半澤玲子Ⅰの2

 

「よく似合ってたよ」

「ありがとう。エリの見立てのおかげだわ。それにしても、この店もなかなかおしゃれね。混んでるし。景気、よくなってるのかしら」

「よくなってるわけないよ。政府はそんなこと言ってるけど、東京圏だけ。反対に地方はますます落ち込んでる。物流見てると数字でわかるのよ。四国とか、山陰とか、ひどいものよ」

開店して間もないイタ飯屋。冷房がよく効いているだけでありがたい。白ワインのボトルをとり、乾杯して、二人の中年独身女の食事会は始まった。コース料理にした。

エリは私と会う時は、どちらかというとマニッシュな恰好をしてくるんだけど、今日はいつもより何となく華やいだ雰囲気だ。いいブラウスを着てるし、心なしか、表情も明るい。わたしは前菜をつつきながら、仕事モードの話題より、プライベートのほうを少し突っ込んでみたくなった。

「ねえねえ、そのブラウス、もしかしてハナヨモリ?」

「ピンポーン。よくわかったね」

「わたしも好きだから。でも高いからいつもウインドショッピングよ」

「へへん。わたしも初めてなんだけど、ちょっと無理して買っちゃった」

ネックレスもおしゃれなのをつけてる。ますます突っ込んでみたくなった。

「さては何かあったな。夏の日の恋とか」

「そこまでは……」

「聞かせないと、ピッツア、エリの分まで食っちゃうぞ」

「アハハ、レイには黙ってられないね。でもあんまり自慢できることじゃないよ。要するにだな、ほら、出会いの機会がないじゃん。もう断崖絶壁かもって思ってね。だからついにやっちまった。恋活」

「コイカツって、ネットかなんかで?」

「うん」

「へえ! いつ?」

「6月中頃だったかな。最初は半分遊びのつもりだったんだ。でもこの年になってもけっこう引きがあるんだよね。だんだんハマってきてさ。そしたら、一か月もしないうちにマッチングがいくつも成立してね。こっちの出方次第で選べるんだよ。そこが魅力と言えば魅力。職場と家の往復じゃそんなことってないでしょ。周りはパワハラオヤジや坊やみたいな男の子ばっかしだし」

「それでいい人が見つかったの?」

「うーん、まだわかんないけどね。とにかく初デートまではこぎつけた」

エリのグラスにワインを継ぎ足してあげたが、その自分の手がほんのかすかにふるえているような気がした。

ウェイターがメインディッシュを運んできた。スズキの包み焼き。でもなんだか食欲が萎えるような、食い気を追うよりも色気話を聞く方が大切なような気分になってきた。

「ねえ、あれって自分の写真とか載せるんでしょう」

「そう。でも載せない人もいるよ。遠景とかぼかしとかペットとかね」

「エリはどうしたの」

「やっぱさ、顔写真載せないのって、なんか本気度が低いような感じするんだよね。それとほら、男ってそこが一番知りたいわけじゃん」

「男のほうは顔写真載せるの」

「男もいろいろよ。サーフィンやってる遠景とか、自慢のバイクとか。でもこっちも男とおんなじで、顔が見たいね。イケメンかそうでないかってことより、ほら、顔ってやっぱ、人となりがわかるでしょ。表情とかに出るじゃん。鮮明な顔を載せてない人って信用できない」

「第一印象が肝心ってやつね。でもエリはきりっとしてるからいいわよね。写真映りもいいし」

「そりゃほめてんのかけなしてんのか。でも、いざ選ぶとなると決定版がなくてすごく迷った。だってなんせこの年だもんね」

そういいながら、エリは旺盛な食欲を見せた。

「何枚も載せられるの」

「サイトにもよるけど、わたしの場合は最高四枚」

「なんかメッセージとかいろいろ書くんでしょう」

「そう。なるべくほんとのこと書こうと思うんだけど、どうしてもある程度は自分を飾っちゃうわね。なに、その点では敵もおんなじだからね」

わたしにはとてもできない。でもエリの気持ちもすごくわかる。わたしの方がもっと切実だ。でもわたしにはやっぱりできないなー。

「なに、そのため息」

「え? あ、……よくやったわねって感心して……で、その彼氏、どんな人なの」

メジャーな広告代理店の広林堂勤務で年はエリより一つ年下、つまり四十四歳、もちろん独身、かなり高収入で、ルックスはかなりいい線。ちょっと早口なのが気になるけど、話題は豊富で知的な雰囲気なんだそうだ。

うまくやりやがったな。また思わずため息が出た。応援したい気持ちと嫉妬っぽい気持ちと四分六分くらいか。

「健闘を祈る。改めて乾杯。広林堂っていったらナンバー2でしょ、すごいよね。でもどうしてそんなモテそうな人が、わざわざ恋活サイトなんかに登録したのかしら」

「一線で活躍してる人じゃないのよ。ソリューション・サポートっていうの? 主に外からのトラブルを解決する尻拭い役みたいなもので、自分は裏方が似合ってるって言ってた」

「ああ、なるほど。そういう人の方がお堅くていいかもね」

「でもまだわからないのよ。初デートってお互いかっこいいところだけ見せるでしょ。ちょっと遊び人風みたいなところもあるし」

「ねえねえ、初デートでどこまでいったの」

「え? ごくふつうよ。お食事して、お互いお上品にお仕事のこととかご趣味のこととかお話しいたしました。まあ、アチラの職業柄、話はけっこうおもしろかったね」

「次、会う約束は?」

「一応いたしました」

だんだん調子が下がってくる。わたしは焚きつける。

「めったにないチャンスだよね。がんばって」

「……がんばってどうなるもんでもないよ。こればっかりは」

エリには珍しく自信がなさそうにうつむいた。アイラインが影を作って少しやつれているようにも見えた。エリだって不安になるんだ。これ以上突っ込むわけにはいかない。

「そりゃそうだけどさ。エリは何事にも前向きだから。……わたしなんかダメだな、そういうのは。もう断崖から転落してるし」

今度はこっちがしょげる番だった。

「そんなことないよ。レイは可愛いし、年より若く見えるし、それに最近はアラフィフの登録もすっごく増えてるらしいよ。」

アラフィフという言葉にぎくりとした。たしかにもうそう呼ばれるところまで来たんだと思いつつ、動揺を隠すように添え物のアサリをつつく。でもうまくフォークに引っかからない。態勢を立て直し、

「第二の人生ってやつね」

「そうそう。それにさ、バツイチのほうが有利だって分析も成り立つのよ」

エリが今度は昇り調子。

「なんで?」

「だって、その年まで結婚経験がないってことは、よほどモテない女じゃないかとか、なんかあるんじゃないかとかって勘ぐられやすいじゃありませんの、元奥様」

「ふうん、そんなものかな。でも逆もあるんじゃないの。この人は何で離婚したんだろうって怪しんだり、やっぱり未婚の方が新鮮でいいよな、とか」

「そりゃまあそういうのもあるけど、最近はそういうの、守旧派みたいよ」

「そうなんだ……」

「それにレイの場合、あなたのほうに落ち度は全然ないじゃない。向こうが聞いてきたらきちんと説明すればいいのよ」

「そりゃそうだけど。……でもああいうのって、わたしにはやっぱ向かないと思う」

「そう決め込まずに、よくお考えあそばせ、元奥様。」

よく考える。それはそうだ。このまま仕事人生だけを生きて、一人で年を取っていくのなんて想像しただけでもいやだ。実家の母親の介護だってそう遠くない未来に待ってるわけだし。

考えたくないことを考えないように、考えないようにしている。でも時は待ってくれない。わたしって、いい年をして、まだどこか「白馬に乗った王子さま」を夢見ているところがあるんだろうか。

ドルチェが来た。

エリはズッパイングレーゼをスプーンで掬って楽しそうに口に運んだ。でもわたしのトルタサケーは、チョコレートがちょっと苦すぎるような気がした。人生のほろ苦さのように。

 

半澤玲子Ⅰの1

 

                                     2018年8月25日(土)

 

きのうは暑さがまたぶり返して30度を超えた。オフィスにいる時はいいけれど、お昼に外に出るだけで汗びっしょりになる。

でもわたしなんか事務系はまだ仕合せだ。勤務時間中のほとんどを室内で過ごせるんだもの。営業の外回りの人たちはさぞ大変だろう。個別店舗までくまなく回ってくるんだから。

この夏は帰ってくるたびお化粧直しにトイレに行く同僚の女性を何度も見た。ケイ子さん、さとみさん、プッチー……。男の人はもっと大変ね。スーツ着てネクタイ締めて。

もっとも中田課長が言ってたけど、最近は、クールビズが進化して、相当涼しい繊維の服ができてるんだとか。でもネクタイはやっぱりきついでしょう。まさかアロハシャツで営業するわけにはいかないし。

