産購入の外資規制がなくて、中国が北海道や沖縄の土地をどんどん買っている。しかも登記の義務がないから、誰がどこにどれくらいの土地を持っているか、政府は把握していない。所有者不明の土地が、九州全体の面積を超えている。

 篠原から聞いた、芝山団地の話もした。中国人が七割を超えていて、まったく日本人に溶け込もうとしないそうだ。そういうところが全国各地にまだら模様のようにできている。

 

 話はやっと一段落した。一生懸命書き取っていたれいちゃんが言った。

 「ほんとに暗い話になっちゃったわね。雨あがったみたいだから気分変えて散歩行かない?」

 「ほんとだ、ほんとだ、そうしよう。深草は久しぶりだ。深草寺にお参りしよう」

 そう言ってから、この深草に、ウチの営業所があることを思い出した。ひょっとして散歩してるうちに役に立つ情報が手に入るかもしれない。今までなんで気づかなかったんだろう。やっぱり恋に夢中だったんだな。

 ダウンをはおりながら、その話を始めた。

 「そういえばさ、れいちゃん。前にウチの仕事で、下町コンセプトっていうのをやってるって話したの憶えてる?」

 れいちゃんはもう靴を履いていた。

 「ええっと、ああ、思い出した。うん。空き部屋の多いアパートなんかで売りに出てるのを買い取って、独り暮らしの高齢者向けに貸すっていうんでしょう」

 「そうそう。じつはウチの営業所がこの深草にもあるんだよ。それで、ここなんか、下町コンセプトにぴったりだと思うんだけどね」

 エレベーターに乗った。話を中断して、またチューしてしまった。この密室空間は、なぜかそういう気にさせる。

 寒さは昨日よりは和らいでいた。手をつないで轟門のほうに向かった。れいちゃんの手はけっこう冷たい。手の冷たい人は心が温かい、なんて話を子どものころ聞いた覚えがある。怪しい話だけど、私は信じることにした。

 「それでね、ここの営業所は僕んところより大きいし、適地を探すのも割合簡単じゃないかと思うんだ。どれくらいプロジェクトが進んでるのかなあって思ったわけ」

 「どのへんなの?」

 「轟門通に面してて、轟門1丁目の信号の近く」

 「あら、それだったら寄っていけば。必要な情報とか得られるかもよ。わたし表で待ってるから」

 話しているうちに、もうその分岐点にさしかかっていた。でも、もともとそんな気はなかった。せっかくの楽しい休日、しかももうすぐ別れが迫っているのに、貴重な時間を、仕事でつぶしたくない。第一、今日は向こうも休みだろう。

 「ああ、ごめんごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、散歩しながら街の雰囲気さえつかんでおけばいいの。あとで何か役立つかもしれないって思っただけ。向こうも休みだし」

 「あ、そうだったわね。じゃ、ずっと一緒に歩きましょ」

 れいちゃんは握っている手に力を込めた。

 平日の昼なので、そんなに混んではいなかった。それにしても、外国人観光客の多いのに驚いた。中国語、韓国語、英語などが、入り混じって聞こえてくる。篠原が大分出張から帰ってきた時にしてくれた話を思い出した。

 雰囲気豊かな街並みの中を歩きながら、ひょっとしてそのうち、最も東京の下町らしいここも、彼らに占領されてしまうのかもしれないという悪夢のような思いがよぎった。政府が内需拡大をせずに観光なんかに入れあげたら、ギリシャみたいになってしまって日本は終わりだ――そう篠原が言ってたっけ。

 「それにしても外国人が多いわね。さっきのゆうちゃんの話じゃないけど、これが観光客だからまだいいけど、住みついちゃうと困るわね」

 私が考えていることと同じことをれいちゃんが言った。

 「そうだね。だんだん雰囲気壊されちゃうかもね。この辺のコンビニ店員て、どう? やっぱり外国人労働者が多い?」

 「多いわよ。道聞いたって全然わからないって誰かが言ってた。わたしはよく知ってるからいいけどね。」

 すると、下町コンセプトといっても、日本の高齢者に住みやすい環境や便宜を提供するのは難しくなっていくかもしれない。

 

 轟門をくぐってまっすぐ内見世通をとおり、深草寺にたどり着いた。ふたりはお賽銭を投げてから、長い間手を合わせていた。帰り道、お箸の専門店に入って、赤と黒のお箸を買った。お箸――まだすぐ一緒に暮らすわけにはいかないのだから、これからは、家で食事する時、お互いに相手のことを思いながら食べることにしようねと約束した。

 「ねえ。さっき、なんてお祈りしたの」

 「たぶん、れいちゃんと同じ」

 「そうね。きっと同じね」

 れいちゃんは確信を抱いたようで、輝くような笑顔を見せた。

 もちろん私は、彼女といつまでも仲良くいられますようにと祈ったのだが、じつはもう一つ、日本の将来が悲惨なことになりませんように、とも祈ったのだ。

 もう2時近くになっていた。川に面した麦とろのお店があるというので、そこでお昼を食べて別れることにした。

 「ね。ビール飲まない?」

 ゆったりしたくなって、思わず言った。

 れいちゃんはちょっと目を丸くしたが、「いいわ」と言った。

 名残惜しいので、ビールをゆっくり飲み、運ばれてきた食事をできるだけのろのろと食べた。

 「嬬恋橋、先まではっきり見えないわね」

 「ほんとだね」

 私がこれかられいちゃんのもとに渡っていく嬬恋橋。たしかにはっきり見えないかもしれない。でも、それでいいんだと思った。ぼんやりしているのも、また夢膨らむ話だ。

 曇り空の下で、川の水もとろんとして元気がなさそうに見えた。日本のこれからみたいだと思ったが、そんな不吉なことを考えるべきではないと、すぐ打ち消した。私たちはいま、幸せなんだ。

 店を出てから、すぐには別れないで、あちこち歩き回った。そのうちに、雲は薄らいできたが、早くも暗くなり始めた。冬至も近いのだ。深草駅の改札で別れることにした。

れいちゃんが私のことをじっと見た。熱いまなざしだった。涙がにじんでいた。それから言った。

 「わたしもこのまま乗ってゆうちゃんとこまで行きたい」

 「ハハ……そんなこと言ったって……またすぐ会えるじゃないか」

 「二週間以上会えないわ」

 恨めしいような調子だった。

 「……28日には待ってるからね。ポトフの材料、教えてね」

 「うん。メールちょうだいね」

 「うん。れいちゃんもね」

 思わず恋しさが募って、人目もかまわず抱き合ってキスしてしまった。

 改札をくぐった。向こうとこっちで、ずっと手を振っていた。私は人にぶつかるのもかまわず、後ろ向きにだんだん改札から離れていった。れいちゃんはその場から動こうとしなかった。

 

 今日15日、本部の島村から電話があった。「下町コンセプト」を有効に拡張していくために、東海不動産との連携作戦を模索したいという。部長も賛成している。そのとり持ちをやってくれないかというのだった。自分が提案した以上、協力を約束せざるを得なかった。

 それで、どう渡りをつけるか、作戦を練る必要があった。けやきが丘に東海不動産の営業所の知り合いがいることはいたが、こいつがちょっと横柄で強引な奴で、あまり接触したくなかった。たぶんあいつに話を持って行っても、乗ってくれないだろう。

 そのほかの近隣の営業所にも知り合いが二、三いたが、あまり有力な地位にいない。また大畑区の薄田営業所には知り合いがいなかった。何らかの迂回路を考える必要がある。さてどうするか。これはもう、来年に持ち越しかな。

 「アプローチに慎重を期した方がいいんでね。ちょっと作戦を練ってみるから、実際に動き出すのは年明けからでいいかい」

 「そうだな……うん、それでかまわない。ただ、その作戦が決まったら概略でいいから連絡してくれるか」

 「わかった」

 「じゃな。成功を祈る」

 

 《12/15 23:08

 愛しいれいちゃん♡

 この間はほんとにありがとう。

 お料理もおいしかったし、お話しも楽しかったし、何よりも、これからの二人について建設的な話ができたのがよかったね。

 政治ばかりでなく、音楽についても、熱心に追求しようとしているれいちゃんに、すごく感銘を受けました。

 別れる時の切ない気持ちもしっかり覚えています。

 

 プレゼントの鞄はさっそく使っています。とても使いやすい。じつは、ウチのスタッフの何人かに、僕に最近「異変」が起きていることを悟られていて、時々冷やかされます。鞄も気付かれました。ベテラン女性に、目ざとくタグにネームが入っているのを見つけられ、「どなたのプレゼント?」と聞かれてしまいました。

 金曜日にチーフの岡田という奴と飲んだのですが、告白をしつこく迫られました。それでしかたなく「つきあってる女性がいる」と簡単に答えたんだけれど、「ご結婚なさるおつもりですか」とか聞くから、「いや、いまのところそのつもりはない」と言っておきました。

 活け花をやってると話したら、「いいですねえ! 大和撫子 羨ましいなあ!」と言われましたよ。

 

 シューベルトの即興曲90と142、添付するね。ちょっとおせっかいだけど、PCで聞く場合、性能のいいイヤホンで聞くことをお勧め。少し値が張るけど、いま、すごくいい音がするのが出てるよ。

 

 これから年の瀬まで、ちょっと仕事がたまっています。忘年会なんかもあり、忙しい日が続きます。会えなくてごめんなさい。

 活け花、頑張ってね。いつも、いつも応援してます。

 春になったら、旅行に行こうね。どこか行きたいところがあったら言ってください。僕は新幹線で金沢に行きたいなと思ってるんだけど。

 

 寒いので、風邪ひかないようにね。では、ゆっくりお休みなさい。れいちゃんにとって明日がいい日曜日になりますように♡

 

 

堤 佑介ⅩⅣの3

 

 今度は彼女がまじめな話をしてもいいかと聞いた。さっき私が〇〇に大事な言葉を入れると言ったことについてだった。それは婚約とか、結婚とかを意味していたのかというのだ。私はその通りだと答えた。それについてゆうちゃんの考えを聞きたい、と彼女は言った。たしかにまじめな話だ。

 私は、いまの心境だと結婚したいという気持ちが強いけれど、結婚生活に入ると愛情がだんだん低減していくことを恐れてもいると答えた。問題は、どうしたらこのラブラブの気持ちをできるだけ長く持続させられるかの工夫にかかっていると思う、と。

 それは一つ屋根で日常を共にするのでもなく、ふたりの都合が合う時にたまに会って恋人関係を続けるのでもない、両方の中間みたいな形が取れないか、と。

 これを聞いて、れいちゃんは、じつは私もだいたい同じことを考えていた、と言った。でも今度は私のほうから、もう少し彼女の気持ちを詳しく聞いてみたかった。彼女は語り始めた。

 「わたしはこれからの人生で、ゆうちゃんとの関係を最優先にしたいと思ってるの。だって、こんなことってもうないと思うのね。で、わたしも結婚という言葉が何度か浮かんだの。でも、わたしはもう子どもを産めない身体だし、その形式にこだわる必要があるんだろうかって考えた。さっきゆうちゃんが言ったみたいに、結婚するとたいてい二、三年で新鮮さ失っちゃうでしょう」

 「残念だけど、そうだね。昔、『愛はなぜ終わるのか』って本がアメリカでベストセラーになって、愛は四年で終わるって言葉が流行ったんだよね」

 「あ、そういえば大学時代、読んだ覚えあるわ。とにかく恋愛と結婚生活って全然違うわよね。恋愛してると『あばたもえくぼ』だけど、結婚すると『えくぼもあばた』になっちゃうことがすごく多い。だから思ったの。この仕合せ感ができるだけ長く続くためには、結婚しない方がいいのかもしれないって。でも、じゃあ恋人関係で時々会ってっていうんで満足かっていうと、それもなんか違う気がするのね。だって、いまは、いつも一緒にいたいっていうのがほんとの気持ちだから、それを偽るのもよくないなあって」

 思慮深い、と思った。それに私が考えていたのとほとんど変わらないことがうれしかった。

 「俳優のポール・ニューマンているでしょ。もう亡くなったけど」

 「うん、好きな俳優だった」

 「彼は、女優のジョアン・ウッドワードと結婚して、ハリウッドでは珍しくオシドリ夫婦って呼ばれてたでしょう。芸能人てしょっちゅうくっついたり離れたりしてるじゃない。それで記者が長続きの秘訣は何ですかって聞いたら、なるべく一緒にいないようにすることだって答えたんだって」

 「ハハ……それは、年季が入ってからの話だろうね。たしかに、結婚した以上、だんだん共通の時間を減らしていくのも一つの知恵かもしれない。日本の続いてる夫婦って、自然にそうなってるんじゃないか。それで年取ってからまた仲良くなってお互いを看取り合ったりね……そうそう、こういうのもあるよ。フランスの、何といったかな、有名な劇作家の言葉、『結婚とは判断力の欠如である。離婚とは忍耐力の欠如である。再婚とは記憶力の欠如である』」

 「アハハ……さすがフランス人、スパイシーね。……でも、わたしたちも再婚に近い形を取ることになるのよね。だから、大いに記憶力を捨てましょ」

 「そうだね。付け加えてもいいよ。『未婚で終わるのは、決断力の欠如である』ってね」

 さらに彼女は、このマンションを売って、会社も辞め、華道に専心して母親を継ぐつもりであること、自分たちは、私のマンションと彼女の実家と、二軒の家を持つことになるのだから、そこを行き来できるので、すごく恵まれた位置にいること、などを語った。