それにしても、ほんとに今年はどうかしている。7月末のあの猛暑ったらなかった。それに6月には大阪の地震、7月の西日本豪雨災害。

今日はまた昨日にもまして暑い。熊沢37度とか天気予報が言ってた。

せっかくの休日なのに、この暑さでは外出する気がしない。灼熱の太陽に照らされて、ぶっ倒れてしまいそうだ。それとやっぱり一週間の疲れがたまっているのかな。何となく体がだるい。

昨日は仕事のほうもかなりきつかった。

なんだかまだまだ災害が続くような嫌な予感がする。いよいよ関東にも大災害が来るのかしら。

 

 お昼を食べ終わってから、いつの間にかソファで寝てしまったらしい。時計を見たら2時半になっていた。

 睡眠を取ったら気分が軽くなった。一日家にこもっているのもなんだから、やっぱり出かけることにしよう。久しぶりにエリを誘ってショッピングと夕食でも一緒にするか。

「もしもし、あ、レイだけど」

「ひっさしぶり! 5月以来だよね。このクソ暑い夏、生きてた?」

「うん、何とか。でもここ二、三日は忙しかった。ここんとこ請求書の量が増えててね。おまけにきのうは給料日だったし。……そっちは?」

「こっちも忙しい。いまさ、配送以外の新企画に取り組んでるんだけど、それがとにかくごちゃごちゃしててね。家電の回収とか女性向け家事支援とか農業への参入とか東南アジア系にも手出すらしくて。あんまりいっぺんにやらない方がいいと思うんだけどね」

エリは物流系大手・全通運の事業開発部にいる。私などと違って有能で実行力があって、キャリア系と言っていいんだろうか。

彼女とは大学時代のバイトで知り合ってからずっと親しい仲だ。飾らないたちで、シャキシャキしてて何でも話せる。判断力も的確だから、二つ年下なのにこれまで何度も困ったときの相談役になってもらった。

女同士のこんなに長い付き合いってそんなにないかもしれない。それも両方とも独身だからか。もっともわたしはバツイチ、彼女は未婚。

「骨休めにメシどう?」

「いいね」

「その前に買い物つきあってくれる?」

「いいよ。洋服?」

「うん」

「北千住ならけっこうお店あるよね」

「そだね。リモネでいいよ」

「あ、それにさ、この前、駅近でおいしいイタ飯屋見つけたんだ。そこにしない?」

「いいよ。じゃあっと、4時に北改札でいい? あそこ、そのままリモネの3階に入れるでしょ」

「OK。じゃ、お店のほうは予約入れとくから」

「サンキュー」

 最近、鏡を見るのが何となくつらい。小じわも増えたし、ホーレー線もけっこう目立ち始めた。

周りは若く見えると言ってくれるけれど、それは実年齢にしてはって話でしょ。あと三年で大台だもんね。五十から七十までの二十年間はあっという間だなんてことも聞くし。

そこへ行くと、エリはけっこうはつらつとしてるな。2年の違いか、それとも結婚経験の有無が関係してるかしら。いやいや、やっぱり性格だろうな。

それにしても、あの結婚は早く解消しておいてよかった。子どもができてからだったらそう簡単にはいかないだろうから、悲惨なことになっていたかも。

あんな酒乱男の嫉妬魔とずっとなんて、いま思うだけでもぞっとする。わたしにしては珍しく決断力を示したほうだ。ほんとに結婚って、生活してみなければわからないものだ。

でも、離婚したこと自体はよかったんだけれど、その後がいけない。3年後に1度だけ恋愛っぽい付き合いはしたものの、じきに別れてしまった。数えてみれば、彼氏いない歴15年。ギネスブックものよ。そうして年取っちゃった。

なんか昔を思い出すと、くさくさしてくる。いけない、いけない。明るく見えるように口紅をちょっと濃いめに。つけまつ毛も長めのを。

夏の終わりの31日(まだ夏は暑くて当分終わらないようですが)、久しぶりに活け花教室に行ってきました。

今回からテーマが変わって、「ならぶかたち」の1回目となりました。

花器も、細長い長方形のものを用いて、正面型で直立したものを三連活けます。

花材は、ベニアオイ、向日葵、レザーファン。

先生にていねいに指導していただいたので、何とか見られるものになったかなあ、と思います。

ことに、自分がやった時には、三本の向日葵が芸のない形で真正面を向いていたのに、先生が少しいじっただけで、語り合っているような表情が出てきました。

結果を見てつくづく感じたことですが、日本的な美というのは、均整や対称性や幾何学的な性格のものとはまったく違って、「すべてをわずかにずらす」ことによって、そこに自然と人間の親しみのある関係を作り出すところに生まれるのだなあ、ということです。

活け花だけで日本の美の性格を代表させるわけにはいきませんが、これは、他のジャンルにもだいたい当てはまるように思います。

庭園などは、ことに当てはまりそうですね。

難しいことを言ってしまいましたが、これからも頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

なお、7月に書き終えて、このブログに掲載した長編小説『ざわめきとささやき』は、活け花が重要な役割を果たしています。お読みいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

あなたはどんな時に孤独を感じますか

ひとり部屋にこもっている時?

 

それは違います

 

だって

あなたはその時

何かしているでしょう

勉強?

読書?

思索?

追憶?

ネットサーフィン?

オナニー?

 

あなたはその時

何ものかに憑かれている

それは孤独とは言わない

 

あなたはどんな時に孤独を感じますか

群衆の中をひとりぼんやりと歩いている時?

 

それは違います

 

あなたはその時

群衆の空気を吸っては吐き、

吸っては吐きしているでしょう

雑踏があなたを惹きつけて離さない

赤信号で止まる

あなたのまわりに一緒に止まる人々がいる

青信号で歩き出す

まわりの人々も一緒に歩き出す

群衆があなたであり

あなたが群衆です

 

あなたはどんな時に孤独を感じますか

退屈をもてあましてダンゴムシと戯れている時?

 

でもそれは違います

 

あなたの時は至福で満たされています

ガラス戸に息を吹きかけ

「の」の字を何度も書いては消し書いては消す

このときも

あなたは至福で満たされている

 

沖まで泳いで仰向けになり

太陽と空に挨拶する

広い世界にたった一人

でもあなたは孤独ではない

あなたは自然の懐に抱かれているからです

ぬるい海水があなたを包み

太陽があなたを見つめ

遠くの雲がゆっくり動きながら

あなたに語りかけているでしょう

あなたは口の中の塩辛い水をぷっと吐き

それらとお話ししています

 

 

あなたに友だちができました

あなたは彼と趣味がよく合います。

あなたはひとりではないことの喜びを味わう

あなたと彼はバッハのカンタータについて

モネの睡蓮について

徹夜で議論した

一致するところがたくさんあった

でも

折り合えないところが少しだけあった

 

あなたは孤独を知ったのです

 

あなたに恋人ができました

カフェのテーブルに両肘をつき

まなざしとまなざしが交差します

窓の向こうで老人が自転車をこいでいる

同じ光景を見て

微笑みと微笑みが同時に訪れます

映画、食事、ホテル

あなたたちは睦言を交わし合う

でも

ほんのときおり彼女の言葉やしぐさに

波長のずれを意識する

あなたはその意識を急いで打ち消す

 

あなたの孤独は深まりました

 

そしてあなたは彼女と結婚しました

毎日の暮らしの楽しさ

と重さ

やがて

小さなところでの作法の違いが軋みを立てる

たとえば

帰宅した時の靴の脱ぎ方

食事の時の食べ方

洗った食器の置き方

テレビやオーディオの音量

明日の日曜日の過ごし方

 

でも

あなたも彼女も寛容なので

妥協しながら暮らしを続けます

 

あなたに孤独が住み着きました

 

こうしてほんとうの孤独は

人との深いかかわりを栖として

その隙間で生き続けるのです

ネズミのようにひっそりと

 

 

ぼくは内側から老いてゆく

 

それは自明のこと

 

ぼくはきょう三つ失敗した

 

四つだったかもしれない

 

それさえ忘れている

 

 

 

ぼくは外側から老いてゆく

 

それは必ずしも自明ではない

 

でも人がそう見るので

 

受け入れるしかない

 

ぼくはそれを逆手にとって

 

楽しそうに嬉しそうに

 

ときには哀しそうに?