 私が空想していた通りだった。これを聞いた時、私は喜びのあまり、思わず立ち上がって彼女に近寄り、強く抱き締めた。

 「でもちょっと心配なことがあるの」

 「なに?」

 「いまから始めて師範の免状がもらえるかなあって」

 「それは……僕は家元制度のことはよくわからないけど、こんなに素晴らしく活けられるんだからきっと認めてもらえるよ」

 「ありがとう。でも家元制度って、やなとこあるのよね」

 「お金とか?」

 「それもあるし、人間関係でもね」

 「お母さんがお師匠さんしてるってことは、メリットにならないの」

 「そこがよくわからないのよ。母は独立したでしょう。分派争いみたいなことがあったかもしれないから、かえって不利にはたらく可能性もあるわね」

 「なるほどね。お母さんにはこの話、もうしたの」

 「まだなの。年内には話して、よく相談してみるわ」

 「うん、それがいい。お金のこともよくわからないけど、マンション売った代金とか退職金とか、けっこう期待できるんじゃないかな。足りなかったら僕が援助するよ」

 「ありがとう。でも、なるべくゆうちゃんに依存しないでやってみたいの」

 「そう。偉いね。できればそのほうがいいね」

 「あと、実家のあの場所はけっこう閑散としたところだから、生徒が集まるかどうか。何らかの新機軸を出さないとだめだと思うのね」

 「ああ、それこそ僕の仕事にもかかわる領域だ。査定できるし、宣伝は慣れてるし。それに、構想をしっかり立てておけば、大丈夫だよ。きっと何とかなるよ。」

 「そうね。いまから心配したってしょうがないわね。ゆうちゃんと話してよかった。安心するわ。あ、お酒がちょっとしかない」

 そう言ってれいちゃんは瓶を振ってみせた。ふたりでちょっとずつ分け合った。

 「れいちゃんの新たな出発を祝って」

 ふたつのお猪口がかちん、と鳴った。

 カール・リヒターの管弦楽組曲1番を聴きながら、食事をした。なめこ汁がすごくうまかった。

 後片付けを一緒にした。時々チューをしたり、彼女のジーンズの形のよいお尻を触ったりしながら。

 

 11時を過ぎた。

 「ベッド、狭くてごめんね」

 「狭いほうがくっついて寝られるよ」

 「ねえ、やっぱり雨が降ってきたみたい」

 カーテンの隙間から外を見ていたれいちゃんが言った。私はうしろから彼女を抱きすくめた。 そしてラフなグレーのセーターをすぐ脱がせにかかった。れいちゃんは臆せずに両手を上に挙げた。それからこちらに向きなおって私のYシャツのボタンをはずしにかかった。レースのついた可愛い白のブラジャーの間で、胸のふくらみが震えるように揺れた。

 私たちはこれまでよりもずっと長く、それぞれのからだをむさぼり合った。

 

 ずいぶん時が流れたような気がする。

 ベッドの横、窓際に目をやると、置台の上の活け花が勢いよく葉をこちらに向けていた。愛し合う二人をずっと見守っていたのだ。手を伸ばして葉先にちょっと触ってみた。うなずくようにゆっくりと揺れた。

 れいちゃんは私のからだを隅々まで点検して、時々犬のようににおいを嗅いでいた。

 「この膝の下の傷跡はどうしたの」

 「それは、小学校の運動会の時、転んで7針縫った跡」

 「この脇腹のあざみたいなのは」

 「ああ、それは生まれつき」

 「ゆうちゃんはケンカした?」

 「ほとんどしなかったね。一度だけ近所の悪ガキと取っ組み合いしたことあるけど」

 「どうしてケンカになったの」

 「さあ、よく覚えてないけど、たしかそいつが、貸したマンガ返さなかったんで、早く返してくれって言ったんだと思う。僕は口が立つ方だったから、相手を怒らせるのがうまかったんだね。いきなりとびかかってきたから、やむなく防戦」

 「結果は?」

 「引き分け……かな」

 「相手は強い子なんでしょう? よく引き分けたわね」

 「たぶん必死だったんだと思う」

 「気が強いのね」

 そうだったのだろうか。1年生の頃はよくいじめられて、泣きべそをかいていた。帽子に犬のフンをつけられた。一時期学校に行くのが嫌になってしまったこともある。しかし後から考えると、小学校生活というのは、いろいろな悪ガキとつきあって、自分の精神を少しでも強くしていく恰好の練兵場だったのだろう。

 また『銀の匙』を思い出した。ひ弱だった主人公は、高学年になると、好きな女の子を守るために棒を用意していじめっ子を撃退するのだ。

 

 「……ねえ。さっきの話だけど」

 と、れいちゃんは今度は腹ばいになって、両肘付きで顔を手の上に乗せ、私のほうに身を乗り出した。私はれいちゃんの腰からお尻のあたりをゆっくり撫でた。

 「うん」

 「あれ、実現したら、わたしたちって、もしかして、時代の最先端行ってることになるのかもね」

 「そうかも。でもそれも経済的な余裕があるからできることだよね」

 「若い人たち、かわいそうね」

 れいちゃんは今度は、仰向けに姿勢を変えた。それから、ためらいがちに、ゆっくりと言った。

 「籍……入れないでおこうね」

 「……うん。籍とか式とかなしで済ませよう。最低限、身内と友だちには話した方がいいだろうけれどね」

 「ゆうちゃんなんか、周りが黙ってないでしょう」

 「それは言えるかもな。まあ、派手なことはできるだけ避けよう。内輪のパーティみたいにして」

 「それがいいわ。……寒くない? わたしは平気だけど」

 「寒くない」

 「あした、散歩しようね。内見世通のあたり」

 「うん」

ふたりで毛布と布団を引っ張り上げてそのまま眠りに入った。

 

 翌朝、目が覚めると、れいちゃんはもう起きていて、キッチンにいるようだった。私はベッドの脇にくしゃくしゃになっている下着や服を拾い上げた。下着を身につけてからYシャツを着ようとしたら、Yシャツが見当たらない。ベッドの下、後ろ側などさがしまわったが、やはり見つからない。

 そのまま起き上がって、「ねえ、僕のYシャツ知らない?」とれいちゃんに呼びかけた。

 彼女はそれには答えずに、くすくす笑いながら、

 「おはよう。シャワー浴びてきたら」と言った。

 眼鏡をかけ、キッチンに近づいてよく見ると、彼女は、私のYシャツを着ながら朝ご飯の支度をしているのだった。

 ヘンなことを連想してしまった。阿部定が吉蔵のペニスを切り取ってから逃げる時、吉蔵のシャツとステテコを腰巻の上に巻いていたそうだ。篠原が言っていた敷島のあの言葉、「女は愛の天才だ」という言葉をまた思い出した。

 朝のシャワーが気持ちよかった。浴室と洗面所がとてもきれいで、いろいろな化粧品やバス用品のたぐいが置いてあった。

 そうか、彼女はレオンに勤めていたんだっけ、と気づいた。社の製品をもらえるんだな。でもそれも今年度限りで終わりか。私は名残を惜しむように、それらの品々をゆっくり眺めた。

 

 午前中は、BGMをかけながら、ベッドに並んで腰かけていろんな話をした。

 「ゆうちゃんの好きな作曲家は?」

 「やっぱり、バッハ、ベートーベン、ショパン、シューベルト、かな。あと、グリーグとかチャイコフスキーとかラフマニノフもいいね。通からすると俗っぽいって言われるんだけどね。最近は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲をよく聞いてる。でも僕は、この前も言ったけど、あんまり知らないんだよ」

 「チャイコフスキーはわたしも好き。♪チャン、チャン、チャン、チャ、チャ♪、ね」

 「リヒテルってピアニスト、知ってる?」

 「わたし、何にも知らないのよ。ごめんね」

 「謝ることなんかないよ。僕も有名曲、人気曲しか知らないもの。それでね、そのリヒテルが、チャイコフスキーのチャン、チャン、チャン、チャ、チャと、ラフマニノフの2番を吹き込んでるアルバムがあるんだよ。これがとにかくすごいんだ。圧倒されちゃってね。他の人たちの追随を許さないね、あれは」

 「わたし、それ買うわ。 えーっと、リヒテルのぉ、」

 「チャイコフスキー、ピアノ協奏曲1番と、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番」

 「ネットで買える?」

 スマホで調べてみたら、最新のリマスター版が出ていた。評判も悪くない。

 「あと、何買えばいいの?」

 れいちゃんは、ボールペンで一生懸命、書き取っていた。

 「ハハ……別に買わなくても、YouLoopでいろいろ聞いて、どうしても欲しかったら買えばいいんじゃないの」

 「違うの。ゆうちゃんのおススメを聴きたいの」

 それは意外にも、初めから決めているような強い調子だった。私はこの言葉に、さっきのYシャツと同じように、くすぐったい感動を味わった。やっぱりこの人は、「可愛い女」なんだ。私は少しかしこまって答えなくてはならなかった。

 「そうか。おススメは、……まず、ショパンの練習曲作品10と25。……ピアニストは、ルビンシュタイン。……それから、バッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティ―タ、これは誰がいいかなあ、僕はパールマンが好きなんだけど。……それからっと、ベートーベンで好きなのは、いろいろあるけど、ピアノソナタ8番の『悲愴』と30番。古いけど、ホロヴィッツの『悲愴』は優しくてすごくいいよ。……ベートーベンのピアノソナタは、アシュケナージが全曲弾いてるから、とても無難。バックハウスも弾いてるけど、僕はあまり好きじゃない。あと、前にも言ったけど、バイオリンソナタの『春』」

 「それからさっき、ドヴォルザークのチェロ協奏曲聴いてるって言ってたけど、チェロは誰がいいの?」

 「僕はフルニエが好き。音色がすごくきれいだから。カザルスやロストロポーヴィチは力強いけど、弦楽器は音がきれいなほうがいいな」

 「交響曲はあまり聴かないの?」

 「若いときは聴いたけどね。最近はあまり。でも交響曲は圧倒的にベートーベンだね。9つあるうち、1,3,5,6,7,9がいい」

 「ブラームスは?」

 「玄人筋はすごく評価するけど、僕はちょっと苦手」

 「シューベルトは?」

 「おススメは即興曲作品90。ブレンデルのしか持ってないんだけど、曲そのものがすごくいい。れいちゃん、絶対気に入ると思う。そうだ、ソナタ21番を持ってきたんで、かけてみよう。これはポリーニ」

 あの印象的な旋律が始まってしばらくすると、れいちゃんがつぶやいた。

 「このソナタ、ちょっと暗いわね」

 「そう。たしかに暗い。やめようか」

 「ううん、いいの。いい曲だし、人生には暗いところもあるでしょう。だから共感できる」

 「そうだね」

 それから私は、「暗いと言えば」と前置きして、政治の話をしてもいいかと聞いた。

 「いいわよ。ちょっと待ってね。ノート持ってくる」

 ずいぶん熱心だなと感心した。

 

堤 佑介ⅩⅣの2

 

 スタッフの職務の再編成問題は、頭が痛かった。

 7日の朝、とりあえず、スタッフ全員の陣容を、勤務曜日と時間とともに整理した一覧表を取り出して、しばらくにらめっこしていた。

 

 堤、岡田、山下、八木沢、中村、谷内、渡辺、本田、川越(週6日フルタイム)。

 非正規社員5人。

  うち-派遣1人(新人・小関。週6日フルタイム)

 パート3人(うち中岡・週4日フルタイム、鈴木・週3日フルタイム、村瀬・週5日10時から4時まで)

 アルバイト1人(週3日1時から6時まで)

 

 その上で、岡田と奥の会議室で密談することにした。

 「そういうことでね。業績があまり芳しくない。下町コンセプトにも時間を割かれるし、年明けからは繁忙期だし、効率化を図らなくてはならないんだ」

 「カード決済をいっそう進めていくってほうは問題ありませんよね」

 「それはできると思う。問題は、ウチのような小人数所帯で、人事の面でどこまで効率化できるかだよね。もともと限界があると思うし、ハードなことを強いたら、転職されかねない」

岡田も表を睨みながら言った。

 「ほんとにそうですね。私だって考え込んじゃいますよ」

 「新人の小関君は、どう?」

 「まだ未知数ですけど、よくやってますよ。まあ、ありがたいですね。存分に活用すべきです」

 「スタッフのキャラをよくつかめるってのは、小さいところのメリットだと思うんだけどね。ここだけの話、たとえば八木沢君はあんまり接客には向かないなって、この前ちょっと感じたんだ」

 「わかります」

 「それで、それぞれの職分というか、業務内容をもう少し厳密化して、分業体制をはっきりさせた方がいいかなと考えたんだ。もちろん、臨機応変が大切だけどね。岡田君はどう思う?」

 「基本的に賛成ですね。それには、指揮命令系統がしっかりしてないとだめですよね」

 「そうだね」

 「これ、いつごろまでに確定……」

 「まあ、年内かな。そして年明けに発表する」

 岡田はしばらく考えてから言った。

 「たとえば、現時点で、すごく大ざっぱな話で申し訳ないんですけど、賃貸・管理部門と売却部門と、チーフを二人に分けるっていうのはどうですか」

 「なるほど。それはいいね。賃貸・管理部門は岡田君にやってもらうとして、売却部門は?」

 「当然、山下さんでしょうね」

 「うん。山下さんには、賃貸からそっちに変わってもらうのがいいだろうね。それと、下町コンセプトは、私と岡田君が中心に当たるとして、本部の前園君とも緊密に連絡とって、頻繁に来てもらうことにしよう」

 「それはいいですね。八木ちゃんはどうしますか」

 「そうね。ちょっと考えたんだけど、外回りをなるべく減らして、全体の事業企画のような部門を新たに設定して、その責任者になってもらうのがいいかもしれない」

 「なるほど。指導力を発揮するかもしれませんね」

 「代わりに谷内君にもっと前面に出てもらう。彼は情熱的だけどちょっと勇み足のところがあるから、そのへんは、山下チーフが適宜コントロールする」

 「わかりました。それと所長。アルバイトをあと一人、できれば二人雇わないと、正社員のほうに雑用の負担がかかりすぎて、せっかくの能力が十分活かせなくなりがちです。これって効率化のために大切だと思うんですが」