 

「こんなじじいですが」

 

とか

 

「なかなかうまく枯れることができなくて」

 

などと言ってみせる

 

 

 

浅間の山が噴火したとさ

 

でもきょう

 

浅間の稜線は青空を背中にしょって

 

とてもくっきりしていた

 

噴煙は出ていなかった

 

噴煙が出ていようといまいと

 

浅間の山が浅間の山であることに

 

変わりはないさ

 

 

 

僕はほんとうは子ども

 

だって

 

あのころと変わったように思えないから

 

あのころ

 

可愛い女の子のしゃれたパンツが素敵だった

 

いまも素敵

 

あのころ

 

蚊の羽音が耳を悩ますことに真剣に苛立った

 

いまも真剣に苛立つ

 

あのころ

 

かぼそい足で優等生を演じていた

 

いまもふらついた足で優等生を演じている

 

 

 

ぼくは変わっていない

 

浅間の山が変わっていないように

 

でも

 

「いつまでもお元気で」という言葉よ

 

死ね

 

 

 

 

朝起きたほんのしばらくのあいだ死にたくなっています

 

でもうんざりしないで聞いてください

 

これは腸のあたりの調整がまだ整っていないせいです

 

 

かつて憎しみを抱いたひと

 

かつて憎しみを抱かれたひと

 

かつて裏切ったひと

 

かつて裏切られたひと

 

かつて気持ちが通じなかったひと

 

いま気持ちが通じないひと

 

これまで果たせなかった仕事

 

これから果たせそうもない仕事

 

これらがこころの鍋の中で

 

目覚める直前にちいさなぐつぐつを演じるようなのです

 

 

でも心配しないでください

 

わたしは伸びをしてからゆっくりと着替えます

 

顔を洗って朝食の用意をします

 

パン、ミルク、トマト、目玉焼き

 

手が動きます からだが動きます

 

食卓につくと昨日開かなかった「住民税納付のお知らせ」

 

手が動きます 頭も動きます。

 

 

夢には出てこなかった今日の仕事

 

昨日寝る前に憶えていた今日の仕事

 

スマホに届いているメール

 

こちらから出したメールの返信

 

みんな心当たりのあることばかり

 

わたしの頭はそれらで満たされます

 

 

わたしはミルクを飲みパンと目玉焼きを食べます

 

こうして一日が始まるころ

 

死にたい気持ちは消えています

 

わたしは元気に仕事に出かけます

 

 

でも安心しないでください

 

わたしは新しい憎しみに出会うかもしれない

 

今日も気持ちが通じないと感じるかもしれない

 

繰り返される昼と夜

 

夜の間にそれらが解消されなかったら

 

朝目覚めたときまた死にたくなるでしょう

 

 

でも心配しないでください

 

目覚めると手が動きからだが動き頭が動きます

 

すると死にたい気持ちは消えるのです

 

これを繰り返しているうち

 

やがてわたしは自然に死ぬでしょう

 

借家住まいをしていますが、わりと広い庭があり、大きな枇杷の木があります。

葉が2階のベランダにかぶさるほど茂っています。

 

去年、たくさん実がなったので、収穫してそのおいしさを堪能しました。

ところが今年は、それが叶いませんでした。

 

実がならなかったのではありません。

去年よりもずっと多く、まさに鈴なりというにふさわしい状態でした。

今年はもっと食べられると、楽しみにしていたのです。

 

ところが!

 

2か月ほど前のある真夜中、ベッドに横たわっていると、ベランダでガサゴソ音がします。

初めはたいして気にしていなかったのですが、しばらく経って窓を開けてみた時には、何もいませんでした。

 

しかし二、三日後、また音がするので、今度は懐中電灯と棒を用意して、急いで開けてみました。

すると。

もこもこしたタヌキのような動物が不器用な足取りで電線を伝って逃げていくではありませんか。

 

ハクビシンです。

ベランダには枇杷の種がまき散らされていました。

 

 

ハクビシンは、こんな可愛い顔をしているのに、害獣として扱われます。

民家の小さな隙間から屋根裏に入り込み、住み着いてしまうのです。

一旦住み着くと、騒音をもたらしたり、糞尿による悪臭を放つなどの被害を与えます。

けっこう獰猛で、下手に手を出すと噛みついてくることもあります。

銀座の真ん中にも現れて大騒ぎ、捕物になったそうですね。

 

家でも放置するわけにいかないので警戒していましたが、夜行性なので、こちらが寝ている時に来られると、追い払えません。

ある朝、ベランダに出てみると、側溝に見事な糞が山盛りに。

種もたくさんまき散らされていました。

味をしめてしまったようです。

 

また必ず来るだろう。今度こそ追い払ってやろうと、夜更かしして待ち構えていました。

ある夜の2時ごろ、枝のなかでガサゴソ、ガサゴソ。

さっと窓を開けて、懐中電灯で枝を照らしました。

何と今度は二匹で電線を伝って逃げていきます。

夫婦なんでしょうね。

連れ立って仲良く逃げていくその姿を見ていて、複雑な気持ちになりました。

どこかの空き家か何かで子どもを作る営みをしているのかもしれません。

 

しかし、こうたびたび来られては困ります。

いちばん心配だったのは、あんな大きなのが2匹も電線を伝って逃げることを繰り返されたら、電線が破損して漏電を起こす危険があるのではないかということ。

電力会社の人に来てもらって、点検していただきました。

「今のところ大丈夫」ということでした。

 

さて、これからどうするか。

頻繁に来るに違いありませんから、枇杷の実をそのままにしておくわけにいきません。

やむなく収穫をあきらめ、植木屋さんに頼んで、枝を根元のところからバッサリ切ってもらいました。

それからは、ハクビシン夫婦も収穫をあきらめたようです。

 

ハクビシンも生きるために必死。

こちらも彼らをのさばらせるわけにはいかない。

動物の都合と人間の都合は、こうしてぶつかり合いますね。

今は亡きムツゴロウさんのように、動物が好きでたまらない人だったら、うまく飼いならしてしまうのかもしれません。

そうするとハクビシン君も、「害獣」ではなくなって「ペット」になるでしょう。

 

上野動物園のシャンシャンは2歳になり、いまや大人気ですね。

珍獣で可愛いらしく、人間に害を与えるわけではないので、最高に手厚く扱われています。

でもハクビシンだって、本当にかわいいですよ。

私は、夫婦連れだってのそのそと電線を伝っていくあの愛嬌ある後姿を忘れることができません。

 

また私たちは、自分たちが生き延びるために、牛や豚や鶏を毎日食べています。

彼らは人間に殺されるために大量に飼育されているのですね。

でもこれは、仕方のないことです。

 

「動物愛護」の精神も、じつはこうした人間の都合の上にこそ成り立っているのだということを、忘れないようにしたいものです。

 

長編小説の連載を終えてから、一週間経ちました。

いかがだったでしょうか。

まだ修正していくべき部分が多々あると思いますので、忌憚のないご感想をお寄せいただければ幸いです。

どんなご批判でもけっこうです。

 

ところで、3月末から活け花教室に通っています。

週1か2週に1回のペースです。

なぜ活け花をやってみたいと思ったかというと、じつは、上記の長編小説と関係があります。

 

ある程度までお読みくださった方は、お気づきと思いますが、女性主人公の玲子の母は、武蔵野で活け花の師匠をしているという設定になっています。

また、娘の玲子も多少の心得があり、オフィスのエントランスの花を活ける役を仰せつかることになります。

 

筆者は、こういう設定を考えるまで、活け花のことなど何も知りませんでした。

ところが、必要上、活け花について調べているうちに、これは素晴らしい世界だとすっかり魅せられてしまったのです。

それで、自分でもやってみたいと思うようになりました。

 

流派は小原流です。

いままでに、12回通いましたが、「たてるかたち」「かたむけるかたち」「ひらくかたち」という三つの基礎を学んできました。

 

まだまだビギナーで、これからがたいへんだなと感じているのですが、いまのところ、悪戦苦闘しながらも、とても充実した気分を味わっています。

先生もとても親切に指導してくださいます。

 

お恥ずかしいですが、「ひらくかたち」の最近作を三つ、お見せします。

ご笑覧いただければ幸いです。

 

 

この日は自分で花材を選ぶ日でした。

鳴子ユリ、カーネーション、カスミソウ。

自宅で活け直したものです。

教室では中央のカーネーションがもっと高くすっくと立っていたのですが、帰宅して切り詰めているうち、短くなってしまいました(教室での写真をアップしようとすると、なぜか逆さまになってしまいます)。

 

 

花材はサンダーソニア、トルコ桔梗、レザーファン。

サンダーソニアは、サンダースという人が南アフリカで見つけて持ち帰ったところからその名がついたそうです。

オレンジの可憐な花がかわいいですね。

 

 

花材はクッカバラ、ダリア、レースフラワー。

左に短いクッカバラの葉が見えますが、これは、うっかり折ってしまったのです。

「あーあ」と思って先生に泣きついたのですが、先生はものともせずに「ここに挿せば大丈夫よ」と言ってくださいました。

 

これからも頑張ります。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

【最終回です。最後まで読み通してくださった方に深くお礼申し上げます。】

 

堤 佑介ⅩⅤの2

 

 そして今日28日は仕事納め。おとといハウスクリーニングに来てもらったので、オフィス内は、きれいに片付いて、正面のガラスドアもピカピカで気持ちよかった。

 私は自分の机や書棚の整理を行い、ゴミをだいぶ出した。いまは無駄になった大畑区の地図や、狙い定めた物件の図面など、そのまますぐに捨てる気にはならず、眺めながらしばし感慨にふけった。苦労して書いた報告書。これは今後の参考になるかもしれないので、保存することにした。

 みんなそれぞれの残務整理に携わっていて、終わったのが1時ごろ。川越が人数分注文してくれたサンドイッチやおにぎりで、ささやかに今年の最後を締めることにした。ビールとソフトドリンクで乾杯した。

 「みなさん、本当にご苦労様。今年もみなさんの熱意と努力に支えられて、無事一年を終えることができました。まあ、いろいろありましたけど、いやなことは早く忘れて、希望を持って新しい年を迎えられるよう、健康で元気で、公私ともに頑張ってまいりましょう」

 下手なあいさつを終えると、岡田が冷やかすような目をして、すかさず

 「特に、所長には『私』のほうで頑張ってもらいたいと思います」と付け足した。みんなに知れ渡っているようで、笑いとざわめきが広がった。

 食事をしながら、きのうのことなどみな念頭にないような調子で、楽しそうに雑談した。

 「よいお年を」と言い合って散会したのが2時15分くらいだった。デパ地下のワイン売り場で赤と白のフランスワインを買った。

 

 ドアを開いた。れいちゃんがキッチンから飛び出してきた。ワインの袋を彼女のお尻に回しながら、ぐっと抱きしめ長い長いキスをした。

 夕刻になって、「幻のポトフ」が出た。キャベツ、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎなど、いろいろなy野菜の味が溶け合って、すごくうまかった。

 「幻のポトフが現実になったね。最初、宮腰坂のレストランでひとりで食べてたんだよね。あの時もらったメール、たしかFureaiのメッセージから切り替えて、れいちゃんが返事してくれた初めてのメールじゃなかったっけ」

 「うん。あのとき、寂しくなっちゃったの。静谷にハローウィンのあとの空虚感が漂っててね」

 彼女はそう言って、私をじっと見つめた。まなざしがとても色っぽいと感じた。その寂しさこそが僕たちを結び付けたんだよ、と言おうとして、ちょっときざっぽいのでやめた。

 それからお正月に彼女の実家に行く話をした。

 妹さん一家の予定とはバッティングしないのかと聞いた。するとれいちゃんは、クリスマスの誘いの電話の話、何日か前に妹の家に行ったが、姪の受験に夢中でそれどころではない雰囲気だった話をした。

 そういえば、妹さんとはあまり折り合いがよくないというのは聞いた覚えがある。でもそのときは聞き流していたが、この話で、その様子が実感を持って確かめられた。

 「まあ、相性ってどうしようもなくあるからね。それは仕方ないことだね」

 「辞職や華道のことを伝えようかなと思ったんだけどね、それ、話さなくてよかったと思う」

 「あ、そうだね。それは言わなくてよかったね。僕とのこともいずれわかるにしても、わざわざこっちから言うことないよ」

 ワインから日本酒に切り替えた。

 お母さんの教室の様子を聞いた。そのうち、もしれいちゃんが引き継ぐなら、生徒倍増のために力を貸すという申し出を、この前よりも本気でしている自分に気づいた。

 「でもゆうちゃんはお仕事で忙しいでしょう?」

 そう聞かれて、きのう本部から帰る時の心境がにわかに甦った。このまま俺は不動産屋をずっと続けるのか。あのたぐいのことはこれからもある。そのたびにまたすかされる思いを味わわなくてはならないのか。

 「うん。ここ何年かはね。でもこれからの生き方について、少し考え直そうかと思ってるんだ」

 れいちゃんは、え?という顔をした。私はしばらく下を向いていた。昨日の話はする気になれなかった。彼女が何か言いたそうにじっとこちらを見ている。ちょっと雰囲気を重苦しくしてしまった。

 「ごめんごめん、心配しないで。60代が見えてくると、ここらで人生やり直そうかな、なんて、らちもないこと考えちゃうんだよ」

 「わかるような気がする。ゆうちゃん、いろんなことできる人だもんね。それに、いま、昔の56と全然違うでしょう。まだまだ新しいことに挑戦できると思う」

 「ありがとう。れいちゃんの新しい生き方に合わせて協同事業みたいなこと構想してもいいかなとかね。これは単なる妄想だけど」

 れいちゃんは、少し黙ってから、優しい声で言った。

 「それ、いますぐ決めなくても、ゆっくり考えればいいと思う」

 「そうだね。ありがとう。すごく元気もらった感じがする」

 今度は彼女が私のぐい飲みにお酒をなみなみと注いでくれた。ぐっとあおった。景気づけのつもりだった。でも私の飲みっぷりを見て心配になったのか、れいちゃんが言った。

 「今日はあんまり飲まない方がいいかも」

 その声もすごく優しかった。私の酒に注意したのはこれが初めてだった。恋女房よ、たしかにその通り。私の気分はまだ昨日のことを引きずっていて、こうして彼女と向き合っていても、どこか心の荒れが払拭しきれていないのかもしれなかった。

 れいちゃんは話題を変えて、会社の部下のさくらちゃんという人のことを話し始めた。

なんでも30代前半で、明るくて親切で、すごく魅力があるのに、これまで男性との出会いで3回も失敗しているのだという。打率1割という篠原の言葉を思い出した。それにしても若者のミスマッチ、何とかならないのだろうか。

 「ポトフ、まだあるわよ。もっと食べる? ご飯もチンしようか」

 「そうだね。酒はほどほどにして、栄養つけよう」

 

 それからリビングでコーヒーにして、テレビをつけてみたら、報道番組で、なんと、きのう韓国政府が初めの声明を覆してレーダー照射はしていないと発表したと報じていた。しかも今日の5時に、その発表への対応として、ようやく防衛省が、証拠として対潜哨戒機P-2が写した当時の映像を公開したというのだ。

 篠原の言ったとおりになった。後手後手に回る日本政府のだらしなさ。さすがに私は憮然としたが、れいちゃんの前で怒ってもしょうがない。

 これは、北の漁船の救助に当たっていたなどと言っているが、潘在卯大統領の肝いりで、北の工作船を援護していたために行った可能性があること、韓国は日本やアメリカと同盟関係を結んでいながら、北京に操られているので、その反日姿勢だけを問題にするのではなく、もはやいつ日米の仮想敵国である中国に寝返らないとも限らないこと、などを話した。

 じつは、北の背後にはロシアもいて、アメリカの経済制裁の裏を掻いている可能性がある。ロシアにとって非核化されない北の存在は、緩衝地帯として必要だからだ。ロシアが北方領土問題にまるで乗る気がないこともわかっていた。四島返還などすれば、アメリカに基地を置かれてしまうことを恐れているのだ。ロシア側からすれば、これはもっともな懸念だ。

 東アジアの情勢は複雑で、予断を許さない。大事なことは、日本がアメリカとの同盟関係を強固にしながら、ロシアとも独自の外交を展開し、ロシアや韓国を巻き込もうとしている中国の反日統一戦線構想を崩していくことだろう。

 しかし、しょせんは床屋政談。ここまでの話はしなかった。早々にテレビを切った。

 

 れいちゃんは引っ越しの話をし始めた。いまのマンションを売って、早くここに来たいと言う。それは夢膨らむとても楽しい話だった。

 だがそのうち、ここも売って、もっと広いところに引っ越したほうが、さらに楽しい生活ができるということに話がまとまった。どこに住むか、どれくらいの資金が必要か、ふたりの資金はどれくらい見込めるのか、いずれそういう相談をきちんとすることにした。

 「あ、そうだ。言うの忘れてたけど、娘の亜弥にれいちゃんのことメールしたら、ぜひ会いたいってさ。3日、だいじょぶ?」

 「ほんと? わたしも会いたいわ。3日だいじょぶよ。亜弥さんて、建築設計やってるのよね。ゆうちゃんのお嬢さんのことだから、きっと才色兼備なんでしょうね」

 「そんなことないよ。そうそう。彼女が最初に婚活サイトを勧めてくれたって話、したっけ」

 「え、そうだったの。いま初めて聞くわ」

 れいちゃんはちょっと複雑な表情をした。私の離婚経験のことに想像が及んだのだろう。お互いの過去については話さないという暗黙の了解があったが、複雑な感情を抱くのは当然のことだ。それにしてもこの暗黙の了解は、不思議にしっかりと守られていた。