 「そうだな。それは私も考えてた。パートの人たちとうまい連係プレーのあり方を考えることにしよう。ま、今日中に全部決める必要はないんだから、もう少し時間を取って詰めていこう」

 「そうですね。私も極力時間を見つけて、所長との密談機会をできるだけ多く取りましょう。なるべくならオフになってからのほうがいいかもしれませんね。」

 「ありがとう。私はかまわないが、悪いね」

 「とにかくアグレッシブに行きませんと」

 「アルコール抜きでな」

 私が言うと、岡田はにこやかにうなずいた。私たちは、握手して、密談を終えた。

 

 9日の日曜日、今度は西山ハウスの笹森さんから苦情が入った。隣の陳さんの子どもが、こちらの庭でうんちやおしっこをするというのだ。また、ゴミを庭に出しっぱなしにする。冬だからいいが、夏になってからでは困る。

 いずれも本国でそういう習慣だったのだろう。

 中村に折衝に当たらせてみた。彼にはもう少し度胸をつけてもらわなくてはと思っていたので、ちょうどいい機会だと考えた。

 3時間ほどして、疲れた顔をして帰ってきた。報告を聞く。

 「奥さんしかいませんでした。ほんとは旦那と話した方が言葉が通ずるし、効き目もあると思ったんですが」

 「そりゃそうだね。旦那は何でいなかったの」

 「なんでも、今日も仕事があるとかで、要領を得ません」

 「ふむ。で、どうだった?」

 「まず、おしっことうんちのほうですが、必ずトイレでさせてくださいと言ったんですね。そしたら、そうさせてるっていうんですよ。でもお隣さんから苦情が出てますよって言っても「クジョー?」とか言って「わかりません」の一点張り。しょうがないから、手振り身振りで説明しました。それでも要領得ないんで、玄関の外に子どもと一緒に出てきてもらって、たまたま笹森さんのところが留守だったもんですから、その庭まで連れてきて、この子がここでおしっこやうんちをするんだって、何度も手振り身振り交えて説明、これはダメですって知らせたんですよ」

 中村の奮闘ぶりを想像して、なんだかおかしくなってしまった。しかし笑ってる場合ではない。

 「でも納得しないんですね。そしたら、偶然、その子がそこでパンツ下げておしっこしようとしたんです。私はこれさいわいとばかり、その子を抱えて陳さんの庭のほうに連れて行った。奥さんはさらわれるとでも思ったのか、何するんですかって怒るんですよ。でも自宅の庭でもおしっこしてるんでしょうね。そこでさせたら、ようやくわかってくれたようです」

 これもおかしくて、つい私は笑ってしまった。

 「ハハ……それはたいへんだったね。しかし、自宅の庭でも困るな。たしか5歳くらいだったでしょ。奥さん、夜の仕事だっていうし、あまりちゃんとしつける暇がないのかもな」

 「そうみたいですね。あれだと、またやっちゃうでしょうね。おしっこならまだしもうんちは困りますね。今度、旦那がいる時にもう一度行ってきますよ」

 「悪いね。で、ゴミのほうは」

 「これまた要領を得なかったんですが、こちらは現物があったんで、それを持ってゴミ置き場まで一緒に来てもらいました。でも、分別をわからせるのがたいへんでした。ゴミ置き場には絵入りの説明書きが貼ってありますよね。曜日の字は読めるようでした。で、何回も何回もこのゴミは何曜日、こういうゴミは何曜日って説明しました。まあ、その時はおとなしく聞いてくれて、一応理解したようでしたが、私の感じでは、すぐに守るとは思えませんね。だから、これも旦那がいる時に、もう一回、ちゃんと説明に行きますよ」

 「旦那はたしか、リサイクル関係の仕事じゃなかったっけ」

 「あ、そうなんですか。それだと説明しやすいかもしれませんね。行く前に中国のごみ収集状況を調べてったんですよ。そしたら、2017年に『生活ごみ分別制度実施プラン』というのが施行されたんですが、意味を理解しない住民が多くて、地域によってまちまちなんだそうです。専門家は、このプランは、1年や2年では定着しないだろうっていうんですね。だから、こっち来たって、わかるはずない。ましてや向こうとこっちでは分別方法も違いますからね」

 「どうもご苦労様。じゃ、たいへんだけど、またお願いします。在宅、確かめてから行った方がいいね」

 中村は小心なところがあるが、だからなのか、こういう細かい問題では、小役人みたいに几帳面に役をこなす。でもこれは、予想以上に長くかかるかもしれない。

 

 ようやく11日になった。

 急に冷え込んでびっくりするほどの寒さだ。でも誕生日を祝ってくれる人なんて十年以上いなかったから、心の中はぽかぽかしていた。

 3時半くらいまで仕事をし、スタッフに本部から呼ばれたと偽り、駅前のデパ地下で出羽菊の純米無濾過生絞り720mlを買って、電車に乗った。

 矢原町というのは深草のすぐ前の小駅だった。降りて少し戻ったところに改札があった。改札から身を乗り出しているれいちゃんを見つけた。

 地上に出るともう真っ暗で、息が白くなった。風は強くはなかったが身を切るように冷たい。れいちゃんは私の腕に縋りついて頬を私のダウンジャケットに埋めた。

 お化粧をしていない彼女を初めて見たが、それも可愛かった。普段の生活の匂いがして、いいなと思った。

 5分ほどで着いた。エレベーターの中でキスをしたが、口紅を塗ってなくてもその感触に変わりはなかった。ヘンな話だが、これまで何人もの女性とキスをしてきたうちで、れいちゃんの唇がいちばん官能的だった。中年女性なのに、それは薄くてみずみずしい果肉のような味わい。芙由美のそれも悪くなかったが、彼女のはむしろ厚い豊潤な感じと言ったらよいだろうか。

 こんなことを覚えていて比較するなんて、俺はけっこうスケベだなあと思った。でもこうした感覚の違いはもしかすると、自分の側の恋心の程度に依存しているとも言えそうだ。キューピッドはそこまで配慮してくれるのかもしれない。

 

 ドアの中に入ると、白いきれいな世界がぱっと広がった。癒し系のいい香りがほのかに漂う。とてもよく整頓されていて、全体に新築のモデルルームといってもおかしくなかった。

 右にお風呂場とトイレ、左にキッチン、水回りの奥に二つの洋間が連続している。手前の洋間に四人掛けの小さなダイニングテーブルと、1人用のソファ、奥の洋間の右側にベッド、左側にクローゼット、そして窓際に置台があって、そこに活け花! 

 「うーん、すごい! 可愛くて、すきっとしてて、うまく言えないけど、すごく素敵だよ」

 「ありがとう。二つのバラがわたしたちのつもり」

 「この伸びてる葉の勢いが素晴らしい。これは何ていうの?」

 「鳴子ユリっていって、よく使うの」

 彼女と私は抱き合いながら、チュッチュッチュッを繰り返し、いつまでも眺めていた。

 私は出羽菊を取り出し、冷蔵庫に入れてもらった。れいちゃんは灯りを落としてケーキにローソクを二本立てた。ハッピバースデーを歌ってくれた。その声がかすかにふるえていた。見ると彼女の目が涙ぐんでいる。

 私は気負って息を吸い込み、ふーっと吹き消した。

 「これ、プレゼント。開けてみて」

 「わあ、なんだろう」

 モスグリーンの幌布の鞄だった。タグのところに「YUSUKE」と名前が刻んである。

 「どうもありがとう! こういうの、どこで売ってるの」

 「深草の老舗で、猫印鞄製作所っていうところがあるの。いくつも種類があるんで迷ったんだけど」

 「色もいいし、頑丈そうだね。すごく気に入ったよ。こっちの古鞄はもういらないね」

 私は子どもみたいに肩から掛けて室内をスキップするように歩き回った。れいちゃんは笑ってそれを見ていた。

 それから彼女はキッチンに入った。カーテンの隙間から外を見た。深草のネオンがすぐ間近に見える。隅井川を隔てて少し左寄りにライトアップしたスカイタワー。空気がもやっているのか、少しかすんで見える。雨になるかもしれない。

 自分のうちにも来てくれないかと誘った。れいちゃんは今年中に行きたいと言った。

 28日の仕事納めの日を提案すると、彼女はその日はもう休みだから、早く行けると言った。

 「あの幻のポトフ、作ってあげるね」

 「幻のポトフか。そういえばあのメールは切なかったな。あれ読んだとき、すごく一緒にいたいって思いがこみ上げてきて」

 サラダとカルパッチョが出た。味付けをほめると、れいちゃんはちょっとおどけたように、

 「この味がいいねと君が言ったから11日は ゆうちゃん記念日」

 「ハハ……その『ゆうちゃん』のところを○○としておいて、何か二人にとって大事なことを表す言葉を入れた方がいいかも」

 思わず言ったのだが、言ってしまってから、俺はプロポーズしているのかなと思った。ちょっと厳粛な気持ちになった。れいちゃんも真面目な顔になった。それから何となく逃げるような感じでキッチンに立った。白けさせたかもしれないと感じ、後悔と不安に襲われた。

 厚揚げと豚肉の煮物が出た。お料理屋さんみたいにうまかった。

 

 前に勧められた『広い世界の端っこで』の話をした。戦時中に呉市に嫁いだ18歳のゆきさ んの話だが、義理の姉の子、直美ちゃんをちょっと預かって散歩している間に、地雷に当たって直美ちゃんを死なせ、自分の右手を失ってしまう。右手は絵を描き続けてきた彼女の命といってもよかった。そのときのアニメ表現がとても印象的だった。

 私よりもれいちゃんのほうがいろいろなシーンをよく覚えていて、その意味をしっかりとらえていた。原作の漫画との違いについても説明してくれた。

 このアニメには、広島の原爆投下のシーンも出てくるのだが、その悲惨さをやたら強調するのではなく、爆撃を免れた普通の市民の目線で描かれていて、そこにとても好感を持った。

 私は丸本夫妻の『原爆絵図』や、マンガの『はだしのケン』を例に出して、それらとのコントラストに言及した。れいちゃんはああいうのは好きじゃない、とはっきり言った。

 彼女は出羽菊とお猪口を二つ出してきて、私のほうになみなみと注いだ。私も彼女のお猪口に注ぎ、二人で改めて乾杯した。

 「このお酒ね、純米無濾過生原酒って書いてあるでしょう。お米の香りがすごくするんだよ。それでひとりで一升瓶買ってきて、毎日少しずつ飲んでるんだ」

 「いい香りね。それにコクがすごくある」

 「二人で飲むとよけいうまい」

 「ほんとね、ウフ……」

 「ところで、さっきの原爆の話で連想したんだけどね、広島の原爆慰霊碑に『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから』って碑文が書いてあるでしょう」

 「うん。あれおかしいね。主語がないのね」

 「そう、僕はずっと前からあの文句には憤りを覚えていたんだ。ふつうに見て、まるで日本人自らが過ちを犯したように読めるよね」

 それから私は、自分の憤りについて説明した。止まらなくなってしまった。

 民間人の大虐殺という戦争犯罪を行なった直接の下手人は言うまでもなくアメリカである。そのアメリカに対する怒りを完全に封じ込められて、自分たちがもっぱら悪い戦争をした結果であるかのように洗脳されてしまった。ここに戦後平和主義の欺瞞が象徴されている。

 私は、アメリカに対して憤っているのではない。「日本が悪い」と思いこまされて、それに対して正式な抗議も怒りもぶつけたことのない、大方の日本人や日本政府のふがいなさに対して憤っているのだ。国内での論争や碑文に対する嫌がらせはあったようだが、いかにも内向きだ。

 あの碑文が決定したのは、サンフランシスコ条約発効の3か月後である。占領下であれば仕方がないとも言えるが、すでに日本の独立は果たされている。だからこんな碑文を決定する前に、原爆投下責任についての大議論が内外に向けて巻き起こされてしかるべきだったのだ。

 ところが日本人は、平和に対する祈りを繰り返すばかりで、正当な怒りを表明しようとしない。「勝てば官軍」の論理にあっさりと丸め込まれてしまったのだ。

 これは何も原爆投下だけの問題ではない。戦後ずっと、「アメリカは正しい戦争をし、日本は悪い戦争をした」という認識が定着してしまった。東京裁判史観というやつだ。けれど、本来、戦争とは対等の争いなのだから、そこに道徳的な善悪の判断を下すことは容易ではない。私は歴史にはあまり詳しくないが、当時の状況をざっと調べていけば、日本は拙劣な戦争をしたかもしれないが、道徳的に悪い戦争をしたわけではなかったことがわかる。

 いまでもそうだけど、日本人て、どうしてきちんと自己主張しないんだろう。だから韓国や中国に対しても舐められるんじゃないか。

 気づいてみたら興奮していて、れいちゃんにたしなめられてしまった。たしかに自分の誕生日にこんな話を恋人に向かってするなんて、野暮の骨頂だ。恥ずかしくなって頭を掻いた。

 

堤 佑介ⅩⅣの1

                                     2018年12月15日(土)

 

 れいちゃんと初めて結ばれてから、もう半月経ってしまった。その間に4日に同じホテルで会い、11日の誕生日には、彼女のマンションに泊まった。彼女との絆はいっそう深まり、これからの付き合い方についても、同じ考え方をしていることがわかった。

 

 だが仕事のほうでは、いろいろとややこしかった。めんどうなことと楽しいこととは、いつも入り乱れながら訪れてくる。私たちは、そのたびに気分のモードを切り替えながら、日常をやりくりしているのだ。

 4日は、井上さんの古家の解体費用を査定してもらう日でもあった。八木沢に現地に行ってもらって、報告を待つことにした。

 経理の渡辺からは、11月の収支報告が上がってきたが、あまり成績が思わしくない。成約数は下がってはいないのだが、賃貸の低家賃のところが多く、売却物件の売値も低くなっている。デフレがますます進んでいるという印象だった。