 私は、亜弥とのいつかの食事のことを話した。れいちゃんはおもしろそうに聞いてくれた。

 「大学生の時に向こうから電話してきたんだよ」

 「でも、若いにしてはずいぶんしっかりしてるわね。なんていうのか、そういうふうに乗り越えて……」

 彼女は離婚の理由は尋ねずに、ただそう言った。

 「うん、それは僕もそう思う」

 「きっとお父さんが好きなのね」

 それは正直なところわからない。ただ私のほうの断ち切れない思いを、亜弥が大人になって忖度してくれたのかもしれない。

 家族の親和と葛藤。彼女が思春期にさしかかったころ、私は家を出た。リビングのドアの向こうから廊下越しに、恨みのこもった視線をちらと投げてよこした。それきり彼女はうつむいていた。何も言わなかった。あれを忘れることができない。

 いっぽうで、幼い頃、肩車して公園をぐるぐると歩き回ったこと、紙粘土でいろんな動物を作って遊んだこと、夏の日の夕暮れ、ブランコをいつまでも押してやったこと、お風呂に入れて30まで数えたら出てもいいと言ったことなどが脳裡を駆け巡った。

 

それかられいちゃんが、フルニエのチェロ協奏曲をリクエストした。しばらく二人で聞きほれていた。

 思えばこの感傷的な旋律の曲が私を打つようになったのは、Fureaiサイトに登録したころからだった。若い時には、あまりこの種の曲に感銘を受けることはなかったのだが、最近、こういう旋律にふと涙腺が緩むようになった。

 心の弱りかとも思えたけれど、でも、いま、こうして好きになった女性と一緒に聴くことができている。心の弱りだとしても、それは悪いことではないだろう。優しい愛情が私の疲れと憂愁をほのかに包んでくれている。ふたりともしばらくじっと余韻に浸っていた。

 気分を変える必要を感じた。

 急に思い立って、お風呂に一緒に入ろうとれいちゃんを誘った。彼女は恥ずかしそうにしながらうなずいた。

 風呂場での営みは新鮮だった。しばらくシャワーでふざけていたが、湯船のふちに腕を置いて丸いお尻をこちらに向けたれいちゃんを後ろから抱きかかえた時、彼女が「明るすぎる……」とささやいた。ズームスイッチなのをさいわい、それを半分くらいに絞った。

 窮屈な空間で愛し合ってから、二人で湯船に入ったら、お湯がザーッとこぼれた。からだが斎戒沐浴のように洗われるのを感じた。さっきまで子どもだったのが急に大人になったかのようだ。ふたりの新しい時が始まるのかもしれなかった。

 れいちゃんが言った。

 「ねえ、これからも一緒に入ろうね」

 甘ったるさはなかった。誓いの言葉のような口調だった。

 私は彼女の両手を握って、じっとその目を見つめ、ただゆっくりうなずいた。

 太古の昔には、人々は、こんなふうに日々の心と心が同期しながら変化するのを感じ取った時、神意をその場所にまざまざと見たのではないかと思った。

 

 ベッドに横たわってお休みのキスをした。

 なかなか寝付かれなかった。

 

 昨日、本部の説明会が終わった後、ビルの外に出ると、島村が追いかけてきた。

 「すまん。こんなことになって。せっかく東海不動産作戦を頼んだのにな」

 「いや、しかたないさ。負担が軽くなるという面もあるからな。それよりおぬしのほうががっくり来たろう」

 「まあな。でもこういうのは宮仕えの宿命みたいなもんだからな。首切られるよりはましだと思うほかないさ」

 彼の嘆息交じりの言葉が、妙にリアリティをもってこちらにも響いた。官僚的だと感じた尊大さはすっかり消えて、昔の島村に戻っていた。

 「ちょっと不吉なことを言って申し訳ないが、社運が傾いてるなんてことはないのか」

 「それは、俺にもわからんな。仮にわかったとしても、堤にさえ漏らすわけにはいかない」

 そうだろうな、と思った。しかしこれだけデフレが続くと、いつ何があるかわからない。私も身の振り方を考えておいた方がいいと思った。彼が気を取り直すように言った。

 「堤、年が明けたら一杯やらないか」

 その調子には、何といったらいいか、いじましい日常に耐えている弱者の連帯意識のようなものがこもっていた。

 「いいとも。おぬしとはずいぶんやってないな」

 「うん。こっちから連絡するから。あ、じゃ、俺はこっちなんで。よいお年を」

 「よいお年を」

 年が明けたら一杯やらないか――今年最後の忘れられないひとこととなった。

 

 仕事の面では倦怠と疲れが忍び寄ってきているが、私の心はいま豊かに満たされている。隣にれいちゃんがいる。それは自分の仕事がこれからどうなるかということとは、あまりかかわらない。ふたりが強く生きていくことができれば、それでいい。

 れいちゃんと私――残された人生の途上で、これからどんな運命が待ち受けているのか。もちろんそれはわからない。ふたりで確認しあったように、恋愛感情が低減するのはしかたないとしても、どこまで長続きさせられるかの工夫が大切だ。

 その工夫はたぶん、相手のことを好きか嫌いか、一緒にいて楽しいか飽きてしまうかといった、抽象的な感情の行方を追いかけることによっては果たされない。それは不毛だ。むしろ、ふたりで共同にかかわる具体的な《仕事》のようなものを絶えず作り出していくことで果たされるだろう。「八百屋さんや魚屋さんは二人でやってて仲がいいわね」と、おふくろが羨ましそうに言ったことがある。

 そう、運命はやはり、やってくるものではない。自分たちで日々、切り拓いてゆくものだ。

明日になったら、このことを話し合うことにしよう。

 私たちの新しい《仕事》――それは、必ずしも、前に考えたような、新しい活け花教室の設立のような大きな話ではなくともよい。もっと小さな、暮らしの中でのフィクションの積み上げのようなもの。

 たとえばペットを子どもと見なして飼うのでもいい。れいちゃんに活け花を教えてもらうのでもいい。音楽や美術や映画の鑑賞を追究するのでもいい。一年に何回か、必ず旅行することに決めるのでもいい。とにかく二人で何か楽しい「型」を考えて、その型の中で、毎日そうせざるを得ないという習慣を作り上げることだ。

 

 オフィスのスタッフたち――能力や適性にいろいろ差はあっても、けやきが丘営業所がうまく運営されていくように、懸命に働いてくれる。

もちろん、働くのは、自分が食べていくためだ。しかし人はただ欲得のために働くわけではない。彼らが働いている姿をこの目でじかに見ていると、それは欲得ずくを超えた何かのためであることがよく実感できる。

 その何かとはなんだろうか。社会奉仕でもなく、かといって枠組みに仕方なく服従する気持ちでもない。そこには、もっと根源的な欲求のようなものがある。それはおそらく、人と人とが、直接につながり合い、認め合いたいという欲求だろう。

 しかし、そういう一番大切なものによってこそ社会が支えられるはずなのに、その当の社会のからくりが、直接的なつながりや認め合いの欲求を、しばしば理不尽に断ち切ろうとする。そこには、そうさせてしまう構造のようなものが必ずあるはずだ。

 それを《敵》と呼んでもいいと思う。

 篠原は、2018年12月10日を「国恥記念日」と呼んだ。このままでは日本は確実に滅ぶ、とも言った。私も同感だった。無道に対する憤りは大切だ。しかし憤りを有効なものに変えるには、もう一つ何かが必要だ。

 この秋、政治や経済、公式的に正しいとされることや男女のあるべき姿などについて、篠原の知恵を借りながらいろいろと考えてきた。でもこの複雑化して機能が膨大に分化した社会では、一定の《敵》を特定することはできても、そこに切り込む効果的な武器をなかなか用意できない。

 みんながそれぞれ忙しく毎日を送っていて、自分たちがその《敵》に囲まれていることを意識できないからだ。誰がそれを意識させられるのだろう。政治家? 学者? マスコミ? どれも違うような気がする。こうした権威筋には失望させられることがあまりに多かった。

 

 来年は御代代わりの年だ。平成最後の一年が暮れてゆく。思えば平成の三十年というのは、私が社会人としての人生を歩み出してからのほとんどの期間に相当している。

 私生活では、いいこともあったけれど、つらい記憶のほうがどうしても意識の表舞台に出てしまう。ほの暗い虚空を見つめていると、それらが走馬灯のように現れては消えていく。