 仕事は楽になってはいないのだ。だからこそ雇用を一人増やしてもらったのだが、その手前、業績を伸ばさなくては、本部に顔が立たない。年明けの繁忙期を控えて、今月中にも、カード決済を増やしたり、限られた人材の有効活用など、何らかの効率化を図らなくてはならないだろう。今日からそれについて対策を考えることにした。

 八木沢が帰ってきた。怒ったような表情をしている。この季節にしては異様に暑い日だったからかもしれない。

 「どうだった」

 「所長、あの井上さんて人はほんとジコチュウで困りますね」

 「まあまあ、落ち着いて。お茶でも飲んで。で、何があったの」

 「三和工事さんが、丁寧に調べて、そのあと、6日に見積もり出しますって言ったんですよ。ふつうそうしますよね。そしたら、いまここで出せないのかって言うんですよ。上司と相談しなくてはなりませんから、いまここではちょっとって返事したら、じゃ、あんたの概算でもいいから言ってみろって」

 「そりゃ困ったね。それで?」

 「三和さん、仕方ないから、まあ150万から180万くらいですかね、って」

 「それ、言わない方がいいんだよね。あとでこう言ったろってつけ込まれるから」

 「ですよね。そしたら、井上さん、120万くらいにまからないかって価格交渉始めちゃったんですよ。三和さんが、それは私の一存ではきめられませんので、ご勘弁くださいって。それでも井上さん、粘るんですよ。仕方ないから、わたしが間に入って、井上さん、お気持ちはわかりますが、三和工事さんがあさってちゃんとした見積書を必ず出しますから、それから交渉なさってもよろしいんじゃないでしょうかって言ったんです。そしたら、今度はわたしのほうにらみつけて、そんな悠長なことしてられねえんだって凄むんですよ」

 「そりゃ、やくざだな。悪かったね。近いんだから私が行けばよかった」

 「いえ、所長のお役目じゃないから、それはいいんですよ」

 「で?」

 「わたしも内心ムカッとしてたんですけど、ぐっとこらえて、あと2日のご辛抱ですから、そこを何とかって何度も言ったら、ようやく引き下がりましたけどね。あれ、ホントの息子かよ」

 「一応、売却の時、戸籍抄本持ってきたからね。免許証も見たし」

 「そうなんですよね。それにしても、お母さんがホーム入りを喜んでたなんてウソで、無理やり放り込んだんじゃないですかね」

「そうかもしれない。でもそれはしょせんわからないね。それより、まあ、何とか今日のところは収まったから、よしとしようじゃないか。どうもほんとにご苦労さま」

 「でも、更地にしたら、ウチの仲介物件になるんでしょう。先が思いやられますね」

「そうだなあ。いや、まだ更地段階での契約結んだわけじゃないから、まずいと思ったら、他を斡旋する手もあるよ。とにかくその時はその時だ」

 八木沢は、しぶしぶ自分の席に戻った。書類を叩きつけるようにデスクに置いた。よほど腹に据えかねたと見える。

 彼女はガッツがあり、物事をてきぱきと運ぶが、ちょっと切れやすいところがある。営業には向かないかもしれない。温和な山下と足して二で割るといいのだが。

 井上問題がこじれて、部下に不向きなことを強いつづけると、パワハラと見なされかねない。あまり高い給料を払っていないのだから、下手をしたら転職してしまうかもしれない。

 そんなことを感じながら、さっきの人材の有効活用の問題に連想が及んだ。おそらくウチのスタッフの職分についての方法論も、見直すべき時が来ているようだ。あまりそういうことはしたくないのが本音だが、もう少し厳密に「適材適所」を考えるべきなのだろう。基本は適材適所、しかしガチガチに固めるのではなく、常に「臨機応変」の余地を残しておく。難しい課題である。

 

その同じ日の4日、れいちゃんは、暑い日にふさわしくハーフコートの前を開けて、麻のような茶色のブラウス姿という軽装だった。マリンブルーのロングスカート。センスのいい女だ、と思った。

 部屋に入ると、この前の電話でのセクシーな声が頭の中に甦った。私は気がせいて、彼女を立たせたまま素裸にした。彼女も私の脱衣に手を貸した。シャワーを浴びたいとはもう言わなかった。私はひざまずいて乳首から下へ唇を這わせ、濃い茂みに口づけした。野生の匂いがした。その時漏れた声が、あの電話の声と同じだと思った。

 ベッドで体を合わせると、初めの時よりもれいちゃんは積極的に私をいざなった。そして

その乱れるさまが私の興奮をいっそう呼び覚ました。

 「れいちゃん好き、れいちゃん好き」と私はささやきながら行為を続けた。れいちゃんはそのたびに「わたしも、わたしも、ゆうちゃん好きよ」と呼応して、私の背中に指を食い込ませた。

 

 「こないだの電話の声、すごくセクシーだったよ」

 「フフ。あれは友だちの家のトイレに入ってたから内緒話みたいになっちゃったの」

 そう言ってから、れいちゃんは私の上にのしかかってきた。

 「ゆうちゃん」

 うるんだ目でわたしをじっと見つめた。

 「なあに?」

 「……愛してる」

 耳元でのささやきだった。

 「……」

 「初めて使った」

 私はその言葉を信じた。

 答える代わりに、私は彼女のむっちりしたお尻をつかんで軽くもみもみした。それからわき腹をきゅっとひねった。彼女はひどくくすぐったがって体をよじった。そしてまた私の上に身を載せてきた。

 「重くない?」

 「重くないよ」

 そのかっこうのまま、私たちは話し続けた。

 「友だちって、よく会うの?」

 大学以来の親友で、すごく仲がいいこと、とてもクールなので、彼女にはいろんなことで助けてもらったこと、婚活サイトも彼女に勧められて始めたこと、今度紹介すること、などをれいちゃんは語った。

 「勧められたってことは、その絵理さんもサイトで彼氏見つけたの?」

 れいちゃんは、私から身を離した。そして、その通りだが、相手が妻子持ちだったと告げた。奥さんにもばれてしまった、いまエリは、その複雑さのさなかにいる、とも。

 婚活サイトへの登録は、当然、独身者であることが条件である。そういうルール破りに抵抗感はないかと、彼女は私に聞いてきた。

 私は答えるのに戸惑った。

 ああいうサイトには、ヤリモクの男が群がる。そのなかには、当然、浮気目的の男もたくさんいることだろう。いや、女だっているかもしれない。だからかまわないとは言えない。

 その絵理さんの相手が、浮気目的だったのか、そうではないのか、それはわからない。そもそも浮気と本気の間に線が引けるだろうか。本気のつもりが浮気で終わってしまうこともあるだろうし、浮気のつもりが本気に深入りしてしまうこともあるだろう。

 また、私自身が不倫経験者だ。その立場からすれば、その男を道徳的に責める資格はない。婚活ルール破りと言ったって、冷えた夫婦関係なら、そんなこともありうるだろうし、国法に触れているわけでもない。婚活サイトというようなシステマティックな仕組みでルール破りをするのと、ふつうの出会いが高じて一線を越えてしまうのとで、そんなに差があるとも思えない。

 要は、当事者同士の感情の持ち方次第だろう。愛憎の問題は、とりあえずルールとは関係ない。ルールがかかわってくるのは、エロスの関係がそのほかの社会関係とからまって、軋みを生じてしまってからあとのことだ。

 私は聞いた。

 「絵理さんは、その人を愛してるの?」

 「うん。愛してる、と思う」

 「それで、れいちゃんは、エリさんになんて言ってあげたの」

 「応援するから闘うべきだって。諦めると決めた場合でもサポートするって」

 なるほど。私は二人の友情が羨ましかった。正しい、正しくないが問題じゃない。深く信頼しあっている親密な人どうしが、互いにどこまでも寄り添うこと。それがたぶん一番大事なことだ。たしか『論語』にもそんなくだりがあったな。

 「それ、言うのに勇気が必要だった?」

 「勇気、というか、何言ってあげられるかって決めるのにちょっと時間がかかったわね」

 「……いいことを言ってあげたね」

 

 それかられいちゃんは、自分たちはレズと間違えられてしまうかもしれないと言った。私は笑いながら、そんな心配はいらないと答えた。答えてから、女どうしの親密さと、男どうしの親密さの違いということに考えが及んだ。

 女は、友だち関係が親密さを増すと、自然に肉体的にもレズビアン的な関係に移行できるような気がする。それは、女性のもつ優美さというのが、男が見ても女が見ても同じように優美に見えることと関係があるのではないか。

 いっぽう、男は、戦友のように、何かと闘う意思が一致すると、とても深い精神的な友情が成立するけれど、それは、そのまま肉体的な同性愛に移行することはあまりないような気がする。男の肉体的な同性愛は、はじめから性的な指向性として決まっているか、そうでなければ、軍隊や修道院のように男だけの閉鎖的な環境に置かれたときに、過剰な性的意識のはけ口として、女の代用品を求めるところに生まれるのだろう。

 とにかく男のそれは、激しいのだ。西山ハウスの笹森カップルのように。だから時として犯罪にも結びついてしまう。

 私は笹森カップルと隣に越してきた鹿野夫婦の話をした。れいちゃんは、お腹を抱えて笑った。

 「でも、笑っちゃいけないわね。そのお年寄り、かわいそうだし、ゆうちゃんもたいへんだったわね。そんなにはげしいのね」

 そう言ってから、れいちゃんはちょっと恥ずかしそうにして、私の胸に顔を埋めた。自分のことを思い出したのかもしれなかった。

 

 それから私たちは、服を着てソファのほうに腰かけ、お茶を飲みながらLGBTやセクハラについて話した。

 「LGBTが騒がれるのって、権力を倒したいサヨク勢力が、マイノリティをそのための道具として利用している面もあるって前に言ったよね。でも世界中でこんなに、サベツ、人権って騒がれるのって、そういう声を平気で受け入れるマジョリティの側の心理にも原因があると思うんだ」

 「ポリコレってやつね」

 「これこそが政治的に正しい原則だって固執して、あらゆるところにサベツやセクハラの兆候を嗅ぎだしては、レッテル貼りをする傾向」

 「わたしも、男の人が女の人に何か言うと、いちいちセクハラ、セクハラって騒ぎ立てるのって、男の人が委縮しちゃって、よくないんじゃないかしらって思ってたの。出会いの機会を奪ってるでしょう」 

 「流行現象みたいになっちゃってるね。もちろん中には、ほんとにそういうこと言ったりしたりする連中がいることはたしかだけど、一度そういうのがニュースになったりすると、言葉が独り歩きして、どんどん拡散するよね。それで、ポリコレがこんなにブームになるのも、現代人のほとんどが生きるよりどころをなくしているせいじゃないかと思うんだよ」

 「生きるよりどころ……」

 「うん。たぶん宗教的な権威が衰えたんで、どこかに『正しさ』の絶対的な基準を立てておかないと、生きていくのに不安で仕方がないんじゃないかな。そうしないと、自分の存在の確かさが確認できない。そういう下地があるんで、一部の政治勢力が、ポリコレに少しでも引っかかる言動に対して「差別主義」とか「排外主義」のレッテルを貼って、魔女裁判みたいに糾弾する」

 「ああ、なるほど。そのことで、自分は『正しい人だ』って確信が得られるわけね」

 「うん、そう。すごく脆弱な確信だけどね。でもそれは裏を返すと、自分たちがリア充の実感を持てないからじゃないか。つまり相手の否定によって、自分がより上位のアイデンティティを確保しているかのような気になれる」

 「それって、何かコンプレックス抱えてたり、いまの自分に自信がなかったりする人に多いかもね」

 「ああ、ほんとだね。それ、もう少し歴史に広げてみると、ポリコレブームを作り出したのは欧米人だよね。その深層意識には、自分の存在の基盤が失われていて、『関係の空虚』を生きてるっていう実態があるような気がする。だから、これはポリコレ・コードに引っかかるんじゃないか、こんなことを言ったら『差別主義者』とか『排外主義者』とか『セクハラ』呼ばわりされるんじゃないか、と絶えず恐れていなくちゃならない。しかも、そのことが自覚できないようにさせられているということでもあると思う」

 「そこに反権力的な政治団体がつけ込むわけね」

 「うん。ただ、ヨーロッパの場合、古くから、宗教対立や他民族の混交の問題があったでしょう。ナチスみたいなこともあったしね。だから、きっとアイデンティティ不安とか、緊張感とかがすごく強い。それで、反権力団体だけじゃなくて、むしろ中枢権力が、そういう正義の建前を率先して掲げてきたんだと思うのね。でもいま、イスラム系移民なんかがどっと押し寄せて、かえってその建前が仇になってるんじゃないかな」

 「そうね。日本の場合は、そういう緊張感ってないわね。LGBTと普通の人たちって適当に棲み分けてるし」

 「イスラム教じゃ、同性愛は死罪だからね。そういう宗教対立がない日本じゃ、LGBT問題なんてそんなに切実じゃないはずなんだけど、なんか、アチラから《問題》として輸入されると、すぐマネするんだよね」

 「でも、いま移民受け入れ拡大の方向に向かってるでしょう。そうすると、東南アジアのイスラム系移民が大量に入ってきたら、そういうことも問題になってくるんじゃないかしら。だって豚肉食べちゃいけないとか、一夫多妻認めてるんでしょう。そういう人たちとの間で摩擦が起きるんじゃない?」

 「うん。れいちゃん、いいこと言うね。たしかにこれからはその可能性はあるね。でも日本人はのんきだから、そういうこと、いままで考えてこなかったんだよね」

 それかられいちゃんは、じっと思いを巡らすふうにしてから、ひとりごとのように言った。

 「正しさとか、正義って何だろう」

 哲学者みたいだ。私も同じようなことを考えていたけれど、この疑問に答えを出すことはすごく難しい。

 「文化によってすごく違うからね。Aの正義、Bの正義、Cの正義がぶつかり合ったりまじりあったりした時に、それが問題になるんだよね。リベラルな人たちって、特に学者に多いけど、よく『いろんな価値観があっていい。多様性を受け入れるべきだ』なんていうでしょう。でもそれは、自分がそういうぶつかり合いの場面に立たされてないから、そんな軽薄なきれいごとを言っていられるんだと思う」