 塾は畳んでしまったし、不動産屋も、これが本来の自分の仕事とは思えないことがたびたびあった。そして不倫と離婚。亜弥に取り返しのつかないかわいそうな思いをさせてしまった。その後の芙由美との生活の挫折……。

 そして、日本の社会は――何もいいところがなかった。それは幼女連続殺人の発覚で始まった。バブルがはじけていくつかの金融機関がピンチに陥った。阪神淡路大震災。カルト宗教の反社会的行動。14歳の少年の小学生殺し。消費増税とデフレへの突入。

 世界的にもアメリカ一極支配が不安定をさらした。9・11。イラク戦争。リーマンショック。そしてアメリカの覇権後退と、中東の混乱。中国の異様な、歪んだ台頭……。これらが日本にも大きな悪影響を及ぼした。

 日本では、民政党の政権運営の失敗と東日本大震災。期待を持たせて代わった阿川政権のグローバル政策と緊縮財政によるデフレの継続と国民の貧困化――そしてこれはいまも続いている。

新しい年はどんな年になるのだろうか。どうもそんなに好転するとは思えない。《敵》がそうやすやすと身を引くはずがない。

 《敵》をだれにとってもきちんと意識させられるもの、それはおそらく、《思想》とでも呼ぶしかないものだろう。私たち一人一人が日々の暮らしを生きる中で、そこで感じ取られた実感を基盤にたしかな言葉へと統合していく。その果てに現れる優れた《思想》。

 それが編まれるためには、まだまだ一定の過酷さが私たちにのしかかることが必要とされるのかもしれない。でも、よく見れば、その過酷さはもうのしかかってきているのだ。そのことをみんなにはっきりと気づかせるために、すでに何人かの人たちが登場している気配もある。この人たちが、小異を捨てて結集することを願わずにはいられない……。

 

れいちゃんも、寝付かれないようだった。私はそれを知っていた。何かもの思いに耽っていたのだろう。話しかけようかと思った。しばらくためらっていたけれど、ふと気づくと、静かな寝息を立てていた。

 明日になってもあさってになっても、たとえ「日本」がどんなにダメになっても、この可愛い安らかな寝息を長く聞き続けられるようにすること、いまの私にとって、精一杯できるのはそのことかもしれない。さしあたりそれが一番大切なことだ、と思った。

 

                                               《終り》

 

 

堤 佑介ⅩⅤの1

                                     2018年12月28日(金)

 

 今朝は寒かったがよく晴れた。ところがテレビをつけてみると、晴れているのはほとんど関東だけで、全国的に雲が多く、全国各地で初雪が降るかもしれないという。東北や北陸ではすでに積雪が観測されている。今年も豪雪の季節が始まるのか。

 南関東は、台風にしても不思議に逸れていくことが多いし、雪は降ってもめったに積もらない。かえって関西や中国、九州のほうが夏の台風や豪雨はもちろん、冬も大雪に見舞われることがしばしばあるようだ。

 そういう気象条件というのは、人の社会的な流動にけっこう大きな意味を持っていると思う。これでは首都圏一極集中が進むわけだ。私たちは、家康の「先見の明」に感謝しなくてはならないのだろうか。しかし全国的な見地から見ればいいことではないが。

 今日はいよいよ玲子様をお迎えする日。しっかり片付けたぞ。わたしのほうが後になる公算が強いとみて、テーブルに書き置きを残してマンションを後にした。

 

 しかし考えてみれば、この2週間ばかりは、いろいろときつかった。

 スタッフ再編成の問題では、岡田と退社時刻後に何回も残って打ち合わせをした。

 岡田は各人の役割を極力明確にすることを主張したが、私は生来の優柔不断さも手伝ってか、あまりに明確にすると体温が伝わりにくくなり、かえって機動性を欠くことにならないかと危惧した。

 岡田は、それでは従来とあまり変わらず、効率化に結びつかないと反対した。ふたりの意見が対立するのは珍しかった。結局、岡田の考え方を基本的に採用する代わりに、これまで必要に応じて開いていた会議を、報告義務と相互交流を兼ねて2週間に一度に定例化し、パートやアルバイトの人にも、それぞれの時間の許す限りで出席してもらうこととした。

 新しい組織形態についても検討した。

 前に相談した通り、賃貸・管理部門のチーフを岡田に、「下町コンセプト」関係を私と岡田が受け持ち、売却関係のチーフを山下にする。以下、全体を見渡して、新しい事業企画の推進やスタッフのそのつどの配属などを担当する総務のような部門を作り、八木沢に担当してもらう。たえず私との意思疎通を怠らないようにする。本部の前園君との接触を可能な限り作り、できれば彼に、頻繁に来てもらう。こちらからも出かけてゆく。

 岡田の下には、中村、川越が直属するものとし、彼らには主に接客に当たってもらう。山下の下には、谷内と小関、これも接客担当。暴走気味の谷内をベテラン山下がうまくコントロールする。本田には、彼の得意を活かして、なるべく情報処理と書類関係の整理に集中してもらう。

 アルバイトを新しく2人雇い、年明けからの繁忙期に備える。外国人はNG。

 売却よりも賃貸関係がこれから増えそうな勢いなので、岡田チームには、パートのうち、週4日フルタイムで来てくれる中岡さんと、週5日10時から4時まで来てくれる村瀬さんにも加わってもらうことにして、週3回の鈴木さんには、適宜、どのチームにも対応してもらう。

 だいたいこんなところで決着した。

 この結論を、全員が揃う25日の火曜日午後に発表した。11月の業績があまり思わしくなかったこと、それは成約数にかかわるものではなく、賃貸料や売却価格の低下にかかわるものであることも正直に話した。経理の渡辺にも、具体的な部分について、補足説明してもらった。

 みんな複雑な表情を浮かべていたが、最終的には、納得してくれた。八木沢が一番やりがいを示してくれたので、ほっとした。

 

 私はこうして年末の多忙に追われる間も、例の臨時国会のひどさに腹が立っていた。そして自分のような一介の国民の無力に対しても。

 そんな折、韓国の駆逐艦が日本のEEZ内で、自衛隊の対潜哨戒機に火器管制レーダーを照射したというニュースが入った。20日のことである。火器管制レーダー照射というのは、火器による攻撃の準備行動である。海上での宣戦布告に近い挑発行為だ。休日だったので、テレビやネットにくぎ付けになった。

 いろいろ聞いたり調べたりしているうち、どうも親北の潘在卯大統領が、北の工作船を護衛せよとの指示を自ら出していたというのが真相らしい。それでないと、写真撮影という哨戒機の通常の行為に対してわざわざレーダー照射などするはずがない。しかもレーダー照射の事実を韓国側は認めているのだ。

 この日の夜、篠原から電話がかかってきた。

 「おい、日本はひどいことになってきたな」

 「まったく」

 「オフィスの忘年会は終わったか」

 「うん。18日に終わった」

 「どうだ。明日一杯やらないか」

 「明日か。うん。忙しいが、まあ、いいだろう。時間を空けよう。8時でもいいか」

 「かまわん」

 彼の声は、怒っているように聞こえた。わたしも何ものかに対して怒っていたので、それをぶつけ合う機会を年内に一度持っておいた方がいいと思った。夜のうちに「夕凪」に予約を入れた。8時半をすぎないと無理だと言う。

 

 夕凪はまだ混んでいた。カウンターの片隅が二つだけ空けてある。今日はなぜかアキちゃんがいず、代わりに年配の男性がサービスしていた。

 「今日はやけ酒だな」

 少し遅れて入ってくるなり、篠原が言った。

 「きのうのレーダー照射か」

 「それもあるが、こないだの臨時国会は、なんだありゃ」

 「俺もあきれたよ。日本も終わりかもな」

 「移民法で乱闘みたいになったけど、そのどさくさに紛れて水道民営化と漁協解体を二つ通してるだろ。グローバリズム・ジャパンはこれでほぼ完成だな。そのことにほとんどの国民が声さえ挙げない。もうそんな気力を喪失してるんだ。俺はな、臨時国会が終わったこの2018年12月10日を、勝手に日本の『国恥記念日』と名付けてるよ。それも外敵の強圧に屈したわけじゃない。すべて自分で自分の首を絞めた結果なんだ。」

 篠原は、いつもの捨て台詞的な調子で、ビールをぐいとあおった。

 「『国恥記念日』……そうかもしれない。でもまだ消費増税が残ってるじゃないか」

 「消費増税な。あれはまあ、延期ぐらいにはなるかもしれない。こないだ、と言ってももうひと月くらい前だけど、藤川悟が『しんぶん紅旗』のインタビューに出て、増税批判やったの知ってる?」