 「ヨーロッパは、それで失敗したのよね」

 「そうだね。やっぱり相手の価値観をただ寛容に受け入れるんでも否定するんでもなくて、それはそれとして認めた上で、でもこっちにはこっちの価値観があるんだから、お互いに侵入しないで棲み分けられるような境界線をうまく引くことが大事なんじゃないかな」

 「それって、国を守るってことに関係ある? 移民を規制するとか」

 「大いに関係あるね。日本人は西洋のマネばっかしてないで、むしろヨーロッパの失敗を他山の石として学ぶべきなんだ。でも一向にその気配がなくて周回遅れをやってる」

 「困ったわね」

 それきりふたりの間では、言葉が続かなかった。

 そもそもこんな話を、逢引きのあとでしている私たちって、やっぱりずいぶん変人なんだなあ、と思った。というよりも、私の変人ぶりのほうに、れいちゃんを引きずり込んでしまった感じだ。これからどこまでこんな自分につきあってくれるだろう。チェーホフの『可愛い女』みたいだといいんだけれど、などと、自分勝手なことを考えた。

 

半澤玲子ⅩⅣの3

 

 「あのね、わたしもまじめな話していい?」

 「どうぞ」

 「床暖、熱すぎない?」

 「ちょうどいいよ。なに、真面目な話って」

 「ちょっと待ってね。ご飯炊けたみたい。どうする? もっと飲む? それともご飯にする?」

 まだ720ml瓶には三分の一くらい残っていた。

 「よし、れいちゃんの真面目な話を、残りの酒を酌み交わしながら聞こうではないか。ご飯はその後で」

 ちょっとおどけるようにそう言って、佑介さんは、どっしり構えるふうを見せ、瓶のお酒をお猪口に注いだ。

 「わかりました。さっき、〇〇に二人にとって大事な言葉を入れるって言ったでしょう?」

 「うん」

 「それって……もしかして、……婚約とか……結婚とかイメージしてた?」

 わたしは言いながら、思わず顔が引き締まってくるのを感じた。不安がよぎる。

 ところが彼は、そう聞かれて、まったく意外ではないという感じですらりと答えた。

 「ああ、その問題ね。イメージしてたよ、かすかにだけどね」

 「話したいことって、それなの。ゆうちゃんがどう考えてるか、聞きたいの」

 「うん、僕もちゃんと二人で話そうと思ってたんだ。僕は……もしれいちゃんが結婚してって言ったら、一も二もなく『いいよ』って答えるつもりだった。僕もしたいから」

 「僕もしたいから」――そう言ってくれたことは、素直にうれしかった。でも、わたしは、何が何でも結婚、なんて考えていないのだから、わたしのほうからプロポーズするのは控えていた。

 「わたしは……」

 「ちょっとまってね。でもね。僕らの状況、年齢、これまで生きてきた過去やこれからのこと、それから、結婚生活ってものの世間一般のあり方、そういうことをいろいろ考えたら、自分から言い出すのはちょっと慎重にした方がいいんじゃないかって、いま思ってる。ずるいように聞こえるかもしれないけど」

 そこで彼は言葉を切った。お猪口に残ったお酒を飲み干して、独酌で注ぎ足した。

 もしかすると、わたしが考えているのとほとんど同じかもしれない。

 「ううん、ずるくなんかないわ。……もう少し言ってくれる?」

 「つまり……結婚て、なんだろうね。誰かが結婚するっていうと、周りはおめでとう、おめでとうって騒ぐけど、結婚生活続けると、愛情が冷める例がすごく多いよね」

 「うん。たいていはそうね」

 「いま未婚者がすごく増えてるでしょう。もちろんその第一の理由は若い人たちが経済的な余裕がなくて結婚できないってことなんだけど、それだけじゃなくて、結婚生活ってものに対するメリットを感じなくなってる人が多いんじゃないかと思うのね」

 「うん。それは、1人でいた方が束縛されなくていいってこと?」

 「そう……かな。そうも言えるけど、いま、昔と違って、独身で暮らしてても、毎日の生活に困らないでしょう。一生ひとりの人とだけ暮らすことに対する一種の絶望感――ていうと大げさだけど、そのことにあんまり希望の光を見ない感覚みたいなものが共有されてるんじゃないかな」

 「ゆうちゃんも、そう感じてる?」

 「あ、僕は違う。一生って言ったって、僕は残り少ないし、いまこうしてれいちゃんと出会って、すごく一緒に暮らしたいって感じてる。いつもくっついていられたらいいなあって。でも……」

 「でも?」

 「一つ屋根で暮らしたら、お互い、恋愛時代とは違った面が見えてきて、絶対愛情が冷めないって言い切れる自信があるかっていったら、正直なところ、そうは言い切れない」

 正直な人だと思った。わたしの考えにだんだん近づいてる。

 「問題はさ。どうしたらいまのこの気持ち、れいちゃんとずっと一緒にいたいって気持ちを長続きさせられるか、その工夫にかかってる、って考えたんだ」

 「こうして、時々会って、愛を交わしている方が長続きする?」

 「それもまた違うなあって思うんだよ。いつも同居してるんでもなく、お互いの都合のいい時、たまに会うんでもなくて、その真ん中くらいの形が取れないかなあって」

 ここまで聞いて、わたしの考えとほとんど同じだとわかった。今度はわたしが語る番だ。

 「ありがと。いま聞いてて、わたしの考えと同じだなって思った。うれしいわ。わたしもね、そういう真ん中みたいな形って、できるんじゃないかって気づいたのよ。だって、わたし、ゆくゆく実家で母の面倒見ることになるだろうし、ゆうちゃんは、お仕事続けながら、いまのマンションにいればいいわけでしょう。それと、実家は古いけど、二階は空いてるし、もしゆうちゃんがいたければずっといることもできるのよ」

 「そうだよね。同じこと考えてた。二つの家を行き来できるんだよね。自分で想像してて、これって昔の通い婚みたいだなって」

 佑介さんは、微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべた。

 「お母さんはどう思うだろう」

 「母は昔の人だけど、けっこうさばけてて、わたしの生き方にああだこうだ言う人じゃないのよ。だからたぶん大丈夫だと思う」

 「そうだといいね」

 「わたし、もう子どもは無理だと思うのね。それは寂しいけど、仕方がない。でね、それをあきらめた上で、わたしたちのこれからを想像してみたら、なんだかすごく恵まれてるような気がしてきたの」

 「会社勤めはどうするの」

 わたしはそう突っ込まれて、一呼吸置いた。そして思い切って決意を語った。

 「じつは決めたの。1月の内示の時、退職願い出して、4月から華道の修業に本格的に邁進しようって。近々大原流の本部に問い合わせてみるわ」

 「え、そうなんだ! わあ、いいね、それって。僕もうれしい。全面的に応援する!」

 ふたりは思わず立ち上がって、強く抱きしめあった。

 「ね、ごはん食べよ。お味噌汁作るから待っててね。ダシ、鰹節でいい?」

 「うん。鰹節が一番好きなんだ。それからCD持ってきたの忘れてた。かけていい?」

 「もちろん。安いオーディオしかなくて、音悪いけど」

 少し経って、聞いたことのある曲が響いてきた。

 バッハの管弦楽組曲? 静かに、そして華やかに、わたしたちを祝福してくれるように、それは流れた。

 

 「ベッド、狭くてごめんね」

 「狭いほうがくっついて寝られるよ」

 夜が更けてきた。窓辺に寄ってカーテンの隙間から外を見ると、空気が煙っている。雪ではなく雨が降ってきたようだ。

 急に彼がわたしを後ろから抱きすくめた。

 わたしは、向きなおった。それから立ったまま、性急にお互いの服を脱がせにかかった。彼のYシャツのボタンをはずすのがうまくいかなくて、もどかしかった。これまでも感じたけれど、彼はブラジャーを外すのがうまかった。今日は白。彼の目に感動の色が光ったように感じた。

 わたしたちは、これまでにも増して愛し合った。

 いろいろなことをした。いままで誰ともしたことのなかったいろいろなこと。

 

 時計を見たら1時を回っていた。

 「れいちゃんのおっぱい、かっこいいね」

 佑介さんは、わたしの左の乳房の下にあるほくろを撫でながら言った。

 「でも最近垂れてきたの」

 「垂れてないよ。もし垂れてきたら僕がも一度プリプリにさせてあげる」

 「ウフッ。でも誰かを好きになるとほんとにそうなるって話聞いたことあるわ」

 「ほんとだよ」

 「……ねえ。さっきの話だけど」

 「うん」

 「あれ、実現したら、わたしたちって、もしかして、時代の最先端行ってることになるのかもね」

 「そう。いろんな家族の形が出てくるんだろうね。そのなかでは最先端かもしれない。でもある程度経済的な余裕がないとできないよね」

 「若い人たち、かわいそうね」

 「うん。若者は当分、親にパラサイトする状態が続くのかな。でも、そのうち親がへたばってくるからね。その時が問題なんだよ。8050問題なんて騒がれてるし、高齢者のひとり暮らしもすごく増えてるし。このままだと、ふつうの家族はだんだん壊れてくかもしれない」

 「みんな、個人個人でバラバラになっちゃうのかな」

 「うん。もうある程度はそうなってるね。でも、一回そうなると、また一緒になろうなろうって気運が高まりそうな気もするけどね」

 「8050問題だって景気が回復しなきゃどうしようもないわね」

 「そう。それがまず第一」

 それからとりとめのない話をして、いつの間にか眠りに落ちた。部屋は暖房が効いて、裸のままなのにちっとも寒くなかった。寒くないのは暖房のせいだけじゃなかったけど。

 

 翌朝、わたしが先に目覚めた。佑介さんの寝顔を初めて見た。これまでは彼のほうが先に起きていたのだ。

 かわいい寝顔だと思った。でも眉間にちょっと皺を寄せている。悪夢でも見ているのかしら。夢の中でも政治経済のこと考えて悩んでたりして。

 そーっと起きて、シャワーを浴びた。戻ってくると、彼はまだ寝ていた。ベッドの脇に散らかっている彼の服にちょっといたずらをした。

 外は小雨。でも上がりそうな気配だった。

 キッチンに入って、朝ご飯を作った。トーストとオムレツとトマトにホットミルク。

 やがて彼が起きてきた。

 朝ご飯を食べ終わってから、午前中は、ホットミルクのお代わりをしながら、ずっとベッドに腰かけてお話をした。音楽について。政治について。

 BGMはモーツァルトのピアノ協奏曲20番と、それからシューベルトのソナタ21番。

 「このソナタ、ちょっと暗いわね」

 「やめようか」

 「ううん、いいの。いい曲だし、人生には暗いところもあるでしょう。だから共感できる」

 「そうだね」

 

 それから佑介さんは、「暗いと言えば」と前置きして、政治の話をしてもいいかと聞いた。

 「いいわよ。ちょっと待ってね。ノート持ってくる。堤先生のレクチャー、はじまりはじまり」

 「ハハ……そんな値打ちはないよ。だけど、聞いてくれる人がなかなかいないからね。でもれいちゃんも僕の話をノートしようなんて、相当の変人だね」

 「うん。見かけは普通のOLだけどね。でもこれまでの人生振り返ってみると、やっぱり変人だったんだわ。佑介さんと出会って、そういう自分に気づかされたの」

 それから彼は、前々日の10日に、臨時国会が閉会したが、こんなひどい国会は初めて見た、という話をした。それは、主に入国管理法の改正と、改正水道法の成立に関してだった。

聞いてみると、たしかにひどい話だ。わたしはできるだけ克明にノートした。

 「ほんとに暗い話になっちゃったわね。雨あがったみたいだから気分変えて散歩でも行かない?」

 「そうしよう。深草は久しぶりだ。深草寺にお参りしよう」

 「堤先生の暗黒の授業はこれまで。せめてわたしたちは楽しくやりましょうね」

 「そうするしかないね」

 彼のその言い方には、絶望感に近いものが淡く漂っているようでもあった。

 

 わたしたちは手をつないで轟門をくぐった。お参りを済ませてから、お店に入り、お守りのつもりでふたりのお箸を買った。漆塗りの赤と黒。先端の色が反対になっていた。ふたりともそこが気に入った。

 「ねえ。さっき、深草寺でなんてお祈りしたの」

 「たぶん、れいちゃんと同じ」

 「そうね。きっと同じね」

 お昼を食べてお別れということになった。

 「麦とろのおいしい店があるのよ。隅井川に面してるの。そこにしない?」

 「うん。いいよ」

 隅井川を眺めながら、できるだけゆっくり食事をした。嬬恋橋が寒い曇り空の下で少しかすんで見えた。

 食後も、なかなか離れがたくて、深草界隈をぶらぶらしているうちに4時近くなった。そろそろ暮色が迫ってきた。地下鉄深草駅の改札で別れることにしたけれど、何となく永の別れみたいな気がして胸が詰まった。

 「これからまっすぐ日岡のマンションまで帰っちゃうの?」

 「うん。名残惜しいけどね。昨日と今日のこと、覚書に書くよ。しっかり書いとく」

 「わたしもこのまま乗ってっちゃいたい」

 「ハハ……またすぐ会えるじゃないか。28日には待ってるからね。ポトフの材料、教えてね」

 「うん。メール、ちょうだいね」

 「うん。れいちゃんもね」

 また抱き合ってチューした。オジサンやオバサンがちらちらこっちを見ていた。

 改札を隔てて、いつまでも手を振り合っていた。

 

半澤玲子ⅩⅣの2

 

 11日はとても寒い日だった。そして雨が降りそう。

 4日はすごく暑かったのに、対照的だ。このままどんどん寒くなっていくのかしら。そんなことはないと思うけど。ゆうちゃん、風邪ひかなきゃいい。

バースデー・ケーキは前日、会社の帰りに買ってきた。ケーキを受け取る時、なぜか、さっきまで黙々と勤務していたさくらちゃんの姿が思い浮かんだ。わたしが退社する時、彼女はまだ残ってて、「お先に」っていったら「お疲れさま」って、元気よく返事したけれど、何となく思い屈しているように見えた。破談になる前日だったというのは、あとで知ったことだ。

 朝、掃除を念入りに済ませた。冷たい空気が部屋を満たした。床暖房とエアコンで急いで温める。お昼を早めに食べて、ゆっくり食事の下ごしらえにとりかかった。

 

 お献立。

 新玉ねぎとツナの和風サラダ

 鯛の和風カルパッチョ

 厚揚げと豚肉の和風煮

 なめこ汁

 なすのおしんこ

 大根の葉とじゃこの炊き込み御飯

 

 時間が近づいたので、床暖もエアコンもつけっ放しで出てきた。黒いダウンジャケットを着て、改札の外側で待っていた。足元から寒さが伝わってくる。右奥のほうからゴーッという音が近づいてきた。たぶんこの電車だ。普段着の自分。それを佑介さんの前にこれからさらす。

 平日のこの時刻、まだ通勤客は乗ってないから、電車はすいている。そして、ゆっくりと停車した。この駅で降りる人はあまりいない。

 わたしは改札の外側から身を乗り出して車内を見回す。ぱらぱらと客が降りる。少し前のほうから、青いダウンジャケットを着た彼が近づいてきて、すぐ私を見つけた。着ぶくれして大きく見える。肩にかけた、もう擦り切れている古鞄。わたしのプレゼント、使ってね。

 「寒いねえ、きょうは」

 「寒いわねえ。夜、雪が降るかもしれないって言ってたわ。そうしたら雪の誕生パーティね」

 「それも風情があっていいね」

 さすがにこの狭い改札で抱き合うことはせずに、急いで地上に出る。

 寒さがひときわ身に染みる。わたしは彼の腕に抱きつくようにして歩き出す。

 「……すっぴんで来たの」

 「ん?」

 「こういうわたしも見てほしいから」

 「うん。いいんじゃない」

 「あ、こっち曲がるの」

 もうほとんど真っ暗だ。後ろからスカイタワーのライトアップが道をぼんやりと照らしてくれる。

 「地図で見たけど、このへん、すごくお寺が多いね」

 「うん。お寺だらけ。うちも東満願寺のすぐそばよ」

 「いいところだね。轟門は近いし。自分で探して見つけたの?」

 「うん。でも特に選んだわけじゃなくて、何となく決めちゃったの。あ、ここです」

 エレベーターで8階まで。防犯カメラに映されるのもかまわず、そこで口づけを交わした。寒さから、気分がだんだんと甘さのほうに移っていく。

 

 「わあ、きれいだなあ。築何年?」

 「10年かな」

 いつかのエリと同じことを聞かれたな、と思ったが、

 「まるで新築みたいだね。ヘンな話、これだと立地もいいし、駅近だし、相当高く売れるよ」

 そうか、佑介さんは不動産屋さんだった。そこに目が行くのは当然だ。でも、考えてみると、ここを売るというのは、場合によっては、意外と現実的な話になりつつあるのだ。佑介さんはそんなことを考えて言ったのではないだろうけれど。

 「あ、これがおととい活けたやつだね! うーん、すごい! 可愛くて、すきっとしてて、しかも力強くて、うまく言えないけど、すごいよ」

 「ありがとう。どうもありがとう。二つのバラがわたしたちのつもり」

 わたしたちは、抱き合ったり、チュッ、チュッ、チュッを繰り返したりしながら、しばらく「作品」の前に立っていた。うれしかった。すごくうれしかった。

 

 シャンパンとケーキで型どおりにお祝いした。わたしの立てたローソクは二本。佑介さんはわざと力を込めて吹き消した。

 猫印のバッグを渡すと、佑介さんはとても喜んで、「YUSUKE」の文字をゆっくり撫でた。

 「すぐ食事にするから、ケーキは食後に食べましょうね」

 「いろいろ、すまないね。手伝うよ」

 「だいじょぶよ。もうだいたいできてるの」

 まずサラダとカルパッチョを並べる。煮物やなめこ汁の食材も調味料も下準備してあるので、火にかけるだけ。炊き込みご飯はスイッチ・オンでOKだから、頃合いを見計らって。

カーテンの隙間から外を見ていた彼がテーブルに戻ったのをきっかけに、ビールから始めた。

 「景色もいいねえ。なだれ込みたくなっちゃった」

 「まあ。ホホホ……。でも狭いわ」

 「そうだ。今度僕のうちにも来てくれる? こんなきれいにしてるれいちゃんが見たら汚くてびっくりすると思うけど、きちんと片付けておきますから」

 「行きたいわ。今年中に行きたい」

 佑介さんはさっそく古鞄から手帳を取り出して、

 「うーん、クリスマスに、と言いたいところだけど、この辺はちょっと厳しいな。28日なら、仕事納めで午前中で終わるから、それでもいい?」

 「いいわよ。私は28日はもうお休み。そしたら、あの幻のポトフ、作ってあげるね。材料知らせるから、買っといてね」

 「わかった。それってすごくいいね。幻のポトフか。そういえばあのメールは切なかったな。あれ読んだとき、すごく一緒にいたいって思いがこみ上げてきて」

 言いながら佑介さんは、サラダとカルパッチョにお箸をつけた。味付けがすごくいいとほめてくれた。

 「この味がいいねと君が言ったから11日は ゆうちゃん記念日」

 「ハハ……その『ゆうちゃん』のところを○○としておいて、何か二人にとって大事なことを表す言葉を入れた方がいいかも」

 そういうと同時に、彼の表情がちょっと真剣になった。思わず言ってしまってからそうなったという感じだった。わたしもそれを聞いて、真剣な気分になった。佑介さんは、わたしのグラスにビールを継ぎ足した。わたしも彼に注いであげた。

 あんまり真剣になると、楽しさが半減する。いまはちょっと待とう。でも今日か明日かで、私の気持ちを必ず、しっかりと話す。そう決めてからすぐ立ち上がり、キッチンに入って炊飯器をオンにした。それから煮物を作った。

 煮物を大きな鉢に移して、そろいの取り皿で食べた。

 「うまい! お料理屋さんみたい」

 「よかった。厚揚げがおいしいでしょ。これ、三谷三丁目に山形料理の店があって、そこの鍋がおいしいんで、似てるのをネットのレシピで探したのよ」

 

 いろいろな話をした。

 佑介さんは、『広い世界の端っこで』を見た、と言っていた。

 「さらっと見ただけなんで、よくわからないところもあったんだけど、幼いころヘンなオヤジの駕籠のなかで、未来の夫の周平と出会ってるでしょう。それ、妹に描いて見せるよね。あれ、ゆきさんの空想なんだよね。一応、結婚話の時に周平がどっかで一度会ってるって言うけどさ。でもその好きな絵をずっと描き続けていて、そのままアニメで日常生活を描いていく画面の流れにつながってくとこが、すごく見事だね」

 「うん。そうそう。それで、あのヘンなオヤジさん、最後のほうで、影みたいにふたりの後ろをスーッと通り抜けるのよね」

 「え? そうなの? 見落としてた。今度もう一度見てみよう」

 「わたし、原作の漫画も読んだのよ。そこにもちょっとだけ出てくるの」

 「あ、そうなの。原作とアニメとどっちがよかった?」

 「うーん、一概に言えないけど、アニメでは、たとえば子どもの時におばあちゃんのうちで天井裏から降りてきてスイカの残りをしゃぶる貧しい女の子が出てくるでしょう。あれ、ゆきさんが闇市で買い物してから遊郭に迷い込んじゃう時に出てくる遊女のお蘭さんなのよね」

 「あ、そうか、それも気付かなかった。だからスイカの絵に引きつけられるのか」

 「うん。それがね、原作では、そういう伏線がはっきり描かれてなくて、その代わり、お蘭さんは周平さんの昔の恋人だったってことになってるのよ。恋人って言っても遊郭で知り合ったんだろうけどね。それがさりげなく示されてゆきさんはそれを知って複雑な思いに駆られるのね。そういう翳りみたいなのが、アニメにはない」

 「なるほど」

 「それと、周平さんの勤め先にゆきさんが会いに行って街を散歩するシーンで、ゆきさんがこのごろあまり食が進まないって言って、二人で『あーっ!』て言いあうところがあるでしょう」

 「あった、あった。あれ、妊娠したんじゃないかってことでしょ。それで、ヘンだなって思ったんだけど、義姉さんが二人分、って言って、てんこ盛りのご飯差し出すのに、翌日んなると、おかゆ一人分しか出さないよね。あれ、どういうことなの」

 「あれ、よくわからないわね。ちらっと産科医院から出てくるカットがあるんだけどね。それも原作だと、産科行って調べてもらったら栄養不足の生理不順だったってことがちゃんと書いてあるの。で、産科の帰りにもう一度お蘭さんの所に寄って、いろいろ話すんだけど、そこでお蘭さんがゆきさんの名前聞いて、はっと覚るのよ。ゆきさんはゆきさんで、荷物整理してた時に派手な茶碗発見して、それで覚るのね。そういういきさつがアニメじゃ省かれてるから、そこは原作のがていねいだし、なんていうか、文学的な深みがあるわね」

 「その原作持ってる?」

 「ええ。あとで貸してあげるね。でもわたしはやっぱり直美ちゃんと右手を失う時のシーンが、アニメならではと思ったわ。原作ではちょっと物足りない描かれ方してる」

 「ああ、そうなんだ。アニメで人間の何とも言えない感情を表現するのって、難しいんじゃないかって思ってたけど、あの真っ暗になっていろんなイメージがちかちか飛び交うの見たら、一瞬にして運命が変わってしまったゆきさんの、何とも言えない悲しさと虚脱感がすごくよく出てたね」

 「それもさりげなくなのよね。それって、絵はうまいけど、ぼーっとしてるっていうゆきさんのキャラとマッチしてるんじゃないかしら」

 「ああ、なるほど。そうだね。いい映画、紹介してくれてありがとう。僕はあれ見てるうち、広島の実家に戻って原爆でやられるんじゃないかと思ってたんだよ。でもそれだと悲惨さが強調され過ぎて、メッセージ性が出ちゃうでしょう。ちょっとした偶然で地雷を踏んづけちゃったってのが、全体のトーンを壊さない要素になってると思う」

 「うん。そっちは時限爆弾があるから気をつけろよーって声がするんだけどね。ゆきさん、ぼんやりしてるのよね」

 「うん。考えてみると、僕たちの日常って、あんなふうかもしれないね。だから戦争のさなかでも、戦争に負けても逞しく生きていけるのかもしれない」

 「そんなに悲惨さが強調されてないところがいいわね」

 「そう。広島の原爆っていえば、教科書なんかに乗ってる丸本夫妻の『原爆図』とかさ、マンガの『はだしのケン』とかがもてはやされてきたでしょう。ああいうのって、やたら悲惨さが強調されるから、それだけで政治的なメッセージ性持っちゃうんだよね。それをサヨク政党が利用する」

 「わたし、ああいう気持ち悪い絵とかマンガって、好きじゃないわ。ああいうの見て、平和の大切さを知る、なんて気持ちにほんとになるかしら」

 「たぶん、一部のインテリはなるだろうね。頭で理解しようとするから。それで思い出したんだけどね……」

 「あ、ちょっと待ってね。ゆうちゃんの持ってきたお酒出してくる」

 わたしは冷蔵庫で冷やしておいたのを取りに行った。もう一度乾杯。

 佑介さんは、それから、広島の原爆慰霊碑の文句がふざけてると言い出した。

 「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」というあれだ。過ちは誰が犯したのか、主語がない。原爆投下は、明らかにアメリカの民間人大虐殺という戦争犯罪なのに、日本人や日本政府は、それに対して正当な怒りをぶつけたことがなく、ただ「平和への祈り」を繰り返すばかり。敗戦は、かくも日本人を去勢してしまった。GHQに完全に洗脳されて、日本人はこんなに悪い戦争をしたんだって思いこまされてしまった云々。

 わたしもほんとにそうだと思った。でも、珍しくやや興奮気味の佑介さんをなだめなくてはならなかった。

 「ゆうちゃん。顔がちょっと怖くなってる」

 「いや、ごめんごめん。いつの間にかヘンなほうに話が行ってしまって。誕生日にふさわしくないね」

 これは、彼がまじめな証拠だ。そういう真面目なところがわたしは好き。でも、もし食卓でしょっちゅうやられたら、ちょっとうんざりかもな。こういうの我慢するのが難しいんだよな。

 そう考えた時、もう自分が彼と夫婦気取りでいることに気づいた。それで、さっきの決意を思い出した。やはりいまここで話してしまおう。

 

 

半澤玲子ⅩⅣの1

                                    2018年12月15日(土)

 

 さわやかに晴れた冬らしい朝だ。

 佑介さんのために活けた花が、ガラス越しの日を浴びて、輪郭鮮やかに見える。ピンクのバラとカスミソウと鳴子ユリ。全体がわたしの今の心境とマッチしているように感じられた。

 今年もあと半月。

 テレビでは今年の十大ニュースとか、流行語大賞とかやってるけど、そんなこととは関係なしに、わたしにとって、夏の終わりから今日まで、じつにいろんなことがあった。

 もちろん、佑介さんとなさぬ仲になったことがダントツ大きいけれど、それ以外でも、エリの事件、さくらちゃんの婚活、中田さんのこと、岩倉さんのこと。安岡新課長の就任と、勤務に対するわたしの心境の変化。

 佑介さんとのこれからがどうなろうとも、わたしは年度末の人事異動の際に退職することを決意した。年が明けたら内示の時期が来るので、早めに退職願いを出す。来年四月から大原流師範獲得に向けて邁進あるのみ!