 「あ、それは知らなかった。それってまずいんじゃないか。仮にも官房参与だろ」

 「いや、ありゃ、十分計算してやってるね。ちょっとその筋から聞いたんだが、今年中に彼は辞任するそうだよ」

 「ほう。それも解せないな。せっかく権力の中枢で孤立無援でがんばってきたのに」

 「いや、もうやることやったって感じて、かえって外で暴れた方がいいと思ったんじゃないの。彼や三石や中山にもっともっと暴れてもらいたいよ」

 「だけど、圧倒的な少数派だろ。限界あるんじゃないの。みんな財政破綻信じてるんだから。俺だってこの前まで信じてたんだ」

 彼ら目覚めている人たちが、たとえば何らかの連帯組織みたいなものを作る。政党はまずいだろう。いままで成功したためしがない。まずは、国民のほとんどが間違った認識を持っている事態を、少しでも変えることだ。ことに財政破綻を避けるために増税はやむを得ないと考えている連中に対して。

 私は聞いた。

 「で、どうして延期されるかもしれないと思うの」

 「一つはさ、軽減税率ってあるだろ。あのめちゃくちゃ複雑な奴な。あれ、ほんとならもう各業界で準備進めてなきゃいけない頃なのに、全然動いてないじゃないか」

 「そうだな。俺んとこでも何にもやってない」

 「それから、民自党んなかに少しずつ慎重派が増えてきてる兆候がある。それは連中が別に緊縮財政の誤りに気付いたからじゃなくて、世論の空気嗅ぎ取ってて、ここで増税決めちゃうと、来年の参院選に勝てないって感じ出したからだ」

 「ああ、たぶんそうだろうな」

 「もう一つはさ、菅野官房長官が、増税は来年度予算が決まってから決定するって発言してるんだよ。まだ決めてないってことをにおわせてる。阿川はもともと財務省と対立してるし、しかもこの前の増税で懲りてるからな」

 「なるほど。でも、せいぜいよく行って『延期』だろ。凍結か減税じゃなきゃ景気浮揚効果ないんじゃないの」

 「それはそうだ。2020年に延期、なんてやったら目も当てられない。五輪投資が終わっちゃってるからな。ほんとはあれは廃止すべきなんだ」

 「廃止すべきなんだ」の部分が、ことさら強調されてでかい声になった。

 

 生牡蠣がシーズンである。年配の男性が運んできた。ふたりとも日本酒に切り替えた。篠原は千代鶴、私は大信濃。

 篠原は、少し気分がおさまったか、ふざけるように大げさに店内を見回した。

 「マスター、ところで今日はここは何か不足してるような?」

 「へへ、すみません。ここんとこちょっと忙しくてね」

 私も篠原の冗談に乗って「もしかして、これ?」と、お腹を丸めるしぐさをしてみせた。

 「ヘヘ、まあ、そんなようなもんで」

 意外にも当たってしまった。

 「やった! でかした、マスター。ほらね、彼はちゃんと約束守るんだよ」

 「それはおめでとう。少子化解消に貢献だね」

 「ありがとうございます。でも、まだおめでとうは早いっすね。つわりがひどくてね」

 「まあ、じき何とかなるでしょう。応援してるからって伝えてください」と、これは私。

 「ありがとうございます」

 「そういえばさ、その後、堤のこれはどうなったの」と篠原が小指を出した。

 「え? 俺、なんか話したっけ」

 一瞬、なんでわかるんだと思って、口を滑らせた。まあ、どうせ話すつもりだったけど。

 「いや、サイトに登録したけどあんまり熱心に見てないってとこまでしか聞いてないよ。でも、何となく顔に書いてある」

 「カマかけたな。しかたない。じつはできたよ。それが」と、私は篠原がまだ立てている太い小指を目で示した。

 「そうか! 堤もでかした。今日は胸糞悪くて当たり散らしてやろうかと思ってきたんだが、思いがけずおめでたい日でもあるな。マスター、お酒お代わり。それで? ちゃんと話せよ」

 私はできるだけ「のろけ」にならないように話した、つもりだった。

 「玲子さんか。これから華道一途か。それはいい女見つけたな、この野郎。それで? 結婚するのか」

 「いや、それについては相談が済んでいて、正式な結婚はしないことにした。これは彼女の言葉だけど、『恋愛以上、結婚未満』で行くってところかな」

 「うーん。考えてみると、それがこれからの形かもな。特に子ども作らない中高年ではな。でも、若者の場合は、一回家族を経験した方がいいと思うけどな」

 「うん。しかし経済が回復しないと、少子化は解決しないだろう。少子高齢化とか生産年齢人口減少とか騒ぐ学者は、そこでいつも思考停止して、問題の本質は、政府の経済政策の決定的な間違いにあるってことを言わないだろう」

 「そのとおり。老老介護とか介護離職とか8050問題とか騒いでる連中も同じだな。ところで堤は、その、なんだっけ、玲子さんのお母さんとはどう付き合うつもりなんだ」

 「いや、俺は、先方のお母さんがこけたら、面倒見るつもりだよ。正月に会うんだけどね」

 「あ、そうなのか。それは偉いね。そのへん、亜弥ちゃんには知らせたのか」

 「いや、まだ。明日あたり電話しようと思ってる」

 「しかしなんだな。ああいうサイトでよくいい出会いができたな」

 「運がよかったんだろうな」

 「そうだろ。打率1割行けばいいほうじゃないかな」

 「俺はよかったけど、今後の男女の出会いの行方はあんまり明るくないな」

 「うん。どんどん生活が個人化してるからな」

 少しずつ客が帰り始める。短い時間に急いで飲んだせいか、篠原のろれつがそろそろ回らなくなってきた。猫背もいっそうひどくなる。それでも彼は両手を絶えず動かしながらしゃべり続ける。つくづくエネルギッシュな男だと思った。

 「話が戻るけどな、俺はこの政権のやってきたことのひどさを数え上げてみたんだ。20くらいあったぞ。きのうのレーダー照射だって、すぐにでも証拠を国際社会に全面開示して突き付ければいいのに、もたもたして韓国に時間稼ぎさせてる。そのうち韓国はレーダー照射なんかしてないってきっと言い出すぞ。あれは後ろで北京が糸を引いてるからな」

 「それはありうるな」

 「だけどまたぞろ日本政府は、日韓関係の重要さとか言って、へっぴり腰の対応しかしないだろう。それにしても日本はあらゆる分野で、どんどんダメになっていくな。世界に占めるGDPのシェアはかつての三分の一になっちゃったし、こないだ聞いた話じゃ、アメリカのIT系大学院で、中国の博士号取得者が年間5000人いるのに対して、日本人はなんとたったの200人だそうだ。すべては、『緊縮真理教』という邪教からきてる。こりゃ世界の笑いものだ」

 またさっきの剣幕が戻ってきた。篠原は、目をぎょろつかせて私を睨んだ。

 「堤、一国が滅んでいく最大の原因は何だと思う?」

 「そりゃ、中央政府の統治の拙さだろう」

 「もちろん直接的にはそうだ。しかしその拙さを平気で見過ごしてるのは、大多数の無気力化した国民だ。だから俺はこう思う。国が滅んでいく最大の原因は、国民の大多数が、自国が滅んでいくことに気づかないことだってな」

 「なるほど」

 「なあ、堤。こんなふがいない日本にいると、せっかく芽生えた堤の愛とやらも、やがては大国の侵略でつぶされるかもしれないぞ」

 「ハハ……心配してくれてありがとう。だけどそれとこれとは別問題さ。どんな貧国になったって、植民地化されたって、愛情関係は、育つものは育つし、消えるものは消えていく」

 「そういうけど、貧すれば鈍するってこともある。人心はすさむし、極端な話、これまで戦争や革命や動乱で、愛も引き裂かれて悲恋に終わることはいくらでもあったじゃないか」

 だいぶくどくなってきたな、と思った。そろそろ潮時だ。

 「悲恋もまた恋のうちさ。愛情の持続にはいろんな条件がからむし、先のことはわからない。そういう覚悟でやって行くだけのことさ」

 「そうか。まあいい。とりあえず、グッドラック」

 やっと矛を収めた調子に帰ってくれたようだった。

 「ありがとう。篠原もその元気さを失うなよ。最後のよりどころかもしれない」

 「そうそう、そのうち玲子さんを紹介しろよ」

 「うん、紹介する」

 篠原は杯を傾けるしぐさをしながら、

 「これはいけるんだろ。一緒に飲もうぜ」

 「まあ、そこそこな」

 「そりゃ、いい。今日はおかげでいい気分になった」

 表に出ると篠原は、「亡国ニッポンのために乾杯!」と大きな声で叫び、♪ターンターラタッタタッタ、ターンタラタッタッター♪と、結婚行進曲を歌い始めた。路上の人々は誰も相手にせずに通り過ぎてゆく……。

 

 その後、亜弥に何度か電話したが、通じなかった。彼氏でもできて、三連休だから、どこかに高跳びしているのかもしれないし、用心のためにスマホを切っているのかもしれない。そこでメールを入れた。

 

 《12/24  22:48

  久しぶり。

  元気にやってますか。忙しいですか。

  何回か電話したんだけど、つながりませんでした。

  あなたに感謝しようと思って、メールをしたためます。

 

  じつは、婚活サイトを勧めてくれたおかげで、生涯つきあっていきたいと思う伴侶を得ました。どうもありがとう。

  ただし、いろいろ考えて、正式な結婚はしないつもりです。

  レオン化粧品に勤めて経理をやってきた女性で、47歳。半澤玲子さんといいます。

  でも近々、退職するそうです。お母さんが武蔵野で活け花の師匠をしているので、彼女もその跡を継ぐために、本格的に華道を追究することに決めたと言っていました。

 

  折を見て、紹介したいとは思いますが、特に気が進まなければ、無理にとは言いません。

  ママとの時間を一番大切に考えてください。

  また、もしいい人ができていたら、その人との時間を何よりも大切に。

  お正月の予定はどうなっていますか。

  私のほうは、元日に、先方のご実家にお邪魔してきます。それ以外は4日までは空いています。

 特にお正月にはこだわりませんが、もし彼女とも会ってもらえるなら、都合のいい日を知らせてくれれば幸い。

 

  寒くなってきたから、風邪をひかないように。無理をしないように。

                                   パパより

 

 12/26  09:19

  パパ、ほんと!? よかったね!

  あれが役立ったのかと思うと、うれしいです。

  どんな方か、お会いしてみたいです。ママには秘密にしておくから、大丈夫。

  

   お正月、わたしは4日から仕事なので、できれば3日が都合がいいです。

   またおいしいもの、食べさせてね((´∀`*))

   詳しい時間、場所など、決まったら教えてください。

 

   p.s. 連絡、取れなくてごめんm(__)m

  22日からきのうまで、オーストラリアに行ってました。携帯は切ってました。短い滞在で、あまりいろいろ周れなかったけど、暖かくて空気がさわやかだったのでとても快適でした。シドニー、オペラハウス、行く前はあまり趣味がよくないなあと思っていたんだけど、やっぱり実際に見学するとすごいです。勉強になりました。

 

 誰と行ったのかは、慎重に省いてある。一人で行くとは考えにくいから、やはり彼氏とな

んだろう。そうだとすれば、二重におめでたいことだ。

 れいちゃんを紹介する件、快諾してくれてありがたかった。

 もしかしたら会わせない方がいいのかなあ、と迷った。母親に秘密にすると言っても、親子の間なのだから、いずれそのうち知れるのは避けられないだろう。

 しかしまあ、仮に知られたとしても、それは仕方のないことだ。依子にどう思われてもk耐えるしかない。彼女の性格からして、さほど気にしない可能性が大きい。

 

 27日の朝、島村から電話があった。なんと「下町コンセプト」が中止になったというのだ。それで、これから緊急に説明会議を開くから本部に来てくれと言う。

 「要するに社全体の業績不振で、予算の目途が立たなくなったんだ。俺も突然のことなんでびっくりしてるよ。ま、詳しいことは、会議で報告されるだろう」

 一瞬、血が引く思いだった。年末も押し詰まった時にドタキャンとは……。岡田や前園君にがんばってもらったことが水泡に帰したわけだ。

 そればかりではない。つい先日、苦労して決めたスタッフの新体制も、すべてとは言わないまでも、その重要な部分が無駄になってしまった。あれは「下町コンセプト」に有効な力を注げるようにするためのものでもあったのだから。

 さらに、島村本人から頼まれた東海不動産へアプローチする作戦も、ほぼ出来上がりつつあったのだが、それもパーになった。

 内容については伝えず、連絡があったので本部に行ってくるとだけ言って、オフィスを出た。道路に出る時、足元の仕切りにあやうく躓きそうになった。

 電車に乗りながら、いろいろな思いが駆け巡った。

 社全体の業績悪化とはどういうことだろうか。おそらくこれも長引くデフレからきているのだろうが、場合によっては、社運にかかわる状態かもしれない。

 しかし考えてみれば、ウチ程度の事業規模で、ああいうプロジェクトを企画すること自体に無理があったのかもしれない。基本案がまとまった11月初めの時点で、すでにその危惧は他の営業所からも出されていた。

 理念にまずいところはなかった。いまの日本社会や、それを反映した業界の趨勢からいって、よい提案だったと、いまでも思う。私も賛成したし、実行段階での労苦はさておき、本社として、発展のための乾坤一擲を投じる気構えだったのだろう。あるいは、伸び悩みを打開する窮余の一策だった可能性もある。

 しかしウチの担当箇所の仕事に実際に踏み込んでみた時、これはもしかするとスラム化するアパート群を増やすだけなのかもしれないとの懸念があった。

 また、れいちゃんと深草の街を散歩したときも、外国人観光客の多さに驚いた。あのコンセプトに最も適していると思われた地区も、かえってその下町性が災いして、彼らの住み着きが進んだら、やがては、日本のよき文化が壊されていくのではないかと心配になった。

 いっぽうでは、これで仕事がかなり楽になるという安堵感もないではなかった。しょせんは無理な勇み足だったのかもしれない。そう考えると負担から解放される気持ちにもなる。

 けれど、スタッフのみんなをあれだけ巻き込んで、その体制づくりに一丸となって協力してもらったのだ。所長として、相済まない気がしたし、挫折感も大きかった。

 

 本部での説明会議は初めから陰鬱な空気のまま、20分ほどで終了した。

 あまり具体的なことには触れられなかったが、要するに、同時進行させていた別の事業への資金繰りがこのままだと行き詰りそうなので、そちらに集中するためにこちらを切らざるを得なくなったということらしい。

 別の事業とは、物流サービスとの提携である。いつか岡田が生き残りのためのアイデアとして話していたやつの一つだ。

 前園君の姿もあった。後ろのほうで終始下を向いていた。終わってから私に近づいてきて、あの快活さとは対照的な表情を見せながら言った。

 「申し訳ありません。こんなことになって」

 私は、年長者として、できるだけ威厳と冷静さを保つようにして答えた。

 「いやいや、君が謝ることじゃない。こういうことはあるさ。それより、君こそ、若いんだから、早く立ち直って次の仕事に集中してほしい」

 軽く肩を叩いてあげると、ちょっと泣きそうになった。

 「はい。短い期間でしたけど、あの時はほんとにお世話になりました」

 「こちらこそ。私のほうも、またお世話になる時が来るかもしれないよ。その時はよろしく」

 「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

 帰りの電車でもいろいろなことを考えた。

 まずは、スタッフにどう説明するかだ。まあ、トップダウンで決まったことなのだから、事実は事実として淡々と報告するしかないが、岡田をはじめとして、みんなの落胆の顔を見るのがつらかった。

 それから、もう今年は間に合わないが、再編成の問題も修正が必要になってくる。これはでも、大きな負担が一つ減ったのだから、かえってやりやすくなるかもしれない。

 本部から派遣された小関君も、非正規だから、ひょっとしたらお払い箱の憂き目にあうかもしれない。そうならないように最大限の抵抗はするつもりだが。

 最後に、私自身の問題。これがじつは一番、意識を占領していた。

 この種の徒労感は、昔だったらけっこう早く立ち直ったのだが、今回は、ちょっと違っていた。れいちゃんと一緒に歩もうという希望が一方にある。それだけに、かえって、この仕事をこのまま続けることに情熱をあまり感じなくなってきたのだ。

 もしかしたら人生観の大きな変化の入り口に立っているのかもしれなかった。それは、徐々に徐々にからだのなかに沁み込んできたとも言える。ここ数年が勝負どころだと思った。

 オフィスでは、心配したほどの落胆の感じは見られなかった。むしろ厄介な仕事が減った安堵感のほうが大きかったようだ。何よりも、岡田がみんなの前で、さりげなくこう言ってくれたのがありがたかった。

 「所長。これしきのことでへこたれませんよ。ウチの看板は、所長以下の結束力です。これを活かして、来年からまたわれわれ固有の仕事に邁進しましょう」

 タフなやつだ。いい部下を持ったことの仕合せを感じた。