 そう決めると、心が今日の空のようにすっきりした。

 

 でも悲しいニュースもあった。

 おととい、さくらちゃんとお昼ご飯を食べた時、彼女から、例の話が破談になったことを聞かされた。それが、ちょうどわたしが休暇を取っていた11日の晩だという。佑介さんとわたしが幸福感に浸っていたころ、彼女は失意を味わっていたのだった。

 何かが行き違って人生の明暗を分ける。それはよくあることかもしれないけれど、あんなにわたしのことを慕ってくれている部下がそういうことになるなんて、他人事とは思えなかった。

 「向こうは嫁として入ってもらうのが絶対条件みたいで、いえ、彼自身は別に親の言いなりになるような気弱な人じゃないんです。でもやっぱりお店を閉めるわけにはいかないでしょう。だから、すごくすまながってるんですけどね。結局、娘に苦労させたくない母の言うことももっともだし、それで、この前、話し合って、なかったことにしようって」

 さくらちゃんは下を向いて、きれいにネイリングした両手の爪をこすり合わせていた。

 わたしは、うまく慰める言葉がなかなか見つからなかった。美人、とは言えないけど、こんなに可愛くて明るくて人柄がいい彼女が、私が聞いただけでも三度も出会いを逃している。

 「それは残念だったわねえ。せっかくいい線行ってたのにねえ」

 「でも、いいんです。二人ともよく事情を理解しあって別れたんで、傷つけあったわけじゃないんですから」

 さすがにその声は沈んでいた。

 しかし考えてみると、その相手も、かわいそうだなと思った。家業に縛られて、なかなか出会いの機会がない。そこにさくらちゃんみたいな素敵な女性があらわれたのに、周りの事情で断念しなくてはならなかったのだから。

 「さくらちゃん」

 「はい」

 「いい男はほかにもいっぱいいるわよ。まだまだこれからよ」

 結局、こんな月並みなことしか言えなかった。彼女は明るい調子に戻って答えた。

 「はい、そう思ってます。婚活サイトはもうやめて、別の方法で好きな人探そうって。半澤先輩みたいに」

 「半澤先輩みたいに」と言われて、穴があったら入りたいような気持ちになった。これで 「わたしも婚活サイトで出会ったのよ」とは口が裂けても言えなくなってしまった。「わたしなんか、参考にしない方がいいわよ。大したことないもの」と答えるのがやっとだった。

 さくらちゃんは何か聞き出そうとするふうを見せたが、わたしは「そろそろ戻りましょ」と言って逃げた。

 じつは、「大したことある」のだ。さくらちゃんは直感的にそれを察しているのだろう。

 

 4日、この前と同じホテルで、佑介さんと会った。

 12月に入ったというのに、異様に暑い日だった。どんより曇っていて夜になってからも暑さがおさまらなかった。適度にエアコンの効いた室内がありがたかった。

 佑介さんは、この前と同じように優しくしてくれた。わたしはだんだん激しく感じるようになってくる自分に気づいた。「火がついた」とはこういうのを言うのだろうか。毎日でもしたい、と思った。

 終わってから、素裸のまま、彼の肩に首をもたせかけて、指と指をからませていると、彼が言った。

 「こないだの電話の声、すごくセクシーだったよ。興奮しちゃった」

 「まあ。フフフ。あれは友だちの家のトイレに入ってたから内緒話みたいになっちゃったのよ」

 「ハハ……そのせいもあったかもね。友だちって、その人とよく会うの?」

 「うん。大学時代にバイトで知り合ってから、ずっと親友なの。韮崎絵理っていって、すごく頭がいい人なのよ。わたしたちどうしでは、エリ、レイって呼び合ってるの。今度紹介するね」

 「それはぜひ」

 「そうそう、婚活サイトへ登録するのも彼女が勧めてくれたのよ」

 「そうなんだ。じゃ、僕たちを結び付けてくれた女神様だね。そうすると彼女自身も、サイトで出会って成功したってこと?」

 わたしは、いまエリが陥っている複雑な境遇を、彼に話そうかどうしようか、一瞬迷った。しかし無二の親友の苦境を佑介さんに話さないなんて、そんなの……何というか、水臭い。

 「うん。一応そうなんだけど、それが、相手に奥さんがいたことがわかって、奥さんにもばれちゃって、いまたいへんなのよ。ちょうど電話くれた時、その話をしてたの」

 佑介さんは、妻帯者でありながらサイトに登録した相手の不実をなじるかと思った。ところが彼はしばらく黙ったままだった。それから、

 「そうか。それはたいへんだな」とため息を漏らすように言った。

 「相手がウソの登録をしていたことはどう思う?」

 これも佑介さんはすぐには答えなかった。半身を起してサイドテーブルの水に手を伸ばした。ごくりとのみこむとき、のどぼとけが動くのが見えた。わたしの問いかけを消化するのに手間取っているみたいだった。まだ黙っていた。

 それから慎重に言葉を出し始めた。

 「……男の勝手な言い分かもしれないけど……」

 「うん?」

 「夫婦でも愛情が冷めきってるってことはあるよね」

 「うん」

 「そしたら、よけい孤独を感じて、そういうことしたくなるってことは……いいとは言わないけど……ある、と思う」

 「うん」

 「……でもその人がそういう状態だったかどうかは、わからない」

 わたしがエリの悲しみに接触して、感じたこととほぼ同じだ。佑介さんはまた少し間をおいてから言った。

 「絵理さんは、その人を愛してるの?」

 「うん。愛してる、と思う」

 「それで、れいちゃんは、絵理さんになんて言ってあげたの」

 「応援するから闘うべきだって。諦めると決めた場合でもサポートするって」

 またしばらく間があった。

 「……いいことを言ってあげたね」

 わたしは天井を見上げた。灯りを落とした簡素なシャンデリアのランプたちが、こんな会話をしているわたしたちを静かに見守っていた。裁いているのかもしれなかった。

 きっとこの人にも複雑な過去があるんだろうな、と思ったが、それは聞かないことにした。そのほうがわたしたちにとって仕合せが持続するからだ。「あなたの過去など 知りたくないの」というあの歌が、一瞬だけれど頭の中で鳴り響いた。

 

 「エリと私との関係って、恥ずかしいんだけど、ちょっとレズみたいなのよね。でも誤解しないでね」

 「ハハ……誤解なんかしないよ。仲のいい女どうしって、そういうところあるよね」

 それから佑介さんはLGBTやセクハラやポリコレのことを話し始めた。わたしも関心を持っていたので、彼の考えを聞きたかった。だいたい、次のようなことを言った、と思う。

 なぜLGBTが「差別」問題とか「人権」問題としてことさら取り上げられるのか。現代人は、ほとんどの人が生きるよりどころをなくしているので、自分の存在を確認するために、「人道的、政治的な正しさ」という絶対的な基準を無理に打ち立てて、それによりかかって生の不安を解消する。そしてその基準に少しでも引っかかる言動に「差別主義」のレッテルを貼って糾弾する。そのことで、自分は「正しい人だ」という確信が得られる。でも裏を返せば、それは、自分がリア充の実感を持てないからではないか。つまりどこか関係の空虚を生きている証拠でもあるような気がする……。

 なるほど、と思った。

 もしわたしたちが、ふつうの男や女として、また仕事に意欲を持って打ち込む人間として、充実した日々を生きていれば、自分とは種族の違う人たちのことなど、大して気にならないはずだ。たとえそういう人が身近にいたからって、それがどうしたの、で済ませられるはずだ――佑介さんは、たぶんそういうことが言いたかったのだと思う。

 わたしたちは、充実した日々を生きているか?――もちろん生きている! だってこうして愛し合っているんだもの。

 でも24時間充実しているかと言えば、そんなことはない。味気ない仕事の時間でほとんどが満たされているのだから。それは忙しい佑介さんなんか、わたし以上にそうだろう。

 また、これからもずっと充実した日々を送れるかと言えば、これもそうとは限らない。どうしたらこの仕合せをできるだけ長く持たせられるかを、ふたりしてしっかり考えていかなくてはならない。

 

 待ち遠しかった11日が来た。1週間をこんなに長く感じたことはなかった。

 もう真剣に取り組む気のなくなっているITEMを、それでも勤めている以上はマスターしなくてはならない。7日が刻限だと言われていたので、もう少しの辛抱、と思って、通常業務の合間を縫って修練に励んだ。5,6,7の三日間残業し、何とか使えるまでに習得できた。

 5日にボーナスが出た。65万円。8日の土曜日に深草の老舗・猫印鞄製作所まで出かけて、幌布製の鞄を、プレゼント用に買った。大きさと色、どれにしようかだいぶ迷ったけれど、彼の好み、けっこうシブいから、モスグリーンの、やや小さめのにした。革製のタグに「YUSUKE」と名前を入れてもらった。

 9日は、部屋を念入りに片づけ、11日の献立を考えて買い物に出た。午後、注文してあった花材が届いたので、さっそく活けることにした。

 左に剣山を置いて、いちばん見事な鳴子ユリを思い切り右前にふり出した。根元部分、大きなバラを客枝としてぐっと前方に。葉は邪魔なので少しだけ残して切り落とす。その左側に鳴子ユリを小さめに切り、バランスをとる。これで基本はできたけれど、真ん中の空いた部分を埋めるために、中くらいの鳴子ユリを主枝とは反対に後ろに傾けて挿す。

 ピンクのバラは二つ欲しい。佑介さんとわたし、と思い入れをしながら、小さいほうのバラを、少し高さを下げて客枝の斜め後ろに。二つのバラと中間枝の鳴子ユリの周りをカスミソウで飾る。

 うーん。こんなものか。われながらうまくできたかな。主枝の鳴子ユリの、右にたわんで力強く描く曲線が美しい。もしかして、わたしたちのこれから進んでいく道、なあんて、勝手な思い入れがさらに広がってしまった。

 写真は撮ったけれど、写メは送らなかった。

 夜、携帯が鳴った。佑介さんだ。

 「はい」

 「れいちゃん、元気?」

 懐かしい声!

 「元気じゃありません。ゆうちゃんに会えなかったから」

 「ハハ……連絡もしなくてごめん。いろいろあったもんで」

 「え、だいじょうぶ?」

 「だいじょぶ、だいじょぶ。単に忙しかっただけ。そちらは?」

 「私も週末にかけて忙しかった。例の新システムをマスターするんで、3日連続残業だったの」

 「そう、それはたいへんだったね。疲れてない?」

 「あ、昨日今日と休んだから、全然平気よ」

 「あさってだけどね。5時前にはそちらに行けそうだよ」

 「え? お仕事、いいの?」

 「うん。一段落ついてるし、適当言って、早退する」

 「まあ、うれしい。早く会えるわね。そしたら……4時50分に矢原町の改札でいい? 

 深草寄りとホームの真ん中あたりと二つあるけど、真ん中のほう。そこで待ってる」

 「うん。わかった。お酒は僕が買ってくから」

 「そうそう、シャンパンとビールはあるんだけど、お酒、何買っていいかわからないから、どうしようかなって思ってたの」

 「任せろ」

 マッチョな口調を気取って彼が言った。あんまり似合わない。

 「さっきね、お花活けてたの。でも写メ送らないね。じかに見てほしいから。思いを込めたんだぞー」

 「わあ、そりゃ楽しみだな。ふたりで見れるんだね」

 「そう。見てくれる人がいるのといないのとじゃ、全然気合いが違うわね」

 「そうだろうね。半澤玲子個展だね」

 「でも一点だけだわ。クシュン」

 「一点豪華主義。ところで、全然関係ないんだけど、ボーナス出た?」

 「出た。5日に。ウチ、早いのよ」

 「よかったね。僕んところは明日なんだけどね。今日、電車乗ってたら、動画広告でニュースやるでしょ。あれで、え?って思わせるようなこと言ってるんだよ」

 「なに?」

 「今年のボーナスが平均90万円超で記録更新だって。そんな、と思ってもいちど回ってきたの見ると、それって経日連が発表した、たった72社の平均なんだ。要するに、超一流企業だね。そういうの見逃しちゃうんだよね。なんかすごく景気が回復してるみたいな印象与えるんだ」

 「ああ、ほんとね。それって国経ニュースじゃないの。わたしなんかもああいうのにはウッソーて感じることがよくあるわ」

 「だよね。それで、そんなはずねえだろって思って、家帰ってきてネットで調べてみたんだ。」

 「うんうん。さすがゆうちゃん」

 「そしたら、別の調査結果が出てきてね。ある調査会社が20代から40代の会社員241名にアンケートした結果みたら、全然違うんだよ。ここにメモってあるんだけどね」

 それから彼は、ゆっくりゆっく数字を並べていった。わたしも聞きながら、思わず傍らのメモ用紙に、それらの数字を走り書きした。数字の周りをボールペンでぐるぐる囲みながら。

 「えーと、56%が『支給なし』で、出ない会社のほうが多い。それで『支給あり』の平均が42万円。しかも企業規模が下がるにしたがって、支給額が下がっていくんだ。1000人以上だと、44万円、300人未満だと30万円、ていうふうにね」

 「まあ。マスコミが流してる情報と全然違うのね。もし零細企業まで調べたら、もっと悪くなるでしょうね」

 「そう。それに非正規社員にはもともとボーナスなんて出ないしね」

 「なんでそういうデタラメ情報流すのかしらね。ムカつくわね」

 「結局、政府が『いざなぎ越え』とか何とか言って、景気が回復してるって思わせようとしてるのに、御用マスコミがひたすら追随してるんだよね。れいちゃんと初めて会った時に消費増税のインチキについて話したと思うけど、あれとおんなじだよ」

 「ああ、そうだった。ゆうちゃんとこんなふうになれたんで、仕合せのあまり、つい忘れてました」

 「ハハ……それはそれでいいことだ。暗くて固い話になっちゃって、ごめん」

 「ううん、そんなことない。大事なことよ。だって大部分の人は中小零細企業でこき使われてるわけでしょう。経営者だってだいたいがすごく苦労してるわよね。そういうことをちゃんと報道しないマスコミって何なのかしらね」

 「はっきり言って腐ってるね」

 「わたしんところは一応大企業だけど、仕事で、下請けさんとか中小企業さんと関わることが多いのね。そういう人たちのお金のやりくりなんか見てるから、苦労がとてもよくわかる。政府やマスコミって、そういうことに想像力はたらかせないのね……中小企業って、どれくらいあるんだっけ」

 「たしか企業数で99%以上、従業員数で6割以上だったね」

 「日本人の大きな部分がそれに支えられてるわけよね。そういうのを大切にしない政府ってダメね。なんでこうなっちゃうのかしら」

 「その通りだね。簡単に言うと、グローバリズムがそうさせてるんだと思う。そのへんも今度時間あるとき話そう。僕も勉強しとくよ。」

 「わたしも勉強するわ。……でもとりあえず、あさってと、しあさっては楽しみましょうね」

 「そうだね。とても楽しみにしてる。今すぐにでも飛んでいきたいで~す」

 「だめよ。玲子亭は『準備中』で~す」

 「わかりました。じゃ、あさって、お世話になります。4時50分、矢原町ホーム真ん中の改札で」

 「待ってるね。もっと話してたいけど、じゃね。ゆうちゃん、大好き。チュッ」

 「れいちゃん、大好き。チュッ」

 

堤 佑介ⅩⅢの2

                                 

 

 そのまま眠るにはまだ早かった。最上階のカフェバーで夜景を楽しみながら一杯やった。その時、彼女が聞いた。

 「そうそう、聞くの忘れてたんだけど、お誕生日、いつなの?」

 「12月11日」

 「あら、もうすぐね」

 「れいちゃんは?」

 「2月14日。バレンタインデーなの。チョコ贈るね」

 「そしたら、僕がチョコもらう代わりに、れいちゃんにプレゼントを贈ろう」

 「ありがと。ああ、でもあと2か月で48になっちゃうんだわ」

 「お互い、そういうの、気にしないようにしようよ。気にするなって言っても気になるけどね」

 「ほんとね。気にしないための呪文を考えときましょう。それはそうと、11日って何曜日だっけ。えっと、あ、火曜日よ。翌日お休みでしょう。ねえ、よかったら、わたしの家でお誕生祝いしない?」

 「うん。素晴らしいけど、れいちゃんはお勤めで忙しいでしょ」

 「大丈夫。火、水と有給取るわ。全然こなしてないのよ」

 「ほんとに? じゃ、お言葉に甘えて。仕事早めに終わらせて、すぐ駆けつけるから」

 「手料理、張り切るわ」

 「ありがとう。矢原町だったよね」

 「そう。時間がわかったら駅まで迎えに出ます」

 女性は、こうと決めると、どんどんことを進めていく。ありがたいことだと思った。しかしけやきが丘から矢原町だと、ふつうに退社したら、けっこう遅くなってしまう。11日は本部に呼ばれたとスタッフにウソをついて、早めにオフィスを出ることにしよう。そう、何があっても。

 

 翌日、つまり昨日12月1日、ホテルからそのままオフィスに出向いた。

 例の土地付き古家を売りたいと言っていた井上さんから連絡があった。やっぱり古家は解体して更地で売りに出したいというのだ。それもできるだけ早くとせかす。

 気まぐれな人だと思った。すでに2800万で広告を打ってしまっている。それからまだ5日しか経っていない。八木沢に聞くと、引きは三、四人はあったらしいが、いずれも反応は芳しくない。1か月くらい待ってもいいと思うのだが、まあ、お客さんというのはそんなものだ。

 解体工事屋さんに解体費用を査定してもらわなくてはならないから、その交渉をするために、3日後に現地に三者が集まることにした。これは八木沢に頼もう。

 

 午後、本部の島崎から電話があった。「下町コンセプト」のために、前園君と、もう一人、若手の派遣社員を明日送ってくれると言う。その派遣社員が、そのままこちらに居つくことになる。とりあえず助かった。

 「大畑区の都市計画課へのアプローチの具合はどうなってる?」

 「それは先日、部下に行ってもらったんだけどね。けんもほろろというわけじゃないけど、どうも苦戦しそうだな。とにかくいろんな提案を持ち込んでくる連中が多いし、こっちは何しろ区外で中小だろ。堤の心配が当たってたよ。今度おれ自身が行って、直接話してくる。場合によっちゃあ、堤につきあってもらうかもしれない」

 正直なところ、望み薄な仕事につきあうのは気乗りがしなかった。でも嫌とは言えない。

 「要するに、個別の開発云々に許可が下りるかどうかといった問題じゃなくて、このコンセプトに将来性があることを説得して、周辺地域に広げられる可能性を探るってことだよね」

 「そう。役所との協力体制が作れるかどうかだ」

 「お役所は固いからな。大畑区の都市計画の現状は調査済みなの」

 「それは概略調べてある。でもどれも具体化の目途はあんまり立ってないみたいだ。何しろ持ち出す理由が必ず財政難だからな」

 「それだったら、かえって食い込む余地はあるな。PFI方式にこぎつけられるかもしれない」

 「原則的にはその通りなんだけど、やっぱりメジャーでないと信用が得にくいよ」

 「だったら民間のメジャーにも渡りをつける必要があるんじゃないか。あの地区は、やっぱり東海不動産?」

 「うん。そうだな。東海の下請けで張り付くって手もある。いや、ありがとう。堤、今すぐじゃないけど、何とか力を貸してくれよ」

 「わかった、わかった。できることはする」

 今日の島崎は、友好的だった。やっぱり壁にぶつかって困っているんだろう。ただ、二つばかり心に引っかかった。

 最初に役所に渡りをつけるのに、部下を派遣した、というのはまずい。若手かベテランか知らないが、名前も知らない不動産業者の、しかも地位の低い者が尋ねたって、まともに相手にしてくれないだろう。ここは、島崎自身か、本当なら、さらに上の部長クラスが行くべきだったのだ。

 しかも一度訪ねてきた者の陳情を、向こうは覚えているかもしれない。そうすると、この前却下したのにまた来たのか、しつこいな、と嫌な顔をされる可能性がある。

 もう一つは、やはり、島崎が援助を求めてきたことに対する、私自身の負担感だ。彼の気持ちはわかるが、私もまた、少し疲れている。正直なところ、行政と渡り合って連携を勝ち取るなどの、成功の望みが少ない試みに情熱を燃やす気になれない。

 本部の領分は、本部でこなしてもらうのが筋というものではないだろうか。その線は別動隊ですでに進行中だと説明していたのではなかったか。

 とはいえ、私も頼まれると断れない性分である。役所との交渉はちょっと願い下げだが、自分で言いだした東海不動産と渡りをつけることなら、やってもいいかなと思った。

 いずれにしてもこのプロジェクトは、踏み出してしまったものの、前途多難だ。いささか気が重くなった。

 

 そして今日、鹿野さんの引っ越しが早速行われた。本田に始めと終わりに確認に行ってもらった。報告によれば、鹿野さんは結局のところ、すごく喜んでいるとのことだった。

 さいわい、「お店」を経営しているという笹森カップルは、昨日から家を空けているらしく、シャッターがしまっていた。業者が外階段伝いに荷物を運ぶのを、陳さんの子どもが面白そうに見ていたという。

 西山さんに報告すると、後日、空室の確認に行くとのことだった。あとは、賃貸契約書の書き換えが残っているばかりだ。やれやれ、である。

 

 帰宅すると、とたんにれいちゃんのことが恋しくなった。これまでそれほどには感じなかった独り暮らしの寂しさが、ひときわ身に染みてくる。でもこれは仕方ないことだと自分に言い聞かせ、冷凍ご飯をチンして、買ってきた刺身とポテトサラダで侘しい夕食をとった。

 この前から、出羽菊の無濾過生絞りというやつの一升瓶を冷蔵庫に入れている。それをぐい飲みになみなみと注いだ。お米の香りが何とも言えない。せめてもの慰みにと、ちびりちびりとやりながら、パールマンとアシュケナージの「春」を聴いた。だが聴くほどに、恋しさが募ってきた。

 これは呼吸がぴったり合った女と男の愛の対話。トルストイは「クロイツェル」をもとに、たぶん同じ形式を読み取って、あの小説を書いたけれど、「春」のほうがその趣が強いと感じる。

 たまらなくなって、れいちゃんに電話した。友だちの家にいると言う。トイレの中だから大丈夫だそうだ。急いで会う約束を取り付けた。あさって、また会える!

 声をひそめて「ゆうちゃん、大好き」とささやいたのが、とてもセクシーに聞こえた。

 

 少し落ち着いてきてから、二人は今後どうなっていくのだろう、という想念がふいにやってきた。

 どうなっていくのだろう、というより、どうすればこのすてきな関係を長く続けられるのか、と考える方が大事だ、と、すぐ思い直した。

 私は、若い人たちと違って、それなりに分別をわきまえているはずの年齢だ。だから、こんな昂揚した甘い気分が永続するはずがないことを知っている。れいちゃんもそれは同じに違いない。彼女もバツイチ、私もバツイチ。

 しかも私の場合、不倫した上に、その関係でも失敗している。あの失敗は、やはり一つ屋根の下で暮らすということがもたらした、どうしようもない日常生活での齟齬が露出したせいだろう。

 依子との結婚生活では、子育てを仲立ちとした強力な絆があった。落語の「子別れ」のように、まさに「子は鎹(かすがい)」だった。もちろん養育方針や今後の生活方針を巡ってしょっちゅう喧嘩した。しかしその喧嘩が、お互いの気持ちを破綻に導くようなことはけっしてなかった。

 依子は賢くて冷静な女だった。私は彼女に生活の知恵を何度も教えられた気がする。だが、そのことがかえって二人の関係の質を乾いたものにしていったのだろう。私は無意識に飽き足りないものを募らせるようになっていた。

 やがて不倫相手の芙由美に出会った。インテリアデザインの講習会でだった。若くて魅力的だった。私の中の「男」が、眠りから目覚めるように、にわかに甦った。急速に溺れていった。

 依子と別れてからは、そういうことをした以上、芙由美と一緒に暮らすことが責任を果たすことであるかのように思った。もちろん、あれだけ燃えたのだから、ただ、責任を果たすために同棲したわけではない。そのまま直行で一緒に暮らすことがきわめて自然な成り行きだ、と感じていた。

 だが現実はそう甘くはなかった。どちらともなく傷つけあうようになった。この経験で、私は恋愛と毎日の生活を共にすることとは、まったく違うという事実を手ひどく味わった。これは世間でさんざん言われてきたことだ。しかし愚かなことに、自分で味わってみるまでは、それがわからなかった。

 そしていま、私は恋愛のさなかにいる。過去の痛い経験から何かを学び取らなくてはいけない。

 私はいま、彼女とずっと一緒にいたいと強く思っている。一緒にいたいという私の気持ちの延長上には、結婚という文字が浮かんだり消えたりしている。彼女と結婚したいか、と自問する。私は「したい」と自答する。でも結婚は二人の愛情を色あせさせる早道だということも経験的に知っている。

 おまけに、二人の間に子どもを作ることはもうできない。「鎹」は生まれない。では、どういうかかわりの仕方を続けることが、いちばん愛情を色あせさせない賢い方法なのだろうか。

 同居しないで、時々会ってセックスしたり、食事したり、映画を見たり、語り合ったりする?  それではきっとすぐ飽きてしまうだろうし、一緒にいたいという欲望を満たせない。どちらかの目移り(これは男である自分のほうに起きやすいな)を防ぐ力にもならない。相手が不在の時に不安が増大して、あらぬ嫉妬心を抱いたりもするだろう。

 

 前にも考えたことだけれど、いま日本では、どんどん晩婚化が進んでいる。それは経済が主な理由だが、主観的には、自由を束縛されたくないという理由も大きいのだろう。

 また、男女双方の理想が高くなってしまって、なかなか出会いが成立しない。恋愛の自由市場が成立してからというもの、貧富の差の拡大と同じように、モテるやつはますますモテ、モテないやつはますますモテない。

 こんなに独身者が多くなったのでは、もう昔のような、恋愛したら結婚して家族を作るもの、という規範は一般性を失っている。では逆に、男女とも自立した生活を送って、個々ばらばらに生きていけばよいのかと言えば、それもまた心を満たさないだろう。

 れいちゃんと私という「この二人」については、たぶん、その中間を選ぶようにすればいいのだと思う。考えてみると、それは不可能ではない。彼女は活け花を本格的に習って、武蔵野で、お母さんの跡を継ぐ。私は当分、いまの仕事を続けて、この自宅と武蔵野をしょっちゅう行き来する。れいちゃんも私の自宅と実家を往復する。

 これは一種の「通い婚」だな、と思いついて、私は苦笑した。ひょっとして、こんな大昔の結婚のかたちが、これから夫婦の理想形の一つになってくるのかもしれない。女性のほうも通ってくるというところが昔と違うけれど。

 でも、と私は思い当たった。こんなことができるのは、ずいぶん恵まれていることなのだ。家が二軒あって、当分お金に困っていないし、子どもの教育の問題もない。私について言えば、自分の老親を介護することからも免れている。れいちゃんのお母さんにはまだ会ったことがないけれど、私が養子みたいになって、ゆくゆく面倒を見てあげることだってできる。

 そう思いつくと、なんだか楽しいような申し訳ないような、複雑な気分になってきた。いずれにしても、二人の将来をどうするか。これはぜひ近いうちに彼女と相談することにしよう。